JORMUNGAND:マージナル・チルドレン 作:たこ焼き 龍月
首都ノヴァ・カラバルは、遠くから見れば美しい街だった。
鉱山地帯の粉塵と乾いた岩場を抜けて丘を越えると、白い建物の群れが眼下に広がる。ガラス張りの高層ビルが朝の光を弾き返す様は、まるで別の国に迷い込んだかのようだった。真新しい舗装路が伸び、街路樹が整然と並び、歩道には塵一つ落ちていない。内戦で焼けた国だとは、とても信じられなかった。
車の助手席で、アラタはその街を静かに見ていた。
運転席のオマルもまた、フロントガラスの向こうの街を無言で見ている。二人とも、その白さには見覚えがあった。白い学校の清潔な廊下も、鉱山ターミナルの整然とした管理表も、同じ種類の白さを持っていたからだ。表面が綺麗であればあるほど、その裏に隠されたものは濃くなる。それを、二人はもう知っていた。
「綺麗な街だ」
オマルが、ぽつりと言った。
「うん」
アラタが、答えた。
「綺麗すぎる」
二人はそれ以上何も言わなかった。言わなくても、互いが同じことを感じているのはわかっていた。
*
ノヴァ・カラバルへの移動は、ココが決めたことだった。
東の丘陵地帯の施設から四人を連れ出して数日が経ち、拠点では新たな情報が集まりつつあった。ナディアが施設で拾った通信の中には、四人以外の子供の識別信号が混じっていて、その子供たちはもっと奥へ、もっと上へと送られていた。その行き先を辿ると、信号はすべて首都の方向を指していた。
BABEL-00。
それが単なる施設ではなく、もっと大きな何かの入口であることは、もう疑いようがなかった。物資も資金も契約も、そして子供たちも、すべてがこの首都へ流れ込んでいる。塔の上層は、ここにあった。
「だから、首都に行くのよ」
拠点を出る前、ココはそう言っていた。
「四人を連れ出したのは、いい仕事だった。でも、あそこは中継所。本当の答えは、もっと上にある。上を見なきゃ、この塔は壊せない」
アラタは、その言葉に頷いた。
ただ頷きながらも、彼の中にはわずかな引っかかりが残っていた。ココの言う「塔を壊す」という言葉と、自分の「子供を連れ出す」という願いは、同じ方向を向いているようでいて、どこかがわずかにずれている。その差が何なのか、まだうまく言葉にはできなかった。
*
首都に入ると、街の空気は一変した。
鉱山地帯の乾いた沈黙とは違い、そこには人の声と車の音が満ちていた。市場には物があふれ、カフェのテラスには人が座り、広場では子供たちが走り回っている。内戦の傷跡は表通りから注意深く取り除かれていて、まるで戦争など最初からなかったかのようだった。
だが、その表通りから一本裏へ入ると、景色は違った。
崩れたままの建物が並び、物乞いの列が続き、目に力のない若者たちが座り込んでいる。復興という言葉が届いているのは、ほんの一部の通りだけだった。表と裏、光と影が、同じ街の中に折り重なって存在していた。
路地の隅で、痩せた子供が数人、座り込んでいた。
その子供たちは、通り過ぎる車をぼんやりと見ている。何を求めるでもなく、ただそこにいた。表通りの広場で走り回っていた子供たちとは、同じ子供とは思えないほど目の色が違っていた。片方は守られている子供の目で、もう片方は忘れられた子供の目だった。
アラタは、その子供たちを車窓から見た。
助けたい、と思った。だが、あの子供たち一人一人を助けていたら、きりがない。この街には、あの路地の隅の子供たちのような存在が、いくらでもいる。それを全部は救えない。わかっていた。わかっていても、その目から視線を逸らせなかった。
車が、その路地を通り過ぎた。
子供たちの姿が後ろへ流れて消えても、アラタはしばらくその方向を振り返っていた。
「見るな」
運転席のオマルが、静かに言った。
「え」
「全部は見るな。全部を見たら、お前が潰れる」
オマルの声には、冷たさではなく、むしろ気遣いがあった。彼は、アラタが目の前のすべての子供を背負おうとする性分を、よく知っていた。そして、それがアラタを少しずつすり減らしていることも知っていた。
「……はい」
アラタは、小さく答えた。だが、その目はまだ後ろへ流れた路地の方を気にしていた。
「復興、ね」
ココが、車窓の外を見ながら言った。
「表通りだけは、立派なものね。誰に見せるための復興なのかしら」
「投資家、でしょう」
助手席のレームが答えた。
「金を出す側に、綺麗な絵を見せる。裏は見せない。どこも同じだ」
「そういうこと」
ココは、少しだけ笑った。だがその笑みには、いつもの余裕とは違う乾いた響きがあった。彼女は武器商人として、こういう街をいくつも見てきた。表向きの復興の裏でいったい何が売り買いされているのか、彼女はよく知っていた。
車は、大通りを進んでいった。
窓の外を、真新しいビルが次々と流れていく。銀行、商社、外資系のホテル。そのどれもが清潔で立派で、まるで戦争など知らないような顔をしていた。だが、ココの目は、その建物を別のものとして見ていた。あのビルの一室で契約が交わされ、あの銀行の口座を金が通り、あのホテルのラウンジで取引が成立する。この街全体が、一つの巨大な商談の場だった。
「レーム」
ココが、言った。
「なんだ」
「この街には、戦場がないように見えるでしょう」
「ああ」
「でも、本当は、逆なの」
ココの声は、静かだった。
「戦場は、ここにある。銃も、爆発もないけど。ここで、決まるのよ。誰が生きて、誰が死ぬか。どの村に武器が届いて、どの子供が送られるか。全部、この綺麗な街の、綺麗な部屋で決まる。……本当の戦場は、いつも、こういう場所なの」
