呪いで美少女になった少年兵、剣一本で戦場を駆ける 作:ハネケン
村長の屋敷を、数十人の国軍兵が蟻の群れのように取り囲んでいた。
その包囲網の中央で、灰色髪の軍人は作り物の笑顔を貼り付けたまま、堂々と立つ村長を見据える。
「いやなに、一つだけお聞きしたいことがありましてね」
「……なんだね、用件があるなら手短に頼む」
村長は威厳を保ちながらも、吐き捨てるように無愛想に言い放った。
軍人は嫌味なほど柔らかな笑みを崩さない。
「先日、この北方に位置するクロウジア谷で解放軍との大規模な戦闘がありましてね。無論、我々の勝利に終わったわけですが……その際、敗走した残党どもが散り散りに逃げ延びた。我々は、その逃げ水を一匹残らず刈り取っているのですよ」
「敗走して戦力を失った兵士など、放っておいても森の飢え死にが落ちでしょうに。わざわざ山奥のこんな片田舎まで狩りに来るほどの意味があるのかね」
「反乱分子というものは、根こそぎ腐海に沈めなければ芽吹く。それに、組織の首謀者たる幹部クラスの虫けらも何匹か混ざっていましてね」
軍人は目を細め、ねっとりと村長の顔を舐め回す。
「――それで、ここに流れ着いた兵士はいませんでしたか?」
「さぁ、知りませんな。こんな密林の孤島のような村に、そんな不穏な連中が入り込んでいれば、とっくに村中の噂になっているはずだがね」
村長は微動だにせず、落ち着き払った声で否定した。だが、軍人の笑みは消えない。
「では、近隣の町や街道で、不審者を見かけたという話も……?」
「ないね。そもそもこの村は、四方を凶暴な大熊や群れ狼の巣食う原生林に阻まれている。外との往来なんて年に数回あるかないかだ。まともに歩いて逃げ込んだところで、途中で獣の餌食になったのがオチだろうさ」
「そうですか……我々もこの村に至るまで、泥まみれになりながら実に長い道のりを歩んできたものでねぇ」
軍人は心底残念そうに、大げさに首を振ってみせる。
「そうか、ご苦労なことだな。用がないならさっさと引き取ってもらおうか。これだけの軍隊に押し入られては、私の妻も恐怖で気が気でない」
「……おや?」
ぴくりと、軍人の鼻が痙攣したように動いた。
「におう。……においますねぇ」
「……は?」
軍人は陶酔した変質者のような笑みを浮かべ、ねっとりと言い放つ。
「この空気は……『血』の匂いだ」
その一言に、村長の瞳の奥でわずかに息が詰まった。
次の瞬間。
軍人が冷酷に手を振り下ろすと、屈強な兵士たちが数人がかりで村長を取り押さえた。
「なっ、貴様ら……!」
居間にいた村長の妻が悲鳴を上げ、青ざめた顔でその光景に立ちすくむ。村長は兵士に背中をねじり上げられ、半ば強引に灰色髪の男の目の前へと突き出された。
「さて、村長殿」
軍人は冷徹な蛇のような瞳で、捕らえた獲物を見下ろす。その仮面の裏で、村長の眉間に初めて微かな焦りの色が走った。
「これは……一体、何ですか?」
男の掲げた手には、大量の使い古された包帯の山があった。布地の一面には、黒くドス黒く変色した血痕がベッタリとこびりついている。
「ご丁寧に、随分と大量の包帯を消費されたようじゃありませんか」
軍人は薄気味悪く微笑みながら、村長の顔を覗き込む。
「……何か、我が家のゴミの出し方にでも問題があったかね?」
村長はなおも血相を変えず、冷徹に言い返す。だが、軍人は答えず、その血塗られた包帯の束を自らの鼻先へとこれでもかと近づけた。
「あぁ……素晴らしい。むせ返るような、強い、強い血の匂いだ。……おや?」
男の鼻がひくつき、その口元が歪な三日月型に裂けた。
「それだけじゃない。この古い血のなかに……隠しきれない別の異物が混ざっている」
軍人の瞳に、狂気が爛々と輝く。
「――火薬の匂いだ。それも、我が国ではお目にかかれない、解放軍特製のね」
鼻を突く爆薬の残臭に陶酔したあと、軍人はふっと冷徹に目を伏せた。
「――処分しなさい」
背を向け、悠然と部屋を出ようとする灰色髪の男の背中に向けて、部下が冷酷な確認を飛ばす。
「ついでに、あの女もですか?」
「当然です。同罪ですよ」
「なっ、貴様ら……!」
