赤い館に住む元赤い国の人形   作:案山子杏子

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3.食べてはいけない人形

 

 夕暮れの魔法の森は、いつもより暗かった。

 

 太陽が沈みきる前から木々の影は濃くなり、枝の隙間には黒いものが溜まっている。

 

 その黒いものが、ゆっくり動いた。

 

「人間?」

 

 闇の中から、金色の髪が覗く。

 

 ルーミアだった。

 

 彼女は木の枝へ逆さに引っかかるように浮かび、下を歩く相手をじっと見ていた。

 

 紅魔館から香霖堂へ部品を取りに行った帰りの、クレイスである。

 

「人間ではありません」

 

 クレイスは足を止めずに答えた。

 

「じゃあ食べてもいい?」

 

「よくありません」

 

「そーなのかー」

 

 ルーミアは頷いた。

 

 頷いた直後、闇が膨らんだ。

 

 黒い球のような影が周囲を包み込み、森の道も、木も、空も見えなくなる。

 

 クレイスの視界が暗転した。

 

«ВНЕШНЯЯ ВИДИМОСТЬ:ПОТЕРЯНА

外部視界:喪失»

 

「警告します。僕は可食対象ではありません」

 

「食べてみないと分からないのかー」

 

「分かります」

 

「私は分からない」

 

「情報共有に失敗しました」

 

「難しいこと言う人間は、だいたい食べられるのかー」

 

「人間ではありません」

 

「じゃあ、難しい食べ物なのかー」

 

「食べ物ではありません」

 

 闇の中で、ルーミアが楽しそうに笑った。

 

 次の瞬間、彼女はクレイスの腕へ噛みついた。

 

 人工皮膚が破れる。

 

 肉ではなく、細い配管と樹脂で覆われた配線が覗く。

 

 さらにその奥から、青い液体が一筋垂れた。

 

 血ではなかった。

 

 冷却液だった。

 

 蛍光を帯びたような青い液体は、クレイスの袖口を濡らし、ルーミアの口元へ触れた。

 

「……ん?」

 

「摂取を中止してください」

 

「ちょっと待って」

 

「中止してください」

 

「変な味がする」

 

「中止してください」

 

「すっぱい」

 

「中止してください」

 

「苦い」

 

「中止してください」

 

「金物屋の裏を雨の日に舐めた味がする」

 

「味覚表現が不明です」

 

「あと、古い電池」

 

「摂取物の一部は電気系統由来です」

 

「当たってるの!?」

 

「摂取を中止してください」

 

「舌が、びりびりする」

 

「遅いです」

 

 ルーミアがクレイスから離れた。

 

 闇の球がぐらりと揺らぐ。

 

 彼女は口元を押さえ、ふらふらと後ずさった。

 

「何これ。何これ。何これ」

 

「冷却液です」

 

「食べ物じゃないの?」

 

「違います」

 

「人間の味がしない」

 

「人間ではありません」

 

「妖怪の味もしない」

 

「妖怪ではありません」

 

「じゃあ何の味?」

 

「青色冷却液、絶縁材、配電系統、化学安定剤、月由来の技術媒質が混在しています」

 

「料理名みたいに言わないで!」

 

「料理ではありません」

 

「口の中が、なんか、すごい」

 

「具体化してください」

 

「すごく嫌」

 

「記録しました」

 

「記録しないで……」

 

 ルーミアはそこまで言うと、目を回した。

 

 闇がほどけ、森の夕暮れが戻る。

 

 彼女は両手をばたつかせたあと、ぽてん、と地面へ落ちた。

 

 クレイスは破れた袖と腕を確認する。

 

 人工皮膚に噛み跡。

 

 冷却液の漏出。

 

 表層配線に軽度の損傷。

 

 運動機能に異常なし。

 

«ПОВРЕЖДЕНИЕ:ЛЁГКОЕ

損傷:軽微

 

УТЕЧКА ОХЛАЖДАЮЩЕЙ ЖИДКОСТИ:МАЛАЯ

冷却液漏出:少量

 

СОСТОЯНИЕ НАПАДАВШЕГО:БЕССОЗНАТЕЛЬНОЕ

攻撃者状態:意識なし»

