夕暮れの魔法の森は、いつもより暗かった。
太陽が沈みきる前から、木々の影は濃くなっていた。
枝の隙間には、夜より少し早く来た黒いものが溜まっている。
風が吹くたび、葉がこすれ、湿った土の匂いが動いた。
クレイスは森の道を歩いていた。
紅魔館から香霖堂へ部品を取りに行った帰りである。
片手には工具箱。
もう片方の腕には、布に包んだ小型部品。
紅魔館従者服。
白い髪。
後頭部の一本三つ編み。
黒い瞳に、赤い×印。
森の暗さの中では、その赤だけがやけに冷たく浮いて見えた。
その赤が、ふと横へ動いた。
クレイスの足が止まる。
鳥の羽音ではない。
獣の足音でもない。
音が少なすぎる。
空気の動きだけが、ほんの少し変わっていた。
«НЕИЗВЕСТНОЕ ДВИЖЕНИЕ:ОБНАРУЖЕНО
未識別移動:検出
НАПРАВЛЕНИЕ:СВЕРХУ СПРАВА
方向:右上方»
クレイスが顔を上げるより早く、視界が黒く潰れた。
闇だった。
ただの夜ではない。
森の暗さが深くなったのではなく、視界そのものを黒い布で塞がれたような感覚だった。
木々も、夕焼けの残りも、足元の道も消える。
音まで少し遠くなる。
湿った土の匂いだけが、妙に近かった。
発生源、不明。
範囲、不明。
術式か、妖力か、能力か。
少なくとも、自然現象ではない。
«ВНЕШНЯЯ ВИДИМОСТЬ:ПОТЕРЯНА
外部視界:喪失
ОПТИЧЕСКИЙ КАНАЛ:БЛОКИРОВАН
光学系統:遮断
ПРИЧИНА:НЕИЗВЕСТНА
原因:不明
ПЕРЕХОД В РЕЖИМ ОСТОРОЖНОСТИ
警戒状態へ移行»
クレイスの内部処理が切り替わる。
視覚情報を捨てる。
聴覚を上げる。
足裏の振動を拾う。
周囲の温度差を読む。
魔力の流れを輪郭の代わりにする。
右上。
接近。
速度、速い。
質量、小。
妖怪反応。
クレイスは工具箱を外側へ逃がし、左腕の部品を脇へ寄せた。
首と胴体への接触を避けるため、半歩だけ体を引く。
だが、闇の中の動きはそれより早かった。
次の瞬間、右前腕に圧力。
人工皮膚が裂ける音。
硬質樹脂に歯が当たる感触。
痛みではない。
損傷警告だった。
«ПОВРЕЖДЕНИЕ:ПРАВОЕ ПРЕДПЛЕЧЬЕ
損傷:右前腕»
クレイスが右腕を見る。
見えない。
だが、分かる。
何かが噛みついている。
闇の中で、金色に近い髪がわずかに揺れた。
その時になって、近すぎる声が聞こえた。
「……ん?」
声は右腕のすぐ先。
噛みついた相手のものだった。
クレイスの内部照合が走る。
小柄。
金髪。
闇を発生させる妖怪。
捕食行動。
魔法の森周辺での遭遇記録。
«КАНДИДАТ:РУМИЯ
候補:ルーミア
ДОСТОВЕРНОСТЬ:ВЫСОКАЯ
確度:高»
この時点で、ようやく名前が浮かんだ。
ルーミア。
だが、名前が分かったところで状況は改善しない。
彼女は、もう噛みついていた。
ルーミアは人間だと思ったのだろう。
夕暮れの森を歩く、小柄な影。
闇で包めば見えなくなる。
見えなくなれば逃げられない。
逃げられなければ食べられる。
ルーミアの中では、それで終わるはずだった。
だが、歯の下にあったのは肉ではなかった。
柔らかい腕ではない。
温かい血でもない。
人工皮膚の下には、細い配管と樹脂で覆われた配線が詰まっていた。
さらに奥から、青い液体が一筋垂れる。
血ではなかった。
冷却液だった。
蛍光を帯びたような青い液体が、クレイスの袖口を濡らし、ルーミアの舌へ触れた。
«УТЕЧКА ОХЛАЖДАЮЩЕЙ ЖИДКОСТИ:НАЧАЛО
冷却液漏出:開始
РИСК ДЛЯ НАПАДАВШЕГО:ВЫСОКИЙ
攻撃者への危険:高
ПРИОРИТЕТ:ПРЕКРАЩЕНИЕ КОНТАКТА
優先:接触停止»
クレイスの判断は一瞬だった。
相手は既に摂取している。
警告では遅い。
会話ではもっと遅い。
接触を解除する。
彼は噛まれた腕を無理に引き抜かなかった。
それをすれば、人工皮膚がさらに裂け、冷却液の漏出量が増える。
代わりに、空いた手でルーミアの肩を押さえ、顎の角度をずらした。
力は最小限。
だが、動きは速かった。
「摂取を中止してください」
「なにこれ」
ルーミアの声が、すぐに変わった。
遊びの色が消える。
舌の上に残った青い液が、唾液と混ざって薄く広がっていく。
ぴり、とした。
次に、じん、とした。
それから、舌の形が自分のものではなくなったような、嫌な痺れが来た。
