赤い館に住む元赤い国の人形   作:案山子杏子

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9.霧の泉の旧型車

 

 霧雨魔理沙は、面白いものが好きだった。

 

 珍しい魔法道具。

 

 変な本。

 

 用途不明の部品。

 

 持ち帰ったあとで霊夢に怒られそうな物。

 

 その見極めには、それなりの自信があった。

 

 ただし、畜生界ではその自信があまり役に立たなかった。

 

「……これは、持って帰る前に家が呪われるやつだな」

 

 箒の上で、魔理沙はぼそりと言った。

 

 声は軽かったが、目は笑っていない。

 

 眼下には、乾いた谷と、崩れた石壁と、黒く焦げた道が広がっている。

 

 斜面には、穴だらけになった集合住宅のような廃墟。

 

 窓枠だけが残り、壁には煤と弾痕が斑点のように散っている。

 

 道路を塞ぐ土嚢。

 

 横倒しになった外界のトラック。

 

 何度も塗り替えられた勢力印。

 

 剥がれた看板の上から、別の獣の紋章が爪で刻まれていた。

 

 支配者が変わりすぎて、看板の方が先に疲れている。

 

 どこかバルカンの山道を思わせた。

 

 どこか中東の乾いた市街を思わせた。

 

 ただし、ここは畜生界である。

 

 爆発するのは火薬だけではない。

 

 恨みも爆発する。

 

 道端に半分埋まった金属板が、低く震えた。

 

 魔理沙の指が、反射的に箒の柄を握り直す。

 

 地雷だった。

 

 ただし、踏まなくても反応する。

 

 魂の気配に噛みつく霊力地雷。

 

 魔理沙が箒を引き上げた直後、白い火柱が地面を裂いた。

 

 熱くない。

 

 むしろ冷たい。

 

 足を吹き飛ばすというより、足だった記憶を持っていく爆発だった。

 

「悪趣味だぜ」

 

 吐き捨てるように言ってから、魔理沙はほんの少し眉を寄せた。

 

 珍品好きの彼女でも、これは面白がるより先に腹が立つ。

 

 面白いものと、胸糞の悪いものは紙一重だ。

 

 畜生界はその紙を平気で燃やしてくる。

 

 谷の向こうから、車列が来た。

 

 先頭はUAZめいた小型四輪車。

 

 屋根には、PKMに似た霊力機銃が据え付けられている。

 

 銃身には骨の飾り。

 

 給弾帯の代わりに、数珠のような霊力塊が連なっていた。

 

 その後ろには、GAZ系の古いトラックに似た車両。

 

 荷台には、DShK風の重機関銃が載っている。

 

 ただし撃ち出されるのは金属弾ではない。

 

 牙の形をした霊弾だった。

 

 撃たれた岩肌が砕けるのではなく、噛みちぎられる。

 

 さらに後ろには、装甲板を継ぎ足した即席車両がいた。

 

 扉は別の車から剥がしたもの。

 

 窓には金網。

 

 側面には、過去の勢力名を塗り潰した跡が三重に残っている。

 

 その荷台で、動物霊がRPG-7めいた筒を構えた。

 

 弾頭の先には、獣の顔が浮かんでいる。

 

 撃ち出されたそれは、白い尾を引いて飛び、廃墟の壁に食らいついた。

 

 爆発。

 

 いや、炸裂というより、噛みつきだった。

 

 壁に巨大な爪痕が残る。

 

 砂煙の中で、割れた石が獣の歯のように転がった。

 

「外の兵器を、よくもまあここまで嫌な方向に育てたもんだ」

 

 魔理沙は帽子を押さえた。

 

 顔には嫌悪が浮かんでいる。

 

 だが、瞳の奥には好奇心も残っていた。

 

 嫌だ。

 

 見たくない。

 

 でも、見てしまう。

 

 そういうものは、だいたい魔法使いの足を止める。

 

 旧ソ連系の鉄。

 

 動物霊や人間霊の怨念。

 

 畜生界の妖力。

 

 それらが混ざって、武器というより呪物になっている。

 

 AK系の小銃は、銃床に骨札を巻かれ、霊力の紋様が機関部に走っていた。

 

 SVD風の長銃は、遠くの魂の輪郭を狙う。

 

 PKM風の機銃は、弾幕というより群れだった。

 

 ZU-23めいた双連砲は、空ではなく、飛んでいる怨霊を叩き落とすために空を舐めていた。

 

 BTRの残骸に似た装甲車は、半分地面に埋もれ、そこから野良犬のような霊が出入りしている。

 

 外の世界なら旧式。

 

 畜生界では現役。

 

 しかも、ただの現役ではない。

 

 魂にまで手を伸ばす現役だった。

 

 検問所では、獣霊たちが互いに違う装備を身につけていた。

 

 迷彩服の上に革鎧。

 

 外界の防弾ヘルメットに、角。

 

 肩には勢力の布。

 

 腕には昨日まで敵だったらしい印。

 

 誰がどこの所属なのか、本人たちも半分くらい忘れていそうだった。

 

 それでも、銃口だけは正確に人を黙らせる方向を向いている。

 

 戦場というものは、所属より先に銃口が会話を始める。

 

 嫌な礼儀だった。

 

 魔理沙は低空に降りた。

 

 面白い。

 

 面白すぎる。

 