 

 クレイスは倒れたルーミアを見下ろした。

 

「警告は行いました」

 

 返事はない。

 

 ルーミアは完全に気絶している。

 

 口元には青い液が少し付着し、顔色もいつもより悪い。

 

 クレイスは数秒間、処理を行った。

 

 このまま放置した場合、妖怪であっても危険。

 

 紅魔館へ戻るより、医療設備のある場所へ運ぶ方が早い。

 

 人間の医者では対応困難。

 

 毒。

 

 薬。

 

 化学物質。

 

 月由来の物質。

 

«СООТВЕТСТВУЮЩЕЕ УЧРЕЖДЕНИЕ:ЭЙЭНТЭЙ

該当施設:永遠亭»

 

 クレイスは工具箱を一度地面へ置き、ルーミアを抱え上げた。

 

 小柄な妖怪は、見た目より軽い。

 

 闇を操る妖怪を、闇の中で食べられかけた人形が抱えて運ぶ。

 

 状況としては奇妙だったが、クレイスは気にしなかった。

 

 必要なのは、搬送先と到着時間だけである。

 

     ◇

 

 竹林に入る頃には、完全に夜になっていた。

 

 迷いの竹林は、道を知っていても迷う。

 

 同じ竹が何度も現れ、風の音が左右から重なり、踏み跡は数歩ごとに消える。

 

 クレイスは地図を持っていない。

 

 だが、足は止まらなかった。

 

 足裏へ返る振動。

 

 竹の密度。

 

 地面の傾き。

 

 枝葉に反射する音。

 

 気流の流れ。

 

 それらを一つずつ照合しながら進む。

 

 人間の勘ではない。

 

 自律人形としての外部環境認識。

 

 そして、元軍事兵器として組み込まれた罠検出処理だった。

 

 腕の中で、ルーミアが小さく呻いた。

 

「うう……変な味……」

 

「意識を確認しました」

 

「まずい……」

 

「味覚評価は不要です」

 

「金物屋……」

 

「地点情報ではありません」

 

「電池……」

 

「摂取していません」

 

「食べ物じゃなかった……」

 

「最初に説明しました」

 

「そーなのかー……」

 

 ルーミアはそこまで言うと、また力を失った。

 

 クレイスは歩調を変えない。

 

 噛まれた腕からは、まだ少し青い冷却液が滲んでいる。

 

 それが地面へ落ちないよう、破れた袖を内側へ折り込んでいた。

 

「環境汚染防止」

 

 誰に聞かせるでもなく呟く。

 

 その時、クレイスの足が止まった。

 

 前方の地面。

 

 竹の葉が薄く積もった場所。

 

 一見、普通の道に見える。

 

 だが、表面の沈み方が周囲と違う。

 

 足を置く前から、地中の空洞が返す音だけが軽かった。

 

«ПОВЕРХНОСТЬ:НЕСТАБИЛЬНА

地表:不安定

 

ПУСТОТА ПОД ПОЧВОЙ:ОБНАРУЖЕНА

地中空洞:検出

 

КЛАССИФИКАЦИЯ:ПРОСТАЯ ЛОВУШКА

分類:簡易罠»

 

 クレイスは一歩、横へずれた。

 

 ルーミアを抱えたまま、落ち葉の盛られた場所を迂回する。

 

 通り過ぎた直後、後ろで竹の葉が少し崩れた。

 

 穴の縁が露出する。

 

 底は浅い。

 

 だが、抱えた相手を落とすには十分だった。

 

 クレイスは振り返らない。

 

 数歩進む。

 

 今度は足元に、細い張線があった。

 

 落ち葉と同じ色に染めた糸。

 

 低い位置。

 

 膝ではなく、足首を狙う高さ。

 

«НАТЯНУТАЯ ЛИНИЯ:ОБНАРУЖЕНА

張線:検出

 

МЕХАНИЗМ СРАБАТЫВАНИЯ:ЕСТЬ

作動機構:あり

 

КЛАССИФИКАЦИЯ:БУБИ-ЛОВУШКА

分類:ブービートラップ»