「変な味がする」
「会話を中止してください」
「すっぱい。苦い。なにこれ」
「嚥下を避けてください」
「舌が、びりびりする」
ルーミアは慌てて口を離した。
闇の球が、ぐらりと揺れる。
いつもなら、闇は自分の体の一部みたいなものだった。
隠れる場所。
遊ぶ場所。
食べるための場所。
それが今は、黒い布を何枚も重ねて顔に押しつけられているように感じる。
「暗い」
ルーミアの声が細くなった。
「能力制御が乱れています」
「分かってる。でも、暗い」
自分の闇が、怖い。
その感覚が、ルーミアをさらに混乱させた。
足元が揺れる。
木がどこにあるのか分からない。
クレイスがどこにいるのかも、一瞬分からなくなる。
いや、赤い光だけは見えた。
闇の中で、クレイスの目の赤だけが、針みたいに細く浮いている。
「何これ。何これ。何これ」
「中毒症状の疑いあり。搬送します」
「口の中、変……」
「発話不要」
冷たい言い方だった。
だが、今はそれでよかった。
喋れば、残った液をさらに飲み込む可能性がある。
クレイスはルーミアの顎を支え、顔を横へ向けた。
口元に残った青い液を、袖の破れていない部分で拭う。
完全ではない。
だが、それ以上の摂取は防げる。
闇がほどけ始めた。
木々の輪郭。
沈みかけの空。
道の上に落ちた影。
その全部が、破れた幕のように戻ってくる。
ルーミアはふらりと揺れた。
浮いていられない。
足元が分からない。
自分の闇が、自分の手からすり抜けていく。
「クレイス……」
声から、完全に遊びが消えていた。
小さく、頼りない声だった。
「これ、出したい」
「永遠亭へ搬送します」
「今すぐ……」
「はい」
それ以上、クレイスは聞かなかった。
聞いている時間はなかった。
ルーミアの体から力が抜ける。
地面へ落ちる前に、クレイスは彼女を受け止めた。
片腕は損傷している。
冷却液も漏れている。
だが、搬送対象を地面へ落とすよりはましだった。
«СОСТОЯНИЕ:СОЗНАНИЕ СНИЖЕНО
状態:意識低下
РИСК ОТРАВЛЕНИЯ:ВЫСОКИЙ
中毒リスク:高
ПРИОРИТЕТ:МЕДИЦИНСКАЯ ТРАНСПОРТИРОВКА
優先:医療搬送»
クレイスは工具箱をその場へ置いた。
布包みの部品も置いた。
回収は後でいい。
今は不要だった。
彼は破れた袖をきつく折り込み、冷却液の漏出を最低限に抑える。
次に、ルーミアの口元をもう一度確認した。
青い付着は残っている。
呼吸はある。
意識は薄い。
魔力は乱れている。
歩行搬送では遅い。
クレイスはルーミアを抱え上げた。
小柄な妖怪は、見た目より軽い。
だが、軽いから安全というわけではない。
揺らせば吐く。
落とせば頭を打つ。
遅れれば、体内に残った液がさらに回る。
クレイスは森の奥へ向き直った。
永遠亭。
最短経路。
竹林経由。
罠の可能性あり。
夜間視界低下。
片腕損傷。
搬送対象あり。
それでも、選択肢は一つだった。
«МАРШРУТ:ЭЙЭНТЭЙ
経路:永遠亭
РЕЖИМ:ЭКСТРЕННАЯ ТРАНСПОРТИРОВКА
状態:緊急搬送»
クレイスは走り出した。
足音は小さい。
だが、速い。
森の根を避け、低い枝をくぐり、柔らかい土を蹴る。
腕の中で、ルーミアがかすかに呻いた。
「まずい……」
「発話不要」
「こわい……」
クレイスの足が、一瞬だけ強く地面を蹴った。
表情は変わらない。
けれど、速度は上がった。
「搬送中です」
それだけ言って、彼は闇の残る森を抜けた。
◇
竹林に入る頃には、完全に夜になっていた。
迷いの竹林は、道を知っていても迷う。
同じ竹が何度も現れ、風の音が左右から重なり、踏み跡は数歩ごとに消える。
月明かりは竹の葉に裂かれ、地面には細い光がばらばらに落ちていた。
クレイスは地図を持っていない。
だが、足は止まらなかった。
足裏へ返る振動。
竹の密度。
地面の傾き。
枝葉に反射する音。
気流の流れ。
それらを一つずつ照合しながら進む。
人間の勘ではない。
自律人形としての外部環境認識。
そして、元軍事兵器として組み込まれた罠検出処理だった。
普段なら、それは無音の作業に近い。
だが今は違う。
右腕損傷。
冷却液漏出。
搬送対象あり。
両手の自由度低下。
戦闘回避優先。
緊急時の反撃精度低下。
クレイスの内部では、赤い項目がいくつも点灯していた。
«РЕЖИМ ОСТОРОЖНОСТИ:ПРОДОЛЖАЕТСЯ
警戒状態:継続
ПОДВИЖНОСТЬ:ОГРАНИЧЕНА
