呪いで美少女になった少年兵、剣一本で戦場を駆ける 作:ハネケン
すべては、今から七年前――あの日の悲劇から始まった。
クロコが生まれ育ったのは、グラウド帝国のはずれにある『スロンヴィア』という名の農民村だ。
この帝国には身分制度が存在する。上から順に、王族、貴族、平民、そして最下層に位置する農民。スロンヴィアは、その一番下の階級の者たちが身を寄せ合い、うっそうとした原生林を自分たちの手で切り開いて築き上げた開拓村だった。
外界との交わりはほとんどない。村の人間が外に出るのは、わずかな作物を町へ売りに行くときくらいのものだった。
それが、クロコの故郷――スロンヴィアという閉ざされた世界。
穏やかな風が、二階のベッドで眠る少年の頬を優しく撫でていく。
八歳のクロコは、心地よい眠りのなかにいた。
コツン。
不意に、木枠の窓を小石が叩く音が響く。
コツン。
「……うるさいなぁ」
コツン、コツコツッ!
「うるさいって!」
不機嫌に眉をひそめ、クロコは勢いよく上半身を起こした。荒々しく窓を開け放ち、階下の庭を鋭く睨みつける。
「うるさいぞ、ブレッド! 人がせっかく気持ちよく寝てるのに……!」
窓のすぐ下では、十一歳のブレッドがやれやれと手を振っていた。すぐさま、よく通る威勢のいい声が返ってくる。
「なにがうるさいだ! 『今日こそ朝から森に遊びに行くぞ』って昨日大威張りで約束したの、どこの誰だっけなぁ!」
クロコはわずかに頬を膨らませ、不服そうに唇を尖らせた。
(うっ、めんどくさい奴だな……。まあ、確かにそんなこと言ったような気もするけどさ……)
「ちぇっ、分かったよ、今降りるから!」
吐き捨てるように言うと、クロコは木窓から身を乗り出し、そのまま下の地面へと豪快に飛び降りた。
ズンッ!!
重い着地音が響き、衝撃で足の裏がビリビリとしびれる。
「コラ――っ!!」
怒声が、頭上から降ってきた。
ビクッと肩を跳ねさせ、クロコが恐る恐る振り返る。そこには、白銀の長髪を風になびかせ、真紅の瞳を怒りに燃え上がらせた母親が立っていた。
「窓から飛び降りて外に出るなって、あれほど言ってるでしょ! 危ないでしょ! それに、そこから開けっ放しにすると部屋に虫が入るのっ!」
ガミガミと小言を浴びせられ、クロコは子供っぽく口をへの字に曲げてそっぽを向く。すると、見かねたブレッドがすかさずクロコの前へ躍り出て、母親に向かってひょいと頭を下げた。
「すいません、母さん! こいつの素行不良は俺からもきつく言い聞かせておくんで!」
ケラケラと軽口を叩くブレッドの横顔を、クロコはジト目で睨みつけた。
「おいブレッド! なんだよその『俺からもきつく言っておくんで』って偉そうな態度の態度は! お前だってこないだ同じ手口で窓から飛び降りて母ちゃんに怒られてただろ!」
「うるせー、聞こえなーい! ほら、行くぞクロ!」
悪びれもせず笑うと、ブレッドは庭の柵をひょいと飛び越え、緑の木々が待つ森への小道へと駆け出していった。
「あっ! おい待てよブレッド!」
「あっこら! まだ話の途中……」
怒声を背中で聞き流しながら、クロコは母の言葉を完全に振り切り、ブレッドを追って乾いた土の道へと飛び出した。
道の両脇にはどこまでものどかな草原が広がり、点々と並ぶ素朴な木の家の隙間から、黄金色の畑がのぞいている。どこからともなく、鳥の愛らしい鳴き声が風に乗って響いてくる。
雲一つない青空の下、二人並んで駆けていくと、視界の端を水色の花が一面に咲き誇るスカイパレットの畑が鮮やかに通り過ぎていった。
やがて、牧歌的な風景の中に広大な放牧場が見えてくる。
