赤い館に住む元赤い国の人形   作:案山子杏子

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10.無敵の巫女

 博麗神社の夕方は、妙に静かだった。

 

 霊夢は縁側でスマホを見ていた。

 

「……え?」

 

 銀行の残高欄には、簡単すぎる数字が出ていた。

 

 0円。

 

 賽銭箱よりも空っぽだった。

 

「嘘でしょ」

 

 更新しても、数字は変わらない。

 もう一度押しても、やはり変わらない。

 

 文明は冷たい。

 特に残高表示は、巫女の祈りを聞かない。

 

 通知欄には、見覚えのないログイン、見覚えのない承認、見覚えのない送金履歴が並んでいた。

 

 昨夜、彼女は外の世界から流れてきた妙な案内を開いた。

 神社関係の支援金だとか、未受け取りの還付だとか、もっともらしい言葉が並んでいたのだ。

 

 人間は「もらえる」と書かれると弱い。

 賽銭の少ない巫女はもっと弱い。

 

「全部……?」

 

 少ないものが少ないのではない。

 少ないものが、全部なくなった。

 

 霊夢はゆっくり立ち上がった。

 

 顔から表情が消えていた。

 

 その無表情は、クレイスの無表情とは違う。

 処理のためではない。

 怒りが大きすぎて、顔が追いついていないだけだった。

 

「犯人」

 

 境内の空気が、少し震えた。

 

「退治する」

 

 次の瞬間、霊夢は空へ飛んだ。

 

 犯人が誰かは分かっていない。

 だが、退治だけは決まっていた。

 

 博麗の巫女は、そういう順番で動くことがある。

 被害額が全部なら、なおさらだった。

 

     ◇

 

 霧の泉では、古い外界車両、ErAZ-762をめぐる勝負が続いていた。

 

 チルノにとって、それは「さいきょうきち」を守る戦いだった。

 クレイスにとっては、酒類運搬に使う車両を確保するための制圧戦だった。

 

 弾幕ごっこと呼ぶには、どちらも目が本気すぎる。

 

 魔理沙は少し離れた岩の上で、箒を肩にかけたまま眺めていた。

 

「……派手にやってるな」

 

 軽く言ったつもりだったが、声は少し乾いていた。

 

 最初に霧の泉を凍らせたのはチルノだった。

 

 水面に白い亀裂が走り、その割れ目から氷弾が跳ね上がる。

 正面、斜め下、車体の影、水面の反射。

 

 どこから飛ぶか分からない。

 

 雑だ。

 だが、雑だから読みにくい。

 

 魔理沙には分かった。

 あれは何も考えていない弾幕ではない。

 考えが追いつく前に、感覚で撃っている弾幕だ。

 

 厄介なのは、チルノが車体を守ろうとしていることだった。

 

 守ろうとしているのに、弾幕は容赦なく車体のそばをかすめる。

 一発がErAZ-762の後部扉に当たり、古い塗装を削った。

 

 「さいきょうきち」の文字が少し欠ける。

 

「あっ!」

 

 チルノの顔が一瞬変わった。

 

 その表情を見て、魔理沙は苦笑しかけた。

 笑えなかった。

 

 あれは、ただの廃車ではないのだ。

 妖精が名前を書いた時点で、もう城になっている。

 

 クレイスはそこを見ていた。

 表情は変わらない。

 だが、動きが変わった。

 

«РЕЖИМ ДУЭЛИ:АКТИВЕН

決闘処理:起動

 

ЦЕЛЬ:ЧИРНО

対象:チルノ

 

ОГРАНИЧЕНИЕ:НЕ ДОПУСТИТЬ ПОЛНОГО РАЗРУШЕНИЯ ERAZ-762

制限:ErAZ-762の全壊を防ぐ»

 

「全壊って言うな!」

 

「軽微損傷は許容範囲です」

 

「許容するな!」

 

 氷塊が飛ぶ。

 

 クレイスは避けない。

 右手を上げ、氷塊の回転だけを変える。

 

 魔理沙の目には、それが妙に嫌な技に見えた。

 力で弾き返していない。

 弾の勢いを殺さず、方向だけ殺している。

 

 当たるはずのものが、当たらない場所へ流される。

 

「相手じゃなくて、弾の行き先を殺してるのか」

 

 その間にも、氷針が水柱の内側から走り、チルノの逃げ道を切る。

 

 見物していた妖精の一匹が頭上をかすめられ、看板の裏へ飛び込んだ。

 看板ごと凍った。

 

「出してー!」

「見物席が冷蔵庫になった!」

「すごーい!」

 

 妖精たちは懲りない。

 だから妖精なのだろう。

 

 便利な言葉である。

 大抵の無謀はそれで片づく。

 

 チルノは氷針の隙間を突っ切った。

 

 小さく、速く、怖がらない。

 

 魔理沙は少し目を細める。

 

 チルノは弱くない。

 弱いどころか、あの無謀さはかなり面倒だ。

 

 普通なら退く場所で退かない。

 普通なら怖がる密度へ、笑って飛び込む。

 

 クレイスの弾幕は、それを正面から潰さない。

 霧に氷枠を作り、足場を割り、冷却線で水面の支配を奪っていく。

 