機動性:制限
ЗАЩИТА ОБЪЕКТА:ПРИОРИТЕТ
搬送対象保護:優先»
腕の中で、ルーミアが小さく呻いた。
「うう……変な味……」
「発話不要」
「まだ、びりびりする……」
「搬送中です」
「暗いの、やだ……」
クレイスは答えなかった。
言葉を返す時間より、足を進める時間が必要だった。
噛まれた腕からは、まだ少し青い冷却液が滲んでいる。
それが地面へ落ちないよう、破れた袖を内側へ折り込んでいた。
「漏出抑制」
誰に聞かせるでもなく呟く。
その時、クレイスの足が止まった。
前方の地面。
竹の葉が薄く積もった場所。
一見、普通の道に見える。
だが、表面の沈み方が周囲と違う。
足を置く前から、地中の空洞が返す音だけが軽かった。
«ПОВЕРХНОСТЬ:НЕСТАБИЛЬНА
地表:不安定
ПУСТОТА ПОД ПОЧВОЙ:ОБНАРУЖЕНА
地中空洞:検出
КЛАССИФИКАЦИЯ:ПРОСТАЯ ЛОВУШКА
分類:簡易罠»
クレイスは一歩、横へずれた。
いつもより動作が遅い。
ルーミアの頭が揺れない角度を選ぶ必要があった。
落ち葉の盛られた場所を迂回する。
通り過ぎた直後、後ろで竹の葉が少し崩れた。
穴の縁が露出する。
底は浅い。
だが、抱えた相手を落とすには十分だった。
クレイスは振り返らない。
数歩進む。
今度は足元に、細い張線があった。
落ち葉と同じ色に染めた糸。
低い位置。
膝ではなく、足首を狙う高さ。
«НАТЯНУТАЯ ЛИНИЯ:ОБНАРУЖЕНА
張線:検出
МЕХАНИЗМ СРАБАТЫВАНИЯ:ЕСТЬ
作動機構:あり
КЛАССИФИКАЦИЯ:БУБИ-ЛОВУШКА
分類:ブービートラップ»
クレイスは無言で跨いだ。
ルーミアを抱えたままでは、普段より足が上がらない。
袖口の内側で、冷却液がまた少し滲んだ。
彼は動作を止めず、左足を先に置き、体重を分散させる。
張線の先で、吊られた竹筒が揺れる。
中身は石か、水か、あるいはもっと腹立たしい何か。
確認する必要はなかった。
さらに進む。
踏板。
偽装された穴。
浅く張られた縄。
落ち葉の下に隠された滑る竹皮。
どれも、殺すためのものではない。
だが、転ばせる。
落とす。
驚かせる。
搬送中には、それで十分危険だった。
クレイスは一つずつ避けていく。
避けるたび、竹の奥で小さな気配が動いた。
白い耳が一瞬、闇に浮かぶ。
すぐに消える。
因幡てゐだ。
彼女は姿を見せない。
ただ、クレイスが罠を踏まないたびに、竹の葉の向こうで何かが不満そうに揺れた。
仕掛けた者にとって、踏まれない罠ほど腹立たしいものはない。
努力が無駄になるからである。
努力の方向が間違っているのは、また別の話だった。
クレイスはそちらへ目を向けない。
相手が誰であれ、今の優先順位は変わらない。
搬送対象。
永遠亭。
到着時間。
罠回避。
損傷拡大防止。
警戒項目は増えていた。
減ってはいない。
竹林の奥で、火の粉がひとつ浮かんだ。
クレイスの足が止まる。
体の向きが半分だけ変わった。
ルーミアを庇うように、左肩を前へ出す。
右腕は損傷中。
近接戦闘には不利。
火。
人型。
高温。
再生反応の気配。
«НОВЫЙ ОБЪЕКТ:ОБНАРУЖЕН
新規対象:検出
ТЕМПЕРАТУРА:ВЫСОКАЯ
温度:高
КЛАССИФИКАЦИЯ:ФУДЗИВАРА НО МОКОУ
分類:藤原妹紅
УРОВЕНЬ УГРОЗЫ:СРЕДНИЙ
脅威段階:中»
「おい」
低い声がした。
藤原妹紅が、竹の間から歩いてくる。
彼女は最初にクレイスを見た。
次に、腕の中のルーミアを見た。
最後に、破れた袖と青く濡れた腕を見る。
眉間に皺が寄った。
驚き。
警戒。
それから、面倒事を見つけてしまった者の諦め。
火の粉が、彼女の肩口で小さく弾けた。
「何を抱えてる」
「ルーミアさんです」
「それは見れば分かる」
「急性中毒の疑い。永遠亭へ搬送中です」
妹紅の顔から、冗談の色が消えた。
「何を食べた」
「僕です」
妹紅は黙った。
火の粉だけが、二人の間で揺れた。
クレイスは妹紅を見ている。
瞬きは少ない。
いつもの無表情ではある。
だが、今は観察の密度が違った。
火力。
距離。
姿勢。
声の緊張。
敵意なし。
警戒あり。
介入可能性あり。
妹紅は一度、ルーミアを見る。
次に、クレイスの腕を見る。
それから、深く息を吐いた。
「……一回、短く説明しろ」
「ルーミアさんが僕の右腕を摂食。内部冷却液を摂取。意識低下」
