JORMUNGAND:マージナル・チルドレン 作:たこ焼き 龍月
潜入の準備には三日かかった。
焦れば失敗するとココは言った。前回の偵察で施設の守りが厚いことは思い知らされていた。飾りの見張りとその裏に隠されたPMCという二層の警備を正面から抜こうとすれば、また撃たれるだけだ。だから別の道を探すことにした。
ワイリは施設の通信網を外から探り続けた。
三日のあいだ彼は高台に張りついて施設から漏れる電波を拾い続け、そのパターンを少しずつ解析していった。どの時間帯にどんな通信が飛び交うのか。警備の交代はいつなのか。搬入車両はどの経路を通るのか。目に見えない情報を一つずつ剥がしていって、やがて彼は一つの隙を見つけた。
その三日のあいだ、拠点では静かな時間が流れていた。救い出された子供たちは少しずつ拠点の空気に慣れて、リナは誰にも許可を求めずに水を飲めるようになり、エミルは悪夢にうなされる回数が減っていった。その小さな変化を見守りながら、アラタたちは次の潜入の準備を進めていた。急がず、しかし止まらず。
「搬入だ」
拠点に戻ったワイリが、そう報告した。
「あの施設、二日に一度、物資の搬入がある。食料、燃料、消耗品。定期便だ。その車両が入る時だけ、正面の門が開く」
「門が開く時が、狙い目ってこと?」
ココが聞いた。
「そうだ。ただし、正面から入れるわけじゃない。車両は検問を受ける。潜り込むのは無理だ」
ワイリは三日の観察で組み立てた施設の見取り図を広げた。完全なものではなかったが、外周の構造だけはかなり正確に描かれていた。
「だが、搬入がある時、警備の意識は正面に集中する。人手も、そっちに割かれる。つまり――」
「裏が、手薄になる」
東條が、言葉を継いだ。
「そういうことだ」
ワイリが頷いた。
「施設の裏手に、旧排水路の跡がある。今は使われてない。だが、構造上、施設の内部と繋がってるはずだ。そこから入れれば、正面の検問を通らずに、中へ潜り込める」
「はず、って」
ジブリールが聞いた。
「確証はない。だが、可能性は高い」
断定を避けるのがワイリの癖だったが、その慎重な分析はたいてい正しかった。
ココが見取り図を覗き込んだ。
「排水路から入る。搬入の隙に。中に潜り込んで、四人がいるかを確かめる。いれば、連れ出す。いなければ、行き先の情報を探す」
「潜入だな」
レームが、静かに言った。
「そう。正面突破じゃない。誰にも気づかれずに、入って、出る。それが理想」
「理想通りに、いくといいがな」
「いかないでしょうね」
ココは、あっさり言った。
「でも、理想を持たなきゃ、計画は立てられない」
*
潜入組の編成は慎重に決められた。
潜入と警備をやり過ごす交渉に長けた東條。端末で内部の情報を拾って経路を導くナディア。四人がいた時に名前を呼んで連れ出す役目のアラタ。そして戦闘になった時の最後の盾となるヨナ。この四人が中へ入ることになった。
外ではワイリが通信を支援し、ルツが高台から狙撃で援護する。ココとレーム、バルメは外周で待機していざという時の退路を確保し、ジブリールは拠点で子供たちを守る。それぞれの役割が、静かに割り振られていった。
「私も行く」
ジブリールが、当然のように言った。
「ジブリールは、残る」
アラタが、静かに言った。
「また?」
「また、だ」
ジブリールの表情が険しくなった。前回も彼女は残されて、銃撃戦の報告を聞きながら気を揉むしかなかった。今度こそはと思っていたのだ。
「私だって、戦える」
「知ってる」
アラタは頷いた。
「でも、今回は潜入だ。人数が多いほど、見つかりやすい。少数精鋭で、静かに入る。それが、成功の条件だ」
「……」
「それに」
アラタは続けた。
「子供たちを、任せられるのは、君しかいない。ミラと、ラシードだけじゃ、守りきれない。何かあった時、戦えて、子供たちが信頼してるのは、君だ」
ジブリールは拳を握った。頭では彼女が拠点に残る意味を理解していても、感情のほうがどうしても追いつかなかった。
ヨナが、口を開いた。
「ジブリール」
彼女が、ヨナを見た。
「お前が残るなら、俺は安心して行ける」
ヨナの声は短かったが、その言葉には確かな重みがあった。
「拠点に、お前がいる。だから、俺は、後ろを気にせず、前だけ見られる。それは、助かる」
ジブリールはしばらく黙り込んでから、ようやく視線を逸らした。
「……絶対、無事に戻って」
「戻る」
ヨナは、即答した。
「アラタも、連れて」
「連れて戻る」
ジブリールはそれ以上何も言わず、ただ握った拳を少しだけ緩めた。
*
潜入の夜が来た。