 チルノの動きを止めるというより、チルノの行ける場所を一つずつ消している。

 戦場を凍らせて、盤面を自分のものにしていく。

 

「へえ。紅魔館の人形、嫌な戦い方するぜ」

 

 チルノも黙ってはいない。

 

 氷の花のような弾幕を開いた。

 花弾はまっすぐ飛ばない。

 止まり、落ち、割れ、跳ねる。

 

 美しい。

 そして、普通に危ない。

 

 花弾のひとつがErAZ-762の屋根に落ちた。

 

 鈍い音。

 屋根が浅くへこむ。

 

 チルノの動きが一瞬止まる。

 大妖精が後輪の陰で息を呑む。

 

 魔理沙にも、その沈黙の意味は分かった。

 

 守りたいものに、自分の弾幕で傷をつける。

 それでも、やめれば奪われる。

 

 子供っぽい勝負に見えて、やっていることは結構きつい。

 

「チルノちゃん、車に当てないで!」

 

「当てない!」

 

 チルノは即答した。

 今回は「たぶん」とは言わなかった。

 

 だからこそ、魔理沙は少しだけ顔をしかめた。

 

 本気になったチルノは、雑さが消えるわけではない。

 雑さごと強くなる。

 

 クレイスが前へ出た。

 

 車体を背に守るのではなく、弾幕の中心へ入る。

 危険を遠ざけるのではない。

 危険の中に入り、内側から裂く。

 

«СПОСОБ:ВНУТРЕННИЙ ПЕРЕХВАТ

方式:内側迎撃

 

ДОПУСТИМЫЙ РИСК:ПОВЫШЕН

許容リスク:上昇»

 

「冷却線、展開」

 

 白い線が水面を走った。

 

 氷の花弾がその線に触れるたび、速度を落とす。

 止まらない。

 だが、遅くなる。

 

 その遅れをクレイスが撃つ。

 氷針が弾を砕くのではない。

 弾同士をぶつけて、空中で折っていく。

 

 霧の泉に氷片の雨が降った。

 葦が凍り、見物妖精が三匹まとめて転がる。

 

 ErAZ-762の側面にも白い傷が増えた。

 

 魔理沙は、ようやく分かった。

 

 クレイスは車を無傷で残す気などない。

 全壊させずに確保する気なのだ。

 

 紅魔館らしいと言えば、まあ紅魔館らしい。

 持ち帰る家具に傷がつくより、持ち帰れない方を嫌う連中である。

 たぶん。

 

 チルノが氷片の雨を抜けた。

 

「あたいの勝ち!」

 

 氷塊がクレイスの胸元へ迫る。

 

 クレイスは受けない。

 足元だけを凍らせ、チルノの着地点を半歩ずらす。

 

 氷塊は肩をかすめ、黒い従者服を裂いた。

 

「当たった!」

 

「表層接触。戦闘機能への影響なし」

 

「当たったら当たりだ!」

 

「有効判定外です」

 

「ずるい!」

 

 魔理沙はそこで少し笑った。

 笑ったが、目は離さなかった。

 

 今の一撃は浅い。

 だが、チルノは届いた。

 

 クレイスもそれを分かっている。

 

 次の瞬間、クレイスの冷気が変わった。

 

「制圧線、展開」

 

 声が少し低い。

 

 霧の泉に白い亀裂が走る。

 水面の氷が、チルノのものからクレイスのものへ塗り替えられていく。

 

 魔理沙は思わず箒を握り直した。

 

 これは弾幕というより、陣取りだ。

 派手な弾を撃っているようで、実際には場所を奪っている。

 

 チルノの足場が割れる。

 上には氷膜。

 左右には氷枠。

 下には冷却線。

 

 閉じられた。

 

「閉じ込めたな!」

 

「はい」

 

「はいじゃない!」

 

 チルノは自分の周囲を爆ぜさせた。

 

 足場ごと砕き、白い粉塵を撒く。

 視界が消える。

 

 白の中から、チルノが突っ込んでくる。

 真正面。

 速い。

 

 氷塊がクレイスの胸元へ来る。

 クレイスは避けない。

 氷塊に右手を当て、冷気で支配を奪おうとする。

 

 一瞬、氷と氷が拮抗した。

 

 チルノの目が輝く。

 勝てる、と思った顔だった。

 

 魔理沙にはそれが見えた。

 

 次の瞬間、クレイスの左手が背後の霧を凍らせた。

 細い氷帯がチルノの背中へ回り込む。

 

 押す。

 横へ。

 勝負範囲の外へ。

 

「またそれか!」

 

 チルノは砕こうとする。

 だが遅い。

 

 氷帯が二本、三本と重なる。

 チルノの足が線の外へ出た。

 

「範囲外です」

 

「なし!」

 

「勝利条件を満たしました」

 

「認めない!」

 

 チルノが追加の氷弾をばら撒いた。

 

 敗北後の妖精ほど危ないものはない。

 人間で言えば、負けを認めない酔っぱらいに刃物を持たせたようなものだ。

 

 なぜそんな比喩を思いついたのか、魔理沙は自分でも少し嫌だった。

 

 クレイスの弾幕が変わる。

 

«ПОБЕДНОЕ УСЛОВИЕ:ДОСТИГНУТО

勝利条件:達成

 

