畜生界は、抗争の最中だった。
もっと正確に言えば、抗争の最中ではない時があるのか、クレイスには判別できなかった。平和という概念が、ここではたぶん外来種だった。
岩肌の裂け目の向こうで獣の咆哮が響き、別の方角では霊力弾の尾が暗い空気を裂いていた。地面には妖力で焦げた跡。壊れた荷車。塗り潰された旗。そして、そこら中に転がる武器。
観光地なら土産物が並ぶところに、畜生界では武装勢力の残骸が並ぶ。土地柄という言葉で片づけるには、治安が死にすぎていた。
クレイスは、顔を隠すフードの下で静かに記録を取っていた。目の前で抗争が起きているのに、まず記録を取る。紅魔館の設備担当としては優秀で、たぶん友達は増えにくい。
> ПОЛЕВОЙ ОТЧЁТ:МИР ЗВЕРЕЙ
> 現地報告:畜生界
>
> СОСТОЯНИЕ:ВООРУЖЁННЫЙ КОНФЛИКТ ПРОДОЛЖАЕТСЯ
> 状態:武装抗争継続中
クレイスが当初想定していた案は単純だった。
紅魔館再建資金の確保。そのための高収益事業。畜生界への魔導兵装供給。
畜生界は勢力間競争が激しい。ならば、単純で頑丈で整備しやすい兵装には需要がある。机上では利益率は高かった。
机上では、である。
現地は机ではなかった。現地は、もっとひどかった。
クレイスの前を、二体の動物霊が走り抜ける。一方は古びたAK系に似た形状の武器を抱えていた。ただし、通常の構造ではない。銃身に相当する部分には霊力を通す刻印が走り、機関部らしき箇所には怨念を流す血管のような筋が巻き付いている。弾丸に相当するものは、もはや金属片ではなく、霊力で圧縮された牙のようなものだった。
撃てば肉体ではなく、魂の輪郭に噛みつく。
兵器というより、旧ソ連製の形をした怨霊だった。
別の個体が持つものは、さらに原型が分からない。銃床は黒く変色し、銃身の内側には獣霊の唸り声がこびりついている。それでも持ち主は当然のように「AK系列」と呼んでいた。
分類の死だった。
> ОБНАРУЖЕНО:МНОГОЧИСЛЕННЫЕ ПРОИЗВОДНЫЕ СИСТЕМЫ АК
> 確認:AK系列派生品多数
>
> МОДИФИКАЦИИ:УСИЛЕНИЕ ДУХОВНОЙ СИЛОЙ, ПРОПИТКА ЖИВОТНЫМИ ДУХАМИ
> 改造:霊力強化、動物霊浸透
>
> КАЧЕСТВО:ОТ ПРОКЛЯТЫХ КОПИЙ ДО МАССОВЫХ ОБРАЗЦОВ
> 品質:呪染複製品から量産型まで
九〇年代ロシア混沌期。国家管理が崩れ、軍需品が闇市場へ流れ、世界各地へ散った時代。
その一部は、外の世界だけで終わらなかったらしい。忘れられた兵器。行方不明になった部品。所有者の記憶からすら外れた銃器。そうしたものが幻想郷の隙間を越え、さらに畜生界へ流れ着いた。
そして、畜生界の各勢力はそれを拾っただけでは終わらせなかった。
分析した。分解した。霊力を通した。動物霊を憑かせた。妖力で補強した。霊体相手に効くよう加工した。壊れたものを複製し、粗悪なものをさらに粗悪に量産し、まともなものを抗争の中で奪い合った。
外の世界では古い兵器だったものが、畜生界では魂を削る道具になっていた。
市場は既に埋まっていた。
> РЫНОК:ПЕРЕНАСЫЩЕН
> 市場:供給過多
>
> ДУХОВНОЕ УСИЛЕНИЕ:ПОДТВЕРЖДЕНО
> 霊力強化:確認
>