 

 クレイスは無言で跨いだ。

 

 張線の先で、吊られた竹筒が揺れる。

 

 中身は石か、水か、あるいはもっと腹立たしい何か。

 

 確認する必要はなかった。

 

 さらに進む。

 

 踏板。

 

 偽装された穴。

 

 浅く張られた縄。

 

 落ち葉の下に隠された滑る竹皮。

 

 どれも、殺すためのものではない。

 

 だが、転ばせる。

 

 落とす。

 

 驚かせる。

 

 竹林をよく知る者の、悪質な遊びだった。

 

 クレイスは一つずつ避けていく。

 

 避けるたび、竹の奥で小さな気配が動いた。

 

 白い耳が一瞬、闇に浮かぶ。

 

 すぐに消える。

 

 因幡てゐだ。

 

 彼女は姿を見せない。

 

 ただ、クレイスが罠を踏まないたびに、竹の葉の向こうで何かが不満そうに揺れた。

 

 クレイスはそちらへ目を向けない。

 

 相手が誰であれ、今の優先順位は変わらない。

 

 搬送対象。

 

 永遠亭。

 

 到着時間。

 

 その三つだけだった。

 

 竹林の奥で、火の粉がひとつ浮かんだ。

 

「おい」

 

 低い声がした。

 

 藤原妹紅が、竹の間から歩いてくる。

 

 彼女は最初にクレイスを見た。

 

 次に、腕の中のルーミアを見た。

 

 最後に、破れた袖と青く濡れた腕を見る。

 

 眉間に皺が寄った。

 

「何を抱えてる」

 

「ルーミアさんです」

 

「それは見れば分かる」

 

「急性化学物質中毒の疑いがあります」

 

「何を食べた」

 

「僕です」

 

 妹紅は黙った。

 

 火の粉だけが、二人の間で揺れた。

 

「……一回、短く説明しろ」

 

「ルーミアさんが僕を食べようとして倒れました」

 

「最初からそれでいい」

 

 妹紅は額を押さえた。

 

 腕の中で、ルーミアがかすかに動く。

 

「まずい……」

 

「お前、本当に食ったのか」

 

「そーなのかー……」

 

「返事になってないな」

 

 妹紅はルーミアの顔を覗き込んだ。

 

 顔色は悪い。

 

 口元には、まだ青い液が少し残っている。

 

「永琳のところへ行くんだな」

 

「はい」

 

「このまま真っ直ぐ進むな」

 

「理由を確認します」

 

「罠が多い。あいつがまた道をいじった」

 

 妹紅は竹の奥へ視線を投げた。

 

 白い耳が、すぐに引っ込む。

 

「まあ、悪気だけでやってるわけじゃないが、今の荷物には向かない」

 

「搬送対象への衝撃を避けます」

 

「なら、こっちだ」

 

 妹紅は迷わず脇道へ入った。

 

 道というより、竹と竹の隙間だった。

 

 普通の人間なら、すぐに方向を失う。

 

 だが妹紅は足元を見ずに進んでいく。

 

 クレイスはその後に続いた。

 

「その青いの、垂らすなよ」

 

「環境汚染防止のため、既に対策済みです」

 

「そういうところだけ妙にしっかりしてるな」

 

「優先事項です」

 

「食われる前に避けるのも優先しろ」

 

「警告は行いました」

 

「警告じゃなくて避けろ」

 

「検討します」

 

「検討するな。避けろ」

 

 妹紅は呆れたように息を吐いた。

 

 それでも足は止めない。

 

 竹林の奥で、また白い耳が揺れた。

 

 今度は近づいてこない。

 

 ただ、こちらの様子を窺っている。

 

 妹紅が声を張った。

 

「てゐ。今日はやめとけ」

 

 返事はない。

 

 代わりに、どこかで小さく竹筒が鳴った。

 

 罠を片づけているのか。

 

 別の場所へ移しているのか。

 

 どちらにせよ、クレイスは確認しなかった。

 

 妹紅の案内で進むうち、竹の密度が少しずつ薄くなる。

 

 視界の奥に、永遠亭の灯りが差し込んだ。

 