ЦЕЛЬ:НЕ ПРЕКРАЩАЕТ АТАКУ

対象:攻撃継続

 

РЕЖИМ:ПОДАВЛЕНИЕ

状態:制圧»

 

 氷針が空中に刺さる。

 

 霧そのものを凍らせ、透明な杭にしている。

 チルノの動きが止まった。

 

 右も左も上も下も、逃げ道が薄く塞がれる。

 

 クレイスの氷弾が、チルノの額の前で止まった。

 触れる寸前。

 霜がチルノの前髪を白くする。

 

「有効弾判定」

 

「あたい、まだ当たってない!」

 

「撃てます」

 

 無表情だった。

 

 魔理沙は小さく息を吐いた。

 

「おいおい。今のは結構えげつないな」

 

 大妖精は後輪の陰で固まっていた。

 

 チルノにもうやめてほしい。

 でも、ここで折れてほしくない。

 その二つが顔にそのまま出ている。

 

 チルノは震えていた。

 怖がっているのではない。

 悔しさで震えている。

 

「もう一回!」

 

 やっぱり言った。

 

 魔理沙は少しだけ肩をすくめた。

 

 チルノは、こういうやつだ。

 

 クレイスは構えを変えた。

 

 右手に五つ、左手に七つの氷弾が浮かぶ。

 出力が上がった。

 

«ВЫХОД:ПОВЫШЕН

出力:上昇

 

СХЕМА:ПЕРЕКРЁСТНОЕ ЗАМЫКАНИЕ

術式:交差封鎖

 

ЦЕЛЬ:СНИЗИТЬ ПОДВИЖНОСТЬ ДО МИНИМУМА

目的:機動力を最小化»

 

「次で止めます」

 

「止められるもんなら止めてみろ!」

 

 チルノが突っ込む。

 

 クレイスの氷弾が上下左右から回り込む。

 魔理沙の目には、弾幕というより、動く檻に見えた。

 

 チルノは砕く。

 砕いた氷は霧になり、その霧がまたクレイスの弾になる。

 

 破壊しても減らない。

 むしろ、砕くほど周囲の冷気がクレイス側へ傾く。

 

「なんで減らないんだよ!」

 

「再利用しています」

 

「ずるい!」

 

「効率です」

 

 チルノが上へ逃げる。

 

 薄い氷膜を破る。

 その裏から氷帯が出て、羽の動きを狙う。

 

「そこ狙うのかよ!」

 

「機動部位です」

 

 魔理沙は眉を上げた。

 

 子供相手の手加減ではない。

 殺しはしない。

 けれど、勝つための場所は普通に潰す。

 

 チルノが姿勢を崩す。

 落ちる前に水面を凍らせ、足場を作る。

 

 そこへクレイスが踏み込んだ。

 

 近い。

 

 右手の氷弾がチルノの額へ向く。

 左手の氷帯が背後を塞ぐ。

 冷却線が足元を奪う。

 

 チルノは笑った。

 両手を広げる。

 自分の周囲ごと爆ぜさせる気だった。

 

「やってやる!」

 

「許容」

 

 短い一言。

 

 次の瞬間、チルノの冷気爆発とクレイスの交差封鎖がぶつかった。

 

 霧の泉が白く弾ける。

 氷片が空を走り、凍った水面が蜘蛛の巣のように割れた。

 

 ErAZ-762の窓が震える。

 古い前照灯の片方に、ひびが入る。

 屋根のへこみが少し深くなる。

 

 周囲の妖精たちはまとめて吹き飛んだ。

 笑い声と悲鳴が混じる。

 

 大妖精だけは必死に車体の陰へしがみついていた。

 

 白煙の中で、二つの影が止まる。

 

 チルノの氷塊は、クレイスの顔の横。

 クレイスの氷弾は、チルノの額の前。

 

 互いに寸止め。

 

 だが、クレイスの氷帯はもうチルノの背後を塞ぎ、足元の冷却線は退路を奪っていた。

 

 魔理沙は、そこまで見て結論を出した。

 

 勝負なら、クレイスが取っている。

 気持ちなら、チルノはまだ負けていない。

 

 だから面倒なのだ。

 

 弾幕ごっこは、勝敗だけで終わってくれない。

 人間も妖精も妖怪も、勝った後に納得という余計な荷物を要求する。

 

 実に幻想郷らしい、迷惑な美徳である。

 

「……まだ、負けてない」

 

 チルノが歯を見せた。

 

「戦術的優位を確保」

 

「負けてない!」

 

「継続可能です」

 

「じゃあ続ける!」

 

「対応します」

 

 魔理沙は口を開きかけた。

 

 そろそろ止めるか。

 

 そう思った瞬間だった。

 

 泉の水面が、一瞬だけ平らになった。

 

 波が消えた。

 霧が止まった。

 妖精たちの笑い声が、途中で切れた。

 

 誰かが来る、という気配ではなかった。

 もっと嫌なものだった。

 

 空そのものが、上から踏まれたような圧力。

 

 魔理沙が最初に顔を上げた。

 

「……おい」

 

 箒を握る手に力が入る。

 

「なんか来るぞ」

 

