夕暮れの魔法の森は、いつもより暗かった。
太陽が沈みきる前から木々の影は濃くなり、枝の隙間には黒いものが溜まっている。
その黒いものが、ゆっくり動いた。
「人間?」
闇の中から、金色の髪が覗く。
ルーミアだった。
彼女は木の枝へ逆さに引っかかるように浮かび、下を歩く相手をじっと見ていた。
紅魔館から香霖堂へ部品を取りに行った帰りの、クレイスである。
「人間ではありません」
クレイスは足を止めずに答えた。
「じゃあ食べてもいい?」
「よくありません」
「そーなのかー」
ルーミアは頷いた。
頷いた直後、闇が膨らんだ。
黒い球のような影が周囲を包み込み、森の道も、木も、空も見えなくなる。
クレイスの視界が暗転した。
«ВНЕШНЯЯ ВИДИМОСТЬ:ПОТЕРЯНА
外部視界:喪失»
「警告します。僕は可食対象ではありません」
「食べてみないと分からないのかー」
「分かります」
「私は分からない」
「情報共有に失敗しました」
「難しいこと言う人間は、だいたい食べられるのかー」
「人間ではありません」
「じゃあ、難しい食べ物なのかー」
「食べ物ではありません」
闇の中で、ルーミアが楽しそうに笑った。
次の瞬間、彼女はクレイスの腕へ噛みついた。
人工皮膚が破れる。
肉ではなく、細い配管と樹脂で覆われた配線が覗く。
さらにその奥から、青い液体が一筋垂れた。
血ではなかった。
冷却液だった。
蛍光を帯びたような青い液体は、クレイスの袖口を濡らし、ルーミアの口元へ触れた。
「……ん?」
「摂取を中止してください」
「ちょっと待って」
「中止してください」
「変な味がする」
「中止してください」
「すっぱい」
「中止してください」
「苦い」
「中止してください」
「金物屋の裏を雨の日に舐めた味がする」
「味覚表現が不明です」
「あと、古い電池」
「摂取物の一部は電気系統由来です」
「当たってるの!?」
「摂取を中止してください」
「舌が、びりびりする」
「遅いです」
ルーミアがクレイスから離れた。
闇の球がぐらりと揺らぐ。
彼女は口元を押さえ、ふらふらと後ずさった。
「何これ。何これ。何これ」
「冷却液です」
「食べ物じゃないの?」
「違います」
「人間の味がしない」
「人間ではありません」
「妖怪の味もしない」
「妖怪ではありません」
「じゃあ何の味?」
「青色冷却液、絶縁材、配電系統、化学安定剤、月由来の技術媒質が混在しています」
「料理名みたいに言わないで!」
「料理ではありません」
「口の中が、なんか、すごい」
「具体化してください」
「すごく嫌」
「記録しました」
「記録しないで……」
ルーミアはそこまで言うと、目を回した。
闇がほどけ、森の夕暮れが戻る。
彼女は両手をばたつかせたあと、ぽてん、と地面へ落ちた。
クレイスは破れた袖と腕を確認する。
人工皮膚に噛み跡。
冷却液の漏出。
表層配線に軽度の損傷。
運動機能に異常なし。
«ПОВРЕЖДЕНИЕ:ЛЁГКОЕ
損傷:軽微
УТЕЧКА ОХЛАЖДАЮЩЕЙ ЖИДКОСТИ:МАЛАЯ
冷却液漏出:少量
СОСТОЯНИЕ НАПАДАВШЕГО:БЕССОЗНАТЕЛЬНОЕ
攻撃者状態:意識なし»
クレイスは倒れたルーミアを見下ろした。
「警告は行いました」
返事はない。
ルーミアは完全に気絶している。
口元には青い液が少し付着し、顔色もいつもより悪い。
クレイスは数秒間、処理を行った。
このまま放置した場合、妖怪であっても危険。
紅魔館へ戻るより、医療設備のある場所へ運ぶ方が早い。
人間の医者では対応困難。
毒。
薬。
化学物質。
月由来の物質。
«СООТВЕТСТВУЮЩЕЕ УЧРЕЖДЕНИЕ:ЭЙЭНТЭЙ