その夜、拠点を出る前に、アラタは眠る子供たちの部屋を一度だけ覗いていった。救い出したばかりの子供たちが毛布にくるまって浅い呼吸を繰り返している。この子たちのために出ていくのだと自分に言い聞かせるように、彼はしばらくその寝顔を見つめてから、静かに部屋を離れた。
月は薄い雲に隠れていて、潜入には都合が良かった。潜入組は乾いた低木の陰を選びながら音を立てずに、施設の裏手へと近づいていった。前回に銃撃戦となった斜面とは、まったく別の方向からのアプローチだった。乾いた夜気が肌を刺すなか、誰も口を開かず、ただ前を行く者の背中だけを頼りに、一歩ずつ闇へと分け入っていった。
旧排水路の入口は雑草に半分埋もれていた。
コンクリートの四角い穴を、錆びた鉄格子が塞いでいる。だがその鉄格子は長い年月で腐食して一部が崩れており、身をかがめれば人一人が通れるほどの隙間ができていた。
「ここか」
ヨナが、低く言った。
「はい」
ナディアが端末を確認しながら答えた。
「この排水路が、施設の地下と繋がっているはずです。ワイリさんの解析では」
『はずだ、と言っただろ』
ワイリの声が、通信機から入った。
『中がどうなってるかは、入ってみないとわからない。行き止まりの可能性もある』
「その時は、引き返す」
東條が、静かに言った。
「無理はしない。それが、今回の約束です」
アラタは頷いた。前回の銃撃戦で彼は焦らないことと無理をしないことを学んでいて、誰かを失うくらいならためらわず引き返すつもりでいた。それが順番を守るということだった。
「行きましょう」
アラタが言った。
東條が先頭に立ち、崩れた鉄格子の隙間から身をかがめて排水路へと入っていった。続いてナディア、アラタ、ヨナが、暗い穴の中へ一人ずつ消えていった。
*
排水路の中は狭くて暗かった。
かつて水が流れていた名残なのか、壁面には黒ずんだ筋が残り、足元には乾いた泥がこびりついている。空気はひんやりとしながらもどこか湿り気を帯びていて、息を吸うたびに喉の奥に重さが残った。
先頭を進む東條は、小型のライトを最小限の光量で灯していた。強く照らせば遠くからでも見えてしまうため、足元だけをかろうじて確認できる程度の明かりに絞っていたのだ。その頼りない光の輪の中を、四人の影が黙々と進んでいく。壁に反射した光が揺れるたびに、まるで別の何かがそこに潜んでいるように見えて、誰もが自然と息を詰めた。
「狭いですね」
ナディアが、囁くように言った。
「腰をかがめて。天井が低い」
東條が答えた。
四人は身をかがめたまま排水路を進んでいった。時おり天井から落ちてくる水滴の一滴が、驚くほど大きな音に感じられる。誰も無駄な音を立てず、呼吸すら抑えながら歩を進めた。
分岐点までのわずかな距離が、異様に長く感じられた。
暗闇は時間の感覚を狂わせる。数分歩いただけなのに何十分も進んだような気がして、壁に手をつきながら踏み出す一歩が正しいのかどうか、誰にも断言できなかった。
アラタは前を行くナディアの小さな背中を見つめていた。
彼女は端末の淡い光を頼りに経路を確認しながら進んでいる。震えてはいなかったが、その肩に緊張が滲んでいるのはわかった。前回の銃撃戦で恐怖を味わったはずなのに、彼女は今夜もここにいて、逃げようとしなかった。
「大丈夫?」
アラタは、囁くように、聞いた。
「……大丈夫です」
ナディアが、小声で答えた。
「怖くない?」
「怖いです」
彼女は正直に言った。
「でも、私がいないと、経路がわからないので」
その答えに、アラタは少しだけ胸が痛んだ。まだ子供のような年齢の少女が恐怖の中でも自分の役目を放さずにいる姿は、頼もしくもあり、同時に危ういものでもあった。
「ありがとう」
アラタは言った。
「無理は、しないで。危なくなったら、すぐに言って」
「はい」
ナディアは頷いたが、その足は止まらなかった。
やがて排水路は分岐点に差しかかった。二本の道が分かれていて、片方はそのまま奥へと続き、もう片方は上へと伸びる縦穴になっていた。
「どっち?」
アラタが、小声で聞いた。
ナディアが、端末を確認した。
「縦穴の方です。施設の地下へ、繋がっているはずです」
「はず、ね」
「……はい」
ナディアの声にはわずかな不安が滲んでいた。確証はなく、ワイリの解析と自分の推測だけが頼りで、もし間違っていれば行き止まりか、あるいは警備の真ん中に出てしまうかもしれなかった。
「行こう」
東條が言った。
「間違っていたら、引き返す。それだけです」
東條は上へ続く錆びた金属の梯子に近づいていった。まず自分が登って上の様子を確認し、数秒の沈黙のあとで小さく手招きする。安全だった。
