赤い館に住む元赤い国の人形   作:案山子杏子

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4.バクー油田の午後の紅茶

 

 紅魔館の地下中央制御室には、紅茶の時間があった。

 

 ただし、それを紅茶の時間と呼んでいいのは、おそらくクレイスだけだった。

 

 壁一面の制御盤。

 

 赤、黄、緑の表示灯。

 

 低く唸る変圧器。

 

 ゆっくり回転する磁気テープ。

 

 緑色の文字を映すブラウン管。

 

 その中央で、クレイスは作業机に座っていた。

 

 机の上には技術保守日誌。

 

 工具。

 

 金属製の小さな計量器。

 

 蓋付きの琺瑯カップ。

 

 そして、飲み物を作るには明らかに場違いな瓶が並んでいる。

 

 まず、黒い瓶。

 

 中身は原油だった。

 

 食品用ではない。

 

 飲料用でもない。

 

 そもそも、食卓に上がることを前提にした物質ではなかった。

 

 粘りのある黒い液体が、瓶の内側で重く動く。

 

 紅茶の茶葉が缶の中で軽く鳴るのとは、まったく別の音だった。

 

 次に、工業用アルコール。

 

 透明な液体だが、透明だから安全というわけではない。

 

 瓶の銘板には、赤い警告文字とロシア語の注意書きが並んでいる。

 

 その横には、細い容器が数本。

 

 内部循環系の調整剤。

 

 安定化剤。

 

 不純物反応を抑える薬品。

 

 人間用の台所なら、ここで誰かが止める。

 

 咲夜なら無言で没収する。

 

 パチュリーなら換気を命じる。

 

 美鈴なら「それ、本当に飲むんですか?」と笑顔のまま一歩下がる。

 

 だが、ここは地下中央制御室だった。

 

 そして、作っているのはクレイスだった。

 

 彼はまず、琺瑯カップの内側を確認した。

 

 傷。

 

 温度。

 

 残留物。

 

 異常なし。

 

«ЧАШКА:НОРМА

カップ:正常»

 

 黒い瓶の蓋が開く。

 

 原油が注がれた。

 

 紅茶であれば、ここで湯の音がする。

 

 しかしカップの底へ落ちたのは、重く、鈍く、飲み物にしてはあまりにも沈黙した液体だった。

 

 液面はすぐには広がらない。

 

 遅れてゆっくり平らになり、表面に暗い光沢を作る。

 

 続いて、工業用アルコール。

 

 それが加わると、黒い液面に細かな揺らぎが走った。

 

 制御室の照明が、油膜の上で歪む。

 

 赤い表示灯が一瞬、虹色に裂けて映った。

 

 クレイスは表情を変えない。

 

 容器を持つ角度も、注ぐ手つきも一定だった。

 

 料理ではない。

 

 調合だった。

 

 茶会ではない。

 

 整備だった。

 

 さらに、数本の容器から化学薬品が加わる。

 

 名前を聞いても、紅魔館の住人の大半は理解しない。

 

 理解できる者は、理解した上で飲まない。

 

 液面は黒いまま、内側だけがわずかに変わっていく。

 

 粘度。

 

 反応。

 

 膜の厚さ。

 

 揮発の仕方。

 

 クレイスの視界では、そのすべてが数字と状態表示に分解されていた。

 

 最後に、茶葉が入った。

 

 申し訳程度だった。

 

 紅茶という名札を貼るために呼ばれた証人のような量である。

 

 茶葉は黒い液面の上で一度だけ揺れ、すぐに油膜の下へ沈んだ。

 

 紅茶としての抵抗は短かった。

 

«СМЕСЬ:СТАБИЛЬНА

混合状態:安定

 

ЧАЙНЫЙ КОМПОНЕНТ:ДОБАВЛЕН

茶葉成分:追加»

 

 カップから立つものは、茶葉の香りではなかった。

 

 工場だった。

 

 整備場だった。

 

 油の染みた床、工具箱の中、古い機械の隙間、冬の重工業地帯の空気。

 

 その全部を、地下中央制御室の熱でゆっくり温めたような匂いだった。

 

 人間の紅茶が茶葉の香りで成り立つなら、クレイスの原油紅茶は原油の香りで成り立っている。

 

 その一点で、紅茶文化はシベリア送りされていた。

 

 クレイスはカップを持ち上げた。

 

 飲む前に、液面の揺れを見る。

 

 傾ける角度は小さい。

 

