紅魔館の地下中央制御室には、紅茶の時間があった。
ただし、それを紅茶の時間と呼んでいいのは、おそらくクレイスだけだった。
壁一面の制御盤。
赤、黄、緑の表示灯。
低く唸る変圧器。
ゆっくり回転する磁気テープ。
緑色の文字を映すブラウン管。
その中央で、クレイスは作業机に座っていた。
机の上には技術保守日誌。
工具。
金属製の小さな計量器。
蓋付きの琺瑯カップ。
そして、飲み物を作るには明らかに場違いな瓶が並んでいる。
まず、黒い瓶。
中身は原油だった。
食品用ではない。
飲料用でもない。
そもそも、食卓に上がることを前提にした物質ではなかった。
粘りのある黒い液体が、瓶の内側で重く動く。
紅茶の茶葉が缶の中で軽く鳴るのとは、まったく別の音だった。
次に、工業用アルコール。
透明な液体だが、透明だから安全というわけではない。
瓶の銘板には、赤い警告文字とロシア語の注意書きが並んでいる。
その横には、細い容器が数本。
内部循環系の調整剤。
安定化剤。
不純物反応を抑える薬品。
人間用の台所なら、ここで誰かが止める。
咲夜なら無言で没収する。
パチュリーなら換気を命じる。
美鈴なら「それ、本当に飲むんですか?」と笑顔のまま一歩下がる。
だが、ここは地下中央制御室だった。
そして、作っているのはクレイスだった。
彼はまず、琺瑯カップの内側を確認した。
傷。
温度。
残留物。
異常なし。
«ЧАШКА:НОРМА
カップ:正常»
黒い瓶の蓋が開く。
原油が注がれた。
紅茶であれば、ここで湯の音がする。
しかしカップの底へ落ちたのは、重く、鈍く、飲み物にしてはあまりにも沈黙した液体だった。
液面はすぐには広がらない。
遅れてゆっくり平らになり、表面に暗い光沢を作る。
続いて、工業用アルコール。
それが加わると、黒い液面に細かな揺らぎが走った。
制御室の照明が、油膜の上で歪む。
赤い表示灯が一瞬、虹色に裂けて映った。
クレイスは表情を変えない。
容器を持つ角度も、注ぐ手つきも一定だった。
料理ではない。
調合だった。
茶会ではない。
整備だった。
さらに、数本の容器から化学薬品が加わる。
名前を聞いても、紅魔館の住人の大半は理解しない。
理解できる者は、理解した上で飲まない。
液面は黒いまま、内側だけがわずかに変わっていく。
粘度。
反応。
膜の厚さ。
揮発の仕方。
クレイスの視界では、そのすべてが数字と状態表示に分解されていた。
最後に、茶葉が入った。
申し訳程度だった。
紅茶という名札を貼るために呼ばれた証人のような量である。
茶葉は黒い液面の上で一度だけ揺れ、すぐに油膜の下へ沈んだ。
紅茶としての抵抗は短かった。
«СМЕСЬ:СТАБИЛЬНА
混合状態:安定
ЧАЙНЫЙ КОМПОНЕНТ:ДОБАВЛЕН
茶葉成分:追加»
カップから立つものは、茶葉の香りではなかった。
工場だった。
整備場だった。
油の染みた床、工具箱の中、古い機械の隙間、冬の重工業地帯の空気。
その全部を、地下中央制御室の熱でゆっくり温めたような匂いだった。
人間の紅茶が茶葉の香りで成り立つなら、クレイスの原油紅茶は原油の香りで成り立っている。
その一点で、紅茶文化はシベリア送りされていた。
クレイスはカップを持ち上げた。
飲む前に、液面の揺れを見る。
傾ける角度は小さい。
戻す速度も一定。
黒い虹彩に刻まれた赤い×印が、わずかに明るくなる。
それから、静かに一口飲んだ。
«ВНУТРЕННЯЯ РЕАКЦИЯ:СТАБИЛЬНА
内部反応:安定»
表示はすぐに消えた。
クレイスは何事もなかったように日誌へ一行を書いた。
«СЫРАЯ НЕФТЬ ЧАЙ:НОРМА
原油紅茶:正常»
◇
鉄扉が、重い音を立てて開いた。
入ってきたのはフランドールだった。
彼女は制御盤の光にも、リレーの音にも慣れている。
だが、作業机の上のカップだけは、何度見ても慣れなかった。
今日で四回目だった。
一回目は、黒すぎる紅茶だと思った。
二回目は、燃料を間違えて飲んでいるのだと思った。
三回目は、クレイスにとって燃料と飲み物が同じなのかもしれないと思った。
四回目の今、フランドールは結論を保留していた。
吸血鬼の妹であり、地下室に長く暮らし、壊れるものにも壊れないものにも慣れている彼女にも、これはまだ分類できない。