四人は一人ずつ梯子を登っていった。上には狭い点検通路があって、配管が壁を這い、低い天井にはむき出しの配線が走っている。地上とは違う、地下特有の静けさがそこにあった。
「施設の、中ですか」
ナディアが、周囲を見回した。
「たぶん」
東條が答えた。
「排水路から、繋がっていた。つまり、ここは、施設の地下だ」
ナディアは施設内の電波を拾おうと端末を操作して、ワイリの解析データと照合していった。数秒後、彼女の表情がわずかに変わった。
「……通信を、拾えました。ここは、施設の、東側です。搬送区画の、近く」
「四人は」
「まだ、わかりません。でも、この近くに、子供の識別信号があります」
アラタの背筋が、緊張した。
「近い?」
「近いです。同じ区画の、奥」
アラタは暗い通路のその先を見つめた。会ったこともなく名前も知らない四つの空欄が、すぐそこにいるかもしれなかった。
「行きましょう」
アラタが言った。
だが、東條が手で制した。
「待って」
彼は通路の先をじっと見ていた。
「警備の、足音がします」
*
四人は配管の陰に身を潜めた。
通路の先から近づいてくるのは二人分の足音だった。硬い軍靴が金属の床を叩く規則的で訓練された歩き方で、それは巡回の警備に違いなかった。
東條が、通信機に、囁いた。
「ワイリさん。この区画の、巡回の間隔は」
『解析中だ。……たぶん、十分おきだ。今、通り過ぎれば、次まで十分ある』
「十分」
『それだけありゃ、奥まで行けるだろ』
警備の二人が配管のすぐそばを通り過ぎていく。もし光が漏れていれば、もし音を立てれば気づかれる。四人は息を殺していたが、警備は何も気づかずに通り過ぎ、その足音はやがて遠ざかっていった。
しばらくして、東條が小さく頷いた。
「行きます。十分以内に、奥まで」
四人は配管の陰から出て通路を進んでいった。今度は少し速度を上げたものの、走れば音が出るため決して走らず、東條の絶妙な速度についていった。
通路の奥に扉があった。
金属製の頑丈な扉に、電子ロックがかかっている。ナディアが端末を近づけた。
「ロックされています」
「開けられる?」
アラタが聞いた。
「私には、無理です。でも――」
『俺がやる』
ワイリの声が、割り込んだ。
『その扉の、制御信号を拾えるか、ナディア』
「やってみます」
ナディアは扉の制御装置への接続を試みた。数秒の緊張した沈黙のあとで、彼女が小さく言った。
「繋がりました」
『よし。あとは俺がやる。……少し待て』
ワイリが遠隔で扉のロックに干渉し始めた。離れた場所で彼の指先が施設のシステムと戦っている。目に見えない攻防だったが、それはこの潜入の命綱でもあった。
数十秒が、永遠のように感じられた。
四人は扉の前でじっと待った。いつ巡回が戻ってくるかもわからないまま、時間だけが静かに過ぎていく。
アラタは通路の両方向を交互に見ていた。左から警備が来るかもしれないし、右から来るかもしれない。どちらにも備えなければならないのに、できることといえば、ただワイリがロックを解除するのを待つことだけだった。その待つ時間が、いちばんつらかった。
東條は微動だにしなかった。こういう時間に慣れた彼は焦りも動揺も見せず、ただ静かにその時を待っている。その落ち着きが、アラタをわずかに安心させた。
「東條さんは」
アラタが、囁いた。
「怖くないんですか」
「怖いですよ」
東條は、淡々と答えた。
「ただ、怖がっても、扉は開きません。だから、待つだけです」
素っ気ない言葉だったが、そこには経験に裏打ちされた静けさがあった。アラタは少しだけ肩の力を抜いた。
やがて、小さな電子音がした。扉のロックが外れる音だった。
『開いた』
ワイリの声。
『急げ。この解除は、記録に残る。長くは、ごまかせない』
東條が、扉を、静かに開けた。
*
施設の外周ではココ、レーム、バルメが待機していた。
乾いた岩場の陰に身を潜めて、施設を遠くから見ている。潜入組が無事に入ったことは通信で確認していたので、あとは彼らが出てくるのを待って、いざという時に退路を確保するのが外周組の役目だった。
「静かね」
ココが、囁いた。
「今のところは」
レームが双眼鏡を覗きながら答えた。
「門の警備は、いつも通り。まだ、気づかれてない」
「アラタさんたちは?」
「中だ。ワイリの通信を、聞く限りは、順調らしい」
「順調、か」
ココは、少しだけ、目を細めた。
「順調って言葉、あんまり好きじゃないのよね」
「なぜだ」
「順調な時ほど、何か起きるから」
レームは答えなかったが、彼も同じことを思っていた。潜入がいつどこで崩れるかわからないことを、長い戦場の経験が告げていたのだ。
