病と愛と探偵と   作:全肯定逆張りおじさん

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第一話 探偵の始まり

 この街では、人はたいてい何かを愛している。

 

 金を愛する者は港へ行く。

 名誉を愛する者は貴族街へ行く。

 酒を愛する者は、昼前から《錆びた月》の扉を叩く。

 女を愛する者は劇場へ行き、女に愛されたい者は床屋へ行き、女に捨てられた者は教会か新聞社へ行く。

 

 そして、何も持っていない者は、だいたい俺のところへ来る。

 

 いや、正確に言えば、俺のところへ来る前に、まずはもっとましなところへ行く。警察、ギルド、役所、教会、新聞社、弁護士、金貸し、親戚、昔の恋人。

 それでもどうにもならなかった時、ようやく俺の名前が出る。

 

 レオン・クラフト。

 

 この街で生まれて、この街で育って、この街から出そびれた男。

 職業は、まあ、聞かれるたびに変えている。

 

 荷運び。案内人。代筆屋。迷子探し。犬探し。酔っぱらいの回収。ギルドの臨時手伝い。貴族の使い走り。劇場裏の雑用。港の荷札読み。新聞社の小間使い。

 どれも嘘ではない。

 

 ただ、どれも長続きしないだけだ。

 

 俺は探偵ではなかった。

 

 少なくとも、この朝までは。

 

     *

 

 朝のオルディアは、濡れた石畳の匂いがする。

 

 夜明け前に降った雨が、ガス灯の足元に黒く残っている。馬車の車輪がそこを踏むたび、泥水が跳ねて、通りの端を歩く者たちが器用に避けた。

 

 避けられなかったのは俺だけだった。

 

「おい」

 

 泥が靴にかかった。

 

 かけた馬車は止まらない。御者台の男が一瞬だけ振り返ったが、俺の顔を見て、たぶん謝る値打ちがないと判断したらしい。そのまま貴族街へ向かって走っていった。

 

 俺は靴を見下ろした。

 

 昨日、磨いたばかりだった。

 正しくは、昨日、大家に磨けと言われたばかりだった。

 

「まあ、黒い靴に黒い泥だ。統一感はある」

 

「ないわよ」

 

 背後から声がした。

 

 振り向くまでもなかった。

 この街で、朝の俺にそんな声を出す女は一人しかいない。

 

 マリア・ハドリィ。

 俺の住む借家の大家で、幼馴染で、未亡人で、俺が昔、少しばかり人生を勘違いしていた相手だ。

 

 彼女は黒い外套を羽織って、籠を腕にかけていた。市場に行くところなのだろう。雨上がりの朝でも、髪はきちんとまとめられている。俺なら三日で諦める整い方だった。

 

「おはよう、マリア。今日も朝から品があるな。市場の魚が緊張する」

 

「家賃」

 

「朝の挨拶としては、少し刃物に近いな」

 

「家賃」

 

「二度目はもう刃物だ」

 

「三度目は鍵を替える音になるわ」

 

 俺は胸に手を当てた。

 

「待て。街には慈悲が必要だ」

 

「慈悲なら先月あげたわ」

 

「今月の分は?」

 

「家賃と引き換え」

 

「世知辛い街だ」

 

「あなたが世知辛くしているの」

 

 マリアは俺の靴を見た。

 それから、外套の裾を見た。

 最後に、俺の顔を見た。

 

「昨日、仕事があると言ってなかった?」

 

「あった」

 

「お金は?」

 

「仕事もあったし、金もあった」

 

「過去形なのね」

 

「人生は過去形の積み重ねだ」

 

「どこへ消えたの」

 

 俺は少し考えた。

 

 昨日の金は、確かに一度は俺の手にあった。

 港で荷下ろしを手伝って、ギルドの古い台帳を倉庫まで運んで、劇場裏で壊れた椅子を直して、最後に《錆びた月》で皿を洗った。なかなか働いた一日だった。

 

