呪いで美少女になった少年兵、剣一本で戦場を駆ける   作:ハネケン

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1-1 黒い指輪

 

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 巨木が絡み合う森は、闇の重力に押しつぶされそうだった。風は死に絶え、月さえも雲の裏側で息を潜めている。

 その漆黒の静寂を、不自然な赤が汚していた。

 

 森に抱かれた村が、紅蓮の劫火に食い荒らされている。

 家々はあえなく骨組みを露わにし、路上には果実が地面に叩きつけられたかのように、村人たちが無残に転がっていた。

 

 村の境界、森がわずかに口を開けた場所に二人の少年が立っている。

 一人は黒髪に真紅の瞳を宿した、十歳にも満たない幼子。ただ悲痛な眼差しで地獄を見つめている。

 もう一人は十歳を少し超えた茶髪の少年。凪いだ海のような静かな瞳で、この惨状を冷徹に見据えていた。

 

 茶髪の少年が、黒髪の少年の細い手を掴む。村の外へ促すように力を込めるが、黒髪の少年は石像のように動かない。真紅の瞳が、切なく濡れて光った。

 

 茶髪の少年が、静かに口を開く。

 

「……行こう」

 

黒髪の少年が、ゆっくりと相棒を見上げる。

 

「どこに……行くの?」

 

 不安に震える声。茶髪の少年は、仮面のように表情を崩さず答える。

 

「ここじゃない、どこかへ」

「……でも、ここはオレの……オレたちの村なんだよ」

「クロ。もう、ここには何もない」

 

 突き放すような言葉の裏で、少年の喉がわずかに引きつった。

 

「何も残ってないんだ。……だから、行くぞ」

 

 抗うこともできず、黒髪の少年は引きずられるように足を動かした。

 遠ざかる背中越しに、最後にもう一度だけ振り返る。

 少年の真紅の瞳には燃える村の姿が映っていた。

 

 

 ネシス歴1020年。

 真昼の太陽が街を容赦なく照りつけ、教会の鐘がゴーン、ゴーンと鈍い音を空に放つ。

 

 グラウド帝国中部、街フルスロック。

 灰色の石造りの建物が肩を寄せ合うように立ち並び、石畳の路地には遊び回る子供や陽だまりを求める老人の姿があった。馬車がゆっくりと車輪を軋ませて通り過ぎれば、群れをなす小魚のように人々は左右へ道を譲る。

 

 この街の商店街は、色とりどりの布で鮮やかに彩られていた。

 肉屋、パン屋、仕立屋――ひしめき合う店々の中でも、一際目を引く果物屋がある。色鮮やかな布で飾られた店頭には、パレットをひっくり返したかのように、赤、黄、緑、オレンジ……と瑞々しい果実が宝石のごとく並んでいた。

 その店先で、一人の少女が客と対峙している。

十五、六歳ほどだろうか。銀色の髪を揺らし、パッチリとした瞳に温かな光を宿した少女――ソラだ。

 

「よう、ソラちゃん、久しぶりだな」

 

 声をかけてきたのは、顎髭を豊かに蓄えた中年の男、ウェルターだった。

 

「あっ! ウェルターさん、お久しぶりです! ずっとお会いしてませんでしたけど、元気でしたか?」

 

 ソラがぱあっと花が咲くように微笑む。その笑顔に釣られ、ウェルターも上機嫌に目を細めた。

 

「はっはっはっ、見ての通りさ。あんたの顔を見れば、この年でも若返るってものよ」

 

 ウェルターは愉悦に浸りながら、棚に並ぶ果実を品定めする。そして、ふと空を見上げて穏やかに言った。

 

「しかし、平和だねぇ」

 

 その言葉に、ソラの表情からわずかに陽だまりが消えた。

 

「……平和だなんて。東の方では、ひどい戦争が続いているって聞きますよ」

 

「まあな。だが、この街だけを見れば平穏そのものだ。まあ、セウスノール軍が戦線を維持できなきゃ、ここもいつ戦火に焼かれるか分からんがね。……あそこには頑張ってもらわねえと。おっ、これをもらおうか」

 

 ウェルターは黄色い果実を指差した。

 

「イエローピーチですね。150バルです」

 

 ソラが手際よく金銭を受け取る。ウェルターは果物を無造作に掴むと、カゴも断って背を向けた。

 

「それじゃあな、ソラちゃん」

 

 街の雑踏に消えていくウェルターの背中を見送り、ソラは小さく溜息を零す。

 

「頑張ってもらうだなんて、戦争を……」

 