該当施設:永遠亭»
クレイスは工具箱を一度地面へ置き、ルーミアを抱え上げた。
小柄な妖怪は、見た目より軽い。
闇を操る妖怪を、闇の中で食べられかけた人形が抱えて運ぶ。
状況としては奇妙だったが、クレイスは気にしなかった。
必要なのは、搬送先と到着時間だけである。
◇
竹林に入る頃には、完全に夜になっていた。
迷いの竹林は、道を知っていても迷う。
同じ竹が何度も現れ、風の音が左右から重なり、踏み跡は数歩ごとに消える。
クレイスは地図を持っていない。
だが、足は止まらなかった。
足裏へ返る振動。
竹の密度。
地面の傾き。
枝葉に反射する音。
気流の流れ。
それらを一つずつ照合しながら進む。
人間の勘ではない。
自律人形としての外部環境認識。
そして、元軍事兵器として組み込まれた罠検出処理だった。
腕の中で、ルーミアが小さく呻いた。
「うう……変な味……」
「意識を確認しました」
「まずい……」
「味覚評価は不要です」
「金物屋……」
「地点情報ではありません」
「電池……」
「摂取していません」
「食べ物じゃなかった……」
「最初に説明しました」
「そーなのかー……」
ルーミアはそこまで言うと、また力を失った。
クレイスは歩調を変えない。
噛まれた腕からは、まだ少し青い冷却液が滲んでいる。
それが地面へ落ちないよう、破れた袖を内側へ折り込んでいた。
「環境汚染防止」
誰に聞かせるでもなく呟く。
その時、クレイスの足が止まった。
前方の地面。
竹の葉が薄く積もった場所。
一見、普通の道に見える。
だが、表面の沈み方が周囲と違う。
足を置く前から、地中の空洞が返す音だけが軽かった。
«ПОВЕРХНОСТЬ:НЕСТАБИЛЬНА
地表:不安定
ПУСТОТА ПОД ПОЧВОЙ:ОБНАРУЖЕНА
地中空洞:検出
КЛАССИФИКАЦИЯ:ПРОСТАЯ ЛОВУШКА
分類:簡易罠»
クレイスは一歩、横へずれた。
ルーミアを抱えたまま、落ち葉の盛られた場所を迂回する。
通り過ぎた直後、後ろで竹の葉が少し崩れた。
穴の縁が露出する。
底は浅い。
だが、抱えた相手を落とすには十分だった。
クレイスは振り返らない。
数歩進む。
今度は足元に、細い張線があった。
落ち葉と同じ色に染めた糸。
低い位置。
膝ではなく、足首を狙う高さ。
«НАТЯНУТАЯ ЛИНИЯ:ОБНАРУЖЕНА
張線:検出
МЕХАНИЗМ СРАБАТЫВАНИЯ:ЕСТЬ
作動機構:あり
КЛАССИФИКАЦИЯ:БУБИ-ЛОВУШКА
分類:ブービートラップ»
クレイスは無言で跨いだ。
張線の先で、吊られた竹筒が揺れる。
中身は石か、水か、あるいはもっと腹立たしい何か。
確認する必要はなかった。
さらに進む。
踏板。
偽装された穴。
浅く張られた縄。
落ち葉の下に隠された滑る竹皮。
どれも、殺すためのものではない。
だが、転ばせる。
落とす。
驚かせる。
竹林をよく知る者の、悪質な遊びだった。
クレイスは一つずつ避けていく。
避けるたび、竹の奥で小さな気配が動いた。
白い耳が一瞬、闇に浮かぶ。
すぐに消える。
因幡てゐだ。
彼女は姿を見せない。
ただ、クレイスが罠を踏まないたびに、竹の葉の向こうで何かが不満そうに揺れた。
クレイスはそちらへ目を向けない。
相手が誰であれ、今の優先順位は変わらない。
搬送対象。
永遠亭。
到着時間。
その三つだけだった。
竹林の奥で、火の粉がひとつ浮かんだ。
「おい」
低い声がした。
藤原妹紅が、竹の間から歩いてくる。
彼女は最初にクレイスを見た。
次に、腕の中のルーミアを見た。
最後に、破れた袖と青く濡れた腕を見る。