 チルノとクレイスの勝負は危ないが、まだ勝負だった。

 今降ってくるものは違う。

 勝敗ではなく、場そのものを壊す気配だった。

 

 クレイスの内部警告が、音もなく赤に変わった。

 

«ВЫСОКАЯ ДУХОВНАЯ РЕАКЦИЯ:ПРИБЛИЖАЕТСЯ

高霊力反応:接近

 

КАНДИДАТ:ХАКУРЭЙ РЭЙМУ

識別候補:博麗霊夢

 

УРОВЕНЬ УГРОЗЫ:ВЫСОКИЙ→КРАЙНЕ ВЫСОКИЙ

脅威段階:高→極高

 

ОБЫЧНАЯ ОБРАБОТКА ДУЭЛИ:НЕПРИГОДНА

通常決闘処理:継続不可»

 

 チルノの額前で止まっていた氷弾が、何も触れていないのに割れた。

 次に、クレイスの冷却線が砕けた。

 最後に、泉の霧が中央から押し開かれた。

 

 赤白の影が落ちてきた。

 

 霊夢だった。

 

 髪は乱れ、リボンは傾き、手にはスマホ。

 

 その表情は、怒っているというより、生活そのものを焼かれた人間の顔だった。

 

 霊夢の胸の中には、金額の問題だけではないものが渦巻いていた。

 

 少ない。

 それでも自分のものだった。

 やっと残っていたものだった。

 

 それが、画面の中で何の音もなく消えた。

 

 妖怪なら殴れる。

 怨霊なら祓える。

 異変なら解決できる。

 

 だが、画面の向こうの誰かは見えない。

 

 その見えなさが、霊夢の怒りを余計に濁らせていた。

 

「霊夢?」

 

 魔理沙が声をかける。

 

「どうしたんだ?」

 

 霊夢は答えない。

 

 視線が、クレイスに止まった。

 

 黒い服。

 白い髪。

 赤い×印のある黒い瞳。

 ロシア語を書く人形。

 

 霊夢の中で、ばらばらの怒りが不幸な形に結びつく。

 

「犯人」

 

 声は低かった。

 

「ここにいた」

 

 チルノが首をかしげる。

 

「なんの犯人?」

 

 クレイスは答えない。

 霊夢の霊力は、すでに会話の形をしていなかった。

 

 左袖の内側で、紅魔館への緊急信号が赤く点滅する。

 

 詳細なし。

 危険あり。

 即時対応。

 

 それだけで十分だった。

 

「総員、車体から離脱してください」

 

「え、あたいも?」

 

「あなたもです」

 

 チルノは言い返そうとした。

 だが、霊夢を見て言葉が止まる。

 

 いつもの霊夢なら、怖いが分かりやすい。

 怒っている時も、面倒くさそうな時も、だいたい霊夢だった。

 

 今の霊夢は、少し違った。

 目の前の相手を見ているのに、別の何かを殴ろうとしている。

 

 チルノは本能で、それが嫌だった。

 

「待て霊夢。何があったか知らんが、まず話を」

 

 魔理沙が前へ出る。

 

 霊夢の周囲に札が浮いた。

 

 浮いた、というより、空間の方が「そこに札がある」と後から認めたような出方だった。

 

 赤と白の札が、霧の中へ重なる。

 ひとつ、ふたつ、十、二十。

 

 数える意味がすぐに消えた。

 

 魔理沙の顔から、笑みが完全に消える。

 

「夢想封印」

 

 霊夢が低く言った。

 

 次の瞬間、光が開いた。

 

 光は撃たれたのではない。

 逃げ道を先に潰すように、周囲へ現れた。

 

 上、横、背後、車体の前。

 妖精たちの隠れていた葦の陰。

 大妖精が伏せた後輪の上。

 

 霊力の弾は、まっすぐ飛ばない。

 曲がる。

 追う。

 避けた先にいる。

 防いだ場所を嫌って、別の角度から入ってくる。

 

 弾幕が強いのではない。

 弾幕の方が、こちらの防御を読んでいる。

 

「あ、あたいの氷が!?」

 

 チルノの氷弾は、正面から夢想封印にぶつかった。

 

 一瞬だけ、青と白が噛み合う。

 次の瞬間、青が砕けた。

 

 さっきまでクレイスと押し合っていた冷気が、まるで意味を持たない。

 

 チルノの胸に、初めて小さな穴が空いた。

 

 強い。

 では足りない。

 

 勝負になっていない。

 

「後退してください!」

 

 クレイスが車体前に氷壁を三枚重ねる。

 

 一枚目は、触れる前に割れた。

 二枚目は、中心を貫かれた。

 三枚目は、壁として完成する前に表面から削られた。

 

«ЗАЩИТА:ПРОБИТА

防御:突破

 

ОБЫЧНАЯ ЗАЩИТА:НЕПРИГОДНА

通常防御:不適合»

 

 クレイスは即座に受け止める判断を捨てた。

 

 受けるな。

 逸らせ。

 散らせ。

 守る対象を絞れ。

 

 ErAZ-762。

 大妖精。

 周辺妖精。

 チルノ。

 

 自己防御は後回し。

 

 彼は車体の前へ踏み込み、氷板を斜めに展開した。

 

