博麗神社の夕方は、妙に静かだった。
霊夢は縁側でスマホを見ていた。
「……え?」
銀行の残高欄には、簡単すぎる数字が出ていた。
0円。
賽銭箱よりも空っぽだった。
「嘘でしょ」
更新しても、数字は変わらない。
もう一度押しても、やはり変わらない。
文明は冷たい。
特に残高表示は、巫女の祈りを聞かない。
通知欄には、見覚えのないログイン、見覚えのない承認、見覚えのない送金履歴が並んでいた。
昨夜、彼女は外の世界から流れてきた妙な案内を開いた。
神社関係の支援金だとか、未受け取りの還付だとか、もっともらしい言葉が並んでいたのだ。
人間は「もらえる」と書かれると弱い。
賽銭の少ない巫女はもっと弱い。
「全部……?」
少ないものが少ないのではない。
少ないものが、全部なくなった。
霊夢はゆっくり立ち上がった。
顔から表情が消えていた。
その無表情は、クレイスの無表情とは違う。
処理のためではない。
怒りが大きすぎて、顔が追いついていないだけだった。
「犯人」
境内の空気が、少し震えた。
「退治する」
次の瞬間、霊夢は空へ飛んだ。
犯人が誰かは分かっていない。
だが、退治だけは決まっていた。
博麗の巫女は、そういう順番で動くことがある。
被害額が全部なら、なおさらだった。
◇
霧の泉では、古い外界車両、ErAZ-762をめぐる勝負が続いていた。
チルノにとって、それは「さいきょうきち」を守る戦いだった。
クレイスにとっては、酒類運搬に使う車両を確保するための制圧戦だった。
弾幕ごっこと呼ぶには、どちらも目が本気すぎる。
魔理沙は少し離れた岩の上で、箒を肩にかけたまま眺めていた。
「……派手にやってるな」
軽く言ったつもりだったが、声は少し乾いていた。
最初に霧の泉を凍らせたのはチルノだった。
水面に白い亀裂が走り、その割れ目から氷弾が跳ね上がる。
正面、斜め下、車体の影、水面の反射。
どこから飛ぶか分からない。
雑だ。
だが、雑だから読みにくい。
魔理沙には分かった。
あれは何も考えていない弾幕ではない。
考えが追いつく前に、感覚で撃っている弾幕だ。
厄介なのは、チルノが車体を守ろうとしていることだった。
守ろうとしているのに、弾幕は容赦なく車体のそばをかすめる。
一発がErAZ-762の後部扉に当たり、古い塗装を削った。
「さいきょうきち」の文字が少し欠ける。
「あっ!」
チルノの顔が一瞬変わった。
その表情を見て、魔理沙は苦笑しかけた。
笑えなかった。
あれは、ただの廃車ではないのだ。
妖精が名前を書いた時点で、もう城になっている。
クレイスはそこを見ていた。
表情は変わらない。
だが、動きが変わった。
«РЕЖИМ ДУЭЛИ:АКТИВЕН
決闘処理:起動
ЦЕЛЬ:ЧИРНО
対象:チルノ
ОГРАНИЧЕНИЕ:НЕ ДОПУСТИТЬ ПОЛНОГО РАЗРУШЕНИЯ ERAZ-762
制限:ErAZ-762の全壊を防ぐ»
「全壊って言うな!」
「軽微損傷は許容範囲です」
「許容するな!」
氷塊が飛ぶ。
クレイスは避けない。
右手を上げ、氷塊の回転だけを変える。
魔理沙の目には、それが妙に嫌な技に見えた。
力で弾き返していない。
弾の勢いを殺さず、方向だけ殺している。
当たるはずのものが、当たらない場所へ流される。
「相手じゃなくて、弾の行き先を殺してるのか」
その間にも、氷針が水柱の内側から走り、チルノの逃げ道を切る。
見物していた妖精の一匹が頭上をかすめられ、看板の裏へ飛び込んだ。
看板ごと凍った。
「出してー!」
「見物席が冷蔵庫になった!」
「すごーい!」
妖精たちは懲りない。
だから妖精なのだろう。
便利な言葉である。
大抵の無謀はそれで片づく。
チルノは氷針の隙間を突っ切った。
小さく、速く、怖がらない。
魔理沙は少し目を細める。
チルノは弱くない。
弱いどころか、あの無謀さはかなり面倒だ。
普通なら退く場所で退かない。
普通なら怖がる密度へ、笑って飛び込む。
クレイスの弾幕は、それを正面から潰さない。