 彼女の呟きは、初夏の眩しい日差しの中へと溶け、誰の耳にも届くことなく消えていった。

 

 ソラが戦争の影に思いを馳せていた、その時だった。

 

「――っ!」

 

 店の入り口が乱暴に叩き割られるような衝撃と共に、荒々しい影が店内に雪崩れ込んできた。

 避ける間もなかった。ソラは弾き飛ばされるように床へと転がり落ちる。

 

「いってぇな! おい店員、どこに目をつけてやがる!」

 

 怒号と共に立ちはだかったのは、丸太のような四肢を持つ大男だった。岩石を削り出したかのような荒々しい貌(かお)で、男は威圧するようにソラを見下ろす。

だが、ソラは恐怖を飲み込み、キッと男を睨み返した。

 

「勢いよく飛び込んできたのはあなたでしょう!? 一体、なんのつもりですか!」

 

「あぁん? なんだその口の利き方は!」

 

 店内に怒声が反響し、空気が一気に凍りつく。周囲の客たちが息を呑んで後ずさった。

 そこへ、さらにもう一人の男が足を踏み入れる。髪を鶏冠(とさか)のように逆立てた、痩身の男だ。

 

「へぇ……こいつは驚いた。ずいぶんと強気な女じゃねえか」

 

 仲間らしい男の視線が、ソラの身体を卑猥になぞる。

 

「少し幼いが、悪くない。……噂通りだな」

 

 店内に居合わせた客たちの間を、怯えの波紋が広がる。

 

「おい、あれって……」

「しっ! 関わるな。奴ら、あの悪名高い『ジェスとベルセット』だぞ」

 

 男の客が恐怖に顔を引きつらせ、とさか髪の男の背を指した。そこには、獲物の肉を断つための巨大な剣が突き出されている。

 大男が、獲物を捕らえる猛獣のような手つきで、ソラの細い腕を乱暴に掴み上げた。

 

「俺にぶつかったんだ。相応の詫びを入れてもらわねえとな」

「俺らと……楽しいこと、しようぜ?」

 

「っ……痛い!」

 

 ソラの悲鳴も構わず、男は力任せに彼女を引きずり出す。石畳に爪を立てて抗うソラだが、圧倒的な腕力の差には抗えない。

 

「クソッ、大人しく来い!」

「いやだ! 離して!」

 

 とさか髪の男は、獲物の足掻きを愉しむように薄ら笑いを浮かべる。

 往来の人々が異変に気づいて足を止めるが、誰もがその凶刃を恐れ、目を逸らして通り過ぎる。男たちにとって、市民の恐怖など日常のスパイスに過ぎないのだろう。

 ソラの抵抗が予想外に激しいことに苛立ったのか、大男が牙を剥く。

 

「うぜえんだよ、クソ女が! ただじゃ済まさねえぞ!」

 

 街の喧騒が遠のき、ソラの悲痛な声だけが、夏の青空の下で虚しく響いた。

 

 通行人の輪の外側から、二つの影が割って入る。

 

「――邪魔だ」

 

 吐き捨てるようなその声の主は、十五、六の黒髪の少年だった。真紅の瞳に宿る威圧的な光が、二人のゴロツキを射抜く。

 

「なんだぁ、このガキは!」

 

 大男が怒鳴り返すと、少年は鼻で笑った。

 

「道で突っ立ってんじゃねぇよ。そのくせバカでかい声で騒ぎやがって。邪魔な上にうるせえんだよ」

 

 周囲がざわつく。大男がソラの手を離し、獰猛な笑みを浮かべて黒髪の少年に歩み寄る。その隙を突いてソラが逃げようとしたが、すかさずとさか髪の男に首根っこを掴まれた。

 

「おおっと、どこへ行くんだよ、お嬢ちゃん」

 

 大男は少年の腰に下がる剣に目を留め、下卑た笑いを漏らす。

 

「こいつ、ガキのくせに剣なんか飾りやがって……」

「おい、抜いてきたら代わってやるぞ」

 

 とさか髪の男が言った。

 

「必要ねぇよ。こんなガキ相手に」

 

 黒髪の少年は冷めた目で見返し、挑発をあしらう。

 

「生憎だが、俺は街中で刃物を抜くほどイカれてねぇんでな。お前らと一緒にすんな」

「このガキ……!」

 

 大男の拳が空を切ろうとした、その時。少年の背後にいたもう一人の青年が二人の間に割って入った。十八、九ほどの歳だろうか。切れ長の瞳に理知的な気配を纏わせた、茶髪の青年――ブレッドだ。

 