レームは、その言葉に答えなかった。だが、彼も同じことを思っていた。長い戦場の経験が、彼に告げていた。血の流れる戦場は末端に過ぎない。本当の戦いは、いつも血の匂いのしないこういう場所で、静かに進んでいた。
*
一行はいくつかに分かれて首都に入った。
目立たないためだった。ココ隊とアラタ陣営が揃って動けば、それだけで注意を引く。だから車を分け、時間をずらし、それぞれ別のルートで首都へ入った。子供たちの大半は郊外の安全な場所に残し、動くのは最小限の人数に絞った。
拠点に残ったジブリールは、今度は珍しく大きな反発をしなかった。前回の潜入で、待つことのつらさを口にしたヨナとの会話が、彼女の中で何かを変えていたからだ。子供たちを守るのも大事な役目だと、頭ではなく胸で理解し始めていた。
「無事に、戻って」
出発の時、ジブリールはそれだけ言った。
「戻る」
ヨナが、いつものように即答した。
その短いやり取りは、前回とほとんど同じだった。だが、そこに込められた温度は少しずつ変わってきていた。警戒だったものが、いつのまにか信頼に近いものになっていた。
*
首都で最初に動いたのは、ココだった。
彼女には、この街に伝手があった。HCLIの武器商人として、ココはかつて何度かこの国と取引をしていて、その名前は裏社会にも表社会にも知られている。だから彼女は、正面から情報を集めることができた。
最初に向かったのは、高級ホテルのラウンジだった。
ガラス張りの吹き抜けに、磨かれた大理石の床が続いている。そこには各国の商人、外交官、軍事関係者が集まり、コーヒーやワインを片手に静かに取引の話をしていた。戦場から遠く離れたその場所こそが、本当の意味で戦争が動く場所だった。
ココはそのラウンジの奥のソファに腰を下ろした。護衛のバルメが、少し離れた場所に立って周囲を見ている。
やがて、一人の男がテーブルの向かいに腰を下ろした。
「久しぶりだね、ココ」
その男は、穏やかに笑っていた。仕立ての良いスーツを着て、余裕のある物腰で、まるで旧友に会ったかのような態度だった。
だが、その男を見るココの目は、旧友を見る目ではなかった。
「兄さん」
ココが、言った。
「久しぶり」
キャスパー・ヘクマティアルは、妹の顔を見て微笑んだ。
*
「まさか、あなたが首都にいるとは思わなかったわ」
ココが言うと、キャスパーは軽く肩をすくめた。
「僕がいて、驚くようなことかい。ここは商売の場だよ。商人がいて、何がおかしい」
「兄さんが動くってことは、それだけ大きな金が動いてるってことでしょ」
「察しがいいね。相変わらず」
キャスパーは、コーヒーカップを持ち上げた。
兄妹は、似ていた。同じ武器商人の血を引き、戦争を商売として見ている点も同じだった。だが、その見方には決定的な違いがある。ココが戦争の構造そのものに干渉しようとするのに対して、キャスパーはあくまで利益と割り切りで動く。彼にとって戦争は、変えるものではなく、使うものだった。
「バベル・ルートね」
ココが、単刀直入に言った。
「兄さんも、噛んでるの」
キャスパーは、答える前に少しだけ間を置いた。
「噛んでる、という言い方は、正確じゃないな」
彼は、静かに言った。
「見ている、というのが正しい。あれは大きい。大きすぎて、誰か一人が握れるものじゃない。企業も政府も軍も情報機関も、みんなが少しずつ噛んでいる。僕は、その全体を遠くから見ているだけだ」
「見て、どうするの」
「使えるところだけ、使う。それが商人だろう」
キャスパーの言い方には、迷いがなかった。ココは、その割り切りの良さを羨ましいとも恐ろしいとも思った。自分にはもうできない考え方だった。アラタと出会い、白い学校を見て、鉱山ターミナルを見た今、彼女はもう、ただ使えるところだけを使うという立場には戻れそうになかった。
*
「バベル・ルートは、道じゃない」
キャスパーは、コーヒーを一口飲んでから続けた。
「網だ。お前もうわかっているだろう。白い学校を潰しても、鉱山ターミナルを潰しても、終わらない。ノードを一つ潰せば、別のノードが機能を引き継ぐ。そういう構造になっている」
「じゃあ、上を潰せばいい」
「上、ね」
キャスパーは、少しだけ笑った。
「BABEL-00のことを言っているなら、やめておいた方がいい」
「なぜ」
「あれは、施設じゃないからだ」
キャスパーの声が、わずかに低くなった。
「BABEL-00は、コードだ。管理の層そのものを指すコードで、物理的に潰せる建物じゃない。企業のサーバーにも、政府の書類にも、情報機関の記録にも、少しずつ分散して存在している。あなたが一つの建物を爆破しても、それはBABEL-00の一部でしかない。全体は、決して死なない」
ココは、しばらく黙っていた。
キャスパーの言うことは、おそらく正しかった。バベル・ルートが網であることは、もうわかっていた。だが、その上層が建物ですらなく、概念に近いものだとすれば、それを壊すというのはいったいどういうことなのか。
「じゃあ、どうしろって言うの」
ココが、聞いた。
「関わるな、というのが、兄としての助言だ」
キャスパーは、静かに言った。
「あなたは、あの子供使いに毒された。前のあなたなら、こんな損な戦いには手を出さなかった。バベル・ルートは、商売相手にするならいい。だが、敵に回すには大きすぎる」
「毒された、か」
ココは、その言葉を繰り返した。
「面白い言い方ね」
「事実だろう」