「十分だ。こっちへ来い」
妹紅はそれ以上聞かなかった。
聞いている場合ではないことが分かったのだろう。
腕の中で、ルーミアがかすかに動く。
「まずい……」
「お前、本当に食ったのか」
「こわい……」
妹紅の眉が、さらに寄った。
「急ぐぞ」
「はい」
「このまま真っ直ぐ進むな。罠が多い。あいつがまた道をいじった」
妹紅は竹の奥へ視線を投げた。
白い耳が、すぐに引っ込む。
「まあ、悪気だけでやってるわけじゃないが、今の荷物には向かない」
「搬送対象への衝撃を避けます」
「なら、こっちだ」
妹紅は迷わず脇道へ入った。
道というより、竹と竹の隙間だった。
普通の人間なら、すぐに方向を失う。
だが妹紅は足元を見ずに進んでいく。
この竹林に慣れきった歩き方だった。
クレイスはその後に続いた。
ただし、距離は詰めすぎない。
妹紅を敵とは判断していない。
だが、完全に背中を預けてもいない。
ルーミアを抱えたまま、クレイスは妹紅の歩幅、足音、火の粉の揺れを読みながら進んだ。
「その青いの、垂らすなよ」
「漏出抑制済みです」
「そういうところだけ妙にしっかりしてるな」
「優先事項です」
「食われる前に避けるのも優先しろ」
「警戒は行いました」
「結果、食われてるだろ」
「修正します」
「あとでやれ。今は走る」
妹紅は速度を上げた。
クレイスも続く。
竹林の奥で、また白い耳が揺れた。
今度は近づいてこない。
ただ、こちらの様子を窺っている。
妹紅が声を張った。
「てゐ。今日はやめとけ。急患だ」
返事はない。
代わりに、どこかで小さく竹筒が鳴った。
罠を片づけているのか。
別の場所へ移しているのか。
どちらにせよ、クレイスは確認しなかった。
妹紅の案内で進むうち、竹の密度が少しずつ薄くなる。
視界の奥に、永遠亭の灯りが差し込んだ。
クレイスの内部表示に、目的地候補が確定する。
«ЦЕЛЬ:ЭЙЭНТЭЙ
目的地:永遠亭
РАССТОЯНИЕ:МАЛОЕ
距離:短»
妹紅が足を止めた。
「ここからなら分かるだろ」
「はい。案内に感謝します」
「礼はいい。急げ」
「はい」
妹紅はルーミアを見下ろした。
「おい、ルーミア。生きてるか」
「……暗いの、やだ……」
「生きてるな。けど、まずいな」
「生存反応を確認。搬送を継続します」
「急げ」
クレイスは永遠亭の門へ向かった。
妹紅は少し離れた場所で立ち止まり、最後まで見送る。
その背後の竹林では、白い耳が一度だけ揺れた。
今度はすぐに消えた。
◇
門前にいた鈴仙が、クレイスの姿を見て耳を跳ねさせた。
「え、何? 急患?」
声が一段高くなる。
夜の永遠亭で、青い液を滲ませた人形が、気絶しかけた妖怪を抱えて来る。
冷静でいろという方が酷だった。
「はい」
クレイスはルーミアを抱えたまま答えた。
ただし、足は門の内側へ踏み込みすぎない。
視線は鈴仙だけでなく、廊下の奥、庭、屋根の影にも動いている。
医療施設。
友好可能性高。
だが、警戒解除にはまだ早い。
「妖怪が僕を摂食しようとし、冷却液および内部化学物質を摂取しました」
「待って。最初の一文から全部おかしい」
鈴仙が固まる。
耳がぴんと立ったまま戻らない。
少し離れた場所で、妹紅が肩をすくめた。
「頑張れ」
「何で他人事なんですか!」
「私は案内しただけだ」
「案内するような急患なんですか、これ!」
「見れば分かるだろ。普通じゃない」
「見ても分からないんですよ!」
鈴仙の声が、夜の永遠亭に響いた。
その声に反応して、奥から足音が近づく。
ゆっくりしている。
だが、迷いがない。
八意永琳だった。
永琳は最初にルーミアを見た。
次にクレイスの腕を見た。
最後に、クレイスの目を見た。
「警戒しているのね」
「はい」
「正しいわ。けれど、ここでは患者を診る方を優先する。彼女を寝台へ」
短い指示だった。
説明ではない。
判断だった。
クレイスは一秒だけ永琳を見た。
敵意なし。
医療対応優先。
対象知識、高。
月由来物質への反応可能性あり。
警戒継続。
ただし、搬送先として適合。
«МЕДИЦИНСКОЕ УЧРЕЖДЕНИЕ:ПОДТВЕРЖДЕНО
医療施設:確認
ПРИОРИТЕТ:ПЕРЕДАЧА ПАЦИЕНТА
優先:患者引き渡し
РЕЖИМ ОСТОРОЖНОСТИ:СНИЖЕН
警戒状態:低下»
「了解しました」
クレイスはようやく一歩、永遠亭の中へ入った。
鈴仙が慌てて先導する。
「こっち、こっちです。師匠、これ本当に普通の急患ですか?」
「普通ではないわ」
「ですよね!」