「すみません。こいつ言葉遣いを知らなくて。ここは一つ、収めて……」

「おい、ブレッド! なんで止めるんだよ」

 

 黒髪の少年と呼ばれた黒髪の少年が苛立ちを露わにする。ブレッドは黒髪の少年の耳元で小さく囁いた。

 

「バカヤロウ、大事な日に変なもめごと起こすなよ、クロ」

 

 大柄の男はその様子をみて、少し考えたあと、二人に背を向けた。

 

「ちっ、今日は忙しいんだ。今回だけは見逃してやる。さっさと消えな」

 

 大男は再びソラの腕を乱暴に掴む。黒髪の少年はソラを一瞥し、忌々しげに声をかけた。

 

「おい、お前。なんでこんな連中に絡まれてる」

「この人たちは街でも有名なゴロツキで……私に言いがかりをつけてきて……」

「はっ! 何言ってんだこの女。突っ立ってたお前が悪いんだろうが。責任を取らせてやる、さっさと歩け!」

 

 大男の怒号に、ソラが反論する。

 

「さっき……最初から、そうするつもりで来たって言ってたじゃない!」

 

 とさか髪の男がヘラヘラと笑う。

 

「さぁて、そんなこと言ったかな? 聞き間違いだろ」

 

 無理やり引きずられるソラを見ながら、ブレッドが独りごちた。

 

「この辺りは解放軍が治めてから治安が良いと聞いていたが……」

「場所なんて関係ねぇよ。どこに行こうが、こういうクソは湧くんだ」

 

 黒髪の少年の容赦ない断言に、大男の顔から笑顔が消え失せた。

 

「なんだと……! テメェ、殺されたいのか!!」

 

 大男はソラを仲間に放り投げると、殺気を纏って黒髪の少年へと肉薄する。

 ブレッドは深く溜息をつき、その背中で小さく肩をすくめた。

 

(やれやれ、こりゃあダメそうだな……)

 

 

 大男が黒髪の少年の目の前まで迫る。山のような巨躯が黒髪の少年の全身を影で塗りつぶした。

 

「よりによって、この俺に軽口を叩いたな。もう後戻りはできねぇぞ、ガキ」

 

 背後でとさか髪の男が下卑た笑いを漏らす。対する黒髪の少年は表情一つ変えず、ただ冷徹な眼差しで男を見据えていた。

 大男が丸太のような腕を大きく振りかぶり、拳を叩きつけようとした――その瞬間。

 

ゴッ!

 

 鈍く重い音が街角に響く。

 次の瞬間、大男の巨体がまるで泥人形のように宙を舞い、石畳に叩きつけられた。

 あまりの光景に、周囲の通行人が息を呑む。

 大男は白目を剥き、仰向けに痙攣して動かない。黒髪の少年の右手には、鞘に収まったままの剣が握られていた。

 

「えっ……お、おい、何しやがった!」

 

 とさか髪の男が呆然と叫ぶ。黒髪の少年は鞘を振るい、平然と言い放った。

 

「見ての通りだ。剣の柄で顎を突いただけだ。……鞘は抜いてないから感謝しろよ」

 

「……ぶっ殺してやるッ!!」

 

 激昂したとさか髪の男が、背中の大剣を怒号と共に引き抜く。

 ブレッドが苦々しく顔を歪めた。

 

「おいおい……街中で抜くなんて、正気かよ」

 

 男が両手で剣を構え、全身全霊の咆哮とともに斬りかかる。だが、黒髪の少年の動きは男の思考を遥かに超越していた。

 

ビュンッ!

 

 目にも止まらぬ速さで鞘が軌道を描き、男の顔面に直撃する。

 鈍い炸裂音とともに男の体は空中で無様に反転し、そのまま頭から路面に叩きつけられた。先ほどと同じ、痙攣する残骸がそこにある。

 

 静寂。

 さっきまで喧騒に包まれていた通りから音が消えた。通行人たちは何が起きたのか理解できず、ただ唖然と目を丸くしている。ソラもまた、口元に手を当てて立ち尽くしていた。

 

「す……すごい……こんな……」

 

 ブレッドが呆れ顔で黒髪の少年の背中に声をかける。

 

「やれやれ。また派手にやったな」

 

 黒髪の少年は肩をすくめ、何事もなかったかのように歩き出した。

 

「さて、行くか」

「あ、あの……! ありがとう!」

 

 ソラの叫びに、黒髪の少年は歩みを止める。

 

「助けたつもりはねぇ。ただ、目障りなゴミを掃き出しただけだ」

「な、何かお礼をさせてください……!」

「いらねぇよ」

 