 だが夜に、新聞売りのミロが腹を鳴らしていた。

 そのあと、ルカが勝負用の襟飾りを質に入れるか入れないかで泣きそうになっていた。

 さらに、ブルーノが女に花を買うと言い出し、なぜか俺が半分出した。

 女には渡せなかった。ブルーノが花束を抱えたまま緊張し、相手の名前を忘れたからだ。

 

 残った花は、酒場のテーブルに飾られた。

 

「街へ還元した」

 

「あなたの家賃は、街の税金じゃないわ」

 

「だが、巡り巡って君のところへ」

 

「来てない」

 

「まだ巡ってる」

 

「待っている間に建物が古くなるの」

 

 俺は借家を見上げた。

 

 三階建ての古い建物だ。壁はくすんだ白で、窓枠は深い緑。晴れた日にはなかなか見栄えがする。雨の日には少し沈む。俺と同じだ。

 

「いい建物だ」

 

「褒めても家賃は減らないわ」

 

「今日中に何とかする」

 

「昨日も聞いた」

 

「今日は昨日より今日だ」

 

「そういう言い方、新聞記者にでも売れば?」

 

「ヴィクトルなら買うかもしれない」

 

「彼に売るなら、先に私に家賃を払いなさい」

 

 マリアは籠を持ち直した。

 その横顔は、怒っているようで、少し疲れているようでもあった。

 

 昔からそうだ。

 彼女は俺を叱る時、いつも俺より先に疲れている。

 

「レオン」

 

「何だ」

 

「本当に、今日中にどうにかしなさい」

 

「わかってる」

 

「わかっている人の顔じゃないわ」

 

「俺の顔は昔からこうだ。責任は神と両親にある」

 

「神様が気の毒ね」

 

 マリアは通りへ歩き出した。

 俺はその背中に声をかける。

 

「マリア」

 

「何?」

 

「今日の髪、よく似合ってる」

 

 彼女は立ち止まった。

 振り返らない。

 

「そういうことを言うから、あなたは駄目なのよ」

 

「褒めたんだが」

 

「そこが駄目なの」

 

 マリアは市場の方へ去っていった。

 

 俺は首をかしげた。

 

 女は難しい。

 靴紐より難しい。

 靴紐は、ほどけていると目で見える。

 

     *

 

 オルディアは港町だ。

 

 海に面していて、丘に貴族街があり、丘の下に劇場と市場とギルドがあり、もっと下に酒場と倉庫と安宿がある。

 空を見上げれば、飛行艇が雲の低いところを腹で撫でていく。

 海を見れば、蒸気船の煙が灰色に伸びている。

 

 昔は、この街が世界の入口だったらしい。

 

 金も人も噂も、まずはオルディアの港へ入った。

 貴族は海を見下ろす丘に屋敷を建て、商人は埠頭に倉庫を建て、職人は川沿いに工房を並べた。

 飛行艇乗りは空で歌い、船乗りは海で殴り合い、役人は机で眠った。

 

 いまは少し違う。

 

 戦争が終わり、景気のいい連中は新しい都へ移り、古い家名は借金で磨かれ、古い英雄は酒場で昔話を売っている。

 それでも街は生きている。

 ガス灯は点く。

 新聞は売れる。

 パンは焼ける。

 男は嘘をつき、女はその嘘を聞き分ける。

 

 この街が俺の故郷だ。

 

 だから俺は、朝にどこのパン屋が焦がしたパンを安く売るか知っている。

 どの巡査が昼前なら機嫌がいいか知っている。

 どの裏路地を通れば雨に濡れず劇場まで行けるか知っている。

 どの酒場の女将が、客の浮気を三日で見抜くかも知っている。

 

 ただ、家賃を用意する方法だけは、毎月忘れる。

 

「レオン兄ちゃん!」

 

 市場前の角で、甲高い声が飛んできた。

 新聞売りのミロだ。十二か十三か、そのあたりの年齢で、いつも帽子が大きすぎる。新聞束を抱え、靴紐を片方だけ結んでいた。

 

「朝刊! 今朝の朝刊! 港湾局の横領疑惑! 貴族街で婚約破談! 飛行艇組合、また値上げ!」

 

「景気のいい話はないのか」

 

