JORMUNGAND:マージナル・チルドレン   作:たこ焼き 龍月

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第七章 子供使いの値段(中盤)

 

 

 翌朝は、灰色の光とともに始まった。

 

 廃工場の割れた窓から差し込む朝の光は、色を失っていた。首都の空は薄く曇り、その曇りが街全体を鈍い銀色に沈めていた。夜のうちに交代で見張りに立った者たちが、その光の中で疲れた顔を見合わせていた。

 

 アラタは、ほとんど眠っていなかった。

 

 ナディアに休むように言われて横になったものの、彼の頭からは、工業地区に残してきた子供たちのことが離れなかった。目を閉じても、イルミネーターの画面に並んだ空欄の点が瞼の裏に浮かんだ。その空欄の一つ一つが、彼を眠らせなかった。

 

 結局、彼は夜明け前に起き上がり、また端末の前に座っていた。

 

     *

 

「また、それの前にいるのね」

 

 ココが、朝の光の中でアラタに近づいてきた。彼女は一晩を経て、いつもの余裕を取り戻していた。だが、その目はアラタの様子をしっかりと捉えていた。

 

「ココさん」

 

 アラタが顔を上げた。

 

「眠れませんでした。あの子たちのことを考えると」

 

「そうでしょうね」

 

 ココは、彼の隣に立った。そして、イルミネーターの画面を見下ろした。首都の地図の上に、昨夜アラタが組み上げた情報が、そのまま残されていた。工業地区の識別信号。首都北の通信ノード。二つの餌の出所。それらを結ぶ線が、一つの構造を描いていた。

 

「昨日の夜、私たち、態勢を立て直すって話をしたわよね」

 

 ココが言った。

 

「はい」

 

「もう一度、あの子たちを迎えに行く。そのための態勢を整える。その話、進めましょう」

 

 アラタは、その言葉に顔を上げた。

 

 ココは、昨夜「使い潰さない」と言った。だが、それは彼を甘やかすということではなかった。彼女はやるべきことをやる。子供を迎えに行く。そのための態勢を整える。ココのやり方は、いつもそうだった。感傷ではなく、次に何をすべきかを冷静に示す。

 

「敵の狙いは、わかってる」

 

 ココは、地図を指しながら言った。

 

「昨日、あいつらは私たちを分断した。二つの餌で。片方に商売、片方に子供。私たちを引き離して、それぞれ弱くして叩こうとした。でも、私たちは分かれても繋がってた。だから、その狙いは半分外れた」

 

「半分?」

 

「分断はされた。でも引き裂かれなかった。だから半分」

 

 ココは言った。

 

「今度は、私たちが先に動く番よ。あいつらは、私たちがまた無理をして工業地区に突っ込むと思ってる。子供のために。だから、そこで待ち構えてる。なら、その裏をかく」

 

 アラタは、その言葉に耳を傾けた。

 

 ココの読みは鋭かった。敵は、アラタが子供のために無理をすると読んでいる。その読みを利用する。敵が待ち構えている場所へ正面から行くのではなく、別の道を探す。それは、昨日、東條が言ったことと同じ考え方だった。

 

     *

 

 その日の午前、主要な者たちが再び集まった。

 

 昨夜と同じ、古びた木箱を囲んで。だが、その空気は昨夜とは違っていた。昨夜は、分かれていた情報を突き合わせる場だった。今日は、次の一手を決める場だった。

 

「工業地区の子供たちを、迎えに行く」

 

 アラタが、まず宣言した。

 

「昨日は引きました。でも、あの子たちを見捨てたわけじゃない。順番を変えただけです。今日、態勢を立て直して、迎えに行きます」

 

 その言葉に、誰も反対しなかった。それは、この場にいる全員が共有している意志だった。あの子たちを、あの場所に残してはおかない。

 

「ただし」

 

 東條が口を添えた。

 

「昨日と同じやり方はできません。あの部隊が、まだあそこにいる。正面から行けば、昨日と同じ結果になる。別の道が必要です」

 

「その別の道を、これから考えます」

 

 アラタは言った。そして、彼はイルミネーターの画面を、その場の全員に見えるように向けた。

 

「昨日の夜、ナディアと一緒に、情報を整理しました。工業地区の子供たちの居場所。周囲の部隊の配置。その部隊が、どこから補給を受けて、どこと通信してるか。それが、少しずつ見えてきました」

 

 画面の上で、彼は指を動かした。工業地区の建物。それを囲む部隊の配置。そして、その部隊が繋がっている通信線。それらが、一つの図として並んでいた。

 

「あの部隊は、独立して動いてるわけじゃない。首都北の通信ノードから指示を受けてる。もし、その通信を一時的に遮断できれば」

 

「部隊の連携が、崩れる」

 

 東條が後を継いだ。

 

「そうです」

 

 アラタは頷いた。

 

「連携が崩れた隙に、子供たちを連れ出す。正面から部隊を突破するんじゃない。部隊の目と耳を、一時的に塞ぐんです」

 

 その作戦を、その場の全員が静かに聞いていた。それは、昨日の無力感を覆すための、一つの道だった。正面から勝てない相手を、正面から相手にしない。その目と耳を塞いで、その隙をつく。

 

     *

 

「通信の遮断なら」

 

