呪いで美少女になった少年兵、剣一本で戦場を駆ける 作:ハネケン
赤き岩壁に挟まれた回廊。その巨獣の背部で、フロウは死闘の渦中にいた。
全身を縛る包帯は痛々しい真紅に染まり、肺を焦がすような荒い息が咽頭を突く。それでも少年は誇りを支えに小剣を振るう。
ヒュヒュヒュヒュンッ!
疾風怒濤の連撃が剣兵の一人を捕らえ、重い轟音と共に地面へと叩き伏せた。
(これで何人だ……七人目。まだ来るのか……っ!)
七、八人の剣兵が、獲物を囲む狼の群れのようにジリジリと間合いを詰めてくる。
突如、三人の敵が同時に牙を剥いた。
「くっ……!」
交差する無数の閃光。
ヒュンヒュンヒュンヒュンッ!
紙一重で躱し続けるフロウの足元が、失血と疲労でわずかに揺らいだ瞬間だった。
ヒュンッ!
冷酷な刃が、もう片方の脇腹を抉り取る。
「ぐっ……!」
噴き出す鮮血に視界が赤く染まるが、フロウは崩れかける肉体を意志の力でねじ伏せた。標的を一人に定め、魂のすべてを乗せた絶叫とともに踏み込む。
「うわあーっ!!」
ヒュンッ!
乾いた肉の断ち音が響き、剣兵の一人が崩れ落ちる。残された敵は恐怖に駆られて距離を取った。
両脇腹からとめどなく血を流し、荒い息を吐き出しながらも、フロウは地に膝をつかなかった。その青き瞳の光は、暗闇を穿つ星のように冴え渡っている。
「まだだ……! まだ何も確かめちゃいない。あの『真実』に辿り着くまでは、僕は、こんな所で死ぬわけにはいかないんだ!!」
「オレは……こんな所で、くたばるわけにはいかない」
暗い木床のシミと化した血の海の中で、クロコが突然呟いた。
その異変に、ファウンドの眉がわずかに動く。
「なんだと……?」
泥に這いつくばっていたはずのクロコが、ゆっくりと顔を上げた。
先ほどまで虚空をさまよっていた真紅の瞳に、激怒と生命の炎が狂おしく燃え盛っている。
「約束したんだよ……! 必ず生きて帰るって、あいつと約束したんだ! 命懸けでオレをここまで通してくれたやつがいるんだよ! オレの帰りを待ってるやつらがいるんだよ! ……オレが死んだら、本気で“悲しんでくれる”って言ってくれたやつがいるんだよッ!!」
痙攣する四肢に呪縛の如き執念を叩き込み、クロコはガクガクと震える体を強引に引き起こした。
老練の獅子は、その底知れぬ執念を静かに見据える。
「無駄だ。もう君に勝機はない」
「うるせぇよ……! 確かに体はボロボロだ。でも、だからなんだよ。それが、ここで立ち止まる理由になるのかよッ!」
血まみれの少女が、死神の鎌の如き大剣を再び構えて見せる。
その姿に、ファウンドの仮面のような厳格な顔が初めて険しく歪んだ。
(信じ難い精神力だ……。これほどの深傷、並みの兵士ならば意識を失っていてもおかしくはない。それを、ただ『誰かのため』という意志の糸だけで縫い止めているというのか……!)
「いいだろう……ならば私も、老いた全身全霊をもってその執念を断つ!」
ファウンドの気配が変わった。侮蔑は消え失せ、真の猛獣としての殺気が空間を支配する。軍刀が重く、しかし淀みなく構えられた。
対するクロコもまた、血まみれの牙を剥き出しにして重心を落とす。
死線の淵で、二つの魂が再び激突の時を迎えた。
クロコは乱れる息をゆっくりと鎮める。失血で白濁しかける視界の奥で、冷徹に頭脳だけを研ぎ澄ませた。
(全身全霊の力を振り絞れるのは――きっと、どんなに多くてもあと一回)
肺に満ちた空気を限界まで圧縮し、そして吐き出す。
(考えるんだ。この老いた化け物を討ち取るための『勝負手』を……!)
再び真紅の瞳をぎらつかせ、ファウンドを射抜く。
対するファウンドは、百戦錬磨の牙を剥き出しにしてじりじりと間合いを詰めてきた。殺気の檻がクロコの全身を圧迫する。
(迷うな。恐れるな。――オレは、絶対に生きるんだッ!)