 戻す速度も一定。

 

 黒い虹彩に刻まれた赤い×印が、わずかに明るくなる。

 

 それから、静かに一口飲んだ。

 

«ВНУТРЕННЯЯ РЕАКЦИЯ:СТАБИЛЬНА

内部反応:安定»

 

 表示はすぐに消えた。

 

 クレイスは何事もなかったように日誌へ一行を書いた。

 

«СЫРАЯ НЕФТЬ ЧАЙ:НОРМА

原油紅茶:正常»

 

     ◇

 

 鉄扉が、重い音を立てて開いた。

 

 入ってきたのはフランドールだった。

 

 彼女は制御盤の光にも、リレーの音にも慣れている。

 

 だが、作業机の上のカップだけは、何度見ても慣れなかった。

 

 今日で四回目だった。

 

 一回目は、黒すぎる紅茶だと思った。

 

 二回目は、燃料を間違えて飲んでいるのだと思った。

 

 三回目は、クレイスにとって燃料と飲み物が同じなのかもしれないと思った。

 

 四回目の今、フランドールは結論を保留していた。

 

 吸血鬼の妹であり、地下室に長く暮らし、壊れるものにも壊れないものにも慣れている彼女にも、これはまだ分類できない。

 

「ねークレイス」

 

「はい、フラン様」

 

「今、作ってたの?」

 

「はい」

 

「紅茶みたいなのを?」

 

「そうです」

 

 フランドールは机の上を見た。

 

 原油の瓶。

 

 工業用アルコール。

 

 化学薬品。

 

 最後に沈んだ茶葉。

 

「紅茶って、そんな作り方だった?」

 

「違います」

 

「違うのに紅茶?」

 

「原油紅茶です」

 

「そこに紅茶を入れたら、何でも紅茶になるの?」

 

「なりません」

 

「じゃあ、これは?」

 

「原油紅茶です」

 

 フランドールは椅子に座り、机の向こうからカップをじっと見た。

 

 クレイスはカップを少しだけ自分の側へ寄せた。

 

 何気ない動作だったが、フランドールには意味が分かった。

 

 触るな、ということだった。

 

「飲まないわよ」

 

「安全です」

 

「飲まないなら安全ってこと?」

 

「はい」

 

「すごく限定的な安全ね」

 

 フランドールは身を乗り出した。

 

 カップの液面に、彼女の赤い目と、制御盤の表示灯が一緒に映る。

 

 紅茶の液面に映っていい組み合わせではなかった。

 

「いい匂いなの?」

 

「はい」

 

「工場と整備場と古い油の箱を混ぜたような匂いだけど」

 

「はい」

 

「全部肯定するのね」

 

 クレイスは少しだけカップを見る。

 

 微かに緩んだ表情を見てフランドールはさらに分からなくなった。

 

 怖いなら避ければいい。

 

 危ないなら壊せばいい。

 

 でも、これはクレイスが静かに楽しんでいる。

 

 フランドールにとって、それが一番不思議だった。

 

「ルーミアが飲んだら?」

 

「危険です」

 

「私が飲んだら?」

 

「危険です」

 

「お姉様が飲んだら?」

 

「大変危険です」

 

「咲夜が飲んだら?」

 

「飲みません。死にます。飲む以前に没収されます」

 

 フランドールは少し笑った。

 

「そこは危険じゃないんだね」

 

「没収が先です」

 

 制御室の白黒モニターが、入口前の動きを映した。

 

 小柄な影。

 

 帽子。

 

 箒。

 

 クレイスはモニターを見た。

 

«ПОСЕТИТЕЛЬ:НЕЗАРЕГИСТРИРОВАН

来訪者:未登録»

 

 すぐ後に、鉄扉の隙間から黒い帽子が滑り込んだ。

 

「よし、間に合ったぜ」

 

 霧雨魔理沙である。

 

 フランドールがぱっと振り返る。

 

「魔理沙、また来たの?」

 

「またとは失礼だな。今日はたまたまだ」

 

「たまたま地下の鉄扉の中まで?」

 

「たまたまってのは奥が深いんだぜ」

 

「地下だけに?」

 

「フラン、今のは私が言いたかった」

 

 魔理沙は悔しそうに帽子のつばを押さえた。

 

 しかし、次の瞬間には別のものに気を取られた。

 

 クレイスの手元である。

 

「なんだそれ」

 

「紅茶です」

 

 クレイスは短く答えた。

 

