JORMUNGAND:マージナル・チルドレン 作:たこ焼き 龍月
餌は静かに届いた。
首都に入って三日目の朝、ココのもとに一つの情報がもたらされた。
彼女がかつて取引をしたことのある仲介人からの連絡だった。表向きはただの近況伺いだったが、その会話の端々にある情報がさりげなく混じっていた。
バベル・ルート上層と繋がる大型の企業契約。
その契約にHCLIが食い込む余地があるという話だった。もし契約を掴めれば、バベル・ルートの資金の流れそのものにアクセスできる。上層の記録に近づけるだけでなく、莫大な利益も手に入る。
ココはその話を静かに聞いていた。
仲介人はあくまで世間話のように話していたが、ココにはわかっていた。これは餌だ。誰かが自分に、この情報を届けようとしている。あまりに都合が良すぎた。欲しいものが向こうから歩いてくる。そんな話はこの世界にはない。
だが、餌だとわかっていても、その中身は本物かもしれなかった。上層の記録へのアクセスは、この塔を崩すためにココが喉から手が出るほど欲しいものだった。餌だとわかっていても無視できない。それが餌の恐ろしさだった。
「面白いわね」
ココは電話を切ってから小さく呟いた。
「誰が撒いたのかしら。この餌」
*
同じ頃、アラタのもとにも一つの情報が届いていた。
ナディアが施設で拾った通信の解析を進める中で、新しい断片を見つけたのだ。それは、あまりにも都合よく見つかった。
「アラタ」
ナディアが端末を見ながら言った。
「これ、見てください」
アラタが端末を覗き込んだ。
そこには子供の識別信号の移送記録が表示されていた。四人を救出した施設から、さらに奥へ送られた子供たち。その行き先が断片的に記録されていた。
「首都の北。工業地区の外れ」
ナディアが言った。
「そこに識別信号が集まってます。たぶん子供たちが、そこにいる。奥へ送られた子供たちが」
アラタの背筋が緊張した。
名前のない子供たちの居場所が、目の前に示されていた。ずっと追ってきた空欄が、そこにいるかもしれない。
だが、アラタはすぐには動かなかった。
「ナディア」
彼は言った。
「なに」
「この記録、都合が良すぎない?」
アラタの声には警戒が滲んでいた。
ずっと、名前のない子供たちの行き先は掴めなかった。表の名簿にも裏の名簿にも出てこなかった。それが今、こんなにあっさりと見つかった。あまりにタイミングが良すぎた。
「……確かに」
ナディアも、その違和感に気づいていた。
「見つかりすぎです。今まで、あんなに掴めなかったのに」
「餌かもしれない」
アラタは言った。
「僕を、そこへ誘い込むための。……でも」
彼はそこで言葉を切った。
餌かもしれないことは、わかっていた。だが、もし本物だったら。もし、そこに本当に子供たちがいたら。餌だからと無視して、その子供たちを見捨てることができるだろうか。
できなかった。
アラタには、それができなかった。餌だとわかっていても、そこに子供がいる可能性がある限り、彼は動かずにはいられなかった。それが彼の性分であり、その性分こそが餌を撒いた者の狙いだった。
*
その夜、倉庫で二つの情報が突き合わされた。
ココは企業契約の話を、アラタは子供たちの居場所の話を、それぞれ自分の掴んだ情報をテーブルの上に並べた。
そして、すぐに二人は気づいた。
「二つとも餌ね」
ココが言った。
「同じタイミングで二つ。私には商売の餌。あなたには子供の餌。……誰かが私たちを引き離そうとしてる」
「エリザ・クロウ」
アラタがその名前を口にした。
「たぶんね」
ココは頷いた。
「あの女らしいやり方よ。暴力じゃない。強制でもない。ただ私たちが欲しがるものを別々の場所に置く。あとは私たちが勝手にそっちへ歩いていく。選ぶのは私たち。責任も私たち。上手いわ」
倉庫の中に沈黙が落ちた。
餌だとわかっていた。二つとも罠だとわかっていた。だが、わかっていても無視できないのが餌だった。ココは上層の記録が欲しい。アラタは子供を救いたい。その欲しいものが、それぞれ別々の場所に置かれていた。
「どうする」
レームが聞いた。
「無視、できるか」
ココは少し考えた。
「無視はできないわね」
彼女は正直に言った。
「企業契約の話が本物なら、上層の記録に近づける。この塔を崩すために必要よ。餌だとわかってても、確かめる価値はある」
「僕も、同じです」
アラタが言った。
「子供の居場所が本物なら、連れ出さなきゃいけない。餌だとしても、そこに子供がいる可能性がある限り、確かめないわけにはいかない」
二人の言葉は、それぞれ正しかった。
そして、その正しさが二人を別々の方向へ引き離そうとしていた。ココは企業契約のために首都の中心へ。アラタは子供のために工業地区の外れへ。二つの場所は離れていて、同時に両方を追うことはできなかった。
*
「分かれる、ってことか」
ヨナが静かに言った。
その一言が、倉庫の空気を重くした。
分かれる。それは共闘の終わりを意味した。今まで、ココ隊とアラタ陣営は信用しないまま、それでも同じ方向を向いて動いてきた。だが二つの餌は、その方向を二つに割ろうとしていた。
「戦力を分けることになる」
レームが言った。
「二手に分かれれば、それぞれが弱くなる。敵の狙いはそこだ。分けて弱くして叩く。……危険だ」
「わかってる」
ココが言った。
「でも分けなきゃ、両方の餌を確かめられない。片方を捨てれば片方の情報を失う。難しいところね」
アラタは黙って考えていた。
彼の中では答えは、ほとんど決まっていた。子供の居場所を確かめないという選択は、彼にはなかった。餌だろうと罠だろうと、そこに子供がいる可能性がある限り、彼は行く。それは変わらなかった。