 クレイスの内部表示に、目的地候補が確定する。

 

«ЦЕЛЬ:ЭЙЭНТЭЙ

目的地:永遠亭

 

РАССТОЯНИЕ:МАЛОЕ

距離:短»

 

 妹紅が足を止めた。

 

「ここからなら分かるだろ」

 

「はい。案内に感謝します」

 

「礼はいい。次に来る時は、食われる前に避けろ」

 

「検討します」

 

「だから避けろって言ってるだろ」

 

 妹紅はルーミアを見下ろした。

 

「おい、ルーミア。生きてるか」

 

「……まずい……」

 

「生きてるな」

 

「生存反応を確認しました」

 

「その確認でいいのか?」

 

「搬送を継続します」

 

「まあ、急げ」

 

 クレイスは永遠亭の門へ向かった。

 

 妹紅は少し離れた場所で立ち止まり、最後まで見送る。

 

 その背後の竹林では、白い耳が一度だけ揺れた。

 

 今度はすぐに消えた。

 

 門前にいた鈴仙が、クレイスの姿を見て耳を跳ねさせた。

 

「え、何? 急患?」

 

「はい」

 

 クレイスはルーミアを抱えたまま答えた。

 

「妖怪が僕を摂食しようとし、冷却液および内部化学物質を摂取しました」

 

「待って。最初の一文から全部おかしい」

 

 鈴仙が固まる。

 

 少し離れた場所で、妹紅が肩をすくめた。

 

「頑張れ」

 

「何で他人事なんですか!」

 

「私は案内しただけだ」

 

「案内するような急患なんですか、これ!」

 

「見れば分かるだろ。普通じゃない」

 

「見ても分からないんですよ!」

 

 鈴仙の声が、夜の永遠亭に響いた。

 

     ◇

 

 永遠亭の診療室に、ルーミアは寝かされた。

 

 永琳は素早く脈、呼吸、瞳の反応を確認し、口元についた青い液体を小さな紙片で拭い取った。

 

 その紙片へ薬液を落とす。

 

 青い染みが、紫色に変わった。

 

 次に銀色。

 

 最後に、黒に近い濃紺へ沈む。

 

 鈴仙が顔をしかめた。

 

「何ですか、それ」

 

「飲食物ではないことだけは確かね」

 

「それは全員分かっています」

 

「全員ではないわ」

 

 永琳は寝台のルーミアを見た。

 

 ルーミアは気絶したまま、口だけ少し動かしている。

 

「……まずい……」

 

「本人も分かったようね」

 

「遅かったですね」

 

「遅かったわね」

 

 永琳はクレイスへ視線を向けた。

 

「あなたの内部循環液?」

 

「冷却液の一種です」

 

「ただの冷却液ではないわね」

 

「はい。通常の機械冷却材に加え、魔力伝導阻害剤、絶縁補助剤、化学安定剤、月由来の技術媒質が含まれます」

 

「月由来?」

 

 永琳の目が少し鋭くなる。

 

 診療室の空気が、ほんの少し変わった。

 

「はい」

 

「どこの月?」

 

「回答権限がありません」

 

「そう」

 

 永琳はそれ以上追及しなかった。

 

 代わりに、ルーミアの口を開かせ、舌の色を確認する。

 

「食中毒ではないわね」

 

「違うんですか?」

 

「食べ物ではないものを口にしたのだから、化学物質の経口摂取による急性中毒。大雑把に言えば、食べてはいけないものを食べた事故よ」

 

「つまり、クレイスを食べたから?」

 

「食べたから」

 

「僕は食品ではありません」

 

「そこは全員、今理解したところよ」

 

 永琳は戸棚へ向かった。

 

 鈴仙が腕を組む。

 

「じゃあ、師匠。治療方針は?」

 

「解毒ではなく、排出と中和。胃の中に残っている分を処理して、あとは妖怪としての回復力に任せる」

 

「薬で何とかなります?」

 

「薬というより、掃除ね」

 

「胃の掃除ですか」

 

「かなり念入りな掃除よ」

 

「患者が聞いたら逃げませんか?」

 