バルメは無言で施設を見ていた。その意識は中にいるヨナへと向いていて、危険な場所にヨナがいるという事実が、彼女を落ち着かなくさせていた。
「バルメ」
ココが、声をかけた。
「何」
「顔、怖いわよ」
「いつもだ」
「いつもより、怖い」
ヨナと同じことを言われて、バルメはわずかに口の端を動かした。
「ヨナが、中にいる」
彼女は、短く言った。
「わかってる。心配なのね」
「心配じゃない」
「顔に、出てる」
「……少しだけだ」
バルメはそう認めてから、また施設へと視線を戻した。守りたい相手が見えない場所にいるという不安は、拠点でジブリールが感じているものと、同じ種類のものだった。
その時、施設の方からかすかな音が聞こえてきた。警報だった。
「始まったわね」
ココが静かに言った。その声に焦りはなく、ただ盤面が動いたことを確認するような響きだけがあった。
「レーム、退路の準備を」
「もうできてる」
「バルメ、ヨナは、大丈夫よ」
ココは、バルメを見た。
「あの子は、こういう場所を、生き抜いてきた。信じて、待つの」
バルメは答えなかったが、その手はいつでも動けるように銃のそばに置かれていた。
*
扉の向こうは小さな部屋だった。
窓のない灰色の部屋の壁際に、簡素な寝台がいくつか並んでいる。そこに、子供たちがいた。
四人だった。
痩せた体と虚ろな目をした彼らは、誰も声を上げず、ただ突然開いた扉とそこから入ってきた見知らぬ者たちを警戒するように見ている。手首の識別帯には、番号が記されていた。
C-330。
C-331。
C-332。
C-333。
アラタは、その四人を見た。
ずっと追ってきた名前のない四つの空欄が、壁の向こうにいると思っていたその子供たちが、生きてここにいた。港でも、白い学校でも、鉱山ターミナルでも、番号は名簿の中の記号でしかなかった。だが今その記号は、痩せた頬と、怯えた目と、細い手首を持った、生身の子供として目の前にいる。その事実が、アラタの胸を静かに締めつけた。
彼は刺激しないよう、怖がらせないよう、ゆっくりと部屋の中へ入っていった。膝を折って四人と目線を合わせる。
「怖がらせて、ごめん」
アラタは、静かに言った。
「君たちを、迎えに来た」
四人は答えず、ただじっとアラタを見ている。言葉の意味がわからないのか、あるいは信じられないのか。何度も裏切られてきた子供たちにとって、迎えに来たという言葉は簡単には響かなかった。
それでもアラタは焦らなかった。
「名前を、教えてくれる?」
彼は聞いた。
「番号じゃない。名前だ」
沈黙があった。
四人の子供は互いに顔を見合わせた。名前という言葉に何かが揺れたようだったが、すぐには答えられない。名前を言うことが許されていたのかどうか、その記憶すら曖昧になっているのだ。
一番年上に見える少女が口を開こうとした、その時だった。
通路の奥で、警報が鳴った。
*
『気づかれた』
ワイリの声が、緊張していた。
『扉の解除が、記録された。警備が、そっちへ向かってる。急げ』
「何分ある?」
東條が聞いた。
『わからん。だが、長くない。二分か、三分か』
アラタは四人の子供を見た。名前を聞いている時間はなくなったが、それでも連れ出さなければならない。
「立てる?」
彼は聞いた。
四人は戸惑っていた。突然の警報と見知らぬ者たちを前にして何が起きているのか理解できず、動くべきか動かないべきか判断できずにいる。
「一緒に、来てほしい」
アラタは命令ではなくお願いとして言った。
「ここから、出よう。もう、番号じゃなくなる場所へ」
だが四人は動かなかった。慣れない状況に体が固まって、恐怖が彼らの足を縛っていた。
ヨナが、前に出た。
「時間がない」
彼はそう短く言ってから、四人の子供の前にしゃがんだ。
「怖いのは、わかる」
ヨナの声は低かったが、そこには彼自身の記憶が滲んでいた。かつて同じように戦場に放り込まれた、少年の記憶だった。
「俺も、そうだった。動くのが、怖かった。決めるのが、怖かった。誰かに、決めてもらう方が、楽だった」
四人の子供が、ヨナを見た。
「でも、今は、違う。俺は、自分で、ここにいることを決めた。お前たちも、決めていい。俺たちと、来るか、来ないか。自分で、決めろ」
連れ出しに来たはずなのに自分で決めろと言うのは奇妙な言い方だったが、その言葉には子供たちをモノとして扱わない響きがあった。
一番年上の少女が、ゆっくりと立ち上がった。
「……行く」
小さな声だったが、はっきりとした意思だった。
それを見て、他の三人も立ち上がった。まだ震えて怖がりながらも、自分の足で立ったのだ。
「よし」
ヨナが、頷いた。
「じゃあ、行くぞ。俺の後ろに、ついてこい」
*
通路に出ると、警報が施設全体に響いていた。