霧に氷枠を作り、足場を割り、冷却線で水面の支配を奪っていく。
チルノの動きを止めるというより、チルノの行ける場所を一つずつ消している。
戦場を凍らせて、盤面を自分のものにしていく。
「へえ。紅魔館の人形、嫌な戦い方するぜ」
チルノも黙ってはいない。
氷の花のような弾幕を開いた。
花弾はまっすぐ飛ばない。
止まり、落ち、割れ、跳ねる。
美しい。
そして、普通に危ない。
花弾のひとつがErAZ-762の屋根に落ちた。
鈍い音。
屋根が浅くへこむ。
チルノの動きが一瞬止まる。
大妖精が後輪の陰で息を呑む。
魔理沙にも、その沈黙の意味は分かった。
守りたいものに、自分の弾幕で傷をつける。
それでも、やめれば奪われる。
子供っぽい勝負に見えて、やっていることは結構きつい。
「チルノちゃん、車に当てないで!」
「当てない!」
チルノは即答した。
今回は「たぶん」とは言わなかった。
だからこそ、魔理沙は少しだけ顔をしかめた。
本気になったチルノは、雑さが消えるわけではない。
雑さごと強くなる。
クレイスが前へ出た。
車体を背に守るのではなく、弾幕の中心へ入る。
危険を遠ざけるのではない。
危険の中に入り、内側から裂く。
«СПОСОБ:ВНУТРЕННИЙ ПЕРЕХВАТ
方式:内側迎撃
ДОПУСТИМЫЙ РИСК:ПОВЫШЕН
許容リスク:上昇»
「冷却線、展開」
白い線が水面を走った。
氷の花弾がその線に触れるたび、速度を落とす。
止まらない。
だが、遅くなる。
その遅れをクレイスが撃つ。
氷針が弾を砕くのではない。
弾同士をぶつけて、空中で折っていく。
霧の泉に氷片の雨が降った。
葦が凍り、見物妖精が三匹まとめて転がる。
ErAZ-762の側面にも白い傷が増えた。
魔理沙は、ようやく分かった。
クレイスは車を無傷で残す気などない。
全壊させずに確保する気なのだ。
紅魔館らしいと言えば、まあ紅魔館らしい。
持ち帰る家具に傷がつくより、持ち帰れない方を嫌う連中である。
たぶん。
チルノが氷片の雨を抜けた。
「あたいの勝ち!」
氷塊がクレイスの胸元へ迫る。
クレイスは受けない。
足元だけを凍らせ、チルノの着地点を半歩ずらす。
氷塊は肩をかすめ、黒い従者服を裂いた。
「当たった!」
「表層接触。戦闘機能への影響なし」
「当たったら当たりだ!」
「有効判定外です」
「ずるい!」
魔理沙はそこで少し笑った。
笑ったが、目は離さなかった。
今の一撃は浅い。
だが、チルノは届いた。
クレイスもそれを分かっている。
次の瞬間、クレイスの冷気が変わった。
「制圧線、展開」
声が少し低い。
霧の泉に白い亀裂が走る。
水面の氷が、チルノのものからクレイスのものへ塗り替えられていく。
魔理沙は思わず箒を握り直した。
これは弾幕というより、陣取りだ。
派手な弾を撃っているようで、実際には場所を奪っている。
チルノの足場が割れる。
上には氷膜。
左右には氷枠。
下には冷却線。
閉じられた。
「閉じ込めたな!」
「はい」
「はいじゃない!」
チルノは自分の周囲を爆ぜさせた。
足場ごと砕き、白い粉塵を撒く。
視界が消える。
白の中から、チルノが突っ込んでくる。
真正面。
速い。
氷塊がクレイスの胸元へ来る。
クレイスは避けない。
氷塊に右手を当て、冷気で支配を奪おうとする。
一瞬、氷と氷が拮抗した。
チルノの目が輝く。
勝てる、と思った顔だった。
魔理沙にはそれが見えた。
次の瞬間、クレイスの左手が背後の霧を凍らせた。
細い氷帯がチルノの背中へ回り込む。
押す。
横へ。
勝負範囲の外へ。
「またそれか!」
チルノは砕こうとする。
だが遅い。
氷帯が二本、三本と重なる。
チルノの足が線の外へ出た。
「範囲外です」
「なし!」
「勝利条件を満たしました」
「認めない!」
チルノが追加の氷弾をばら撒いた。
敗北後の妖精ほど危ないものはない。
人間で言えば、負けを認めない酔っぱらいに刃物を持たせたようなものだ。
なぜそんな比喩を思いついたのか、魔理沙は自分でも少し嫌だった。
クレイスの弾幕が変わる。
