JORMUNGAND:マージナル・チルドレン   作:たこ焼き 龍月

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序章 武器商人と子供使い

 

 港湾都市サルマの夜は、湿った鉄の匂いがした。

 赤錆びたコンテナが積み上がり、クレーンの影が巨大な獣の骨みたいに空へ伸びている。遠くでは発電機が唸り、海面にこぼれた油膜が月明かりを鈍く弾いていた。

 

 カラバル共和国。

 地図で見れば小さな国だ。

 世界地図の端に載る程度の面積しかなく、国際ニュースでも名前が出ることは少ない。大国同士の会談で話題になることもなければ、観光地として紹介されることもない。多くの人間にとって、その国はただの点であり、通り過ぎるだけの名前だった。

 

 だが、その小さな国土には、あまりにも多くのものが押し込められていた。

 鉱山利権。難民キャンプ。旧式兵器。民間軍事会社。宗教武装勢力。復興支援団体。そして各国の情報機関。

 内戦が終わったと言われてから何年も経っている。それでも銃は消えず、金の流れも止まらない。戦争によって壊された道路や建物は修復されても、人間の欲望や憎しみまでは修復されない。

 鉱山からは資源が掘り出される。港からは物資が運び出される。難民キャンプには行き場を失った人々が集まり、その周囲では支援と搾取が同時に行われる。復興を掲げる組織が活動する一方で、その復興を食い物にする者たちもいる。

 世界の誰かが「終わった戦争」と呼んだ場所で、別の誰かが次の戦争の準備をしている。

 

 戦争は終わったのではない。

 ただ形を変えただけだった。

 

「んー、潮風が最悪。髪がべたつく」

 

 ココ・ヘクマティアルは、港に積み上げられた巨大なコンテナの側面へ軽く背を預け、片手で髪をかき上げながら周囲の様子を眺めていた。潮風に混じって油と鉄の匂いが漂い、遠くではクレーンの駆動音が低く響いている。だが、そんな喧騒も彼女にとっては特別気になるものではないらしく、その表情には緊張感も警戒心もほとんど見えなかった。まるで目の前で起きている出来事が、自分とは何の関係もない些細な話題であるかのように、ココは肩をすくめる。そして、心底どうでもよさそうな口調で言った。

 

 隣に立つ少年、ヨナは無言だった。銃を抱え、周囲に視線を走らせている。彼にとって港は嫌いな場所ではなかったが、好きな場所でもなかった。港にはいつも何かが運ばれてくる。食料。薬。服。人間。武器。

 そして、だいたい最後の二つは同じ船に乗っている。

 

「ヨナ君、顔が怖いぞ」

 

 後ろからルツが茶化す。

 

「いつもだ」

「いや、今日はいつもより二割増しで怖い」

「黙れ」

 

 ルツは肩をすくめた。

 

 レームは少し離れた位置で、港湾作業員に紛れた男たちの配置を見ていた。荷役用のクレーンの影、積み上げられたコンテナの隙間、停泊中の貨物船のタラップ付近。表向きはただの作業員や警備員にしか見えないが、視線の動きや立ち位置には独特の癖がある。武器を持つ人間は、どれだけ平静を装っていても完全には隠しきれない。

 

 バルメはココの右斜め後ろ。周囲に気を配りながらも、常にココとの距離を一定に保っている。何かあれば一瞬で割って入れる位置だ。ウゴは車両の近くで腕を組み、無言のまま周辺を監視していた。その巨体は目立つが、それでも彼は不思議なほど周囲に溶け込んでいる。マオ、東條、ワイリも、それぞれ違う位置で港を観察している。マオは人の流れを、東條は警備体制を、ワイリは監視カメラや通信設備を自然な仕草で確認していた。

 

 誰も無駄な動きをしない。

 長い時間を共に過ごしたチームだった。言葉を交わさなくても、それぞれが何を見るべきかを理解している。危険があれば誰かが気づき、誰かが動き、誰かが支える。その連携はもはや習慣であり、本能に近かった。

 

 いつもの取引。

 いつもの護衛。

 いつもの危険。

 

 港には潮の匂いと油の匂いが混ざり合い、遠くでは船の警笛が鳴っている。作業員たちの怒鳴り声、コンテナを運ぶ機械の駆動音、金属同士がぶつかる乾いた音。どれも見慣れた光景であり、聞き慣れた音だった。

 武器商人の仕事は、派手な銃撃戦よりもこうした時間の方が長い。取引相手を観察し、周囲を警戒し、何事も起きないことを確認し続ける。何も起きないことこそが成功であり、その裏には膨大な準備と警戒がある。

 

 だがレームの目は、どこかでその「いつも」を疑っていた。

 理由を説明しろと言われても難しい。ただの勘かもしれない。長年戦場を渡り歩いてきた人間だけが覚える、言葉にならない違和感。

 港はいつも通り動いている。人も車も船も、何一つ不自然には見えない。それでも何かが噛み合っていないような感覚があった。

 

 まるで舞台の幕が上がる直前のような静けさ。

 誰かがどこかで息を潜め、何かを待っている。

 そんな気配が、潮風の向こうから微かに漂っているように思えた。

 

「ココ」

「なあに、レーム?」

「この港、静かすぎる」

「静かな港なんて最高じゃない。詩的で」

「詩的な港は、だいたい死体が浮く前触れだ」

 

 ココは楽しそうに笑った。

 

「やだなあ。今日は商談よ? 平和で文化的な経済活動」

「武器商人がそれを言うと、神様も困るな」

「神様って、顧客リストにいたかしら」

 

 ココの声は軽い。

 だが、目は笑っていなかった。

 

 今回の契約はカラバル政府軍向けの装備更新だった。

 表向きの内容だけを見れば、特に珍しい案件ではない。国境警備能力の強化という名目で、装甲化された巡回車両、長距離通信機材、防弾ベストやヘルメットなどの個人装備を納入する。内戦終結後の治安維持と密輸対策を目的とした支援計画の一環であり、書類上の整合性も十分に取れていた。

 

 契約書には正式な政府印が押されている。

 担当省庁の署名もある。

 予算承認の記録も残されている。

 輸送経路も申請済みだ。

 監査資料も整っている。

 

 たとえ国連の監視団が確認したとしても、「この国にしては予算規模が大きいな」と眉をひそめる程度だろう。疑問を抱くことはあっても、それ以上には踏み込めない。違法取引として摘発できるような明確な穴は見当たらなかった。

 

 少なくとも、表向きは。

 だがココは知っている。

 問題は、契約書に記されていない荷物だった。

 誰も存在を認めず、誰も責任を負わない。

 だが誰もが利益だけは受け取る。

 そのネットワークは単なる密輸経路ではなかった。

 

 港から内陸へ、内陸から国境へ。武器、資金、人員、そして記録に残らない荷物が絶えず流れている。複数の組織と企業、軍関係者が複雑に絡み合い、その全体像を把握している者はほとんどいない。

 関係者たちは、その巨大な流れをこう呼んでいた。

 

 『バベル・ルート』

 

 初めてその名称を耳にしたとき、ココは趣味の悪い名前だと思った。

 だが調べれば調べるほど、その呼び名は妙に本質を突いているように思えた。

 旧ソ連圏から流れ込む大量の小火器。

 東南アジアの匿名口座を経由する資金。

 鉱山地帯から運び出されるレアメタル。

 複数のPMC。

 複数の政府関係者。

 複数の犯罪組織。

 

「まるで闇市場の見本市だな」

 

 レームが資料をめくりながら呟いた。

 ココは肩をすくめる。

 

「見本市ならまだ可愛いわ。これはもっと質が悪い」

 

 そして――人間。

 難民。

 孤児。

 行き場を失った子供たち。

 記録上は保護施設へ送られたことになりながら、実際には別の場所へ消えていく者たち。

 ヨナは無言で資料に目を落とした。

 数字だけが並んでいる。

 だが、その数字の一つ一つに顔があることを、彼は知っていた。

 

「子供まで商品か」

 

 低く漏れた声に、その場の空気がわずかに重くなる。

 ココは笑わなかった。

 

「戦争が長引くとね、人間は何でも売るようになるの」

 

 それは単なる噂話ではなく、多くの断片的な証言や記録によって裏付けられつつある話だった。

 一見すると無関係に見えるそれらの流れが、どこかで一本につながっているという。

 カラバル共和国は内戦終結後も安定とは程遠かった。

 表向きには復興が進み、海外企業の投資も増えている。

 だが、その裏では戦時中に築かれた非公式な輸送網が形を変えて生き残っていた。

 

 軍閥が使っていた補給路。

 密輸業者が開拓した山道。

 鉱山会社の専用輸送線。

 難民移送の名目で整備された車列。

 

 それらは互いに絡み合い、一つの巨大な物流構造を形成している。

 

 そして、その流れの中で莫大な利益が生まれていた。

 ココが興味を持ったのは、その利益の行き先だった。

 政府軍との契約自体は珍しいものではない。

 紛争地帯で武器を売る以上、軍や治安組織との取引は日常の一部だ。

 しかし今回の案件には、説明のつかない数字がいくつも存在していた。

 予算規模に対して過剰な輸送量。

 用途不明の燃料消費。

 帳簿上だけ存在する関連企業。

 

 個別に見れば偶然で片付けられる。

 だが、並べてみると不自然だった。

 ココはそうした違和感を見逃さない。

 数字は嘘をつく。

 書類も嘘をつく。

 人間はもっと嘘をつく。

 だからこそ、現場を見る必要がある。

 机の上では見えないものが、港には転がっていることが多い。

 

 港には潮の匂いが漂っている。

 その奥には燃料の臭気があり、

 鉄の匂いがあり、

 働く者たちの汗がある。

 そして何より、金の匂いがあった。

 

 ココはそういう匂いに敏感だった。長年武器商人をやっていれば、利益の流れる場所には独特の空気が生まれることを知る。

 

 この港には、それがあった。

 戦場の匂いとも少し違う。火薬や血の臭いだけではない。金の流れる匂いだ。

 昼間は荷物を運ぶ労働者たちの怒鳴り声が響き、夜になれば密輸業者や仲介人たちが暗がりで取引を始める。表向きはただの港湾施設であっても、その実態は無数の思惑が交差する巨大な市場だった。

 コンテナ群は高く積み上げられ、まるで人工の峡谷のように細い通路を作っている。錆びた鉄板には各国の企業名や船会社のロゴが並び、その隙間をフォークリフトが忙しなく走り回っていた。

 

 遠くでは貨物船の汽笛が鳴る。

 誰かが荷物を運び込み、誰かが荷物を持ち出す。

  この港はそういう場所だった。

 

 コンテナ群の向こうから、黒いSUVが三台入ってきた。

 先頭車両から降りたのは、軍服の上に民間企業のジャケットを羽織った男だった。濃い髭。広い肩。笑うと、顔の皮だけが動く。

 

「ミス・ヘクマティアル」

「ハキム大佐。お会いできて光栄です」

 

 ココは両手を広げ、まるで旧友を迎えるように笑った。

 

「遠いところをよく来てくれた。カラバルは今、復興の時期にある。秩序ある軍備が必要だ」

「秩序。いい言葉です。お金の匂いがする」

 