 だが、持ち帰るには悪すぎる。

 

 こんなものを家に置いたら、夜中に勝手に派閥を作る。

 

 ミニ八卦炉の隣で武装蜂起でもされたら、霖之助に何を言われるか分からない。

 

 それを想像した瞬間、魔理沙の口元に少しだけ笑みが戻った。

 

 笑い戻るのが早い。

 

 人間はたくましい。

 

 いや、魔理沙が妙にたくましいだけかもしれない。

 

 瓦礫の陰から、二体の動物霊が言い争う声が聞こえた。

 

「人里の方で、変な酒が出るらしいぞ」

 

「酒?」

 

「紅い館の方から流れるとか、流れないとか」

 

「武器じゃなくて酒かよ」

 

「だから妙なんだろ。あそこ、最近建て直し中らしい」

 

 魔理沙の目が少し光った。

 

 さっきまでの嫌悪が、好奇心に押し戻される。

 

「紅い館、ね」

 

 紅魔館。

 

 静かな時ほど、中でろくでもないことをしている館。

 

 外に見える異変だけが異変ではない。

 

 帳簿。

 

 資金難。

 

 変な商売。

 

 その辺も、十分に火種になる。

 

 魔理沙はもう一度、谷を見下ろした。

 

 霊力地雷。

 

 骨飾りの機銃。

 

 獣の顔をしたRPG弾。

 

 塗り替えられすぎた旗。

 

 呪物になった旧ソ連兵器。

 

 なるほど。

 

 紅魔館が武器で稼ごうとしなかった理由は、よく分かった。

 

 ここで武器を売るというのは、火事場に薪を売りに行くようなものだ。

 

 しかも薪の方にも意思がある。

 

「武器よりは平和そうだな。たぶん」

 

 そう言いながらも、魔理沙は少し楽しそうだった。

 

 平和そう。

 

 たぶん。

 

 その二つが並ぶ時点で、もう十分怪しい。

 

 魔理沙は箒の向きを変えた。

 

 その“たぶん”だけを残して、畜生界を後にする。

 

 背後でまた霊力地雷が爆ぜた。

 

 見送りまで性格が悪かった。

 

     ◇

 

 同じ頃。

 

 クレイスは人里を歩いていた。

 

 紅魔館従者服。

 

 白い髪。

 

 後頭部の一本三つ編み。

 

 黒い瞳に、赤い×印。

 

 今日は交渉である。

 

 木箱の中には、試供品の酒瓶が数本入っていた。

 

 まだ商品ではない。

 

 まだ流通品でもない。

 

 紅魔館の地下で生まれた、強すぎる液体の様子見である。

 

 瓶には、小さな紙札が一枚だけ貼られていた。

 

«КРЕПОСТЬ:72°»

 

 それだけだった。

 

 銘柄名もない。

 

 説明もない。

 

 ただ、度数だけがロシア語で無愛想に記されている。

 

 酒瓶というより、紅魔館の地下から出てきた部品番号付きの液体だった。

 

 その酒は、クレイスが作ったものだった。

 

 もとになったのは、彼がソ連時代に覚えたサマゴンの知識である。

 

 正規の補給が頼りにならず、手持ちの物で寒さと夜をしのいでいた時代。

 

 誰かが持ち寄り、誰かが隠し、誰かが笑い、誰かが黙って飲んだ酒。

 

 クレイスは、その場に残った手順ではなく、空気を覚えていた。

 

 不足を埋めるための酒。

 

 場をつなぐための酒。

 

 眠れない夜を、少しだけ短くするための酒。

 

 それを幻想郷の材料と紅魔館の地下設備に合わせたものが、いま木箱の中に入っている。

 

 クレイスにとって、これは極端なものではなかった。

 

 強い酒。

 

 冷たい土地の酒。

 

 ソ連人民が、厳しい夜や長い沈黙の隣に置くような酒。

 

 人間の基準で見ても、そう大きく外れてはいない。

 

 ただし、その人間の基準が、かなり北へ寄っていた。

 

 幻想郷に持ち込むには、そこが少し問題だった。

 

 もっとも、幻想郷には鬼も天狗も河童もいる。

 

 七十二度くらいで世界が驚いていては、宴会など成立しない。

 

 紅魔館地下だけで大量に作るには限界があった。

 

 温度管理。

 

 容器。

 

 作業場。

 

 保管場所。

 

 何より、妖精メイドが興味本位で覗き込まない環境。

 

 最後の条件が一番難しい。

 

 クレイスは既に、次の候補を考えていた。

 

 河城にとりの工房。

 

 水の扱いに長け、機械にも強く、妙な装置を作ることにためらいがない。

 

 紅魔館の酒を量産する場所としては、かなり有力だった。

 

 問題は、にとりに頼むと、酒造設備の横に意味不明な改良機構が勝手に増えそうなことである。

 

 幻想郷では、技術者に任せると便利になる。

 

 そして、だいたい余計な機能も付く。

 

 最初の交渉先は、ミスティアの屋台だった。

 

 焼き八目鰻の煙が、夕暮れの道に薄く流れている。

 

 ミスティアは焼き台の前で鼻歌を歌っていた。

 

 煙に混じって、妙に調子のいい節が流れる。

 

 客寄せなのか、ただ歌いたいだけなのかは分からない。

 

 たぶん両方だった。

 