「どうかしら」
ココは、窓の外を見た。表通りの綺麗な景色が、ガラスの向こうに広がっている。
「毒されたんじゃない。目が覚めたのよ、たぶん」
キャスパーは、その言葉に少しだけ表情を変えた。妹のこういう物言いは、昔からだった。軽く笑いながら、その裏で誰にも譲らない何かを抱えている。それが厄介だと、彼は何度も思ってきた。
「目が覚めた、ね」
彼は、コーヒーカップを静かに置いた。
「お前は昔から、そうだ。何かを面白がっているうちに、いつのまにかそれに深く入り込んでしまう。港の子供を見たんだろう。白い学校を見たんだろう。それで、目が覚めたと言う」
「見たわ」
ココは、あっさりと言った。
「番号で管理された子供を見た。名前を奪われた子供を見た。それを運ぶ道が、私の売った武器と同じ流れの中を通ってるのを見た。……目を逸らせなかった」
「逸らせばよかったんだ」
「兄さんなら、逸らすの?」
ココが、聞いた。
キャスパーは、少しだけ間を置いた。
「逸らすね」
彼は、静かに言った。
「僕は、商人だ。商人が扱う商品の行き先に、いちいち感情を挟んでいたら商売にならない。武器がどこへ届こうと、それは買った人間の責任だ。僕の責任じゃない。……あなたも、昔はそう言っていた」
「昔はね」
「変わったな」
「変わったの」
ココは、笑った。だが、その笑みには、どこか寂しさに似たものが混じっていた。兄と自分は同じ場所から出発したはずだった。だが今、二人はまったく違う場所に立っている。その距離を、彼女ははっきりと感じていた。
「兄さん。一つだけ、聞かせて」
ココは、言った。
「あの子供たちを、兄さんは、どう見てるの」
「商品だ」
キャスパーの答えは、迷いがなかった。
「非情に聞こえるだろう。だが、それが事実だ。バベル・ルートでは、子供は商品として扱われている。僕は、その事実を事実として見ているだけだ。良いとも悪いとも言わない。ただ、そこにある商品だ」
ココは、その言葉を静かに聞いていた。
兄の言葉は冷たかった。だが、嘘ではなかった。むしろ、この街の上層で動いている人間の大半は、兄と同じように子供を商品として見ているのだろう。企業も政府も情報機関も、子供を数として資源として、商品として処理している。兄は、ただそれを正直に口にしているだけだった。
「わかった」
ココは、頷いた。
「兄さんの立場は、わかった。私は、私の立場で動く」
「止めないよ」
キャスパーは、肩をすくめた。
「止めても、お前は聞かない。それはわかっている。ただ――」
彼は、そこで、少しだけ声を落とした。
「一つだけ、覚えておくといい。あの子供使い。アラタといったか。あれは、使える。よく使える。だが、扱いを間違えると、お前ごと燃える。ああいう人間は感情で動くから、予測ができない。商売の相棒には向かない」
「相棒じゃないわ」
「じゃあ、何だ」
「さあ」
ココは、少しだけ考えるようなふりをした。
「同じ地獄を、別の入口から見てる人。それくらいかしら」
「商売にならない言い方だな」
「兄さんほど、商売だけで生きてないの」
ココは、そう言って立ち上がった。
「会えて、よかった。兄さん。忠告も、覚えておく。でも、私は進むわ」
キャスパーは、去っていく妹の背中を見ていた。
止められないことは、わかっていた。あの背中は昔から誰にも止められなかった。父にも、自分にも止められなかった。ただ今回は、あの背中の向こうに何か大きすぎるものが待っている気がして、彼はわずかに眉をひそめた。
「面倒なものを、また拾ったな。ココ」
彼は、小さく呟いた。妹には聞こえない声だった。
*
ホテルを出ると、バルメがココに歩み寄った。
「兄と話して、どうだった」
バルメが、聞いた。
「相変わらずよ」
ココは、軽く言った。
「使えるものを使う。感情で動くな。関わるな。……全部、正しいの。兄さんの言うことは、いつも正しい。だから、嫌いなのよね」
「嫌いなのか」
「嫌いよ。半分だけ」
ココは、笑った。だが、その笑みには、どこか複雑なものが混じっていた。兄を嫌いだと言いながら、その言葉を無視できない自分がいた。兄の言う「関わるな」という忠告が正しいことは、彼女にもわかっていた。この戦いは損だ。商人として見れば、手を出すべきではない。
「バルメ」
ココが、言った。
「なに」
「私、変わったと思う?」
その問いに、バルメは少し間を置いた。
ココ・ヘクマティアルという人間を、バルメは長く見てきた。笑いながら世界を盤面として見る女で、誰よりも冷静で、誰よりも危うい女だった。そのココが、最近少しだけ変わったような気がしていた。
「わからない」
バルメは、正直に言った。
「ただ、前より、面倒な戦いを選ぶようになった。それは、確かだ」
「面倒な戦い、か」
「昔のココなら、こんな戦いは、しなかった」
バルメの声には、非難はなかった。ただ事実を述べていた。
「損だからな。子供を助けても、金にならない。ルートを壊しても、恨みを買うだけだ。昔のココなら、笑って通り過ぎた。……でも、今は違う」
ココは、その言葉を静かに聞いていた。
バルメの言う通りだった。昔の自分なら、この戦いは選ばなかっただろう。損だからだ。それでも今、自分はこの戦いの中にいる。なぜか。アラタと出会ったからか。白い学校を見たからか。それとも、もっと別の何かか。
「面白いからよ」
ココは、そう言った。
「それだけ?」
「それだけ。……たぶん」