 ハキム大佐は一瞬だけ眉を動かしたが、すぐ笑った。

 

「冗談の上手いお嬢さんだ」

「いえ、本音です」

 

 ココは平然と言った。

 大佐の背後には、民間軍事会社の人間らしい男たちがいた。砂埃に汚れた戦闘服を着込み、肩には同じ部隊章を付けている。装備は統一されていたが、その佇まいには正規軍とは違う空気があった。背筋を伸ばして規律を示すというより、いつでも動けるように力を抜いている。立ち方は軍人より荒く、視線の配り方もどこか獣じみていた。

 

 彼らの顔には共通した疲労が刻まれている。だが、それは長時間勤務の疲れではない。何度も戦場を渡り歩き、生き残るために人を撃ち、人が死ぬ光景を見続けてきた者だけが持つ種類の疲労だった。目の奥には警戒心が沈殿し、周囲の物音や人の動きを無意識に追っている。金で雇われた兵士たちではあるが、その実力だけは本物だと一目でわかった。

 

 その集団の中に、一人だけ妙な女がいた。

 黒い髪を後ろで束ね、眼鏡をかけた女。スーツ姿。戦場には不似合いなほど整った身なり。だが、彼女の視線は武装した男たちよりも鋭かった。

 

「紹介しよう。グレイ・ハウンド社のエリザ・クロウ女史だ。復興支援と治安維持の調整を担当している」

「ココ・ヘクマティアルです。武器を売っています」

「存じています。あなたの評判は、この国にも届いていますよ」

 

 エリザは穏やかに微笑んだ。

 

「悪評かしら?」

「評判に善悪はありません。使い方次第です」

「気が合いそう」

 

 ココは笑ったが、その笑みはいつもの柔らかく人懐こいものとは少し違っていた。表面上は愛想よく見える。相手に安心感を与えるための、商人として完成された笑顔だ。だが長く付き合っている者ならわかる。ココが本当に楽しんでいるときの笑い方ではない。

 

「立ち話もなんだし、中で話しましょうか」

 

 そう言ってココは軽く手を振り、一行を室内へ促した。外の喧騒を背にして建物の中へ入ると、扉が閉まる音とともに周囲の空気が少しだけ落ち着く。ココは改めて相手へ向き直り、先ほどと変わらない笑顔を浮かべた。

 

 レームは近くの椅子に腰を下ろし、その横顔を静かに観察していた。

 ココは相手の話を聞きながら何度か頷き、時折冗談めいた言葉を挟んで場の空気を和らげている。傍から見れば順調な商談にしか見えない。だがレームにはわかった。ココはすでに相手を値踏みし終えている。そして、その評価はかなり低い。

 

 嫌っている。

 それも感情的な好き嫌いではない。もっと厄介な種類の嫌悪だった。

 ココは利益のためなら気に入らない相手とも笑顔で握手する。むしろそういう相手との取引には慣れている。だが、ごく稀に、相手の考え方や振る舞いそのものを危険だと判断することがある。そのときのココは決して表情には出さないが、内心では相手を完全に警戒している。

 

 今がまさにそれだった。

 レームは小さく息を吐いた。

 相手はまだ気づいていない。ココが笑っている限り、多くの人間は安心してしまう。だが、その笑顔の裏でココの頭はすでに次の手、その次の手まで計算している。

 

 商談相手が何を隠しているのか。

 どこで嘘をついたのか。

 どの程度信用できないのか。

 そして、もし敵になった場合はどう処理するべきか。

 そうした計算が、ココの頭の中ではすでに始まっていた。

 

 商談は淡々と進んだ。

 資料が机の上を行き来し、数字が並び、契約条件が確認される。価格、輸送経路、納期、保証内容。どれも武器取引では珍しくない話題だった。

 ココは終始穏やかな口調を崩さなかった。相手の発言に耳を傾け、必要な質問を投げかけ、ときには相手を立てるような言葉まで添える。

 

 しかし、そのたびにレームは感じていた。

 ココは相手の言葉を信じていない。

 むしろ話せば話すほど、不信感を強めているように見えた。

 それでも商談は止まらない。

 武器商人の世界では、信用できない相手と取引することなど珍しくもないからだ。

 問題は信用できるかどうかではない。

 裏切られたときに対処できるかどうか。

 それだけだった。

 

 輸送日程。支払い。検品。港湾警備。通関。

 ハキム大佐は言葉を選び、エリザは必要なところでだけ口を挟む。ココはふざけた調子で、しかし一つも聞き逃さない。

 

 ヨナは会話を半分だけ聞きながら、窓の外を見ていた。

 ココとハキム大佐のやり取りは耳に入っている。レームの低い声も、ルツが退屈そうに足を鳴らす音も聞こえていた。だが、視線は窓の向こうへ向けられたままだった。

 

 港は騒がしい。

 クレーンが唸りを上げる。

 コンテナ同士がぶつかる鈍い音。

 遠くで鳴る船の警笛。

 作業員たちの怒鳴り声。

 エンジンの振動。

 普通の人間なら、その雑音の中に何か異変があっても気づかないだろう。

 

 だがヨナは違った。

 戦場では、聞こえる音より聞こえない音の方が危険なことがある。人が隠れるとき、息を殺すとき、銃を構えるとき。そういう瞬間には独特の静けさが生まれる。

 その静けさを、ヨナは知っていた。

 港は騒がしい。エンジン音、金属音、怒鳴り声。人間は大きな音に意識を引っ張られる。

 

 だからこそ、ヨナは音のない場所を探した。

 視線をゆっくり動かす。

 コンテナの列。

 荷役機械の影。

 照明の切れ目。

 人が通らない細い通路。

 何もないように見える。

 

 だが、何もない場所ほど不自然だった。

 風が吹いているのに、そこだけ動きがない。作業員たちの視線が無意識に避けている。誰も気づいていないようでいて、その空間だけがわずかに張り詰めている。

 

 目を細める。

 コンテナの影。

 作業灯の届かない場所。

 積み上げられた鉄の箱と箱の隙間。

 人の目が自然と逸れる死角。

 

 そこに、小さな影があった。

 子供だ。

 年はヨナと同じくらいか、少し下。痩せている。足音を殺して動くのが妙に上手い。港湾作業員の子供ではない。盗みに来た浮浪児でもない。

 動き方が違う。

 ただ隠れているのではない。誰がどこに立ち、どの方向を見ているかを確認しているようだった。

 影は一度立ち止まり、コンテナの角からこちらを窺った。

 その仕草に無駄がない。

 見つからないための動きではなく、見つかる可能性を計算した動きだった。

 

 ヨナは眉をわずかに寄せる。

 子供がいること自体は珍しくない。港には仕事を探す子供もいるし、物を盗みに来る子供もいる。だが、あの動きはそういうものではなかった。

 

 誰かに教えられている。

 あるいは、自分で覚えた。

 どちらにしても普通ではない。

 目が違う。

 遠くからでもわかった。

 

 怯えた目ではない。

 空腹に慣れた目でもない。

 ただ生き延びるためだけの目でもない。

 何かを探している目だった。

 獲物を探す兵士の目。

 あるいは、仲間を探す斥候の目。

 

 ヨナはその視線が一瞬だけこちらへ向いたのを感じた。

 相手も気づいたのだ。

 見られていることに。

 だが慌てない。

 逃げもしない。

 ほんの一瞬だけ動きを止め、それから自然な速度で別のコンテナの影へ滑り込む。

 その落ち着き方が、ますます気になった。

 

「ヨナ?」

 

 バルメは窓際に立つヨナを見た。外の景色を眺める横顔はいつも通り無表情に見えるが、その視線はどこか遠くを追っているようだった。バルメはほんの少し眉を寄せ、それから小さく呼ぶ。

 

「子供がいる」

「どこだ」

「あのコンテナの裏」

 

 バルメの目が細くなる。

 彼女は反射的に窓の外へ視線を向けた。港湾施設の配置、積み上げられたコンテナの列、停泊中の貨物船の影、そして警備員たちの位置。長年戦場を渡り歩いてきた経験が、言葉になる前に危険の気配を拾い上げる。

 

 風が吹いた。

 海から流れてきた湿った空気が、昼間の熱をわずかに押し流していく。遠くではクレーンが軋む音を立て、どこかの船が短く警笛を鳴らした。だが、そのありふれた港の雑音の中に、何か不自然な静けさが混じっていた。

 バルメは眉をひそめる。

 何かがおかしい。

 理由はまだわからない。だが、肌の上を這うような違和感が消えない。

 

 そのときだった。

 港の照明が一つ、消えた。

 遠くの倉庫街を照らしていた大型投光器が、不意に明滅し、そのまま闇へ沈む。

 

 周囲の作業員たちは最初、誰も気に留めなかった。古い設備では珍しいことではない。電圧の低下や配線トラブルなど、港では日常茶飯事だ。

 しかし、バルメは視線を逸らさない。

 

 そして数秒後。

 別の照明が消えた。

 続いてさらに一つ。

 二つ。

 三つ。

 

 まるで誰かが順番にスイッチを切っているかのように、港の光が少しずつ失われていく。

 明るかった岸壁の一角が薄暗くなり、コンテナの隙間に濃い影が生まれる。照明の届かない場所が増えるたびに、港の景色は別の顔を見せ始めた。

 闇が、港の一角を飲み込んだ。

 それは突然訪れた停電というより、ゆっくりと広がる黒い染みのようだった。

 光と影の境界が曖昧になり、人影の輪郭が崩れていく。

 誰かが小さく舌打ちした。

 遠くで警備員の怒鳴り声が聞こえる。

 

「おい、どうなってる!」

 

 無線の雑音も混じった。

 次の瞬間、室内の電気がふっと落ちる。

 照明が消え、部屋は一気に暗闇に沈んだ。

 だが、その混乱さえどこか不自然だった。

 偶然ではない。

 

 誰かが意図的にやっている。

 そう確信できるだけの規則性があった。

 バルメはゆっくりと肩の力を抜きながら、いつでも動けるよう重心を整える。

 視線の先では、暗闇がさらに広がろうとしていた。

 

 レームが低く言う。

 

「来るぞ」

 

 その声と同時に、どこかで銃声が鳴った。

 乾いた破裂音が一発、夜気を裂くように響いた。

 それは遠くから聞こえたようにも、すぐ近くで鳴ったようにも感じられる音だった。

 

 一瞬の静寂。

 乾いた音が倉庫街の壁に反響し、金属製のコンテナの間を跳ね返りながら広がっていく。港に漂っていたざわめきが止まり、人々の視線が一斉に音のした方向へ向いた。

 誰かが「敵襲だ!」と叫んだ次の瞬間、ハキム大佐は椅子を蹴るようにして立ち上がった。

 

「何をしている! 外へ出ろ!」

 

 怒鳴り声を響かせながら自らドアへ向かい、護衛たちを押しのけるようにして廊下へ飛び出す。その鋭い号令に続き、護衛たちも室内から一斉に飛び出していた。

 訓練された兵士たちは出口を抜けると周囲へ散開し、車両の陰やコンテナの角へ身を滑り込ませる。銃口が闇に包まれた港へ向けられ、安全装置の外れる音が連続して響いた。

 