「ねークレイス」
「はい、フラン様」
「今、作ってたの?」
「はい」
「紅茶みたいなのを?」
「そうです」
フランドールは机の上を見た。
原油の瓶。
工業用アルコール。
化学薬品。
最後に沈んだ茶葉。
「紅茶って、そんな作り方だった?」
「違います」
「違うのに紅茶?」
「原油紅茶です」
「そこに紅茶を入れたら、何でも紅茶になるの?」
「なりません」
「じゃあ、これは?」
「原油紅茶です」
フランドールは椅子に座り、机の向こうからカップをじっと見た。
クレイスはカップを少しだけ自分の側へ寄せた。
何気ない動作だったが、フランドールには意味が分かった。
触るな、ということだった。
「飲まないわよ」
「安全です」
「飲まないなら安全ってこと?」
「はい」
「すごく限定的な安全ね」
フランドールは身を乗り出した。
カップの液面に、彼女の赤い目と、制御盤の表示灯が一緒に映る。
紅茶の液面に映っていい組み合わせではなかった。
「いい匂いなの?」
「はい」
「工場と整備場と古い油の箱を混ぜたような匂いだけど」
「はい」
「全部肯定するのね」
クレイスは少しだけカップを見る。
微かに緩んだ表情を見てフランドールはさらに分からなくなった。
怖いなら避ければいい。
危ないなら壊せばいい。
でも、これはクレイスが静かに楽しんでいる。
フランドールにとって、それが一番不思議だった。
「ルーミアが飲んだら?」
「危険です」
「私が飲んだら?」
「危険です」
「お姉様が飲んだら?」
「大変危険です」
「咲夜が飲んだら?」
「飲みません。死にます。飲む以前に没収されます」
フランドールは少し笑った。
「そこは危険じゃないんだね」
「没収が先です」
制御室の白黒モニターが、入口前の動きを映した。
小柄な影。
帽子。
箒。
クレイスはモニターを見た。
«ПОСЕТИТЕЛЬ:НЕЗАРЕГИСТРИРОВАН
来訪者:未登録»
すぐ後に、鉄扉の隙間から黒い帽子が滑り込んだ。
「よし、間に合ったぜ」
霧雨魔理沙である。
フランドールがぱっと振り返る。
「魔理沙、また来たの?」
「またとは失礼だな。今日はたまたまだ」
「たまたま地下の鉄扉の中まで?」
「たまたまってのは奥が深いんだぜ」
「地下だけに?」
「フラン、今のは私が言いたかった」
魔理沙は悔しそうに帽子のつばを押さえた。
しかし、次の瞬間には別のものに気を取られた。
クレイスの手元である。
「なんだそれ」
「紅茶です」
クレイスは短く答えた。
「紅茶?工業排水みたいな紅茶じゃん」
「原油紅茶です」
「なお悪いぜ」
魔理沙はカップに近づこうとした。
その瞬間、クレイスの手がカップの横へ移動した。
速くはない。
だが、先回りだった。
魔理沙の指が届く前に、琺瑯のカップはクレイスの手の内側へ収まっていた。
「持ち出し禁止です」
「まだ借りるって言ってないぜ」
「事前対応です」
「私を何だと思ってるんだ」
「持ち出し可能性の高い未登録来訪者です」
「正しいけど失礼だな!」
魔理沙はカップを覗き込んだ。
黒い。
重い。
油膜が光っている。
飲み物がしていい光り方ではない。
飲み物というより、カップサイズの地下資源だった。
「これは借りなくていいな」
「了解しました」
「安心するな。ちょっと腹立つぜ」
フランドールが魔理沙の袖を引いた。
「魔理沙もそう思う?」
「何がだ?」
「これ、名前がおかしいの」
「中身の方がおかしいぜ」
「それはそうだけど、クレイスは紅茶って言うの」
「本人がそう言ってるだけだろ」
「紅茶じゃないって言うと、原油紅茶って言うの」
「逃げ道を原油で塞いでるな」
「だから、もっと分かりやすい名前がいると思うの」
魔理沙の目が光った。
大図書館で珍しい本を見つけた時とは違う。
面白いものに、余計な名前を付けたくなった時の目だった。
「なるほどな」
魔理沙は制御室の中を見回した。
壁一面の計器。
ロシア語の表示。
磁気テープ。
油膜の浮いたカップ。
そして、それを紅茶として扱うクレイス。
「原油紅茶じゃ、そのまま過ぎるな」
「でしょう?」
「クレイスっぽさも足りない」
「クレイスっぽさって?」
「ソ連。油。黒い。重い。あと、前にスターリン顔のお嬢様を作った前科」
「お姉様、あれまだ怒ってるわ」
「そりゃ怒るだろ」