 ワイリが口を開いた。彼はココ隊の技術担当で、爆発物や施設の無力化を得意としていた。今回、ココ隊から工業地区の作戦へ、彼が加わることになっていた。

 

「俺の出番だな」

 

 彼は軽い口調で言った。だが、その目は真剣だった。

 

「首都北の通信ノードってやつ、その位置がわかれば、そこの通信を一時的に落とせる。派手に壊すんじゃない。一時的に黙らせるだけだ。それなら、こっちの位置もバレにくい」

 

「できるの?」

 

 ジブリールが聞いた。

 

「できるさ」

 

 ワイリは、少しだけ笑った。

 

「壊すだけなら簡単だ。難しいのは、誰にも気づかれずに黙らせることだ。でも、それが俺の得意分野でね」

 

 その言葉に、ナディアが端末を操作しながら補足した。

 

「通信ノードの正確な位置は、私が特定します。昨日の情報から、だいたいの場所はわかってます。あとは、ワイリと連携して、遮断のタイミングを合わせれば」

 

「上手くいく、かもしれない」

 

 アラタが、その言葉を引き取った。

 

「かもしれない、だ。確実じゃない。でも、昨日よりは、道が見える」

 

 彼は、その作戦の全体を、もう一度頭の中で組み立てた。ワイリが通信ノードを遮断する。その隙に、アラタたちが工業地区へ入り、子供を連れ出す。ヨナと東條が前衛、ナディアが通信と解析、サミルが偵察。それぞれの役割が、彼の中で組み上がっていった。

 

 だが、その組み立ての途中で、アラタはまた、あの感覚に気づいた。

 

 彼は今、仲間たちを「配置」していた。ワイリをここに、ヨナをここに、サミルをここに。効率よく、無駄なく。まるで、駒を並べるように。昨夜、気づいたばかりのその感覚が、また彼の中に忍び込んでいた。

 

 彼は、意識して、その感覚に抵抗した。

 

 配置じゃない。役割だ。ワイリには、ワイリにしかできないことがある。ヨナには、ヨナの。サミルには、サミルの。それは駒の配置じゃない。一人ひとりの人間に、その人にしかできない役目を頼むことだ。アラタは、自分にそう言い聞かせた。

 

     *

 

「アラタ」

 

 その時、ヨナが口を開いた。

 

「なに」

 

「一つ、聞いていいか」

 

 ヨナの声は、いつものように短かった。だが、その問いには、確かな重さがあった。

 

「その作戦、お前も現場に出るのか。それとも、その端末の前にいるのか」

 

 その問いに、アラタは一瞬、答えに詰まった。

 

 イルミネーターを使うなら、彼は端末の前にいた方が効率が良い。全体を見て、各所に指示を出す。それが、この道具の使い方だった。だが、端末の前にいるということは、彼が現場から離れるということでもあった。画面越しに、仲間を動かすということでもあった。

 

「端末の前に、いた方がいいのかもしれない」

 

 アラタは、正直に言った。

 

「全体を見て、指示を出す。その方が、みんなを安全に動かせる。でも」

 

 彼は、そこで言葉を切った。

 

「でも?」

 

 ヨナが促した。

 

「でも、それは、僕が画面越しにみんなを動かすってことだ。安全な場所から、みんなを危険な場所へ送る。それが、正しいのかどうか」

 

 アラタの声には、迷いが滲んでいた。

 

 指揮官として、彼は後方から全体を見るべきだった。それが最も多くの命を救う。だが、それは同時に、彼が自ら危険を負わず、仲間だけを危険にさらすということでもあった。その構図が、彼には耐えがたかった。

 

「アラタ」

 

 ヨナが言った。

 

「お前は、それでいい」

 

 アラタは、顔を上げた。

 

「え?」

 

「お前は、端末の前にいろ」

 

 ヨナは、はっきりと言った。

 

「お前が全体を見てくれるから、俺たちは安心して現場に出られる。お前の指示が、俺たちを生かす。それは、逃げじゃない。役割だ」

 

 その言葉に、アラタは驚いた。

 

 ヨナが、そう言うとは思っていなかった。ヨナは、アラタがイルミネーターに呑まれることを警戒していた。そのヨナが、端末の前にいろと言った。それは、矛盾しているようで、していなかった。

 

「ただし」

 

 ヨナは、続けた。

 

「一つだけ、約束しろ」

 

「なんだ」

 

「画面の点を、名前で呼べ」

 

 ヨナの声は、静かだったが、揺るがなかった。

 

「俺たちを、点として動かすな。ヨナ、東條、サミル。名前で呼べ。名前で動かせ。お前が名前で呼んでる限り、俺たちはお前を信じる。お前が点として扱い始めたら、その時は、俺が止める」

 

 アラタは、その言葉を、深く受け止めた。

 

 ヨナは、アラタに端末の前にいることを許した。だが、条件をつけた。名前で呼べ、と。点として扱うな、と。それは、アラタがイルミネーターを使いながらも、人間でいられるための、たった一つの条件だった。

 

「わかった」

 

 アラタは言った。

 

「名前で呼ぶ。ヨナ、東條さん、サミル、ナディア、ワイリさん。全員、名前で呼ぶ。点にはしない。約束する」

 

「なら、いい」

 

 ヨナは、それだけ言って、視線を外した。

 

 だが、その短いやり取りには、二人の間の確かな信頼があった。ヨナは、アラタを信じていた。だが、盲目的にではなかった。条件をつけて、見張りながら、信じていた。その距離の取り方が、ヨナらしかった。