頑丈な木の囲いの奥では、十頭ほどの食用馬がのんびりと草を食んでいた。マシュマロのようにふっくらと肉がつき、重たそうな巨体を揺らしながらノソノソと歩いている。
次の瞬間、ブレッドがひょいと木の柵に手をかけ、器用に登り始めた。
「あっ、ずるい、先こされた!」
クロコも負けじと柵へと飛びつく。
ブレッドは丸太の上へヒョイと飛び乗ると、両手を翼のように広げてバランスを取り、まるで綱渡りのように軽快に走り出した。クロコもすぐにその後を追い、危うい足場を駆け抜ける。
「あ、危ないよ!」
不意に、真下から声が飛んできた。
「またお母さんに怒られるでしょ、お兄ちゃん!」
ウンザリした顔でクロコが下を覗き込むと、そこにはサラサラとした黒髪を揺らす一人の少女が立っていた。一つ年下の妹、アピスだ。二人の無茶な行動に、アピスはハラハラと落ち着かない様子で裾を掴んでいる。
「うっせーな、なんの用だよ」
「なんの用って……またお兄ちゃんが、なんにも言わずに勝手にどっか行っちゃうから……」
潤んだ瞳で不安そうに見上げてくるアピスを前に、ブレッドが不敵に笑う。
「逃げるぞクロコ!」
「おい、待てよブレッド!」
ブレッドが柵から軽やかに地面へと飛び降り、勢いよく駆け出す。クロコも慌ててそれに続いた。
「待ってよ、お兄ちゃん!」
後ろから響くアピスの必死の叫びを背中に聞きながら、二人は森へと続く道をただひたすらに突っ走った。
どれくらい走っただろうか。ようやく足を緩め、二人は肩で息をしながら歩き出した。
「今日は朝から……ハァ、ハァ、走ってばっかりだな」
「ああ、さすがに……ハァ、疲れたな……」
荒い息を整えながら、ブレッドが後ろを振り返る。
「……どうやら、アピスは完全に振り切ったみたいだな」
「あいつ、おとなしいくせに、おまけに運動神経ゼロのくせに、なんであんなにしつこく俺たちの後をついてくるんだよ」
「で、ついてきた挙句に転んでケガすんだよな」
「そうそう、んですぐ大泣きして、懲りずにまた翌日ついてくるっていう……本当、手がかかるぜ」
「お前も、途中でやけに後ろを気にしたりソワソワしてたクセによ」
「してねーよ、バカ!」
他愛のない軽口を叩き合いながら、二人は森へ向かっていく。
ちょうど民家が密集するエリアに差し掛かったときだった。
路地の中央に、村人たちがごった返している。ざっと見積もって数十人。この静かな開拓村ではありえないほどの異様な人だかりだった。
「おい、見ろよクロ」
「すげぇ、こんなに人が群がってるの、久しぶりに見たぞ」
「なんだなんだ、村の祭りか?」
「いや、この村で事件なんてはじめてじゃねぇのか……?」
好奇心を抑えきれず、二人は人だかりへと近づいていく。どうやら、その中心にある一際大きな木の屋敷の周りで騒ぎが起きているらしかった。
クロコが丸い目をパチパチと瞬かせる。
「あそこ……村長の屋敷だ!」
「よし、面白そうだから突っ込むぞ」
ワクワクと胸を高鳴らせ、二人は野次馬の隙間へと飛び込んだ。
周囲の空気が妙にざわついている。あちこちから聞こえてくるのは、一様に焦燥と怯えを孕んだ声だった。
「村長が、外から流れ着いた負傷者の手当てをしてるって本当かよ?」
「どこから流れ着いたって……どこの兵士だい?」
「それが……どうやら『解放軍』の野郎らしいぞ」
「解放軍!? 正気かよ、国軍に見つかったらどうすんだ……」
不安のざわめきを切り裂くように、クロコとブレッドは群れの隙間を蛇のようにスルスルとすり抜け、村長宅の重厚な扉の前へとたどり着いた。
そこでは、数人の村人代表と、村長が激しく言い争っていた。
「村長、正気なんですか!? なんでよりによって兵士の、それも解放軍の傷を治療なんしてるんです!」