 夢想封印のひとつが逸れ、霧の泉の岸をえぐった。

 土と氷と水草がまとめて吹き上がる。

 

 水面が裂け、泥が底から巻き上がった。

 

 妖精たちが悲鳴を上げる。

 今度は笑っていない。

 

 見物席が危険になったのではない。

 見物席という概念が消えかけていた。

 

「霊夢! それは洒落になってない!」

 

 魔理沙が岩から飛び退いた。

 

 返事はない。

 

 夢想封印の光はさらに増えた。

 葦の陰にいた妖精が吹き飛び、木の上の妖精が枝ごと落ち、看板の後ろにいた妖精が看板ごと霧の上を転がる。

 

 直撃ではない。

 余波だった。

 

「うわああああ!」

「なんで急に巫女ー!」

「弾幕ごっこってこういうのだっけ!?」

「違う! これ退治だよ!」

 

 大妖精が後輪の陰で伏せる。

 

 その頭上を、光が音もなく通過した。

 通過しただけで、ErAZ-762の側面に白い傷が走る。

 

 次の弾が、後部扉の蝶番を直撃した。

 

 金属が嫌な音を立てる。

 扉が半分外れ、斜めにぶら下がった。

 

「あ……あたいの基地ー!」

 

 チルノが飛び出す。

 

 氷の羽が大きく広がった。

 

 普段の雑な弾幕ではない。

 自分の基地を守るための、本気の氷だった。

 

 だが、さっきまでとは違う。

 

 怒りだけではない。

 焦りが混じっていた。

 

 自分がつけた傷とは違う。

 これは奪われる傷だった。

 

「やめろー!」

 

 チルノの氷弾が夢想封印と衝突する。

 

 白。

 青。

 白。

 

 最後に残ったのは、白だった。

 

「うそっ!?」

 

 チルノの体が後ろへ弾かれる。

 

 クレイスが腕を伸ばし、氷の帯で落下軌道を捕まえた。

 

「捕捉」

 

「助かった! でも今のは勝負じゃない!」

 

「同意します」

 

 ErAZ-762の前輪側に、夢想封印の一発が落ちた。

 

 直撃ではない。

 それでも、衝撃で車体が跳ねる。

 

 古いタイヤが一つ外れかけ、車体が斜めに沈んだ。

 窓ガラスには蜘蛛の巣状のひびが走った。

 側面の「さいきょうきち」の文字は、半分ほど霜と傷で読めなくなっていた。

 

 チルノの顔から血の気が引く。

 

「あ……」

 

 言葉が出なかった。

 

 大妖精はその顔を見て、胸が痛くなった。

 車が壊れていることより、チルノがそれを見てしまったことがつらかった。

 

 でも、今は慰めに行けない。

 行けば巻き込まれる。

 

 それが分かる自分も嫌だった。

 

 霊夢が、さらに一歩前へ出た。

 

 その一歩で、空気が沈んだ。

 

 魔理沙の顔が強張る。

 

「まずい」

 

 それは夢想封印の続きではなかった。

 

 霊夢の輪郭が薄くなる。

 

 そこにいる。

 なのに、そこにいない。

 

 水面の反射。

 霧の向こう。

 札の中心。

 クレイスの背後。

 チルノの上空。

 魔理沙の視界の端。

 

 霊夢の気配が、同時に立ち上がる。

 

「どこ!?」

 

 チルノが叫ぶ。

 

 大妖精が震えた。

 

「見えない……!」

 

 クレイスの内部視覚も同じ答えを返す。

 

«ОБЪЕКТ:ХАКУРЭЙ РЭЙМУ

対象:博麗霊夢

 

ПОЗИЦИЯ:МНОЖЕСТВЕННАЯ

位置:複数

 

ОБЫЧНОЕ ПРИЦЕЛИВАНИЕ:НЕДЕЙСТВИТЕЛЬНО

通常照準:無効»

 

 魔理沙が低く言った。

 

「夢想天生……」

 

 弾幕ごっこの中にあるのに、弾幕ごっこの外側にある力。

 

 撃つ。

 避ける。

 当てる。

 防ぐ。

 

 そういう手順から、霊夢だけがふっと外れていた。

 

 こちらの弾幕は届かない。

 届く前に、霊夢がそこにいない。

 

 だが霊夢の弾幕は届く。

 届く場所に、こちらがいる。

 

 理屈が逆だった。

 

 クレイスは氷針を一本だけ放った。

 攻撃ではない。

 位置測定用。

 

 氷針は霊夢へ向かった。

 次の瞬間、霊夢の横を通り過ぎた。

 

 霊夢が避けたようには見えなかった。

 最初から当たらない場所を、世界の方が選んだようだった。

 

«ИЗМЕРИТЕЛЬНЫЙ СНАРЯД:НЕ ПОПАЛ

測定弾:命中せず

 

ВЫВОД:ОБЫЧНОЕ ПРИЦЕЛИВАНИЕ НЕДЕЙСТВИТЕЛЬНО

結論:通常照準無効»

 

「照準不能」

 

「でしょうね! それ、そういうやつだ!」

 

 夢想天生の状態で放たれる夢想封印は、さっきとはまるで違った。

 

 ただ強いのではない。

 止める手段の候補が、最初から削られていく。

 