「いらっしゃ……って、紅魔館の人じゃん」

 

 ミスティアは目を丸くした。

 

 それから木箱に気づき、好奇心で少し身を乗り出す。

 

「焼き八目鰻? それとも道に迷った?」

 

「試供品を持参しました」

 

「迷った方がまだ自然だったかも」

 

 ミスティアは串を返しながら、木箱を覗き込んだ。

 

 警戒半分。

 

 面白がり半分。

 

 屋台の店主としては、変な客も変な品も、完全に追い返すには惜しい。

 

「お酒?」

 

「はい」

 

「紅魔館がお酒ねえ。吸血鬼っぽい赤いやつ?」

 

「透明です」

 

「そこは赤くないんだ」

 

 少し残念そうだった。

 

 どうやら紅魔館というだけで、勝手に赤い酒を想像していたらしい。

 

 偏見だが、気持ちは分かる。

 

 クレイスは瓶を一本取り出した。

 

«КРЕПОСТЬ:72°»

 

 ミスティアは紙札を見て、首を傾げる。

 

「読めない。なにこれ、呪文?」

 

「度数です」

 

「へえ。何度?」

 

「七十二度です」

 

 ミスティアは一拍置いた。

 

 それから、焼き台の火を見た。

 

 瓶を見た。

 

 もう一度、火を見た。

 

 顔から笑みが半分消える。

 

「火の近くに置きたくない数字だね」

 

「試供品です」

 

「試供品って言えば何でも可愛くなると思ってない?」

 

「いいえ」

 

「即答されると困るなあ」

 

 ミスティアは困ったように笑った。

 

 だが、瓶を返しはしない。

 

 怖い。

 

 でも気になる。

 

 商売人としての好奇心が、妖怪としての警戒心を少し押している。

 

 彼女は栓を少しだけ開け、香りを確かめた。

 

 中身は透明だった。

 

 水のように澄んでいる。

 

 だからこそ、紙札に書かれた七十二度という数字だけが妙に浮いて見えた。

 

 香りは鋭い。

 

 甘さは薄く、鼻の奥に冷たい刃物を当てるような、澄んだ強さがある。

 

 ミスティアは瓶から顔を離し、思わず片目を細めた。

 

「うわ、歌う前に喉が負けそう」

 

「ソ連基準では、強い酒の範囲です」

 

「その人たち、夜道で歌ったら息が白く凍る場所に住んでない?」

 

「地域によりますが、大体はその可能性は高いです」

 

「やっぱり」

 

 呆れながらも、ミスティアは少し笑った。

 

 知らない土地の酒。

 

 変な度数。

 

 紅魔館の無表情な従者。

 

 屋台の話題としては、だいぶ強い。

 

 強すぎる。

 

 酒も話題も濃度が高い。

 

 彼女は串を一本皿に置いた。

 

「でも、悪くないよ。水みたいな顔して、後からがつんと来るやつでしょ。屋台だとそういうの、変に受けるんだよね」

 

「需要が見込めますか?」

 

「そういう言い方すると急に売れなさそうになる」

 

「表現を修正します」

 

「いいよ、そこは直さなくて。クレイスさんが急に軽くなったら、それはそれで怖いし」

 

 ミスティアは苦笑しながら瓶を軽く揺らした。

 

 透明な液体が、夕暮れの光を小さく返す。

 

「焼き物に合わせるなら、そのままじゃ強すぎるかな。香りをちょっと丸くしたら面白いかも。あと、歌の途中で飲ませるのはやめとこ。みんな声が裏返りそう」

 

「濃度調整は可能です」

 

「うん、それそれ。その言い方だと完全に実験だけど」

 

「酒類です」

 

「はいはい、酒類酒類」

 

 ミスティアは鼻歌まじりに笑った。

 

 少し緊張が抜けている。

 

 怖い酒だが、使い方を間違えなければ面白い。

 

 そう判断した顔だった。

 

「少しだけなら出してみるよ。お客さんが面白がったら勝ち。変な顔したら、それもそれで屋台のネタになるし」

 

「ありがとうございます」

 

「で、これ、たくさん作るつもり?」

 

「現時点では試供品のみです。大量生産には別設備が必要です」

 

「紅魔館の地下じゃ足りない?」

 

「足りません」

 

「ふうん。どこで作るの?」

 

「にとりさんの工房を候補にしています」

 

 ミスティアは串を返す手を止めた。

 

 今度は本気で顔をしかめる。

 

「河童の工房で、七十二度の紅魔館酒」

 

「はい」

 

「絶対、変な機械が付くやつじゃん」

 

「懸念しています」

 

「瓶が勝手に歩くとか」

 

「不要です」

 

「飲む前に歌い出すとか」

 

「不要です」

 

「お代を自分で回収するとか」

 

「少し有用です」

 

「そこだけ乗らないでよ」

 

 ミスティアは声を立てて笑った。

 

 笑い声に、屋台の空気が少し明るくなる。

 

 こういう変な話が、彼女は嫌いではない。

 

 危ない橋を渡る気はないが、橋の上で歌うくらいならできる。

 

「名前は?」

 

「暫定名称があります」

 

「聞く前から嫌な予感しかしないけど、聞いてあげる」

 

「バクー油田の午後の紅茶」

 

 ミスティアは沈黙した。

 

 目が死んだ。

 