「こんなこと、いつか国軍の耳に入ったら村全体がただじゃ済みませんよ!」
「隣町の親戚から聞いたぞ! 解放軍の息がかかってるってだけで、一家全員が公開処刑されたって話じゃないか!」
「おいおいマジかよ……皇帝の狗どももいよいよ本格的にイカレてやがるな」
「とにかく、こんな危険な真似はいますぐやめてくれ!」
怒号を浴びせられても、村長は岩のような硬い表情を崩さず、押し黙ったまま聞いていた。
整えられた茶髪に、きれいに刈り込まれたあごひげ。村の長としての威厳を纏った男が、やおら重い口を開く。
「――目の前で血を流して倒れている人間を、見捨ろとでも言うのかい」
静かでありながら、水底に響くような力強い声だった。
「助けを求める者に、国軍も解放軍もあるものか。苦しむ人間を救うことに、何の言い訳が必要だというんだ」
村長の揺るぎない正論の前に、さっきまでまくし立てていた村人たちが気圧されたように口をつぐむ。
そのやり取りを冷めた目で眺めながら、クロコはボソッと毒づいた。
「バカだなー、みんな。こんな山奥の閉ざされた村に、国軍の目なんざ届くわけねぇってのにな」
「だよな。そもそもこの村にやってくるよそ者なんて、年に数回の税金の取り立て屋くらいのもんだぜ。それよりさ……」
クロコは隣に立つブレッドの顔を覗き込み、ニヤリと悪戯っぽく笑った。
「ブレッドさ、その『噂の解放軍兵士』ってやつ……ちょっと生で見てみたくねぇか?」
「おいおい、見たいって……お前、まさか……!」
ブレッドの呆れた制止を背中で聞き流し、クロコはさらに一歩、開いたままの扉の奥へと足を踏み入れた。
村長と村人たちが一歩も引かぬ気迫で言い争っている。その緊迫感に呑まれ、大人たちの意識は完全に下へ――つまり足元を這う子供たちに向いていなかった。
今だ。クロコは身を低く沈めると、弾かれたように走り出し、議論に夢中な大人たちの脇を風のようにすり抜けて村長宅の懐へと滑り込んだ。
(よし、完璧に潜入成功だ!)
「おいっ! これ、いくらなんでもやばいだろ……!」
慌てて後を追ってきたブレッドが、冷や汗を流しながら小声で抗議する。
「大丈夫だって。それに、ここまで来たらもう引き返せねぇよ」
ニヤリと悪戯っぽく笑うクロコに、ブレッドはやれやれと深いため息を吐いた。
二人は身をかがめ、廊下の床板を音もなくピョコピョコと進んでいく。
「でもさ、俺たちこういうことに関しては、マジで天賦の才能があるよな」
「間違いない。もしアピスが一緒だったらミッション失敗だったな」
「とにかく、村長の奥さんに見つからないように動くぞ」
「わかってるって。……で、肝心の負傷兵はどこにいるんだ?」
「……やっぱり一番奥の寝室あたりが怪しいな」
「どこだっけ、それ?」
「お前、昔いたずらで侵入して思いっきり暴れ回った部屋だよ」
「あー、あの時か。めっちゃ怒られたな」
「お前のせいでな」
ヒソヒソと軽口を叩き合いながら、二人は階段を駆け上がり、二階の廊下へ。目当ての寝室のドアの前にたどり着くと、クロコはそっと隙間を作り、息を潜めて中を覗き込んだ。
大きな木製ベッドの上。漆黒の軍服を纏った男が、横たわっていた。
「誰だっ!?」
突然の鋭い気配に反応したのか、兵士がガバッと起き上がり、こちらに向かって怒声を放つ。
ビクッと肩を跳ね上げ、クロコとブレッドは反射的にバタンとドアを閉めた。
ドアの向こうで、心臓を早鐘のように鳴らしながら固唾を呑む二人。やがて、ドア越しから探るような呟きが聞こえてきた。
「…………子供、か?」
そして、一呼吸置いてから、再び穏やかな声が響いた。
「もう隠れなくていいよ。……入っておいで」
棘のない、温かい声だった。