「あるよ。葬儀屋が新しい馬車を買った」

 

「誰かの不景気だな」

 

 俺は新聞を一部取った。

 

「いくらだ」

 

「一ペニー」

 

 俺はポケットを探った。

 出てきたのは糸くず、折れた煙草、ボタン、昨日の劇場の半券、そして小銭一枚だった。

 

 家賃には遠い。

 新聞には近い。

 

「つけで」

 

「駄目。兄ちゃんのつけは、サロモンさんとこで見た。あれは本だった」

 

「教養があるだろ」

 

「借金に背表紙がついてた」

 

 俺は最後の小銭を渡した。

 ミロは新聞を差し出し、それから俺の顔を見た。

 

「本当にいいの? それ、最後のお金じゃない?」

 

「最後の金で新聞を買う男は、世間を知りたい男だ」

 

「ご飯は?」

 

「世間を知ってから考える」

 

「マリアさんに怒られるよ」

 

「お前、あの人に告げ口したら新聞を縦に読む呪いをかけるぞ」

 

「そんな呪いある?」

 

「今作った」

 

 ミロは笑って走っていった。

 俺は新聞を広げる。

 

 一面には大きく、こう書かれていた。

 

『港湾局、消えた予算の謎』

 

 謎か。

 世の中は謎だらけだ。

 

 俺の家賃も謎のままだ。

 

     *

 

 ギルド前の広場は、朝から騒がしい。

 

 冒険者ギルドと言っても、昔話に出てくるような剣と魔法の殿堂ではない。

 いまのギルドは、危ない仕事を引き受ける職業組合だ。護衛、調査、荷運び、空賊対策、遺跡品の確認、迷子の山羊探し。危険度の幅が広すぎるのが特徴だった。

 

 その一階には受付があり、隣には食堂がある。

 昼になれば酒も出る。

 夜になると、いつの間にか音楽まで出る。

 

 そして、その全部に顔を出す女がいる。

 

「おはよう、レオン」

 

 受付台の向こうで、リゼットが微笑んだ。

 

 朝の彼女は、髪をきっちり結い、白いブラウスに紺のベストを着ている。書類を捌く指先が速い。男たちの軽口を笑顔で受け流し、依頼人の怒鳴り声を三言で黙らせ、床に落ちたペンを拾うついでに、誰が誰の財布を狙っているかまで見ている。

 

 夕方になれば、彼女は食堂で盆を持ち、酔っぱらいを肘でどかす。

 夜になれば、ピアノの前に座り、低い声で歌う。

 

 同じ女なのに、時間ごとに街が変わったみたいに見える。

 そういう女だった。

 

「今日も働き者だな。ギルドは君に給料を三人分払うべきだ」

 

「一人分も遅れることがあるのに?」

 

「じゃあ、せめて感謝を三人分」

 

「感謝でパンは買えないわ」

 

「俺もさっき学んだ」

 

 リゼットは俺の靴を見た。

 

「泥」

 

「貴族街方面からの贈り物だ」

 

「外套も」

 

「雨上がりの街を全身で味わってる」

 

「顔も」

 

「顔は生まれつきだ」

 

 彼女は笑った。

 受付嬢の笑い方だった。上品で、仕事が早く、男を勘違いさせすぎない笑い方。

 

「仕事を探しに来たの?」

 

「家賃を探しに来た」

 

「仕事を探しなさい」

 

「似たようなものだ」

 

「違うわ。仕事はたまに見つかるけど、あなたの家賃は逃げ足が速いもの」

 

 受付台の上に、依頼票が何枚か置かれていた。

 俺は覗き込む。

 

「山羊探し、倉庫整理、護衛、落とし物捜索……お、これは?」

 

「薬草園の害獣駆除」

 

「害獣の種類は?」

 

「大鼠」

 

「俺より先にブルーノを呼べ。あいつは恋愛以外なら大体勝てる」

 

「恋愛は?」

 

「大鼠に失礼だ」

 

 リゼットは依頼票を取り上げた。

 

「じゃあ、これは?」

 