クレイスは一度だけ、技術保守日誌へ視線を落とした。
第一話の氷像事故は、既に記録済みである。
再発防止項目もある。
だが、魔理沙の中ではまだ素材だった。
魔理沙はクレイスを見る。
「なあ、クレイス」
「はい」
「油田で有名なところってどこだ?」
「用途を確認します」
「その紅茶の名前に使う」
「不要です」
「必要だぜ」
「不要です」
「フランも必要って言ってる」
フランドールはすぐに頷いた。
「必要」
「多数決だ」
「紅茶名称に多数決は適用しません」
「じゃあ、参考意見として言えよ」
クレイスは数秒、黙った。
黒い虹彩の赤い×印が、わずかに明滅する。
彼の記憶にある地名は、観光案内ではなかった。
資源。
輸送。
工業。
軍事。
補給線。
油田とは、地図の上で黒く光る紅茶畑ではない。
国家が欲しがり、かつては第三帝国もその地を目指していた。
工場が飲み、戦車が動くための場所だった。
「バクー油田」
クレイスは短く答えた。
魔理沙の顔が輝いた。
「それだ!」
フランドールも身を乗り出す。
「バクー?」
「強そうだろ」
「爆発しそう」
「それも含めて強い」
「爆発はしません」
クレイスが訂正した。
「いや、名前の話だぜ」
「誤認を確認しました」
「確認しなくていい」
フランドールはカップを見る。
「バクー油田の紅茶」
「だいぶ近づいたな」
「でも、紅茶っぽくないわ」
「元から紅茶っぽくない」
「もっと紅茶の名前みたいにしたい」
魔理沙は指を鳴らした。
「外の世界にさ、午後の紅茶ってやつがあるらしいんだ」
「午後の紅茶?」
「たぶん、午後に飲む紅茶だ」
「そのままね」
「でも響きはいいだろ?」
フランドールは少し考えた。
「じゃあ、バクー油田の午後の紅茶?」
魔理沙は一瞬止まった。
そして、笑った。
「それだ!」
「いいの?」
「かなりいい。外の世界の紅茶っぽさがある。油田もある。クレイスっぽい。飲み物としては最悪。完璧だぜ」
「最悪なのに完璧?」
「名前ってのは、そういうこともある」
フランドールはもう一度、言葉を転がすように呟いた。
「バクー油田の午後の紅茶」
午後の紅茶。
そこだけ聞けば、明るいテラスと白いカップが浮かぶ。
だが頭にバクー油田が付いた瞬間、テラスは掘削施設になり、白いカップは琺瑯になり、茶葉の香りは地下資源に置き換わる。
午後のお茶会は、無事に重工業へ編入された。
魔理沙は満足そうに頷いた。
「決まりだな」
「決まりね」
クレイスはカップを置いた。
置く音は小さかった。
だが制御室の中では、なぜかよく聞こえた。
「正式名称は原油紅茶です」
「弱いぜ」
「機能を表しています」
「名前は機能だけじゃない。勢いだ」
フランドールが笑う。
「クレイス、バクー油田飲んでるの?」
「原油紅茶です」
「午後の紅茶じゃないの?」
「違います」
「バクー油田の午後の紅茶は?」
「保留します」
魔理沙が不満そうに眉を上げた。
「せっかくクレイスから油田を聞いて、フランと相談して付けたんだぜ」
「採用条件を確認できません」
「私たちの労力を見ろよ」
「労力は確認しました」
「じゃあ採用しろ」
「保留します」
「壁みたいな返事だな」
フランドールはカップをじっと見た。
「でも、原油紅茶より分かりやすいわ」
「どこがだよ」
魔理沙が笑う。
「飲んじゃだめな感じがするもの」
「それは確かに分かりやすいな」
クレイスは日誌を開いた。
二人の会話を止める代わりに、鉛筆を取る。
«НАПИТОК:СЫРАЯ НЕФТЬ ЧАЙ
飲料:原油紅茶
ДЛЯ ВНЕШНИХ ЛИЦ:ЗАПРЕЩЕНО
外部者への提供:禁止
СПРАВОЧНОЕ МЕСТОРОЖДЕНИЕ:БАКУ
参照油田:バクー
ПРЕДЛОЖЕННОЕ НАЗВАНИЕ:БАКИНСКОЕ НЕФТЯНОЕ ПОСЛЕПОЛУДЕННОЕ ЧАЙ
提案名称:バクー油田の午後の紅茶
СТАТУС:ОТЛОЖЕНО
状態:保留»
フランドールが覗き込む。
「書いた」
「記録です」
「参照油田って書いてある」
「はい」
「紅茶に参照油田ってあるの?」
「通常はありません」
「じゃあ、これは?」
「原油紅茶です」
魔理沙は嬉しそうに笑った。
「ほら、残ったぜ」
「採用ではありません」
「残れば勝ちだ」