眉間に皺が寄った。
「何を抱えてる」
「ルーミアさんです」
「それは見れば分かる」
「急性化学物質中毒の疑いがあります」
「何を食べた」
「僕です」
妹紅は黙った。
火の粉だけが、二人の間で揺れた。
「……一回、短く説明しろ」
「ルーミアさんが僕を食べようとして倒れました」
「最初からそれでいい」
妹紅は額を押さえた。
腕の中で、ルーミアがかすかに動く。
「まずい……」
「お前、本当に食ったのか」
「そーなのかー……」
「返事になってないな」
妹紅はルーミアの顔を覗き込んだ。
顔色は悪い。
口元には、まだ青い液が少し残っている。
「永琳のところへ行くんだな」
「はい」
「このまま真っ直ぐ進むな」
「理由を確認します」
「罠が多い。あいつがまた道をいじった」
妹紅は竹の奥へ視線を投げた。
白い耳が、すぐに引っ込む。
「まあ、悪気だけでやってるわけじゃないが、今の荷物には向かない」
「搬送対象への衝撃を避けます」
「なら、こっちだ」
妹紅は迷わず脇道へ入った。
道というより、竹と竹の隙間だった。
普通の人間なら、すぐに方向を失う。
だが妹紅は足元を見ずに進んでいく。
クレイスはその後に続いた。
「その青いの、垂らすなよ」
「環境汚染防止のため、既に対策済みです」
「そういうところだけ妙にしっかりしてるな」
「優先事項です」
「食われる前に避けるのも優先しろ」
「警告は行いました」
「警告じゃなくて避けろ」
「検討します」
「検討するな。避けろ」
妹紅は呆れたように息を吐いた。
それでも足は止めない。
竹林の奥で、また白い耳が揺れた。
今度は近づいてこない。
ただ、こちらの様子を窺っている。
妹紅が声を張った。
「てゐ。今日はやめとけ」
返事はない。
代わりに、どこかで小さく竹筒が鳴った。
罠を片づけているのか。
別の場所へ移しているのか。
どちらにせよ、クレイスは確認しなかった。
妹紅の案内で進むうち、竹の密度が少しずつ薄くなる。
視界の奥に、永遠亭の灯りが差し込んだ。
クレイスの内部表示に、目的地候補が確定する。
«ЦЕЛЬ:ЭЙЭНТЭЙ
目的地:永遠亭
РАССТОЯНИЕ:МАЛОЕ
距離:短»
妹紅が足を止めた。
「ここからなら分かるだろ」
「はい。案内に感謝します」
「礼はいい。次に来る時は、食われる前に避けろ」
「検討します」
「だから避けろって言ってるだろ」
妹紅はルーミアを見下ろした。
「おい、ルーミア。生きてるか」
「……まずい……」
「生きてるな」
「生存反応を確認しました」
「その確認でいいのか?」
「搬送を継続します」
「まあ、急げ」
クレイスは永遠亭の門へ向かった。
妹紅は少し離れた場所で立ち止まり、最後まで見送る。
その背後の竹林では、白い耳が一度だけ揺れた。
今度はすぐに消えた。
門前にいた鈴仙が、クレイスの姿を見て耳を跳ねさせた。
「え、何? 急患?」
「はい」
クレイスはルーミアを抱えたまま答えた。
「妖怪が僕を摂食しようとし、冷却液および内部化学物質を摂取しました」
「待って。最初の一文から全部おかしい」
鈴仙が固まる。
少し離れた場所で、妹紅が肩をすくめた。
「頑張れ」
「何で他人事なんですか!」
「私は案内しただけだ」
「案内するような急患なんですか、これ!」
「見れば分かるだろ。普通じゃない」
「見ても分からないんですよ!」
鈴仙の声が、夜の永遠亭に響いた。
◇
永遠亭の診療室に、ルーミアは寝かされた。
永琳は素早く脈、呼吸、瞳の反応を確認し、口元についた青い液体を小さな紙片で拭い取った。
その紙片へ薬液を落とす。
青い染みが、紫色に変わった。
次に銀色。
最後に、黒に近い濃紺へ沈む。
鈴仙が顔をしかめた。