 焼き八目鰻の煙だけが、二人の間を通り過ぎた。

 

「透明なのに油田を名乗るな」

 

「修正します」

 

「あと午後の紅茶に謝って」

 

「謝罪対象を記録します」

 

「本当に記録しなくていいから」

 

 第一交渉。

 

 条件付き成立。

 

 クレイスは木箱の横に小さく記録した。

 

«ミスティアさんの屋台:試供品少量可

焼き物との相性:調整余地あり

量産候補:にとりさんの工房

商品名:大幅修正»

 

 記録は短い。

 

 だが、商品名に関しては致命的だった。

 

     ◇

 

 次は、奥野田美宵の店だった。

 

 暖簾の奥には、酒と料理と、人の記憶が少し柔らかくなるような空気が漂っている。

 

 美宵は盆を片手に、客の空いた器を片づけていた。

 

 忙しそうではあるが、慌ただしくはない。

 

 酒場の看板娘というものは、不思議とそういう歩き方をする。

 

「いらっしゃいませ。あら、紅魔館の」

 

 美宵はクレイスを見て、すぐ木箱へ目を移した。

 

 警戒というより、何が入っているのかもう半分分かっている顔だった。

 

 酒場にいる者は、瓶の気配に敏感である。

 

「試供品を持参しました」

 

「試供品ですか。お酒の匂いがしますね」

 

「はい」

 

「それなら、奥へどうぞ」

 

 美宵は少し声を落とし、常連客の方をちらりと見た。

 

「ここで開けると、常連さんたちが鼻だけで寄ってきますから」

 

 彼女は小さく笑って、クレイスを席へ案内した。

 

 その笑みには、客をからかう親しさと、店を守る慎重さが同時にあった。

 

 瓶を受け取ると、灯りに透かす。

 

 酒は透明だった。

 

 色はない。

 

 濁りもない。

 

 ただ、紙札の数字だけが静かに強い。

 

「綺麗ですね。水みたい」

 

 美宵の声は穏やかだったが、目は数字を見て少しだけ細くなっていた。

 

「でも、水の顔をしたまま人を倒しに来る顔です」

 

「ソ連基準では、許容範囲です」

 

「ふふ。遠い寒い場所の方は、ずいぶん強い顔のお酒を飲むんですね」

 

「気温と人間基準には関連がある可能性があります」

 

「その話、常連さんが聞いたら一晩議論しますよ。たぶん結論は出ません」

 

「非効率です」

 

「酒場では、結論が出ない話ほど長持ちします」

 

 美宵は楽しそうに言った。

 

 彼女はこういう曖昧さを嫌わない。

 

 むしろ、曖昧な話が人を席に留めることを知っている。

 

 美宵は栓を少しだけ開け、香りを確かめた。

 

 ほんのわずかに表情が変わる。

 

 驚き。

 

 興味。

 

 それから、静かな納得。

 

「鋭いですね。でも、乱暴ではありません。黙って座っているのに、隣に来ると存在感がある人みたい」

 

「僕に似ていますか?」

 

「そこまでは言っていません」

 

「了解しました」

 

 そこで美宵は、少しだけ口元を緩めた。

 

「でも、少し似ているかもしれませんね」

 

 からかうような声だった。

 

 クレイスは表情を変えない。

 

 美宵はそれを見て、余計に面白そうに笑った。

 

「紅魔館らしいか、と聞かれると少し迷います。でも、迷うところまで含めて紅魔館らしい気もします」

 

「分類に迷います」

 

「分類しきれないものの方が、酒場では話題になりますよ」

 

 美宵は瓶を置いた。

 

 指先は丁寧だった。

 

 酒を物としてではなく、席に入ってくる客のように扱っている。

 

「少しだけ出してみましょう。静かな席より、何人かで分ける席の方が合いそうです。ひとりで飲むと、少し強すぎる顔をしていますから」

 

「了解しました」

 

「これから増やす予定は?」

 

「可能性があります。大量生産には、にとりさんの工房を候補にしています」

 

「河童の工房で、紅魔館のお酒を」

 

 美宵は想像したのか、目元に笑みを浮かべた。

 

「賑やかになりそうですね」

 

「予想される追加機能が不明です」

 

「瓶が勝手に歩くくらいなら、まだ可愛い方かもしれません」

 

「歩行機能は不要です」

 

「でも、宴会場まで自分で来てくれるなら、少し便利ですよ」

 

「運搬問題が一部解決します」

 

「そこを真面目に受け取るんですね」

 

 美宵はくすりと笑った。

 

 その笑いはミスティアより静かだが、温度はある。

 

 酒場の笑いだった。

 

 大声ではないのに、席の空気を少し柔らかくする。

 

「旧地獄向けも考えているんですか?」

 

「案として存在します。ただし、僕自身は旧地獄へ行けません」

 

「暑いから?」

 

「はい。活動限界を超える可能性があります」

 

「それはやめておきましょう」

 

 美宵は少し心配そうに眉を下げた。

 

 商売の話をしていても、目の前の相手が倒れる話になると、声の色が変わる。

 

「お酒を届ける前に、届ける人が倒れては困りますから」

 

「同意します」

 

「でも、旧地獄の方々なら喜びそうですね。七十二度と聞いた時点で、勝手に杯を持って集まりそうです」

 

「需要は高いと推定します」

 