 魔理沙が星弾を放つ。

 

 霧の泉が一瞬、星空の底のように輝いた。

 

 だが霊夢の霊力弾は、その星の間を抜けた。

 曲がり、割り込み、魔理沙の肩口をかすめる。

 

「くっそ、見えてるのに避けづらい!」

 

 岩が砕けた。

 水面が割れた。

 霧が吹き飛んだ。

 

 夢想封印の一発が、霧の泉の中央へ落ちた。

 

 水面が陥没した。

 次の瞬間、泥水と氷と水草が柱のように吹き上がった。

 

 泉の形が変わるほどの衝撃だった。

 岸辺が崩れ、倒れた葦が水に飲まれる。

 

 妖精たちはもう笑っていない。

 必死に逃げていた。

 

 ErAZ-762の屋根に、霊力弾の余波が叩きつけられた。

 

 屋根が大きくへこむ。

 前面ガラスが割れ、内側へ白い破片が散った。

 片側の扉が完全に外れ、水辺に落ちた。

 

 車体は斜めに沈み、前輪の片方が泥に埋まった。

 

 半壊。

 

 そう呼んで差し支えない姿だった。

 

 チルノは声を出せなかった。

 

 自分の基地が、目の前で壊れていく。

 怒りたいのに、霊夢が強すぎて怒りの置き場がない。

 

 悔しいのに、どうにもならない。

 

 その感情が、チルノの小さな体の中で暴れていた。

 

 クレイスは車体前へさらに踏み込んだ。

 

「防御線、再構成」

 

 氷ではなく、冷気の流れそのものを壁にする。

 薄い。

 だが広い。

 

 霊力弾がそこを通るたび、速度がわずかに落ちる。

 

 完全には止まらない。

 

 落ちた一瞬を、チルノが横から殴った。

 

「今だー!」

 

 チルノの氷が霊力弾の軌道をずらす。

 

 ずれた弾はErAZ-762の残った屋根をかすめ、背後の木に突き刺さった。

 木が裂けた。

 

 車は、それ以上の直撃だけは免れた。

 

「守った……!」

 

 チルノの声は震えていた。

 勝ち誇る声ではなかった。

 壊れかけたものに、まだ名前が残っていることを確認する声だった。

 

「継続してください」

 

「えらそう!」

 

「事実です」

 

 だが、長くは持たない。

 

 霊夢はまだ狙いを定めてすらいない。

 錯乱したまま力を振るっているだけだ。

 

 それだけで、クレイスとチルノと魔理沙の三人が、車両と妖精たちを守るので手いっぱいになっていた。

 

 幻想郷最強とは、勝てる相手という意味ではない。

 勝負の形を保ってくれる時だけ、勝負に見える相手という意味だった。

 

 魔理沙が歯を食いしばる。

 

 霊夢を止めたい。

 だが、正面から力で止める相手ではない。

 

 ふざけた軽口で止まる状態でもない。

 

「霊夢! いい加減にしろ! 誰も話せないだろ!」

 

 霊夢は、ようやく魔理沙を見た。

 

 焦点が少しだけ戻る。

 だが、まだ浅い。

 

「犯人を退治する」

 

「犯人かどうかも分かってない!」

 

「分かるわよ」

 

 霊夢の声が低くなる。

 

「黒い服。ロシア語。冷たい目」

 

 クレイスの内部処理が、意味不明な結合を検出する。

 

«ВВОД:ЧЁРНАЯ ОДЕЖДА、РУССКИЙ ЯЗЫК、ХОЛОДНЫЙ ВЗГЛЯД

入力:黒服、ロシア語、冷たい目

 

ВЫВОД:СОПОСТАВЛЕНИЕ НЕВОЗМОЖНО

結論:照合不能»

 

「確認不能です」

 

「とぼける気?」

 

「該当する犯行記録は存在しません。対象事案の内容を提示してください」

 

「ブラックスーツよ!」

 

 霊夢の声が跳ねた。

 

 その言葉だけで、札の一枚が震える。

 

 クレイスは一瞬だけ沈黙した。

 

 単語としては理解できる。

 黒。

 服。

 

 しかし、それが霊夢の口座喪失とどう結びつくのかは不明だった。

 

«ВВОД:BLACKSUIT

入力:BlackSuit

 

БУКВАЛЬНЫЙ ВАРИАНТ:ЧЁРНАЯ ОДЕЖДА

直訳候補:黒い服

 

ВАРИАНТ ОРГАНИЗАЦИИ:НЕИЗВЕСТНО

組織名候補:不明»

 

「黒い服装を指す表現ですか」

 

「違う!」

 

 霊夢の札がまた揺れた。

 

 クレイスの前面に薄い氷膜が走る。

 攻撃ではない。

 霊夢の霊力が、会話の途中でまた暴発しかけたからだった。

 

 大妖精が、壊れかけた車体の陰で息を飲む。

 

「チルノちゃん、下がって……」

 

「やだ。あいつ、まだクレイスに撃つ気だ」

 

 チルノは氷を構えたまま、霊夢を睨んでいた。

 

 言葉の意味は分かっていない。

 だが、霊夢が何かを決めつけて、クレイスへ向かっていることだけは分かる。

 