ココは、笑った。だが、その「たぶん」には、彼女自身にもはっきりとしない何かが含まれていた。面白いから。それは嘘ではなかった。だが、それだけでもなかった。何かが変わっていた。その何かを、ココはまだ言葉にできずにいた。
*
その頃、アラタは別の場所にいた。
首都の中心部から少し離れた、支援団体の事務所が集まる地区だった。表向きは難民支援や復興支援を掲げる団体が並ぶその一角で、アラタとナディア、東條は、ある情報を追っていた。
救出した四人の子供――サラと、まだ名前を思い出せない三人――が、以前どこにいたのか。その手前に、いったいどこから送られてきたのか。そして、施設に残されていた他の子供の識別信号が、どこへ向かったのか。
その手がかりが、この支援団体の記録の中にあるかもしれなかった。
「復興支援ネットワーク・カラバル」
東條が、事務所の看板を見上げながら言った。
「表向きは、子供の保護と教育支援。だが、ナディアが拾った移送記録の一部が、この団体の名義で処理されている」
「保護の名義で、移送してるってこと?」
ナディアが、端末を確認しながら言った。
「そうだ」
東條が、頷いた。
「子供を保護すると言って集めて、その先で番号をつけて送る。表と裏が、同じ組織の中にある。白い学校と同じ構造だ」
アラタは、その看板を見上げた。
清潔な建物だった。ガラスの扉の向こうには明るい受付があり、子供の絵が飾られ、支援を訴えるポスターが貼られている。何も知らずに見れば、善意の団体にしか見えない。だが、その善意の看板の裏で子供が番号に変えられ、どこかへ送られている。
「入りますか」
ナディアが聞いた。
「いや」
アラタは、首を振った。
「正面からは、無理だ。あそこは、たぶん、僕たちが来るのを警戒してる。中に入った瞬間、記録は消される」
アラタは、その建物をじっと見つめた。焦る気持ちはあった。あの中に、名前のない子供たちの手がかりがあるかもしれない。だが、焦って踏み込めば、すべてを失う。それを彼は、もう学んでいた。
「別の道を、探そう」
彼は、静かに言った。
三人は、その事務所から少し離れたカフェのテラスに移動して、建物の様子をうかがうことにした。表通りに面したその建物には、人の出入りが少なくなかった。スーツを着た職員、支援物資を運ぶ作業員、そして時おり車で乗りつける身なりの良い人間たち。
「あの車」
ナディアが、小声で言った。
「ナンバー、政府のものです。復興庁の車両登録と一致します」
「復興庁」
東條が、その言葉を繰り返した。
「共和国資源復興庁。表向きは鉱山の復興と雇用の創出を担う政府機関だ。だが、その車が支援団体の事務所に出入りしている」
「繋がってる、ってことですね」
ナディアが言うと、東條は頷いた。
「政府機関と、支援団体と、その裏の移送。全部が一本の線で繋がってる。表の顔はそれぞれ別々だが、裏では同じ流れの中にいる」
アラタは、その車をじっと見ていた。
政府の車が支援団体に出入りしている。それだけなら、何もおかしくない。復興支援のために政府と団体が連携するのは当然のことだ。だが、その連携の裏で子供が番号に変えられ、送られている。表向きの正しさが、裏の仕組みを完璧に覆い隠していた。
「東條さん」
アラタが、言った。
「はい」
「僕は、こういう場所が、一番、苦手です」
アラタの声には、疲れが滲んでいた。
「戦場なら、まだわかる。誰が敵で、誰を守るのか。でも、こういう場所は、みんな笑ってる。みんな正しいことを言ってる。復興のため、子供たちのため、って。その笑顔の裏で、子供が消えていく。……どこに銃を向ければいいのか、わからない」
東條は、その言葉を静かに聞いていた。
彼もまた、同じことを感じていた。戦場を知る人間にとって、こういう場所は戦場よりもたちが悪い。敵が見えない。悪意が善意の顔をしている。銃で撃てる相手が、どこにもいない。
「アラタ君」
東條が、言った。
「はい」
「君は、それでいい」
東條の声は淡々としていたが、そこには不思議な重みがあった。
「銃を向ける場所がわからない。それが正常だ。ここは、そういう場所だ。銃で解決できる場所じゃない。だから、君のやり方で進めばいい。名前を探す。子供を連れ出す。それが君のやり方だ。それでいい」
アラタは、東條の横顔を見た。同じ日本人で、同じようにこの国の戦場にいる。だが、東條は軍人だった。アラタは、そうではなかった。その違いを、東條は責めるのではなく、むしろ認めていた。
「ありがとうございます」
アラタは、小さく言った。
*
夜になって、ココ隊とアラタ陣営は、首都の外れにある古い倉庫で合流した。
目立たない場所だった。廃業した運送会社の倉庫を、ココが伝手で一時的に借りたのだ。埃っぽく、がらんとした空間だったが、身を隠すには十分だった。
合流を待つ間、ヨナは倉庫の入口に立って、遠くの首都の夜景を見ていた。
高層ビルの灯りが、夜空を明るく染めている。その光は綺麗だった。だが、ヨナは、その光を綺麗だとは思えなかった。あの光の下で、子供が番号に変えられている。あの光を灯すための金の一部が、子供を売った金かもしれない。そう思うと、その光は、むしろ不気味に見えた。
「綺麗な街だな」
隣に来たサミルが、言った。
サミルは、偵察役として、今回、首都に同行していた。身軽で観察力が高く、こういう街に紛れ込むのが得意だった。
「ああ」
ヨナは、短く答えた。
「ヨナは、こういう街、慣れてるのか」
「慣れてない」
ヨナは、言った。
「戦場の方が、まだわかる。ここは、わからない。誰が敵か、わからない。みんな笑ってる。みんな、いい人みたいな顔してる。……その方が、怖い」