「貴族街への荷物運びか。服装規定あり?」

 

「清潔な外套、磨いた靴、丁寧な言葉遣い」

 

「三つともないな」

 

「二つは努力でどうにかなるわ」

 

「言葉遣いか?」

 

「靴よ」

 

 俺は胸を押さえた。

 

「君は今日も綺麗なのに、言葉が鋭い」

 

「そういうことを誰にでも言うから、信用されないのよ」

 

「綺麗な人にだけ言ってる」

 

「もっと悪いわ」

 

「正直だろ」

 

「正直と無神経は、同じ馬車に乗ってるだけで別人よ」

 

 なるほど。

 女の言うことは、時々新聞より難しい。

 

 その時、食堂側の扉が開き、男が三人なだれ込んできた。

 

 先頭はルカ。仕立て屋見習いで、自分の襟を世界の中心だと思っている男だ。

 二人目はブルーノ。元水兵で、肩幅が扉に謝らせる男。

 三人目はエミール。薬屋の息子で、会話に必ず理屈を混ぜる男。

 

 つまり、俺の悪友たちだ。

 

「レオン!」

 

 ルカが俺を見るなり駆け寄ってきた。

 

「大変だ。今夜、劇場の前で声をかけるべき女性がいる」

 

「全然大変じゃない」

 

「大変だろ。俺の人生が変わるかもしれない」

 

「相手の人生も変わる。主に悪い方に」

 

 ブルーノが腕を組んだ。

 

「俺は昨日学んだぞ。女には最初に結婚を申し込まない方がいい」

 

「昨日まで知らなかったのがすごいな」

 

「では二言目か?」

 

「もっと遠くへ行け」

 

 エミールが瓶を取り出した。薄桃色の液体が入っている。

 

「そこで、会話を円滑にする香水を作った」

 

「それは合法か」

 

「国による」

 

「この国では?」

 

「沈黙の権利を行使する」

 

 俺は瓶を押し返した。

 

「しまえ。お前ら三人が揃うと、恋愛が公衆衛生の問題になる」

 

「ひどいな」とルカが言った。「俺たちは女心を学ぼうとしているんだ」

 

「まず人心から始めろ」

 

 リゼットが受付台の向こうで肩を震わせていた。

 

「仲がいいのね」

 

「誤解だ。これは縁ではなく事故だ」

 

「事故にしては長いわね」

 

「後始末に手間取ってる」

 

 ブルーノが俺の肩に腕を回した。重い。

 

「兄弟、今夜来るだろ?」

 

「どこへ」

 

「劇場だ。リゼットが歌う」

 

 俺はリゼットを見た。

 

「今夜、歌うのか」

 

「ええ」

 

「なら行く。君の歌は、安い酒を高く感じさせる」

 

 リゼットの目が一瞬だけ細くなった。

 

「褒めてる?」

 

「かなり」

 

「酒の方を?」

 

「君の方だ」

 

「そういうところよ」

 

「今日はそれをよく言われるな」

 

「でしょうね」

 

 俺にはよくわからなかったが、リゼットは依頼票を一枚俺に押しつけた。

 

「午後までにこの荷物を東倉庫へ。報酬は半分前払い、半分完了後」

 

「助かる」

 

「前払いは家賃に使いなさい」

 

「もちろん」

 

「その顔は使わない顔ね」

 

「俺の顔は昔から」

 

「責任は神と両親?」

 

「マリアに聞いたのか」

 

「街は狭いのよ」

 

 この街は本当に狭い。

 とくに俺の失敗に関しては、猫より早く屋根を渡る。

 

     *

 

 午後には、荷物運びの前払いは半分になっていた。

 

 正確に言えば、最初から半分だったものが、さらに半分になった。

 ミロに昼飯を食わせ、ブルーノに貸していた銅貨が返ってこないことを思い出し、ルカの襟飾りの質札を取り戻すのに少し出したからだ。

 

 エミールには出していない。

 あいつは金を貸すと、利子の代わりに薬を渡してくる。前に眠気覚ましをもらったら、三時間だけ神の声が聞こえた。神は俺に水を飲めと言った。たぶん正しかった。

 