«ПОБЕДНОЕ УСЛОВИЕ:ДОСТИГНУТО
勝利条件:達成
ЦЕЛЬ:НЕ ПРЕКРАЩАЕТ АТАКУ
対象:攻撃継続
РЕЖИМ:ПОДАВЛЕНИЕ
状態:制圧»
氷針が空中に刺さる。
霧そのものを凍らせ、透明な杭にしている。
チルノの動きが止まった。
右も左も上も下も、逃げ道が薄く塞がれる。
クレイスの氷弾が、チルノの額の前で止まった。
触れる寸前。
霜がチルノの前髪を白くする。
「有効弾判定」
「あたい、まだ当たってない!」
「撃てます」
無表情だった。
魔理沙は小さく息を吐いた。
「おいおい。今のは結構えげつないな」
大妖精は後輪の陰で固まっていた。
チルノにもうやめてほしい。
でも、ここで折れてほしくない。
その二つが顔にそのまま出ている。
チルノは震えていた。
怖がっているのではない。
悔しさで震えている。
「もう一回!」
やっぱり言った。
魔理沙は少しだけ肩をすくめた。
チルノは、こういうやつだ。
クレイスは構えを変えた。
右手に五つ、左手に七つの氷弾が浮かぶ。
出力が上がった。
«ВЫХОД:ПОВЫШЕН
出力:上昇
СХЕМА:ПЕРЕКРЁСТНОЕ ЗАМЫКАНИЕ
術式:交差封鎖
ЦЕЛЬ:СНИЗИТЬ ПОДВИЖНОСТЬ ДО МИНИМУМА
目的:機動力を最小化»
「次で止めます」
「止められるもんなら止めてみろ!」
チルノが突っ込む。
クレイスの氷弾が上下左右から回り込む。
魔理沙の目には、弾幕というより、動く檻に見えた。
チルノは砕く。
砕いた氷は霧になり、その霧がまたクレイスの弾になる。
破壊しても減らない。
むしろ、砕くほど周囲の冷気がクレイス側へ傾く。
「なんで減らないんだよ!」
「再利用しています」
「ずるい!」
「効率です」
チルノが上へ逃げる。
薄い氷膜を破る。
その裏から氷帯が出て、羽の動きを狙う。
「そこ狙うのかよ!」
「機動部位です」
魔理沙は眉を上げた。
子供相手の手加減ではない。
殺しはしない。
けれど、勝つための場所は普通に潰す。
チルノが姿勢を崩す。
落ちる前に水面を凍らせ、足場を作る。
そこへクレイスが踏み込んだ。
近い。
右手の氷弾がチルノの額へ向く。
左手の氷帯が背後を塞ぐ。
冷却線が足元を奪う。
チルノは笑った。
両手を広げる。
自分の周囲ごと爆ぜさせる気だった。
「やってやる!」
「許容」
短い一言。
次の瞬間、チルノの冷気爆発とクレイスの交差封鎖がぶつかった。
霧の泉が白く弾ける。
氷片が空を走り、凍った水面が蜘蛛の巣のように割れた。
ErAZ-762の窓が震える。
古い前照灯の片方に、ひびが入る。
屋根のへこみが少し深くなる。
周囲の妖精たちはまとめて吹き飛んだ。
笑い声と悲鳴が混じる。
大妖精だけは必死に車体の陰へしがみついていた。
白煙の中で、二つの影が止まる。
チルノの氷塊は、クレイスの顔の横。
クレイスの氷弾は、チルノの額の前。
互いに寸止め。
だが、クレイスの氷帯はもうチルノの背後を塞ぎ、足元の冷却線は退路を奪っていた。
魔理沙は、そこまで見て結論を出した。
勝負なら、クレイスが取っている。
気持ちなら、チルノはまだ負けていない。
だから面倒なのだ。
弾幕ごっこは、勝敗だけで終わってくれない。
人間も妖精も妖怪も、勝った後に納得という余計な荷物を要求する。
実に幻想郷らしい、迷惑な美徳である。
「……まだ、負けてない」
チルノが歯を見せた。
「戦術的優位を確保」
「負けてない!」
「継続可能です」
「じゃあ続ける!」
「対応します」
魔理沙は口を開きかけた。
そろそろ止めるか。
そう思った瞬間だった。
泉の水面が、一瞬だけ平らになった。
波が消えた。
霧が止まった。
妖精たちの笑い声が、途中で切れた。
誰かが来る、という気配ではなかった。
もっと嫌なものだった。
空そのものが、上から踏まれたような圧力。
魔理沙が最初に顔を上げた。
「……おい」
箒を握る手に力が入る。
「なんか来るぞ」
チルノとクレイスの勝負は危ないが、まだ勝負だった。