サミルは、その言葉に少しだけ黙った。
サミルにとって、ヨナは憧れの存在だった。戦場を生き抜き、そこから出てきた、少し年上の少年。強くて静かで、どこか遠くを見ている。そのヨナが、この街を怖いと言った。それは、サミルにとって意外だった。
「ヨナでも、怖いのか」
サミルが、聞いた。
「怖いさ」
ヨナは、あっさりと言った。
「怖くない奴なんて、いない。怖くないふりが、上手いだけだ」
その言葉は短かったが、サミルの胸に残った。強い人間は怖くないのではない。怖さを抱えたまま動けるだけだ。ヨナは、それを言葉ではなく、その背中で示していた。
二人は、しばらく無言で、首都の夜景を見ていた。その光の下に、名前のない子供たちがいる。それを、二人は知っていた。
やがて、車のライトが近づいてきた。ココたちが、戻ってきたのだ。
その夜、それぞれが集めた情報が持ち寄られた。
「兄と、会ったわ」
ココが、最初に言った。
「キャスパー・ヘクマティアル。私の兄。武器商人よ。バベル・ルートを、遠くから見てるって言ってた」
「味方、なんですか」
アラタが聞くと、ココは首を振った。
「味方じゃない。敵でもない。商人よ。使えるものを使う、それだけの人。今回は、私に関わるなって忠告してきた。バベル・ルートは大きすぎるから、敵に回すな、ってね」
「関わるな、と」
「そう」
ココは、少しだけ笑った。
「でも、私は関わる。兄さんは、私を止められない」
その言葉に、アラタはココの横顔を見た。彼女の笑みには、いつもの余裕の裏に静かな決意のようなものが滲んでいた。この人は本気でこの塔を壊すつもりなのだ。そう思うと、アラタの中に、また、あの引っかかりが戻ってきた。ココの「壊す」と自分の「連れ出す」は、本当に同じ方向を向いているのだろうか。
*
「それで、兄さんから、一つ、わかったことがある」
ココが、続けた。
「BABEL-00は、施設じゃない。管理の層そのものを指すコードなんだって。企業、政府、軍、情報機関に、少しずつ分散してる。だから、一つの建物を潰しても終わらない」
「分散してる……」
ナディアが、その言葉を繰り返した。
「それは、私が拾った通信とも合います。子供の識別信号が、いくつもの別の経路に分かれていました。一箇所に集まってるんじゃなくて、いくつもの場所に散らばってる」
「つまり」
東條が、言葉を継いだ。
「BABEL-00へ入るには、その分散した層のどこかに入口を見つけるしかない。建物を攻めるんじゃなくて、権限を手に入れる」
「権限」
アラタが、その言葉を噛みしめた。
「そう」
ココが、頷いた。
「BABEL-00の記録にアクセスするための権限コード。それがあれば、どこに子供が送られたのか、誰が管理してるのか、全部わかる。逆に言えば、それがなきゃ、何も見えない」
「その権限コードは、どこに」
アラタが聞くと、ココは少しだけ間を置いてから言った。
「首都の、上の方にあるでしょうね。政府か、企業か、情報機関か。表の顔をした、誰かの手の中に」
「じゃあ、その人を、探すんですね」
「そういうこと」
ココは、頷いた。だが、その表情には、まだ何か言い残したことがあるようだった。
「ただ、アラタ」
彼女は、続けた。
「一つ、言っておくわ。権限コードを手に入れたら、私たちはBABEL-00の記録を全部見られる。誰が子供を送ったのか。どの企業が金を出したのか。どの政府高官が噛んでるのか。全部よ」
「はい」
「その記録は、武器になる」
ココの声が、少しだけ低くなった。
「証拠として使えば、企業を、政府を追い詰められる。世界に、この塔の存在を突きつけられる。バベル・ルートそのものを崩せるかもしれない。……それが、私の狙いよ」
アラタは、その言葉を静かに聞いていた。
ココの狙いは、わかった。彼女は記録を証拠として使い、塔そのものを崩そうとしている。それは大きな戦い方だった。世界を動かす戦い方だった。
「でも」
アラタが、口を開いた。
「なに」
「その記録には、子供たちの、居場所も、書いてある。どこに、誰が送られたのか。それも書いてある。……ですよね」
「書いてあるでしょうね」
「じゃあ、僕は、それを、子供たちを連れ出すために使いたい」
アラタの声は静かだったが、はっきりしていた。
倉庫の中に、わずかな沈黙が落ちた。
ココとアラタの、狙いの違いが、その瞬間、はっきりと形になった。同じ記録を、ココは塔を崩す武器として使いたい。アラタは、子供を連れ出す地図として使いたい。どちらも間違っていない。だが、その二つは、同じ場所を目指しながら微妙に違う方向を向いていた。
「両方、できるでしょ」
ココが、言った。
「証拠にも使うし、地図にも使う。矛盾しないわ」
「今は、そうです」
アラタが、言った。
「でも、いつか、どっちかを選ばなきゃいけない時が来るかもしれない。記録を証拠として世界に出せば、たぶん敵は証拠隠滅のために子供を動かす。あるいは消す。だから、証拠を優先すれば、子供が危なくなる。……そういう時、ココさんは、どっちを選びますか」
ココは、アラタをじっと見た。
その問いは、鋭かった。そして、ココには、すぐには答えられなかった。証拠を優先するか、子供を優先するか。今はまだ、その選択は来ていない。だが、いつか必ず来る。その時、自分がどちらを選ぶのか、ココ自身にもはっきりとはわからなかった。
「……その時に、考えるわ」
ココは、そう言った。
「今、答えても、意味がない。状況次第よ」
「そうですね」