だが、そのことを口にするのがためらわれた。それを言えば共闘が割れる。ココと別の方向へ進むことになる。それは、キャスパーが忠告していたことだった。分かれる時は必ず来る、と。その時が思ったより早く来ていた。
「ココさん」
アラタが口を開いた。
「なに」
「僕は、子供の居場所を確かめに行きます」
彼の声は静かだったが、揺るがなかった。
「餌だとしても行きます。そこに子供がいるかもしれない。それを確かめないで見捨てることは、僕にはできません」
ココはアラタをじっと見た。
その答えは予想通りだった。アラタはそういう人間だった。子供のためなら、罠だとわかっていても飛び込む。それが彼の強さであり、弱さだった。
「わかった」
ココは言った。
「私は企業契約の方を追う。あなたは子供の方を追う。分かれましょう」
その言葉が、共闘の一時的な終わりを告げた。
*
だが、分かれると決めた後も二人はすぐには動かなかった。
倉庫の中に、まだ話し合うべきことが残っていた。分かれるといっても完全に切り離すわけにはいかない。互いの動きを知らないまま別々に動けば、それこそ敵の思う壺だった。
「連絡は取り続けましょう」
ココが言った。
「分かれても通信は繋いでおく。何かあれば、すぐ知らせる。片方が危なくなったら、もう片方が助けに行く。完全に切り離すわけじゃない」
「はい」
アラタが頷いた。
「それと戦力の分配ね」
ココは続けた。
「あなたの方は救出だから、ヨナと東條をつける。工業地区の偵察にはサミルもいた方がいい。ナディアは通信と解析であなたのそばに。私の方はバルメとレームで十分よ。企業相手なら戦闘は少ないでしょうから」
その分配は合理的だった。救出には戦力と経験が必要だから、ヨナと東條をアラタにつける。企業との交渉にはそこまでの戦力はいらないから、ココは最小限の護衛で動く。
アラタは、その分配を聞いていた。
ココは自分の側の戦力を削ってでも、アラタの救出を支えようとしていた。分かれると言いながら、彼女はアラタの子供たちのことを切り捨ててはいなかった。その気遣いに、アラタは静かに感謝した。
「ありがとうございます」
彼は言った。
「ヨナと東條さんを貸してもらえるのは助かります」
「貸すんじゃないわ」
ココは少しだけ笑った。
「一緒に戦うのよ。方向は分かれても。敵は同じでしょう」
*
ヨナは、その決定を複雑な思いで聞いていた。
アラタについて救出に行く。それはいい。子供を連れ出すのは意味のある仕事だ。だが、ヨナの中には別の引っかかりがあった。
ココと離れる。
ヨナは、武器商人であるココを憎んでいた。それは変わらない。だが憎みながらも、ずっとそのそばにいた。ココのそばにいることで、ヨナは自分の中の何かと折り合いをつけていた。そのココと離れることは、ヨナにとって思ったより大きなことだった。
「ヨナ」
ココが声をかけた。
「なんだ」
「アラタを頼むわ」
ココの声は、いつになく真剣だった。
「あの子は危ない。子供のためなら自分をすり減らす。イルミネーターを使って無理をする。止められるのはあなたよ。あなたと、ジブリール。あなたがそばで見てて。あの子が壊れないように」
ヨナは、その言葉を静かに聞いていた。
ココはアラタの危うさを見抜いていて、それを止められるのがヨナだとわかっていた。だからヨナをアラタにつけた。それは戦力の分配であると同時に、ココの、アラタへの気遣いでもあった。
「わかった」
ヨナは短く答えた。
「見てる。あいつが壊れないように」
「頼んだわ」
ココはそう言って、少しだけ笑った。
その笑みには、いつもの余裕があった。だが、その奥にヨナはかすかな寂しさのようなものを感じ取った。ココもまた、ヨナと離れることを何とも思っていないわけではなかったのかもしれない。それを、ヨナは口にはしなかった。
*
翌朝、二つの隊は別々の方向へ出発した。
ココ、バルメ、レームは首都の中心へ。企業契約の話を確かめるために。アラタ、ヨナ、東條、サミル、ナディアは工業地区の外れへ。子供たちの居場所を確かめるために。
出発の前、ココとアラタは短く言葉を交わした。
「気をつけて」
ココが言った。
「ココさんも」
アラタが答えた。
それだけだった。多くは語らなかったが、その短いやり取りには互いへの信頼のようなものが滲んでいた。分かれても敵は同じ。方向は違っても目指す場所は近い。二人はそれを確かめ合うように頷いた。
「また、後で」
ココはそう言って、車に乗り込んだ。
その言葉は軽かった。だが、アラタにはその「また、後で」が、どこか確かめるような響きに聞こえた。分かれた二人が無事にまた会えるかどうかは、まだわからなかった。
二台の車が、別々の方向へ走り出した。
アラタは、遠ざかっていくココの車をしばらく見ていた。キャスパーの言葉が頭をよぎった。分かれる時は必ず来る。その時、後悔しないように。今、その時が来ていた。まだ完全な分裂ではなかったが、確かに二人の道は初めて別々の方向を向いていた。
「行きましょう」
東條が静かに言った。
「はい」
アラタは頷き、ココの車から目を離した。彼の車もまた、工業地区の方向へ走り出した。
*
工業地区へ向かう車の中で、ナディアが端末を確認していた。
彼女は餌かもしれない情報を慎重に検証していた。もし罠なら、どこに仕掛けられているのか。それを事前に見抜いておきたかった。
「アラタ」
ナディアが言った。
「なに」
「この識別信号なんですが」
彼女の声が、少しだけ硬くなった。