 

     *

 

 作戦の準備が進む間、ジブリールは一人、倉庫の隅で、自分の銃を手入れしていた。

 

 彼女は、今回の作戦では拠点に残ることになっていた。子供たちを守る役目だった。誰かが子供たちのそばにいなければならない。もし作戦の間に敵が拠点を襲えば、子供たちを守る者が必要だった。その役目を、ジブリールが引き受けていた。

 

 だが、彼女の心は、複雑だった。

 

 拠点に残る。それは、アラタのそばを離れるということだった。彼女は、アラタが人間でいられるかを見張ると決めていた。だが、拠点に残れば、その見張りができない。作戦の間、アラタが端末の前で何を思うのか、彼女には見えない。

 

「残るのが、嫌か」

 

 オマルが、近づいてきた。彼はジブリールの過去を知る、数少ない大人の一人だった。かつて、少年兵として売られたジブリールが最初に配属されたのが、オマルの部隊だった。

 

「オマル」

 

 ジブリールが顔を上げた。

 

「嫌、じゃない。子供たちを守るのは、大事な役目だから。でも」

 

「アラタが心配か」

 

 オマルが、静かに言った。

 

 ジブリールは、少しだけ黙った。それから、頷いた。

 

「うん」

 

 彼女は言った。

 

「アラタが、あの端末を使ってる時、少しずつ変わっていく気がして。私が見てないと、アラタが、どこか遠くに行っちゃう気がして」

 

 オマルは、その言葉を静かに聞いていた。彼は、多くを語る男ではなかった。だが、その少ない言葉には、いつも重さがあった。

 

「ジブリール」

 

 オマルが言った。

 

「お前が見てなくても、ヨナがいる。ナディアがいる。ココもいる。アラタを見てる者は、お前だけじゃない」

 

「でも」

 

「お前は、ここで子供たちを見てろ」

 

 オマルは、静かに言った。

 

「アラタが救おうとしてる子供たちを、お前がここで守る。それも、アラタを支えることだ。前線に立つだけが、支えることじゃない」

 

 その言葉に、ジブリールは顔を上げた。

 

 拠点で子供を守ることも、アラタを支えることになる。オマルは、そう言った。それは、ジブリールが考えていなかった視点だった。彼女は、アラタのそばにいることだけが、彼を支えることだと思っていた。だが、そうではなかった。子供たちを守ることも、同じように、アラタを支えることだった。

 

「わかった」

 

 ジブリールは言った。

 

「私、ここで子供たちを守る。アラタが救う子供たちを、私が守る」

 

 オマルは、頷いた。それ以上は、何も言わなかった。だが、その沈黙の中に、彼のジブリールへの信頼があった。かつて銃を持たされた少女が、今は誰かを守る側に立っている。その成長を、オマルは静かに見守っていた。

 

     *

 

 午後、作戦が動き始めた。

 

 工業地区へ向かう隊が、拠点を出発した。アラタ、ヨナ、東條、サミル、ナディア、そしてワイリ。前回とほぼ同じ顔ぶれに、通信遮断のためのワイリが加わっていた。

 

 出発の前、アラタはイルミネーターを持って、拠点の通信室代わりの一角に残ることになっていた。彼は現場には出ず、後方から全体を見て指示を出す。ヨナと交わした約束の通り、その役割を引き受けていた。

 

「気をつけて」

 

 拠点を出る隊に、アラタが声をかけた。

 

「ヨナ、東條さん、サミル、ワイリさん。無理はしないでください。危なくなったら、すぐ引く。順番を守る。子供のためでも、無理はしない」

 

 その言葉に、ヨナが振り返った。

 

「お前もな」

 

 ヨナが言った。

 

「端末の前でも、無理はするな。全部を背負おうとするな。俺たちを、信じろ」

 

 アラタは、その言葉に頷いた。

 

 全部を背負おうとするな。それは、ナディアが昨夜言ったことと同じだった。アラタは、いつも全部を背負おうとする。全体を見て、全員の安全を、一人で背負おうとする。だが、それはできないことだった。彼は、仲間を信じて、役割を分けなければならなかった。

 

「わかった」

 

 アラタは言った。

 

「信じる。みんなを」

 

 隊が、出発した。工業地区へ向けて。アラタは、その背中を見送った。そして、イルミネーターの前に座った。画面の上に、隊の位置が点として表示されていた。

 

 その点に、アラタは一つずつ名前を入れた。

 

 ヨナ。東條。サミル。ワイリ。ナディア。名前のある点が、画面の上を移動していく。工業地区へ向かって。アラタは、その名前を、口の中で繰り返した。点じゃない。名前だ。僕が動かしてるのは、点じゃない。名前のある、一人ひとりの人間だ。

 

     *

 

 その頃、エリザ・クロウもまた、画面の前にいた。

 

 彼女は、アラタたちの動きを監視していた。工業地区へ向かう隊。そして、拠点に残ったアラタ。彼女は、その両方を、画面越しに見ていた。

 

「動きましたか」

 

 エリザは、静かに呟いた。

 

 彼女は、アラタが必ず工業地区へ戻ってくると読んでいた。子供を残してきたアラタは、それを見捨てられない。必ず迎えに戻る。その性分を、彼女は利用していた。工業地区の部隊は、まだそこにいた。アラタが戻ってくるのを待っていた。