アラタは、頷いた。だが、その頷きには、どこか納得しきれないものが残っていた。ココの「その時に考える」という答えは、彼女らしい現実的な答えだった。だが、アラタにとっては、その「その時」こそが一番恐ろしかった。
二人の間に、薄い距離が生まれていた。
それは、対立ではなかった。むしろ、互いを尊重しているからこそ生まれる距離だった。二人は、それぞれの正しさを譲れなかった。そして、その正しさが微妙に違っていた。
その距離を、レームが静かに見ていた。
彼は、何も言わなかった。だが、長い戦場の経験が彼に告げていた。こういう小さな距離が、いつか大きな亀裂になる。今はまだ二人は同じ方向を向いている。だが、いつか道が分かれる時が来る。その予感を、レームは胸の奥に静かにしまい込んだ。
*
その夜、遅く。
倉庫の一角で、アラタは一人、名簿を開いていた。
救出された子供たちの名前が並んでいる。リアム。アイシャ。ラフィ。ノア。リナ。エミル。マリク。サラ。そして、まだ名前を思い出せない三人の、三つの空欄。
その空欄を、アラタはじっと見ていた。
四人を連れ出したことは、確かに前進だった。だが、施設で拾った他の子供の信号は、もっと奥へ送られていた。名前のない空欄は増えていく一方だった。埋めても埋めても、その先にまた新しい空欄が現れる。その終わりの見えなさが、彼の肩に重くのしかかっていた。
「まだ、起きてたのか」
声がした。
顔を上げると、ヨナが立っていた。
「うん」
アラタが、答えた。
「名簿、見てた」
「空欄か」
「うん」
ヨナは、アラタの隣に腰を下ろした。二人は、しばらく無言で、その名簿を見ていた。
「増えたな」
ヨナが、ぽつりと言った。
「うん」
「連れ出しても、増える」
「うん」
アラタは、頷いた。
「連れ出すたびに、その奥にもっといるってわかる。きりがない。……正直、少し怖くなる」
その言葉は、アラタが普段あまり口にしないものだった。彼はいつも、焦らない、無理をしない、一人ずつ、と自分に言い聞かせている。だが、その内側では、終わりの見えない道の重さに少しずつすり減っていた。
「アラタ」
「なに」
「全部は、救えない」
ヨナの声は短かったが、そこには冷たさではなく、むしろ静かな優しさがあった。
「わかってる」
アラタが、答えた。
「わかってて、やってるんだろ」
「うん」
「なら、それでいい」
ヨナは、それだけ言った。
アラタは、ヨナの横顔を見た。この少年もまた、かつて戦場に放り込まれ、そこから出てきた子供だった。全部は救えないという言葉を、ヨナは誰よりも重く知っている。その上で、それでいい、と言った。それは、諦めろという意味ではなかった。増えていく空欄に潰されるな、という意味だった。
「ありがとう」
アラタは、静かに言った。
ヨナは答えなかった。ただ、名簿の空欄をじっと見ていた。
*
翌日、アラタのもとに、一人の男が訪ねてきた。
倉庫の外に、身なりの良いスーツを着た男が立っていた。ココ隊の見張りが警戒して銃を構えたが、男は両手を軽く上げて敵意がないことを示した。
「アラタに、会いたい」
男は、穏やかに言った。
「ココの、兄だ。キャスパー・ヘクマティアルと言えばわかるだろう」
その名前を聞いて、アラタは倉庫から出てきた。ココの兄。武器商人。バベル・ルートを遠くから見ていると言った男。ココから話は聞いていた。
「僕に、何の用ですか」
アラタが聞くと、キャスパーは微笑んだ。
「話がしたい。少しだけ。妹には、内緒でね」
アラタは警戒した。だが、この男が何を考えているのか知っておくのも悪くないと思った。二人は、倉庫の脇の、日陰になった場所で向かい合った。
「単刀直入に言おう」
キャスパーは、言った。
「アラタ。あなたは、使える」
「僕を、使うつもりですか」
「そうだ」
キャスパーの答えは、迷いがなかった。
「あなたの情報整理能力。同時指揮能力。それに、その、イルミネーターという端末。あれは価値がある。僕の商売に、あなたは役立つ。だから、誘いに来た。僕のもとで働かないか。報酬は弾む」
アラタは、その申し出を静かに聞いていた。
「断ります」
彼は、即答した。
「即答だな」
「考えるまでも、ありません」
アラタの声は丁寧だったが、揺るがなかった。
「僕は、商品じゃありません。それに、僕の力は、子供を連れ出すために使うものです。あなたの商売のためじゃない」
キャスパーは、少しだけ笑った。その断り方は予想通りだった。むしろ、この男があっさりと誘いに乗るような人間なら、価値はなかった。
「知ってるよ」
彼は、言った。
「あなたが、そう言うことは、わかっていた。使えるものを使わない商売人はいない。だが、問題は、あなたが使われたがらないことだ。……当然だと言うだろう。あなたは、商品じゃないと」
「当然です」
「知ってる。だから、面倒なんだ」
キャスパーは、肩をすくめた。それから、少しだけ声を落とした。
「アラタ。一つ、忠告しておこう。断ったからには、聞くだけ聞いてくれ」
「なんですか」
「あなたと、妹は、一緒にいない方がいい」
キャスパーの言葉に、アラタはわずかに眉をひそめた。
「どういう意味ですか」
「あなたたちは、目指す場所が似ている。だが、そこへ向かう理由が違う。妹は塔を壊したい。あなたは子供を連れ出したい。今は、それが同じ方向に見えている。だが、いつか必ず分かれる。そして、その時――」
キャスパーは、そこで、一度、言葉を切った。
「その時、あなたたちは互いを傷つける。悪意じゃなくてね。ただ選ぶものが違うから。……妹を巻き込みたくないなら、早めに離れることだ。それが、僕の忠告だ」