「変な点があります。信号のパターンが。本物の子供の信号と、少しだけ違う気がするんです」
「違う?」
「うまく言えないんですけど。本物の信号なら、もっとばらつきがあるはずなんです。子供は動くから。でもこの信号は規則的すぎる。まるで誰かが、わざと置いたみたいに」
アラタは、その言葉に眉をひそめた。
「罠、ってこと?」
「わかりません」
ナディアは正直に言った。
「ただ違和感があります。本物かもしれないし、偽物かもしれない。確証はないです」
アラタは、しばらく考えた。
ナディアの違和感は無視できなかった。彼女の解析はいつも正確だった。もし、この信号が罠なら、工業地区の外れには子供ではなく敵が待ち構えているかもしれない。
だが、それでも。
もし本物なら。もし、そこに子供がいたら。違和感があるからと引き返すことは、アラタにはできなかった。
「行くしかないな」
アラタは言った。
「ただ、慎重に行こう。ナディアの違和感を忘れないで。何かあったら、すぐ引き返す。順番を守る。焦らない」
「はい」
ナディアは頷いた。
「東條さん」
アラタが言った。
「はい」
「偵察を先に。サミルと一緒に工業地区の様子を確かめてください。子供が本当にいるのか、それとも敵が待ってるのか。確かめてから動きます」
「わかりました」
東條が答えた。
アラタは焦らなかった。餌かもしれない以上、飛び込むのは危険だった。まず確かめてから動く。前回の潜入で学んだその順番を、彼は守ろうとしていた。
だが、その車の中でヨナだけは別のことを考えていた。
彼は窓の外を見ていた。工業地区が近づいてくる。灰色の工場が立ち並び、煙突から煙が昇っている。人気の少ない殺伐とした場所だった。ヨナは、その景色に嫌な予感を覚えていた。
こういう場所は、待ち伏せに向いている。
もし罠なら、ここは格好の狩り場だった。ヨナはその予感を口にはしなかったが、彼の手はいつでも動けるように、静かに身構えていた。
「ヨナ」
隣で、サミルが小声で言った。
「なんだ」
「怖い?」
その問いに、ヨナは少しだけ間を置いた。
「怖い」
彼は答えた。
「こういう場所は、特にな。何が待ってるかわからない。だから油断はするな。目を開けとけ」
サミルは頷いた。
彼は偵察役として、今回、東條と組んで工業地区の様子を確かめる役目だった。危険な役目だったが、サミルはそれを引き受けていた。ヨナのように強くなりたい。その憧れが彼を危険な役目へと向かわせていた。
「サミル」
ヨナが言った。
「なに」
「無理はするな」
ヨナの声は短かったが、そこには確かな気遣いがあった。
「偵察は確かめるだけだ。戦うんじゃない。危なくなったら、すぐ引け。お前が無事に戻ってくることの方が大事だ」
サミルは、その言葉に少しだけ驚いた。
ヨナはいつも言葉が少ない。その少ない言葉で、サミルの無事を気遣っていた。それは、サミルにとって憧れのヨナからの何よりの言葉だった。
「わかった」
サミルは頷いた。
「無理はしない。ヨナに心配かけないように」
ヨナは答えなかった。ただ窓の外を見ていた。だが、その横顔はわずかに和らいでいた。
やがて車は、工業地区の手前で止まった。ここから先は、東條とサミルが偵察に出る。その二人の背中を、ヨナは静かに見送った。無事に戻ってこい。その言葉を、彼は胸の中で繰り返した。
*
一方、首都の中心へ向かったココは、指定された高級ホテルへ向かっていた。
企業契約の話を確かめるための会合だった。仲介人を通じて、ある企業の代表と会うことになっていた。バベル・ルート上層と繋がっているとされる企業の代表と。
「罠だとわかってて行くのか」
車の中で、バルメが聞いた。
「行くわ」
ココは、あっさりと言った。
「罠でも、本物の情報が混じってるかもしれない。それを見極める。それに」
彼女は少しだけ笑った。
「相手が罠を仕掛けてきたってことは、相手も私を警戒してるってこと。警戒されてるうちは、こっちにも価値がある。餌を撒かれてるうちは、まだ盤面の上にいるってことよ」
バルメは、その言い方に少しだけ呆れた。
ココは罠だとわかっていて、その罠を楽しんでいた。危険を面白がっていた。それがこの女の危うさだった。バルメは何度も、その危うさにひやりとさせられてきた。
「レーム」
ココが言った。
「なんだ」
「あなたは外で待ってて。何かあったら、すぐ動けるように」
「わかった」
レームが頷いた。
「ただ、ココ」
彼は続けた。
「無理はするな。今回はアラタたちがいない。戦力が少ない。いつもの無茶は通じないぞ」
「わかってるわ」
ココは笑った。
「今日は大人しくしてる。……たぶん」
その「たぶん」に、レームは小さくため息をついた。この女の「たぶん」ほど当てにならないものはなかった。
車が、ホテルの前に着いた。
ガラス張りの立派なホテルだった。その中に罠が待っている。だが、その罠の奥に、この塔を崩すための鍵があるかもしれない。ココはその可能性に賭けていた。
「行きましょう」
彼女はそう言って、車を降りた。
*
ホテルの最上階のスイートで、その会合は行われた。
部屋に入ると、一人の男が待っていた。仕立ての良いスーツを着た初老の男で、穏やかな笑みを浮かべ、まるで旧知の友を迎えるかのようにココを迎えた。
「ようこそ、ヘクマティアルさん」
男は言った。
「お会いできて光栄です。あなたの噂は、かねがね」
「そう」
ココは微笑んだ。だが、その目は笑っていなかった。彼女は、この男が何者なのか、まだ掴めずにいた。仲介人からは、ある企業の代表だと聞いていたが、この男の物腰には企業家というより、もっと別の何かがあった。