「ふふ。推定しなくても、たぶん来ます」

 

 美宵は少し考え、ふと思い出したように言った。

 

「そういえば、近いうちに守矢神社で宴会があるそうですよ」

 

「守矢神社?」

 

「ええ。人も妖怪も、神様も集まるでしょう。試供品にはちょうどいいかもしれません」

 

「供給量が増加します」

 

「そうですね」

 

「運搬手段が不足します」

 

「そこからですか?」

 

 美宵は目を丸くしたあと、肩を揺らして笑った。

 

 まさか味や客層より先に運搬で止まるとは思わなかったらしい。

 

 そこからだった。

 

 紅魔館は仮設状態である。

 

 館はまだ完全ではない。

 

 人手も足りない。

 

 資材も足りない。

 

 そこへ酒瓶の運搬問題が加わった。

 

 宴会は楽しそうな顔でやって来る。

 

 しかし裏側には、だいたい誰かの荷物運びがある。

 

 華やかなものほど、下で誰かが重い箱を持っている。

 

 幻想郷でもそこは変わらない。

 

 クレイスは店を出る時、木箱を持ち直した。

 

«Лавка Миёи: продолжаются консультации по образцам продукции

Банкет в святилище Мория: скоро состоится

Проблема: нехватка транспортных средств

Кандидат на серийное производство: мастерская Кавасиро Нитори

Старый Ад: прямая транспортировка невозможна из-за высоких температур»

 

«美宵さんの店:試供品相談継続

守矢神社宴会:近日

問題:運搬手段不足

量産候補:河城にとり工房

旧地獄:高温により直接運搬不可»

 

 短くしても、問題は減らなかった。

 

     ◇

 

 帰り道。

 

 クレイスは霧の泉の方へ回った。

 

 運搬手段を探すためである。

 

 酒瓶を手で運ぶには量が多い。

 

 メイド長にすべて任せるには負担が大きい。

 

 美鈴さんは門番。

 

 妖精メイドは道草を食う。

 

 フラン様に任せる選択肢は、最初から存在しない。

 

「荷車。台車。小型車両。飛行補助具」

 

 候補を呟きながら、クレイスは霧の泉へ近づいた。

 

 水面は淡く光り、草むらには薄い白い霧が流れている。

 

 そのほとりに、それはあった。

 

 草むらの陰に半分隠れた、古い外界車両。

 

 角ばった車体。

 

 曇りかけた窓。

 

 少し浮いた錆。

 

 空気の抜けかけたタイヤ。

 

 車体の側面には、かすかに外の世界の文字が残っている。

 

 クレイスは足を止めた。

 

「ErAZ-762」

 

 旧ソ連圏の小型貨物車両。

 

 配送用途。

 

 積載空間あり。

 

 幻想入りしてから少し時間が経っているようだが、状態は悪くない。

 

 窓は割れていない。

 

 扉は固着しているが、破損は少ない。

 

 車体の歪みも小さい。

 

 点検と軽整備で使える可能性がある。

 

 まさに探していたものだった。

 

 クレイスは車体の文字を見つめた。

 

 記録の奥から、別の用途が浮かび上がる。

 

 この系列の車両には、酩酊者の搬送に使われたものがあった。

 

 酒を飲みすぎた者を運ぶ車。

 

 酒の結果を運ぶ車。

 

 それが今、紅魔館の酒を運ぶ候補になっている。

 

 用途が逆流していた。

 

 文明とは、時々こういう嫌な冗談を言う。

 

「……用途上の連続性あり」

 

 クレイスはそう呟いた。

 

 便利な言葉だった。

 

 過去に泥酔者を運んだ車が、未来に酒瓶を運ぶことを、多少はまともに見せてくれる。

 

 ただし、運搬手段には先客がいた。

 

「こらー! そこ、あたいの領土!」

 

 運転席から、チルノが顔を出した。

 

 リボンに木の枝を挿し、なぜか得意げにハンドルを握っている。

 

 目はきらきらしていた。

 

 ただの古い車ではない。

 

 彼女にとっては、見つけた宝物だった。

 

 隠れ家で、城で、要塞で、誰にも取られたくない場所だった。

 

「近づいたら凍らせるからね! ここは、あたいのさいきょう基地だ!」

 

 声は大きい。

 

 威嚇のつもりだ。

 

 けれど、その奥に少しだけ不安が混じっている。

 

 大きなものを見つけた妖精は、大きな声で守ろうとする。

 

 だいたい、声の大きさと実際の防衛力は一致しない。

 

 後部座席から、大妖精が慌てて顔を出した。

 

 その顔は完全に「また始まった」だった。

 

「チルノちゃん、領土じゃなくて基地だよ! あと、いきなり凍らせちゃだめ!」

 

「じゃあ、半分だけ凍らせる!」

 

「半分もだめ!」

 

 大妖精は両手をばたばたさせて止める。

 

 焦っているが、チルノを怒鳴りつけるわけではない。

 

 いつものことなのだろう。

 

 いつものことなのに、毎回ちゃんと困る。

 

 友人とは大変である。

 

 車体の側面には、氷で作られた文字が貼り付いていた。

 

«さいきょうきち»

 

 少し歪んでいる。

 

 だが、堂々としていた。

 

 本人の字に似ていた。

 

 クレイスはそれを見た。

 