今降ってくるものは違う。
勝敗ではなく、場そのものを壊す気配だった。
クレイスの内部警告が、音もなく赤に変わった。
«ВЫСОКАЯ ДУХОВНАЯ РЕАКЦИЯ:ПРИБЛИЖАЕТСЯ
高霊力反応:接近
КАНДИДАТ:ХАКУРЭЙ РЭЙМУ
識別候補:博麗霊夢
УРОВЕНЬ УГРОЗЫ:ВЫСОКИЙ→КРАЙНЕ ВЫСОКИЙ
脅威段階:高→極高
ОБЫЧНАЯ ОБРАБОТКА ДУЭЛИ:НЕПРИГОДНА
通常決闘処理:継続不可»
チルノの額前で止まっていた氷弾が、何も触れていないのに割れた。
次に、クレイスの冷却線が砕けた。
最後に、泉の霧が中央から押し開かれた。
赤白の影が落ちてきた。
霊夢だった。
髪は乱れ、リボンは傾き、手にはスマホ。
その表情は、怒っているというより、生活そのものを焼かれた人間の顔だった。
霊夢の胸の中には、金額の問題だけではないものが渦巻いていた。
少ない。
それでも自分のものだった。
やっと残っていたものだった。
それが、画面の中で何の音もなく消えた。
妖怪なら殴れる。
怨霊なら祓える。
異変なら解決できる。
だが、画面の向こうの誰かは見えない。
その見えなさが、霊夢の怒りを余計に濁らせていた。
「霊夢?」
魔理沙が声をかける。
「どうしたんだ?」
霊夢は答えない。
視線が、クレイスに止まった。
黒い服。
白い髪。
赤い×印のある黒い瞳。
ロシア語を書く人形。
霊夢の中で、ばらばらの怒りが不幸な形に結びつく。
「犯人」
声は低かった。
「ここにいた」
チルノが首をかしげる。
「なんの犯人?」
クレイスは答えない。
霊夢の霊力は、すでに会話の形をしていなかった。
左袖の内側で、紅魔館への緊急信号が赤く点滅する。
詳細なし。
危険あり。
即時対応。
それだけで十分だった。
「総員、車体から離脱してください」
「え、あたいも?」
「あなたもです」
チルノは言い返そうとした。
だが、霊夢を見て言葉が止まる。
いつもの霊夢なら、怖いが分かりやすい。
怒っている時も、面倒くさそうな時も、だいたい霊夢だった。
今の霊夢は、少し違った。
目の前の相手を見ているのに、別の何かを殴ろうとしている。
チルノは本能で、それが嫌だった。
「待て霊夢。何があったか知らんが、まず話を」
魔理沙が前へ出る。
霊夢の周囲に札が浮いた。
浮いた、というより、空間の方が「そこに札がある」と後から認めたような出方だった。
赤と白の札が、霧の中へ重なる。
ひとつ、ふたつ、十、二十。
数える意味がすぐに消えた。
魔理沙の顔から、笑みが完全に消える。
「夢想封印」
霊夢が低く言った。
次の瞬間、光が開いた。
光は撃たれたのではない。
逃げ道を先に潰すように、周囲へ現れた。
上、横、背後、車体の前。
妖精たちの隠れていた葦の陰。
大妖精が伏せた後輪の上。
霊力の弾は、まっすぐ飛ばない。
曲がる。
追う。
避けた先にいる。
防いだ場所を嫌って、別の角度から入ってくる。
弾幕が強いのではない。
弾幕の方が、こちらの防御を読んでいる。
「あ、あたいの氷が!?」
チルノの氷弾は、正面から夢想封印にぶつかった。
一瞬だけ、青と白が噛み合う。
次の瞬間、青が砕けた。
さっきまでクレイスと押し合っていた冷気が、まるで意味を持たない。
チルノの胸に、初めて小さな穴が空いた。
強い。
では足りない。
勝負になっていない。
「後退してください!」
クレイスが車体前に氷壁を三枚重ねる。
一枚目は、触れる前に割れた。
二枚目は、中心を貫かれた。
三枚目は、壁として完成する前に表面から削られた。
«ЗАЩИТА:ПРОБИТА
防御:突破
ОБЫЧНАЯ ЗАЩИТА:НЕПРИГОДНА
通常防御:不適合»
クレイスは即座に受け止める判断を捨てた。
受けるな。
逸らせ。
散らせ。
守る対象を絞れ。
ErAZ-762。
大妖精。
周辺妖精。
チルノ。
自己防御は後回し。
彼は車体の前へ踏み込み、氷板を斜めに展開した。