「単刀直入に伺うわ」
ココは、ソファに腰を下ろしながら言った。
「あなたは誰。仲介人からは企業の代表だと聞いたけど、それだけじゃないでしょう」
男は少しだけ笑った。
「察しが良い」
彼は言った。
「おっしゃる通り、私はただの企業家ではありません。いくつかの企業を束ねている。そして、その企業は政府とも繋がっている。つまり私は、この街の上層の一部です」
「バベル・ルートの上層」
ココが言うと、男は否定しなかった。
「そういう呼び方もあるようですね」
彼は穏やかに言った。
「私たちは、それをそう呼びません。私たちにとって、それはただの物流網です。復興のための資源と人員を、効率的に動かすための仕組み。それを外の人間が勝手にバベル・ルートと呼んでいるだけです」
ココは、その言い方を静かに聞いていた。
効率的に動かすための仕組み。人員を。その「人員」の中に、番号をつけられた子供たちが含まれている。この男はそれを知っていて、こう言っている。悪びれもせず、当然のように。
「その仕組みに」
ココが言った。
「子供が含まれてるわね」
男の笑みは崩れなかった。
「含まれています」
彼は、あっさりと認めた。
「子供は貴重な資源です。従順で、訓練しやすく、コストが低い。戦場でも労働でも役に立つ。非情に聞こえますか。ですが、これは事実です。この国の復興には、そういう資源が必要なのです」
ココは、その言葉に内心で冷たいものを感じた。
この男はキャスパーと同じことを言っていた。子供は商品だ、と。だが、キャスパーはそれを正直に口にしていた。この男は、それを復興という綺麗な言葉で包んでいた。子供を資源と呼び、それを正義のように語っていた。そちらの方が、はるかにたちが悪かった。
「それで」
ココは感情を押し殺して言った。
「私に何を売りたいの。企業契約って聞いたけど」
「単純な話です」
男は言った。
「あなたに、この物流網の一部に加わっていただきたい。あなたは優秀な武器商人だ。あなたが加われば、この網はもっと効率的になる。そして、あなたは莫大な利益を得られる。悪い話ではないでしょう」
ココは、その提案を聞いていた。
これが餌だった。上層の物流網に加わる。それは確かに莫大な利益を生む。そして内側から、この網の記録にアクセスできる。塔を崩すための鍵に近づける。
だが、その代償に彼女は、子供を運ぶ網の一部になる。
「なるほどね」
ココは静かに言った。
「上手い餌だわ。私を内側に引き込む。内側に入れば記録が見える。でも内側に入った時点で、私も共犯になる。そういう罠ね」
男の笑みが、わずかに動いた。
「罠だなんて、人聞きの悪い」
「じゃあ、何て呼べばいいの」
「機会、です」
男は言った。
「あなたにとっての機会。そして私たちにとっての機会。互いに利益のある取引です。あなたは賢い人だ。この機会の価値がわかるはずです」
ココは、しばらく黙っていた。
男の言う通り、この機会の価値はわかっていた。内側に入れば記録が見える。塔を崩すための情報が手に入る。それは彼女が欲しいものだった。餌だとわかっていても無視できない、その価値が確かにそこにはあった。
だが、内側に入れば子供を運ぶ網の一部になる。それはアラタが最も嫌うことだった。そして最近では、ココ自身もそれを嫌うようになっていた。
「考えさせて」
ココは言った。
「即答はできないわ。大きな話だもの」
「もちろん」
男は頷いた。
「ゆっくりお考えください。ただ、この機会は長くは待ちません。賢明な判断を期待しています」
ココは立ち上がった。
この会合でわかったことはあった。バベル・ルートの上層が、どういう論理で動いているのか。子供を資源と呼び、復興という言葉で包む。その綺麗な顔をした非情さを、彼女はこの目で見た。
だが、同時に彼女は選択を突きつけられていた。内側に入るか、入らないか。記録を取るか、共犯を拒むか。その選択を、アラタのいない場所で一人で迫られていた。
「また連絡するわ」
ココはそう言って、部屋を出た。
*
ホテルの外で、レームが待っていた。
「どうだった」
レームが聞いた。
「餌だったわ」
ココは言った。
「上手い餌。内側に引き込もうとしてきた。内側に入れば記録が見える。でも入った時点で、私も子供を運ぶ側になる。嫌な選択よ」
「断るのか」
「わからない」
ココは正直に言った。
それは彼女らしくない答えだった。いつもなら彼女は即座に判断する。だが今回は迷っていた。記録が欲しい。だが共犯にはなりたくない。その二つが、彼女の中で対立していた。
「昔のお前なら」
レームが言った。
「迷わなかった。利益があるなら取る。子供のことなんて気にしなかった。……変わったな、ココ」
「そうね」
ココは少しだけ笑った。
「変わったのかも。アラタのせいよ、たぶん」
彼女は遠くの空を見た。工業地区の方向だった。今頃アラタは、あの方向で別の罠と向き合っている。彼もまた選びたくない選択を迫られているのだろう。二人は分かれ、それぞれの場所で同じような答えのない問いと向き合っていた。
「アラタたちは大丈夫かしら」
ココが、ぽつりと言った。
「さあな」
レームが答えた。
「あいつも、あいつで罠の中だろう。お互い様だ」
ココは、その言葉に小さく頷いた。分かれるとは、こういうことだった。互いの状況が見えなくなり、互いを助けられなくなる。そして、それぞれが一人で選択を迫られる。それがエリザの狙いだった。
「通信、繋いで」
ココが言った。
「アラタの様子を確かめる。分かれても繋がっておくって約束したもの」
*