 素っ気なく背を向ける黒髪の少年に、ソラは縋るように声を上げる。

 

「わ、私はソラ! ソラ・フェアリーフです! ……あなたは、何者ですか!」

 

 黒髪の少年がスッと振り返った。その真紅の瞳が、陽光を受けて妖しく光る。

 

「クロコ。クロコ・ブレイリバーだ」

 

 短く名乗ると、クロコとブレッドは、再び喧騒の街並みの中へと溶け込んでいった。

 

 

 

 商店街の喧騒から離れた一角。そこは、活気を失った屋台街だった。

 昼下がりだというのに、店々は軒並み閉ざされ、まるでゴーストタウンのような静寂が漂っている。

 

 その並びの中に、異様な空気を放つ一軒があった。

 木製の屋台は漆黒に塗りつぶされ、周囲を黒い布が覆っている。さらにその布を縁取るように、トカゲの骨が不気味な笑みを浮かべるかのように並んでいた。悪趣味という言葉では片付けられない、異界の瘴気にも似た違和感がそこに立ち込めている。

 

 その前で、クロコとブレッドは立ち尽くしていた。

 

「……なぜ、俺たちはこんな所にいるんだ」

「それは俺が聞きたいよ! 解放軍の基地へ向かっていたはずだろ!」

「いや、地図通りに行ったら、なぜかここに……ほら」

 

 クロコが突き出した地図を見て、ブレッドは深いため息をついた。

 

「……クロ、それ上下が逆だぞ」

「あっ……ば、馬鹿! 勘違いするなよ、さっきまでこの向きで見てたんだ!」

「それは横向きだ!! ……あぁ、お前がどうしても地図を持つって聞かないから。こうなるなら、俺が持っておくべきだった」

「過ぎたことを言ってもしょうがねぇだろ」

 

 クロコがふてぶてしく言い返し、迷わずその『呪い屋』へ歩み寄る。

 

「おい、待て! なんでよりにもよって、そんな胡散臭い店で聞くんだよ!」

「うるせぇな。道を聞くのに人を選ぶ必要なんてねぇだろ」

 

(やれやれ、このトラブルメーカーは……また厄介事を引き寄せる気か)

 

 ブレッドは肩を落とし、諦めて背を追う。

 

 店番をしていたのは、その不気味な店構えからは想像もつかないほど小ぎれいな女性だった。二十代前半だろうか。蜂蜜色の髪を上品に結い上げ、紫のドレスを纏っている。ただ、その上に羽織ったコウモリの翼を模した黒ローブだけが、彼女がただの商人ではないことを物語っていた。

 

「おい。解放軍の基地へ行きたいんだが、道を教えてくれないか?」

「いいよ。その代わり、店の商品を一つ買ってってね!」

 

 彼女は朗らかに笑った。

 クロコは渋々、店先を覗き込む。並んでいるのは、骨のベルト、何かの燻製らしき尻尾、紫色の煙が渦巻く水晶玉。――どれもこれも、生理的な嫌悪感を催す代物ばかりだ。

 

「お客さん、この街の人じゃないでしょ?」

「ああ、そうだ」

「二人とも剣を持ってるね。もしかして、セウスノール解放軍の人?」

「これから入ろうってところだ。入軍試験を受けに来た」

 

 ブレッドが補足するように割って入る。

 

「へぇ、これから軍人になろうって人なんだ~。私はこの街に商売で来て三日目なんだけどね」

「おい、それより。ここは一体何の店だ?」

 

 クロコが眉をひそめて問い質すと、店員は隠す様子もなく胸を張った。

 

「呪い屋よ!」

「……呪い屋?」

「そう! ここに置いてあるものは全部、人を呪うための道具なの!」

 

 店員の誇らしげな宣言に、クロコは呆れ果てた表情を作る。

 

「呪いなんて、この世に本当にあるわけねぇだろ」

「おいクロ、いよいよ怪しいぞ。やめとけって」

 

 ブレッドが耳元で必死に警告するが、クロコは聞く耳を持たない。

 

「まぁ、なんでもいい。この中で一番安いものをくれ」

 

 クロコは投げやりに手を伸ばす。店員は、ニタリと悪戯っぽく笑みを深めた。

 

「はい、それじゃあこの指輪になりま~す」

「ふーん、この店の商品の中では良い方だな。いくらだ」

「800バルね」

 

 女店員から受け取った黒い指輪は、装飾ひとつない無骨なリングだった。しかし、日の光を反射するその表面は、まるで深淵を凝縮したかのように妖しく、不気味なほど艶やかに光っている。