アラタは、その言葉を静かに聞いていた。
それは、昨夜、倉庫の中で感じた、あの薄い距離と同じことを言っていた。ココと自分は、いつか、どちらかを選ばなければならない時が来る。キャスパーは、それを外から見抜いていた。
「忠告は、覚えておきます」
アラタは、言った。
「でも、離れません」
「なぜ」
「ココさんとは、まだ、話し合えるからです」
アラタの声は、静かだった。
「目指す理由が違っても、話し合えるうちは一緒にいられる。分かれる時が来たら、その時話し合えばいい。今から逃げるのは、違う気がします」
キャスパーは、その答えを聞いて、しばらくアラタを見ていた。
この青年は、面倒だった。損得で動かない。逃げるべき時に逃げない。だが、その面倒さの中に、何か妹が惹かれるものがあるのもわかった。ココは、こういう割り切れない人間を放っておけない性分だった。
「わかった」
キャスパーは、言った。
「もう、言わない。ただ、覚えておけ。分かれる時は、必ず来る。その時、後悔しないように、な」
彼は、そう言って背を向けた。
「それと、アラタ」
去り際に、キャスパーは、振り返らずに言った。
「あなたを誘ったことは、妹には言うなよ。あれは、こういう話を面白がるからな。厄介なんだ」
その言葉には、わずかな兄らしい響きがあった。アラタは、その背中を見送った。
*
同じ夜、首都の別の場所で、ブックマンは一枚の写真を見ていた。
薄暗い部屋の机の上に、数枚の写真が並んでいる。港湾都市サルマで撮られたもの、白い学校の周辺で撮られたもの、そして首都のホテルのラウンジで撮られたもの。そのすべてに、ココ・ヘクマティアルと、アラタの姿が写っていた。
「面白い組み合わせだ」
ブックマンは、静かに呟いた。
彼はCIAの人間だった。この国のバベル・ルートを、ずっと監視してきた。武器の流れも、資金の流れも、子供の流れも、彼の視界の中にあった。そして今、その視界の中に二人の新しい駒が現れていた。武器商人と、子供使い。
「ショコラーデ」
ブックマンが、声をかけた。
部屋の隅から、一人の女が進み出た。
「はい」
「あの二人、どこまで掴んでる」
「BABEL-00の存在までは、確実に。ただ、それが施設じゃなくてコードだってことは、たぶん今日、キャスパー・ヘクマティアルから聞いたばかりです」
「キャスパーが、動いてるのか」
「ええ。妹に、忠告したみたいですよ。関わるな、って」
ブックマンは、少しだけ笑った。
「関わるな、か。あの兄妹は、逆のことをするために生まれてきたようなものだな」
彼は、写真を指先で軽く叩いた。
「泳がせておけ。あの二人がBABEL-00の入口を見つけてくれるなら、それは我々にとっても好都合だ。潰すのは、その後でいい」
「潰す、というと」
「ルートじゃない」
ブックマンは、静かに言った。
「情報だ。バベル・ルートを潰すのは、我々の目的じゃない。あの網が誰と誰を繋いでいるのか、その記録を手に入れることが目的だ。潰すのは惜しい。使えるものは使う」
その言葉は、どこかキャスパーの言葉と似ていた。使えるものは使う。武器商人も情報機関も、この塔の前では同じ論理で動いていた。
「ただ、あの子供使いは、少し厄介だな」
ブックマンは、アラタの写真を手に取った。
「あの男は、情報のために動かない。子供のために動く。だから読めない。損得で動く人間は予測できる。だが、あの男は損得を無視する。……ああいう人間が、一番盤面を狂わせる」
ブックマンは、その写真をしばらく見つめていた。
「監視は、続けろ。特に、あの子供使いの動きを。あれは、いずれ国家にとって、少々危険な民間指揮官になる」
「危険、ですか」
ショコラーデが、聞いた。
「ああ」
ブックマンは、頷いた。
「今は、まだ、子供を数人、連れ出しているだけだ。可愛いものだ。だが、あの男はイルミネーターを手にした。あれで、多数の人間を同時に動かせるようになる。今は、それを子供を救うために使っている。だが、いつか別の誰かが、あの男に別の使い方を教えるかもしれない」
「別の使い方」
「戦争だ」
ブックマンの声は、静かだった。
「あの能力を戦争のために使えば、あの男は恐ろしい指揮官になる。少ない兵で大きな戦果を上げる。国家が喉から手が出るほど欲しがる能力だ。……そうなる前に、我々が押さえておきたい。あるいは潰しておきたい。どちらでも、いい」
ショコラーデは、その言葉に少しだけ口をつぐんだ。
子供を救おうとしている青年を、国家の道具にするか、あるいは潰すか。それが情報機関の論理だった。善意も悪意も、そこでは関係ない。ただ使えるか危険か、それだけで人間が測られていく。
「あの、スケアクロウが、言ってましたよ」
ショコラーデが、ぽつりと言った。
「なんと」
「今回の件は、笑えないって。ガキが、多すぎるって」
ブックマンは、少しだけ間を置いた。
「そうだな」
彼は、静かに言った。
「笑えないな。だが、笑えないからといって、我々の仕事が変わるわけじゃない。……それが、この仕事だ」
彼は、机の上の写真を一枚ずつ集めていった。ココ、アラタ、キャスパー、そしてエリザ。この街の上層で動く駒たちの顔。ブックマンは、その駒たちを遠くから静かに見ていた。
「泳がせろ」
彼は、繰り返した。
「まだ、動く時じゃない。あの二人が、塔の入口を見つけるまで待つ。……我々は、いつも最後に動く。それが、勝ち方だ」
*
そして、さらに別の場所で。