その頃、エリザ・クロウは二つの盤面を同時に見ていた。
窓のない部屋の画面には、二つの映像が映し出されていた。一つは首都の中心。ココがホテルへ入っていく映像。もう一つは工業地区の外れ。アラタの車が近づいていく映像。
二つの餌は、狙い通りに機能していた。
共に動いてきた二人が別々の方向へ割れた。ココは商談へ、アラタは救出へ。戦力は二つに分かれ、それぞれ弱くなった。あとは、そこを突けばいい。
「予想通りです」
エリザは静かに呟いた。
だが、その声には勝利の響きはなかった。むしろ、どこか静かな疑問が混じっていた。
二人は、餌だと気づいていた。それはエリザにもわかっていた。ココもアラタも、罠だと知りながらそれでも動いた。ココは情報のために。アラタは子供のために。餌だと知りながら動くというのは、愚かに見えた。
だが、エリザには、その愚かさが少しだけ理解できなかった。自分なら餌だとわかれば動かない。損得を計算して、割に合わなければ引く。それが合理的だった。だが、あの二人は餌だとわかっていて動いた。まるで罠に飛び込むことを恐れていないかのように。
「なぜ動くのですか」
エリザは、画面に向かって呟いた。
答えは返ってこなかった。当然だった。彼女はただ一人、闇の中で画面を見ているだけだった。
彼女の指が、次の指示を打ち込もうとして止まった。
工業地区の映像の中に、アラタの車が映っている。その車の中に、あの青年がいる。名前のない子供を追って、罠だとわかっている場所へ向かっている。
なぜ止まらないのか。
その問いが、また彼女の中に戻ってきた。そして今度は、それにもう一つの問いが重なった。
自分は、なぜ止まらないのか。
名前を奪い、番号を積み上げ、子供を数で数える。この塔の歯車として、エリザはその一部だった。それを理解していながら、それでも彼女はここにいた。あの青年がなぜ止まらないのかわからず、自分がなぜここにいるのかもわからない。二つの「わからない」が、彼女の中で静かに対峙していた。
エリザは、指を動かした。
次の指示を送信した。工業地区に待機している部隊への指示だった。アラタの隊が罠の中心に入ったら包囲する。逃さない。分かれて弱くなった、その戦力をそこで叩く。
それが、彼女の仕事だった。
送信を終えた後も、エリザはしばらく画面の前から動かなかった。
あの青年はこれから罠の中に入っていく。子供を救おうとして包囲される。そして、たぶんそれでも止まらない。壊れそうになりながら、それでも名前を返そうとする。
「非効率です」
エリザは、また、そう呟いた。
だが、その言葉はもう確信ではなかった。それは疑問であり、そして、どこか羨望にも似ていた。効率で割り切れない何かを、あの青年は持っている。エリザの持っていない何かを。
画面の光が、彼女の顔を青白く照らしていた。
塔は、まだ高い。夜は、まだ深い。その中腹で、エリザは一人、二つの盤面を見つめていた。餌は機能した。二人は割れた。あとは、それを叩くだけ。すべては彼女の計画通りに進んでいた。
それなのに、彼女の胸には勝利の感触はなかった。ただ、あの青年の疲れた横顔だけが、いつまでも彼女の視界の隅に残っていた。
*
工業地区の外れで、アラタの車が止まった。
偵察に出た東條とサミルが戻ってくるのを待つためだった。子供が本当にいるのか、それとも敵が待っているのか。それを確かめてから動く。アラタは、その順番を守っていた。
やがて、東條とサミルが戻ってきた。
二人の表情を見て、アラタはすぐに悟った。良い知らせではなかった。
「どうでした」
アラタが聞いた。
「子供はいました」
東條が言った。
「その指定された建物の中に。識別信号の通り。四、五人ほど確認できました」
「本当ですか」
アラタの表情が動いた。子供がいる。餌だと思っていた場所に、本当に子供がいた。
「ただ」
東條が続けた。その声は重かった。
「周囲に部隊がいました。かなりの数です。建物を囲むように配置されてる。あれは待ち伏せです」
アラタの表情がこわばった。
子供はいた。だが、その子供を餌にして敵が待ち構えていた。子供を助けに入れば包囲される。子供を見捨てれば包囲は避けられる。だが、それはアラタにはできない。
敵は、それをわかっていた。
アラタが子供を見捨てられないことをわかっていて、子供を餌にした。子供がいる限りアラタは来る。来れば包囲する。完璧な罠だった。
「……そういうことか」
アラタは静かに呟いた。
彼は拳を握った。子供を救いたい。だが、そこには罠が待っている。救おうとすれば自分たちが危険にさらされる。見捨てれば子供が失われる。どちらも選べず、どちらを選んでも何かを失う。
エリザ・クロウのやり方だった。
暴力ではなく選択肢で追い詰める。救うか退くか。子供か自分たちか。その選びたくない選択をアラタに突きつける。それが、彼女の戦い方だった。
「アラタ」
ヨナが言った。
「なに」
「どうする」
ヨナの声は短かったが、その問いは重かった。
アラタは答えられなかった。子供を救いたい。だが、包囲された場所へ飛び込めば、こちらが全滅するかもしれない。ヨナも東條もサミルもナディアも危険にさらされる。子供を救うために仲間を危険にさらすことが、正しいのかどうか。
わからなかった。
目の前に救いたい子供がいる。だが、その子供を救うことが別の誰かを危険にする。名前のない子供のために、名前のある仲間を危険にさらす。その天秤を、アラタはどちらにも傾けられなかった。
彼は、じっとその灰色の工業地区を見ていた。
その、どこかの建物の中に名前のない子供がいる。会ったこともない、四つか五つの空欄が。そして、その周りに敵が待っている。