クロコとブレッドは顔を見合わせ、恐る恐る再びドアを押し開けて寝室へと足を踏み入れる。
ベッドの上に上半身を起こしていたのは、二十代前半ほどの青年だった。
青年は警戒心を解くように、柔らかく微笑みかける。
「なんだ、どうしたんだ? そんなに物珍しそうな顔をして。俺の顔に何か付いてるか?」
クロコは吸い寄せられるように、そのベッドへと近づいていく。
「お、おい、やめとけって……」
ブレッドが後ろから慌てて服の裾を引くが、クロコは振り返らない。
「そんなに警戒しなくていいさ。大丈夫だ」
青年の言葉に、ブレッドも少しだけ警戒を解き、遅れてクロコの後ろへと歩み寄った。
間近で見ると、青年の体中には痛々しい包帯が無数に巻きつけられていた。クロコは丸い目をパチパチさせながら、その包帯を見つめる。
「……ねえ、体、大丈夫なの?」
「ああ。最初はなかなかに絶望的だったけどな。正直、この村の人たちに見つけてもらって手当てを受けてなきゃ、今頃は野垂れ死んでいただろうさ」
青年は苦笑しながら、窓の外の村長宅の方向へ視線を向けた。
「君たちの村の……森で俺を見つけてくれたブラドさんって人と、それから俺の傷を懸命に縫合してくれた村長さん。あの人たちのおかげで、こうして命を拾ったんだ」
「…………」
「村長さんともさっき少し話したけど……本当に、温かくて強い人だな」
「うん! 村ですごく自慢の村長なんだって、父ちゃんもいつも言ってるもん」
「そうか、誇らしい村長さんだな」
青年は目を細めて笑い、クロコの頭を優しくなでた。
その温もりに、クロコは嬉しそうに笑う。だが、その背後でブレッドだけは、なおも鋭い眼光のまま、じっと青年の様子を探っていた。
「……解放軍のことは、怖いか?」
青年兵士は、ブレッドの真っ直ぐな瞳を見つめながら問いかけた。
「……」
一瞬、ブレッドは息を呑み、視線を落とす。しかしすぐに顔を上げ、怯えのない強い目で言い切った。
「怖くないよ」
ブレッドは一歩前に出て、兵士をまっすぐに見据える。
「父さんが言ってた。解放軍は悪くないって、悪いのはおかしな政治をする国だって、解放軍はそのおかしな国の政治を正そうとしてる。だから悪くないって」
「そうか」
兵士は穏やかな笑みを浮かべた。
「オレだっておじさんのこと、怖いなんてこれっぽっちも思ってないぜ」
クロコも負けじと胸を張る。
「だって、全然悪人に見えないもん。優しそうに見える」
「おじさんって歳じゃないんだけどなぁ……でも、そう言ってくれて嬉しいよ」
青年は照れくさそうに笑った。
「そう言えば……外がやけに騒がしいな」
ふと、兵士が窓の外の気配に気づき、わずかに眉をひそめる。
「あー、うん……みんなが村長の家に押しかけて、『解放軍をかくまうなんて危ない』って大騒ぎしてるんだよ」
クロコが何の気なしにそう告げた瞬間、兵士の顔色がサッと変わる。
「お、おいクロ! そういう不穏な情報は本人に教えちゃダメだろ!」
「…………そっか、それでみんなあんなに怒ってたのか」
兵士が苦笑いを浮かべかけた、まさにその時――。
「コラーッ!! あなたたち、また勝手に入り込んで何をしてるのっ!!」
怒声が、二人の頭上から降ってきた。村長の奥さんの怒りに満ちた顔が、真後ろに迫っている。
「ひっ、しまった……!」
この後、クロコとブレッドは村長の奥さんと、さらに戻ってきた村長本人にこってりと絞られ、二人がかりで説教部屋の住人にさせられたのは言うまでもない。
「あーあ、めちゃくちゃ怒られたなー」
耳を引っ張られながら村長宅を追い出されたクロコは、盛大なため息を吐き出す。
「ま、自業自得だろ。気を取り直して、早く森に遊びに行くぞ!」