 旧ソ連圏小型貨物車両。

 

 酩酊者搬送用途の派生例あり。

 

 現用途、妖精の秘密基地。

 

 分類がまた死にかけていた。

 

「この車両は、現在あなたたちが使用していますか?」

 

「しよう? してる! めちゃくちゃしてる!」

 

「チルノちゃん、そこは普通に使ってるでいいんだよ」

 

「使ってる! あたいの!」

 

 チルノは胸を張った。

 

 誇らしげだった。

 

 この錆びた車を、自分の力で手に入れたと思っている顔だった。

 

 実際には、幻想入りした車両を見つけただけである。

 

 だが妖精にとって、見つけることはかなり所有に近い。

 

 大妖精はクレイスを見て、少しだけ声を小さくした。

 

「あの……紅魔館のクレイスさん、ですよね?」

 

「はい。紅魔館従者、クレイスです」

 

 大妖精はクレイスを知っていた。

 

 といっても、親しいわけではない。

 

 紅魔館の近くで何度か見かけた程度。

 

 妖精メイドたちが彼のことを話しているのを聞いたことがある程度。

 

 白い髪。

 

 赤い×印を宿した黒い瞳。

 

 表情の少ない顔。

 

 氷のように静かな気配。

 

 怖い。

 

 でも、乱暴な怖さではない。

 

 よく分からない機械の横に立っているような怖さだった。

 

 近づきすぎると、何かの規則に引っかかりそうな怖さ。

 

 大妖精は唾を飲み込み、それでもチルノの前に少しだけ体を寄せた。

 

「チルノちゃん、待って。たぶん、いきなり取り上げたりはしない人だと思う」

 

「なんで分かるんだよ」

 

「分からないけど、いきなり取り上げる人は、たぶん最初からもっと怖い顔してる」

 

「こいつ、もとから怖い顔だぞ」

 

「それは……そうかもだけど」

 

「車両の強制接収は行いません」

 

「せっしゅう?」

 

「奪いません」

 

「最初からそう言え!」

 

 チルノはまた胸を張った。

 

 安心したせいか、声が少し明るくなる。

 

 理解したわけではないが、勝った気分にはなったらしい。

 

「提案があります。この車両を点検し、必要時のみ紅魔館が借用する。通常時は、妖精の基地としての使用を継続可能とします」

 

 大妖精はぱちぱちと瞬きした。

 

 難しい言葉を頭の中でほどいている顔だった。

 

「ええっと……普段はこのままで、ときどき貸してほしいってことですか?」

 

「はい」

 

「それなら、チルノちゃん。話だけなら聞いてもいいかも」

 

「だめだ! 貸したら、あたいの基地が紅魔館になる!」

 

 チルノはハンドルを抱きしめるようにした。

 

 怒っているというより、取られるのが嫌なのだ。

 

 この古い車は、彼女にとって今日いちばんの発見だった。

 

 それを急に紅魔館の従者が見つけて、点検だの借用だの言い始めた。

 

 チルノの中では、ほぼ侵略である。

 

「ならないと思うよ」

 

「赤く塗られる!」

 

「たぶん塗らないよ」

 

「コウモリもつく!」

 

「それは……ちょっと分からないけど」

 

「塗装変更は行いません」

 

「ほら」

 

「コウモリ装飾も追加しません」

 

「ほら」

 

「じゃあ、あたいの『さいきょうきち』は?」

 

 チルノは少しだけ不安そうに、氷の文字を見た。

 

 大声で威張っていても、そこは気になるらしい。

 

「消去しません」

 

「よし!」

 

 チルノは満足げにハンドルを叩いた。

 

 車体がぎしりと鳴った。

 

 クレイスの視線が少しだけ鋭くなる。

 

「叩かないでください。車両状態が悪化します」

 

「ちょっと叩いただけだ!」

 

「チルノちゃん、そのちょっとが怖いんだよ」

 

 大妖精の声には、実感があった。

 

 たぶん過去に色々壊れている。

 

 チルノは少し考えた。

 

 考えた顔はしているが、考えの行き先は最初から決まっていた。

 

「じゃあ、あたいが運転する!」

 

「不可です」

 

「なんでだよ!」

 

「車両が壊れます」

 

「あたいが動かせば、車も最強になる!」

 

「車両は妖精ではありません」

 

「むー!」

 

 チルノは頬を膨らませた。

 

 本気で不満そうだった。

 

 運転席に座った時点で、もう運転できる気分になっていたのだろう。

 

 子どもが椅子に座っただけで王様になった気になる、あの現象である。

 

 妖精にもあるらしい。

 

 大妖精は小さくため息をつく。

 

「チルノちゃん、運転はやめよう? たぶん泉に落ちるよ」

 

「落ちない!」

 

「前に氷のそりで落ちたよ」

 

「あれは湖がずるかった!」

 

「湖はずるくないよ……」

 

 クレイスは日誌を開いた。

 

«Цель: ЭрАЗ-762

Состояние: Отличное

Текущее использование: Секретная база Феи

Планируемое использование: Транспортировка алкогольных напитков ограниченной серии

Примечание: Чирно не может работать»

 

«対象:ErAZ-762

状態:保存状態良好

現用途:妖精の秘密基地

予定用途:限定酒類運搬

備考:チルノ運転不可»

 

 チルノが横から覗き込む。

 