「逃げられないうちに飲ませるわ」

 

「医者の発言ですか、それ」

 

「医者の判断よ」

 

 永琳は小瓶を数本取り出した。

 

 透明な液体。

 

 白い粉末。

 

 淡い緑色の丸薬。

 

 それらを手早く混ぜ合わせ、小さな杯へ注ぐ。

 

 杯の中身は、見た目だけなら薄い薬草茶だった。

 

 匂いは薬草茶ではなかった。

 

 鈴仙が一歩下がった。

 

「それ、患者が起きますか?」

 

「起こすためでもあるわ」

 

「別の意味で起きそうです」

 

 永琳はルーミアの肩を軽く叩く。

 

「ルーミア。聞こえる?」

 

「……そーなのかー」

 

「返事になっていないわ」

 

 永琳は杯をルーミアの口元へ運んだ。

 

「飲みなさい」

 

「まずいのは、もういらない……」

 

「これはまずいけれど必要なものよ」

 

「その言い方、信用できないのかー……」

 

「正しい判断ね」

 

 鈴仙が小声で言った。

 

 永琳が横目で見る。

 

「鈴仙」

 

「はい」

 

「支えて」

 

「はい」

 

 鈴仙がルーミアの肩を支える。

 

 永琳は迷いなく薬を飲ませた。

 

 ルーミアの顔が一瞬で歪んだ。

 

「にがい!」

 

「意識は戻ったわね」

 

「師匠、確認方法が乱暴です!」

 

「効率的と言いなさい」

 

「効率で患者の顔がすごいことになってます!」

 

 ルーミアは涙目で舌を出している。

 

「まずい……さっきのより、別のまずさ……」

 

「さっきのものを外へ出すための薬よ」

 

「食べなきゃよかった……」

 

「最初に説明しました」

 

 クレイスが言った。

 

 ルーミアは寝台の上で、ぼんやりとクレイスを見る。

 

「クレイスは、人間じゃないのかー」

 

「はい」

 

「食べ物じゃないのかー」

 

「はい」

 

「でも、人間みたいな形してるのに」

 

「形状と可食性は一致しません」

 

「むずかしい」

 

「今後、僕を摂食対象から除外してください」

 

「そーなのかー……」

 

 ルーミアは弱々しく頷いた。

 

 すぐに、はっとした顔になる。

 

「じゃあ、魔理沙は?」

 

「人間よ」

 

 鈴仙が言った。

 

「食べていい?」

 

「だめよ」

 

「そーなのかー」

 

「今、食べ物の種類を整理する時間じゃないわ」

 

 永琳は額に指を当てた。

 

「鈴仙。あとでルーミアに食べてよいものと悪いものを説明しておきなさい」

 

「私がやるんですか?」

 

「あなたが一番逃げ足が速いでしょう」

 

「逃げる前提なんですね」

 

 永琳はそのやり取りを切り上げ、クレイスの腕へ近づく。

 

「あなたの方も診せなさい」

 

「損傷は軽微です」

 

「軽微でも、冷却液が漏れているでしょう」

 

「自己修復は可能です」

 

「ここで垂らされたら困るの」

 

「環境汚染防止の観点から同意します」

 

 クレイスは素直に腕を差し出した。

 

 永琳は破れた人工皮膚を確認し、内部配管の亀裂を見た。

 

 青い冷却液が、細い血管のような管から滲んでいる。

 

 鈴仙が横から覗き込み、すぐに顔を引いた。

 

「本当に人間じゃない……」

 

「最初に申告しました」

 

「それは聞いたけど、見ると違うのよ」

 

「視覚情報の影響を確認しました」

 

「確認しなくていいから」

 

 永琳は小さな器具で漏出箇所を押さえ、仮の封止材を塗った。

 

「本格的な修理は紅魔館でやりなさい。ここでは応急処置まで」

 

「十分です」

 

「それと、今後この液体を妖怪に摂取させないこと」

 

「食べさせていません」

 

「食べられないようにしなさい」

 

「警告は行いました」

 

「警告を聞かない相手もいるでしょう」

 

 永琳は寝台の上のルーミアを見る。

 