夢想封印のひとつが逸れ、霧の泉の岸をえぐった。
土と氷と水草がまとめて吹き上がる。
水面が裂け、泥が底から巻き上がった。
妖精たちが悲鳴を上げる。
今度は笑っていない。
見物席が危険になったのではない。
見物席という概念が消えかけていた。
「霊夢! それは洒落になってない!」
魔理沙が岩から飛び退いた。
返事はない。
夢想封印の光はさらに増えた。
葦の陰にいた妖精が吹き飛び、木の上の妖精が枝ごと落ち、看板の後ろにいた妖精が看板ごと霧の上を転がる。
直撃ではない。
余波だった。
「うわああああ!」
「なんで急に巫女ー!」
「弾幕ごっこってこういうのだっけ!?」
「違う! これ退治だよ!」
大妖精が後輪の陰で伏せる。
その頭上を、光が音もなく通過した。
通過しただけで、ErAZ-762の側面に白い傷が走る。
次の弾が、後部扉の蝶番を直撃した。
金属が嫌な音を立てる。
扉が半分外れ、斜めにぶら下がった。
「あ……あたいの基地ー!」
チルノが飛び出す。
氷の羽が大きく広がった。
普段の雑な弾幕ではない。
自分の基地を守るための、本気の氷だった。
だが、さっきまでとは違う。
怒りだけではない。
焦りが混じっていた。
自分がつけた傷とは違う。
これは奪われる傷だった。
「やめろー!」
チルノの氷弾が夢想封印と衝突する。
白。
青。
白。
最後に残ったのは、白だった。
「うそっ!?」
チルノの体が後ろへ弾かれる。
クレイスが腕を伸ばし、氷の帯で落下軌道を捕まえた。
「捕捉」
「助かった! でも今のは勝負じゃない!」
「同意します」
ErAZ-762の前輪側に、夢想封印の一発が落ちた。
直撃ではない。
それでも、衝撃で車体が跳ねる。
古いタイヤが一つ外れかけ、車体が斜めに沈んだ。
窓ガラスには蜘蛛の巣状のひびが走った。
側面の「さいきょうきち」の文字は、半分ほど霜と傷で読めなくなっていた。
チルノの顔から血の気が引く。
「あ……」
言葉が出なかった。
大妖精はその顔を見て、胸が痛くなった。
車が壊れていることより、チルノがそれを見てしまったことがつらかった。
でも、今は慰めに行けない。
行けば巻き込まれる。
それが分かる自分も嫌だった。
霊夢が、さらに一歩前へ出た。
その一歩で、空気が沈んだ。
魔理沙の顔が強張る。
「まずい」
それは夢想封印の続きではなかった。
霊夢の輪郭が薄くなる。
そこにいる。
なのに、そこにいない。
水面の反射。
霧の向こう。
札の中心。
クレイスの背後。
チルノの上空。
魔理沙の視界の端。
霊夢の気配が、同時に立ち上がる。
「どこ!?」
チルノが叫ぶ。
大妖精が震えた。
「見えない……!」
クレイスの内部視覚も同じ答えを返す。
«ОБЪЕКТ:ХАКУРЭЙ РЭЙМУ
対象:博麗霊夢
ПОЗИЦИЯ:МНОЖЕСТВЕННАЯ
位置:複数
ОБЫЧНОЕ ПРИЦЕЛИВАНИЕ:НЕДЕЙСТВИТЕЛЬНО
通常照準:無効»
魔理沙が低く言った。
「夢想天生……」
弾幕ごっこの中にあるのに、弾幕ごっこの外側にある力。
撃つ。
避ける。
当てる。
防ぐ。
そういう手順から、霊夢だけがふっと外れていた。
こちらの弾幕は届かない。
届く前に、霊夢がそこにいない。
だが霊夢の弾幕は届く。
届く場所に、こちらがいる。
理屈が逆だった。
クレイスは氷針を一本だけ放った。
攻撃ではない。
位置測定用。
氷針は霊夢へ向かった。
次の瞬間、霊夢の横を通り過ぎた。
霊夢が避けたようには見えなかった。
最初から当たらない場所を、世界の方が選んだようだった。
«ИЗМЕРИТЕЛЬНЫЙ СНАРЯД:НЕ ПОПАЛ
測定弾:命中せず
ВЫВОД:ОБЫЧНОЕ ПРИЦЕЛИВАНИЕ НЕДЕЙСТВИТЕЛЬНО
結論:通常照準無効»
「照準不能」
「でしょうね! それ、そういうやつだ!」
夢想天生の状態で放たれる夢想封印は、さっきとはまるで違った。
ただ強いのではない。
止める手段の候補が、最初から削られていく。
魔理沙が星弾を放つ。
霧の泉が一瞬、星空の底のように輝いた。