「でも、急患ではある」
「そこは否定しないんですね!」
診療室の明かりが近づく。
クレイスはルーミアを寝台へ下ろした。
その瞬間、腕にかかっていた負荷が消える。
冷却液漏出は少量。
搬送対象は医療者へ移管。
追跡反応なし。
戦闘可能性低。
«ПЕРЕДАЧА ПАЦИЕНТА:ЗАВЕРШЕНА
患者引き渡し:完了
РЕЖИМ ОСТОРОЖНОСТИ:МИНИМАЛЬНЫЙ
警戒状態:最小»
それでも、完全解除ではなかった。
永琳がルーミアの口元についた青い液を拭い取った時、クレイスの視線がほんのわずかに動く。
その液体は、彼自身の内部を流れるものだった。
血ではない。
だが、漏れてよいものでもない。
永琳はそれに気づいたように、横目でクレイスを見た。
「あなたも、あとで診るわ」
「損傷は軽微です」
「軽微かどうかは、診る側が決めるものよ」
クレイスは沈黙した。
反論はしなかった。
鈴仙が小さく息を吐く。
「師匠、今のでちょっと安心した顔しましたよ、この人」
「顔は変わっていないわ」
「雰囲気です、雰囲気」
「記録対象外です」
「ほら、そういうところ!」
診療室の空気が、少しだけ緩んだ。
クレイスの警戒も、そこでようやく平常に近づいた。
◇
永遠亭の診療室に、ルーミアは寝かされた。
永琳は素早く脈、呼吸、瞳の反応を確認し、口元についた青い液体を小さな紙片で拭い取った。
その表情は静かだった。
だが、目だけは鋭い。
面倒な症例を見た医者の目。
そして、少しだけ興味を持ってしまった研究者の目だった。
紙片へ薬液を落とす。
青い染みが、紫色に変わった。
次に銀色。
最後に、黒に近い濃紺へ沈む。
鈴仙が顔をしかめた。
「何ですか、それ」
「飲食物ではないことだけは確かね」
「それは全員分かっています」
「全員ではないわ」
永琳は寝台のルーミアを見た。
ルーミアは目を半分開けている。
意識は戻りきっていない。
けれど、恐怖だけは残っているようだった。
「……暗いの、やだ……」
鈴仙の表情が少し変わった。
さっきまでの混乱とは別の顔だった。
患者が怖がっている顔を見ると、さすがに茶化せない。
「大丈夫。ここは明るいわよ」
鈴仙は少しだけ声を柔らかくした。
ルーミアは反応しない。
ただ、布団の端を弱く握った。
永琳はクレイスへ視線を向けた。
「あなたの内部循環液?」
「冷却液の一種です」
「ただの冷却液ではないわね」
「はい。通常の機械冷却材に加え、魔力伝導阻害剤、絶縁補助剤、化学安定剤、月由来の技術媒質が含まれます」
「月由来?」
永琳の目が少し鋭くなる。
診療室の空気が、ほんの少し変わった。
鈴仙もそれに気づき、黙る。
「はい」
「どこの月?」
「回答権限がありません」
「そう」
永琳はそれ以上追及しなかった。
代わりに、ルーミアの口を開かせ、舌の色を確認する。
切り替えが早い。
聞きたいことは山ほどあるだろうに、今は患者が先だった。
「食中毒ではないわね」
「違うんですか?」
「食べ物ではないものを口にしたのだから、化学物質の経口摂取による急性中毒。大雑把に言えば、食べてはいけないものを食べた事故よ」
「つまり、クレイスを食べたから?」
「食べたから」
「僕は食品ではありません」
「そこは全員、今理解したところよ」
永琳は戸棚へ向かった。
鈴仙が腕を組む。
「じゃあ、師匠。治療方針は?」
「解毒ではなく、排出と中和。胃の中に残っている分を処理して、あとは妖怪としての回復力に任せる」
「薬で何とかなります?」
「薬というより、掃除ね」
「胃の掃除ですか」
「かなり念入りな掃除よ」
「患者が聞いたら逃げませんか?」
「逃げられないうちに飲ませるわ」
「医者の発言ですか、それ」
「医者の判断よ」
永琳は小瓶を数本取り出した。
透明な液体。
白い粉末。
淡い緑色の丸薬。
それらを手早く混ぜ合わせ、小さな杯へ注ぐ。
杯の中身は、見た目だけなら薄い薬草茶だった。
匂いは薬草茶ではなかった。
鈴仙が一歩下がった。
「それ、患者が起きますか?」
「起こすためでもあるわ」
「別の意味で起きそうです」
永琳はルーミアの肩を軽く叩く。
「ルーミア。聞こえる?」
「……そー、なのかー……」
「返事になっていないわ」
永琳は杯をルーミアの口元へ運んだ。
「飲みなさい」
「まずいのは、もういらない……」
「これはまずいけれど必要なものよ」
「その言い方、信用できないのかー……」
「正しい判断ね」
鈴仙が小声で言った。
永琳が横目で見る。
「鈴仙」
「はい」
「支えて」
「はい」