 

 だが、エリザは、一つのことに気づいていた。

 

 アラタは、拠点に残っていた。工業地区へ向かう隊に、彼はいなかった。それは、彼女の予想と少し違っていた。彼女は、アラタが自ら現場に飛び込むと思っていた。子供のために、無理をして。だが、アラタは現場に出ず、後方から指揮を執ろうとしていた。

 

「学習しましたか」

 

 エリザは、呟いた。

 

 前回、アラタは無理をしなかった。引くべき時に引いた。そして今回、彼は自ら現場に飛び込まず、後方から指揮を執っている。それは、彼が学習した証だった。感情に任せて突っ込むのではなく、冷静に、全体を見て動く。

 

 その変化を、エリザは興味深く観察していた。

 

 アラタは、冷静になっていた。それは、指揮官として正しい方向だった。だが、エリザは知っていた。冷静さは、時に別のものを失わせる。全体を見る者は、個を見失う。後方から指揮を執る者は、現場の痛みから遠ざかる。アラタが冷静になればなるほど、彼は、エリザ自身に近づいていく。

 

「面白い」

 

 エリザは、また、その言葉を呟いた。

 

 アラタが冷静になり、後方から指揮を執る。それは、彼女のやり方だった。彼女もまた、後方から画面越しに、人を動かしていた。もしアラタが同じことをするようになれば、彼はエリザと同じ側に立つことになる。子供を救うために、子供を管理する側の技術を使う。その皮肉を、エリザは静かに見ていた。

 

     *

 

 工業地区へ向かう車の中で、ナディアが端末を確認していた。

 

「アラタ、聞こえますか」

 

 彼女は、通信機に向かって言った。

 

『聞こえてる』

 

 アラタの声が返ってきた。拠点のイルミネーターから、彼は隊全体と繋がっていた。

 

「あと十分で、工業地区の手前に着きます。そこから、ワイリが通信ノードの遮断に向かいます。私は、遮断のタイミングを合わせる準備をします」

 

『わかった』

 

 アラタの声は、落ち着いていた。

 

『ワイリさん、通信ノードの位置は、さっき送ったデータの通りです。工業地区の北、給水塔の近く。そこに機材があります。遮断は、僕が合図を出してから。焦らないで』

 

「了解だ」

 

 ワイリが答えた。

 

 車の中で、彼は自分の機材を確認していた。通信を遮断するための道具。派手に壊すのではなく、一時的に黙らせるための道具。彼の得意分野だった。

 

『ヨナ、東條さん』

 

 アラタの声が続いた。

 

『通信が遮断されたら、部隊の連携が一時的に崩れます。その隙に、子供のいる建物へ。でも、時間は限られてる。遮断できるのは、たぶん数分だけ。その間に、子供を連れ出す』

 

「わかってる」

 

 ヨナが答えた。

 

『サミル』

 

「うん」

 

 サミルが応じた。

 

『君は、東條さんのそばを離れないで。偵察は昨日で済んでる。今日は、子供を連れ出すのが役目だ。でも、無理はしないで。危なくなったら、すぐ東條さんの指示に従って』

 

「わかった」

 

 サミルが頷いた。

 

 アラタの指示は、明確だった。そして、その指示の一つ一つに、名前が添えられていた。ヨナ、東條、サミル、ワイリ、ナディア。彼は、誰一人、点としては扱わなかった。名前で呼び、名前で動かした。約束の通りに。

 

 その様子を、ヨナは静かに感じ取っていた。

 

 アラタは、約束を守っていた。名前で呼ぶ、という約束を。画面の前にいながら、彼は人間を点にしていなかった。ヨナは、その声を聞きながら、少しだけ安心した。今のところ、アラタは、まだ人間でいた。

 

     *

 

 車が、工業地区の手前で止まった。

 

 前回と同じ場所だった。灰色の工場が立ち並び、煙突から煙が昇っている。人気のない、殺伐とした場所。ヨナが、嫌な予感を覚えた場所だった。今日も、その予感は消えていなかった。

 

「ワイリさん、行けますか」

 

 ナディアが聞いた。

 

「行くさ」

 

 ワイリが、機材を持って車を降りた。

 

「給水塔の近くの通信ノード。そこを黙らせる。アラタの合図を待つ。それまでは、隠れて待機だ」

 

 彼は、そう言って、工業地区の北へ向かって、静かに移動を始めた。給水塔の近くの通信ノード。そこを一時的に遮断する。それが、この作戦の鍵だった。彼の腕にかかっていた。

 

『ワイリさんが、位置についたら教えてください』

 

 アラタの声が、通信機から響いた。

 

『ヨナ、東條さん、サミルは、子供のいる建物の近くまで、隠れて移動を。まだ、動かないで。ワイリさんの準備が整って、僕が合図を出してから。それまでは、待機』

 

「わかった」

 

 ヨナが答えた。

 

 彼は、東條とサミルとともに、静かに移動を始めた。子供のいる建物へ向かって。だが、まだ動かない。まだ、待つ。ワイリの準備が整い、アラタが合図を出すまで。その順番を、彼らは守った。

 

 工業地区の空気は、張り詰めていた。どこかに、部隊が潜んでいる。子供を餌にして、待ち構えている。その部隊に気づかれないように、ヨナたちは、影から影へ、静かに移動した。