「紅茶?工業排水みたいな紅茶じゃん」

 

「原油紅茶です」

 

「なお悪いぜ」

 

 魔理沙はカップに近づこうとした。

 

 その瞬間、クレイスの手がカップの横へ移動した。

 

 速くはない。

 

 だが、先回りだった。

 

 魔理沙の指が届く前に、琺瑯のカップはクレイスの手の内側へ収まっていた。

 

「持ち出し禁止です」

 

「まだ借りるって言ってないぜ」

 

「事前対応です」

 

「私を何だと思ってるんだ」

 

「持ち出し可能性の高い未登録来訪者です」

 

「正しいけど失礼だな!」

 

 魔理沙はカップを覗き込んだ。

 

 黒い。

 

 重い。

 

 油膜が光っている。

 

 飲み物がしていい光り方ではない。

 

 飲み物というより、カップサイズの地下資源だった。

 

「これは借りなくていいな」

 

「了解しました」

 

「安心するな。ちょっと腹立つぜ」

 

 フランドールが魔理沙の袖を引いた。

 

「魔理沙もそう思う?」

 

「何がだ?」

 

「これ、名前がおかしいの」

 

「中身の方がおかしいぜ」

 

「それはそうだけど、クレイスは紅茶って言うの」

 

「本人がそう言ってるだけだろ」

 

「紅茶じゃないって言うと、原油紅茶って言うの」

 

「逃げ道を原油で塞いでるな」

 

「だから、もっと分かりやすい名前がいると思うの」

 

 魔理沙の目が光った。

 

 大図書館で珍しい本を見つけた時とは違う。

 

 面白いものに、余計な名前を付けたくなった時の目だった。

 

「なるほどな」

 

 魔理沙は制御室の中を見回した。

 

 壁一面の計器。

 

 ロシア語の表示。

 

 磁気テープ。

 

 油膜の浮いたカップ。

 

 そして、それを紅茶として扱うクレイス。

 

「原油紅茶じゃ、そのまま過ぎるな」

 

「でしょう?」

 

「クレイスっぽさも足りない」

 

「クレイスっぽさって?」

 

「ソ連。油。黒い。重い。あと、前にスターリン顔のお嬢様を作った前科」

 

「お姉様、あれまだ怒ってるわ」

 

「そりゃ怒るだろ」

 

 クレイスは一度だけ、技術保守日誌へ視線を落とした。

 

 第一話の氷像事故は、既に記録済みである。

 

 再発防止項目もある。

 

 だが、魔理沙の中ではまだ素材だった。

 

 魔理沙はクレイスを見る。

 

「なあ、クレイス」

 

「はい」

 

「油田で有名なところってどこだ?」

 

「用途を確認します」

 

「その紅茶の名前に使う」

 

「不要です」

 

「必要だぜ」

 

「不要です」

 

「フランも必要って言ってる」

 

 フランドールはすぐに頷いた。

 

「必要」

 

「多数決だ」

 

「紅茶名称に多数決は適用しません」

 

「じゃあ、参考意見として言えよ」

 

 クレイスは数秒、黙った。

 

 黒い虹彩の赤い×印が、わずかに明滅する。

 

 彼の記憶にある地名は、観光案内ではなかった。

 

 資源。

 

 輸送。

 

 工業。

 

 軍事。

 

 補給線。

 

 油田とは、地図の上で黒く光る紅茶畑ではない。

 

 国家が欲しがり、かつては第三帝国もその地を目指していた。

 

 工場が飲み、戦車が動くための場所だった。

 

「バクー油田」

 

 クレイスは短く答えた。

 

 魔理沙の顔が輝いた。

 

「それだ!」

 

 フランドールも身を乗り出す。

 

「バクー?」

 

「強そうだろ」

 

「爆発しそう」

 

「それも含めて強い」

 

「爆発はしません」

 

 クレイスが訂正した。

 

「いや、名前の話だぜ」

 

「誤認を確認しました」

 

「確認しなくていい」

 

 フランドールはカップを見る。

 

「バクー油田の紅茶」

 

「だいぶ近づいたな」

 

「でも、紅茶っぽくないわ」

 

「元から紅茶っぽくない」

 

「もっと紅茶の名前みたいにしたい」

 

 魔理沙は指を鳴らした。

 

「外の世界にさ、午後の紅茶ってやつがあるらしいんだ」

 

「午後の紅茶?」

 