鈴仙がルーミアの肩を支える。
永琳は迷いなく薬を飲ませた。
ルーミアの顔が一瞬で歪んだ。
「にがい!」
「意識は戻ったわね」
「師匠、確認方法が乱暴です!」
「効率的と言いなさい」
「効率で患者の顔がすごいことになってます!」
ルーミアは涙目で舌を出している。
「まずい……さっきのより、別のまずさ……」
「さっきのものを外へ出すための薬よ」
「食べなきゃよかった……」
クレイスはそこで何も言わなかった。
最初に説明した、と返すことはできた。
だが、今のルーミアはもう聞いている。
恐怖と苦味で、十分に理解している。
永琳はそれに気づいたのか、わずかに目を細めた。
「今後、彼を食べないこと」
「そーなのかー……」
「そーなのかー、ではなく、覚えなさい」
「クレイスは、人間じゃないのかー」
「はい」
「食べ物じゃないのかー」
「はい」
「でも、人間みたいな形してるのに」
「形状と可食性は一致しません」
「むずかしい」
「短縮します。僕は食品ではありません」
「そーなのかー……」
ルーミアは弱々しく頷いた。
すぐに、はっとした顔になる。
「じゃあ、魔理沙は?」
「人間よ」
鈴仙が言った。
「食べていい?」
「だめよ」
「そーなのかー」
「今、食べ物の種類を整理する時間じゃないわ」
永琳は額に指を当てた。
「鈴仙。あとでルーミアに食べてよいものと悪いものを説明しておきなさい」
「私がやるんですか?」
「あなたが一番逃げ足が速いでしょう」
「逃げる前提なんですね」
永琳はそのやり取りを切り上げ、クレイスの腕へ近づく。
「あなたの方も診せなさい」
「損傷は軽微です」
「軽微でも、冷却液が漏れているでしょう」
「自己修復は可能です」
「ここで垂らされたら困るの」
「漏出抑制の観点から同意します」
クレイスは素直に腕を差し出した。
永琳は破れた人工皮膚を確認し、内部配管の亀裂を見た。
青い冷却液が、細い血管のような管から滲んでいる。
鈴仙が横から覗き込み、すぐに顔を引いた。
「本当に人間じゃない……」
「最初に申告しました」
「それは聞いたけど、見ると違うのよ」
「視覚情報の影響を確認しました」
「確認しなくていいから」
永琳は小さな器具で漏出箇所を押さえ、仮の封止材を塗った。
「本格的な修理は紅魔館でやりなさい。ここでは応急処置まで」
「十分です」
「それと、今後この液体を妖怪に摂取させないこと」
「食べさせていません」
「食べられないようにしなさい」
「警戒手順を修正します」
「そうして」
永琳は寝台の上のルーミアを見る。
ルーミアは苦い薬の味に耐えながら、枕へ顔を半分埋めている。
「一晩ここで様子を見るわ。起きても勝手に帰らないこと」
「帰っちゃだめ?」
「だめ」
「お腹空いたら?」
「普通の食べ物を出すわ」
ルーミアはゆっくりとクレイスを見た。
「クレイスは?」
「食べ物ではありません」
クレイス、永琳、鈴仙の声が同時に重なった。
診療室に短い沈黙が落ちる。
ルーミアは布団を少し引き上げた。
「そーなのかー」
「今ので覚えて」
鈴仙が疲れた声で言った。
◇
夜が深くなった頃、クレイスは永遠亭の玄関に立っていた。
腕には応急処置が施され、破れた袖は仮縫いされている。
警戒状態は解除されている。
だが、処理記録はまだ内部に残っていた。
視界喪失。
右前腕損傷。
冷却液漏出。
ルーミア意識低下。
緊急搬送。
竹林罠回避。
医療施設引き渡し。
事案としては、十分に長い。
鈴仙は、まだ心配と困惑が半分ずつ混ざった顔をしていた。
「本当に一人で帰れるの?」
「歩行機能に異常はありません」
「そういう意味じゃなくて」
「迷いの竹林の脱出経路は記録済みです」
「それもそういう意味じゃないのよ」
「別の意味を提示してください」
「そういうところよ」
鈴仙は肩を落とした。
心配しているのに、相手が全部機能の話で返してくる。
兎の耳も疲れる。
永琳が奥から出てきた。
「ルーミアは寝たわ。明日の朝には動けるでしょう」
「了解しました」
「あなたも、内部液の漏れが悪化したらすぐに処置しなさい」
「紅魔館へ戻り次第、自己修理を実施します」
「それと、月由来の技術媒質については、いずれ詳しく聞かせてもらうわ」
クレイスは一秒だけ沈黙した。
「回答権限を確認します」
「逃げ方が機械的ね」
「逃走ではありません」
「そういうことにしておきましょう」
永琳は診療室の方へ視線を向けた。
「ルーミアには、あなたを食べないよう伝えておくわ」
「感謝します」
「ただ、彼女がどこまで理解するかは別問題ね」