「何ですか、それ」
「飲食物ではないことだけは確かね」
「それは全員分かっています」
「全員ではないわ」
永琳は寝台のルーミアを見た。
ルーミアは気絶したまま、口だけ少し動かしている。
「……まずい……」
「本人も分かったようね」
「遅かったですね」
「遅かったわね」
永琳はクレイスへ視線を向けた。
「あなたの内部循環液?」
「冷却液の一種です」
「ただの冷却液ではないわね」
「はい。通常の機械冷却材に加え、魔力伝導阻害剤、絶縁補助剤、化学安定剤、月由来の技術媒質が含まれます」
「月由来?」
永琳の目が少し鋭くなる。
診療室の空気が、ほんの少し変わった。
「はい」
「どこの月?」
「回答権限がありません」
「そう」
永琳はそれ以上追及しなかった。
代わりに、ルーミアの口を開かせ、舌の色を確認する。
「食中毒ではないわね」
「違うんですか?」
「食べ物ではないものを口にしたのだから、化学物質の経口摂取による急性中毒。大雑把に言えば、食べてはいけないものを食べた事故よ」
「つまり、クレイスを食べたから?」
「食べたから」
「僕は食品ではありません」
「そこは全員、今理解したところよ」
永琳は戸棚へ向かった。
鈴仙が腕を組む。
「じゃあ、師匠。治療方針は?」
「解毒ではなく、排出と中和。胃の中に残っている分を処理して、あとは妖怪としての回復力に任せる」
「薬で何とかなります?」
「薬というより、掃除ね」
「胃の掃除ですか」
「かなり念入りな掃除よ」
「患者が聞いたら逃げませんか?」
「逃げられないうちに飲ませるわ」
「医者の発言ですか、それ」
「医者の判断よ」
永琳は小瓶を数本取り出した。
透明な液体。
白い粉末。
淡い緑色の丸薬。
それらを手早く混ぜ合わせ、小さな杯へ注ぐ。
杯の中身は、見た目だけなら薄い薬草茶だった。
匂いは薬草茶ではなかった。
鈴仙が一歩下がった。
「それ、患者が起きますか?」
「起こすためでもあるわ」
「別の意味で起きそうです」
永琳はルーミアの肩を軽く叩く。
「ルーミア。聞こえる?」
「……そーなのかー」
「返事になっていないわ」
永琳は杯をルーミアの口元へ運んだ。
「飲みなさい」
「まずいのは、もういらない……」
「これはまずいけれど必要なものよ」
「その言い方、信用できないのかー……」
「正しい判断ね」
鈴仙が小声で言った。
永琳が横目で見る。
「鈴仙」
「はい」
「支えて」
「はい」
鈴仙がルーミアの肩を支える。
永琳は迷いなく薬を飲ませた。
ルーミアの顔が一瞬で歪んだ。
「にがい!」
「意識は戻ったわね」
「師匠、確認方法が乱暴です!」
「効率的と言いなさい」
「効率で患者の顔がすごいことになってます!」
ルーミアは涙目で舌を出している。
「まずい……さっきのより、別のまずさ……」
「さっきのものを外へ出すための薬よ」
「食べなきゃよかった……」
「最初に説明しました」
クレイスが言った。
ルーミアは寝台の上で、ぼんやりとクレイスを見る。
「クレイスは、人間じゃないのかー」
「はい」
「食べ物じゃないのかー」
「はい」
「でも、人間みたいな形してるのに」
「形状と可食性は一致しません」
「むずかしい」
「今後、僕を摂食対象から除外してください」
「そーなのかー……」
ルーミアは弱々しく頷いた。
すぐに、はっとした顔になる。
「じゃあ、魔理沙は?」
「人間よ」
鈴仙が言った。
「食べていい?」
「だめよ」
「そーなのかー」
「今、食べ物の種類を整理する時間じゃないわ」
永琳は額に指を当てた。
「鈴仙。あとでルーミアに食べてよいものと悪いものを説明しておきなさい」
「私がやるんですか?」
「あなたが一番逃げ足が速いでしょう」