エリザ・クロウは、静かに次の一手を準備していた。
窓のない部屋に並んだ画面には、首都に入ったココ隊とアラタ陣営の動きが断片的に表示されている。ホテルのラウンジ。支援団体の事務所。首都外れの倉庫。彼女は、その動きを一つずつ追っていた。
エリザは、焦らなかった。
四人を失ったことは、彼女にとって小さな綻びに過ぎなかった。むしろ、あの青年が四人を連れて首都まで来たことは、彼女の予想通りだった。名前のない子供を追って、彼はどこまでも来る。その執着を、エリザは利用できると考えていた。
「アラタさん」
エリザは、画面の中の青年を見ながら小さく呟いた。
「あなたは、優しい。だから、利用しやすい」
彼女の声には、いつもの冷たさがあった。だがその奥には、あの潜入の夜に生まれた、あの小さな疑問がまだ静かに残っていた。なぜ、あの青年は止まらないのか。効率で考えれば割に合わず、数で見れば無意味なはずなのに。
エリザは、その疑問をいったん脇に置いた。
今は、次の一手を打つ時だった。
彼女は、二つの餌を用意していた。
一つは、ココへ。武器商人の彼女が、決して見過ごせないような、商売上の大きな利益。
もう一つは、アラタへ。子供使いの彼が、決して無視できないような、名前のない子供たちの手がかり。
二つの餌を、別々の場所に、別々の相手に差し出す。そうすれば、共に動いてきた二人は、別々の方向へ引き裂かれる。
「一緒にいる限り、あなたたちは、厄介です」
エリザは、静かに言った。
「でも、離れれば、それぞれは、ただの、一人です」
彼女の指が、画面の上を静かに動いた。
ココへの餌は、簡単だった。武器商人の彼女が決して見過ごせない、大きな商談。バベル・ルートの上層と繋がる企業契約の情報。それを、然るべき筋を通して、ココの耳に届くように流す。ココは商人だ。大きな利益の匂いを嗅ぎ取れば、必ずそちらへ動く。
アラタへの餌は、もっと簡単だった。名前のない子供たちの手がかり。C-330たちの、さらに奥へ送られた子供たちの居場所。それを、断片的にアラタの耳に届くように流す。アラタは子供使いだ。名前のない子供の匂いを嗅ぎ取れば、必ずそちらへ動く。
二つの餌は、別々の方向を指していた。
ココは商談のために企業側へ。アラタは子供のために施設側へ。二人がそれぞれの餌を追えば、共に動いてきた戦力は二つに割れる。割れた戦力は、それぞれ弱くなる。そこを突けばいい。
エリザは、その計画を頭の中で静かに組み立てていた。
暴力は使わない。強制もしない。ただ、それぞれが欲しがるものを、別々の場所に置いておく。あとは、彼らが自分の意思でそちらへ歩いていく。選んだのは自分たちだ。エリザは、ただ選択肢を用意しただけ。
それが、彼女のやり方だった。相手が動くのを待ち、相手が選ぶのを待つ。その選択肢そのものを、最初から用意しておく。
「選ぶのは、あなたたちです」
エリザは、画面に向かって呟いた。
「私は、ただ、道を、二つ、用意するだけ」
彼女は、指示を送信した。
二つの餌が、それぞれの筋を通って、ゆっくりとココとアラタのもとへ向かい始めた。
だが、送信を終えた後も、エリザはしばらく画面の前から動かなかった。
彼女の視界の隅に、あの青年の顔が映っていた。監視カメラが捉えた、アラタの疲れた横顔。名前のない子供の名簿を見つめる、あの静かな目。
なぜ、止まらないのか。
その疑問が、また彼女の中に戻ってきた。効率で考えれば割に合わない。数で見れば無意味だ。それなのに、あの青年は止まらない。一人ずつ、名前を返していく。まるで、それが世界で一番大切なことであるかのように。
エリザ自身は、名前を信じていなかった。
名前など、記号に過ぎない。番号と、何が違う。人間を管理するのに、名前だろうが番号だろうが同じことだ。彼女は、そう考えて生きてきた。それが、効率的で合理的な考え方だった。
だが、あの青年は、その記号のために命を懸ける。
わからなかった。エリザには、それがわからなかった。そして、わからないからこそ、彼女はあの青年から目を逸らせなかった。
「非効率です」
エリザは、また、そう呟いた。
だが、その言葉には、以前ほどの確信がなかった。前は断定だった。今は疑問に近かった。非効率で無意味なはずのその行為に、彼女の知らない何かがあるのかもしれない。その可能性を、彼女は否定しきれなくなっていた。
彼女は、画面を切り替えた。
映し出されたのは、あの男が進めている上層の準備だった。その全貌は、エリザにも見えなかった。だが、見えない準備が不吉なものであることだけは感じ取れた。四人を失ったことは、末端の小さな綻びに過ぎない。上層は動じるどころか、この機に何かを加速させようとしていた。
「塔は、まだ、高い」
エリザは、静かに言った。
彼女は、その塔の中腹にいた。上を見上げても頂は見えず、下を見下ろしても底は見えない。彼女は、ただ与えられた層を管理しているだけだった。なぜ自分がここにいるのか。その問いに、彼女はまだ答えを持っていなかった。
その塔を、あの青年が下から登ってくる。一段ずつ、一人ずつ、名前を返しながら。そして、武器商人の女もまた、別の道からその塔を崩そうとしている。
二人は、いつか、この上層で自分と再び会うだろう。
その時、自分が何を思うのか。エリザには、まだわからなかった。
部屋は、静かだった。画面の光だけが、闇の中で瞬いている。エリザは、その光の前で一人、じっと盤面を見つめていた。餌は、放たれた。あとは、彼らがどう動くか。塔の中腹で、静かに、次の局面が動き始めていた。