「たぶん、午後に飲む紅茶だ」

 

「そのままね」

 

「でも響きはいいだろ?」

 

 フランドールは少し考えた。

 

「じゃあ、バクー油田の午後の紅茶?」

 

 魔理沙は一瞬止まった。

 

 そして、笑った。

 

「それだ!」

 

「いいの?」

 

「かなりいい。外の世界の紅茶っぽさがある。油田もある。クレイスっぽい。飲み物としては最悪。完璧だぜ」

 

「最悪なのに完璧?」

 

「名前ってのは、そういうこともある」

 

 フランドールはもう一度、言葉を転がすように呟いた。

 

「バクー油田の午後の紅茶」

 

 午後の紅茶。

 

 そこだけ聞けば、明るいテラスと白いカップが浮かぶ。

 

 だが頭にバクー油田が付いた瞬間、テラスは掘削施設になり、白いカップは琺瑯になり、茶葉の香りは地下資源に置き換わる。

 

 午後のお茶会は、無事に重工業へ編入された。

 

 魔理沙は満足そうに頷いた。

 

「決まりだな」

 

「決まりね」

 

 クレイスはカップを置いた。

 

 置く音は小さかった。

 

 だが制御室の中では、なぜかよく聞こえた。

 

「正式名称は原油紅茶です」

 

「弱いぜ」

 

「機能を表しています」

 

「名前は機能だけじゃない。勢いだ」

 

 フランドールが笑う。

 

「クレイス、バクー油田飲んでるの?」

 

「原油紅茶です」

 

「午後の紅茶じゃないの?」

 

「違います」

 

「バクー油田の午後の紅茶は?」

 

「保留します」

 

 魔理沙が不満そうに眉を上げた。

 

「せっかくクレイスから油田を聞いて、フランと相談して付けたんだぜ」

 

「採用条件を確認できません」

 

「私たちの労力を見ろよ」

 

「労力は確認しました」

 

「じゃあ採用しろ」

 

「保留します」

 

「壁みたいな返事だな」

 

 フランドールはカップをじっと見た。

 

「でも、原油紅茶より分かりやすいわ」

 

「どこがだよ」

 

 魔理沙が笑う。

 

「飲んじゃだめな感じがするもの」

 

「それは確かに分かりやすいな」

 

 クレイスは日誌を開いた。

 

 二人の会話を止める代わりに、鉛筆を取る。

 

«НАПИТОК:СЫРАЯ НЕФТЬ ЧАЙ

飲料:原油紅茶

 

ДЛЯ ВНЕШНИХ ЛИЦ:ЗАПРЕЩЕНО

外部者への提供:禁止

 

СПРАВОЧНОЕ МЕСТОРОЖДЕНИЕ:БАКУ

参照油田:バクー

 

ПРЕДЛОЖЕННОЕ НАЗВАНИЕ:БАКИНСКОЕ НЕФТЯНОЕ ПОСЛЕПОЛУДЕННОЕ ЧАЙ

提案名称:バクー油田の午後の紅茶

 

СТАТУС:ОТЛОЖЕНО

状態:保留»

 

 フランドールが覗き込む。

 

「書いた」

 

「記録です」

 

「参照油田って書いてある」

 

「はい」

 

「紅茶に参照油田ってあるの?」

 

「通常はありません」

 

「じゃあ、これは?」

 

「原油紅茶です」

 

 魔理沙は嬉しそうに笑った。

 

「ほら、残ったぜ」

 

「採用ではありません」

 

「残れば勝ちだ」

 

「勝敗ではありません」

 

「そういうところがクレイスだよな」

 

 その時、地下中央制御室の電話交換盤が鳴った。

 

 古いベルの音が、機械音の中を硬く通る。

 

 フランドールが顔を上げた。

 

「誰?」

 

 クレイスは受話器を取った。

 

「地下中央制御室。クレイスです」

 

 受話器の向こうから、咲夜の声が聞こえた。

 

『クレイス。今、手は空いている?』

 

「作業中です」

 

『何の?』

 

「原油紅茶の名称保留記録です」

 

 短い沈黙があった。

 

『それは後にしなさい』

 

「了解しました」

 

 魔理沙が小声で笑う。

 

「後回しにされたぜ、バクー油田」

 

「保留中です」

 

 クレイスは受話器を持ったまま答えた。

 

 咲夜の声は、いつも通り落ち着いている。

 

 だが背景に、妖精メイドたちの慌ただしい足音が混じっていた。

 