 ルーミアは苦い薬の味に耐えながら、枕へ顔を半分埋めている。

 

「います」

 

「でしょうね」

 

 永琳はさらに薬を調合し、ルーミアの枕元へ置いた。

 

「一晩ここで様子を見るわ。起きても勝手に帰らないこと」

 

「帰っちゃだめ?」

 

「だめ」

 

「お腹空いたら?」

 

「普通の食べ物を出すわ」

 

 ルーミアはゆっくりとクレイスを見た。

 

「クレイスは?」

 

「食べ物ではありません」

 

 クレイス、永琳、鈴仙の声が同時に重なった。

 

 診療室に短い沈黙が落ちる。

 

 ルーミアは布団を少し引き上げた。

 

「そーなのかー」

 

「今ので覚えて」

 

 鈴仙が疲れた声で言った。

 

     ◇

 

 夜が深くなった頃、クレイスは永遠亭の玄関に立っていた。

 

 腕には応急処置が施され、破れた袖は仮縫いされている。

 

 鈴仙は、まだ心配と困惑が半分ずつ混ざった顔をしていた。

 

「本当に一人で帰れるの?」

 

「歩行機能に異常はありません」

 

「そういう意味じゃなくて」

 

「迷いの竹林の脱出経路は記録済みです」

 

「それもそういう意味じゃないのよ」

 

「別の意味を提示してください」

 

「そういうところよ」

 

 鈴仙は肩を落とした。

 

 永琳が奥から出てきた。

 

「ルーミアは寝たわ。明日の朝には動けるでしょう」

 

「了解しました」

 

「あなたも、内部液の漏れが悪化したらすぐに処置しなさい」

 

「紅魔館へ戻り次第、自己修理を実施します」

 

「それと、月由来の技術媒質については、いずれ詳しく聞かせてもらうわ」

 

 クレイスは一秒だけ沈黙した。

 

「回答権限を確認します」

 

「逃げ方が機械的ね」

 

「逃走ではありません」

 

「そういうことにしておきましょう」

 

 永琳は診療室の方へ視線を向けた。

 

「ルーミアには、あなたを食べないよう伝えておくわ」

 

「感謝します」

 

「ただ、彼女がどこまで理解するかは別問題ね」

 

「その点は認識しています」

 

 鈴仙が小さくため息をついた。

 

「今日の教訓は、人形を食べてはいけない、でいいの?」

 

「正確には、内部に冷却液、絶縁材、配電系統、化学安定剤、月由来の技術媒質を含む自律人形を摂食してはいけない、です」

 

「誰も覚えられないわよ」

 

「短縮します」

 

「どう短縮するの?」

 

「僕は食品ではありません」

 

「それでいいと思う」

 

 クレイスは軽く頭を下げた。

 

「治療協力に感謝します」

 

「食べられた側が礼を言う急患は珍しいわね」

 

「搬送対象はルーミアさんでした」

 

「あなたも十分、急患だったわ」

 

「分類を修正します」

 

「本当に全部記録するのね」

 

「はい」

 

「紅魔館って大変ね」

 

「はい」

 

「今のは同意なの?」

 

「事実確認です」

 

 クレイスは玄関を出た。

 

 竹林の夜へ向かって歩き出す。

 

 永遠亭の中では、まだ薬の匂いが残っていた。

 

 診療室では、ルーミアが寝台の上で眠っている。

 

 枕元には、鈴仙が忘れないように書いた紙が置かれていた。

 

«人形を食べない

 

特に青い液が出るもの»

 

 鈴仙はその紙を見て、少し考えた。

 

 そして、さらに下へ小さく書き足した。

 

«人里の人間は食べない事»

 

 少し間を置いて、もう一行足した。

 

«魔理沙もだめ»

 

     ◇

 

 翌朝。

 

 紅魔館の地下中央制御室では、クレイスが作業机に座り、技術保守日誌を開いていた。

 

 腕の人工皮膚はまだ完全には戻っていない。

 

 内部配管には仮の封止材。

 

 袖には修繕跡。

 

 クレイスは鉛筆を取り、事案を記録した。

 

