JORMUNGAND:マージナル・チルドレン   作:たこ焼き 龍月

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第一章 バベル・ルート

 

 カラバル共和国の朝は、夜よりも乾いていた。

 

 港湾都市サルマの空は薄く白み、太陽はまだ低い位置にある。だが、空気にはすでに熱が混じっていた。海沿いの倉庫街では、夜の騒ぎなど最初から存在しなかったかのように、作業員たちがコンテナを動かし、フォークリフトが埃を巻き上げていた。

 

 前の晩、銃声があった。

 照明が落ち、煙が流れ、武装した男たちが怒鳴り合った。

 それでも港は止まらない。

 港は、世界の胃袋みたいなものだ。

 何を飲み込んでも、翌朝にはまた動き出す。

 

 ココ・ヘクマティアルは、安ホテルの一室で窓の外を見ていた。

 部屋は広いが、豪華ではない。壁紙は少し浮き、天井のファンは回るたびにかすかな異音を立てる。窓の外には港湾地区の屋根と、遠くに海が見えた。海は美しかったが、ココは美しいものをそのまま信用するほど無邪気ではなかった。

 

 テーブルの上にはノートパソコン、紙の資料、携帯端末、港湾地図、カラバル共和国の行政区分図が広げられている。

 レームは椅子に座り、昨夜の映像を確認していた。

 ルツは壁にもたれてコーヒーを飲んでいる。

 マオは窓際で銃の整備をしていた。

 東條は地図に印をつけ、ワイリは持ち込んだ工具箱を開けたり閉めたりしている。

 ウゴはドア近くで腕を組み、無言で廊下の気配を聞いていた。

 バルメはココのそばに立ち、ヨナは部屋の隅で床に座っていた。

 全員が黙っているわけではない。だが、軽口の量はいつもより少なかった。

 

「子供の部隊、か」

 

 ルツが紙コップを揺らした。

 

「嫌なもん見ちまったな」

「今さらか?」

 

 マオが言った。

 

「俺たちはさんざん嫌なもん見てきただろ」

「そういう話じゃねえよ。あれは、なんつうか……嫌な方向に手際がよかった」

 

 ルツは映像の一部を指差した。

 レームが停止したフレームを少し戻し、再生速度を落とす。画面の中では、港の照明が落ちた直後の混乱が映し出されていた。煙幕が流れ、怒号が飛び交い、武装した男たちが周囲を警戒している。その隙間を縫うように、小さな影が動いていた。

 

 煙の中を小さな影が走る。兵士の足元に物を投げ、注意を逸らし、無線を奪う。別の子供が車両番号を確認し、さらに別の子供が監視カメラの死角に滑り込む。

 

 一人が目立つわけではない。

 誰かが囮になれば、別の誰かが情報を取る。情報を取った子供が離脱すると、今度は別の子供が進路を確保する。まるで事前に何度も訓練したかのように、それぞれが自分の役割を理解して動いていた。

 

 映像をよく見なければ気づかないほど細かな連携だった。

 兵士の視線が右へ向いた瞬間に左を抜ける子供。コンテナの陰から手信号を送る子供。転んだふりをして相手の足を止める子供。どれも単独なら大した行動ではない。だが、それが連続すると状況は大きく変わる。

 

 派手ではない。

 銃を乱射するわけでもない。

 英雄のように敵を倒すわけでもない。

 だが、無駄がない。

 

 必要なことだけを選び、必要な時間だけ姿を見せ、危険になる前に消える。その動きには戦場特有の勘だけではなく、誰かが全体を見て指示している気配があった。

 ルツは画面を見ながら小さく舌を鳴らした。

 

「これが一番気持ち悪いんだよ」

 

 彼は腕を組む。

 

「ガキが銃を持ってるのは珍しくねえ。戦場じゃ腐るほど見てきた。でも、こいつらは違う。撃つことより先に、どうやって相手を止めるか考えてる」

 

 映像の中では、一人の兵士が無線機を探して慌てている。その間に別の場所で車両が足止めされ、さらに別の場所では監視の穴が作られていた。

 

 小さな行動が積み重なり、大人たちの動きを鈍らせていく。

 まるで歯車に砂を流し込むようなやり方だった。

 目立たない。

 だが確実に効いている。

 だからこそ、不気味だった。

 