 東倉庫へ向かう途中、俺は港に寄った。

 

 寄るつもりはなかった。

 ただ、近道をしようとして坂を下り、魚市場の匂いに釣られ、空を飛ぶ飛行艇の影を見上げていたら、気づけば港だった。

 

 よくあることだ。

 

 埠頭には、荷役夫たちの怒号が飛んでいる。

 鎖が鳴り、蒸気が噴き、濡れたロープが木箱を締め上げる。

 遠くの空では、赤茶けた飛行艇が一隻、雲の下をゆっくり横切っていた。船腹には古い戦争の傷跡が残っている。新しい塗装で隠しても、傷は光の当たり方で浮かぶ。

 

 この街には、そういうものが多い。

 塗り直された看板。

 建て増しされた屋敷。

 笑う未亡人。

 酔って昔話をする男。

 新しい帽子を被った借金持ち。

 

「そこをどけ!」

 

 怒鳴り声がした。

 

 振り返ると、見覚えのある太い警官が、部下を引き連れてこちらへ来るところだった。

 

 グスタフ・ハルトマン警部補。

 この街の警官で、怒鳴るために肺を鍛えたような男だ。

 腹は出ているが足は速い。口は悪いが市民は守る。貴族が嫌いだが、貴族の前では帽子を取る。取ったあとで、帽子の内側に文句を言う。

 

 俺とは相性が悪い。

 

「また貴様か!」

 

「警部補。俺もそれ、言おうと思ってました」

 

「なぜ貴様は、いつも用のない場所にいる!」

 

「用ならあります。荷物運びです」

 

「荷物はどこだ!」

 

 俺は両手を見た。

 空だった。

 

「……これから取りに」

 

「仕事の前に寄り道をするな!」

 

「人生は寄り道でできてまして」

 

「だから貴様は定職がないんだ!」

 

 その通りだったので、俺は黙った。

 警部補の後ろで、若い巡査が気の毒そうに俺を見ている。エリオットだ。真面目な男で、嘘をつくと耳が赤くなる。

 

「何かあったんですか」

 

「貴様に話すことではない」

 

「では聞かなかったことにします」

 

「聞くなと言った!」

 

「聞く前に言ってくださいよ」

 

「口答えだけは一人前だな!」

 

 警部補は俺を睨んだあと、港の奥へ歩いていった。

 その先には、人だかりができている。

 

 俺は少し首を伸ばした。

 

「見るな!」と警部補が振り返った。

 

「見てません」

 

「首が伸びている!」

 

「生まれつきです」

 

「嘘をつけ!」

 

 エリオット巡査が小声で言った。

 

「今日は関わらない方がいいですよ」

 

「今日は?」

 

「今日も、です」

 

「ひどいな。俺は市民だぞ」

 

「警部補は、あなたを移動式の厄介事だと思っています」

 

「だいぶ正確だ」

 

 俺は港を離れた。

 

 警察がいる場所には、たいてい面倒がある。

 そして俺は、面倒に近づくと金にならない。

 金にならない面倒は、家賃に対して失礼だ。

 

 そう判断した。

 

 この時の俺はまだ、自分が数時間後にもっと大きな面倒へ向かって歩いているとは知らなかった。

 

     *

 

 夕方、俺は《錆びた月》にいた。

 

 港の端にあるバー兼食堂で、昼は安い煮込み、夜は安くない酒を出す。

 店主のサロモン・グレイは、片目を細める癖のある男で、昔は飛行艇乗りだったとも、軍人だったとも、密輸屋だったとも言われている。本人はどれを聞いても否定しない。

 否定しないということは、だいたい半分嘘だ。

 

「レオン」

 

 サロモンはグラスを拭きながら言った。

 

「お前、また家賃を払ってないな」

 

「なぜ知ってる」

 

「マリアが市場で玉ねぎを三つ潰した」

 

「それは俺のせいなのか」

 

「お前以外に、玉ねぎを握り潰させる男を俺は知らん」

 

 俺はカウンターに座った。

 