静かに息を吐き切った瞬間、クロコの瞳孔が獣のように鋭く収縮した。
先陣を切ったのはクロコだった。
傷ついた左足の激痛を置き去りにし、死線を縫う疾風と化して跳ぶ。ファウンドがその予測不能な加速にわずかに眉をひそめ、剣先を合わせる。クロコの視線が左へと流れる。ファウンドの身体が反射的に左をガードしたが、それは罠だった。
痙攣する左足から鮮血が噴き飛ぶのと同時に、クロコは右へと身を捻る。ファウンドの熟練の剣閃もまた、その機動を読んで右へと軌道を修正する――その刹那。
クロコの姿が、陽炎の如くファウンドの視界から完全に消失した。
「……ッ!?」
死角から染み出すように、左側へと回り込んだクロコが顕現する。
「ああぁぁぁッ!!」
魂の残光をすべて乗せた渾身の一撃が、ファウンドの首筋へと叩き込まれる。
キィィン……!
重厚な金属音が響き渡り、ファウンドの熟練の技がその一撃を綺麗にいなしていく。
「見事なフェイントだ。その年齢にしてはな」
重心を崩したクロコの身体が、重力に引かれるように前のめりへと傾いでいく。致命的な無防備。勝利を確信したファウンドの剣が、容赦なく少女の命を断つための死閃を描いて弧を描いた。
だが、クロコの双眸に宿る炎は、死の直前でなお激しく燃え盛っていた。
(生きるんだッ――!!)
枯れ果てたはずの足の底から、底知れぬ執念の理力が這い上がる。クロコは倒れ込む勢いを逆手に取り、あろうことかファウンドの懐へ、自ら一歩踏み込んだ。
(さらに前に出ただと……!? だが、もう遅いッ!)
「うああぁぁぁッ!!」
怒号とともに、二つの刃が交差する。
ヒュンッ! ヒュンッ!
張り詰めた空気を紙細工のように切り裂く乾いた風音。
その瞬間、交錯したクロコとファウンドの動きが、糸を切られた人形のようにピタリと停止した。
数秒の、永遠にも似た静寂が空間を支配する。
「ぐぅう……ッ!」
圧倒的な威厳を纏っていた老獅子、ベイズ・ファウンドがガクリと両膝を折った。
その鉄板の如き軍服の脇腹が深く、深く切り裂かれ、紅い血の奔流がとめどなく床を濡らしていく。
「なぜだ……。なぜ、この私が生涯の泥仕合で競り負けた……?」
震える声で問うファウンドに、クロコは血まみれの身体を支えながら、静かに息を吐き捨てた。
「……賭けだったのさ」
床に崩れ落ちた老獅子を見下ろし、クロコは荒い息を整えながら静かに告げた。
「なに……?」
「オレがアンタに受け流された最初の斬撃……。あれは、わざとアンタの技に乗っかるように放ったものだ」
「……ッ!」
「重心を崩して、前に倒れ込むように仕向けた。……知ってるか? 懐に潜り込みさえすれば、体の小さなオレの方が、剣を届かせるまでの初動がわずかに速い。剣速そのものも、な」
「だが――!」と、ファウンドは血を吐くように声を絞り出す。「剣を振り始めるタイミングは、どう見ても私の方が遥かに早かったはずだ!」
「ああ。だからこその……賭けだったのさ」
「ふざけたことを……! これまでも私の間合いでそのような捨て身の策をとった者は何人もいた。だが、私より早く剣を振り抜いた者など、一人としていなかった……!」
「……それでも、先に捉えたのはオレだ。オレには確信があった。アンタの剣閃よりも、オレの刃の方が絶対に速く届くってな」
「なんだと……?」
「オレは、ここでくたばるわけにはいかないんだ。絶対に生き残って、帰るって……自分自身に誓ったんだ。だから」
クロコの言葉に、ファウンドは掠れた笑みをこぼした。
「フッ……そういうことか。瀕死の状態でありながら、私より遅れて剣を振るい、それでもなお、恐怖も迷いも一片とて挟まずに振り抜いた者など……君が初めてだ」
老騎士は溢れ出る血を片手で押さえ、痛みに歪む唇を緩める。