 

     *

 

 拠点のイルミネーターの前で、アラタは全体を見ていた。

 

 画面の上に、隊の動きが表示されていた。ワイリが、給水塔へ向かって移動している。ヨナ、東條、サミルが、子供のいる建物へ近づいている。そして、その周囲に、敵の部隊の推定位置が点滅していた。

 

 アラタは、その全体を、一枚の盤面として見ていた。

 

 どこに敵がいて、どこに味方がいて、どこに子供がいるか。それが、一目でわかった。イルミネーターは、それを可能にした。前回、彼が現場で感じた無力感は、この全体の見えなさから来ていた。だが今、彼は全体を見ていた。

 

 その時、アラタは、また、あの感覚に気づいた。

 

 全体が見える。心地よい。すべてが、掌の上にあるように見える。ワイリを動かし、ヨナを動かし、サミルを動かす。すべてが、彼の指示で動く。その感覚は、恐ろしいほどの万能感を彼に与えた。

 

 彼は、その万能感に、ぞっとした。

 

 これだ、とアラタは思った。これが、この道具の本当の怖さだ。無力感じゃない。万能感だ。すべてが見えて、すべてを動かせると感じる、この感覚。これに呑まれたら、僕は、人を動かすことを、当然だと思うようになる。子供を、駒として動かすことを。

 

 アラタは、画面の点を見た。名前のある点を。

 

 ヨナ。東條。サミル。ワイリ。ナディア。彼は、その名前を、一つずつ口に出した。声に出して、確かめるように。

 

「ヨナ。東條さん。サミル。ワイリさん。ナディア」

 

 それは、まじないのようだった。名前を呼ぶことで、彼は万能感から自分を引き戻そうとしていた。点じゃない。名前だ。僕が動かしてるのは、僕の指示で動く駒じゃない。僕を信じて、危険な場所へ向かう、名前のある人間だ。

 

『アラタ?』

 

 通信機から、ナディアの声がした。

 

『名前、呼んでましたか。今』

 

 彼女は、通信越しに、アラタの声を拾っていた。

 

「ああ」

 

 アラタは、少しだけ間を置いてから、答えた。

 

「呼んでた。みんなの名前を。忘れないように」

 

 通信の向こうで、ナディアが、少しだけ黙った。それから、静かに言った。

 

『いいと思います。忘れないでください。私たちの名前を。何度でも、呼んでください』

 

 その言葉に、アラタは救われた気がした。

 

 ナディアは、アラタが名前を呼ぶ理由を、わかっていた。彼が、万能感に呑まれないために、名前を呼んでいることを。だから彼女は、何度でも呼べと言った。それは、アラタがこの道具に呑まれないための、支えだった。

 

     *

 

『ワイリさん、位置につきました』

 

 ナディアの声が、通信機に響いた。

 

『給水塔の近く。通信ノードの前です。いつでも遮断できます』

 

 アラタは、画面を見た。ワイリの点が、給水塔の近くで止まっていた。ヨナたちの点は、子供のいる建物の近くまで、迫っていた。すべての準備が、整いつつあった。

 

 アラタは、深く息を吸った。

 

 ここからが、本番だった。通信ノードを遮断し、部隊の連携を崩し、その隙に子供を連れ出す。数分の勝負だった。その数分の間に、すべてが決まる。彼は、画面の全体を、もう一度見渡した。

 

 どこに敵がいて、どこに味方がいて、どこに子供がいるか。すべてが、見えていた。あとは、合図を出すだけだった。

 

「みんな」

 

 アラタは、通信機に向かって言った。その声は、落ち着いていた。だが、その落ち着きの奥に、確かな覚悟があった。

 

「これから、始めます。ワイリさんが通信を遮断する。その隙に、子供を連れ出す。時間は、数分だけ。焦らず、でも、速く。一人も、置いていかない」

 

 通信の向こうで、全員が、静かに応じた。

 

「ヨナ」

 

 アラタは、一人ずつ名前を呼んだ。

 

「東條さん。サミル。ワイリさん。ナディア」

 

 名前を呼び終えて、彼は、一つ、息を吸った。それから、最後の合図を出した。

 

「始めましょう。ワイリさん、通信ノードの遮断を。今」

 

 その合図とともに、作戦が、動き始めた。

 

     *

 

 給水塔の近くで、ワイリが機材を操作した。

 

 彼の指先が、素早く動いた。通信ノードへ、遮断の信号を送り込む。派手な破壊ではなかった。ただ、その通信を一時的に黙らせる。数分だけ、部隊の目と耳を塞ぐ。それが、彼の仕事だった。

 

「落ちた」

 

 ワイリが、小声で言った。

 

「通信ノード、遮断成功。だが、長くは保たない。三分、いや、二分が限界だ。急げ」

 

 その報告が、通信機を通じて全員に伝わった。二分。その二分が、勝負だった。

 

『ヨナ、東條さん、サミル』

 

 アラタの声が、鋭く響いた。だが、その鋭さの中にも、名前は消えていなかった。

 

『今です。建物へ。子供を連れ出して。二分で。焦らず、でも速く』

 

「行くぞ」

 

 ヨナが、短く言った。

 

 彼は、東條とサミルとともに、影から飛び出した。子供のいる建物へ向かって。通信を絶たれた部隊は、一時的に混乱していた。互いの連携が取れず、指示が届かない。その隙を、ヨナたちは突いた。