狂気の指令に血相を変え、村長が猛然と飛びかかろうとする。しかし、屈強な兵士のブーツがその背中を容赦なく床へと踏みつけ、冷たい鉄の剣がゆっくりと鞘から引き抜かれた。
「いやああああっ!」
妻の断末魔が静まり返った居間にこだました直後、乾いた空気のなかへ、生々しい鮮血が二つ、赤い弧を描いて飛び散った。
血塗られた屋敷から、灰色髪の男が悠然と姿を現す。それに続くように、返り血を浴びた兵士たちも外へと引き上げてきた。
「やれやれ……。こうのろのろとしていては、あそこの傷病兵も、とっくに安全な奥地へと逃げ失せた後でしょうね」
灰色髪の男は肩をすくめ、小さく息を吐いた。
「レイズボーン中佐、これ以上追撃しても手分けする範囲が広すぎます。我々の部隊だけで捜索を続けるのは……」
お付きの小太りな副官が、あごの長いひげを揺らしながら恐る恐る進言する。
「何を言っているのですか」
レイズボーンは一瞬にして笑みを消し、氷のように冷徹な瞳を副官に向けた。
「――この村の住人は、全員処刑します」
その言葉に、その場にいた兵士たちの血の気が一斉に引いた。
「なっ……!?」
「彼らは反乱分子をかくまい、我が国軍への報告を怠り、組織的に隠蔽を図った。立派な『反逆の共犯者』です。法に照らせば、全住民の抹殺など温情すぎるくらいですよ」
「し、しかし中佐! 隠匿の首謀者はあくまで村長一人で……!」
「おや、忘れましたか? 先ほど村長自身がこう言っていましたよ。『こんな小さな村で、そんなことがあればすぐに村中の耳に入る』とね。つまり、ここに住む愚民どもは全員がその事実を知りながら、組織を裏切り、悪党を野放しにしていた。……違いますか?」
「で、ですが、村の子供や女たちまで……!」
副官が必死に異を唱えようとした、その刹那――。
視界の端で銀色の閃光が狂ったように走った。
突如、小太りな副官の胴体がごとりと大きくずれて裂け、どす黒い鮮血の噴水が青空へと吹き上がる。
「私はね、物分かりの悪い人間が一番嫌いなんですよ」
足元へと崩れ落ち、ただの肉塊と化した副官を見下ろしながら、レイズボーンの手にはいつの間にか血に濡れた剣が握られていた。
あまりの瞬きほどの出来事に、周囲の兵士たちは呼吸すら忘れ、ただその異様な光景に凍りつく。
「あなたたちも……まさか、私の言葉に異議でも?」
ゆっくりと振り返ったレイズボーンの眼は、底なし沼のように黒く、冷たく濁っていた。
その殺気に呑まれ、兵士たちは反射的に背筋をあわ立たせる。
「ぐっ……はっ!」
「さっさと動きなさい。私は、仕事が遅い下種も大嫌いなんですよ」
「はっ、はっ……!」
恐怖に震え上がった兵士たちは一斉に敬礼を上げ、腰の銃と剣を乱暴に引き抜いた。
「よろしい。……殺すときは徹底的にやりなさい。男も女も、例外なくね。あぁ、そうだ……。逃げ遅れた子供のひとリたりとも見逃してはなりませんよ。親を失って一人だけ取り残されるなんて、あまりに不憫ですからね」
青空の下、悪意に満ちたレイズボーンの笑い声だけが、静まり返った開拓村にいつまでも冷たく響き渡っていた。
「クロ、そろそろ帰ろうぜ。さすがにもう夕方だぞ」
深い森の天井から降り注ぐ光の矢は細くなり、足元からじっとりと這い寄るような夕闇が辺りを包み始めていた。
「ええっ、もう終わり!? 」
ブレッドと木の枝を模した即席の剣でチャンバラごっこに興じていたクロコは、盛大に不満の声を張り上げる。
「ええ、じゃねぇよ。もう遊び呆けてる場合じゃねぇって。これ以上遅くなったら、またお前の母ちゃんに鬼の形相で絞め殺されるぞ」
「うっ……それだけは勘弁だな……」
ブレッドの現実的な忠告に、クロコは名残惜しそうに枝を放り投げ、ぶーぶーと文句を言いながらも引き返し始めた。
だが、歩けども歩けども、周囲の景色が妙に暗い。鬱蒼とした木々の影が異様に濃く、二人はいつの間にか遊びの熱中あまり、森の奥深くへと迷い込んでしまっていたらしい。
やがて、木立の隙間から、見慣れたはずの村の方角が奇妙に朱く染まっているのが見えた。
「……なんだあれ? 夕日にしちゃ、赤すぎないか」
クロコが首をかしげると、ブレッドも不安そうに眉をひそめる。
嫌な予感に背筋を冷たいものが走り、二人は自然と足を速め、小走りで村の出口へと飛び出した。