 眉を寄せている。

 

 読めないが、なんとなく自分に不利なことが書かれた気配だけは分かるらしい。

 

「なんて書いた!」

 

「運用記録です」

 

「あたいの名前っぽいの書いた!」

 

「運用記録です」

 

「絶対なんか悪口だ!」

 

「運用記録です」

 

「大ちゃん、こいつ日記で攻撃してくる!」

 

「日記で攻撃って何……?」

 

 大妖精は困りながらも、少し笑ってしまった。

 

 緊張が、ほんの少しだけほどける。

 

 交渉成立。

 

 では、なかった。

 

 チルノの周囲に、小さな氷の粒が浮かび始める。

 

 まだ怒っている。

 

 いや、怒っているというより、納得できないのだ。

 

 基地は守りたい。

 

 運転もしたい。

 

 でも大妖精に止められ、クレイスに止められ、しかも日誌に何か書かれた。

 

 妖精の感情は、だいたい一度に全部来る。

 

 大妖精が慌てて両手を広げた、その時だった。

 

「何やってんだ、お前ら。ずいぶん楽しそうじゃないか」

 

 上から声が降ってきた。

 

 黒い帽子。

 

 白いエプロン。

 

 箒。

 

 霧雨魔理沙が、霧の泉の上空から降りてきた。

 

 畜生界から戻ったあと、たまたまこの辺りを通りかかっただけだった。

 

 ただし、魔理沙の「たまたま」は信用できない。

 

 面白そうな気配があれば、道は勝手に曲がる。

 

 人間としてはどうかと思うが、魔法使いとしてはだいたい正しい。

 

 魔理沙は地面に降り、車体を見た。

 

 目がはっきり輝いた。

 

 さっきまで畜生界で見た呪物めいた兵器とは違う。

 

 これは古い。

 

 錆びている。

 

 でも、まだ動きそうで、まだ何かに使えそうだった。

 

 魔理沙が一番好きな種類の厄介物である。

 

「おいおい、外の世界の車じゃないか。なんで湖の妖精がこんなもん持ってるんだ?」

 

「拾った!」

 

「拾う物の大きさじゃないな」

 

「向こうから来たんだ!」

 

「幻想郷だと、それでだいたい説明がつくのが嫌だな」

 

 魔理沙は楽しそうに笑った。

 

 チルノはその笑いを、自分の基地が褒められたものだと受け取ったらしい。

 

 得意げに胸を張る。

 

 魔理沙は車体の横を見た。

 

«さいきょうきち»

 

「……いい名前じゃないか」

 

「だろ!」

 

「名前だけなら紅魔館より強そうだ」

 

「だろ!」

 

 チルノはさらに胸を張った。

 

 もはや誇らしさで浮きそうだった。

 

 大妖精が小声で言う。

 

「そこ、張り合わなくていいと思う……」

 

 魔理沙は木箱を見た。

 

 にやりと笑う。

 

「で、クレイス。今度は何を運ぶ気だ? まさかその箱、爆発物じゃないよな」

 

「試供酒です」

 

「爆発物より面倒な答えが来たな」

 

「度数は七十二度です」

 

「ほぼ火種じゃないか」

 

「ソ連基準では、強い酒の範囲です」

 

「その基準、幻想郷でも北に寄りすぎだぜ」

 

 魔理沙は笑いながら、瓶と車を見比べた。

 

 頭の中で話の筋がつながっていくのが楽しいらしい。

 

「つまり、紅魔館地下で作った七十二度の酒を、昔は酔っ払いを運んでたかもしれない旧ソ連車で運ぶわけか」

 

「用途上の連続性があります」

 

「便利な言葉で包むな。中身はだいぶひどいぞ」

 

「紅魔館向きです」

 

「否定しづらいのが嫌だな」

 

 魔理沙は肩を揺らして笑った。

 

 呆れている。

 

 面白がっている。

 

 そして、もう止める気はほとんどない。

 

 面白いものは、だいたい少し進めてから困った方がいい。

 

 魔理沙の人生観は雑である。

 

 チルノを見た。

 

「で、チルノは貸したくない」

 

「貸してもいいけど、あたいが運転する!」

 

「なるほど。つまり貸さない方が世界のためだな」

 

「なんでだよ!」

 

「私でもお前の運転は見たくない」

 

「魔理沙まで!」

 

 チルノは本気でショックを受けた顔をした。

 

 目が丸くなる。

 

 大妖精が小さく頷いた。

 

「私も、ちょっと……」

 

「大ちゃん!?」

 

 今度は裏切られたような顔になった。

 

 大妖精はすぐに慌てる。

 

「あ、違うの! チルノちゃんが嫌とかじゃなくて、車が、えっと、車がまだチルノちゃんについていけないというか」

 

「やっぱり車が弱いのか!」

 

「そういうことにしよう!」

 

 大妖精は諦めた。

 

 友情は時々、真実よりも言い換えを選ぶ。

 

 魔理沙はにやりと笑った。

 

「じゃあ、弾幕ごっこで決めればいいじゃないか」

 

 大妖精が頭を抱えた。

 

 顔に「最悪の提案が来た」と書いてある。

 

「どうしてすぐそうなるんですか……」

 

「幻想郷だからだぜ」

 

「それ、便利すぎます」

 

「便利なものは使う。魔法と同じだ」

 