「殺す訓練じゃない」

 

 東條が言った。

 

「止める訓練だ。足を止める。目を逸らす。情報を抜く。撤退経路を作る。昨夜の映像を見返したが、誰も無駄な動きをしていない。煙を投げた子、監視役、伝令役、陽動役、それぞれが自分の仕事だけをしている」

 

「へえ」

 

 ココが椅子の背にもたれた。

 

「東條にそこまで言わせるなんて、なかなかじゃない」

「褒めているわけではありません」

「まだ何も言ってないのに否定した」

「先に言っておきます」

 

 東條は表情を変えない。

 

「評価しているだけです」

「便利な言葉ねえ、その評価って」

「便利ではありません。事実です」

「じゃあ聞くけど、東條評価だと何点くらい?」

「点数化する意味がありません」

「あるわよ。私が面白い」

「それは評価基準になりません」

「なるなる。人生はだいたい面白いか面白くないかで決まるの」

「それはココの人生だけだろ」

 

 ルツが横から口を挟んだ。

 

「一般論みたいに言うな」

「失礼ね。私はいつだって一般市民の代表よ」

「武器商人が?」

「武器商人も市民よ」

「嫌な市民だな」

 

 ルツが呆れたように言う。

 

「まったく、お前はそうやって面倒ごとを増やすのが好きだな。普通なら避けて通るような話に、自分から首を突っ込んでいくんだから」

 

 その口調には半ば本気の呆れと、半ば慣れきった諦めが混じっていた。長い付き合いの中で、ココが一度興味を持った案件から簡単に手を引かないことを、ルツは嫌というほど知っている。

 周囲の何人かも小さく苦笑したが、ココ本人だけはまるで気にしていない様子だった。

 

 むしろ楽しそうですらある。

 ルツの言葉を聞き流しながら肩をすくめると、ココは軽く髪をかき上げた。そして何事もなかったかのように東條へ視線を戻した。

 その表情にはいつもの余裕が浮かんでいる。

 まるで今のやり取りなど最初から重要ではなかったと言わんばかりだった。

 

 東條は小さく息を吐いた。

 

「強いて言うなら、訓練度は高い。統率も取れている。経験不足はあるが、それを役割分担で補っている」

「おお」

「ただし」

「出たわね、ただし」

「子供です」

 

 東條は即答した。

 

「体力も筋力も判断力も限界がある。大人の兵士と正面から戦えば不利です。だからこそ、あの運用は合理的です」

 

「つまり?」

「生き残るための訓練です」

 

 部屋が少し静かになる。

 東條が画面の一点を指差した。

 レームはその動きに合わせて映像を止め、示された箇所へ視線を向けた。

 そこには、煙の流れる倉庫街の通路が映っている。視界は悪く、兵士たちは周囲を警戒しながら前進していた。その中で、小さな影が一瞬だけ姿を見せる。

 走っているようにも見える。だが、よく見ると違う。

 その子供は兵士の正面には出ない。わざと視界の端を横切り、注意を引いた瞬間に物陰へ消えている。

 

 兵士の一人が反応して振り返る。

 そのわずかな動きによって、別方向への警戒が薄れる。

 さらに数秒後、別の場所で別の子供が動く。

 まるで連携しているかのように。

 

「ここを見てください」

 

 レームは映像を少し戻し、今度は速度を落として再生した。

 

「この子供は兵士を攻撃していません。撃ってもいない。ただ、自分の存在を認識させている」

 

 画面の中で、小さな影がコンテナの陰から顔を出し、すぐに引っ込む。

 兵士は反射的に銃口を向ける。

 しかし、その時にはもう誰もいない。

 

「普通なら意味のない行動に見える」

 

 東條が腕を組みながら言った。

 

「ですが、兵士の注意を奪うという意味では非常に効果的です」

「なるほどね」

 

 ココは椅子の背にもたれながら映像を見つめた。

 

「撃たなくても相手を止められるってことか」

「そうです」

 

 レームは頷く。

 

「そして、その間に別の人間が動く」

 

 映像が進む。

 兵士たちの視線が逸れた瞬間、別方向からさらに小さな影が走り抜ける。

 無線機を奪う者。

 車両番号を確認する者。

 監視カメラの死角へ移動する者。

 それぞれが違う役割を持ち、無駄なく動いていた。

 