「逃げる前提なんですね」
永琳はそのやり取りを切り上げ、クレイスの腕へ近づく。
「あなたの方も診せなさい」
「損傷は軽微です」
「軽微でも、冷却液が漏れているでしょう」
「自己修復は可能です」
「ここで垂らされたら困るの」
「環境汚染防止の観点から同意します」
クレイスは素直に腕を差し出した。
永琳は破れた人工皮膚を確認し、内部配管の亀裂を見た。
青い冷却液が、細い血管のような管から滲んでいる。
鈴仙が横から覗き込み、すぐに顔を引いた。
「本当に人間じゃない……」
「最初に申告しました」
「それは聞いたけど、見ると違うのよ」
「視覚情報の影響を確認しました」
「確認しなくていいから」
永琳は小さな器具で漏出箇所を押さえ、仮の封止材を塗った。
「本格的な修理は紅魔館でやりなさい。ここでは応急処置まで」
「十分です」
「それと、今後この液体を妖怪に摂取させないこと」
「食べさせていません」
「食べられないようにしなさい」
「警告は行いました」
「警告を聞かない相手もいるでしょう」
永琳は寝台の上のルーミアを見る。
ルーミアは苦い薬の味に耐えながら、枕へ顔を半分埋めている。
「います」
「でしょうね」
永琳はさらに薬を調合し、ルーミアの枕元へ置いた。
「一晩ここで様子を見るわ。起きても勝手に帰らないこと」
「帰っちゃだめ?」
「だめ」
「お腹空いたら?」
「普通の食べ物を出すわ」
ルーミアはゆっくりとクレイスを見た。
「クレイスは?」
「食べ物ではありません」
クレイス、永琳、鈴仙の声が同時に重なった。
診療室に短い沈黙が落ちる。
ルーミアは布団を少し引き上げた。
「そーなのかー」
「今ので覚えて」
鈴仙が疲れた声で言った。
◇
夜が深くなった頃、クレイスは永遠亭の玄関に立っていた。
腕には応急処置が施され、破れた袖は仮縫いされている。
鈴仙は、まだ心配と困惑が半分ずつ混ざった顔をしていた。
「本当に一人で帰れるの?」
「歩行機能に異常はありません」
「そういう意味じゃなくて」
「迷いの竹林の脱出経路は記録済みです」
「それもそういう意味じゃないのよ」
「別の意味を提示してください」
「そういうところよ」
鈴仙は肩を落とした。
永琳が奥から出てきた。
「ルーミアは寝たわ。明日の朝には動けるでしょう」
「了解しました」
「あなたも、内部液の漏れが悪化したらすぐに処置しなさい」
「紅魔館へ戻り次第、自己修理を実施します」
「それと、月由来の技術媒質については、いずれ詳しく聞かせてもらうわ」
クレイスは一秒だけ沈黙した。
「回答権限を確認します」
「逃げ方が機械的ね」
「逃走ではありません」
「そういうことにしておきましょう」
永琳は診療室の方へ視線を向けた。
「ルーミアには、あなたを食べないよう伝えておくわ」
「感謝します」
「ただ、彼女がどこまで理解するかは別問題ね」
「その点は認識しています」
鈴仙が小さくため息をついた。
「今日の教訓は、人形を食べてはいけない、でいいの?」
「正確には、内部に冷却液、絶縁材、配電系統、化学安定剤、月由来の技術媒質を含む自律人形を摂食してはいけない、です」
「誰も覚えられないわよ」
「短縮します」
「どう短縮するの?」
「僕は食品ではありません」
「それでいいと思う」
クレイスは軽く頭を下げた。
「治療協力に感謝します」
「食べられた側が礼を言う急患は珍しいわね」
「搬送対象はルーミアさんでした」
「あなたも十分、急患だったわ」
「分類を修正します」
「本当に全部記録するのね」
「はい」
「紅魔館って大変ね」
「はい」
「今のは同意なの?」
「事実確認です」
クレイスは玄関を出た。
竹林の夜へ向かって歩き出す。