 

 建物の入口へ、彼らは滑り込んだ。

 

 中は、薄暗かった。埃の匂いがした。そして、その奥に、子供たちがいた。四人。あるいは五人。身を寄せ合って、隅に座り込んでいた。彼らは、突然入ってきたヨナたちを見て、怯えたように身を縮めた。

 

 その子供たちを見て、ヨナの胸が、締めつけられた。

 

 子供たちの首には、番号札がかかっていた。名前ではなく、番号で管理された子供たち。かつての自分と、同じだった。ヨナは、その光景に、一瞬、動きを止めた。だが、すぐに我に返った。今は、感傷に浸っている時間はなかった。二分しかない。

 

「来い」

 

 ヨナは、子供たちに向かって、できるだけ穏やかに言った。

 

「助けに来た。ここから、出る。一緒に来い」

 

 子供たちは、動かなかった。怯えたまま、ヨナを見ていた。彼らは、助けという言葉を知らなかった。大人が来る時は、いつも、どこかへ連れて行かれる時だった。だから、ヨナの言葉を、信じられなかった。

 

 その様子に、ヨナは焦りを覚えた。時間がない。だが、子供たちは動かない。無理に連れ出せば、抵抗される。抵抗されれば、時間を失う。

 

「サミル」

 

 ヨナが、小声で言った。

 

「お前が、話しかけろ」

 

 サミルは、その言葉に頷いた。

 

 彼は、子供たちに近づいた。ゆっくりと。脅かさないように。そして、しゃがみ込んで、子供たちと目線を合わせた。

 

「僕も、番号だったんだ」

 

 サミルは、静かに言った。

 

「白い学校にいた。番号で呼ばれてた。でも、今は違う。サミルって名前がある。助けてもらったんだ。君たちも、助ける。だから、一緒に来て」

 

 その言葉に、子供たちの一人が、わずかに顔を上げた。

 

 サミルの言葉は、大人の言葉とは違った。同じ子供の言葉だった。番号だった子供が、今、名前を持っている。その姿が、子供たちに、かすかな希望を見せた。

 

「名前……あるの?」

 

 子供の一人が、小さな声で聞いた。

 

「あるよ」

 

 サミルは、頷いた。

 

「君にも、あるはずだ。まだ、わからないだけ。一緒に来れば、探せる。君の名前を」

 

 その言葉に、子供が、ゆっくりと立ち上がった。一人が動くと、他の子供たちも、少しずつ動き始めた。サミルの言葉が、彼らの怯えを、わずかに溶かしていた。

 

     *

 

 その間も、時間は過ぎていた。

 

『あと一分』

 

 ナディアの声が、通信機に響いた。

 

『通信ノードの遮断、あと一分で切れます。急いでください』

 

『ヨナ、状況は』

 

 アラタの声が、続いた。

 

「子供たちが、動き始めた」

 

 ヨナが答えた。

 

「サミルが、話しかけた。今、連れ出してる。もう少し、時間がかかる」

 

 拠点のイルミネーターの前で、アラタは、その報告を聞いていた。画面の上で、ヨナたちの点が、建物の中にあった。子供の点も、そこにあった。だが、まだ動いていなかった。時間が、迫っていた。

 

 アラタは、焦りを覚えた。

 

 あと一分。その一分で、子供を連れ出さなければならない。もし間に合わなければ、通信が復旧し、部隊が動き出す。そうなれば、ヨナたちが危険にさらされる。子供も、助けられない。

 

 その時、アラタの中で、一つの考えがよぎった。

 

 もし、子供が動かないなら。もし、間に合わないなら。何人か、諦めるべきかもしれない。全員を連れ出せないなら、連れ出せる子だけを。それが、効率的だった。それが、被害を最小にする判断だった。

 

 その考えが浮かんだ瞬間、アラタは、ぞっとした。

 

 諦める。何人か。効率のために。それは、まさに、エリザのやり方だった。選別。救える子だけを救い、残りを切り捨てる。全体を見る指揮官が、必ず陥る思考。アラタは、今、その思考に、足を踏み入れかけていた。

 

「違う」

 

 アラタは、声に出して言った。

 

「一人も、置いていかない」

 

『アラタ?』

 

 ナディアの声が、通信機から聞こえた。

 

「ナディア」

 

 アラタは、言った。その声には、迷いを振り払うような響きがあった。

 

「一人も、置いていかない。全員、連れ出す。時間が足りないなら、作る。ワイリさん、通信ノードの遮断を、もう一度、延長できますか」

 

『延長?』

 

 ワイリの声が、返ってきた。

 

『できなくはない。だが、二度目は危険だ。位置がバレる。俺が、危なくなる』

 

 その言葉に、アラタは、一瞬、詰まった。

 

 ワイリを危険にさらす。全員を救うために。それは、また別の天秤だった。子供を救うために、ワイリを危険にさらす。その選択を、アラタは迫られた。

 

 だが、今度は、アラタは、その天秤に呑まれなかった。

 

「ワイリさん」

 

 アラタは言った。

 

「無理は、頼みません。あなたを危険にさらしてまで、延長はしない。それは、順番が違う。別の方法を考えます」

 

 彼は、画面を見た。全体を見た。子供のいる建物。ヨナたちの位置。部隊の推定位置。そして、通信が復旧するまでの、残り時間。その全体の中から、彼は、別の道を探した。

 