「普通の少年兵なら銃を撃ちたがる」

 

 レームは静かに言った。

 

「銃を持ったばかりの子供は、自分の力を証明したがることが多い。敵を倒したい。強く見られたい。恐怖を隠したい。理由はいろいろありますが、結果として発砲に頼る」

「そうなの?」

 

 ココが聞く。

 彼女は興味深そうに首を傾げた。

 

「もちろん全員じゃない。だが戦場に放り込まれたガキは経験が足りない。だからこそ、銃みたいなわかりやすい力に頼りやすくなるんだ」

「でも、この子たちは違う」

 

 東條が画面を見ながら言った。

 

「撃つことよりも、相手を動かすことを優先している」

「その通り」

 

 レームは映像を停止した。

 画面には、煙の向こうへ消えていく小さな背中が映っている。

 

「彼らは戦闘そのものより、状況の制御を学んでいる」

「嫌な言い方をすると」

 

 ルツがコーヒーを飲みながら口を挟んだ。

 

「子供の特殊部隊みたいなもんか」

「そこまで洗練されてはいない」

 

 レームは否定した。

 

「だが、方向性は近い」

 

 部屋の空気が少し重くなる。

 先ほどまで交わされていた軽口も、自然と途切れていた。

 誰も軽々しく感心はしなかった。

 映像の中で動いているのは、訓練された兵士ではない。

 まだ成長途中の子供たちだ。

 

 それなのに、その動きには無駄が少なかった。

 誰が前に出るべきか。

 誰が周囲を見るべきか。

 誰が情報を運ぶべきか。

 そうした役割分担が、まるで長い時間をかけて磨かれたチームのように機能している。

 子供が優秀であることは、必ずしも良い意味ではない。

 

 むしろ戦場では逆だ。

 子供が上手く戦えるという事実そのものが、どこか歪んでいる。

 ココはしばらく映像を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。

 彼女の視線は画面の中の子供たちを追っている。

 その目は笑っていなかった。

 普段の軽薄そうな明るさもない。

 ただ静かに、情報として状況を整理している目だった。

 

「つまり」

 

 彼女は画面の中の小さな影を指差す。

 

「誰かが教えてるのね」

「そう考えるのが自然です」

 

 レームが答えた。

 彼もまた映像から目を離さない。

 

「しかも、かなり意図的に」

 

 短い言葉だったが、その意味は重かった。

 偶然ではない。

 成り行きでもない。

 誰かが明確な目的を持って子供たちを訓練している。

 その事実だけで、この件は単なる難民問題でも、孤児の自衛組織でもなくなる。

 もっと大きな何かが背後にある。

 そんな予感が、部屋の中に静かに広がっていた。

 ココの目が細くなる。

 昨夜見た黒髪の青年。

 

 アラタ。

 彼の姿が頭に浮かんだ。

 

「面白いじゃない」

 

 ココはそう言ったが、その声にはいつもの軽さだけではない何かが混じっていた。

 

「面白い?」

 

 ヨナが眉をひそめる。

 その反応は露骨だった。心底理解できないものを見るような顔で、わずかに首まで傾けている。まるで「何が面白いんだ」と言外に訴えているようだった。

 

「ええ」

 

 ココは微笑んだ。

 

「子供に銃の撃ち方を教える人間はいくらでもいる。でも、撃たない戦い方を教える人間は少ないもの」

 

 ココはそう言いながら、昨夜の映像をもう一度見返した。

 煙の中を走る小さな影。兵士の注意を引きつける役、監視の目を逸らす役、逃走経路を確保する役。それぞれが無駄なく動いている。だが、不思議なことに、誰も積極的に引き金を引こうとはしていなかった。

 

 戦場では珍しい光景だった。

 普通なら、武器を持った時点で人はそれを使いたくなる。まして訓練を受けた者ならなおさらだ。だが、あの子供たちは違った。銃は持っている。扱いにも慣れている。それでも、銃撃そのものを目的にしていない。

 

「戦場では、銃を持つこと自体が力だからです」

 

 東條が答える。

 

「ですが、彼らは撃たない。撃つよりも、相手を遅らせることを優先している」

「確かに」

 