 妖精にとっては、それで十分だった。

 

「黒い服がなんだっていうのよ! あたいだって青い服だぞ!」

 

「チルノちゃん、今そこじゃない!」

 

「じゃあどこだよ!」

 

「たぶん、そこも違う!」

 

 魔理沙が眉を寄せる。

 

 黒い服。

 ロシア語。

 ブラックスーツ。

 スマホの残高。

 

 普通ならつながらない。

 だが、聞きかじりなら嫌な形でつながる。

 

「おい霊夢。そのブラックスーツって、服の話じゃないな?」

 

「当たり前でしょ」

 

 霊夢の目がぎらりと動く。

 

「二年前に、外の世界でニコ動を止めた連中よ。ロシアのハッカー集団だって聞いた。黒い名前。黒い服。ロシア語。こいつじゃない」

 

「待て。後半が雑すぎる」

 

 魔理沙が両手を上げた。

 

「二年前のニコ動の件と、霊夢の口座を空にしたやつが同じとは限らない。ましてクレイスとは限らないぜ」

 

「限るわよ」

 

「なんでだよ」

 

「怪しいから」

 

「推理が賽銭箱より空っぽだぞ」

 

「うるさい!」

 

 霊夢の札がまた光った。

 

«ОБНОВЛЕНИЕ ДАННЫХ

入力情報更新

 

BLACKSUIT:ВОЗМОЖНЫЙ ТЕРМИН ВНЕШНЕГО КИБЕРИНЦИДЕНТА

BlackSuit:外部サイバー攻撃関連語の可能性

 

СВЯЗЬ:НЕ ПОДТВЕРЖДЕНА

関連性:未確認»

 

「魔理沙さん。補足を要求します」

 

「つまりな、霊夢は二年前の外の世界のサイバー攻撃の話と、お前のロシア語と黒服を、怒りで同じ箱に突っ込んでる」

 

「分類箱が破損しています」

 

「それはそう」

 

 チルノが横から叫ぶ。

 

「箱なら凍らせればいいのか!?」

 

「違う!」

 

 魔理沙と大妖精が同時に言った。

 

 クレイスは霊夢へ向き直る。

 

「僕には身に覚えがありません!」

 

「犯人もそう言う!」

 

「犯人ではありません!」

 

「それも犯人が言う!」

 

「この形式では否定が成立しません!」

 

「成立させなさいよ!」

 

 霊夢の声が震えた。

 

 怒りだけではなかった。

 

「だって、全部よ」

 

 声が少しだけ小さくなる。

 

「全部なくなってるのよ」

 

 魔理沙の表情が変わった。

 

「……全部か?」

 

 霊夢は黙ってスマホを突き出した。

 

 魔理沙が画面を見て、言葉を止める。

 

 残高ゼロ。

 見覚えのない履歴。

 見覚えのない承認。

 見覚えのない送金。

 

 霊夢が怒る理由としては、十分すぎた。

 妖怪退治より切実な場合もある。

 

 食べ物とお茶の問題である。

 

「そりゃ……きついな」

 

 霊夢は奥歯を噛みしめた。

 

「賽銭もないのに、口座まで空っぽって何よ!!」

 

 場の空気が静まった。

 

 金の重みは妖精には分からない。

 でも、霊夢の顔が笑いごとではないことくらいは分かった。

 

 クレイスも動かない。

 彼の内部で、脅威判定と精神的混乱の判定が並んでいた。

 

«ОБЪЕКТ:ХАКУРЭЙ РЭЙМУ

対象:博麗霊夢

 

СОСТОЯНИЕ:ФИНАНСОВАЯ ПОТЕРЯ、ПСИХИЧЕСКОЕ СМЯТЕНИЕ

状態:財産喪失、精神的混乱

 

ВЕРОЯТНОСТЬ ОШИБОЧНОГО ОБВИНЕНИЯ:ВЫСОКАЯ

誤認可能性:高»

 

「僕は、あなたの口座に関与していません」

 

「証拠は?」

 

「関与していないことの証明は困難です」

 

「ほら!」

 

「ただし、僕に資金移動能力はなく、対象口座情報も命令記録もありません」

 

「知らないうちにやったんじゃないの?」

 

「その場合、僕ではありません」

 

「じゃあ誰なのよ!」

 

「不明です」

 

「役に立たない!」

 

「おっしゃる通りです!」

 

「そこは否定しなさいよ!」

 

 魔理沙が深く息を吐いた。

 

「霊夢、今のはこいつが正しい。腹立つくらい正しい。怪しいのと犯人は別だ」

 

「そんな便利なことある!?」

 

「幻想郷には山ほどある」

 

 その時、霧の向こうから声がした。

 

「呼んだかしら」

 

 レミリアだった。

 

 その後ろに咲夜がいる。

 

 さらに遅れて、妖精メイドが何人か飛んできたが、霊夢を見た瞬間に空中で止まった。

 巻き込まれる未来を本能で感じたらしい。

 

 正しい判断だった。

 

 レミリアは霧の泉の惨状を見た。

 

 えぐれた岸。

 泥で濁った水面。

 散らばる妖精たち。

 煤けた魔理沙。

 青ざめた大妖精。

 怒りと涙の間みたいな顔のチルノ。

 そして、半壊したErAZ-762の前に立つクレイス。

 

