呪いで美少女になった少年兵、剣一本で戦場を駆ける 作:ハネケン
第四防衛ラインの手前、岩石の通路はもはや地獄の煮凝りだった。フロウとクレイドによって分断された国軍陣形だが、後続の第二、第三陣がなだれ込み、瞬く間に膨れ上がった怒濤の波が戦場を飲み込む。
「おおおおーッ!!」
その巨大な濁流の最前線へ、クロコ・ブレイリバーが突き刺さった。
一人の国軍兵がクロコを認め、剣を構える。だが、彼が踏み込むより速く、クロコは銀の閃光と化してその懐へ滑り込んだ。
――ヒュンッ。
ただ一閃。脇腹を裂かれた兵士は、痛みを感じる暇もなく地面へ吸い込まれる。
「ぬりぃな……」
クロコは吐き捨て、次なる標的へ向かう。背後から迫る刺突を、クロコは煙のように揺らめいて回避した。背を向けたクロコを不審に思った兵士が、自身の脇腹から噴き出す鮮血に気付いたのは、既に地面に崩れ落ちた後だった。
クロコは戦場を縦横無尽に駆ける。体の回転を遠心力へと変え、しなる鞭のような斬撃が荒れ狂う。
ヒュンヒュンヒュン――!
舞い散る血しぶきが、まるで花吹雪のように岩肌を染め上げていく。反応できない。認識することすら叶わない速度の嵐が、次々と国軍兵をなぎ倒した。
その進撃を阻んだのは、八人の銃兵隊だった。前列の四人が一斉に銃口を突きつける。
「撃てぇッ!!」
乾いた爆音が連鎖する。だが、鉛玉が着弾するはずの場所には、もう誰もいなかった。
「……え?」
銃兵が狼狽した瞬間、頭上から影が降ってきた。
クロコだ。重力を無視したかのような跳躍から、クロコは銃兵たちの頭上を舞う。
――ヒュンヒュンヒュンッ!!
絶叫が上がる間もなかった。銃兵隊が崩れ落ちると、クロコは小さく肩で息をついた。
「ふぅー……危ねぇ。あれは流石に注意しねぇとな」
クロコの目には、戦場の喧騒などどこ吹く風というような、不敵な光が宿っていた。
その光景を遠目に見ていたブレッドが、呆れと感嘆の混じった溜息を吐く。
「やれやれ、どいつもこいつもメチャクチャだな。……さて、俺も宴に加わるとするか!」
ブレッドが戦場へ躍り込む。鋭く、しかし丁寧な剣筋で国軍兵を一人、また一人と沈めていく。「コツコツと削る」――それは熱に浮かされた戦場における、彼なりの冷静な仕事だった。
陣形は既に崩壊していた。フロウが敵の指揮系統を寸断し、クレイドがその防衛を粉砕する。中央を突き崩された国軍の兵士たちは、ただ餌食となるのを待つしかなかった。
戦局は完全にセウスノール軍の支配下にある。
「よし、このまま一気に……!」
クロコが確信と共に笑みを浮かべた、その時だった。
「おおおおぉッ!!」
地響きのような咆哮と共に、一人の巨漢兵がクロコに突進してきた。
「フン、直情的な動きだな」
クロコは流れるような身のこなしで迎撃する。ヒュンッ、と銀の線が走り、敵の脇腹を深く裂いた。
(しまった、浅い……)
一瞬、敵の気合に気圧されたか。刃の感触がいつもより鈍い。兵士は血を噴き出し、どさりと倒れ伏した。
勝負は決した――そう思った矢先のことだった。
「ぐおぉぉぉぉぉぉッ!!」
獣の嘶きのような叫び。脇腹から鮮血を流しながら、巨漢は再び立ち上がった。死すら忘れた狂気が、その瞳の奥で青白く燃えている。
「もうやめとけ」
「うおおおおッ!!」
耳を貸すはずもない。乱れた軌道で剣が振り回される。クロコはそれを難なく避けるが、背中に冷たい悪寒が這い上がった。
(なんだ……? こいつの目――)
底知れない「呪い」のような執念。
クロコは再び、止めを刺すために剣を構えた。だが。
(……え?)