> ИТОГ:ПОСТАВКА МАГИЧЕСКОГО ОРУЖИЯ НЕ РЕКОМЕНДУЕТСЯ
> 結論:畜生界への魔導兵装供給は非推奨
クレイスは報告書を閉じた。
武器で稼ぐ案は、断念する。
倫理ではない。市場が荒れすぎていた。そして、武器がただの武器でなくなりすぎていた。
◇
その日の夜、仮設紅魔館二号棟の食堂に、紅魔館の主だった面々が集まっていた。
食堂、と言っても広くはない。長机は一つ。椅子は足りない。夢も足りない。足りているのは壁の薄さだけだった。そんなものは余っていても困る。
レミリアは上座にいた。ただし、その上座も仮設の折りたたみ椅子である。吸血鬼の威厳は本来、夜と霧と紅い館によって支えられる。折りたたみ椅子は、そこに含まれていない。
それでもレミリアは胸を張っていた。当主とは、家具に負けない者のことである。たぶん。
咲夜が帳簿を開いた。
「現在の予算では、本館再建は困難です」
帳簿というものは、どこの世界でも魔法より強い。数字は弾幕より逃げ場が少ない。
「つまり、全部足りないということ?」
「正確には、全部かなり足りません」
「正確に言うと悪化する報告ね」
レミリアはため息をつかなかった。つけば一階まで聞こえるからである。仮設紅魔館二号棟では、当主のため息すら共有財産になっていた。もっとまともな財産が欲しかった。
「紅魔館を再建するために、紅魔館が別物になっては意味がない。安い酒場にも、武器商人にも、ただの団地にもならないわ」
妖精メイドたちは背筋を伸ばした。
「二号棟は……いかがでしょうか」
「それも今は黙りなさい」
◇
咲夜は瓦礫の再利用と節約を提案した。美鈴は人里の夜間警備を申し出た。パチュリーと小悪魔は写本閲覧と魔法相談を出したが、「暖房関係不可」「二号棟内実験不可」が即座に書き足された。フランは「壊して奪ればいいじゃない」と言い、咲夜とレミリアの表情を同時に止めた。
「壊す力があることと、壊していいことは違うわ」
レミリアがそう言うと、フランは少しだけ黙った。
「じゃあ、壊していい瓦礫だけ壊すわ」
「それなら許可する」
妖精メイドたちの案は、紙の量だけは多かった。再建基金箱、二号棟グッズ、瓦礫記念石、手作り菓子、仮設紅魔館見学、髭お嬢様絵葉書。
最後の紙を、咲夜が無言で回収した。
「お嬢様、売れそうでしたので……」
「売れそうだから駄目なのよ!」
紙にも死刑宣告のような折り方があるらしい。咲夜の手元で、髭お嬢様絵葉書案は静かに処刑された。
◇
最後に、クレイスが資料を出した。
「高収益資金確保案、および現地調査報告です」
「後半が不穏ね」
会議で初めて聞く案が、すでに現地調査済み。順番という概念が、クレイスの中では少し独自進化しているらしい。
「畜生界方面への魔導兵装供給は非推奨です。旧ソ連系兵装の流入、霊力強化、動物霊浸透、現地量産を確認しました」
レミリアは資料を閉じた。
「却下よ。紅魔館は畜生界の武器商人にはならない」
「了解しました」
「理由は収益性だけではないわ。紅魔館が畜生界に武器を流せば、争いに紅魔館の名が残る。売った相手が勝てば恨まれ、負ければ損をし、両方に売れば信用を失う。全勢力に売れば、幻想郷側まで巻き込む。最悪、霊夢と魔理沙が飛んでくるわ」
クレイスは次の紙を出した。
「第二案。酒類供給」
「また危険物ね」
「旧地獄、人里の屋台、酒場、宴会への限定供給です。例として、ミスティアさんの屋台、奥野田美宵さんの店、または一時的に開催される宴会場が想定されます」
レミリアは目を細めた。