気を取り直した二人は、そのまま村を抜け出し、緑深い森へと駆け出した。
うっそうとした木々が天井を作るいつもの遊び場は、変わらない静けさで迎えてくれた。
不規則にうねる巨木の太い根。葉の隙間から幾筋もの黄金の光の矢が降り注ぎ、柔らかい土の匂いを満たした森の空気を優しく照らし出している。足元には短い草がじゅうたんのように敷き詰められ、どこからかフエドリの透き通るような鳴き声がこだましていた。
ブレッドが大きく両手を広げ、緑の天井に向かって叫ぶ。
「よーし、今日は日暮れまでとことん遊び尽くすぞ!!」
「あたりまえだ、負けねぇからな!」
二人は歓声を上げ、木漏れ日のなかへ一気に飛び込んでいった。
森に入ってから、二時間ほどが過ぎた頃だった。
「おいクロ、ちょっとこっちに来てみろよ!」
ひときわ高い大木にスルスルと登っていたブレッドが、上からクロコを呼ぶ声がした。
「なんだよ」
不満げに呟きながら、クロコは先ほど捕まえたばかりの一メートルほどのヘビを片手でブンブンと振り回している。
「いいから来てみろよ」
クロコは仕方なくヘビを草むらに放り投げ、猿のような身のこなしで木をよじ登る。ブレッドが陣取る太い枝の上に立ち、言われた方向を指差された。
木々の隙間から見下ろすと、ちょうど村長宅の玄関先が小さく見えた。
そこに立っていたのは、先ほどまでベッドで寝ていたはずの青年兵士だった。村長としっかりと言葉を交わし、深く頭を下げて礼をしているのが遠目にもわかる。
「あの人……もう出発しちまうんだな」
クロコは目を細め、静かに呟いた。
「ああ……でも、あんなに全身ズタズタの重傷だったんだぜ。もう動いて平気なのかよ……」
ブレッドは遠ざかっていく兵士の背中に、どこか不安げな視線を向けていた。
「……ピンピンしてるから旅立つんだろ。きっと大丈夫さ」
「ん……まあ、そうだけどよ」
やがて、兵士の姿が村の家並みに飲み込まれるように消えていくのを見届けると、二人は木から降り、再び無邪気な遊びへと戻っていったのだった。
その頃、自宅の庭先。
白銀の長髪を風になびかせながら、クロコの母――エルシアは、洗い立てのシーツを静かに畳んでいた。その足元には、ひっそりとアピスが小さな影のように寄り添っている。
「ただいま、エルシア」
不意に、使い慣れた低い声が響いた。エルシアがハッと顔を上げ、アピスも釣られたようにそちらを向く。
「あら、おかえりなさい。あなた……今日はいつもよりだいぶ早いじゃないの」
戻ってきたのは、クロコの父親であるブラドだった。
少し伸びた無精ひげと、黒髪。鋭く尖った目つきをしているが、その奥にある眼差しは家族に向けるとき優しく緩む。
「おかえり、お父さん!」
「ただいま、アピス。いい子にしてたか?」
ブラドはしゃがみ込み、トコトコと駆け寄ってきたアピスの頭を大きな手で優しく撫でる。それから、妻であるエルシアの方へと顔を向けた。
「今日は町で薬草の売れ行きがすこぶる良くてな。仕入れた分が飛ぶように売れて、あっという間に店じまいできたんだ」
「それはよかったわね」
エルシアは花が咲いたような柔らかい笑みをこぼした。
「それよりアピス、どうしたんだ? 兄貴たちと一緒じゃないのか」
「お兄ちゃんたちに……また逃げられちゃった……」
アピスはスカートの裾をぎゅっと握りしめ、あからさまにしゅんと肩を落とした。
「やれやれ……あいつ、また妹をまいて遊びに行ったのか」
ブラドは苦笑しながら呆れたように首を振る。
「でも、私としては少し安心だわ。あの子たちと一緒に行くと、アピスがいつも変な怪我をして帰ってくるからね」
「まったくだな」
ブラドは再びアピスの目線に合わせるようにしゃがみ込み、優しく諭すように言った。