「周辺を確認しろ!」

「北側だ!」

「いや、西だ!」

 

 怒号が飛び交う。

 だが、誰も正確な位置を掴めていない。

 夜の港は音が歪む。

 銃声は壁や鉄骨に反射し、本来とは違う場所から聞こえることがある。経験の浅い兵士ほど混乱しやすい。

 

 一方で、民間軍事会社の兵士たちも即座に反応していた。

 無線機を掴み、矢継ぎ早に報告を飛ばす。

 

「こちらアルファ、発砲を確認!」

「照明を上げろ!」

「監視班は何を見ている!」

「熱源を探せ!」

 

 無線越しの怒鳴り声が重なり合い、通信網そのものが混雑しているのがわかる。

 緊張が空気を張り詰めさせる。

 誰もが次の銃声を待っていた。

 誰もが、どこから敵が現れるのかを探していた。

 

 だが、その場でただ一人、ココだけは動かなかった。

 護衛たちが位置を変え、PMCの隊員たちが慌ただしく走り回る中でも、彼女はその場に立ったままだった。

 先ほどまで浮かべていた柔らかな笑みは消えている。

 代わりに、その青い瞳は暗闇の奥を静かに見据えていた。

 恐怖ではない。

 焦りでもない。

 何かを計算するような、あるいは盤面の変化を楽しむ棋士のような視線だった。

 

 風が吹く。

 港の潮の匂いと、火薬の匂いが混ざり合う。

 ココはゆっくりと息を吐いた。

 そして、わずかに肩をすくめる。

 

「商談中に横槍なんて、マナーが悪いわね」

「下がれ、ココ」

 

 暗闇の中で、レームが低く言った。

 

「出口はあっちだ」

 

 その声は大きくなかった。だが、長年戦場を渡り歩いてきた男特有の確信があった。

 埃っぽい空気の中、かすかな隙間風だけが外の存在を知らせていた。

 バルメは即座に動いた。だが飛び出しはしない。まず壁に手を添えて周囲の配置を探り、足元に障害物がないか確認してからココの腕を引いた。

 

「動くぞ」

 

 一行は身を低くして進む。レームが先頭に立ち、手探りで廊下を進みながら出口への経路を確かめる。東條は後方を警戒し、わずかな物音にも耳を澄ませていた。

 暗闇の中では距離感が狂う。床に転がった箱や倒れた椅子を避けながら、一歩ずつ慎重に進む。誰も無駄な声を出さない。聞こえるのは衣擦れの音と抑えた呼吸だけだった。

 

 やがて前方にわずかな光が見えた。閉ざされた扉の隙間から差し込む細い光線だ。

 レームは扉の脇に身を寄せ、外の気配を探る。数秒の静寂の後、小さく頷いた。

 

「行くぞ」

 

 扉がゆっくり開く。

 外から流れ込んだ光に一瞬目が眩む。だが足は止めない。一行は素早く建物の外へ出た。

 

「みんな過保護ね」

「仕事です」

 

 東條が短く答える。

 

「それに、嫌な気配がします」

「東條までそう言うなら、本当に嫌な気配なんでしょうね」

 

 ココは笑ったが、その目は笑っていなかった。

 ヨナは倉庫の外へ出た瞬間、反射的に周囲へ視線を走らせた。

 乾いた夜気の中、物陰から物陰へと動く小さな影が見える。兵士でも傭兵でもない。子供たちだ。

 

 ヨナはすでに銃を構えていた。

 だが彼の銃口は、大佐の兵士でもグレイ・ハウンドでもなく、闇の中にいる子供の影を追っていた。

 倉庫街の隙間。

 積み上げられたコンテナの影。

 照明の届かない場所。

 そこに誰かがいる。

 姿は見えない。だが気配だけは感じる。

 ヨナは無意識に眉をひそめた。

 

 大人の兵士の動きではない。

 もっと軽い。

 もっと速い。

 そして妙に慣れている。

 まるで獲物を狙う野良猫のようだった。

 

 その瞬間だった。

 コンテナの上から、何かが落ちた。

 誰かが投げたのではない。

 正確に計算された軌道で、真下へ落とされたような動きだった。

 地面に当たったそれが金属音を立てる。

 

「伏せろ!」

 

 レームが叫ぶ。

 発煙筒だった。

 赤く焼けた筒がコンクリートの上を転がり、激しく火花を散らす。直後、内部から高圧で噴き出した白煙が一気に周囲へ広がった。

 煙はただ漂うのではない。勢いよく吐き出され、風に押されながら渦を巻き、数秒のうちに埠頭の一角を白く塗り潰していく。

 

 視界が奪われる。

 コンテナの輪郭がぼやける。

 照明の光が煙に反射し、白い壁のようになって広がった。

 兵士たちは反射的に銃を構えたが、狙うべき相手が見えない。

 

「どこだ!」

「右か!?」

「違う、左だ!」

 

 怒鳴り声だけが煙の中を飛び交う。

 その混乱の中を、小さな影が走り抜けた。

 

 一つ。

 また一つ。

 さらに別の影。

 背丈の低い人影が、煙の濃い場所と薄い場所を正確に選びながら移動していく。まるで事前に地形を頭へ叩き込んでいたかのような動きだった。

 ある影はコンテナの陰へ滑り込み、別の影は積み上げられた木箱の裏へ消える。さらにもう一人は兵士たちの死角を縫うように走り、誰にも捕捉されないまま位置を変えていた。

 

 子供だった。

 だが、その動きには子供特有の無秩序さがない。

 役割を理解し、自分の行動が全体の中で何を意味するのか知っている者の動きだった。

 煙の向こうで短い笛の音が鳴る。

 すると影たちは一斉に方向を変えた。

 まるで見えない糸で結ばれているかのように。

 

「子供……?」

 

 ルツが思わず呟いた。

 煙の向こうを横切った影は、どう見ても小柄だった。

 肩幅も狭い。

 背丈も低い。

 だが、その動きには迷いがない。

 戦場を知らない子供の動きではなかった。

 

「ただの子供じゃない」

 

 レームが答える。

 彼の目は煙の流れを追っていた。

 

「役割分担してる」

「何?」

「一人が陽動、一人が監視、一人が回収役だ」

 

 レームは短く分析する。

 

「しかも連携が早い。事前に決めていた動きだ」

 

 煙の向こうで何かが倒れる音がした。

 続いて誰かの怒鳴り声。

 そして無線機の雑音。

 子供たちは撃っていない。

 だが確実に戦場を動かしていた。

 ココは興味深そうに目を細める。

 

「へえ」

 

 その笑みは、珍しい商品を見つけた商人のものだった。

 

「面白いじゃない」

 

 ヨナだけは笑わなかった。

 煙の向こうを走る影を見ながら、無意識に銃を下げる。

 あの動き。

 あの年齢。

 あの目。

 どこかで見たことがある。

 いや、知っている。

 戦場に放り込まれた子供が、どうやって生き残るのかを。

 煙の中を駆ける影は、まるで過去の自分を見ているようだった。

 

 煙の向こうで、兵士の一人が足を取られて倒れた。別の兵士が振り返る前に、無線機だけが奪われる。さらに別の場所で、車両のタイヤが潰された。

 殺す動きではない。

 止める動きだ。

 東條が低く言った。

 

「訓練されてる」

「しかも、かなり嫌な訓練だ」

 

 マオが顔をしかめる。

 ヨナは煙の中へ踏み込もうとした。

 港に漂う煙は思った以上に濃かった。焼けたゴムと油の匂いが鼻を刺し、視界は数メートル先までしか利かない。遠くでは誰かが怒鳴り、別の場所では金属がぶつかる音が響いている。混乱はまだ終わっていなかった。

 

 ヨナは足を止めない。

 こういう状況には慣れていた。煙の向こうに何がいるのか分からないことにも、次の瞬間に銃口が向けられることにも。

 だからこそ、慎重だった。

 銃を構えたまま、一歩ずつ前へ進む。耳を澄ませる。足音。呼吸。衣擦れ。煙の向こうに潜む気配を探る。

 

 その時だった。

 煙がわずかに揺れた。

 ヨナは反射的に銃口を向ける。

 その前に、影が一つ、彼の前に現れた。

 少女だった。

 年齢は自分と同じくらいか、あるいは少し下かもしれない。

 褐色の肌。細い体。大きな目。手には銃。

 だが、その構えは大人の真似ではなかった。実戦を知っている構えだった。

 無駄な力が入っていない。

 銃を持ち慣れている人間の構えだ。

 少女もまた、煙の向こうから現れたヨナを見ていた。

 驚いたようには見えない。

 むしろ、最初から誰かが来ることを予想していたような目だった。

 

 その視線は鋭い。

 子供の目ではない。

 戦場で何かを失った人間の目だった。

 ヨナは少女を見た。

 少女もヨナを見た。

 互いに引き金へ指をかけたまま、一歩も動かない。

 煙が二人の間を流れていく。

 遠くではまだ騒ぎが続いているのに、この場所だけが切り離されたように静かだった。

 

 ヨナは少女の呼吸を見ていた。

 少女はヨナの目を見ていた。

 どちらも撃てる。

 どちらも撃たない。

 その判断が、一瞬ごとに揺れ続ける。

 時間が止まった。

 

「どけ」

 

 ヨナが言った。

 

「そっちがどいて」

 

 少女が返した。

 声は幼い。だが、怯えはなかった。

 その場の空気は張り詰めていた。周囲ではまだ人々の怒鳴り声や足音が響いている。それでも少女の声だけは不思議なほどはっきりと耳に届いた。

 

 ヨナは少女の目を見た。

 少女もまた、まっすぐにヨナを見返していた。

 普通なら視線を逸らす年頃だ。まして相手は武装した人間であり、状況も決して安全ではない。だが少女は一歩も引かなかった。細い肩は緊張で固くなっているはずなのに、その瞳だけは揺れていない。

 ヨナはその目を見つめたまま動かなかった。

 どこかで見たことがある。

 

 そう思った。

 知っている顔ではない。会ったこともないはずだ。それなのに胸の奥がわずかにざわつく。

 少女の瞳には怒りがあった。

 恐怖もあった。

 そして、それ以上に強い何かがあった。

 ヨナは少女の目を見た。

 それは昔、鏡の中で見たことのある目だった。

 戦場に放り込まれたばかりの頃。

 誰も信用できず、誰にも助けを求められず、それでも生き残るために歯を食いしばっていた頃。

 あの頃の自分が、そこにいた。

 もちろん目の前にいるのは別人だ。

 だが、その瞳の奥にあるものだけはよく似ていた。

 だからこそ、ヨナはわずかに眉をひそめた。

 

「お前、誰だ」

「ジブリール」

「何をしてる」

「子供を取り返しに来た」

 

 ヨナの指が、わずかに止まった。

 引き金にかかった指先に力は入っていた。照準もぶれていない。あとほんの少し圧力を加えれば、銃は火を吹いていただろう。

 

 だが、その瞬間だけだった。

 ヨナの脳裏に浮かんだのは、銃口の向こうにいる少女の顔だった。敵として認識しているはずなのに、その姿はどこか戦場に似つかわしくなかった。細い肩。まだ幼さの残る輪郭。けれど、その目だけは兵士のものだった。