腕が動かない。まるで筋肉が石に変わったかのように、剣先がピクリともしないのだ。
(ふざけるな、なんでだ!?)
剣は自分の体の一部だった。それがなぜ、今この瞬間に裏切るのか。クロコが混乱に陥ったその刹那、巨漢の体躯が影となって懐に滑り込んだ。
(しまったッ!)
全力を込めた大剣が、クロコの頭上から叩き下ろされる。
ギィィィィィィィンッ!!
火花が飛び散る。互いの刃が噛み合い、火花の中でクロコと巨漢はギリギリと力比べの硬直状態に陥った。
(クソッ……! なぜだ!? 押し返せない!)
刃と刃が火花を散らし、硬直が続く。
本来なら一息で弾き飛ばせるはずの巨漢兵の膂力が、今のクロコには重い鉄壁のように立ちはだかっていた。
腕が震え、身体の芯が冷え切っていく。なぜ動かないのか、原因など分からない。ただ、自分の身体が異物に支配されたような強烈な不快感だけが支配していた。
「クロコさんッ!!」
戦場の騒音を切り裂いて、サキの悲鳴が届く。
ハッとして横を見た瞬間、死神の鎌が迫っていた。別の剣兵が、がら空きになったクロコの脇腹へ向けて殺到したのだ。
(しまった……ッ!)
回避も、防御も間に合わない。
ヒュンッ。
鮮血が宙に舞った。だが、その血はクロコのものではない。
「あ……っ!」
クロコと剣兵の間に、サキが飛び込んでいた。深々と肩を切り裂かれ、彼が地面に崩れ落ちる。
「サキッ!!」
クロコの声が震えた。混乱、驚愕、そして言いようのない恐怖が思考を焼き切る。
サキを斬った兵士が、再び冷酷な笑みを浮かべて刃を振り上げる。クロコは叫び続けた。
(動け……動いてくれ、頼む! ここでサキを――!)
神経が焼き切れるほど命令を送る。だが、筋肉は岩のように硬直し、クロコの意思を拒絶した。次の斬撃が、容赦なく首元へ迫る。
ギィィィィィンッ!!
死を確信した瞬間、強烈な衝撃がクロコを横へ弾き飛ばした。
クレイドだ。彼が割って入り、敵の刃を力任せに受け止めていた。
「オラァァァァァッ!!」
クレイドは雄叫びと共に、剣の腹で敵を豪快に吹き飛ばす。転がる剣兵。クレイドは鬼のような形相だった。
「てめぇ、死にてぇのかッ!!」
クロコは向けられた怒声に、ビクッと肩を震わせる。
立ち上がろうとする剣兵を、クレイドの巨大な刃が旋風となって切り裂いた。さらに次の瞬間、クロコと力比べをしていた巨漢兵の身体をも、その巨剣が真っ二つに引き裂く。
血の海の中で、巨漢兵の残骸が力なく横たわる。
クロコは、無残に散った敵を呆然と見つめることしかできなかった。
クレイドは身を屈め、地面に横たわるサキを確認した。
「……傷は浅い。剣の根本で斬られたのが不幸中の幸いだったな」
安堵の息を漏らしたのも束の間、クレイドは血に染まった剣を握りしめたまま、呆然と立ち尽くすクロコを射抜くような眼光で睨みつけた。
「……なぜ斬らなかった」
「そ、それは……」
言葉が出てこない。体が震え、力が入らなかった理由など、クロコ自身にも分からない。ただ、自分の手から生命の灯を消すという行為に対する、本能的な拒絶だけがそこにあった。
「お前……まさか、人殺しをしたことがないのか」
その問いに、クロコは喉の奥を突かれたように息を呑んだ。図星だった。これまで剣を振るうたび、無意識に、あるいは作為的に、必ず急所を外してきたのだ。
「……なるほどな。どおりで、腰の据わり方が甘いわけだ」
「サキ! クロ!」