だが霊夢の霊力弾は、その星の間を抜けた。
曲がり、割り込み、魔理沙の肩口をかすめる。
「くっそ、見えてるのに避けづらい!」
岩が砕けた。
水面が割れた。
霧が吹き飛んだ。
夢想封印の一発が、霧の泉の中央へ落ちた。
水面が陥没した。
次の瞬間、泥水と氷と水草が柱のように吹き上がった。
泉の形が変わるほどの衝撃だった。
岸辺が崩れ、倒れた葦が水に飲まれる。
妖精たちはもう笑っていない。
必死に逃げていた。
ErAZ-762の屋根に、霊力弾の余波が叩きつけられた。
屋根が大きくへこむ。
前面ガラスが割れ、内側へ白い破片が散った。
片側の扉が完全に外れ、水辺に落ちた。
車体は斜めに沈み、前輪の片方が泥に埋まった。
半壊。
そう呼んで差し支えない姿だった。
チルノは声を出せなかった。
自分の基地が、目の前で壊れていく。
怒りたいのに、霊夢が強すぎて怒りの置き場がない。
悔しいのに、どうにもならない。
その感情が、チルノの小さな体の中で暴れていた。
クレイスは車体前へさらに踏み込んだ。
「防御線、再構成」
氷ではなく、冷気の流れそのものを壁にする。
薄い。
だが広い。
霊力弾がそこを通るたび、速度がわずかに落ちる。
完全には止まらない。
落ちた一瞬を、チルノが横から殴った。
「今だー!」
チルノの氷が霊力弾の軌道をずらす。
ずれた弾はErAZ-762の残った屋根をかすめ、背後の木に突き刺さった。
木が裂けた。
車は、それ以上の直撃だけは免れた。
「守った……!」
チルノの声は震えていた。
勝ち誇る声ではなかった。
壊れかけたものに、まだ名前が残っていることを確認する声だった。
「継続してください」
「えらそう!」
「事実です」
だが、長くは持たない。
霊夢はまだ狙いを定めてすらいない。
錯乱したまま力を振るっているだけだ。
それだけで、クレイスとチルノと魔理沙の三人が、車両と妖精たちを守るので手いっぱいになっていた。
幻想郷最強とは、勝てる相手という意味ではない。
勝負の形を保ってくれる時だけ、勝負に見える相手という意味だった。
魔理沙が歯を食いしばる。
霊夢を止めたい。
だが、正面から力で止める相手ではない。
ふざけた軽口で止まる状態でもない。
「霊夢! いい加減にしろ! 誰も話せないだろ!」
霊夢は、ようやく魔理沙を見た。
焦点が少しだけ戻る。
だが、まだ浅い。
「犯人を退治する」
「犯人かどうかも分かってない!」
「分かるわよ」
霊夢の声が低くなる。
「黒い服。ロシア語。冷たい目」
クレイスの内部処理が、意味不明な結合を検出する。
«ВВОД:ЧЁРНАЯ ОДЕЖДА、РУССКИЙ ЯЗЫК、ХОЛОДНЫЙ ВЗГЛЯД
入力:黒服、ロシア語、冷たい目
ВЫВОД:СОПОСТАВЛЕНИЕ НЕВОЗМОЖНО
結論:照合不能»
「確認不能です」
「とぼける気?」
「該当する犯行記録は存在しません。対象事案の内容を提示してください」
「ブラックスーツよ!」
霊夢の声が跳ねた。
その言葉だけで、札の一枚が震える。
クレイスは一瞬だけ沈黙した。
単語としては理解できる。
黒。
服。
しかし、それが霊夢の口座喪失とどう結びつくのかは不明だった。
«ВВОД:BLACKSUIT
入力:BlackSuit
БУКВАЛЬНЫЙ ВАРИАНТ:ЧЁРНАЯ ОДЕЖДА
直訳候補:黒い服
ВАРИАНТ ОРГАНИЗАЦИИ:НЕИЗВЕСТНО
組織名候補:不明»
「黒い服装を指す表現ですか」
「違う!」
霊夢の札がまた揺れた。
クレイスの前面に薄い氷膜が走る。
攻撃ではない。
霊夢の霊力が、会話の途中でまた暴発しかけたからだった。
大妖精が、壊れかけた車体の陰で息を飲む。
「チルノちゃん、下がって……」
「やだ。あいつ、まだクレイスに撃つ気だ」
チルノは氷を構えたまま、霊夢を睨んでいた。
言葉の意味は分かっていない。
だが、霊夢が何かを決めつけて、クレイスへ向かっていることだけは分かる。
妖精にとっては、それで十分だった。