 

「……こんなものが呪いの道具か」

 

 クロコが指輪を眺め、おもむろに右手の人差し指へ滑らせようとした。

 

「おいクロ、やめろ! そんな怪しいもの……」

「今さら何を怖がる。呪いなんてお伽話だろ?」

 

 制止を振り切り、指輪を根元まで押し込む。

 数秒の沈黙。何事も起きない。クロコは勝ち誇ったように鼻を鳴らした。

 

「な? 言ったろ、呪いなんて存在しな――」

 

 その言葉は、空を切り裂く轟音に消えた。

 指輪から放たれた強烈な閃光が、世界を白く塗りつぶす。クロコは反射的に目を瞑り、耳を塞いだ。

 

 やがて光が収束し、視界が戻る。

 

「……何だったんだ、あの光は」

 

 自分の声を聞いた瞬間、クロコは凍りついた。

 鼓膜を震わせたのは、自身の野太い低音ではなく、鈴を転がすような、あまりに透明で高音の響きだった。

 

「おまえ……クロなのか?」

 

 ブレッドが呆然と呟く。クロコは戸惑いながら己の身体を確かめた。

 指先は細く、皮膚は陶器のように滑らかだ。後ろ髪は肩を越え、何より、胸元に感じる異質な膨らみが、致命的な事実を突きつけていた。

 

「おい、ブレッド。何かおかしい……自分の声が妙に高くて……」

 

 ブレッドは何も答えず、ただクロコを穴が開くほど見つめている。

 彼が急に背が高くなったように見える。いや、違う。視界がいつもより高い位置にある。

 

「クロ……、変なのはお前の耳じゃない。自分の身体をよく確認してみろ」

 

 ブレッドの静かな言葉に、クロコは恐る恐る自らの身体を撫でた。

 

 首元をかすめる長い髪。

 触れるたびに感じる、普段より丸く、柔らかい輪郭。

 小さく細くなった手足。

 そして、ダボダボになった服の下――触れた場所から、心臓が波打つ音が耳元に逆流してくる。

 

 自分を見下ろすブレッドとの身長差。

 すべてが、少年だったはずの自分の日常から剥離していた。

 

「ブレッド……」

 

 助けを求めるように発したその声は、自分のものではないほど高く、頭の中で反響して消えた。

 

「いま……俺、どんな姿をしてるんだ……?」

「それは……」

 

 ブレッドが言葉を濁し、視線を彷徨わせた、その時だった。

 

「はいっ!」

 

 明るい声と共に、店員が黒い装飾の施された丸鏡を突き出す。

 鏡の中に映り込んでいたのは、見知らぬ誰かではない。肩まで伸びた艶やかな黒髪と、鋭い眼光を宿した一人の少女だった。見覚えのある真紅の瞳だけが、かろうじて彼女が「クロコ」であることを主張している。

 

 クロコが一歩退けば、鏡の中の少女もまた一歩退く。

 現実という氷の床が足元から砕け散っていくような感覚に、クロコの顔面から血の気が引いていく。

 

「な、なんなんだ……これ……」

 

 小さく零した声が、硬質な高音となって鼓膜を震わせる。

 一瞬の静寂の後、青白かったクロコの顔が、沸騰したヤカンのようにみるみる朱色に染まった。

 

「なんなんだよこれは!! こいつが俺で、俺がこいつで……っていうか、この女は誰だッ!!」

 

 少女の唇から放たれた悲鳴に近い怒声が、屋台街にこだまする。

 ブレッドが必死になだめようとするが、クロコはパニックの渦中にあって、焦点の定まらない目で辺りを見回すばかりだ。

 

「呪いに決まってんじゃん」

 

 騒乱を切り裂くような店員の平然とした声。クロコは動きを止め、震える声で問い返す。

 

「おい……この姿、まさか呪いなのか……?」

「そうみたいね。正直どういう呪いかは知らなかったんだけど、まさか女になっちゃうタイプだったとはね。驚きだわ」

 

 店員は、まるで他人の天気を語るかのように軽薄に笑った。

 

「女に……俺が、女……?」

 

 困惑のあまり思考が停止するクロコだったが、我に返ったように人差し指の指輪を強く掴んだ。

 

「こんな指輪、外してやる!」

 

 指輪を根元から引き抜こうと力を込める。しかし、指輪はまるで指そのものと融合したかのように、びくとも動かない。肉に食い込んでいるわけでもないのに、呪いの枷(かせ)は物理的な法則を無視してそこに居座っている。