「東條さん」

 

 アラタは言った。

 

「通信が復旧しても、部隊が動き出すまでには、少し時間がかかります。混乱から立て直すのに。その時間を使えば、まだ間に合う。子供を連れて、建物の裏へ。裏の道から、退避を。その道なら、部隊の目が届きにくい」

 

『わかりました』

 

 東條が答えた。

 

 アラタは、通信ノードの延長という、誰かを危険にさらす道を選ばなかった。代わりに、彼は、全体を見て、別の道を見つけた。部隊が立て直すまでのわずかな時間。それを使って、裏の道から退避する。それは、誰も余計に危険にさらさない道だった。

 

 全体が見えるということは、選別のためだけではなかった。全体が見えるからこそ、彼は、誰も切り捨てない道を、見つけられた。イルミネーターは、選別の道具にもなれば、全員を救う道具にもなれた。それを、どちらに使うかは、使う者次第だった。

 

     *

 

 子供たちを連れて、ヨナたちは建物の裏へ回った。

 

『通信、復旧しました』

 

 ナディアの声が、緊張を帯びた。

 

『部隊が、動き始めます。急いでください』

 

 だが、アラタの読み通り、部隊はすぐには動けなかった。通信が絶たれていた間の混乱から、立て直すのに、わずかな時間がかかっていた。その時間が、ヨナたちに、退避の隙を与えた。

 

 ヨナは、子供たちを先に行かせた。

 

 自分は、しんがりに立った。もし部隊が追ってきたら、自分が食い止める。子供たちを、先に逃がす。それが、ヨナの役目だった。かつて、誰も自分を逃がしてくれなかった。だからこそ、ヨナは、この子供たちを逃がす側に立った。

 

「東條さん、サミル、子供を頼む」

 

 ヨナが言った。

 

「俺は、後ろを見る」

 

「無理はするな」

 

 東條が言った。

 

「わかってる」

 

 ヨナは、短く答えた。

 

 彼は、建物の裏で、しんがりに立った。子供たちが、東條とサミルに連れられて、裏の道を退避していく。その背中を、ヨナは見送った。逃げろ。振り返るな。まっすぐ、進め。ヨナは、胸の中で、そう繰り返した。

 

     *

 

 拠点のイルミネーターの前で、アラタは、その全体を見ていた。

 

 子供たちの点が、裏の道を進んでいく。東條とサミルの点が、それを守っている。ヨナの点が、しんがりに立っている。そして、部隊の点が、少しずつ、混乱から立て直しつつあった。

 

 アラタは、その全体を見ながら、指示を出し続けた。

 

「東條さん、そのまま裏の道を。左に折れると、部隊の視界に入ります。右へ。右の道なら、安全です」

 

『了解』

 

「ヨナ、部隊が、東側から回り込もうとしてます。でも、まだ距離がある。今なら、引けます。子供たちを追って、退避を」

 

「わかった」

 

 アラタの指示は正確だった。全体が見えているからこそ、彼はどこに危険があってどこに安全な道があるかを示せた。ヨナたちはその指示に従って退避していった。一人も、欠けることなく。

 

 そして、アラタはその指示の一つ一つに名前を添え続けた。

 

 東條さん。ヨナ。サミル。彼は誰一人、点としては扱わなかった。全体を見ながら名前で呼び続けた。万能感に呑まれそうになりながら、選別の誘惑に駆られそうになりながら、彼は名前という手綱を離さなかった。

 

 やがて、隊は、工業地区の外へ退避した。

 

 子供たちを連れて。一人も、欠けることなく。ワイリも、危険にさらされることなく。全員が、無事だった。それは、前回とは違う結果だった。前回、アラタは子供を残して引いた。だが今回、彼は、全員を連れ出した。

 

『全員、退避完了しました』

 

 ナディアの声が、通信機に響いた。その声には、安堵が滲んでいた。

 

『子供たち、四人。全員、無事です。ヨナも、東條さんも、サミルも、ワイリも。誰も、欠けてません』

 

 その報告を聞いて、アラタは、イルミネーターの前で、深く息を吐いた。

 

 全員が、無事だった。子供を救い、仲間も失わなかった。それは、彼がイルミネーターを使いこなした結果だった。だが同時に、それは、彼がイルミネーターに呑まれなかった結果でもあった。名前を呼び続け、選別を拒み、誰も切り捨てなかった。その結果が、この「全員無事」だった。

 

 だが、アラタの胸には、安堵だけではないものが残っていた。

 

 彼は、あの一瞬、選別を考えた。何人か諦めることを。効率のために。その考えが浮かんだこと自体が、彼を怖がらせた。今回は、踏みとどまれた。名前を呼び、別の道を見つけ、全員を救えた。だが、あの一瞬、彼は確かにエリザと同じ思考へ足を踏み入れかけていた。

 

 次も、踏みとどまれるだろうか。

 

 その問いが、アラタの中に残った。今回は、良かった。だが、イルミネーターを使い続ければ、あの選別の思考は、また忍び込んでくる。そのたびに、踏みとどまれるとは限らない。彼は、この道具を使うたびに、その誘惑と戦い続けなければならなかった。

 

     *

 

 その様子を、エリザ・クロウは、画面越しに見ていた。

 