「その点は認識しています」
鈴仙が小さくため息をついた。
「今日の教訓は、人形を食べてはいけない、でいいの?」
「正確には、内部に冷却液、絶縁材、配電系統、化学安定剤、月由来の技術媒質を含む自律人形を摂食してはいけない、です」
「誰も覚えられないわよ」
「短縮します」
「どう短縮するの?」
「僕は食品ではありません」
「それでいいと思う」
クレイスは軽く頭を下げた。
「治療協力に感謝します」
「食べられた側が礼を言う急患は珍しいわね」
「搬送対象はルーミアさんでした」
「あなたも十分、急患だったわ」
「分類を修正します」
「本当に全部記録するのね」
「はい」
「紅魔館って大変ね」
「はい」
「今のは同意なの?」
「事実確認です」
クレイスは玄関を出た。
竹林の夜へ向かって歩き出す。
永遠亭の中では、まだ薬の匂いが残っていた。
診療室では、ルーミアが寝台の上で眠っている。
枕元には、鈴仙が忘れないように書いた紙が置かれていた。
«人形を食べない
特に青い液が出るもの»
鈴仙はその紙を見て、少し考えた。
そして、さらに下へ小さく書き足した。
«人里の人間は食べない事»
少し間を置いて、もう一行足した。
«魔理沙もだめ»
◇
翌朝。
紅魔館の地下中央制御室では、クレイスが作業机に座り、技術保守日誌を開いていた。
腕の人工皮膚はまだ完全には戻っていない。
内部配管には仮の封止材。
袖には修繕跡。
森に置いてきた工具箱と部品は、夜明け前に回収済みだった。
幸い、どちらも無事だった。
ただし工具箱の上には、なぜか葉っぱが一枚載っていた。
意味は不明である。
クレイスは鉛筆を取り、事案を記録した。
«ЖУРНАЛ ТЕХНИЧЕСКОГО ОБСЛУЖИВАНИЯ
技術保守日誌
НАЗВАНИЕ ИНЦИДЕНТА:ОСТРОЕ ХИМИЧЕСКОЕ ОТРАВЛЕНИЕ ПРИ ПОПЫТКЕ ПОЕДАНИЯ
事案名:摂食未遂に伴う急性化学物質中毒
МЕСТО:МАГИЧЕСКИЙ ЛЕС
場所:魔法の森
НАПАДАВШИЙ:РУМИЯ
加害者:ルーミア
ПОСТРАДАВШИЙ:КЛЕЙС МАЯКОВСКИЙ
被害者:クレイス
ПОВРЕЖДЕНИЕ:ПРАВОЕ ПРЕДПЛЕЧЬЕ、ИСКУССТВЕННАЯ КОЖА、ОХЛАЖДАЮЩАЯ ТРУБКА
損傷:右前腕、人工皮膚、冷却配管
УТЕЧКА ОХЛАЖДАЮЩЕЙ ЖИДКОСТИ:МАЛАЯ
冷却液漏出:少量
МЕДИЦИНСКАЯ ТРАНСПОРТИРОВКА:ЭЙЭНТЭЙ
医療搬送先:永遠亭
СОСТОЯНИЕ РУМИИ:ВОССТАНАВЛИВАЕТСЯ
ルーミア状態:回復中
ПРИМЕЧАНИЕ:Я НЕ ЯВЛЯЮСЬ ПИЩЕЙ
備考:僕は食品ではありません。»
最後の一行を書いたところで、入口横の白黒モニターに人影が映った。
鉄扉の前に、フランドールが立っている。
彼女は監視カメラを見上げ、笑顔で片手を振った。
それから、いつものように呼出ベルを押す。
«ВЫЗОВ У ВХОДА
入口から呼出»
クレイスは操作卓のスイッチを入れた。
鉄扉の錠が外れ、重い音を立てて開く。
フランドールが中央制御室へ入ってきた。
「おはよう、クレイス」
「おはようございます、フラン様」
フランドールは制御盤の光にも、磁気テープの回転にも慣れている。
妖精メイドたちの多くは、この地下中央制御室へ近づきたがらない。
もちろん、鉄扉やロシア語の警告板、高電圧の札、低く唸る変圧器も怖い。
武器庫の存在も、彼女たちを十分に遠ざける理由にはなる。
だが、それらは一番の理由ではなかった。
この地下区画には、フランドールがいる。
それだけで、妖精メイドたちにとっては十分だった。
廊下の向こうから笑い声が聞こえる。
扉の隙間から七色の結晶がちらりと見える。
昨日まであった棚が、今日は粉になっている。
そういう場所へ、自分から掃除道具を持って向かう妖精メイドは少ない。
そのため、地下区画の清掃や点検、フランドールの身の回りの世話は、妖精メイドよりもクレイスが担当することが多かった。
そもそも、レミリアは最初からそのつもりでクレイスを拾った。
壊れていた白髪の人形を修理し、紅魔館の地下へ置いたのは、単なる気まぐれではない。
フランドールの世話係。
地下区画の管理者。
そして、何かあった時に壊れても直せる従者。
レミリアにとって、クレイスはその三つを同時に満たす珍しい拾い物だった。
