紅魔館の朝は、いつもより明るかった。
理由は簡単である。
屋根がなかった。
壁もなかった。
二階もなかった。
窓も、廊下も、食堂も、レミリアの部屋も、だいたいなかった。
地下だけが残っていた。
それを紅魔館と呼んでいいのかは、かなり難しい問題だった。
ただし、レミリア・スカーレットは難しい問題が嫌いだった。
「紅魔館は滅びていないわ」
瓦礫の上に立ち、レミリアは腕を組んで言った。
服には煤がついていた。
その前には、咲夜、美鈴、妖精メイドたち、パチュリー、小悪魔、フラン、クレイスが集まっていた。
古参の妖精メイドは箒を持っている。
新人の妖精メイドは箒を抱えたまま震えている。
掃く床がないのに箒を持たされるのは、かなり高度な精神修行だった。
「咲夜」
「はい、お嬢様」
「すぐ元通りにしなs」
「不可能です!!」
「判断が早すぎる!」
「材料、予算、人手、図面、屋根、壁、すべて足りません」
「屋根と壁は元からあったでしょう!」
「昨日まではありました」
「過去形で言わないで!」
咲夜は瓦礫の上に小さな机を置き、帳簿を開いた。
どこから出したのかは誰にも分からない。
時間を止めるメイドは、こういう時に一番怖い。
「まず、本館再建予定地を空けます」
「本館再建予定地?」
「ここです」
咲夜は足元の瓦礫を指した。
「旧紅魔館の基礎、地下への接続、配管の残骸、魔法陣の残滓があります。ここに仮設建物を建てると、本復旧の邪魔になります」
「つまり?」
「仮設棟は、ここから離れた場所に建てます」
「私の館なのに、私の館跡から追い出されるの?」
「お嬢様は追い出されるのではありません。仮移転です」
「言い方が役所みたいで嫌!」
クレイスが頷いた。
「旧紅魔館跡地は、瓦礫撤去、基礎調査、配管再接続、地盤確認のため封鎖が必要です」
「クレイスまで役所みたいなことを言わないで!」
妖精メイドの一人が小さく手を挙げる。
「あの、今日の仕事はありますか?」
「あります」
咲夜は即答した。
「館がないのに!?」
「館がなくても仕事はあります」
「どこがホワイト企業なの!? ブラックじゃんこれ!」
別の妖精メイドが肩を叩いた。
「紅魔館ではよくあることだよ」
「よくあってたまるか!」
咲夜は帳簿を閉じた。
「まず資材調達です。にとりさんと守谷神社へ向かいます」
「神社?」
レミリアが顔をしかめる。
「吸血鬼の館が神社から支援を受けるの?」
「館がないので」
「その言い方やめなさい!」
◇
河城にとりは、話を聞くなり目を輝かせた。
「紅魔館特急復旧セット?」
「一番安いものでお願いします」
咲夜が言った。
「吸血鬼の館なのに?」
「館がないので」
「そこまで率直だと商売しづらいね」
にとりの倉庫には、セメント袋、鉄筋、足場材、配管、ポンプ、簡易発電機、工具箱が並んでいた。
妖精メイドたちはセメント袋を見て固まる。
「これを運ぶんですか?」
「はい」
「私、昨日まで皿洗い担当だったんですけど」
「本日は建設補助です」
「職種変更が急すぎる!」
にとりは伝票を書きながら笑った。
「急ぎなら割増だよ」
「割増なしで」
「紅魔館だろ?」
「紅魔館でした」
「過去形やめなよ。こっちまで悲しくなる」
咲夜は無表情で小切手を切った。
妖精メイドたちはセメント袋を見ている。
セメント袋もまた、妖精メイドたちを見ているように見えた。
労働とは、時に一方的に重い。
◇
守谷神社では、早苗が妙に張り切っていた。
「災害復旧ですね! 守矢式仮設住宅支援パッケージがあります!」
「そういうものがあるの?」
咲夜が聞く。
「今作りました!」
「今作ったものを商品名で呼ばないでください」
神奈子は腕を組んで、紅魔館から来た一行を見た。
「木材と仮設結界、それから輸送の手配なら出せる。住む場所は必要だろう」
「助かります」
「ただし、あとで信仰宣伝に使わせてもらう」
「それはお嬢様に確認します」
諏訪子が横から覗き込む。
「紅魔館が仮設住宅になるんだ。面白いね」
「面白くありません」
「紅魔団地?」
「絶対にお嬢様へ言わないでください」
その頃、早苗は妖精メイドたちへ木材を渡していた。
「こちらが仮設壁用です!」
「壁って買うものなんですか?」