 アラタが、工業地区から子供を連れ出した。四人。全員。一人も欠けることなく。それは、彼女の予想を、また外れていた。

 

 彼女は、工業地区に部隊を配置していた。子供を餌にして、アラタが無理をするのを待っていた。だが、アラタは無理をしなかった。通信ノードを遮断し、部隊の連携を崩し、その隙に子供を連れ出した。冷静で、的確な作戦だった。

 

「見事、ですね」

 

 エリザは、静かに呟いた。

 

 それは、悔しさではなかった。むしろ、感嘆に近かった。アラタは、彼女の罠を、正面から破らずに、裏をかいて破った。それは、指揮官として、確かな成長だった。

 

 だが、エリザは、その成長の中に、別のものを見ていた。

 

 アラタは、後方から指揮を執っていた。画面越しに、人を動かしていた。全体を見て、的確に指示を出していた。それは、まさに、エリザ自身のやり方だった。アラタは、子供を救うために、エリザと同じ技術を、使い始めていた。

 

「近づいてきましたね」

 

 エリザは、呟いた。

 

「私に」

 

 彼女は、画面を見つめた。そこには、退避していくアラタの隊が映っていた。子供を連れて。全員、無事で。アラタは、勝った。今回の盤面では。だが、その勝ち方こそが、彼をエリザに近づけていた。

 

 子供を救うために、子供を管理する側の技術を使う。全体を見て、人を動かし、後方から指揮を執る。それは、アラタが最も嫌っていたはずのやり方だった。だが、彼は、子供を救うために、それを使い始めていた。

 

「あなたは、気づいていますか」

 

 エリザは、画面に向かって呟いた。

 

「子供を救うたびに、あなたが、私に近づいていることを」

 

 答えは、返ってこなかった。当然だった。彼女は、ただ一人、画面の前にいるだけだった。だが、その問いは、エリザ自身にも、跳ね返ってきた。

 

 なぜ、自分は、あの青年に、これほど惹かれるのか。

 

 効率で割り切れないはずの青年。名前を呼び、選別を拒み、全員を救おうとする青年。彼のやり方は、エリザから見れば、非効率だった。だが、その非効率な青年が、今、彼女のやり方に近づいてきている。子供を救うために。その矛盾が、エリザの興味を、静かに引いていた。

 

 彼女は、画面を切り替えた。

 

 今回の盤面は、アラタの勝ちだった。だが、盤面は、まだ続いていた。塔は、まだ高い。アラタは、その塔に近づいてくる。子供を救いながら。そして、少しずつ、エリザに似ていきながら。

 

 その先で、二人が出会う時、何が起こるのか。それは、エリザにも、まだわからなかった。だが、彼女は、その時を、どこか待っている自分に気づいていた。

 

     *

 

 拠点へ戻る車の中で、子供たちは、まだ怯えていた。

 

 助け出されたことが、まだ信じられない様子だった。彼らは、車の隅に身を寄せ合って、外の景色を、不安そうに見ていた。どこへ連れて行かれるのか。また、別の場所で、番号で呼ばれるのか。その不安が、彼らの顔に滲んでいた。

 

「大丈夫だ」

 

 サミルが、子供たちに声をかけた。

 

「もう、番号じゃない。これから、名前を探す。君たちの名前を。ゆっくりでいい。焦らなくていい」

 

 子供たちは、その言葉を、まだ完全には信じられない様子だった。だが、サミルの穏やかな声は、彼らの怯えを、少しずつ和らげていた。同じ子供の言葉が、大人の言葉よりも、彼らの心に届いていた。

 

 ヨナは、その様子を、静かに見ていた。

 

 サミルが、子供たちに話しかけている。かつて番号だった子供が、今、別の番号だった子供を、救おうとしている。名前を探そうと、語りかけている。その光景に、ヨナは、静かな何かを感じた。

 

 救われた者が、次の者を救う。その連鎖が、ここにあった。ヨナ自身も、そうだった。かつて救われた者として、今、誰かを救う側に立っている。サミルも、同じだった。そして、この子供たちも、いつか、次の誰かを救う側に立つかもしれなかった。

 

 その連鎖こそが、あの塔に対する、たった一つの抵抗だった。塔は、子供を番号にする。名前を奪う。数で数える。だが、救われた子供が、次の子供を救う。名前を、呼び戻す。その連鎖が続く限り、塔は、完全には勝てなかった。

 

「ヨナ」

 

 サミルが、振り返った。

 

「なに」

 

「僕、少しだけ、わかった気がする」

 

 サミルが言った。

 

「助けるために強くなるって、こういうことなんだね。この子たちを、名前で呼ぶために。番号に戻させないために。そのために、強くなるんだ」

 

 ヨナは、その言葉に、少しだけ頷いた。

 

「ああ」

 

 彼は、短く答えた。

 

「そういうことだ」

 

 それ以上は、言わなかった。だが、その短い言葉の中に、ヨナの、サミルへの確かな肯定があった。サミルは、強くなる理由を、間違えていなかった。助けるために強くなる。その理由を、彼は、掴みかけていた。

 

 車は、拠点へと向かって走り続けた。子供たちを乗せて。四人の、まだ名前のわからない子供たちを。だが、その空欄は、これから埋められる。ゆっくりと。一つずつ。焦らず、順番を守って。それが、アラタたちのやり方だった。

 

 

 

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