永遠亭の中では、まだ薬の匂いが残っていた。
診療室では、ルーミアが寝台の上で眠っている。
枕元には、鈴仙が忘れないように書いた紙が置かれていた。
«人形を食べない
特に青い液が出るもの»
鈴仙はその紙を見て、少し考えた。
そして、さらに下へ小さく書き足した。
«人里の人間は食べない事»
少し間を置いて、もう一行足した。
«魔理沙もだめ»
◇
翌朝。
紅魔館の地下中央制御室では、クレイスが作業机に座り、技術保守日誌を開いていた。
腕の人工皮膚はまだ完全には戻っていない。
内部配管には仮の封止材。
袖には修繕跡。
クレイスは鉛筆を取り、事案を記録した。
«ЖУРНАЛ ТЕХНИЧЕСКОГО ОБСЛУЖИВАНИЯ
技術保守日誌
НАЗВАНИЕ ИНЦИДЕНТА:ОСТРОЕ ХИМИЧЕСКОЕ ОТРАВЛЕНИЕ ПРИ ПОПЫТКЕ ПОЕДАНИЯ
事案名:摂食未遂に伴う急性化学物質中毒
МЕСТО:МАГИЧЕСКИЙ ЛЕС
場所:魔法の森
НАПАДАВШИЙ:РУМИЯ
加害者:ルーミア
ПОСТРАДАВШИЙ:КЛЕЙС МАЯКОВСКИЙ
被害者:クレイス・マヤコフスキー
ПОВРЕЖДЕНИЕ:ПРАВОЕ ПРЕДПЛЕЧЬЕ、ИСКУССТВЕННАЯ КОЖА、ОХЛАЖДАЮЩАЯ ТРУБКА
損傷:右前腕、人工皮膚、冷却配管
УТЕЧКА ОХЛАЖДАЮЩЕЙ ЖИДКОСТИ:МАЛАЯ
冷却液漏出:少量
МЕДИЦИНСКАЯ ТРАНСПОРТИРОВКА:ЭЙЭНТЭЙ
医療搬送先:永遠亭
СОСТОЯНИЕ РУМИИ:ВОССТАНАВЛИВАЕТСЯ
ルーミア状態:回復中
ПРИМЕЧАНИЕ:Я НЕ ЯВЛЯЮСЬ ПИЩЕЙ
備考:僕は食品ではありません。»
最後の一行を書いたところで、入口横の白黒モニターに人影が映った。
鉄扉の前に、フランドールが立っている。
彼女は監視カメラを見上げ、笑顔で片手を振った。
それから、いつものように呼出ベルを押す。
«ВЫЗОВ У ВХОДА
入口から呼出»
クレイスは操作卓のスイッチを入れた。
鉄扉の錠が外れ、重い音を立てて開く。
フランドールが中央制御室へ入ってきた。
「おはよう、クレイス」
「おはようございます、フラン様」
フランドールは制御盤の光にも、磁気テープの回転にも慣れている。
妖精メイドたちの多くは、この地下中央制御室へ近づきたがらない。
もちろん、鉄扉やロシア語の警告板、高電圧の札、低く唸る変圧器も怖い。
武器庫の存在も、彼女たちを十分に遠ざける理由にはなる。
だが、それらは一番の理由ではなかった。
この地下区画には、フランドールがいる。
それだけで、妖精メイドたちにとっては十分だった。
廊下の向こうから笑い声が聞こえる。
扉の隙間から七色の結晶がちらりと見える。
昨日まであった棚が、今日は粉になっている。
そういう場所へ、自分から掃除道具を持って向かう妖精メイドは少ない。
そのため、地下区画の清掃や点検、フランドールの身の回りの世話は、妖精メイドよりもクレイスが担当することが多かった。
そもそも、レミリアは最初からそのつもりでクレイスを拾った。
壊れていた白髪の人形を修理し、紅魔館の地下へ置いたのは、単なる気まぐれではない。
フランドールの世話係。
地下区画の管理者。
そして、何かあった時に壊れても直せる従者。
レミリアにとって、クレイスはその三つを同時に満たす珍しい拾い物だった。
だから、地下中央制御室はクレイスの仕事場であり、私室であり、同時にフランドールの生活圏に限りなく近い場所でもある。
妖精メイドたちは近づかない。