«ЖУРНАЛ ТЕХНИЧЕСКОГО ОБСЛУЖИВАНИЯ

技術保守日誌

 

НАЗВАНИЕ ИНЦИДЕНТА:ОСТРОЕ ХИМИЧЕСКОЕ ОТРАВЛЕНИЕ ПРИ ПОПЫТКЕ ПОЕДАНИЯ

事案名:摂食未遂に伴う急性化学物質中毒

 

МЕСТО:МАГИЧЕСКИЙ ЛЕС

場所:魔法の森

 

НАПАДАВШИЙ:РУМИЯ

加害者:ルーミア

 

ПОСТРАДАВШИЙ:КЛЕЙС МАЯКОВСКИЙ

被害者:クレイス・マヤコフスキー

 

ПОВРЕЖДЕНИЕ:ПРАВОЕ ПРЕДПЛЕЧЬЕ、ИСКУССТВЕННАЯ КОЖА、ОХЛАЖДАЮЩАЯ ТРУБКА

損傷:右前腕、人工皮膚、冷却配管

 

УТЕЧКА ОХЛАЖДАЮЩЕЙ ЖИДКОСТИ:МАЛАЯ

冷却液漏出:少量

 

МЕДИЦИНСКАЯ ТРАНСПОРТИРОВКА:ЭЙЭНТЭЙ

医療搬送先:永遠亭

 

СОСТОЯНИЕ РУМИИ:ВОССТАНАВЛИВАЕТСЯ

ルーミア状態:回復中

 

ПРИМЕЧАНИЕ:Я НЕ ЯВЛЯЮСЬ ПИЩЕЙ

備考:僕は食品ではありません。»

 

 最後の一行を書いたところで、入口横の白黒モニターに人影が映った。

 

 鉄扉の前に、フランドールが立っている。

 

 彼女は監視カメラを見上げ、笑顔で片手を振った。

 

 それから、いつものように呼出ベルを押す。

 

«ВЫЗОВ У ВХОДА

入口から呼出»

 

 クレイスは操作卓のスイッチを入れた。

 

 鉄扉の錠が外れ、重い音を立てて開く。

 

 フランドールが中央制御室へ入ってきた。

 

「おはよう、クレイス」

 

「おはようございます、フラン様」

 

 フランドールは制御盤の光にも、磁気テープの回転にも慣れている。

 

 妖精メイドたちの多くは、この地下中央制御室へ近づきたがらない。

 

 もちろん、鉄扉やロシア語の警告板、高電圧の札、低く唸る変圧器も怖い。

 

 武器庫の存在も、彼女たちを十分に遠ざける理由にはなる。

 

 だが、それらは一番の理由ではなかった。

 

 この地下区画には、フランドールがいる。

 

 それだけで、妖精メイドたちにとっては十分だった。

 

 廊下の向こうから笑い声が聞こえる。

 

 扉の隙間から七色の結晶がちらりと見える。

 

 昨日まであった棚が、今日は粉になっている。

 

 そういう場所へ、自分から掃除道具を持って向かう妖精メイドは少ない。

 

 そのため、地下区画の清掃や点検、フランドールの身の回りの世話は、妖精メイドよりもクレイスが担当することが多かった。

 

 そもそも、レミリアは最初からそのつもりでクレイスを拾った。

 

 壊れていた白髪の人形を修理し、紅魔館の地下へ置いたのは、単なる気まぐれではない。

 

 フランドールの世話係。

 

 地下区画の管理者。

 

 そして、何かあった時に壊れても直せる従者。

 

 レミリアにとって、クレイスはその三つを同時に満たす珍しい拾い物だった。

 

 だから、地下中央制御室はクレイスの仕事場であり、私室であり、同時にフランドールの生活圏に限りなく近い場所でもある。

 

 妖精メイドたちは近づかない。

 

 咲夜も必要がなければ長居しない。

 

 美鈴はそもそも門から離れにくい。

 

 結果として、ここへいつも通り入ってくるのは、本人であるフランドールくらいだった。

 

 彼女はまるで地下室が一つ増えただけ、という顔で、クレイスの机の横へ来る。

 