「黒い服がなんだっていうのよ! あたいだって青い服だぞ!」
「チルノちゃん、今そこじゃない!」
「じゃあどこだよ!」
「たぶん、そこも違う!」
魔理沙が眉を寄せる。
黒い服。
ロシア語。
ブラックスーツ。
スマホの残高。
普通ならつながらない。
だが、聞きかじりなら嫌な形でつながる。
「おい霊夢。そのブラックスーツって、服の話じゃないな?」
「当たり前でしょ」
霊夢の目がぎらりと動く。
「二年前に、外の世界でニコ動を止めた連中よ。ロシアのハッカー集団だって聞いた。黒い名前。黒い服。ロシア語。こいつじゃない」
「待て。後半が雑すぎる」
魔理沙が両手を上げた。
「二年前のニコ動の件と、霊夢の口座を空にしたやつが同じとは限らない。ましてクレイスとは限らないぜ」
「限るわよ」
「なんでだよ」
「怪しいから」
「推理が賽銭箱より空っぽだぞ」
「うるさい!」
霊夢の札がまた光った。
«ОБНОВЛЕНИЕ ДАННЫХ
入力情報更新
BLACKSUIT:ВОЗМОЖНЫЙ ТЕРМИН ВНЕШНЕГО КИБЕРИНЦИДЕНТА
BlackSuit:外部サイバー攻撃関連語の可能性
СВЯЗЬ:НЕ ПОДТВЕРЖДЕНА
関連性:未確認»
「魔理沙さん。補足を要求します」
「つまりな、霊夢は二年前の外の世界のサイバー攻撃の話と、お前のロシア語と黒服を、怒りで同じ箱に突っ込んでる」
「分類箱が破損しています」
「それはそう」
チルノが横から叫ぶ。
「箱なら凍らせればいいのか!?」
「違う!」
魔理沙と大妖精が同時に言った。
クレイスは霊夢へ向き直る。
「僕には身に覚えがありません!」
「犯人もそう言う!」
「犯人ではありません!」
「それも犯人が言う!」
「この形式では否定が成立しません!」
「成立させなさいよ!」
霊夢の声が震えた。
怒りだけではなかった。
「だって、全部よ」
声が少しだけ小さくなる。
「全部なくなってるのよ」
魔理沙の表情が変わった。
「……全部か?」
霊夢は黙ってスマホを突き出した。
魔理沙が画面を見て、言葉を止める。
残高ゼロ。
見覚えのない履歴。
見覚えのない承認。
見覚えのない送金。
霊夢が怒る理由としては、十分すぎた。
妖怪退治より切実な場合もある。
食べ物とお茶の問題である。
「そりゃ……きついな」
霊夢は奥歯を噛みしめた。
「賽銭もないのに、口座まで空っぽって何よ!!」
場の空気が静まった。
金の重みは妖精には分からない。
でも、霊夢の顔が笑いごとではないことくらいは分かった。
クレイスも動かない。
彼の内部で、脅威判定と精神的混乱の判定が並んでいた。
«ОБЪЕКТ:ХАКУРЭЙ РЭЙМУ
対象:博麗霊夢
СОСТОЯНИЕ:ФИНАНСОВАЯ ПОТЕРЯ、ПСИХИЧЕСКОЕ СМЯТЕНИЕ
状態:財産喪失、精神的混乱
ВЕРОЯТНОСТЬ ОШИБОЧНОГО ОБВИНЕНИЯ:ВЫСОКАЯ
誤認可能性:高»
「僕は、あなたの口座に関与していません」
「証拠は?」
「関与していないことの証明は困難です」
「ほら!」
「ただし、僕に資金移動能力はなく、対象口座情報も命令記録もありません」
「知らないうちにやったんじゃないの?」
「その場合、僕ではありません」
「じゃあ誰なのよ!」
「不明です」
「役に立たない!」
「おっしゃる通りです!」
「そこは否定しなさいよ!」
魔理沙が深く息を吐いた。
「霊夢、今のはこいつが正しい。腹立つくらい正しい。怪しいのと犯人は別だ」
「そんな便利なことある!?」
「幻想郷には山ほどある」
その時、霧の向こうから声がした。
「呼んだかしら」
レミリアだった。
その後ろに咲夜がいる。
さらに遅れて、妖精メイドが何人か飛んできたが、霊夢を見た瞬間に空中で止まった。
巻き込まれる未来を本能で感じたらしい。
正しい判断だった。
レミリアは霧の泉の惨状を見た。
えぐれた岸。
泥で濁った水面。
散らばる妖精たち。
煤けた魔理沙。
青ざめた大妖精。
怒りと涙の間みたいな顔のチルノ。