アラタは、深く息を吸った。
どうする。彼は自分に問うた。焦るな、無理をするな、順番を守れ。いつもの言葉が頭の中を巡った。だが、その言葉は今、彼を助けてくれなかった。子供がいる。罠がある。その二つを前にして、彼は動けずにいた。
「アラタ」
東條が言った。
「はい」
「一つ、言っておきます」
東條の声は静かだったが、はっきりしていた。
「あの部隊の数を正面から相手にするのは無理です。今の戦力では勝てません。もし突っ込めば、子供を助けるどころか全員やられます。それは避けなければいけない」
アラタは、その言葉を聞いていた。
東條は軍人だった。その判断は正確だった。この戦力では、あの包囲を突破できない。子供を助けようとすれば全員が失われる。それは東條が、感情ではなく経験から下した判断だった。
「わかってます」
アラタは言った。
わかっていた。だが、わかっていても子供を見捨てるという選択は、彼の中になかった。頭では東條の言う通りだと理解していても、心がそれを受け入れられなかった。
「でも、東條さん」
アラタが続けた。
「あの子たちを見捨てて帰るっていうのは、僕にはできません」
「わかっています」
東條は頷いた。
「だから正面からは行きません。別の方法を考えましょう」
その言葉に、アラタは顔を上げた。
「別の方法?」
「そうです」
東條は静かに言った。
「敵は、私たちが正面から突っ込んでくると思っている。だから包囲している。あなたが子供のために無理をすると読んでいる。ならば、その読みを外せばいい」
「読みを外す」
「一度、引くんです」
東條は言った。
「今日は引く。子供がそこにいることはわかった。でも今は無理だ。だから引いて態勢を立て直す。ココさんたちと合流して戦力を揃えて、それからもう一度来る。子供を見捨てるんじゃない。順番を変えるだけです」
アラタは、その言葉を静かに聞いていた。
引く。子供をその場に残して。それは辛い選択だった。今、そこに子供がいる。それを見捨てるように引く。だが、東條の言うことは正しかった。今、無理をすれば全員が失われる。子供も助けられない。ならば一度引いて態勢を立て直し、もう一度来る。それが子供を本当に助けるための道だった。
「……順番を守る」
アラタは、その言葉を噛みしめた。
「そうです」
東條が頷いた。
「焦れば失敗する。無理をすれば誰かを失う。それは、あなたが一番よく知っているはずです」
アラタは拳を握った。それから、ゆっくりと開いた。
引く。それが今日の答えだった。子供を見捨てるのではなく、順番を変える。もう一度来るために、今は引く。辛い選択だったが、それが正しかった。
「引きましょう」
アラタは言った。
「今日は引く。でも必ず戻ってくる。あの子たちを迎えに」
その時、通信機が鳴った。
「アラタ」
ココの声だった。
「ココさん」
「そっち、どう。罠だった?」
「はい」
アラタは答えた。
「子供はいました。でも周りを部隊が囲んでる。待ち伏せです。今の戦力じゃ無理です。一度引くことにしました」
通信の向こうで、ココが少しだけ間を置いた。
「そう」
彼女は言った。
「賢明ね。無理しないのが正解よ。こっちも餌だったわ。上層に引き込もうとしてきた。内側に入れば記録が見える。でも共犯になる。嫌な選択」
「ココさんは、どうするんですか」
アラタが聞くと、ココは少しだけ笑ったようだった。
「まだ決めてない。でも、たぶん断るわ」
「断る?」
「共犯にはならない」
ココの声は静かだった。
「昔の私なら取ってたでしょうね。利益があるなら取る。でも今は取れない。あなたのせいよ、アラタ。あなたと会って、私、面倒な女になったの」
アラタは、その言葉に少しだけ驚いた。
ココが共犯を断る。記録を諦めてでも。それは彼女らしくない選択だった。利益と情報を何よりも優先してきた彼女が、今それを拒もうとしている。
「ごめんなさい」
アラタは言った。
「なんで謝るのよ」
ココが聞いた。
「僕のせいで、ココさんが利益を諦めるなら」
「馬鹿ね」
ココは少しだけ笑った。
「諦めるんじゃない。選ぶのよ。私が選ぶの。あなたのせいじゃない。それに、記録なら別の方法で手に入れる。共犯にならなくても道はある。それを探すだけよ」
その言葉に、アラタは静かに頷いた。
分かれた二人は、それぞれ別の罠と向き合い、それぞれ同じような答えにたどり着いていた。無理はしない。共犯にはならない。順番を守る。別の道を探す。方向は分かれても、二人の選ぶものはどこか似ていた。
「合流しましょう」
ココが言った。
「一度、態勢を立て直す。それから、もう一度考える。子供のことも記録のことも。分かれたけど、敵は同じでしょう」
「はい」
アラタは答えた。
「合流、しましょう」
通信が切れた。
アラタは通信機をしまいながら、遠くの首都の方向を見た。あの灯りの下にココがいる。分かれても繋がっていた。分かれた場所で、それぞれが同じような選択をして、そしてまた合流しようとしている。
共闘は揺らいだ。だが、切れてはいなかった。
エリザの餌は、二人を分けることには成功した。だが、二人を引き裂くことには失敗していた。分かれても二人は通信で繋がり、同じような答えにたどり着き、また合流しようとしていた。それは、エリザの計算になかったことだった。
*
その様子を、エリザは画面越しに見ていた。
二人の通信は傍受されていた。ココとアラタの会話。分かれた二人が、それぞれ罠を見抜き、無理をせず、そしてまた合流しようとしている。その会話を、エリザは静かに聞いていた。