「アピス、あんな危っかしいことばっかりする兄貴たちとは少し離れて、村の女の子たちとおままごとでもして遊んでたらどうだ? そうすれば、その痛そうな擦り傷も作らずにすむぞ」
しかし、アピスは頑なに首を横に振った。
「やだ……お兄ちゃんたちとがいい」
「はは、やれやれ。あいつらも、不器用ながら好かれたもんだな」
「でも、なんとなく分かる気がするわ。あの子、ああ見えて根は優しいところがあるから。口では面倒くさそうにしながらも、いざとなればちゃんとアピスのことを見てるもの……」
「へぇ、あの暴れん坊がな。意外だな」
「そういう子よ、あの子はね」
穏やかな空気が流れる庭先。
だが、その和やかな時間を切り裂くように、聞き慣れない多数の足音が土の道を叩き始めた。
ピクリとブラドの眉が動き、エルシアが警戒するように顔を上げる。
視線の先――村の小路から現れたのは、国軍の象徴である鮮やかな「青」に染まった軍服の群れだった。数十人規模の武装した兵士の隊列が、静かな開拓村の空気を踏みにじるように進んでくる。
その集団の先頭に立つ一人の男が、ブラドたちの前でピタリと足を止めた。
「おや、失礼。少し尋ねたいことがあるのですが……」
男の年齢は三十代前半ほど。整えられた灰色の髪に、冷ややかな灰色の瞳。頬はこけているが、その口元には作り物のペルソナのように、愛想の良い笑みが貼り付いていた。
「……なんだ?」
ブラドは妻と娘を背後に庇うように一歩前に出た。その目は、獲物を品定めする獣のように鋭く冷たい。
灰色髪の軍人は、敵意を向けられてもなお、作り物の笑みを崩さない。
「ご家族でお邪魔して申し訳ない。……この村の『村長宅』はどこでしょうか? 少々、村長殿にお耳に入れたい用件がありましてね」
ブラドは短く息を吐くと、あごで無愛想に道を示した。
「……ここをまっすぐ行って、放牧場の角を右だ。この村で一番でかい屋敷だから、見落としようがねぇよ」
「ご親切にどうも」
男は薄気味悪い笑みを浮かべたままで一礼すると、背後に控える数十人の兵士を引き連れ、ブラドが指し示した村長宅への道をずかずかと歩き出していった。
軍の足音が遠ざかるのを見送り、エルシアは不安を滲ませた顔で夫を見上げた。
「いったい何なの、あの人たちは……」
「おそらく、逃げている解放軍兵を追ってきたんだろうさ。行きに村長宅に怪我をした解放軍兵が運び込まれるのを見た」
「えっ……!? じゃあ、村長さんが危ないんじゃ……」
「心配いらんさ。帰りに村長とも顔を合わせたが、すでにその兵士は村を出たらしい」
「そ、そう……ならいいけれど……」
夫の落ち着いた言葉に安堵しつつも、エルシアの衣の裾を、アピスが小動物のようにガシッと力強く掴んで離さない。
「もう、いったいどうしたのアピス、そんなに引っ張ったら服が伸びちゃうでしょ」
母親が屈み込んで優しく声をかけると、アピスは青ざめた小さな顔をブンブンと横に振った。
「こわい……」
「え?」
「さっきの……あの灰色のおじさん、すごく、こわかった……」
アピスの幼い身体は、恐怖に満ちた予感からか、小刻みに震えていた。
一方その頃。
開拓村の牧歌的な土の道を、国軍の小隊が冷徹な足並みで進んでいた。
先頭を歩くあの灰色髪の軍人は、不快なものでも嗅ぎ取るように、しきりにその鋭い鼻先をヒクヒクと動かしている。
やがて、ねっとりと湿った笑みを浮かべ、独りごとのように低く呟いた。
「――臭う。ひどく鼻をつく臭いがしますね」
軍人は足元を踏みしめる泥を見下ろし、狂気を孕んだ灰色の瞳を細めた。
「この愚劣な村は……私の最も嫌う、家畜と泥土の悪臭で満ちている。……まったく、私の大嫌いな『野蛮』の匂いだ」