「勝敗ではありません」
「そういうところがクレイスだよな」
その時、地下中央制御室の電話交換盤が鳴った。
古いベルの音が、機械音の中を硬く通る。
フランドールが顔を上げた。
「誰?」
クレイスは受話器を取った。
「地下中央制御室。クレイスです」
受話器の向こうから、咲夜の声が聞こえた。
『クレイス。今、手は空いている?』
「作業中です」
『何の?』
「原油紅茶の名称保留記録です」
短い沈黙があった。
『それは後にしなさい』
「了解しました」
魔理沙が小声で笑う。
「後回しにされたぜ、バクー油田」
「保留中です」
クレイスは受話器を持ったまま答えた。
咲夜の声は、いつも通り落ち着いている。
だが背景に、妖精メイドたちの慌ただしい足音が混じっていた。
『地上階の西側フロアを少し広げたわ』
「了解しました」
『電気、水道、暖房、換気、照明、非常ベルを通しておいて』
「規模を確認します」
『廊下二本、客室三つ、物置一つ。あと窓が増えたわ』
「既存配管図と一致しません」
『今増えたから当然よ』
クレイスは黙った。
電話交換盤の横に置かれた館内配線図を見る。
地上階西側。
そこには、今朝まで廊下一本と壁しかなかった。
咲夜は時間を止める。
空間をどう扱っているのかは、クレイスの担当範囲外だった。
だが、増えた部屋に明かりが必要なことは分かる。
蛇口をひねれば水が出るべきだし、暖炉がなければ暖房が要る。
紅魔館では、部屋が増えた後に、設備が追いかけることがある。
普通の建物なら順序が逆だった。
ここでは咲夜が先に建物を作り、クレイスが後から現実を接続する。
『それと、妖精メイドが一人、増えた廊下で迷っているわ』
「救助対象ですか」
『今は雑巾を持たせておいたから大丈夫』
「了解しました」
『できるだけ早くお願い』
「対応します」
クレイスは受話器を戻した。
魔理沙が目を丸くしている。
「地上階を少し広げた?」
「はい」
「紅魔館って、少しで廊下二本増えるのか?」
「咲夜さんの担当です」
「担当で済ませるなよ」
フランドールは楽しそうに笑った。
「また部屋が増えたのね」
「頻繁にあるのか?」
「たまに」
「たまにで済むのか、それ」
クレイスは日誌を閉じた。
原油紅茶のカップには、まだ黒い液体が少し残っている。
彼はカップに蓋をした。
«СЫРАЯ НЕФТЬ ЧАЙ:ОТЛОЖЕНО
原油紅茶:保留»
それから工具箱を取る。
中には、配線工具、絶縁材、バルブ部品、簡易測定器、予備の表示札が収まっていた。
魔理沙がカップを指さす。
「飲みかけ置いていくのか?」
「持ち出しません」
「いや、持ち出しても誰も飲まないと思うぜ」
「外部者への提供は禁止です」
「強いな、その禁止」
フランドールが立ち上がった。
「私も行く」
「地上階です」
「見たい」
「作業区域です」
「じゃあ、見るだけ」
クレイスは一秒だけ止まった。
フランドールが「見るだけ」と言う時、それが本当に見るだけで終わるかは、日による。
しかし、拒否した場合の方が別の問題が起きる可能性もある。
「接触禁止です」
「分かった」
「工具への接触禁止です」
「分かった」
「新設配管への接触禁止です」
「分かった」
「壁の破壊禁止です」
「それは分からないわ」
「禁止です」
魔理沙が噴き出した。
「そこだけ返事が違うのかよ」
フランドールは少し不満そうに頬を膨らませた。
「壁って、増えたばかりなら壊しやすそうじゃない」
「壊すな」
魔理沙が即座に言った。
「咲夜に怒られるぜ」
「魔理沙も怒られるわよ」
「私はもう怒られる前提で生きてる」
「前提が悪いです」
クレイスは短く言った。
地下中央制御室の扉が開く。
赤い表示灯が、廊下へ細く光を伸ばした。
クレイスは工具箱を持ち、地上階へ向かう。
フランドールがその後を追い、魔理沙も面白そうに続いた。
机の上には、蓋をされた琺瑯カップと、閉じられた技術保守日誌が残っている。
日誌の最後には、未採用名称として一行が残った。
«バクー油田の午後の紅茶»
その下には、クレイスの小さな追記がある。
«正式名称:原油紅茶»
地下中央制御室では、磁気テープがゆっくり回り続けていた。
地上階では、新しい廊下の照明がまだ点いていない。
紅魔館は、また少し広くなった。
その分だけ、クレイスの仕事も増えた。