「合流、ですか」
エリザは呟いた。
餌は機能した。二人は分かれた。だが、分かれた二人は引き裂かれなかった。それぞれが罠を見抜き、無理をせず、繋がったまま、また寄り添おうとしている。
それは、エリザの予想を少しだけ外れていた。
彼女は、二人が分かれればそれぞれ弱くなると考えていた。分かれた戦力を叩けばいいと考えていた。だが二人は、分かれても弱くならなかった。むしろ、分かれた場所でそれぞれが同じ答えにたどり着き、その答えを確かめ合うことで、より強く繋がろうとしていた。
「面白い」
エリザは、小さく呟いた。
それは彼女がめったに口にしない言葉だった。冷たい情報指揮官である彼女が、あの二人の関係に初めて興味に近いものを覚えていた。損得で割り切れない二人。分かれても繋がる二人。効率で測れない、その繋がり。
エリザは、工業地区の部隊への次の指示を打ち込もうとして止めた。
アラタは引いた。子供を助けに飛び込まなかった。ならば包囲をしても意味がない。相手が罠を見抜いて引いたなら、この餌はもう終わりだった。追撃するにはこちらの部隊を動かさなければならず、それは上層の守りを薄くする。割に合わなかった。
「引かせなさい」
エリザは、部隊へ指示を送った。
「深追いはしない。今回は、ここまでです」
彼女は、画面を切り替えた。
二つの餌は二人を分けた。だが引き裂けなかった。それは彼女の小さな負けだった。だがエリザは、その負けをあまり悔しいとは思わなかった。むしろ、あの二人の繋がりに静かな関心を抱いていた。
なぜ、あの二人は分かれても繋がるのか。
それは、あの青年がなぜ止まらないのか、という問いと、どこかで繋がっている気がした。効率で割り切れない何か。数で測れない何か。それが、あの二人を繋いでいる。エリザには、まだそれがわからなかった。
「非効率です」
エリザは、また、そう呟いた。
だが、その言葉には、もう批判の響きはなかった。ただ、わからないものをわからないと認めるような、静かな響きだけがあった。
画面の光が、闇の中で瞬いていた。塔は、まだ高く、夜は、まだ深い。その中腹で、エリザは一人、あの二人のことを考えていた。次に彼らと会う時、自分が何を思うのか。それは、まだわからなかった。だが、その「わからない」が、少しずつ彼女の中で大きくなっていた。
*
アラタの車が、首都の外れの合流地点へと向かっていた。
車の中で、ヨナが窓の外を見ていた。子供をその場に残してきた。それは辛かった。だが、無理をすれば全員が失われる。順番を守る。それが正しいことだと、ヨナにもわかっていた。
「戻ってくるんだろ」
ヨナが、ぽつりと言った。
「戻る」
アラタが即答した。
「必ず戻る。あの子たちを迎えに。今日は無理でも、態勢を立て直して、もう一度来る」
「なら、いい」
ヨナは、それだけ言って、また窓の外を見た。
その横顔には、いつもの静けさがあった。だが、その静けさの奥に、ヨナは、あの残してきた子供たちのことを抱えていた。かつて自分も戦場に放り込まれた。誰も迎えに来なかった。だから、アラタが必ず戻ると言うなら、その言葉を信じたかった。
「アラタ」
ヨナが言った。
「なに」
「約束、守れよ」
その一言に、アラタは頷いた。
「守る」
彼は言った。
「僕は約束を破らない。今日残してきた子たちにも名前がある。まだわからないだけだ。その名前を、いつか聞きに戻る」
ヨナは答えなかった。ただ、その言葉を静かに受け止めた。
車は走り続けた。窓の外を、灰色の工業地区が遠ざかっていく。その、どこかの建物に名前のない子供が、まだ残されている。それを、アラタは忘れなかった。今日は引いた。だが、諦めてはいなかった。
やがて、遠くにココたちの車が見えてきた。
合流地点だった。分かれた二つの隊が、また一つになろうとしていた。共闘は揺らいだが、切れてはいなかった。二人は、それぞれの罠を見抜き、無理をせず、そしてまた寄り添おうとしていた。
車が止まった。
ココが車から降りてきた。アラタも降りた。二人は向かい合った。
「無事、ね」
ココが言った。
「はい」
アラタが答えた。
「ココさんも」
「私は、いつも無事よ」
ココは笑った。いつもの余裕のある笑みだった。だが、その笑みの奥に、アラタは分かれていた間のかすかな緊張の名残を見た。彼女もまた、分かれることを何とも思っていなかったわけではなかった。
「分かれたわね、私たち」
ココが言った。
「はい」
「初めてよ。あなたと別々の方向を向いたの」
「そうですね」
アラタは頷いた。
「でも」
彼は続けた。
「同じ答えに、たどり着きました。無理はしない。共犯にはならない。順番を守る。方向は分かれても、選ぶものは似てました」
ココは、その言葉に少しだけ笑った。
「そうね」
彼女は言った。
「面白いわね。分かれたのに、同じ場所に戻ってきた。エリザの餌は上手かった。でも私たちを引き裂くことはできなかった」
二人は、しばらく無言で向かい合っていた。
共闘は揺らいだ。それは事実だった。二人の目指す理由は違う。ココは塔を崩したい。アラタは子供を連れ出したい。その差は消えない。いつか、また、その差が二人を分けるかもしれない。キャスパーの言う、その時が、いつか本当に来るかもしれない。
だが、今はまだ。
今はまだ、二人は話し合えた。分かれても繋がれた。同じ答えにたどり着けた。その話し合えるうちは、二人は一緒にいられる。それを、二人はこの分かれた一日で確かめていた。
「もう一度、態勢を立て直しましょう」
ココが言った。