「旧地獄への非公式流通は却下したはずよ」
「無制限流通ではありません。紅魔館名義を出さない。常設販路を作らない。限定本数。飲食店または宴会主催者への単発供給。地底勢力との貸し借りを発生させない条件です」
咲夜が帳簿を見た。
「……条件付きなら、資金にはなります」
「咲夜?」
「危険はあります。ただ、武器よりはずっと管理できます」
パチュリーも小さく頷いた。
「酒は飲まれれば消えるわ。武器は残る。厄介さの種類が違う」
レミリアはしばらく黙った。
そして、嫌そうに言った。
「渋々よ。本当に渋々」
妖精メイドの一人が小声で言う。
「お嬢様、渋々許可ですか」
「復唱しなくていい」
「はい、お嬢様」
レミリアは指を立てた。
「条件を付けるわ。紅魔館の名を安売りしない。旧地獄に継続販路を作らない。鬼との貸し借りにしない。人里では迷惑を起こさない。ミスティアや美宵の店に出すなら、相手の商売を壊さない。宴会への供給は一回ごとに咲夜が確認する」
「了解しました」
「あと、変な名前を付けないこと」
「暫定名があります」
「言わなくていい」
「バクー油田の午後の紅茶」
「絶対に出すな!」
折りたたみ椅子の上で、レミリアの威厳がまた少し揺れた。家具と部下の両方が、当主の威厳を削りに来る。紅魔館の主業務は再建ではなく、もはや耐久試験だった。
◇
採用されたもの。
美鈴の人里警備。瓦礫の金属部品売却。門前の紅魔館再建基金箱。小悪魔管理の小規模写本閲覧。咲夜の節約と資材再利用。フランの不要瓦礫破砕。そして、旧地獄・人里・宴会向けの限定酒類供給。
却下されたもの。
畜生界への魔導兵装供給。無制限の旧地獄酒類流通。フランの破壊取得案。髭お嬢様絵葉書。暖房技術提供。復興舞踏会は、会場がないので延期。
舞踏会に必要なのは気品だけではない。床も要る。それが今は足りなかった。
レミリアは最後に全員を見た。
「いい? 紅魔館を再建するために、紅魔館を別物にしては意味がないわ」
「はい、お嬢様」
クレイスは日誌を開いた。
> ИТОГ:ПРИОРИТЕТЫ ВОССТАНОВЛЕНИЯ РАЗЛИЧАЮТСЯ У КАЖДОГО УЧАСТНИКА
> 結論:出席者ごとに復旧優先対象が異なる
レミリアが最後の行を読んだ。
「あなたらしいまとめ方だわ。でも、紅魔館は復旧対象ではないわ」
クレイスは筆を止めた。
「表現を修正しますか」
「いいえ。あなたには必要な言葉でしょうから」
レミリアは静かに食堂を見渡した。
「クレイス。あなたは地下と設備を戻しなさい。咲夜は館を回しなさい。美鈴は門に立ちなさい。パチェは書庫を戻しなさい。フラン、あなたの部屋も戻すわ。妖精たちは、余計なものを商品にしない程度に働きなさい」
「はい、お嬢様」
「壁だけ戻っても紅魔館ではないわ。咲夜がいて、美鈴が門に立って、パチェが書庫にこもって、フランが退屈そうにして、妖精たちが余計なことをして、クレイスが地下で妙な記録をつけている」
そこで一度、言葉を切った。
「そこまで戻って、ようやく紅魔館よ」
クレイスは数秒だけ沈黙し、日誌に追記した。
> 追記:お嬢様は、紅魔館再建を建造物の復旧ではなく、各員の帰還として扱った
レミリアはそれを見た。
「……少し硬いけれど、まあいいわ」
そして、ふと折りたたみ椅子を見下ろした。
「ただし、この椅子は帰還先に含めないで」
「仮設設備として除外します」
「そういう意味ではない」
会議は終わった。
終わったはずだった。