視界が開けた瞬間、そこに広がっていたのは、言葉を失うほどの悪夢だった。
――家々が狂ったような業火に包まれ、黒煙の竜巻が天を突いている。
パニックに陥った食用馬たちが、甲高い嘶きを上げながら炎の中で跳ね狂っていた。そして何より、土のあちこちに転がる数え切れないほどの「人間」の影。
その体からは、あたたかな生命の証であるはずの鮮血が、黒々とした水たまりのように溢れ返っていた。
ドクリ、と。クロコの心臓が、冷たい氷の塊にでもなったかのように急激に凍りついた。
「お、おいクロ……なんだよ、これ……」
隣でブレッドの顔面が青ざめ、ガタガタと震えている。
だが、クロコはその声を聞くこともできず、ただ見開いた瞳のまま、自分の家へと向かって本能のままに駆け出した。
「お、おいクロッ、待てって!」
背後でブレッドの必死の呼び声が掠れていく。しかし、走るクロコの耳にはもう何の音も届かない。
通り過ぎる家々はすべて容赦なく焼き尽くされ、足元に転がる無数の死骸のなかには、見知った村人たちの顔がいくつも混じっているのが視界の端をかすめた。――まさか。そんなはずはない。ただの人違いだ。クロコは乾いた喉の奥で必死にそれを否定し続け、狂ったように足を動かした。
たどり着いた我が家もまた、無残に炎を上げて崩れかけていた。
だが、クロコは躊躇なく燃え盛る玄関へと飛び込んだ。
「母さん! 父さん! アピ……!」
飛び込んだ居間の光景に、クロコの足が文字通り地面に釘付けになった。
――父が、倒れている。
――母が、倒れている。
――アピスが、倒れている。
みんな、動かない。そして、信じられないほどの量の血が、床板の隙間を赤く染め上げながら流れ出している。
おかしい。あんなにたくさんの血が流れていたら、人間なんて生きていられるはずがない。なあ、嘘だろ? 起きてよ、母さん。アピス、なんでそんなところで寝てんだよ――。
その瞬間。
視界のすべてが、プツリと漆黒の闇に塗り潰された。
誰かの手が、後ろから乱暴にクロコの目を覆い隠す。
「……見るな」
震える、しかし必死に絞り出したようなブレッドの声がした。
ブレッドは目隠しをしたままクロコの細い腕を強引に引きずり、崩れかける家の中から外へと引っ張り出す。そして、まるで暴れる小動物を抑え込むように、冷えきった手でクロコの手首を握りしめたまま、村の泥道を駆け抜けた。
「とにかく……今は隠れるぞ!」
絞り出すようなブレッドの囁きに、クロコは虚ろに問い返す。
「隠れるって……誰から……?」
「……国軍の兵士からだ。まだ、村のそこら中にいやがる」
「国軍の……? じゃあ、ブレッドのうちは……っ」
「もう、見てきた……」
それきり、ブレッドは固く口を閉ざし、何を訊ねても二度と返事をしなかった。
ブレッドに引きずられるまま、二人は再び緑の深い森へと逃げ込み、巨大なシダと背の高い草原が作り出す濃い緑の迷宮へと身を潜めた。
ふたりとも一言も発せず、ただ荒い息をひそめる。
クロコの脳内は、完全に白濁し、思考が焼き切れていた。
さっき自宅で見た地獄絵図の意味も、なぜ今こんな薄暗い草むらに隠れているのかも、ブレッドが急に壊れたように黙り込んでしまった理由も――何もかもが理解の範疇を超え、霧の向こうへ消え去っていた。
ただ、異様なまでに静まり返った森のなかに、自分の心臓の音だけがうるさいほど鼓膜を叩きつけていた。
――人間の心臓って、こんなにも巨大なハンマーのように、耳のすぐ隣でうるさく鳴り響くものだったっけ。
その不気味な破裂音が、世界の終わりを告げる鐘のように、いつまでもクロコの頭蓋骨を殴り続けていた。
炎上する故郷を見下ろす村の出口。
その境界線に、レイズボーンと血塗られた数十人の兵士たちが陣取っていた。
レイズボーンは、夜空を焦がす赫々たる業火の光をその網膜に焼き付けながら、陶酔しきった獣のように卑しく鼻をひくつかせる。
「あぁ……素晴らしい。美しい匂いだ……。私の最も愛する、炎と生暖かい血の混ざり合う芳香。これこそが戦争の匂いだ。フフフ……ハハハッ、心地いい。あまりに心地いい……まさに、魂が震える『快感』だ……」