『地上階の西側フロアを少し広げたわ』

 

「了解しました」

 

『電気、水道、暖房、換気、照明、非常ベルを通しておいて』

 

「規模を確認します」

 

『廊下二本、客室三つ、物置一つ。あと窓が増えたわ』

 

「既存配管図と一致しません」

 

『今増えたから当然よ』

 

 クレイスは黙った。

 

 電話交換盤の横に置かれた館内配線図を見る。

 

 地上階西側。

 

 そこには、今朝まで廊下一本と壁しかなかった。

 

 咲夜は時間を止める。

 

 空間をどう扱っているのかは、クレイスの担当範囲外だった。

 

 だが、増えた部屋に明かりが必要なことは分かる。

 

 蛇口をひねれば水が出るべきだし、暖炉がなければ暖房が要る。

 

 紅魔館では、部屋が増えた後に、設備が追いかけることがある。

 

 普通の建物なら順序が逆だった。

 

 ここでは咲夜が先に建物を作り、クレイスが後から現実を接続する。

 

『それと、妖精メイドが一人、増えた廊下で迷っているわ』

 

「救助対象ですか」

 

『今は雑巾を持たせておいたから大丈夫』

 

「了解しました」

 

『できるだけ早くお願い』

 

「対応します」

 

 クレイスは受話器を戻した。

 

 魔理沙が目を丸くしている。

 

「地上階を少し広げた?」

 

「はい」

 

「紅魔館って、少しで廊下二本増えるのか?」

 

「咲夜さんの担当です」

 

「担当で済ませるなよ」

 

 フランドールは楽しそうに笑った。

 

「また部屋が増えたのね」

 

「頻繁にあるのか?」

 

「たまに」

 

「たまにで済むのか、それ」

 

 クレイスは日誌を閉じた。

 

 原油紅茶のカップには、まだ黒い液体が少し残っている。

 

 彼はカップに蓋をした。

 

«СЫРАЯ НЕФТЬ ЧАЙ:ОТЛОЖЕНО

原油紅茶:保留»

 

 それから工具箱を取る。

 

 中には、配線工具、絶縁材、バルブ部品、簡易測定器、予備の表示札が収まっていた。

 

 魔理沙がカップを指さす。

 

「飲みかけ置いていくのか?」

 

「持ち出しません」

 

「いや、持ち出しても誰も飲まないと思うぜ」

 

「外部者への提供は禁止です」

 

「強いな、その禁止」

 

 フランドールが立ち上がった。

 

「私も行く」

 

「地上階です」

 

「見たい」

 

「作業区域です」

 

「じゃあ、見るだけ」

 

 クレイスは一秒だけ止まった。

 

 フランドールが「見るだけ」と言う時、それが本当に見るだけで終わるかは、日による。

 

 しかし、拒否した場合の方が別の問題が起きる可能性もある。

 

「接触禁止です」

 

「分かった」

 

「工具への接触禁止です」

 

「分かった」

 

「新設配管への接触禁止です」

 

「分かった」

 

「壁の破壊禁止です」

 

「それは分からないわ」

 

「禁止です」

 

 魔理沙が噴き出した。

 

「そこだけ返事が違うのかよ」

 

 フランドールは少し不満そうに頬を膨らませた。

 

「壁って、増えたばかりなら壊しやすそうじゃない」

 

「壊すな」

 

 魔理沙が即座に言った。

 

「咲夜に怒られるぜ」

 

「魔理沙も怒られるわよ」

 

「私はもう怒られる前提で生きてる」

 

「前提が悪いです」

 

 クレイスは短く言った。

 

 地下中央制御室の扉が開く。

 

 赤い表示灯が、廊下へ細く光を伸ばした。

 

 クレイスは工具箱を持ち、地上階へ向かう。

 

 フランドールがその後を追い、魔理沙も面白そうに続いた。

 

 机の上には、蓋をされた琺瑯カップと、閉じられた技術保守日誌が残っている。

 

 日誌の最後には、未採用名称として一行が残った。

 

«バクー油田の午後の紅茶»

 

 その下には、クレイスの小さな追記がある。

 

«正式名称:原油紅茶»

 

 地下中央制御室では、磁気テープがゆっくり回り続けていた。

 

 地上階では、新しい廊下の照明がまだ点いていない。

 

 紅魔館は、また少し広くなった。

 

 その分だけ、クレイスの仕事も増えた。

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