「確かに、あの状態で迷いなく剣を振り抜いた者も、さらに一歩踏みだした者も、これまでに一人もいなかった……。それができたのは君だけだ」
ファウンドは愛刀を床に突き立て、その鋼の杖に重い身体を預けた。
「私の負けだ。……さあ、とどめを刺せ」
死を覚悟した老将が、見上げるような視線を送る。
しかし、クロコは無言のまま、音もなく大剣を鞘へと納めた。
「アンタはもう戦えない。これ以上、無駄に斬る理由なんてない」
そう言い放つと、クロコは血まみれの足を引きずりながら、ファウンドの横を通り過ぎて奥の扉へと歩き出す。
「待て……!」ファウンドの背中から絞り出すような声が飛んだ。「今ここで私を殺さなければ、私は傷が癒え次第、再び君の前に立ち塞がり、その命を奪おうとするかもしれんぞ!」
クロコは足を止めたが、振り返りはしない。ただ、静まり返った回廊にその声を響かせた。
「……それが、アンタをもう一度斬る理由になるのか?」
「……ッ!」
「オレは、ならねぇと思うけどな」
ファウンドは言葉を失い、血に染まった床へと静かに顔を落とした。
「……最後に、君の名を教えてくれないか」
「クロコ・ブレイリバーだ。……オッサン、とっとと逃げな。もうすぐ、この鉄の獣は丸ごと吹き飛ぶからよ」
背後を振り返ることなく、クロコは運命の扉を開け放ち、闇の奥へと消えていく。
広大な大部屋に取り残されたファウンドは、愛刀にもたれ掛かったまま、乾いた笑いとともに小さく息を吐き捨てた。
「……血生臭い戦場で、このような言葉を聞くとはな……」
ファウンドを退けたクロコの眼前に、再び無機質な狭い通路が口を開けていた。
悲鳴を上げる傷だらけの肉体に精神力の鞭を入れ、一歩、また一歩と這うように前へ進む。頭の中で鉛の鐘が「ゴウン、ゴウン」と鈍い重低音を鳴り響かせる中、やがて視界の先に一つの重厚な扉が飛び込んできた。クロコはそれを蹴破るようにして内部へと滑り込む。
踏み込んだそこは、鉄獣の心臓部――巨大な発射室だった。
部屋の中央には、空を抉るかのような禍々しい砲身が鎮座している。複雑怪奇な金属の骨組み、牙を剥く大型の歯車、無数の鎖とレバー。前方には外をうかがうための深い四角い穴が開いていた。
部屋の隅には四人の技術兵が縮こまっていたが、血塗れの修羅と化したクロコの姿を見るや、恐怖に魂を抜かれたように一目散へと逃げ出していく。戦闘員ではない彼らを追う暇などない。クロコは標的を探した。
――あった。
砲身の脇に設置された鋼鉄のボックス。その直下のフロアにもう一つ。
クロコはフラつく足取りで下方のボックスへと近づき、這い上がるようにしてその天板へと飛び乗った。
目の前にある砲弾の直径は、クロコの身の丈を超えている。絶望的なまでの質量を誇る巨獣の牙。
クロコはベルトのポーチから、手のひらサイズの箱型時限爆弾を取り出した。
「起爆から爆発まで……だいたい一分か」
砲弾のすぐ真横に爆弾を置く。その瞬間、引き金を引こうとした指先が大きく痙攣した。手だけではない。失血と疲労で限界を迎えた肉体全体が、ガタガタと音を立てて崩れかけている。
「……クソっ、時間が短すぎるんだよ……!」
悪態をつきながら、クロコは決死の覚悟で起爆栓を引き抜いた。
その頃、グラン・マルキノの外壁。
フロウは血に染まった包帯を纏い、凄まじい気迫で剣を構えていた。全身が無数の切り傷から滲む血に赤く彩られている。
彼の前で牙を研ぐ剣兵たちは、激闘の末にわずか三人まで減っていた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
荒く乱れる呼吸を整えながら、フロウは敵の隙を伺う。生き残った三人の兵士たちは、少年の纏う異様な死闘の気配に気圧され、誰一人として軽率に踏み込んでこない。
その刹那――。
ドゴオオオォォォンッッ!!!