歪んだ歓喜に染まったその顔は、もはや人間のそれではなく、血肉を漁る魔物の仮面そのものだった。
深い草むらに身を潜めてから、どれだけの時間が経っただろうか。
周囲の闇は完全に深まり、夜のとばりが世界を覆い尽くしていた。
狂乱の宴が過ぎ去り、狂い狂った炎も勢いを失い、ただくすぶる黒煙の隙間から、もう国軍兵士たちの姿が消え去ったのを確認した二人は、ようやく這うようにして草原から身体を滑り出させた。
見渡す限りの絶望の丘を登り、変わり果てた村の全貌を目の当たりにする。
ブレッドに手を引かれ、歩みを強制される道すがら、クロコの瞳には見たくもない現実が無慈悲に飛び込んできた。
――黒焦げになり骨組みだけを晒した家々。
――冷たい泥の上で、二度と動かない無数の村人たちの亡骸。
その惨劇の泥道を踏みしめながら、二人はついに村の出口へとたどり着いた。
ふと、クロコがその場に踏みとどまり、ブレッドに引かれる腕をぴたりと止めた。
「……」
ブレッドは静かな、しかしすべてを諦観したような瞳で、振り返りもしないまま呟く。
「……行こう」
「どこに……行くの?」
「ここじゃない、どこかへ……」
「……でも、ここはオレの……オレたちの村なんだよ」
「クロ。もう、ここには何もない」
ブレッドの声が、わずかに震えた。
「何も残ってないんだ。……だから、行くぞ」
絞り出すような友の言葉に、クロコはそれ以上言葉を紡げなかった。
ただ、再び動かした足のまま、一度だけ――たった一度だけ、振り返って村の残骸を見つめた。
クロコの深紅の瞳のなかに、燃え盛る故郷の赤い炎と、世界が終わる日のような虚無の闇が深く焼き付いていた。
その日、二人は少年時代のすべてを置き去りにして、生まれ育った村を去った。
あてのない逃避行の夜。
冷たい闇に包まれた街道を、二人は一言も交わさずにただひたすら歩いた。途中で足の裏がどれほど痛もうと、靴底が擦り切れようと、空腹で胃の腑が引き裂かれそうになろうと、立ち止まることを忘れたように歩き続けた。
隣町の灯りが闇の向こうに見えるまで、ただ、歩き続けた。
やがて、子供ふたりだけの過酷なサバイバルが始まった。
崩壊した国家の隅っこで、身寄りも頼る者もない少年が生き延びる道はイバラしかなかった。
ゴミ捨て場から腐りかけた残飯を漁り、泥だらけの雨水をすくい、ときには飢えのあまり市場の露店からわずかな食糧を盗み出しては、警察の目を盗んで逃げ回る。そうして、泥水をすするような日々を繋ぎながら、ふたりは何とかその日暮らしの命脈を保ち続けた。
そうして行き着いたのが、あの街――『アークガルド』だった。
法と秩序がとっくに死に絶え、国中から見捨てられた者、犯罪者、落伍者たちが吹きだまりのように集う街。
いつ誰に喉を掻き切られてもおかしくない、この世の地獄のような最悪の治安。
しかし、それは皮肉にも、すべてを失った二人の少年にとって、この世界で息をして生き延びるための、唯一にして最大の確率を秘めた場所だった。
それから、二人は地獄のような街『アークガルド』に長く根を下ろすことになった。
ある日、ブレッドがどこからか使い古された鉄の剣を拾ってきた。当時十二歳だった少年は、血に飢えた野獣のような略奪者たちから、その剥き出しの刃で自分自身とクロコの命を死に物狂いで守り抜いた。
三年の月日が流れ、クロコが十二歳を迎えたとき。彼もまた、同じように自らの手で剣を握り締めていた。
さらに二年が過ぎ、クロコが十四歳になる頃には、この無法の街で二人に牙を剥く者は誰一人いなくなっていた。
日々の殺伐とした抗争のなかで、二人は生き抜くための「強さ」を貪欲にその身に纏っていたのだ。
こうして、泥水をすするような日々の果てに、ようやく命の危機に怯えずに眠る生活を手に入れた。
だが、それ以外は――この腐敗した街には何もなかった。未来も、希望も、温もりさえも。
街の片隅で息を潜めるうちに、クロコの胸の内で一つの密かな決意が育っていた。
――『セウスノール解放軍』に入りたい。
どれほど世間から見捨てられた街であっても、世界を揺るがすうねりの噂は嫌でも耳に入ってきた。