 

 撃てる。

 そう判断するのに十分な状況だった。

 だが、本当に撃つべきなのかという迷いが、一瞬だけヨナの動きを鈍らせた。

 その一瞬で、ジブリールは横へ飛んだ。

 まるでその迷いを見抜いていたかのような動きだった。低く身を沈め、地面を蹴り、煙の流れる方向へ滑り込む。小柄な体は驚くほど素早く、コンテナの影へと消えていく。

 

 ヨナは反射的に追おうとした。

 視線で逃走経路を追い、足を踏み出しかける。だが、煙の向こうには死角が多すぎた。コンテナが複雑に並び、どこに伏兵がいるかわからない。

 それでもヨナは前へ出ようとした。

 逃がしたくないというより、あの少女が何者なのか確かめたいという感情の方が強かった。

 

 しかし、その瞬間だった。

 バルメの声が飛んだ。

 

「ヨナ! 深追いするな!」

 

 鋭く、迷いのない声だった。

 ヨナの足が止まる。

 バルメはただ命令したのではない。周囲の状況を見ていた。煙幕はまだ完全には晴れていない。敵の配置も不明。港湾地区の構造上、追跡者を誘い込むには絶好の地形だった。

 ヨナもそれは理解していた。

 理解していたからこそ、舌打ちしたくなる。

 逃げられる。

 そう思った。

 煙の向こうで、足音が遠ざかる気配がする。小さな影はもう見えない。

 

 ヨナは銃を下げきれず、しばらくその方向を睨み続けた。

 煙の匂いが鼻を刺す。

 遠くで金属がぶつかる音がした。

 港の喧騒と戦闘の残響が入り混じり、周囲の空気はまだ張り詰めている。

 そして、その煙の向こうで、別の声が響いた。

 

「ーー全員、予定通り。東側ルートを塞いで。サミル、無線は取った?」

「取った!」

「ナディア、車両番号を確認。ジブリールは戻って。サミル、東側の通路を見て。無理はするな」

 

 若い男の声だった。

 怒鳴るような声ではない。戦場でよく聞く、威圧や恐怖で人を動かそうとする声とも違う。むしろ穏やかで、少し頼りなく聞こえるほどだった。

 

 だが、その声を聞いた瞬間、周囲の子供たちの動きが変わった。

 名前を呼ばれた少女――ナディアはすぐに端末を抱え直し、停車している車両へ視線を向ける。ジブリールは不満そうな顔をしながらも足を止め、指示された位置へ戻った。さらに別の少年が物陰から顔を出し、東側の通路へ駆けていく。

 誰も命令に戸惑わない。

 誰も確認を求めない。

 それぞれが自分の役割を理解していて、その声に従って動いていた。

 若い男の姿はまだ煙の向こうに隠れている。

 だが、その場を動かしている中心が誰なのかははっきりわかった。

 指示は短い。

 余計な言葉もない。

 それでも必要な情報だけが正確に伝わり、子供たちは迷わず行動している。

 戦場では珍しいことではない。

 だが、それをやっているのが正規軍でもPMCでもなく、子供たちの集団だという事実が異様だった。

 

 レームは煙の向こうへ視線を向けたまま、小さく息を吐いた。

 経験が告げている。

 こういう集団は自然には生まれない。

 誰かがまとめている。

 誰かが考え、判断し、責任を背負っている。

 そして、その誰かは決して無能ではない。

 レームの表情が変わった。

 

「指揮官がいる」

 

 ココは煙の中へ目を凝らした。

 爆発の余韻で漂う白煙は、夜の湿った空気に混じりながらゆっくりと流れている。照明の光が煙に反射し、視界はまだ完全には晴れていない。遠くでは誰かが怒鳴り、別の場所ではコンテナの扉が風に揺れて金属音を立てていた。

 その混乱の中で、不思議なことに一か所だけ静かな場所があった。

 

 白い煙が薄れた先、コンテナの影に一人の青年が立っていた。

 黒髪。細い体。戦場の人間にしては、あまりにも普通の顔だった。

 軍人のような威圧感はない。傭兵特有の荒んだ空気もない。政治家や官僚のような計算高さも見えない。

 むしろ大学の研究室で徹夜している学生か、ネットカフェの隅でパソコンを眺めている青年の方がしっくりくる。港の銃撃戦よりも、本や資料に囲まれた場所の方が似合いそうな男だった。

 だが、その印象とは裏腹に、周囲の状況は彼がただの一般人ではないことを示していた。

 

 彼の近くには数人の子供たちがいた。

 年齢は十歳前後から十代半ばほど。服装もばらばらで、統一された装備などない。それでも彼らは混乱していなかった。

 誰かが短く手を振る。

 すると別の子供がコンテナの陰へ移動する。

 誰かが視線を向ける。

 すると別の子供が即座に周囲を警戒する。

 言葉はほとんど交わされていない。

 それなのに動きには無駄がなく、それぞれが自分の役割を理解しているようだった。

 そして、その中心にいるのが目の前の青年だった。

 彼自身は銃を構えているわけでもない。

 怒鳴って命令しているわけでもない。

 それでも子供たちは彼の存在を基準に動いている。

 まるで見えない糸で繋がっているようだった。

 

 ココは興味深そうに目を細めた。

 戦場では珍しい光景ではない。

 だが、珍しくないからこそ違和感があった。

 普通なら恐怖で従わせる。

 金で縛る。

 あるいは洗脳する。

 しかし目の前の子供たちからは、そのどれも感じられなかった。

 だからこそ不気味だった。

 

「あなたが、この騒ぎの責任者?」

 

 ココが声をかけた。

 青年はココを見た。

 敵意はない。

 警戒はしている。

 だが、それ以上に疲れているようにも見えた。

 青年は少し困ったように眉を下げた。

 

「責任者、という言い方は好きじゃないです」

 

 その声は穏やかだった。

 戦場の真ん中とは思えないほど落ち着いている。

 ココは首を傾げる。

 

「へえ。じゃあ何かしら。先生?」

「違います」

「お兄さん?」

「それも違います」

「じゃあ、保護者?」

 青年はわずかに苦笑した。

 

「それも、少し違います」

「少し、ね」

 

 ココは面白そうに繰り返した。

 完全な否定ではない。

 つまり本人にも自覚があるのだろう。

 子供たちとの距離が近すぎることを。

 

「指揮官?」

 

 今度は少しだけ真面目な声で聞いた。

 青年は答えなかった。

 その沈黙だけで十分だった。

 ココは笑った。

 なるほど、と心の中で呟く。

 

 この男は肩書きを嫌う。

 責任者でもない。

 保護者でもない。

 指揮官とも名乗らない。

 だが実際には、その全部を背負っている。

 だからこそ答えられないのだろう。

 ココはそういう人間を何人も見てきた。

 自分が何者なのかを決める前に、多くのものを抱え込んでしまった人間を。

 そして、そういう人間は大抵厄介だった。

 良い意味でも、悪い意味でも。

 ココの笑みはさらに深くなった。

 目の前の青年――アラタという名前だったか――は、どうやら思っていた以上に面白い相手らしい。

 

「あなた、名前は?」

「アラタです」

「私はココ。ココ・ヘクマティアル。武器商人よ」

「知っています」

 

 アラタは静かに言った。

 その声は大きくなかった。

 怒鳴り声でもなければ、相手を威圧するような響きもない。だが、不思議とその場にいた全員の耳に届いた。港に吹く風の音や、遠くで鳴るエンジン音さえ一瞬遠のいたように感じられるほど、その言葉には妙な重みがあった。

 

 その言葉に、ヨナが反応した。

 ほんのわずかに眉が動く。

 アラタの顔を見たわけではない。むしろ、その背後へと視線が向いていた。

 アラタの背後に、さっきの少女――ジブリールが戻ってくる。

 彼女は周囲を警戒しながら歩いていた。年齢からすれば不自然なほど落ち着いた足取りだったが、それでも肩で息をしているところを見ると、ここへ来るまで走っていたのだろう。

 

 彼女の横には、無線機を抱えた少年がいた。

 少年は痩せていて、小柄だった。だが、その腕には使い込まれた無線機がしっかりと抱えられている。緊張しているのか唇を固く結んでいたが、その目だけは周囲を忙しく観察していた。

 

 さらにその隣には、タブレット端末を持った少女がいる。

 少女は画面からほとんど目を離さない。指先は素早く動き続け、何かの情報を確認しているようだった。港湾施設の配置か、通信記録か、それとも監視カメラの映像か。少なくとも遊びで触っている様子ではない。

 

 さらにその後ろにも数人。

 年上に見える少年もいれば、まだ十歳そこそこにしか見えない子供もいる。

 みんな子供だった。

 それは誰が見ても明らかだった。

 ココ隊の面々は、それぞれ異なる反応でその光景を見つめていた。

 

 ルツは何か言おうとして口を開いた。

 いつもなら場を和ませる軽口の一つでも飛ばしていただろう。

 しかし今回は違った。

 言葉は喉の奥で止まり、代わりに短いため息だけが漏れる。

 

 マオは眉をひそめた。

 戦場で子供の姿を見ること自体は珍しいことではない。

 だが、目の前の子供たちは単なる被害者でも、偶然そこにいる存在でもなかった。

 役割を持ち、連携し、目的を共有して動いている。

 その事実が、彼の胸に重くのしかかった。

 

 東條は無言のままだった。

 感情を表に出さない彼の目だけが、静かに周囲を観察している。

 誰が中心なのか。

 誰が周囲を警戒しているのか。

 誰が情報を扱い、誰が判断を下しているのか。

 子供たちの配置や動きから、組織の構造を読み取ろうとしていた。

 そして、その分析結果は決して安心できるものではなかった。

 

 バルメはそっとヨナへ視線を向ける。

 ヨナはアラタではなく、その周囲にいる子供たちを見ていた。

 静かな目だった。

 けれど、その奥には言葉にできない感情が沈んでいるようにも見える。

 ヨナもまた、子供として戦場を生き抜いた人間だった。

 銃を握ったこともある。

 命令に従ったこともある。

 生き残るためだけに戦ったこともある。

 目の前の子供たちの姿は、否応なく過去の記憶を呼び起こしていた。

 

 ジブリールがふとヨナを見る。

 ヨナもまた、その視線に気づいた。

 二人の目が一瞬だけ交わる。

 言葉は交わされない。

 それでも、その短い沈黙の中には、互いにしかわからない何かが確かに存在していた。

 

 ハキム大佐が怒鳴る。

 

「貴様ら! 何者だ! これは共和国政府の正式な契約だぞ!」

 

 アラタは大佐を見た。

 怒鳴り返さない。感情的にもならない。ただ真っ直ぐに相手を見る。

 その態度が、かえって大佐を苛立たせた。

 

「聞いているのか!」

 

 アラタはゆっくりと口を開いた。

 

「国家間取引ではありません」

 

 一拍置く。

 その短い沈黙が妙に長く感じられた。

 そしてアラタは続けた。

 

「子供の売買です」

 