だから、地下中央制御室はクレイスの仕事場であり、私室であり、同時にフランドールの生活圏に限りなく近い場所でもある。
妖精メイドたちは近づかない。
咲夜も必要がなければ長居しない。
美鈴はそもそも門から離れにくい。
結果として、ここへいつも通り入ってくるのは、本人であるフランドールくらいだった。
彼女はまるで地下室が一つ増えただけ、という顔で、クレイスの机の横へ来る。
そして、日誌の開かれたページを見た。
「昨日、食べられたの?」
声が弾んでいた。
心配より先に好奇心が来ている。
フランドールらしい順番だった。
「未遂です」
「誰に?」
「ルーミアさんです」
フランドールの目が、ぱっと輝いた。
「ルーミアがクレイスを食べたの?」
「右前腕を摂食しました」
「それで?」
「中毒症状を発生。永遠亭へ搬送しました」
フランドールは口元を押さえた。
笑いを堪えようとしているが、あまり堪えられていない。
「ルーミアが?」
「はい」
「食べようとして?」
「はい」
「倒れたの?」
「意識低下を起こしました」
「負けてるわ」
「勝敗ではありません」
「絶対負けてるわ」
「分類不能です」
「美味しかったって?」
「まずいと発言していました」
フランドールは肩を震わせた。
「でしょうね」
「根拠を確認してもよろしいですか」
「クレイス、食べ物っぽくないもの」
「ルーミアさんは判断できませんでした」
「ルーミアだからね」
「説明として成立しています」
フランドールは技術保守日誌を覗き込む。
「摂食未遂に伴う急性化学物質中毒、って書いてある」
「事案名です」
「名前が強いわね」
「正確性を優先しました」
「ただの『食べたら倒れた』じゃだめなの?」
「事故分類として不正確です」
「でも分かりやすいわ」
「記録名には採用しません」
フランドールは日誌の最後を読む。
「僕は食品ではありません、って書いてある」
「備考です」
「備考に書くことなの?」
「再発防止に必要です」
「じゃあ、入口にも書く?」
「検討しましたが、表示の逆効果が懸念されます」
「逆効果?」
「食用不可と書くことで、食用の可能性がある対象に見える危険があります」
フランドールは少し黙った。
次の瞬間、楽しそうに笑った。
「それ、すごく分かる」
「理解されました」
「書いてあったら、たぶん妖精メイドが遠くから噂するわ。『クレイスって食べられるの?』って」
「誤解の拡散を確認しました」
「書かない方がいいわね」
「そのため、日誌記録に留めます」
「じゃあ私も覚えておくわ」
「感謝します」
「クレイスは食べない」
「はい」
「食べてもまずい」
「味覚評価はルーミアさん由来です」
「まずいクレイス」
「評価名としては不適切です」
「食べ物じゃないクレイス」
「はい」
フランドールは、まだくすくす笑っている。
それから、クレイスの修繕された腕を指さした。
「昨日噛まれたところ、見せて」
「観察目的ですか」
「うん」
クレイスは腕を差し出した。
フランドールは傷口をじっと見る。
先ほどまでの笑いが少し引き、興味深そうな顔になる。
その奥に、ほんのわずかな心配もあった。
壊れるものを見るのは好きだ。
だが、クレイスが壊れたままなのは、少し違う。
フランドールはそこをまだ言葉にしなかった。
「中、青いのね」
「冷却液です」
「血みたいなもの?」
「機能の一部は近似しますが、摂食には適しません」
「知ってる。まずいんでしょう?」
「僕自身は味覚評価できません」
「じゃあ、ルーミア評価ね」
「はい」
フランドールはしばらく傷を見ていた。
そして、机の上に置かれた日誌の最後へ指を置く。
«備考:僕は食品ではありません。»
「これ、やっぱりいいわね」
「よい、とは」
「お姉様にも見せたい」
「不要な共有と判断します」
「お姉様、絶対笑うわ」
「共有リスクが増大しました」
「咲夜も読むわ」
「さらに増大しました」
「美鈴は笑うのを我慢するわね」
「被害が拡大しています」
クレイスは日誌を閉じた。
フランドールは満足そうに笑っている。
中央制御室の機械音だけが、いつも通りに続いていた。
その日からしばらく、フランドールはクレイスを見るたびに、
「食べ物じゃないクレイス」
と呼んだ。
クレイスはそのたびに、
「はい」
とだけ答えた。この版では、ルーミアの登場は不意打ち、クレイスの認識は未識別→照合→候補ルーミア、被害後は即処置・即搬送にしてある。
前の妙な悠長さは削った。やっと急患を急患として扱ってる。救急対応にアンケートを混ぜるな、という文明の最低ラインに到達した。