赤い光が点滅して、複数の足音が近づいてくる。もう静かな潜入ではなく、気づかれた以上はいかに速く抜けるかの勝負になっていた。
「ナディア、来た道は」
東條が聞いた。
「排水路まで、戻れます。でも、途中の通路が、封鎖されるかもしれません」
『封鎖は、俺が止める』
ワイリの声。
『順番に隔壁が閉じてる。全部は止められないが、お前たちの通り道だけは、開けておく』
「頼みます」
東條が答えた。
四人は子供たちを連れて来た道を戻り始めた。東條が先頭に立ち、その後ろに四人の子供、経路を確認するナディアが中央に続く。アラタが子供たちを支えて、ヨナが最後尾で後ろを警戒した。
通路の角を曲がった時だった。警備員が二人、現れた。
「止まれ!」
銃を構えている。四人の子供がびくりと足を止めて、恐怖がその場に彼らを縛りつけた。
ヨナが、前に出た。
彼は子供たちと警備員のあいだに割って入り、壁のように立ちはだかった。
「ヨナ!」
アラタが叫んだ。
「先に行け」
ヨナは振り返らずに言った。
「子供たちを、連れて。ここは、俺が止める」
「でも」
「行け!」
ヨナの声は鋭かった。アラタは一瞬迷ったものの、迷っている時間はなかった。
「東條さん、お願いします」
「はい」
東條が子供たちを促して、アラタもそれに続く。四人の子供はヨナを一瞬だけ振り返りながら、通路の先へと走っていった。
ヨナは警備員と向き合った。
相手は銃を構えていたが、ヨナは引き金を急がなかった。撃てば音が増えて増援を呼ぶことになるし、そもそも殺す必要もない。ただ子供たちが角を曲がるまでの時間を稼げばいい。
「武器を、捨てろ」
警備員が、叫んだ。
ヨナは答えず、ただ視線だけを動かして通路の構造と遮蔽物、逃げ道のすべてを瞬時に頭へ入れていった。
「最後の警告だ!」
警備員が一歩前に出た、その瞬間だった。ヨナは腰のポーチから小さな金属筒を抜いて床へ投げた。
閃光。轟音。
白い光が、通路を埋め尽くした。
「ぐあっ!」
「目が――!」
警備員たちが悲鳴を上げた隙に、ヨナは身を翻した。撃たず、音を増やさず、混乱する警備員の脇をすり抜けて通路の先へ走る。
背後で、怒号が響いた。
「追え!」
「逃がすな!」
足音が増えるのは予想通りだったが、閃光で追跡が一瞬遅れた。その一瞬が貴重だった。ヨナは白い残像の残る通路を駆け抜けていった。
だが通路の先で、別の警備が現れた。
三人。今度は閃光弾の効果範囲の外にいて、ヨナを見るなり銃を構えた。ヨナは瞬時に判断する。正面は突破できず、左は行き止まりで、右は子供たちが逃げた方向だった。そちらへ警備を向かわせるわけにはいかなかった。
ヨナはあえて正面へ飛び込んだ。
銃声が響いて弾丸が壁を叩いたが、身を低くして警備の足元を抜けた。訓練された兵士でも、至近距離で低く動く相手を狙うのは難しい。彼はその隙を突いたのだ。
警備の一人に体当たりして相手の体勢を崩し、その隙にヨナは通路の角を曲がった。撃たずにただ抜ける。それが彼のやり方だった。
『ヨナ、右の通路は、行き止まりだ』
ワイリの声が、通信機から飛んだ。
『左に、曲がれ。そこから、排水路へ、戻れる』
「わかった」
ヨナは左へ曲がった。背後の足音はまだ追ってくるものの、閃光と混乱が警備の動きを鈍らせて、距離は少しずつ開き始めていた。
『それと、ヨナ』
ワイリが、続けた。
『子供たちは、もう、排水路に入った。アラタも、東條も、一緒だ。お前が、最後だ』
「わかってる」
ヨナは答えた。子供たちが無事に逃げたとわかれば十分で、あとは自分が抜けるだけだった。
彼は背後の足音を引き離しながら通路を走り続けた。やがて排水路の入口が見えてきた。あと少しだった。
*
排水路の入口まで、あと少しだった。
東條が子供たちを一人ずつ慎重に縦穴へと降ろしていく。四人の子供はまだ状況を飲み込めずにいたが、それでも必死に梯子を降りていった。
「アラタ、次です」
東條が言った。
「ヨナは」
アラタが後ろを見たが、ヨナの姿はまだ見えなかった。
「先に、降りてください」
「でも」
「ヨナさんは、来ます。あの人は、約束を破らない」
東條の声は静かで、しかし確信に満ちていた。アラタは唇を噛みながら、縦穴へと身を入れた。
その時、通路の奥から足音が聞こえてきた。ヨナだった。閃光弾の煙を背後に引きながら走ってくる。
「ヨナ!」
アラタが叫んだ。
「降りろ!」
ヨナが叫び返して、アラタは縦穴を降りた。ヨナも続いて縦穴へ飛び込み、最後に東條が降りていった。
縦穴の下で四人は再び排水路を走った。狭くて暗い道だったが、来た時よりも足取りは速かった。子供たちも恐怖を抱えながらも必死に走って、前へと進んでいた。