咲夜も必要がなければ長居しない。
美鈴はそもそも門から離れにくい。
結果として、ここへいつも通り入ってくるのは、本人であるフランドールくらいだった。
彼女はまるで地下室が一つ増えただけ、という顔で、クレイスの机の横へ来る。
「昨日、食べられたの?」
「未遂です」
「誰に?」
「ルーミアさんです」
フランドールの目が、ぱっと輝いた。
「ルーミアがクレイスを食べたの?」
「摂食を試みました」
「それで?」
「気絶しました」
フランドールは口元を押さえた。
笑いを堪えようとしているが、あまり堪えられていない。
「ルーミアが?」
「はい」
「食べようとして?」
「はい」
「負けたの?」
「勝敗ではありません」
「絶対負けてるわ」
「分類不能です」
「美味しかったって?」
「まずいと発言していました」
フランドールは肩を震わせた。
「でしょうね」
「根拠を確認してもよろしいですか」
「クレイス、食べ物っぽくないもの」
「ルーミアさんは判断できませんでした」
「ルーミアだからね」
「説明として成立しています」
フランドールは技術保守日誌を覗き込む。
「摂食未遂に伴う急性化学物質中毒、って書いてある」
「事案名です」
「名前が強いわね」
「正確性を優先しました」
「ただの『食べたら倒れた』じゃだめなの?」
「事故分類として不正確です」
「でも分かりやすいわ」
「記録名には採用しません」
フランドールは日誌の最後を読む。
「僕は食品ではありません、って書いてある」
「備考です」
「備考に書くことなの?」
「再発防止に必要です」
「じゃあ、入口にも書く?」
「検討しましたが、表示の逆効果が懸念されます」
「逆効果?」
「食用不可と書くことで、食用の可能性がある対象に見える危険があります」
フランドールは少し黙った。
次の瞬間、楽しそうに笑った。
「それ、すごく分かる」
「理解されました」
「書いてあったら、たぶん妖精メイドが遠くから噂するわ。『クレイスって食べられるの?』って」
「誤解の拡散を確認しました」
「書かない方がいいわね」
「そのため、日誌記録に留めます」
「じゃあ私も覚えておくわ」
「感謝します」
「クレイスは食べない」
「はい」
「食べてもまずい」
「味覚評価はルーミアさん由来です」
「まずいクレイス」
「評価名としては不適切です」
「食べ物じゃないクレイス」
「はい」
フランドールは、まだくすくす笑っている。
それから、クレイスの修繕された腕を指さした。
「昨日噛まれたところ、見せて」
「観察目的ですか」
「うん」
クレイスは腕を差し出した。
フランドールは傷口をじっと見る。
先ほどまでの笑いが少し引き、興味深そうな顔になる。
「中、青いのね」
「冷却液です」
「血みたいなもの?」
「機能の一部は近似しますが、摂食には適しません」
「知ってる。まずいんでしょう?」
「僕自身は味覚評価できません」
「じゃあ、ルーミア評価ね」
「はい」
フランドールはしばらく傷を見ていた。
そして、机の上に置かれた日誌の最後へ指を置く。
«備考:僕は食品ではありません。»
「これ、やっぱりいいわね」
「よい、とは」
「お姉様にも見せたい」
「不要な共有と判断します」
「お姉様、絶対笑うわ」
「共有リスクが増大しました」
「咲夜も読むわ」
「さらに増大しました」
「美鈴は笑うのを我慢するわね」
「被害が拡大しています」
クレイスは日誌を閉じた。
フランドールは満足そうに笑っている。
中央制御室の機械音だけが、いつも通りに続いていた。
その日からしばらく、フランドールはクレイスを見るたびに、
「食べ物じゃないクレイス」
と呼んだ。
クレイスはそのたびに、
「はい」
とだけ答えた。