 

「クソッ! 抜けねぇ! この、このッ!」

 

 クロコは少女の華奢な指を真っ赤に腫らしながら、執拗に指輪を爪で弾き続けた。

 

「うーん、でも意外と似合ってるわよ。声だって、鈴を転がすみたいに澄んでいて綺麗だし」

「言ってる言葉はきれいじゃないけどな」

「異国に行けば、きっとモテモテよ?」

「ブレッド、お前まで何をのん気に相槌打ってやがる! この野郎……!」

 

 クロコの怒声すら、今の体では可憐な抗議のように響く。ブレッドは溜息を一つ吐くと、困惑するクロコを背に、店員へと真摯に向き直った。

 

「この指輪の呪いでクロコは女になった。……ならば、解く術も必ずあるはずだ」

「さあねぇ。少なくとも私には分からないわ」

 

 軽薄な返答に、クロコの瞳から殺気が滲む。ブレッドがじりじりと詰め寄る。

 

「あんた、呪い屋なんだろう? 解けないわけがない」

「いい? 呪いってのは相手を貶める道具であると同時に、交渉の切り札なの。相手を呪い、解除を条件に何かを要求する。だからこそ価値があるのよ」

 

 店員は指先で宝石を弄びながら、冷徹な理屈を並べ立てた。

 

「高価な呪具には必ず解き方がある。でも、この指輪は違うわ。解き方が不明だから、交渉手段としての価値がない。だから安物なの。売り物ですらない在庫処分品よ」

「なるほど……な」

 

 ブレッドが肩を落とす中、クロコは地獄の底から這い出たような冷たい声で呟いた。

 

「……諦めるわけないだろ」

 

 その声の重圧に、店員の表情から余裕が消える。クロコが少女の華奢な歩調で、しかし獲物を狙う獣のような鋭さで一歩、また一歩と距離を詰めた。

 

「俺をこんな目に遭わせて、ただで済むと思ってんのか……?」

 

 異常な殺気に気圧され、店員はあからさまにたじろいだ。

 

「ま、まあ……私は知らないし、自分で探せば? それじゃあね!」

 

 店員が懐から取り出した白球を地面へ叩きつける。パンッ! という破裂音と共に白い煙が爆発し、視界が真っ白に塗りつぶされた。

 煙が晴れたとき、そこには空の屋台の骨組みさえ残っていなかった。

 

「……逃げ慣れてやがる」

「クソッ! ブレッド、今すぐあの女を追いかけるぞ!」

 

 クロコが激昂して叫ぶが、ブレッドは冷めた目で諭す。

 

「追いかけたって無駄だ。解き方を知らないと言っていたんだぞ。それにクロ、そもそも指輪を勝手に嵌めたのはお前自身だろう」

「……ッ!」

 

 返す言葉に詰まり、クロコが悔しげに拳を握る。ブレッドは重い溜息をついた。

 

「……仕方ない。入軍は後回しだ。まずはこの呪いをどうにかしなきゃ」

「何を言ってる。そんなの関係ないだろ」

「関係あるんだよ! この姿のままでどうするつもりだ?」

「ブレッド! 俺たちは何のために故郷を出た! 決心してここまで来たんだぞ、セウスノール解放軍に入隊するためにな!!」

 

 クロコの必死の叫びも、ブレッドにとっては残酷な現実でしかなかった。

 

「分かってる! 俺だって同じだ! だがなクロ、絶望的な事実を言っておくぞ。セウスノール解放軍は……男しか入隊を認めないんだよ!!」

 

 その言葉に、クロコは一瞬の迷いもなく言い放つ。

 

「そんなの関係ねぇ! 俺は男だ! 何を言われようと、俺は解放軍に入る!!」

 

(……えぇぇ……っ!?)

 

 ブレッドはあまりの頑迷さに、血の気が引いていくのを感じるしかなかった。

 

 

 グラウド帝国。かつて栄華を極めたこの国は、今ひどく荒れている。

 

 十二年前、皇帝ブルテンが変節し始めたその日から、帝国の歯車は狂い出した。異常な階級社会、野放しの治安、そして帝国軍という名の猛犬が民を食い荒らす日常。このあまりの惨状を、ある哲学者はこう呼んだ。

 国そのものを胃袋へとかき込んでいく『ダークサークル(暗黒円)』――と。

 

 希望を失った民が各地で産声を上げた反乱の火種は、十年前に一つの烈火となる。

 西部の都市セウスノールで勃発した最大規模の蜂起。当初、帝国軍は「ただの農民の戯れ」と鼻で笑っていた。だが、『ファントム』と名乗る謎の傑物がその散発的な怒りを束ね、組織化したことで運命は覆る。