「今日あなたが見つけた子供のことも、私が見た上層のことも、全部突き合わせて。この塔は大きい。でも大きいからって諦める理由にはならない」
「はい」
アラタが頷いた。
「一つずつ、ですね」
「そう」
ココは笑った。
「一つずつ。あなたの口癖でしょう」
その時、ヨナが車から降りてきた。
ココはヨナを見た。分かれていた間、ヨナをアラタに預けていた。無事に戻ってきた。それを、ココは確かめた。
「ヨナ」
ココが言った。
「無事、ね」
「ああ」
ヨナが答えた。
「アラタは」
「連れて戻った」
その短いやり取りは、いつもの二人のものだった。だが、そこには分かれていた一日のかすかな緊張の名残が滲んでいた。ココはヨナをアラタに預けたことを、心のどこかで気にかけていた。ヨナもまた、ココと離れることを何とも思っていなかったわけではなかった。
「頼んだこと、守ってくれた?」
ココが聞いた。
「アラタは壊れてない」
ヨナが答えた。
「無理はしなかった。引く時は引いた。……大丈夫だ」
「そう」
ココは少しだけ笑った。
「ありがとう、ヨナ」
ヨナは答えなかった。ただ視線を逸らした。だが、その耳がわずかに赤くなっていた。ココに礼を言われることに、彼はまだ慣れていなかった。
その様子を、アラタが静かに見ていた。
ヨナとココ。武器商人を憎む少年と、その武器商人。奇妙な関係だった。だが、その二人の間には確かに何か、切れないものがあった。アラタは、その関係を羨ましいとも危ういとも思った。
「ジブリールが待ってる」
ヨナが、ぽつりと言った。
「拠点で。俺たちが戻るのを」
その言葉に、アラタは頷いた。
拠点には、ジブリールがいる。子供たちを守りながら、自分たちが戻るのを待っている。前回の潜入で、待つことのつらさを口にした彼女。今回も待っているのだろう。無事を祈りながら。
「戻ろう」
アラタが言った。
「ジブリールも子供たちも待ってる。今日見つけた子供のことを伝えて、それから態勢を立て直す。もう一度来るために」
二人は、車へと戻っていった。
空には、首都のビルの灯りが遠く瞬いていた。その灯りの下に、塔はまだ聳えていた。二人はその塔を、下から見上げていた。ココはそれを崩そうとし、アラタはそれを登ろうとしていた。方向は違っても、二人は同じ塔を見ていた。
共闘は揺らいだ。だが、まだ続いていた。
塔は、まだ高い。だが、二人はまだ諦めていなかった。分かれた一日を経て、二人はまた一つになろうとしていた。次に何が待っているのか、それはまだわからなかった。だが二人は、確かにまだ同じ方向を見ていた。名前のない子供がいる、その方向を。
拠点に着いたのは、夜が更けてからだった。
子供たちはもう眠っていた。ジブリールが、その寝顔を一つずつ見て回っていた。アラタたちが戻ると、彼女は静かに立ち上がった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
アラタは短く応じた。それから、肩に負っていた布包みを、そっと床に置いた。
ナディアが、その包みに目を留めた。
「それ、施設から?」
「ああ」
アラタは頷いた。彼は布を解いた。中から現れたのは、一台の端末だった。鉱山ターミナルで使ったものより、一回り大きい。筐体には、見慣れない記号が刻まれていた。
ナディアが息を呑んだ。
「これ……上層の系統ですね」
「たぶん」
アラタは、その黒い画面をじっと見た。
「塔の中で、拾った。誰かが、置いていったものだ」
彼は、それ以上は言わなかった。潜入の途中、誰もいなくなった管制室で見つけた。そういうことだった。持ち出すかどうか、彼は少しだけ迷った。だが、迷いは短かった。
ナディアが、端末の前にしゃがみ込んだ。彼女の指が、慎重に外装をなぞる。
「イルミネーターと、同じ作りです。でも、こっちの方が新しい。見える範囲が、たぶん広い」
その声には、技術者としての静かな昂りがあった。同時に、わずかな怯えも滲んでいた。
アラタは、それを見ていた。
鉱山ターミナルの端末は、あの場所に置いてきた。持ち出さなかった。呑まれるのが怖かったからだ。だが、こうしてまた、同じ道具が手元に来た。オマルの言葉が、耳の奥で蘇る。もっと大きいのが出てくる、と。その時、お前はまた覗くのか、と。
「アラタ」
ジブリールが、静かに声をかけた。
彼女は、端末を見ていなかった。アラタの顔を見ていた。
「使うの?」
その問いは、責めるものではなかった。ただ、確かめるものだった。
アラタは、すぐには答えなかった。彼は、眠っている子供たちの方へ、目を向けた。名前を取り戻した子供たち。まだ塔の中に残された、名前のない子供たち。その二つの間で、彼の心は、いつも揺れていた。
「使う」
やがて、彼は言った。
「まだ、奥に子供がいる。それを見つけるには、これがいる」
「呑まれない?」
「わからない」
アラタは、正直に答えた。掠れてはいなかった。だが、楽観もしていなかった。
「だから、見ててくれ。前と同じように」
ジブリールは、しばらくアラタを見つめた。それから、小さく頷いた。
「見てる」
彼女は言った。
「イヌワシ。高いところから、全部を見て。でも、一人ずつ、名前で見て。そこから、落ちないで」
その言葉に、アラタは頷いた。
ナディアが、端末に電源を入れた。
黒い画面が、ゆっくりと青白く光り始めた。首都の地図が、少しずつ、輪郭を結んでいく。鉱山ターミナルで見たものより、遥かに広い盤面だった。塔の上層まで、届いていた。
アラタは、その光を、静かに見つめた。
道具は、また手元に来た。値段も、また、ついてくる。それを承知の上で、彼は、その前に座った。