「作るものです!」
「昨日まで壁は自然にありました!」
「自然にはないですね!」
妖精メイドの新人は、幻想郷の厳しさを一つ学んだ。
壁は、なくなる。
◇
夕方。
旧紅魔館跡地から少し離れた平地に、資材が積まれた。
セメント袋。
鉄筋。
木材。
足場材。
配管。
仮設電線。
そこは本館再建予定地ではない。
地下中央制御室への入口からも、門からも、少しずれている。
旧紅魔館跡地は、瓦礫撤去と本復旧のために空けておく必要があった。
結果として、仮設棟は紅魔館の本来の場所から微妙に横へずれた位置に建つことになった。
威厳も少し横へずれた。
門だけは相変わらず無事だった。
美鈴は門の前に立ち、少し離れた仮設予定地を見ていた。
「門の正面に館がありません」
「門番でしょう」
レミリアが言う。
「はい。門の向こうは瓦礫で、館は横に建つ予定です」
「言い方!」
「配置としては、かなり難しいですね」
「難しいのは私の心よ!」
咲夜は帳簿を開いた。
「お嬢様」
「何?」
「ここで予算が尽きました」
「どこで?」
「セメントです」
「セメントに負けたの!?」
「館はセメントなしでは建ちませんので」
レミリアはしばらく黙った。
そして、パチュリーの方を見た。
「パチェ」
「何かしら」
「魔法で元通りにできないの?」
パチュリーは煤の残った帽子を整えた。
「理論上は」
その場の全員が止まった。
「その言葉は禁止!」
レミリアが叫ぶ。
「……可能性はあるわ」
「言い換えればいいと思ってるでしょ!」
クレイスが一歩前へ出た。
「提案があります」
「嫌な予感がするわ」
「旧紅魔館の完全再建は、資材、予算、時間の面で困難です。暫定住居として、再建予定地から離れた位置に二階建て小型集合住宅型仮設棟を建設します」
「何それ」
「フルシチョフカ風です」
「風を付けても団地じゃない!」
パチュリーが資料を覗き込む。
「四角い構造なら、魔力形成も楽ね。配管も通しやすい」
「パチェまで乗らないで!」
「ただし断熱が必要よ。仮設予定地は本館跡地より風が通るわ」
その時、空から青い影が降りてきた。
「あたいの出番ね!」
チルノだった。
隣には大妖精もいる。
「呼んでないわよ!」
レミリアが叫ぶ。
チルノは胸を張った。
「でも、かまくらならあたいが一番だよ! 雪の家なら任せなさい!」
「吸血鬼の仮住まいをかまくらにする気!?」
クレイスの赤い×印が淡く光った。
「参考になります」
「参考にするな!」
パチュリーも頷く。
「雪の空気層は断熱に使えるわ。氷魔法と組み合わせれば、仮設壁の保温性能を補える」
チルノはさらに胸を張る。
「つまり、あたいが設計者ね!」
「違います」
クレイスは即答した。
「参考資料です」
「参考資料って強いの?」
「重要ですが、設計者ではありません」
「じゃあ現場監督!」
「違います」
大妖精がチルノの肩を押さえた。
「チルノちゃん、たぶん手伝いだよ」
「手伝いでも最強だよ!」
こうして、旧紅魔館跡地から少し離れた平地で、奇妙な建設作業が始まった。
にとりの資材。
守谷神社の木材と結界。
チルノのかまくら知識。
パチュリーの魔力形成。
クレイスの構造設計と設備接続。
咲夜の工程管理。
妖精メイドたちの人力。
人力はだいたい悲鳴を伴った。
「セメント重い!」
「足場怖い!」
「これ本当に館ですか!?」
「仮設よ!」
「仮設って言えば何でも許されるんですか!?」
クレイスは淡々と指示を出す。
「配管を右へ三十センチ移動してください」
「右ってどっちですか!」
「そちらは左です」
「左右まで厳しい!」
パチュリーは魔導書を開き、灰色の壁材へ魔力を流す。
四角い壁が立ち上がる。
窓が並ぶ。
階段が付く。
外壁は灰色。
装飾は最低限。
赤い窓枠と蝙蝠の小さな飾りだけが、必死に紅魔館であろうとしていた。
門の正面ではない。
旧紅魔館跡地の真上でもない。
少し離れた平地に、二階建ての団地風建物が現れた。
レミリアはそれを見上げた。
「……これは何?」
「仮設紅魔館二号棟です」
「二号棟!? 一号棟はどこよ!」
「地下中央制御室を一号棟として扱っています」
「私の館を団地番号で呼ぶな!」
美鈴が門の横で呟いた。