「咲夜」

 

「はい」

 

「状況を一文で」

 

「クレイスから緊急信号。博麗の巫女がフィッシング詐欺に遭い、クレイスを犯人と誤認。夢想天生と夢想封印で霧の泉一帯と車両が半壊しました」

 

 レミリアは一秒黙った。

 

「一文で紅魔館の外が嫌になる報告ね」

 

「恐れ入ります」

 

「フィッシング詐欺って何?」

 

「外の世界の、釣りではない釣りです」

 

「外の世界は釣りすら面倒なのね」

 

 霊夢がレミリアを睨んだ。

 

「あんたのところの従者でしょ」

 

「ええ。だから分かるわ。クレイスは面倒な従者だけれど、あなたの口座を盗む趣味はない」

 

「なんで言い切れるのよ」

 

 咲夜が霊夢のスマホ画面を確認した。

 

 表情は変えないが、目だけは少し鋭くなる。

 

「これは外の世界の詐欺に近いわね。少なくとも、クレイスのやり方じゃない」

 

「クレイスのやり方って何よ」

 

「仮にクレイスが何かをやるなら、実行記録、分類記録、保守記録、反省記録を残すわ」

 

「否定します」

 

 クレイスが言った。

 

 レミリアが横目で見る。

 

「否定しきれていないわよ」

 

「犯罪行為は行いません」

 

「そこは言えてよかったわ」

 

 魔理沙も霊夢の横に立った。

 

「霊夢。こいつは変なやつだが、金を盗むタイプじゃない。盗むなら部品か車両だ」

 

「車両は借用予定です」

 

「ほらな」

 

「何がほらなのよ!」

 

 チルノが半壊した車体の前で叫んだ。

 

「あたいの基地だぞ!」

 

 その声は、さっきより少し痛かった。

 

 魔理沙は一瞬だけ、言葉に詰まる。

 

「……それも今は置いておけ」

 

 チルノは唇を噛んだが、引いた。

 

 霊夢の目が少しずつ揺れ始める。

 

 怒りの形が崩れ、疲れが見えた。

 

「じゃあ……本当に、こいつじゃないの?」

 

「違うわ」

 

 咲夜が言った。

 

「霊夢、あなたは怒る相手を間違えてる」

 

 レミリアも一歩近づく。

 

「霊夢。怒る相手を間違えると、運命まで間違えるわよ」

 

 霊夢は黙った。

 

 スマホを握る指の力が少し抜ける。

 

 魔理沙が、いつもより柔らかく言った。

 

「まず神社に戻ろうぜ。犯人探しは、それからだ。今ここでクレイスを退治しても、一円も戻らない」

 

「……全部、なくなったのよ」

 

「分かってる」

 

「分かってない」

 

「分かりきれない。でも、今は戻ろうぜ」

 

 霊夢は目を伏せた。

 

 霧の泉に、壊れた車体のきしむ音だけが残った。

 

 やがて霊夢は、小さく息を吐いた。

 

「……本当に、クレイスじゃないの?」

 

「はい」

 

「なんで黒い服なのよ」

 

「制服です」

 

「なんでロシア語なのよ」

 

「仕様です」

 

「なんでそんなに怪しいのよ」

 

「未回答」

 

「そこは回答しろよ」

 

 魔理沙が言った。

 

 霊夢の表情に、ほんの少しだけいつもの苛立ちが戻った。

 それは回復の兆しでもあった。

 

 チルノは急に真剣な顔をした。

 

「あたい、分かった!」

 

 全員がチルノを見る。

 

「フィッシングって、魚を釣るやつだろ! つまり犯人はミスティアだ!」

 

「違う」

 

 魔理沙が即答した。

 

「違うよ!」

 

 大妖精も叫んだ。

 

「誤分類です」

 

 クレイスも言った。

 

 レミリアは額に手を当てる。

 

「幻想郷の情報理解、終わってるわね」

 

「元からです」

 

 咲夜が静かに言った。

 

 魔理沙は煤を払いながら、半壊したErAZ-762を見た。

 

「今日はそこまでにしとけ。巫女の口座が死んだ日に車の借用条件で揉めるのは、絵面がひどい」

 

「死んでない。殺されたのよ」

 

「そこは訂正するのか」

 

「するわよ」

 

 咲夜が小さく頷いた。

 

「霊夢は神社へ連れて帰った方がいいわ。一人にしておくのは危ない」

 

「失礼ね」

 

「夢想天生で全員を巻き込んだ直後よ」

 

「……それは、まあ」

 

 霊夢は言葉を濁した。

 

 それから、クレイスを見た。

 

「悪かったわね」

 

 小さな声だった。

 

「謝罪を受領しました」

 

「硬い」

 

「仕様です」

 

 レミリアも、少しだけ口元を緩めた。

 

「クレイス」

 

「はい、お嬢様」

 

「あなたは今日は霊夢から距離を置きなさい。黒服とロシア語は、今の巫女には刺激が強い」

 

「了解しました」

 

「ひどい言い方ね」

 

 霊夢が言った。

 

 だが否定は弱かった。

 自分でも、少しそう思っていたのだろう。

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