『排水路の出口に、ルツがいる』
ワイリの声。
『外は、押さえてある。出れば、車だ』
「ありがとうございます」
東條が答えた。
やがて前方に光が見えてきた。排水路の出口だった。崩れた鉄格子の隙間から、月明かりが差し込んでいる。
東條が先に出て安全を確認してから、子供たちを一人ずつ外へ出していった。アラタが続き、最後にヨナが排水路を抜けた。
外は静かだった。
少し離れた場所でルツが狙撃銃を構えて周囲を警戒していたが、追手の気配はまだなかった。
「間に合ったか」
ルツが、小声で言った。
「間に合いました」
東條が答えた。
「子供は」
「四人。全員、無事です」
ルツは四人の子供を見た。痩せた体と虚ろな目をしていても、確かに生きている。彼はほんの少しだけ表情を和らげた。
「上出来だ。車まで、走れ。ウゴが待ってる」
*
車に乗り込んで施設から十分に離れてから、ようやく全員が息を吐いた。
車は灯りを消したまま乾いた道を走り続けた。窓の外では、灰色の施設が少しずつ遠ざかっていく。有刺鉄線も、門の警備も、あの訓練された兵士たちも、闇の中に溶けて見えなくなっていった。
四人の子供は後部座席で身を寄せ合って、まだ震えている。だが追手は来なかった。ワイリが通信を撹乱し、ルツが退路を押さえ、ウゴが最短の道を走ったおかげで、潜入は成功したのだ。
「怪我は」
アラタが四人の子供に聞いたが、誰も答えず、ただじっとアラタを見ている。
アラタは焦らず、ゆっくりと微笑んだ。
「もう、大丈夫だ。もう、あそこには、戻らない」
四人はまだその言葉を信じきれずにいたが、一番年上の少女がようやく口を開いた。
「……本当に?」
「本当だ」
アラタは、即答した。
「もう、番号じゃない。名前で、呼ばれる場所へ行く」
少女はしばらく黙ってから、小さな声で言った。
「名前……あるの?」
「あるよ」
アラタは、頷いた。
「君にも、他のみんなにも、名前がある。忘れてしまったかもしれない。でも、消えたわけじゃない。ゆっくり、思い出せばいい」
少女は自分の手を見つめてから、震える声で言った。
「……サラ、だった気がする」
その名前はかすれていたが、確かにそこにあった。
「サラ」
アラタは、繰り返した。
「いい名前だ」
サラの目に涙が滲んだ。ただ名前を呼ばれただけのことなのに、忘れていたものをほんの少しだけ取り戻したように、胸の奥で何かが動いた。
他の三人はまだ名前を思い出せずにいたが、アラタは急かさなかった。
「思い出せなくても、大丈夫だ」
彼は言った。
「思い出すまで、待つ。それまでは、空欄でいい。空欄は、諦めじゃない。まだ、取り戻していないだけだ」
その言葉に三人の子供は少しだけ肩の力を抜いた。名前を言わなければならないという圧がなくなって、それだけで少しだけ楽になったのだ。
三人のうち一番小さな子供が、ふいに小さな声で言った。
「……水、飲んで、いい?」
その問いに、アラタは一瞬言葉を失った。
水を飲むというただそれだけのことに、この子は許可を求めている。番号として管理され、渡されたものを渡された時に口にするだけで、自分で決めることを忘れさせられてきた子供だった。
「いいよ」
アラタは、静かに言った。
「飲んでいい。もう、許可は、いらない。飲みたい時に、飲んでいい」
子供は戸惑ったようにアラタを見てから、隣のサラを見た。サラが小さく頷くと、子供は震える手で渡された水のカップを両手で持った。それでもすぐには口をつけず、何度か周囲を確認して誰も止めないことを確かめてから、ようやくほんの少しだけ口をつけた。
その様子を、ヨナが見ていた。
彼は何も言わず、ただその光景をじっと見ている。許可がなければ水も飲めない子供がどういうことなのか、かつてのリナと同じその姿を、彼は知りすぎるほど知っていた。
「まだ、長いな」
ヨナが、ぽつりと言った。
「うん」
アラタが、頷いた。
「連れ出した。でも、まだ、始まりだ。この子たちが、自分で、水を飲めるようになるまで。自分で、決められるようになるまで。まだ、長い」
「わかってて、やってるんだろ」
「わかってる」
アラタの声は、静かだった。
「始まりだけは、渡せる。その先を、この子たちが、生きていく。それは、僕には、代われない。でも、始まりだけは、渡せる」
ヨナはそれ以上何も言わず、ただ水を飲む小さな子供を見ていた。ほんの少しだけ口をつけては周囲を確認して、少しずつ水を飲んでいく。そのぎこちない仕草の中に、確かに生きようとする力があった。
*
拠点に戻ると、ジブリールが駆け寄ってきた。
「遅い!」
彼女は開口一番にそう言ったが、その目はすぐに後部座席の四人の子供へと向いた。