「仕事はした」

 

「金は?」

 

「街に散った」

 

「詩人みたいに言えば済むと思うな。お前の金は毎回、羽の生えた馬鹿みたいに飛んでいく」

 

「羽があるなら捕まえにくい」

 

「馬鹿の方を直せ」

 

 サロモンは俺の前に水を置いた。

 

「酒は?」

 

「金がない奴に出す酒はない」

 

「水はあるのか」

 

「水はお前より信用がある」

 

 俺は水を飲んだ。

 冷たかった。

 信用の味がした。

 

 店の隅では、ルカとブルーノとエミールが、女に話しかける最初の一言について議論していた。

 

「やはり、女性にはまず服を褒めるべきだ」とルカ。

 

「違う。目だ」とブルーノ。

 

「生物学的には健康状態を褒めるべきだ」とエミール。

 

 俺は言った。

 

「全員黙っていた方が可能性がある」

 

 ルカが振り向く。

 

「お前はいいよな、レオン。適当に褒めても女が笑う」

 

「適当じゃない。思ったことを言ってる」

 

「それがなぜ通る」

 

「日頃の行いだ」

 

 サロモンが鼻で笑った。

 

「日頃の行いが良ければ、お前は家賃を払ってる」

 

「では顔か」

 

「顔が良ければ、もっと払ってる」

 

「何ならあるんだ、俺には」

 

「面倒を呼ぶ才能」

 

「金になるかな」

 

「ならんから水を飲んでる」

 

 まったく、男友達というものは役に立たない。

 慰める気がない。

 だが、その分だけ信用できる。

 

 店の扉が開いた。

 

 夕方の冷えた空気と一緒に、ヴィクトル・ベルナールが入ってきた。

 くたびれたコート。斜めの帽子。口の端には吸っていない煙草。夕刊紙『黄昏タイムズ』の三流記者で、俺の悪友の中でも特に人の不幸を活字に変えるのが早い男だ。

 

「諸君、事件だ」

 

「帰れ」とサロモン。

 

「まだ何も言ってない」

 

「言う前から面倒だ」

 

 ヴィクトルは俺の隣に座った。

 

「レオン、仕事があるぞ」

 

「新聞社の仕事は嫌だ。前に誤植の確認を手伝ったら、俺の名前が死亡欄に載った」

 

「あれは評判がよかった」

 

「誰に?」

 

「葬儀屋に」

 

 サロモンが水をもう一杯置いた。

 ヴィクトルは不満そうに見た。

 

「酒は?」

 

「金は?」

 

「記事で払う」

 

「水だ」

 

 ヴィクトルは肩をすくめ、水を飲んだ。

 

「貴族街で妙な話がある」

 

「貴族街はいつも妙だ。あいつらは朝食の卵にも家名をつける」

 

「今回は本当に妙だ。ローデンベルク伯爵家で、銀の犬が消えた」

 

「犬?」

 

「置物だ。銀細工の小さな犬。値打ちはあるが、盗むほどじゃない」

 

 俺はグラスを置いた。

 

「なら使用人の小遣い稼ぎだろ」

 

「ところが、伯爵家は警察を呼んでいない」

 

「貴族は警察より恥を嫌う」

 

「ギルドにも正式依頼を出していない」

 

「なら俺には関係ない」

 

「ところが、関係がある」

 

「その言い方をする時のお前は、だいたい俺に借金を背負わせる」

 

 ヴィクトルはにやりと笑った。

 

「伯爵令嬢が、直接、人を探しているらしい」

 

「銀の犬を?」

 

「いや」

 

 ヴィクトルは俺を指さした。

 

「探偵を」

 

 店の中が一瞬だけ静かになった。

 それから、サロモンが笑った。

 ルカが吹き出した。

 ブルーノは真剣な顔で俺を見た。

 

「兄弟、探偵だったのか?」

 

「違う」

 

「いつから違う?」

 

「最初からだ」

 

 エミールが顎に手を当てた。

 

「しかし、定職がなく、事件現場によくいて、警察に嫌われ、女性問題が多い。条件だけなら探偵に近い」

 