「門の横に団地が建ちましたね」
「言わないで!」
諏訪子が楽しそうに笑う。
「紅魔団地、いいじゃん。しかも本館跡地からちょっと離れてる」
「よくない!」
早苗は感動している。
「神社支援の成果ですね!」
「宣伝に使わないで!」
チルノは建物の前で腕を組んだ。
「あたいのかまくらの方が丸くてかわいい」
「角型構造の方が部屋割りに適しています」
クレイスが答える。
「四角いかまくらって弱そう」
「これはかまくらではありません」
「じゃあ何?」
「仮設紅魔館二号棟です」
「名前だけは強そう!」
フランは二階を見上げていた。
「ねえ、クレイス」
「はい、フラン様」
「この建物、壊しやすそうね」
「壊さないでください」
「仮設なのに?」
「仮設だからです」
咲夜は完成した建物の前で、部屋割り表を貼った。
> 一階:食堂、台所、妖精メイド仮眠室、倉庫
> 二階:お嬢様仮設当主室、パチュリー様仮設書庫、咲夜、美鈴、小悪魔仮眠場所
> 地下:既存区画継続使用
レミリアは二階の窓を見上げる。
「仮設当主室って書くな!」
「事実です」
「咲夜まで!」
「お嬢様、予算上、今はこれが最善です」
「最善が団地なの!?」
「はい」
「しかも本館跡地から離れてるじゃない!」
「再建予定地を空ける必要があります」
「私の威厳の置き場所も空けておいて!」
レミリアは頭を抱えた。
紅魔館は滅びていない。
たしかに滅びてはいない。
ただし、旧紅魔館跡地の横に、灰色の二階建て仮設フルシチョフカ風紅魔館が建っていた。
◇
夜。
仮設紅魔館に明かりが灯った。
窓は四角く、廊下は短く、階段はやや急だった。
それでも食堂には湯気が立ち、妖精メイドたちは仮眠室に転がり、パチュリーは仮設書庫で本を乾かし、レミリアは二階の仮設当主室で椅子に座っていた。
窓の外には、旧紅魔館跡地の瓦礫が見える。
本来なら、あちらが紅魔館だった。
今は、こちらが仮設紅魔館である。
文字にするとかなりつらい。
「……悪くないわね」
咲夜が横で答える。
「仮設椅子です」
「言わなくていい!」
地下中央制御室では、クレイスが技術保守日誌を開いていた。
> ЛУЖИВАНИЯ
> 技術保守日誌
>
> ТЕМА:СТРОИТЕЛЬСТВО ВРЕМЕННОЙ ВЕРХНЕЙ СТРУКТУРЫ ОСОБНЯКА КРАСНОЙ ДЬЯВОЛИЦЫ
> 件名:紅魔館仮設上部構造建設
>
> МЕСТО СТРОИТЕЛЬСТВА:УДАЛЕНО ОТ ПЛОЩАДКИ ВОССТАНОВЛЕНИЯ СТАРОГО ОСОБНЯКА
> 建設位置:旧紅魔館再建予定地より離隔
>
> ТИП:ДВУХЭТАЖНОЕ МАЛОЕ ЗДАНИЕ В СТИЛЕ ХРУЩЁВКИ
> 様式:二階建て小型フルシチョフカ風
>
> СПРАВОЧНЫЙ ОБЪЕКТ:КАМАКУРА, СОЗДАННАЯ ЧИРНО
> 参考:チルノ作成のかまくら
>
> ЗАКУПКА МАТЕРИАЛОВ:КАВАСИРО НИТОРИ, ХРАМ МОРИЯ
> 資材調達:河城にとり、守谷神社
>
> МАГИЧЕСКОЕ СТРОИТЕЛЬСТВО:ГОСПОЖА ПАЧУЛИ
> 魔力施工:パチュリー様
>
> ПОДКЛЮЧЕНИЕ ОБОРУДОВАНИЯ:КЛЕЙС
> 設備接続:クレイス
>
> СОСТОЯНИЕ БЮДЖЕТА:ИСТОЩЁН
> 予算状態:枯渇
>
> ПРИМЕЧАНИЕ:ГОСПОЖА НЕ ПРИЗНАЁТ КЛАССИФИКАЦИЮ КАК ЖИЛОЙ КОМПЛЕКС
> 備考:お嬢様は団地扱いを拒否
クレイスは筆を置いた。
その時、扉の向こうからフランの声がした。
「クレイス」
「はい、フラン様」
「仮設って、いつか壊すの?」
「本復旧後に解体予定です」
「じゃあ、今から少し壊しても同じ?」
「違います。今はやめてください」
「えー?けち」
「安全規定です」
フランは少し笑った。
その上では、旧紅魔館跡地から少し離れた灰色の仮設紅魔館が、冬の夜に明かりを漏らしている。
門だけは、相変わらず立派だった。
門の正面に館がないことを除けば。