十年前に『ファントム』という正体不明のカリスマ的指導者が加わって以来、組織化を急激に進めた解放軍は、五年前から猛烈な勢いで国軍を押し返し続けていた。一時は帝国の圧倒的な物量の前に勢いを落としたものの、かつては国土の四分の一にも満たなかった占拠地は、今や半分近くにまで広がり、文字通り国を二つに引き裂く巨大な牙と化していた。
ある日の深夜。
酒場の裏手に位置する、ランプの微光だけが頼りの薄暗い一室。二人はそこで住み込みの用心棒として寝食を共にしていた。
薄闇の中、ブレッドは相変わらずひょうひょうとした態度でクロコに話しかけてくる。あの忌まわしい村の惨劇から変わらずにいるその軽口だけが、残酷な現実の中で唯一の救いでもあった。
クロコは決意を固めると、真っ直ぐに相棒を見据えた。
「なぁブレッド。話があるんだ」
「ん? なんだよクロ、そんな改まって」
ブレッドはいつも通りの軽い口調で返す。
「オレ……セウスノール解放軍に入ろうと思う」
「――っ!」
さすがに不意を突かれたのか、ブレッドの表情が一瞬だけ驚愕に染まる。しかし、すぐにいつもの涼しげな仮面を貼り直し、じっとクロコを見据えた。クロコは引かずに言葉を紡ぐ。
「今のオレたちなら、あの軍でも十分に戦力になれるはずだ。こんなクソみたいな街を出て、戦って……そしたら、今とは全く違う、もっとマシな未来がきっと掴める……!」
「…………」
「オレは、こんな掃き溜めで歳を取って、いつの間にか犬死にするなんてごめんだ……!」
ブレッドはクロコの熱を帯びた言葉を静かに聞き届けたあと、しばらく天井を見上げて何かを測るように沈黙した。やがて、ゆっくりと息を吐き出す。
「……いいんじゃないか。それも面白そうだ」
ブレッドはかすかに笑いながら、いつもの調子で肩をすくめた。
その弛緩した笑顔を見て、クロコは胸を撫で下ろす。
「当然、お前も一緒に来るよな、ブレッド?」
クロコが期待を込めて問いかけると、ブレッドはどこかからかうような、それでいて深い温度を宿した笑みを返した。
「ああ。どうやら、手のかかるお前の面倒を見るのが俺の天職みたいだからな」
「よし、これで決まりだ!って、コラ、最後の言い方なんだよ!」
薄暗い部屋のなかに、ほんの少しだけ、失われたはずの子供らしい軽口が心地よく響いた。
こうして、二人はセウスノール解放軍への身を投じることを決意した。
旅立ちの前夜。
ベッドの中で天井を見つめながら、クロコは七年前の悪夢に思いを馳せていた。
だが不思議なことに、脳裏によみがえるのは業火に焼かれる故郷の残骸ばかりで、あの日の記憶の大部分は白くぼやけてしまっている。幼すぎたあの日の自分には、あまりに巨大すぎる絶滅の現実を直視し、処理しきれなかったのだ。
国軍を憎んではいる。しかしそれは、両親や妹を奪われた直接的な悲劇への激情というよりも、生きるすべを奪われ、この腐った底辺へと自分を叩き落とした不条理に対する恨みに近かった。
あの日の地獄の全貌を、本当の意味で憎悪へと昇華することができない。幼すぎる脳が現実から目を背けてくれたその残酷な健忘こそが、自分にとって唯一の救いだったのかもしれない、とクロコはぼんやりと思う。
――だが。
のちの『ウォーズレイの戦い』をくぐり抜けたあと、クロコは再び、あの日の記憶の扉を叩くことになる。
思い返していたのは、あの夜、自分自身がどう感じたかではない。
――ブレッドは、あの時どう思っていたのか、ということだ。
当時まだ十一歳だったあの少年は、燃え盛る故郷の地で、国軍という暴力に対してどのような感情をその胸に渦巻かせていたのだろうか。ひょうひょうと自分についてきた彼は、本当にただの「お守り」のつもりで解放軍への道を選んだのだろうか。
答えは出ない。そして、もう二度と本人に確かめることもできない。
そして訪れた、旅立ちの日。
クロコとブレッドは、六年の長きにわたって泥水と血をすすってきたアークガルドの街に背を向け、最も近い解放軍の拠点――フルスロック基地へと足を踏み出した。
その時のクロコの胸にあったのは、かすかな不安などではない。
荒れ果てたこの世界の果てに、ようやく自分たちの居場所という名の『希望』が待っているのだと、そう信じて疑わなかった。