 『セウスノール解放軍』の誕生だった。

 

 各地の反乱軍を飲み込み、巨大化した解放軍は、世界最強と謳われた帝国軍の喉元に食らいついた。

 国を変えんと足掻く者たちと、国家を死守しようとする帝国。二つの意志が激突し、国は東西に分断された。それから十年、帝国の地には終わりの見えない内乱の雨が降り続いている。

 

 そして今、クロコたちが降り立った街フルスロック。

 この地には解放軍の要衝の一つである『フルスロック基地』が置かれている。

 クロコとブレッドが目指したのは、その閉ざされた扉の向こう側――運命を切り開くための、入軍試験という名の戦場だった。

 

 

 街の景観を圧するように、灰色の巨塊が鎮座していた。幅三百メートルを超える横長の巨大な石造建築。その外壁には、兜(ヘルム)のシルエットが描かれた鮮烈な赤旗が、風を孕んで重々しく揺れている。

 石壁に囲まれた要塞の門前に、二つの影が歩み寄った。

 茶髪の青年ブレッドと、黒髪に真紅の瞳を宿した可憐な少女――クロコである。

 

「……ついに着いたか。だが、でけぇな。あんな化物じみた建物、生まれて初めて見たぞ」

「本当にな。圧倒されるな……」

 

 ブレッドもまた、首が痛くなるほどの高層を見上げ、溜息を漏らす。クロコは要塞を一瞥し、忌々しげに舌打ちをした。

 

「これなら高い所から一目瞭然だったはずだ。わざわざあの呪い屋に道なんか聞く必要はなかったんだよ……!」

「過ぎたことを言っても無駄だ。それより、いいかクロ」

 

 ブレッドが真剣な面持ちで立ちはだかる。

 

「さっきから何度も言ってるだろ。その姿じゃ、兵士にはなれないんだ」

「関係ない! 俺は男だ!」

「世間はどう見たって『美少女』として扱うんだよ!」

「ならどうしろってんだ! ここまで来て諦めろってか!」

「そうじゃない! まずは支援員として入り込み、徐々に実力を見せて――」

「そんなまどろっこしい真似ができるか!」

 

 クロコは鈴を転がすような高音を響かせ、門へと突き進む。ブレッドは深い溜息と共に背を追うしかなかった。

 

(やれやれ、最初からトラブルの臭いしかしねぇ)

 

「おい、そこの二人。止まれ」

 

 門番の兵士二人が、氷の刃を突きつけるような鋭い視線で立ち塞がる。黒い軍服を纏った若者たちは、腰の剣に手をかけ、冷ややかに言い放った。

 

「ここは部外者立ち入り禁止だ」

「部外者じゃねぇ。兵士になるために来たんだよ」

 

 クロコがふてぶてしく言い返すと、門番たちは一瞬キョトンとした後、耐えきれないように吹き出した。

 

「君、何も知らないのか? 悪いことは言わない。女の子は兵士になれないんだよ」

「規則なんだ。諦めて帰りな、お嬢ちゃん」

 

 隣の兵士が肩を震わせて嘲笑う。その蔑むような視線が、クロコのプライドを焼き払う。

 

「……男だと言ってるだろ!!」

「おいクロ、落ち着け!」

 

 ブレッドの制止も虚しく、クロコの怒りは臨界点を突破しかけていた。

 その時、要塞の奥から冷たい空気を引き連れて、一人の男が歩み出てきた。

 

「おい……騒がしいな。一体何事だ?」

 

 軍の敷地内から一人の男が歩いて来た。

 

「あっ、ベイトム隊長!」

 

 門番たちが即座に直立不動の姿勢で敬礼する。

 現れた男は四十歳前後。黄金色の顎髭を蓄え、鷹のように鋭い眼光を宿していた。岩を削り出したかのような強固な肉体は、歴戦の兵士だけが持つ重厚な威厳を放っている。

 

 門番が気まずそうに経緯を説明する。

 

「……いえ、この少女が兵士志願だと言い張りまして。断ったのですが聞く耳を持たず、挙句には怒り出し……」

「違う! 俺が怒ったのは、こいつらが俺を女扱いしたからだ!」

 

 クロコの叫びに、門番たちは呆れ果てた溜息をつく。

 ベイトムは髭をしごきながら、興味深げにクロコを観察した。

 

「ふむ。なるほど。……兵士になるために、女という性すら捨ててきたというわけか」

「いえ、そうではなくて、これは呪いが……」

 