「その子たち……」
「四人だ」
アラタが言った。
「壁の向こうにいた、四人。連れ出せた」
ジブリールは四人の子供を見た。痩せた体と虚ろな目をしていても、確かに生きている。彼女の表情が、安堵とそれ以上の何かに揺れた。
「……よかった」
彼女は小さく言ってから、ヨナを見た。
「無事?」
「無事だ」
「アラタは?」
「連れて、戻った」
ジブリールは二人を上から下まで確認した。本当に無事なのか自分の目で確かめたかったのだ。二人とも無事だとわかって、彼女はようやく息を吐いた。
「心配、した」
「してないんじゃなかったのか」
ヨナが言った。
「今回は、した」
ジブリールは素直に認めてから、少しだけ照れたように視線を逸らした。
「待つの、つらかった」
彼女は、小さく言った。
「銃声も、聞こえなかった。何が、起きてるのか、全然、わからなかった。ただ、無事を、祈るだけ。あんなの、戦うより、つらい」
「わかる」
ヨナが、静かに言った。
その一言に、ジブリールは少しだけ驚いたように彼を見た。
「あなたも?」
「前に、お前が偵察に出た時。俺は、拠点で、待ってた」
ヨナは言った。
「同じだった。何もできない。ただ、待つ。あれは、つらい」
ジブリールはしばらく黙り込んだ。言葉を惜しむヨナが自分の弱さを認めるようなことを口にするのは、珍しいことだった。
「……じゃあ、お互い様だね」
ジブリールが、言った。
「そうだな」
ヨナは、頷いた。
「次は、どっちが、残るか、じゃんけんで決めるか」
「それ、本気で言ってる?」
「半分」
ジブリールは少しだけ笑った。無事に戻ってきて四人の子供も連れて帰れたのだから、緊張がほどけていくのも当然だった。
ミラが、四人の子供に近づいた。
「おいで」
彼女は、優しく言った。
「水、飲む? 毛布も、あるよ」
四人の子供は戸惑っていたが、ミラの柔らかい声に少しずつ警戒を解いていった。一人が小さく頷くと、ミラはその子の手をそっと取った。
「大丈夫。もう、大丈夫だから」
その光景を少し離れた場所から見ていたアラタが、隣に立つヨナに言った。
「ありがとう。君がいなかったら、連れ出せなかった」
「別に」
ヨナは、視線を逸らした。
「約束、しただろ。無事に、戻るって」
「戻った」
「ああ」
ヨナはそれだけ言ったが、その口元はわずかに緩んでいた。
*
その夜、ナディアが名簿を開いた。
救出された子供たちの名前が並んでいる。アイシャ。ラフィ。ノア。リナ。エミル。マリク。そして新しく加わった、サラという名前。その隣に、まだ名前を思い出せない三人の子供の、三つの空欄があった。ナディアはその空欄を消さず、番号でも埋めず、ただ空欄のまま残した。
「空欄、ですね」
ナディアが、アラタに言った。
「うん」
アラタが、答えた。
「まだ、取り戻していないだけだ。いつか、埋まる」
「はい」
ナディアは頷いてから、端末を操作した。
「アラタ」
「何?」
「一つ、気になることが」
彼女の声が、少しだけ硬くなった。
「あの施設で、拾った通信の中に、別の識別信号がありました」
「別の?」
「はい。子供の信号が、他にもあったんです。私たちが救出した四人以外に」
アラタの表情が、変わった。
「他にも、いたってこと?」
「たぶん。でも、私たちがいた区画とは、別の場所です。もっと、奥。もっと、上」
ナディアが端末を見せると、そこには複数の識別信号が記録されていた。四人を救出した時に拾ったものの中に、四人以外の信号が混じっていたのだ。
「あの施設は、中継所でした」
ナディアは言った。
「四人は、そこに、一時的に、留められていた。でも、他の子供たちは、もう、その先へ、送られている。BABEL-00の、もっと奥へ」
アラタはその信号を見つめた。四人を救出できたのは確かな成果だったが、その奥にはまだ多くの子供がいて、名前のない多くの空欄が残されている。壁を越えたと思ったその先に、また別の壁があった。
「終わりじゃ、ないんですね」
ナディアが、静かに言った。
「終わりじゃない」
アラタは、頷いた。
「まだ、奥がある。まだ、上がある。四人を、連れ出せた。でも、それで、全部が終わったわけじゃない」
彼は深く息を吐いた。疲れていても、その目はまだ前を見ていた。
「一つずつだ。焦らない。無理をしない。一人ずつ、名前を、返していく。それしか、ない」
ナディアは名簿を閉じずに、しばらくそのまま画面を見つめていた。サラという名前と、その隣に並ぶ三つの空欄。そして、まだ拾いきれていない、奥へ送られた子供たちの識別信号。それらはすべて、これから先に長く続く道の入口を示していた。