「医者に診せるぞ、その分類」

 

 ヴィクトルは楽しそうだった。

 

「いいじゃないか。レオン・クラフト、下町の探偵。見出しになる」

 

「するな」

 

「『家賃滞納者、貴族の謎に挑む』」

 

「もっとするな」

 

「『愛と借金の名探偵』」

 

「殺すぞ」

 

「警察より先に犯人が見つかった」

 

 サロモンがグラスを拭きながら言った。

 

「で、行くのか」

 

「行かない」

 

「金は出るぞ」とヴィクトル。

 

「行く」

 

 サロモンが呆れた顔をした。

 

「お前の信念は薄いな」

 

「薄いから持ち運びやすい」

 

「そのうち風で飛ぶぞ」

 

「その時は追いかける」

 

 扉の外で、馬車の音が止まった。

 

 《錆びた月》の前に馬車が止まることは珍しい。

 安酒と安煮込みの店に、馬車で来る客はだいたい道を間違えている。もしくは、人生を間違えている。

 

 全員が扉を見た。

 

 黒塗りの小さな馬車だった。扉には、見覚えのない紋章。

 御者が降り、店の扉を開ける。

 

 先に入ってきたのは、青ざめた顔のメイドだった。

 その後ろから、小さな帽子と白い手袋と、場違いなほど上等なドレスが現れた。

 

 少女のように小柄な令嬢だった。

 年はわからない。背丈だけなら子供のようだが、目だけは妙に大人びている。

 淡い金髪を巻き、顎を上げ、下町の酒場を王宮の廊下みたいに歩いてくる。

 

 彼女は店内を見回した。

 ルカは襟を直した。

 ブルーノは立ち上がりかけた。

 エミールは瓶を隠した。

 ヴィクトルは笑みを深くした。

 サロモンは黙ってグラスを置いた。

 

 俺は、水を飲んでいた。

 

 令嬢の視線が俺で止まった。

 

「あなたが、レオン・クラフト?」

 

 声は鈴のようだった。

 ただし、鳴らす者の気性が荒い鈴だ。

 

「そうですが」

 

 俺は立ち上がった。

 一応、貴族相手なので背筋を伸ばす。

 

「失礼ながら、お嬢様。ここは迷子の貴族を保護する施設ではなく、酒場です」

 

 メイドが息を呑んだ。

 ヴィクトルが肩を震わせた。

 サロモンが目を伏せた。

 たぶん笑っている。

 

 令嬢は怒らなかった。

 

 むしろ、にこりと笑った。

 

「口が軽いのね」

 

「財布も軽いです」

 

「顔は悪くないわ」

 

「ありがとうございます。家賃の足しにはなりませんが、励みになります」

 

「気に入った」

 

「何をです?」

 

「あなたを」

 

 俺は少しだけ後ろを見た。

 男どもが全員、同じ顔をしていた。

 

 終わったな、という顔だ。

 

 令嬢は白い手袋の指で、俺をまっすぐ指した。

 

「あなた、今日から私の探偵になりなさい」

 

 俺は言った。

 

「お嬢様。大変申し上げにくいんですが」

 

「何?」

 

「俺は、探偵ではありません」

 

 令嬢は一歩近づいた。

 

「では、何なの?」

 

 俺は少し考えた。

 

 何でも屋。

 家賃滞納者。

 街の便利な男。

 女に怒られがちな男。

 男友達に信用されていない男。

 警部補に嫌われている男。

 最後の小銭で新聞を買う男。

 

 どれも、貴族令嬢に名乗るには少し弱い。

 

「まあ」

 

 俺は肩をすくめた。

 

「今のところ、空いてます」

 

 令嬢は満足そうに笑った。

 

 その瞬間、俺の探偵生活は始まった。

 

 もちろん、その時の俺はまだ知らない。

 銀の犬が消えたことよりも、ずっと厄介なのは、この小さな令嬢が俺を見つけてしまったことだということを。

 

 そしてこの街では、誰かに見つけられるというのは、たいてい愛されるよりも面倒なことなのだ。

 

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