 ブレッドが事情を説明しようとして口を閉ざす。信じてもらえるはずがない、と悟ったからだ。

 ベイトムはクロコに向き直り、諭すような口調で言った。

 

「お嬢さん。志は買おう。だが、戦場は覚悟や剣のたしなみ程度で通用するほど甘くはない。その小さく非力な体では、限界があるのだよ」

「……剣は『たしなみ』程度じゃねぇ」

 

 クロコの瞳に暗い炎が灯る。

 

「限界だと? 少なくとも、見た目だけでしか相手の力量を測れないオッサンよりは、強いつもりだぜ」

 

 その挑発に、門番たちが色めき立つ。

 

「貴様! 隊長に対して無礼だろう!」

 

 だが、ベイトムは怒るどころか、突然腹を抱えて笑い出した。轟くような豪快な笑い声に、周囲の空気が揺れる。

 

「はっはっはっ! いいだろう、面白い!」

 

 ベイトムは笑いを収めると、戦士の眼差しでクロコを射抜いた。

 

「一つ提案だ。今ここで、私と君で勝負をしよう。私に一度でも攻撃をかすらせることができれば、司令官に掛け合い、入軍試験の特例枠を作ってやろう」

 

 彼は不敵な笑みを浮かべ、クロコを試すように言い放つ。

 

「だが、逆に一度も当てることもできず、一方的に叩きのめされたら……その時は素直に諦めて帰ってもらう。どうかな?」

「面白い。その挑戦、受けて立つぜ」

 

「た、隊長! 正気ですか!?」

「構わん。この手の輩は、一度鼻をへし折ってやらねば引き下がらんだろう」

 

 門番がクロコへ鋭い視線を投げつける。

 

「おい、お嬢さん! 今のうちに謝っておけ! この方は三番隊、四千の兵を束ねるベイトム隊長だぞ!」

「四千か。……ブレッド、アークガルドの人口とどっちが多いかな?」

「さあな……」

「おい、きみ……!」

「うるせぇ。倒すだけだ」

 

 クロコは一歩前に踏み出した。ブレッドが顔を曇らせる。

 

「大丈夫か、クロ。今のその体で……」

「問題ねぇよ。この体にもだいぶ馴染んできた」

 

 クロコは肩をブンブンと回してみせる。ブレッドは(街を歩いただけだろ……)と心の中で突っ込んだが、口には出さなかった。

 

「では、訓練用の木剣を――」

「いや、不要だ。俺は鞘に収めたままの剣でいく。……君もそれでいいな?」

 

 ベイトムが挑戦的に笑う。

 

「かまわねぇよ」

「しかし、危険では……」

「案ずるな。私が鞘を落とすことはないし、彼女の攻撃が私に届くことも万に一つもない」

 

 二人は広大な基地の敷地へと足を踏み入れた。

 灰白色の石畳が広がる訓練場。風が止み、張り詰めた殺気が空間を支配する。門番の合図とともに、二人はそれぞれの愛剣を構えた。

 

(……チンピラ共とは次元が違うな。隙がまるで存在しない)

 

 クロコは全身の感覚を研ぎ澄ます。ベイトムの呼吸、筋肉の微かな弛緩、重心の位置――すべてを読み取る。

 

「互いに、準備はいいか」

 

 門番が手を天に突き上げる。

 

「始めッ!!」

 

 初動はベイトムだった。中年とは到底思えぬ爆発的な脚力で、クロコとの間合いをゼロにまで詰める。

 

「はあっ!!」

 

 唸りを上げて振り下ろされた強烈な斬撃。

 だが、その軌道をクロコは見切っていた。

 

ビュンッ!!

 

 轟音。

 ベイトムの斬撃が空を切り、代わりにクロコの拳が閃光のようにベイトムの顔面へ突き刺さる。

 ベイトムの巨体が独楽(こま)のように反転し、石畳を削りながら無様に吹き飛んだ。

 

「ベイトム隊長ォッ!!」

 

 兵士たちが駆け寄るが、隊長は白目を剥き、地面の上でピクピクと痙攣して動かない。ブレッドは溜息をつき、乾いた視線を送った。

 

(はい、ご愁傷様)

 

 対照的に、クロコは悠然と立っていた。

 

「ダメだな。この体じゃ、いまいち感覚が鈍い」

 

 クロコは自身の肩に剣を担ぎ、少女の姿で不敵に笑みを浮かべた。

 

「だが、これで何の問題もねぇな。次は誰だ?」

 

 

 

 

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