大地そのものが断末魔の叫びを上げ、世界を引き裂くような凄まじい爆音が戦場を揺るがせた。
フロウも、対峙する剣兵たちも、一斉に轟音の震源地へと視線を奪われる。
鉄獣グラン・マルキノの前方から、天空を焦がすほどの巨大な紅蓮の火柱が噴き上がり、もくもくと立ち上る漆黒の黒煙が青空を塗りつぶしていく。
その圧倒的な破壊の光景を見つめ、フロウの唇に勝利の笑みが浮かんだ。
「やったんだね……クロコ君!」
赤き岩壁に挟まれた退避壕。第五防衛ラインから一歩退いた国軍の陣地に、不穏なざわめきが波紋のように広がっていた。
兵士たちが一様に、天を焦がす漆黒の黒煙を見上げて息を呑む。
「なんだ、あれは……」
「方向的に、グラン・マルキノのあたりじゃねぇのか?」
「ってことは、まさか……!」
ざわめきを切り裂くように、スコアが指揮官の元へ歩み寄る。
「状況確認のため、現地へ向かう許可を!」
「だが、次の交戦が……!」
「グラン・マルキノが沈められたなら、これ以上の戦闘に意味はありません!」
「しかしだな……」
スコアが放った絶対零度の眼光に、指揮官の喉がわずかに詰まった。
「……わかった。だが、状況を確認したら即座に戻れ」
「はっ!」
鋭く敬礼を返すと、スコアの姿は陽炎のように掻き消えた。風を置き去りにする神速で、黒煙の渦巻く死地へと馳せていく。
鉄獣グラン・マルキノの前方は、凄まじい爆発によって原形を留めぬほど粉々に砕け散っていた。引き裂かれた胴体のあちこちから黒煙が噴き上げ、脱出に間に合わなかった恐怖に顔を引きつらせた兵士たちが、木窓から次々と泥濘へと飛び降りていく。
だが、その地獄の炉心に自ら留まり続ける男がいた。
崩れかけた機関室の壁。ベイズ・ファウンドは血塗れの身体をもたれかけさせ、静かに座り込んでいた。
「負けたか……完全に、な」
漂う濃密な煙の向こうを、老将は冷徹かつどこか晴れやかな瞳で見据える。
隙間から狂おしく侵入してきた黒煙が、木製の扉を黒く焦がしていく。ファウンドはそれを我がことではないかのように眺め、深く息を吐き出した。
「すまないね、クロコ君……私は、こういう泥にまみれた生き方しか知らんのだよ」
バリバリと音を立てて扉が崩落し、紅蓮の炎が奔流となって部屋を呑み込む。
「最後に、君のような面白い若者に出会えて……悪くなかった」
ファウンドの唇に、穏やかな笑みが浮かんだ。
「自宅で寝かせておいたあの極上のワイン……一口だけでも、味わいたかったものだな」
言葉の終わりに、老騎士の巨躯はすべてを焼き尽くす業火の海へと溶けていった。
轟音の止んだグラン・マルキノの前方。
天を覆う黒煙と、炎の朱に染め上げられた岩肌が、世界を底知れぬ血の色に照らし出していた。
その紅蓮の焦土を、クロコ・ブレイリバーは這うように歩いていた。
「ここは……どこだ、よ……」
うなだれたクロコの足元から、鮮血の軌跡が途切れなく延びる。起爆した爆弾の衝撃から逃れるため、木窓から吹き飛ばされるように飛び降りたものの、蓄積したダメージはすでに限界に近かった。
「グラン・マルキノの前か……そりゃそうだな、ハハ……」
かすむ視界。瞼の裏で世界がぐるぐると狂い回る。全身の神経が千切れ飛び、温かな命の熱が砂に吸われていく。
「くそ、目がかすむ……斬られ過ぎた……」
その時、前方の赤き泥を重く踏みしめる足音が聞こえた。
ゆっくりと、しかし確実に距離が縮まってくる。
「フロウか……? おい、悪い……ちょっと肩を貸してくれ。さすがに、今回はちとヤバい……」
掠れた声で呟きながら、クロコは力なく顔を上げた。
――その瞬間。
もうろうとしていた意識が、雷に打たれたように鮮烈なまでの覚醒を迎える。
早鐘を打つ心臓が、耳元でけたたましく鳴り響いた。
煉獄の炎が輝く。
スコア・フィードウッドが、冷徹な双眸でクロコを見据えて立っていた。
紅い世界の中で、二人は向かい合っていた。