 その場の空気が、一段冷えた。

 ココの目が細くなる。

 その変化はほんのわずかだった。

 だが、彼女を知る者なら誰でもわかる。

 それは機嫌が悪くなった時の顔ではない。

 怒った時の顔でもない。

 何かを見つけた時の顔だ。

 獲物の匂いを嗅ぎつけた捕食者のように、あるいは複雑なパズルの欠けた一片を見つけた子供のように、ココの視線はまっすぐ相手へ向けられていた。

 

 誰も口を開かなかった。

 ハキム大佐はその視線を受け止めるように胸を張ったが、その額にはうっすらと汗が浮かんでいた。

 

 数秒の沈黙。

 それから彼は突然、大声で笑い始めた。

 

「はははは! 何を言っている。くだらん妄想だ」

 

 笑い声は大きかった。

 必要以上に大きかった。

 まるで周囲に聞かせるためのような笑い方だった。

 ハキム大佐は肩を揺らしながら続ける。

 

「ミス・ヘクマティアル、この者たちはテロリストだ。我々の復興事業を妨害する連中だ。政府施設を襲撃し、支援物資を奪い、住民を扇動している。そんな連中の言葉を真に受けるつもりか?」

 

 彼は周囲を見回した。

 同意を求めるように。

 あるいは、自分自身を納得させるように。

 

「子供が消えている? 売買されている? 馬鹿馬鹿しい。内戦が終わったばかりの国だ。混乱はある。行方不明者も出る。だが、それを組織的な犯罪だと決めつけるのは短絡的だ」

 

 言葉は流暢だった。

 準備された説明のようでもあった。

 

「我々は復興を進めている。学校を建て、道路を整備し、難民を保護している。その努力を無視して陰謀論を語るなど――」

 

「大佐」

 

 ココが遮った。

 声は大きくない。

 だが、その一言だけでハキム大佐の言葉は止まった。

 

「今、私が聞いてるのはあなたじゃない」

 

 ハキム大佐の顔から笑みが消える。

 先ほどまでの余裕そうな表情がわずかに崩れた。

 彼は何か言い返そうとしたが、言葉が出てこない。

 

 ココは視線を外さない。

 まるで最初から大佐など視界に入っていなかったかのように。

 彼女が見ているのは別の人物だった。

 

 そして、その事実を理解した瞬間、ハキム大佐の表情はさらに険しくなった。

 額には深い皺が刻まれ、握り締めた拳の関節が白くなる。先ほどまでの苛立ちとは違う。これは警戒だった。目の前にいる青年が、自分たちの想定よりもはるかに多くの情報へ辿り着いているかもしれないという警戒。そして、その情報がどこまで広がっているのか分からないことへの不安だった。

 

 部屋の空気が重くなる。

 誰もすぐには口を開かなかった。

 兵士たちは互いに顔を見合わせ、グレイ・ハウンドの関係者たちは無言のまま様子を窺っている。ほんの数秒の沈黙だったが、その場にいる全員にはずっと長く感じられた。

 

 エリザ・クロウは、表情を変えなかった。ただ、アラタを見つめている。その目は、珍しい標本を見つけた研究者のようだった。

 

「アラタさん」

 

 ココは言った。

 その声は柔らかかったが、問いかけは鋭い。

 

「あなたは、何を知っているの?」

 

 アラタはすぐには答えなかった。

 視線を少しだけ横へ向ける。

 そこには子供たちがいた。

 ジブリールが腕を組んで周囲を警戒している。サミルは落ち着かない様子で足元の石を蹴り、ナディアは端末を抱えたまま黙っている。誰も口を挟まない。だが全員がアラタの言葉を待っていた。

 

 アラタは、子供たちを一度だけ見た。

 その視線には確認するような色があった。

 本当に話していいのか。

 本当にこの女を巻き込むのか。

 そんな迷いが一瞬だけ浮かび、すぐに消える。

 それからココを見る。

 

「この港から、武器が出ます。資金も出ます。鉱石も出ます。でも、それだけじゃない」

 

 ココは黙って聞いていた。

 いつもの軽い笑みは消えている。

 商談の席で見せる顔とも違う。

 相手の言葉の価値を測るときの顔だった。

 

「人間も出る?」

 

 ココが静かに尋ねる。

 

「はい」

 

 アラタは頷いた。

 

「主に子供です」

 

 その言葉が落ちた瞬間、周囲の空気が少しだけ重くなった。

 ヨナの肩がわずかに動いた。

 アラタは続けた。

 

「表向きは職業訓練校です。孤児や難民の子供たちに教育を与える施設だと説明されています」

「表向きは、ね」

 

 ココが言う。

 

「はい」

 

 アラタは短く答えた。

 

「実態は違います」

 

 少しだけ間を置く。

 その間に、遠くから船の汽笛が聞こえた。

 港はいつも通り動いている。

 コンテナが運ばれ、人が働き、金が流れる。

 その流れの中に紛れて、子供たちも運ばれている。

 

「実態は、子供兵の養成所です」

 

 アラタの声は静かだった。

 怒鳴りもしない。

 感情を露わにもしていない。

 だからこそ、その言葉は重かった。

 

「連れて行かれた子供たちは名前を奪われます。番号で呼ばれるようになる。家族との連絡は断たれる。逃げようとした子供は見せしめにされる」

 

 ジブリールが目を伏せた。

 サミルは唇を噛む。

 ナディアの指先が端末を握る力を強めた。

 

「最初は食事と寝床を与えられます。だから安心する子もいる。でも、それは餌です」

 

 アラタは続ける。

 

「そのあとで訓練が始まる」

「どんな訓練?」

 

 ココが聞いた。

 

「銃の扱い。監視。潜入。爆発物。尋問への耐性。命令への服従」

 

 ココの表情がわずかに変わる。

 

「子供相手に?」

「子供だからです」

 

 アラタは答えた。

 

「大人より従順で、大人より安く、大人より壊れやすい」

 

 その言葉に誰もすぐには反応しなかった。

 風だけが吹いている。

 

「そして壊れても補充できる」

 

 アラタは静かに言った。

 

「彼らはそう考えています」

 

 ヨナの視線が鋭くなる。

 ココは腕を組んだ。

 

「証拠は?」

 

 レームが聞いた。

 その声は低く、感情をほとんど含んでいなかった。だが、だからこそ重みがあった。戦場では噂も情報も同じように飛び交う。誰かの正義も、誰かの告発も、裏付けがなければただの雑音だ。

 

 ナディアと呼ばれた少女が、抱えていたタブレットを胸元で持ち直した。

 年齢からすれば場違いなほど落ち着いていたが、それでも大人たちの視線が一斉に集まると、わずかに肩が強張る。

 

「あります」

 

 彼女はそう言って画面を操作した。

 タブレットには複数のファイルが表示される。数字の羅列、輸送記録、行政文書の写し、監視カメラの静止画像。

 

「積荷番号。移送記録。偽装された医療支援リスト。ぜんぶあります」

 

 ナディアは一つひとつを示しながら説明した。

 

「これは港湾管理局のデータベースから取得した貨物番号です。こっちは福祉局の移送記録。そしてこっちが国際支援物資として登録された車両の運行履歴」

 

 画面には同じ番号が何度も現れていた。

 

「表向きは医薬品や支援物資を運んでいることになっています。でも実際には、記録上の重量と積載量が一致していません」

 

 東條が画面を覗き込む。

 

「数字の改竄か」

「はい。しかも一回じゃありません。複数の部署で同じ処理がされています」

 

 ナディアはさらに別の資料を開いた。

 

「それから、この医療支援リストです」

 

 そこには子供たちの名前が並んでいた。

 だが、いくつかの名前には不自然な点がある。

 

「同じ人物が別名で登録されています。逆に、実在する子供なのに途中で記録から消えているケースもあります」

 

 レームは無言で資料を見つめた。

 かなり手間をかけて作られた資料だ。

 だからこそ、逆に疑う必要もある。

 

「よくできた偽物かもしれない」

 

 エリザが初めて口を開いた。

 それまで彼女はほとんど会話に加わらず、ただ静かに周囲のやり取りを観察していた。誰かの発言に頷くこともなく、否定することもなく、まるで一歩引いた場所から盤面全体を眺めているようだった。

 

 だからこそ、その一言には不思議な重みがあった。

 部屋の空気がわずかに変わる。

 大きな声ではない。威圧感もない。むしろ穏やかで、落ち着いていて、聞く者を安心させるような響きだった。

 だが、その穏やかさの奥には別のものが潜んでいるようにも感じられた。

 声は優しかった。

 教師が生徒に語りかけるような、あるいは医師が患者を安心させるような柔らかさがあった。耳に届く音だけを聞けば、敵意などどこにも見当たらない。

 

 しかし、その優しさは温かさとは少し違っていた。

 感情から生まれた優しさではなく、よく磨かれた道具のような優しさ。

 相手を落ち着かせ、警戒心を解き、必要な言葉を自然に受け入れさせるための声だった。

 

 エリザ自身もそれを理解しているのだろう。

 彼女は表情をほとんど変えないまま、静かに視線を向けた。

 その瞳には焦りも怒りもなかった。

 ただ冷静な観察者だけが持つ、静かな光が宿っていた。

 

「子供たちを使って、この国の復興を妨害する勢力もあります。ミス・ヘクマティアル、慎重に判断されるべきです」

「そうね」

 

 ココは頷いた。

 

「慎重に判断するわ。私は商人だから」

 

 その笑顔はいつも通りだった。

 だが、その目だけは笑っていなかった。

 

「だからこそ、数字も見るし、人も見る。書類も見るし、その書類を作った人間の顔も見る」

 

 ココはゆっくりとタブレットへ視線を落とした。

 

「証拠が本物かどうかなんて、最初から決まっているものじゃないものね」

 

 そして再びエリザを見る。

 

「調べればいいだけよ」

 

 軽い口調だった。

 しかし、その言葉には商人特有の執念が滲んでいた。

 ココ・ヘクマティアルは、利益の匂いも嘘の匂いも見逃さない。

 そして今、この場にはどちらの匂いも漂っていた。

 

 その瞬間、港の外側で爆発音がした。

 大きなものではない。だが、全員の視線を逸らすには十分だった。

 

「ココ!」

 

 レームが叫ぶ。

 その声は港の喧騒を切り裂くように響いた。

 グレイ・ハウンドの兵士たちが一斉に動いた。先ほどまで静観していた男たちが、まるで合図を待っていたかのように素早く配置につく。安全装置の外れる乾いた音が重なり、黒い銃口が次々と持ち上がった。その先にはアラタたちがいる。

 ハキム大佐の護衛たちも遅れて反応する。彼らは状況を完全には理解していないようだったが、それでも本能的に武器を構えた。緊張が伝染するように広がっていく。

 

 港の空気が変わった。

 ほんの数秒前まで行われていた交渉の空気は消え失せ、代わりに戦場特有の張り詰めた静寂が降りる。

 誰も引き金を引いていない。

 だが、誰かが引けば終わる。

 そんな距離だった。

 アラタは一歩も動かなかった。

 

「全員、散開」

 

 静かな声。

 怒鳴り声ではない。

 命令というより確認に近い声だった。

 だが、それだけで十分だった。

 子供たちは影のように散った。

 