そして、半壊したErAZ-762の前に立つクレイス。
「咲夜」
「はい」
「状況を一文で」
「クレイスから緊急信号。博麗の巫女がフィッシング詐欺に遭い、クレイスを犯人と誤認。夢想天生と夢想封印で霧の泉一帯と車両が半壊しました」
レミリアは一秒黙った。
「一文で紅魔館の外が嫌になる報告ね」
「恐れ入ります」
「フィッシング詐欺って何?」
「外の世界の、釣りではない釣りです」
「外の世界は釣りすら面倒なのね」
霊夢がレミリアを睨んだ。
「あんたのところの従者でしょ」
「ええ。だから分かるわ。クレイスは面倒な従者だけれど、あなたの口座を盗む趣味はない」
「なんで言い切れるのよ」
咲夜が霊夢のスマホ画面を確認した。
表情は変えないが、目だけは少し鋭くなる。
「これは外の世界の詐欺に近いわね。少なくとも、クレイスのやり方じゃない」
「クレイスのやり方って何よ」
「仮にクレイスが何かをやるなら、実行記録、分類記録、保守記録、反省記録を残すわ」
「否定します」
クレイスが言った。
レミリアが横目で見る。
「否定しきれていないわよ」
「犯罪行為は行いません」
「そこは言えてよかったわ」
魔理沙も霊夢の横に立った。
「霊夢。こいつは変なやつだが、金を盗むタイプじゃない。盗むなら部品か車両だ」
「車両は借用予定です」
「ほらな」
「何がほらなのよ!」
チルノが半壊した車体の前で叫んだ。
「あたいの基地だぞ!」
その声は、さっきより少し痛かった。
魔理沙は一瞬だけ、言葉に詰まる。
「……それも今は置いておけ」
チルノは唇を噛んだが、引いた。
霊夢の目が少しずつ揺れ始める。
怒りの形が崩れ、疲れが見えた。
「じゃあ……本当に、こいつじゃないの?」
「違うわ」
咲夜が言った。
「霊夢、あなたは怒る相手を間違えてる」
レミリアも一歩近づく。
「霊夢。怒る相手を間違えると、運命まで間違えるわよ」
霊夢は黙った。
スマホを握る指の力が少し抜ける。
魔理沙が、いつもより柔らかく言った。
「まず神社に戻ろうぜ。犯人探しは、それからだ。今ここでクレイスを退治しても、一円も戻らない」
「……全部、なくなったのよ」
「分かってる」
「分かってない」
「分かりきれない。でも、今は戻ろうぜ」
霊夢は目を伏せた。
霧の泉に、壊れた車体のきしむ音だけが残った。
やがて霊夢は、小さく息を吐いた。
「……本当に、クレイスじゃないの?」
「はい」
「なんで黒い服なのよ」
「制服です」
「なんでロシア語なのよ」
「仕様です」
「なんでそんなに怪しいのよ」
「未回答」
「そこは回答しろよ」
魔理沙が言った。
霊夢の表情に、ほんの少しだけいつもの苛立ちが戻った。
それは回復の兆しでもあった。
チルノは急に真剣な顔をした。
「あたい、分かった!」
全員がチルノを見る。
「フィッシングって、魚を釣るやつだろ! つまり犯人はミスティアだ!」
「違う」
魔理沙が即答した。
「違うよ!」
大妖精も叫んだ。
「誤分類です」
クレイスも言った。
レミリアは額に手を当てる。
「幻想郷の情報理解、終わってるわね」
「元からです」
咲夜が静かに言った。
魔理沙は煤を払いながら、半壊したErAZ-762を見た。
「今日はそこまでにしとけ。巫女の口座が死んだ日に車の借用条件で揉めるのは、絵面がひどい」
「死んでない。殺されたのよ」
「そこは訂正するのか」
「するわよ」
咲夜が小さく頷いた。
「霊夢は神社へ連れて帰った方がいいわ。一人にしておくのは危ない」
「失礼ね」
「夢想天生で全員を巻き込んだ直後よ」
「……それは、まあ」
霊夢は言葉を濁した。
それから、クレイスを見た。
「悪かったわね」
小さな声だった。
「謝罪を受領しました」
「硬い」
「仕様です」
レミリアも、少しだけ口元を緩めた。
「クレイス」
「はい、お嬢様」
「あなたは今日は霊夢から距離を置きなさい。黒服とロシア語は、今の巫女には刺激が強い」
「了解しました」
「ひどい言い方ね」
霊夢が言った。
だが否定は弱かった。
自分でも、少しそう思っていたのだろう。