「昨日、食べられたの?」

 

「未遂です」

 

「誰に?」

 

「ルーミアさんです」

 

 フランドールの目が、ぱっと輝いた。

 

「ルーミアがクレイスを食べたの?」

 

「摂食を試みました」

 

「それで?」

 

「気絶しました」

 

 フランドールは口元を押さえた。

 

 笑いを堪えようとしているが、あまり堪えられていない。

 

「ルーミアが?」

 

「はい」

 

「食べようとして?」

 

「はい」

 

「負けたの?」

 

「勝敗ではありません」

 

「絶対負けてるわ」

 

「分類不能です」

 

「美味しかったって?」

 

「まずいと発言していました」

 

 フランドールは肩を震わせた。

 

「でしょうね」

 

「根拠を確認してもよろしいですか」

 

「クレイス、食べ物っぽくないもの」

 

「ルーミアさんは判断できませんでした」

 

「ルーミアだからね」

 

「説明として成立しています」

 

 フランドールは技術保守日誌を覗き込む。

 

「摂食未遂に伴う急性化学物質中毒、って書いてある」

 

「事案名です」

 

「名前が強いわね」

 

「正確性を優先しました」

 

「ただの『食べたら倒れた』じゃだめなの?」

 

「事故分類として不正確です」

 

「でも分かりやすいわ」

 

「記録名には採用しません」

 

 フランドールは日誌の最後を読む。

 

「僕は食品ではありません、って書いてある」

 

「備考です」

 

「備考に書くことなの?」

 

「再発防止に必要です」

 

「じゃあ、入口にも書く?」

 

「検討しましたが、表示の逆効果が懸念されます」

 

「逆効果?」

 

「食用不可と書くことで、食用の可能性がある対象に見える危険があります」

 

 フランドールは少し黙った。

 

 次の瞬間、楽しそうに笑った。

 

「それ、すごく分かる」

 

「理解されました」

 

「書いてあったら、たぶん妖精メイドが遠くから噂するわ。『クレイスって食べられるの?』って」

 

「誤解の拡散を確認しました」

 

「書かない方がいいわね」

 

「そのため、日誌記録に留めます」

 

「じゃあ私も覚えておくわ」

 

「感謝します」

 

「クレイスは食べない」

 

「はい」

 

「食べてもまずい」

 

「味覚評価はルーミアさん由来です」

 

「まずいクレイス」

 

「評価名としては不適切です」

 

「食べ物じゃないクレイス」

 

「はい」

 

 フランドールは、まだくすくす笑っている。

 

 それから、クレイスの修繕された腕を指さした。

 

「昨日噛まれたところ、見せて」

 

「観察目的ですか」

 

「うん」

 

 クレイスは腕を差し出した。

 

 フランドールは傷口をじっと見る。

 

 先ほどまでの笑いが少し引き、興味深そうな顔になる。

 

「中、青いのね」

 

「冷却液です」

 

「血みたいなもの?」

 

「機能の一部は近似しますが、摂食には適しません」

 

「知ってる。まずいんでしょう?」

 

「僕自身は味覚評価できません」

 

「じゃあ、ルーミア評価ね」

 

「はい」

 

 フランドールはしばらく傷を見ていた。

 

 そして、机の上に置かれた日誌の最後へ指を置く。

 

«備考:僕は食品ではありません。»

 

「これ、やっぱりいいわね」

 

「よい、とは」

 

「お姉様にも見せたい」

 

「不要な共有と判断します」

 

「お姉様、絶対笑うわ」

 

「共有リスクが増大しました」

 

「咲夜も読むわ」

 

「さらに増大しました」

 

「美鈴は笑うのを我慢するわね」

 

「被害が拡大しています」

 

 クレイスは日誌を閉じた。

 

 フランドールは満足そうに笑っている。

 

 中央制御室の機械音だけが、いつも通りに続いていた。

 

 その日からしばらく、フランドールはクレイスを見るたびに、

 

「食べ物じゃないクレイス」

 

 と呼んだ。

 

 クレイスはそのたびに、

 

「はい」

 

 とだけ答えた。

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