 ジブリールはコンテナの陰へ飛び込み、サミルは積み上げられた木箱の裏へ滑り込む。ナディアは端末を抱えたまま後退し、ソフィアは舌打ちしながら別方向へ走った。誰も迷わない。

 まるで何度も繰り返した訓練のようだった。

 いや、実際に何度も繰り返してきたのだろう。

 戦場で生き残るために。

 ヨナはその動きを見ていた。

 速い。

 そして無駄がない。

 子供の動きではない。

 だが、だからこそ腹が立った。

 こんな動きを覚えなければ生きられない環境そのものに。

 

 ココ隊も同時に動く。

 バルメが即座にココの前へ出る。彼女の体は自然に盾となり、視線は周囲の脅威を探していた。

 

「ココ、下がれ」

「はいはい」

 

 ココは軽く答えたが、その目は笑っていない。

 ウゴが車のドアを開ける。

 

「乗れ」

「まだ」

「ココ」

「まだよ」

 

 短いやり取りだった。

 ウゴはそれ以上言わなかったが、警戒は解かなかった。

 レームは周囲を確認しながら低く言う。

 

「長居はできない」

「わかってる」

 

 ココは視線を外さない。

 煙の向こうでは、子供たちが撤収を始めていた。

 アラタが指示を飛ばし、ジブリールたちがそれに従う。混乱しているように見えて、動きには無駄がない。

 マオが近づいてくる。

 

「港湾警備隊も動き始めた。連中、自分たちが何に巻き込まれてるか理解してないぞ」

「理解してる奴の方が少ない」

 

 レームは吐き捨てるように言った。

 遠くでサイレンが鳴り始める。

 この場に留まれば、余計な連中まで集まってくる。

 ココはようやく踵を返した。

 

「行きましょう」

 

 その声に、ウゴが無言で頷いた。

 ヨナは銃を構えたまま、ジブリールが消えた方向を見る。

 ほんの一瞬だった。

 だが、彼女が振り返ったのが見えた。

 こちらを確認するような視線。

 それから姿が消えた。

 ヨナは無意識に眉をひそめる。

 

 あの少女は危険だ。

 無茶をする。

 そして、自分が無茶をしていることを理解している。

 それが余計に厄介だった。

 

 港は一気に混乱した。

 照明が明滅し、無線が怒鳴り声を吐き出す。コンテナの間を足音が走る。誰が敵で誰が味方か、まだ決まっていない。だが、銃口だけはすでに答えを急いでいた。

 ココは車に乗り込む直前、アラタを見た。

 

 アラタはまだその場に立っていた。

 周囲では兵士たちが動き回り、銃口が向けられ、怒号が飛び交っている。

 それでも彼は動かない。

 彼は状況を見ていた。

 自分ではなく、周囲を。

 子供たちが逃げ切れたか。

 誰がどこにいるか。

 何が起きようとしているか。

 それを確認している。

 未熟で、危うくて、無茶ばかりする。

 

 ココは小さく息を吐いた。

 面倒な男だ。

 本当に。

 そして、そういう人間ほど放っておけない。

 そんなことを考えた自分に、少しだけ苦笑した。

 

「ねえ、アラタ」

「はい」

「あなた、子供を使うのね」

 

 ココの声は軽かった。

 責めるようにも聞こえないし、褒めるようにも聞こえない。ただ事実を確認するような口調だった。

 

 けれど、その問いの重さだけは軽くなかった。

 周囲の空気がわずかに静まる。

 レームは何も言わずにアラタを見た。バルメも腕を組んだまま視線を向ける。ナディアは端末から顔を上げ、サミルは落ち着かなそうに足元を見た。

 ジブリールだけは表情を変えなかった。

 アラタの顔が、ほんの少しだけ歪んだ。

 責められることに慣れている顔だった。

 それでも、慣れきることはできない顔だった。

 

「はい」

 

 彼は答えた。

 

「使います。使わないと、守れないので」

 

 ココは何も言わなかった。

 アラタは続ける。

 

「本当は、使いたくありません」

 

 その言葉に、ジブリールがわずかに眉を動かした。

 

「でも、現実には子供が狙われています。連れて行かれています。売られています。大人が助けてくれるのを待っていたら、間に合わないことがある」

 

 彼は遠くのキャンプを見た。

 白いテントの列。

 そこには今も、次に連れて行かれるかもしれない子供たちがいる。

 

「だから僕たちは動く」

 

 アラタは静かに言った。

 

「僕が前に出られる場所では僕が出ます。でも、僕が入れない場所もある。僕が見えないものもある。子供にしか届かない場所がある」

 

 ナディアが目を伏せる。

 サミルは唇を噛んだ。

 

「それでも、危険です」

 

 アラタは自分でそう認めた。

 

「危険だとわかっています。間違っていると言われても仕方ないと思っています」

 

「でもやめない」

 

 ココが言う。

 

「やめません」

 

 即答だった。

 

「やめたら、もっと多くの子供が連れて行かれるからです」

 

 ココはしばらく彼を見ていた。

 その目は笑っていなかった。

 武器商人の目だった。

 人間の嘘も本音も、利益も損失も見てきた目。

 

「なるほどね」

 

 彼女は小さく言った。

 

「嫌いじゃない答えだわ」

「褒められている気がしません」

「褒めてないもの」

 

 ココは肩をすくめた。

 

「ただ、あなたが自分に嘘をついてないことはわかった」

 

 アラタは何も返さなかった。

 それが評価なのか警告なのか、判断できなかったからだ。

 

「お前たちは、何なんだ」

 

 ジブリールは少し考えた。

 

「アラタの子供」

 

 そう言ってから、自分で少し笑った。

 

「でも、道具じゃない」

 

 次の瞬間、彼女は闇へ消えた。

 

     *

 

 エンジンの低い振動が車体を伝い、タイヤが砕けたガラスや砂埃を踏みしめながら港湾地区を離れていく。ココ隊の車列は、表通りを避けるようにして倉庫街の裏道へと滑り込んだ。

 

 背後ではまだ騒ぎが続いていた。

 怒鳴り声。遠くで鳴る警笛。慌ただしく走り回る人影。港の照明がいくつも揺れ、混乱の余韻が夜の空気に残っている。

 だが、それらは次第に遠ざかっていった。

 車窓の向こうを流れる景色は、積み上げられたコンテナの壁から、人気の少ない工業地帯へと変わっていく。海から吹く湿った風が窓を叩き、街灯の光が断続的に車内を照らした。

 

 車内で、誰もすぐには喋らなかった。

 それぞれが先ほどの出来事を頭の中で整理していた。

 あまりにも情報量が多かった。

 港での襲撃。

 正体不明の武装集団。

 そして何より、あの子供たち。

 訓練された動きだった。

 偶然集まった難民の子供ではない。

 役割を理解し、連携し、撤退まで計算していた。

 大人の兵士でも難しいことを、当たり前のようにやってのけていた。

 

 レームは腕を組んだまま目を閉じている。

 眠っているようにも見えるが、実際には頭の中で状況を整理しているだけだと全員が知っていた。

 バルメは窓際に座り、外の暗闇を警戒している。

 ヨナは無言だった。

 いつも無口だが、今はさらに口数が少ない。

 何かを考えている顔だった。

 ココはそんな仲間たちを横目で見ながら、特に急かすこともなく静かに座っていた。

 最初に口を開いたのはルツだった。

 

「なんだよ、あれ。子供の部隊か?」

 

 沈黙に耐えられなくなったような声だった。

 だが、その軽い口調の奥には戸惑いが混じっている。

 

「子供の部隊だな」

 

 マオが重く答える。

 短い言葉だったが、その声には警戒が滲んでいた。

 

「笑えねえ」

 

 東條は窓の外を見たまま言った。

 

「あの男、日本人だ」

「知ってるわ」

 

 ココが言った。

 全員の視線が集まる。

 車内の空気が少しだけ変わった。

 ココは窓の外に流れる港の灯りを見ながら、にやりと笑った。

 

「アラタ。子供使い。噂だけは聞いたことがある」

「子供使い?」

 

 ヨナが低く繰り返した。

 

「そう呼ぶ人たちがいるってだけよ。本人が気に入ってるかは知らないけど」

「最低な呼び名だ」

「ええ。最低ね」

 

 ココはあっさり認めた。

 ヨナはココを見た。

 

「ココ」

「なあに?」

「あいつを利用するのか」

 

 車内の空気が少しだけ硬くなる。

 ココはすぐには答えなかった。

 しばらくして、いつもの調子で言う。

 

「利用できるものは利用する。それが商売」

 

 ヨナの目が細くなる。

 

「でも」

 

 ココは続けた。

 

「使い潰すかどうかは、別の話」

 

 ヨナは黙った。

 返す言葉が見つからなかったわけではない。むしろ頭の中にはいくつもの言葉が浮かんでは消えていた。だが、そのどれもがしっくりこなかった。戦場では言葉より先に銃を向けることの方が多い。だからなのか、こういう時に何を言えばいいのか、ヨナにはよくわからなかった。

 

 彼はゆっくりと視線を港の方へ向けた。

 港の灯りが遠ざかっていく。

 岸壁に並ぶクレーンの赤い警告灯が夜空に点々と浮かび、その光は海面に細く揺れていた。大型貨物船のシルエットは闇の中に沈み込み、時折聞こえるエンジン音だけがそこに巨大な船体が存在していることを知らせている。

 

 サルマの夜は再び湿った鉄の匂いを取り戻していた。

 昼間の熱気がゆっくりと冷え始め、海風が倉庫街の隙間を抜けていく。錆びたコンテナ、油に汚れた岸壁、積み上げられた貨物。そのすべてが夜の闇に溶け込みながらも、独特の匂いだけは消えずに残っていた。

 

 海は何も知らないふりをして黒く揺れている。

 今夜ここで何が起きたのかも、誰が傷つき、誰が逃げ、誰が嘘をついたのかも関係ないと言わんばかりに、波は静かに岸へ寄せては返していた。

 

 ヨナはその光景を見つめながら、小さく息を吐いた。

 世界はいつだってそうだった。

 誰かが死んでも、誰かが泣いても、朝になれば港は動き出す。船は出入りし、人は働き、金は流れる。まるで何事もなかったかのように。

 その当たり前の残酷さを、ヨナは嫌というほど知っていた。

 

 だからこそ、胸の奥に残るわずかな違和感が気になった。

 アラタのことか。

 それともジブリールのことか。

 あるいは、自分自身のことなのか。

 答えはまだわからなかった。

 

 ただ、遠ざかる港の灯りだけが、夜の向こうで静かに瞬いていた。

 

    *

 

 アラタは、まだ動かなかった。

 

 ココたちの車が港の闇へ消えていく。グレイ・ハウンドの兵士たちは怒鳴り合い、ハキム大佐の声は無線の雑音に埋もれかけていた。白煙は少しずつ薄れ、いくつかの照明は非常電源で復旧し始めている。

 

 あと三十秒。

 アラタは頭の中で数えた。

 

 子供たちはもう逃げている。ジブリールは西側のコンテナ列を抜け、サミルは奪った無線機を抱えて裏手へ向かった。ナディアは港湾管理システムから抜き出した記録を持ち、ミラとソフィアに守られながら指定地点へ移動している。