アラタもまた、その名簿から目を離せずにいた。四人を連れ出せたことは間違いなく前進だった。それでも、前へ進めば進むほど、見えなかった空欄が新しく現れてくる。その終わりの見えなさに、彼は疲れよりも重いものを感じていた。だが、そこで立ち止まるつもりはなかった。
*
同じ夜、遠く離れた施設でエリザ・クロウが報告を受けていた。
窓のない部屋に並んだ画面の一つに、東の丘陵地帯の施設の記録が表示されている。潜入、四人の脱出、ロックの不正解除。
エリザはその記録を静かに見つめていた。表情は変わらないまま、彼女の指が画面上の四つの番号をなぞっていく。
C-330。C-331。C-332。C-333。
そのすべてに「回収済み――子供使い陣営」という注記が、新しく加わっていた。
「連れて行きましたか」
エリザは、小さく呟いた。
その声にはいつもの冷たさがあったが、その奥に、感心とも諦めともつかない別の響きがわずかに混じっていた。
通信機が、鳴った。
『クロウ』
あの、男の声だった。
「はい」
『四人が、消えたそうだな』
「はい」
『どう思う』
エリザは少し考えてから、言葉を選んだ。
「予想の、範囲内です」
『範囲内?』
「あの人なら、来ると、思っていました。四人が、あの中継所に留められている限り、必ず、来る。そういう人です」
『なぜ、防がなかった』
エリザは、答えなかった。
防げなかったわけではない。もっと守りを固めることも、もっと早く四人を上へ送ることもできたのに、彼女はそうしなかった。なぜそうしたのか、それは彼女自身にもはっきりとはわからなかった。
「防ぐ意味が、ありませんでした」
エリザは、言った。
「四人を守っても、あの人は、次を追う。その次も、その次も。防いだところで、終わりません。だから、四人は、くれてやりました」
『くれてやった、か』
「ええ」
『甘いな』
「効率の問題です」
エリザは、静かに言った。
「四人を守るために、大きな戦力を割くより、その戦力を、上層の守りに回した方が、合理的です。四人は、囮のようなものです」
冷たい言葉だったが、通信の向こうの男はそれ以上追及しなかった。
『上層の、準備は』
「進んでいます」
『ならいい』
通信が、切れた。
エリザは画面の四つの番号をもう一度見つめた。回収済み、子供使い陣営。あの青年は四人を連れて行って、会ったこともない四つの空欄に名前を返そうとするのだろう。
「非効率です」
エリザはまた、そう呟いた。前と同じ言葉だったが、その声には確信よりも疑問が滲んでいた。
非効率で無意味なはずだった。それなのにあの青年は止まらず、四人を連れて行き、次も追うだろう。まるでそれが世界で一番大切なことであるかのように、一人ずつ名前を返していく。
なぜ止まらないのか、エリザにはそれがわからなかった。効率で考えれば割に合わず、数で見れば無意味なはずなのに。
画面の光が、彼女の顔を青白く照らしていた。
四つの番号はもう回収済みになっていたが、その先にはまだ無数の番号が、名前のない無数の空欄が残っていた。塔はまだ高く、彼女はその中腹にいる。上を見上げても頂は見えず、下を見下ろしても底は見えない。彼女はただ与えられた層を管理しているだけだった。
その塔を、あの青年が下から登ってくる。一段ずつ、一人ずつ、名前を返しながら。いつか二人はまた会うだろうとエリザは思った。そしてその時に自分が何を思うのか、それはまだわからなかった。
彼女は画面を切り替えた。表示された別の情報は、あの男が進めている上層の準備だった。その全貌はエリザにも見えなかったが、見えない準備が不吉なものであることだけは感じ取っていた。
四人を失ったのは末端の小さな綻びに過ぎず、上層は動じるどころか、むしろこの機に何かを加速させようとしている。あの青年が四人を救った代償に上層は守りを固めて、次はもっと難しくなり、もっと多くの血が流れるかもしれなかった。
「非効率です」
エリザは、三度目にそう呟いた。
だがその言葉はもう、あの青年に向けたものではなかった。名前を奪い、番号を積み上げ、子供を数で数えるこの塔そのものに向けた言葉だった。
彼女はその仕組みの一部であり、歯車の一つだった。それを理解していながら、それでも彼女はここにいた。
なぜ自分はここにいるのか。その問いに、エリザは答えを持っていなかった。あの青年がなぜ止まらないのかわからず、自分がなぜここにいるのかもわからない。二つのわからないが、彼女の中で静かに対峙していた。
部屋は静かで、画面の光だけが闇の中で静かに瞬いていた。塔はまだ高く、夜はまだ深い。その頂上で誰が何を企んでいるのか、それはまだ誰も知らないままだった。