 魔理沙は楽しそうだった。

 

 チルノはぱっと顔を輝かせる。

 

 怒りも不安も、勝負という言葉に一気に飲まれた。

 

「よし! あたいが勝ったら運転する!」

 

「運転は別項目です」

 

「なんでだよ!」

 

「弾幕ごっこで決める対象は、車両の借用条件です。運転権限は除外します」

 

「ずるい! 難しい言葉でずるいことしてる!」

 

 チルノは地団駄を踏んだ。

 

 霜が足元に広がる。

 

 怒っている。

 

 けれど、もう半分は勝負が楽しみで仕方ない顔だった。

 

 魔理沙が肩をすくめる。

 

「じゃあこうだ。チルノが勝ったら、基地の条件をチルノ寄りにする。クレイスが勝ったら、紅魔館が必要な時に借りる。運転はなし」

 

「なんで運転なしなんだよ!」

 

「泉に車が沈むからだぜ」

 

「沈まない!」

 

「じゃあ空を飛ぶのか?」

 

「あたいが凍らせて道を作る!」

 

「ほら沈む前提になってる」

 

 チルノは言葉に詰まった。

 

 悔しそうに口を尖らせる。

 

 大妖精がそっと肩を叩く。

 

「チルノちゃん、基地を守る勝負にしよう? 運転は……また今度考えよう?」

 

「今度っていつだ!」

 

「えっと……車がもっと強くなったら?」

 

 チルノは少し考えた。

 

 眉間にしわを寄せ、本気で考えている。

 

 考えた結果、なぜか納得した顔になった。

 

「よし! じゃあ、あたいが勝って、この車をもっと強い基地にする!」

 

「うん。それなら、たぶん大丈夫……かな」

 

 大妖精の声はまったく大丈夫そうではなかった。

 

 それでも、チルノが笑ったので少し安心したようだった。

 

 霧の泉の水面が薄く凍った。

 

 白い冷気が草むらを撫でる。

 

 チルノの気分に合わせるように、氷の粒が弾み始める。

 

 クレイスは日誌を閉じた。

 

「弾幕ごっこによる条件決定を受諾します」

 

「ほんと、言い方がつまんないな!」

 

 チルノの声は明るい。

 

 もう怒りより勝負の方に心が向いている。

 

「勝利条件を確認します。僕が勝利した場合、車両点検および必要時の借用権を取得。チルノさんが勝利した場合、基地使用条件を再交渉」

 

「よし!」

 

「なお、チルノさんの運転権限は勝敗に関係なく付与されません」

 

「そこだけ氷より固いな!」

 

「車両が壊れます」

 

 魔理沙は二人の間から少し離れた。

 

 楽しそうに帽子のつばを上げる。

 

「車に当てるなよ。面白いから壊すな。あと、泉もほどほどにしとけ。後で誰かに怒られるのは私じゃない方がいい」

 

「魔理沙、逃げる気満々ですね……」

 

 大妖精は不安そうに車体を見ている。

 

 弾幕ごっこが始まることより、車が壊れることの方が心配らしい。

 

 それもそうだ。

 

 彼女にとっても、ここはもうただの車ではなくなっている。

 

「立会人は安全な場所にいるもんだぜ」

 

「安全な場所から火をつけてるだけじゃないですか」

 

「よく分かってるじゃないか、大妖精」

 

 魔理沙は悪びれない。

 

 チルノは笑った。

 

 さっきまでの不安は、もうほとんど消えていた。

 

 自分の基地を守る。

 

 勝つ。

 

 それだけで、彼女の世界は十分に明るくなる。

 

 空気が冷えていく。

 

 氷の粒が、チルノの周りで小さく跳ねた。

 

 怒りと興奮と誇らしさが、冷気になって霧の泉へ広がっていく。

 

 クレイスは静かに位置を変えた。

 

 表情は変わらない。

 

 だが、視線は車体の位置を正確に捉えている。

 

 攻撃より先に、防ぐ場所を決めている目だった。

 

 妖精の最強と、紅魔館の設備担当。

 

 古い旧ソ連車の前で、二つの氷が向かい合う。

 

 大妖精と妖精たちは、ErAZ-762の中から息を呑んで見守っていた。

 

 大妖精の手は、無意識に座席の端を握っている。

 

 怖い。

 

 でも、少しだけ楽しみでもある。

 

 チルノが本気で何かを守ろうとしている姿を見るのは、嫌いではなかった。

 

 魔理沙は帽子のつばを少し上げ、楽しそうに笑った。

 

「さて。どっちの氷が、この車を動かすんだろうな」

 

 まだ弾は放たれていない。

 

 だが、霧の泉の空気はもう、勝負の形に凍り始めていた。

 

 紅魔館再建は進んでいる。

 

 進んでいるはずだった。

 

 ただし、その進行表には、いつの間にかこう書き足されていた。

 

 旧ソ連製小型貨物車の点検と軽整備。

 

 妖精基地の保存。

 

 守矢神社宴会への酒類運搬。

 

 チルノの運転阻止。

 

 ソ連末期サマゴン由来の試供酒。

 

 にとり工房での量産計画。

 

 酩酊者搬送車両による酒類運搬。

 

 そして、弾幕ごっこによる車両借用条件の決定。

 

 必要という言葉は、時々とても残酷だった。

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