 全員、逃げた。

 そう思いたかった。

 だが、思うだけでは足りない。

 確認しなければならない。

 

「アラタ、早く!」

 

 無線越しに、ジブリールの声が聞こえた。

 押し殺した声だった。怒っている。焦っている。それでも、こちらへ戻ってこようとはしていない。

 約束を守っている。

 アラタは小さく息を吐いた。

 

「ジブリール、戻らないで」

「でも」

「戻らないで」

 

 同じ言葉を、少しだけ強く繰り返す。

 無線の向こうで短い沈黙があった。

 

 彼女が唇を噛んだのが、見えたような気がした。

 

「……嫌い」

「うん。あとで聞く」

「絶対だから」

「絶対」

 

 通信を切る。

 その瞬間、アラタの背中に銃口が向いた。

 

「動くな!」

 

 声は近かった。

 振り返らなくてもわかる。グレイ・ハウンドの兵士が三人。右後方に二人。左のコンテナ陰に一人。足音の重さと呼吸の位置で、おおよその距離は読めた。

 

 アラタは両手を上げた。

 ゆっくりと。

 できるだけ無害に見えるように。

 

 戦場では、強そうに見せることが得になる場面もある。だが今は違う。自分が危険な存在だと判断されれば、兵士たちは即座に撃つ。逆に、少し頼りない青年に見えれば、まず確認しようとする。

 その一瞬が欲しかった。

 

「お前が指揮官か」

 

 兵士の一人が言った。

 

「違います」

「嘘をつけ。子供どもはどこへ行った」

「知りません」

 

 銃床が腹に入った。

 息が詰まる。

 アラタは膝を折りかけたが、倒れなかった。倒れれば引きずられる。引きずられれば時間を失う。だから、痛みを飲み込んで立つ。

 

「もう一度聞く。子供はどこだ」

「……知りません」

 

 兵士の顔が歪む。

 その時、少し離れた場所で無線が鳴った。

 

『こちら北側ゲート! 子供を確認! 複数名、倉庫三番へ移動中!』

 

 兵士たちの視線が一瞬だけ揺れた。

 アラタは動かない。

 その声がサミルのものではないことを、彼は知っていた。サミルは声を変えるのが下手だ。あれはナディアが用意した録音だった。数時間前、港湾警備員の無線を傍受した時に切り貼りして作ったものだ。

 

 上手すぎる。

 だからこそ、少し心配になる。

 

「北側だと?」

「いや、こいつを確保してから――」

『アルファ班、応援を回せ! 逃がすな!』

 

 別の無線が重なった。

 今度はさらに切迫していた。

 兵士の一人が舌打ちする。

 

「くそ、連中、まだ中にいるのか」

「おい、こいつはどうする」

「大佐に引き渡す。撃つな。情報を持ってる」

 

 それを聞いて、アラタは目を伏せた。

 撃たれない。

 少なくとも、今は。

 それだけで十分だった。

 兵士が近づいてくる。腕を掴まれた。肩をひねられ、後ろ手に拘束される。痛みはあったが、耐えられないほどではない。

 

 アラタは逆らわなかった。

 逆らわないことで、相手の警戒を少しずつ下げる。

 抵抗しない相手を、兵士は雑に扱う。

 雑になれば、隙ができる。

 彼らはアラタを連れて歩き出した。

 

 行き先は港湾事務所の方角ではない。おそらく臨時の詰所か、グレイ・ハウンドの車両だろう。そこまで行けば終わりだ。尋問される。持ち物を調べられる。子供たちの逃走経路に気づかれるかもしれない。

 

 だから、その前に消える必要があった。

 アラタは足元を見た。

 コンクリートの上に、白煙の残りが低く漂っている。コンテナの影。倒れたドラム缶。荷役用パレット。通路の端には、港の排水溝があった。

 

 狭い。

 大人の兵士は通れない。

 子供なら通れる。

 そして、アラタもぎりぎり通れる。

 数日前、オマルが見つけた抜け道だった。

 

「止まれ」

 

 兵士の一人が言った。

 前方で、フォークリフトが通路を塞ぐように停まっていた。運転席には誰もいない。だが、荷台には空の木箱が積まれ、不自然な角度で傾いている。

 兵士が眉をひそめた。

 

「何だ、これは」

 

 その瞬間、木箱の中から小さな機械音がした。

 カチ、という軽い音。

 爆発ではない。

 ただ、木箱を固定していた金具が外れただけだった。

 積まれていた箱が崩れる。

 乾いた木の音が、夜の港に派手に響いた。兵士たちは反射的に身を引いた。誰かが銃を構え、誰かが怒鳴る。

 

 その一瞬。

 アラタは膝から崩れた。

 撃たれたふりではない。転んだふりでもない。腕を掴んでいた兵士の力の向きに合わせ、身体を沈めただけだった。相手は支えようとする。その手が一瞬だけ緩む。

 

 アラタは肩を抜いた。

 強引ではない。

 ただ、相手が「掴んでいる」と思っていた位置から、自分の身体を半歩ずらしただけだった。

 

「こいつ!」

 

 兵士が叫ぶ。

 アラタは走らなかった。

 走れば撃たれる。

 だから、転がった。

 崩れた木箱と白煙の中へ身体を滑り込ませ、倒れたパレットの陰へ潜る。銃声が一発鳴った。弾は近くのコンテナに当たり、硬い金属音だけを残した。

 

 アラタは息を止める。

 排水溝の蓋は、すでに少しだけずらされていた。

 オマルの仕事だ。

 あの無口な少年は、こういうところだけ妙に丁寧だった。

 

 アラタは身体を押し込む。

 肩が引っかかった。

 痛い。

 だが止まれない。

 背後で足音が近づく。

 

「下だ! 排水溝だ!」

 

 見つかった。

 アラタは奥歯を噛み、もう一度身体をねじ込んだ。

 鉄と泥の匂いがした。暗い。狭い。服が濡れる。肘を擦る。それでも進む。

 背後からライトの光が差し込んだ。

 

「出てこい!」

 

 声が反響する。

 アラタは答えなかった。

 代わりに、排水溝の奥で小さな石が転がる音がした。

 右側。

 兵士たちはそちらへライトを向ける。

 だが、アラタは左へ進んでいた。

 石を投げたのは、彼ではない。

 

 たぶんジブリールだ。

 戻るなと言ったのに。

 アラタは顔をしかめた。

 怒りたいのに、少しだけ安心してしまった自分が嫌だった。

 排水路は短かった。

 やがて錆びた鉄格子の向こうから、海風が流れ込んできた。外だ。荷捌き場裏の古い排水口。満潮なら使えなかったが、今夜は潮が引いている。

 

 格子は外れていた。

 サミルが昼のうちに確認していた場所だ。

 アラタはそこから這い出した。

 膝が震えている。

 腹が痛い。

 息も乱れている。

 けれど、立った。

 立たなければならない。

 

 遠くでは、まだ兵士たちの怒鳴り声が聞こえる。だが、その声は港の中心へ向かっていた。偽の無線と崩れた木箱、そして排水溝に残した足跡が、彼らの目を別の方向へ引きずっている。

 アラタは濡れた袖で口元を拭った。

 

「アラタ」

 

 暗がりから声がした。

 ジブリールだった。

 腕を組み、怒った顔で立っている。

 

「戻らないでって言った」

「戻ってない」

「戻ってる」

「途中まで」

「それを戻ったって言うんだよ」

 

 ジブリールは答えなかった。

 ただ、アラタの腕を掴んだ。

 その手は小さかった。

 けれど、離す気はまったくなさそうだった。

 

「みんなは?」

 

 アラタが聞く。

 

「先に行った。ナディアが怒ってる。サミルは泣きそう。オマルは何も言ってないけど、たぶん怒ってる」

「そう」

「私も怒ってる」

「うん」

「あとで全員に謝って」

「そうする」

 

 ジブリールは少しだけ目を細めた。

 

「本当に?」

「本当に」

「じゃあ、走って」

 

 アラタは頷いた。

 二人は港の光を背にして走り出した。

 倉庫街の喧騒が遠ざかる。湿った鉄の匂いが薄れ、代わりに夜の海風が頬を叩く。遠くでサイレンが鳴っている。誰かがまだ怒鳴っている。だが、その声はもう届かない。

 

 アラタは振り返らなかった。

 振り返れば、足が止まる気がした。

 だから前だけを見る。

 錆びたフェンスの切れ目。

 使われなくなった荷捌き場。

 古いコンテナの陰。

 そこに、子供たちが待っている。

 逃げ切ったかどうかは、まだわからない。

 今夜得た記録が本物かどうかも、まだわからない。

 

 ココ・ヘクマティアルが敵になるのか、味方になるのかも、まだわからない。

 だが、今だけは一つだけ確かだった。

 誰も欠けていない。

 それだけで、アラタは走る理由を失わなかった。

 闇の中、ジブリールが前を走る。

 アラタはその背中を追った。

 港の灯りは、少しずつ遠ざかっていった。

 

 

 

 しばらくして、港の反対側。

 倉庫街から少し離れた、使われなくなった荷捌き場の陰に、十数人の子供たちが集まっていた。錆びたコンテナが風よけになり、夜の海風をわずかに遮っている。遠くではまだ港の騒ぎが続いていたが、この場所までは届かない。聞こえるのは波の音と、子供たちの小さな息遣いだけだった。

 

 アラタは一人ひとりの顔を確認していた。

 怪我はないか。

 誰か取り残されていないか。

 追跡されていないか。

 それを何度も確かめる。

 子供たちは慣れた様子で列を作っていたが、その顔には疲労が浮かんでいた。今夜の作戦は成功だった。しかし、成功したからといって疲れが消えるわけではない。むしろ緊張が解けた分だけ、身体の重さを思い出してしまう。

 

「腕を見せて」

 

 アラタは一人の少年に声をかけた。

 

「大丈夫だよ」

「大丈夫じゃない。擦り傷がある」

「これくらい平気」

「平気でも消毒はする」

 

 少年は不満そうな顔をしたが、結局は素直に腕を差し出した。

 近くではミラが簡易救急箱を開き、別の子供の膝を手当てしている。ソフィアはその様子を見守りながら腕を組み、オマルは少し離れた場所で周囲の警戒を続けていた。

 

 やがてサミルが駆け寄ってくる。

 息は上がっていたが、その表情には達成感があった。

 

「アラタ!」

「おかえり」

「取れた!」

 

 サミルは胸を張り、奪ってきた無線機を差し出した。

 少し傷はついているが、まだ使える。

 アラタは受け取り、軽く確認した。

 

「よくやった」

 

 その一言だけで、サミルの顔がぱっと明るくなる。

 

「本当に?」

「本当に」

「へへ」

 

 サミルは照れくさそうに頭を掻いた。

 その横からナディアが現れる。

 彼女はいつものように冷静だったが、目だけは少し誇らしげだった。

 

「こっちも」

 

 端末を操作しながら、記録データのコピーを表示する。

 港湾管理システムの一部ログ。

 輸送記録。

 車両番号。

 積荷情報。

 断片的ではあるが、確かに価値のある情報だった。

 