異変を察したブレッドが駆け寄るが、クロコは虚空を見つめたまま動かない。
クレイドは冷徹に告げた。
「ブレッド、サキを後方へ下げろ。……それと、腑抜けたこいつもだ。邪魔だ」
クレイドの静かな口調に、ブレッドは事態を察した。
彼は無言でサキに肩を貸し、クロコの背中を優しく、しかし強制的に押し出す。戦意を霧散させたクロコは、人形のようにブレッドの導きに従った。
ブレッドはサキを兵士に預け、防衛ラインの裏にクロコを座らせると、一言も発さずに再び戦場へと舞い戻った。
――パンッ、パンッ。
数刻後、敵陣から撤退を告げる信号銃が鳴り響いた。
グラウド国軍が岩陰へ消えていく。解放軍の兵士たちは、生き残った喜びを分かち合うように歓声を上げた。
戦場に夕闇が降り、篝火(かがりび)が焚かれる。
フロウとクレイドの周囲には、熱狂的な兵士たちが渦巻いていた。
「すげぇよ、お前ら!」
「とんでもねぇ援軍だ!」
「これで俺たちにも光が見えてきた!」
多くの称賛と期待が入り混じった声が二人を包む。
篝火の明かりから少し離れた場所で、ブレッドとクロコは肩を並べていた。サキの肩には白い包帯が痛々しく巻かれている。
「大丈夫か、サキ」
「はい……すみません、足手まといになってしまって」
サキは弱々しく微笑んだが、その顔色は土気色に沈んでいる。クレイドとフロウが歩み寄り、ブレッドが現状を告げた。
「命に別状はない。ただ、傷が癒えるまで戦列復帰は無理だ。一時間後の馬車で後方へ送る」
「ごめんなさい……みんなの役に立ちたかったのに」
サキの悔しげな呟きに、フロウが優しく微笑みかける。
「気にするな。君は十分に勇敢だった。初陣にしては上出来だよ」
クレイドもまた、不器用ながらも力強い声音で言った。
「あとは俺たちに任せろ。どんな巨大兵器だろうと、俺が叩き切ってやる」
サキは安堵したように微笑み、最後にクロコを見上げた。
「クロコさん……あと、頼みます」
真っ直ぐな瞳。その重圧に、クロコはたじろぐ。
「……ああ、任せろ」
口から出た言葉は、鉛のように重く、空虚に響いた。
馬車が闇の中に消えていくのを、四人は無言で見送った。車輪の音が途絶えた瞬間、空気が凍りつく。
「クロコ」
クレイドが低い声で名を呼んだ。
「……人をまともに斬る覚悟がないのなら、今すぐここから消えろ」
その言葉は、刃物よりも鋭くクロコを切り裂く。
「はっきり言って、邪魔なんだよ」
「……ッ!」
クロコは反論しようとクレイドを睨みつけた。だが、その真紅の瞳からは、かつての鋭い闘志が抜け落ちていた。
「お前の中途半端な情けは、いつか仲間を殺す」
その一言が、クロコの心の深淵を抉る。ただ食いしばった奥歯から音を立てることしかできなかった。
「次の戦闘までに決断しろ。もし前のようなふざけた真似をすれば……その時は、俺がてめぇを斬る」
クレイドは殺気に満ちた背中を向け、去っていった。
フロウが残されたクロコに視線を向ける。
「僕はクレイドみたいに君を斬るなんてことは言わない。けれど、答えは出した方がいい。たとえ戦場を離れる決断をしても、僕たちは君を責めたりしないから」
フロウもまた、静かにその場を離れた。最後にブレッドが何かを言いかけて口を噤み、ただ背中を向けて去っていく。
荒涼とした大地の闇の中、クロコは独り、取り残された。
自分の手は、なぜ人を斬ることを拒んだのか。
冷たい風が吹き抜け、その孤独をより一層際立たせていた。