「予定の七割は取れました」

 

 ナディアは淡々と言った。

 

「全部は無理でした。途中で警備が増えたので」

「十分だよ」

 

 アラタは画面を見ながら頷いた。

 

「本当に十分だ」

「でも、残り三割があれば、もっと確実でした」

「そうかもしれない」

「なら――」

「それでも、無理しすぎないで」

 

 アラタは穏やかに言った。

 ナディアは少しだけ視線を逸らした。

 彼女は理屈で動く。

 だからこそ、成功率を上げられるなら危険も計算に入れてしまう。

 アラタはそれを知っていた。

 知っているからこそ止める。

 数字だけでは測れないものがあることも、知っているからだ。

 そのやり取りを聞いていたジブリールが、不満そうに眉を寄せた。

 

「無理しなかったら、取れないものもある」

 

 彼女は壁にもたれながら言った。

 

「今日だってそうだった」

「そうだね」

「だったら――」

「それでも、無理はしない」

 

 アラタは即座に答えた。

 ジブリールは露骨に顔をしかめる。

 

「アラタはいつもそう言う」

「君たちが聞いてくれないから、何度でも言う」

「聞いてる」

「聞いてない」

「聞いてる」

「行動が聞いてない」

 

 周囲の子供たちから小さな笑い声が漏れた。

 ジブリールはますます不満そうになる。

 

「だって、危なかったんだ」

「だからこそだよ」

「危ないから急がないといけない」

「危ないから慎重にしないといけない」

「それじゃ間に合わないこともある」

「間に合わなくても、生きて帰らないと意味がない」

 

 ジブリールは口を閉じた。

 反論したい。

 でも反論できない。

 そんな顔だった。

 アラタは少しだけ表情を和らげる。

 

「ジブリール」

「なに」

「君がいなかったら、今日の作戦は失敗していたかもしれない」

 

 彼女の目がわずかに揺れる。

 

「でも、君が怪我をしていたら成功じゃない」

「……」

「サミルも、ナディアも、みんな同じだ」

 

 アラタは周囲を見回した。

 集まっている子供たちも、自然と彼を見る。

 

「情報はまた取れる」

 

 静かな声だった。

 

「機会もまた来る」

 

 誰も口を挟まない。

 

「でも、君たちに代わりはいない」

 

 夜風が吹いた。

 港の匂いが流れてくる。

 ジブリールはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。

 

「そういうこと言うから」

「何?」

「みんな、アラタの言うことを聞いちゃうんだよ」

「聞いてないだろ」

「聞いてる」

「さっきと言ってることが違う」

「細かい」

 

 今度は周囲から少し大きな笑い声が上がった。

 サミルまで吹き出している。

 ジブリールは口を尖らせたまま、その笑い声を聞いていた。

 そして最後には、自分も少しだけ笑った。

 

 オマルが近づいてくる。大柄な体をコンテナの影に沈め、周囲を警戒しながらも、声は落ち着いていた。港の照明が彼の肩をかすかに照らし、その影がコンテナの壁に長く伸びている。

 

「撤収準備はできている。見張りも配置した。だが、あの武器商人に顔を見られた」

 

 その言葉には、責めるような響きはなかった。ただ事実を確認する口調だった。

 

「見せに行ったんだよ」

 

 アラタは答えた。

 オマルは眉をひそめる。

 

「わざとか」

「うん」

「ココ・ヘクマティアルを巻き込むために?」

「巻き込まないと、バベル・ルートは潰せない」

「危険な女だぞ」

「うん」

「危険なだけじゃない。ああいう人間は、自分の利益になるなら誰とでも手を組む。政府とも、反政府勢力とも、PMCともな」

 

「知ってる」

「笑いながら人を売るタイプかもしれない」

「笑いながら世界を買うタイプかもしれない」

 

 オマルは小さく息を吐いた。

 

「なら、なおさら危ない」

 

 アラタは港の向こうを見た。

 ココ隊の車はもう見えない。

 だが、白いスーツの少女が笑っていた姿だけは、妙にはっきりと記憶に残っていた。

 

「でも、彼女は見た」

「何を」

「子供たちを」

 

 アラタの声は静かだった。

 

「見たなら、無視できる人じゃないと思う」

「希望的観測じゃないか」

 

 オマルが言う。

 

「かもしれない」

 

 アラタは否定しなかった。

 

「でも、あの人は子供を見た時に目を逸らさなかった」

「それだけで信用するのか」

「信用はしてない」

 

 アラタは少しだけ笑った。

 

「ただ、利用できるかもしれないと思ってる」

「利用される可能性もある」

「それもわかってる」

 

 オマルはしばらく黙った。

 彼は、アラタが無謀な人間ではないことを知っている。だが、子供が関わる話になると、時々危険な賭けを選ぶことも知っていた。

 

「お前は昔からそうだ」

「何が?」

「助けられるかもしれないと思った相手に賭ける」

 

 アラタは答えなかった。

 それが否定できないことだったからだ。

 ジブリールがアラタの横に立つ。

 彼女は腕を組み、ココたちが去った方向を睨むように見ていた。

 

「あの白い服の女、嫌い」

「どうして?」

「笑ってた」

「ココさん?」

「うん」

 

 ジブリールは即答した。

 

「あんな場所で笑う大人は、だいたい危ない」

 

 アラタは少しだけ苦笑した。

 

「それは正しい」

「でも、あの男の子は違った」

「ヨナ?」

「名前は知らない」

 

 ジブリールは闇の向こうを睨むように見た。

 

「あの人たちの中で、一番変だった」

「変?」

「武器商人の仲間なのに、武器商人みたいじゃなかった」

 

 アラタは何も言わなかった。

 ヨナという少年の目を、彼も覚えていた。

 煙の向こうで一瞬だけ交差した視線。

 あれは、戦場で育った子供の目だった。

 銃を持つことに慣れている目。

 死を見ることに慣れている目。

 そして同時に、それを当たり前だと思い切れていない目。

 そういう目を、アラタは知っていた。

 何度も見てきた。

 鏡の中でも。

 そして、そういう子供はたいてい、大人の嘘をすぐに見抜く。

 

「アラタ」

 

 ナディアが小さく呼んだ。

 彼女は端末を抱えながら駆け寄ってくる。

 

「白い学校の位置、たぶん絞れます」

 

 アラタの表情が変わった。

 

「本当?」

「はい」

 

 ナディアは息を整えながら画面を見せた。

 

「港の輸送記録と、共和国軍の補給データ、それから昨日取った無線ログを照合しました」

「そんな短時間で?」

 

 オマルが驚く。

 

「寝てないので」

「寝ろ」

「あとで寝ます」

 

 ナディアは真顔だった。

 アラタは苦笑しながら画面を見る。

 そこには北部地域の地図が表示されていた。

 いくつかの地点が赤くマークされている。

 

「候補は三つ。でも、この場所が一番怪しいです」

 

 彼女が指差した場所は、鉱山地帯の外れだった。

 

「農業訓練施設として登録されています。でも、衛星写真では外周フェンスと監視塔があります」

「農業に監視塔は必要ないな」

 

 オマルが言う。

 

「ですよね」

 

 ナディアは頷いた。

 

「でも……」

 

 彼女の声が少し沈む。

 

「明日までに動かないと、移送される子がいます」

 

 その場の空気が変わった。

 サミルが拳を握った。

 

「行こう。すぐ行こう」

「だめだ」

 

 アラタは即答した。

 

「準備なしでは行かない」

「でも!」

「助けるために行って、君たちが捕まったら意味がない」

「それでも!」

「だめだ」

 

 アラタの声は強かった。

 サミルは悔しそうに唇を噛む。

 彼はまだ若い。

 だからこそ、目の前の誰かを助けたいという気持ちだけで走れる。

 アラタはそれを責めない。

 

 責められない。

 自分もそうだったからだ。

 だが、指揮を執る立場になった今は違う。

 一人を助けるために、十人を失うわけにはいかない。

 その現実を知ってしまった。

 ジブリールが低く言う。

 

「じゃあ、どうするの」

 

 アラタは答える前に少しだけ考えた。

 港の向こうへ消えた、白いスーツの女を思い浮かべる。

 

 武器商人。

 ココ・ヘクマティアル。

 危険で、軽薄で、底が見えない女。

 笑っているのに何を考えているかわからない。

 冗談ばかり言うのに、時々誰よりも鋭い目をする。

 けれど、彼女の目は一瞬だけ、確かに揺れた。

 

 子供たちを見た時。

 白い学校の話を聞いた時。

 ほんの一瞬だけだったが、あれは演技ではなかったように見えた。

 

「会いに行く」

 

 アラタは言った。

 

「誰に?」

「武器商人に」

 

 子供たちは黙った。

 ナディアは少し驚いた顔をする。

 サミルは不安そうだった。

 オマルは予想していたように目を閉じる。

 ジブリールだけが、露骨に嫌そうな顔をした。

 

「本気?」

「本気」

「嫌」

「知ってる」

「すごく嫌」

「それも知ってる」

「でも行くんでしょ」

「行く」

 

 ジブリールは大きくため息を吐いた。

 

「アラタって時々変」

「時々?」

 

 オマルが呟く。

 

「いつも」

 

 ナディアが訂正した。

 

「ひどいな」

 

 アラタは苦笑した。

 夜風がコンテナの隙間を抜ける。

 遠くでサイレンが鳴り始めた。

 港のどこかで警備隊が動き始めている。

 今夜の騒ぎも、もうすぐ表に出るだろう。

 アラタは静かに続けた。

 

「彼女が売ったものが、どこに届くのか」

 

 その声は小さい。

 だが、全員に聞こえた。

 

「ちゃんと見てもらう」

 

 武器はただの金属ではない。

 銃も弾も車両も、誰かの人生を変える。

 救うこともある。

 壊すこともある。

 だからこそ、アラタは知ってほしかった。

 白い学校のことを。

 バベル・ルートのことを。

 名前を奪われた子供たちのことを。

 

 その夜、カラバル共和国の港で、二つの部隊が出会った。

 一つは、世界を相手に武器を売る商人の部隊。

 一つは、子供たちを戦場から出すために、子供たちを戦場に立たせる青年の部隊。

 

 まだ彼らは、味方ではない。

 敵ですらない。

 ただ、同じ地獄の入口に立っていた。

 そしてその入口には、こう書かれている。

 

 ――バベル・ルート。

 武器と金と子供たちが流れる、長い夜の道。

 

 ココ・ヘクマティアルは、それを商売の匂いとして嗅ぎ取った。

 巨大な市場の匂い。

 隠された取引の匂い。

 世界を動かす金の流れの匂い。

 

 アラタは、それを子供たちの悲鳴として聞いた。

 助けを呼ぶ声。

 名前を呼ばれることのなくなった子供たちの声。

 誰にも届かなかった声。

 

 ヨナは、それを自分の過去のように見た。

 忘れたはずの景色。

 忘れられなかった記憶。

 戦場で失ったものの残骸。

 三人は、まだ出会ったばかりだった。

 だが、それぞれ違う場所から、同じ闇を見ていた。

 

 夜明けは、まだ遠かった。

 

 




長く書きすぎて、力尽きてます。
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