 レームも頷いた。

 

「俺も気になった。あの連中、必要以上に戦おうとしてない」

 

 彼は腕を組みながら映像を見る。

 

「普通なら、あれだけ上手く動けるなら何人かは撃ってる。少なくとも威嚇射撃くらいはするだろう。でも、あいつらは違う。相手を倒そうとしてるんじゃなくて、通り過ぎようとしてる感じだ」

「そうね」

 

 ココも同意した。

 

「勝つためじゃなくて、目的を達成するために動いてる」

「戦闘が目的じゃないんでしょうね」

 

 東條が言う。

 

「むしろ戦闘そのものを避けているように見えます。敵を排除することよりも、情報を持ち帰ること、誰かを逃がすこと、あるいは時間を稼ぐことを優先している」

「戦場慣れしてる考え方だな」

 

 レームが苦笑する。

 

「皮肉な話ですが」

 

 東條は淡々と答えた。

 

「本当に戦場を知っている人間ほど、戦闘を避けようとします。戦えば必ず損害が出る。勝っても無傷では済まない。だから目的を達成できるなら、戦わない方が合理的です」

「子供らしくないわね」

 

 ココが呟く。

 

「ええ」

 

 東條も否定しなかった。

 

「少なくとも、誰かがそう教えています」

 

 部屋の空気が少しだけ重くなる。

 誰か。

 あの子供たちの背後にいる人物。

 昨夜、煙の向こうに立っていた青年の姿が自然と全員の脳裏に浮かんだ。

 

「アラタか」

 

 レームが言った。

 

「たぶん」

 

 ココは椅子にもたれながら答える。

 

「少なくとも、あのやり方は偶然じゃないわ」

 

 映像の中で、子供たちは再び走る。

 撃たない。

 殺さない。

 それでも確実に相手を翻弄している。

 戦場では珍しく、そして危険なやり方だった。

 なぜなら、それは単なる兵士ではなく、自分で考える人間を育てる方法だったからだ。

 

「目的が別にある」

「子供を取り返すこと、とか?」

 

 ココの言葉に、ヨナの視線がわずかに動いた。

 

「可能性は高いです」

 

 東條は続ける。

 

「少なくとも、昨夜の動きは利益目的の武装集団には見えません」

「へえ」

 

 ココは顎に指を当てた。

 

「じゃあ東條評価だと、あのアラタって人は?」

「危険です」

「即答」

「子供たちが自発的に動いているように見えるからです」

「それが危険?」

「はい」

 

 東條は迷わなかった。

 

「恐怖で従わせる人間はわかりやすい。金で従わせる人間もわかりやすい。しかし、自分の意思で動かせる人間は厄介です」

 

「なるほどね」

 

 ココは少し楽しそうに笑う。

 

「カリスマ型?」

「そうとも限りません」

「じゃあ?」

 

「信頼されている」

 

 東條は短く言った。

 その言葉に、ココはわずかに眉を上げた。

 

「信頼、ね」

「はい」

 

 東條は淡々と続ける。

 

「信用ではありません。信頼です。あの子たちはアラタという人間のすべてを理解しているわけではないでしょうし、隠していることもあるはずです。ですが、それでも最終的には彼の判断に従う。危険な場所へ行く時も、撤退を命じられた時も、納得できない指示を受けた時でさえ、どこかで彼を信じている」

 

 東條は少しだけ視線を落とした。

 

「それは命令や恐怖では作れません。金でも買えない。だからこそ厄介です」

 

 ココは興味深そうに首を傾げる。

 

「ずいぶん高く評価するのね」

「評価しているだけです」

 

 東條はいつもの調子で答えた。

 

「実際、子供たちは彼のために動いているように見えて、その実、自分たちの意思で動いています。だから統制が難しい。しかし同時に、非常に強い」

 

 レームが腕を組んだ。

 

「戦場じゃ珍しいな」

「ええ。普通は恐怖か利益で縛ります。その方が管理しやすい」

 

 東條は静かに言う。

 

「ですが、信頼で繋がった集団は別です。一人を排除しても簡単には崩れない。むしろ反発が強くなる場合もあります」

 

 ココは小さく笑った。

 

「なるほど。それで?」

「それが一番面倒です」

 

 東條はそう結論づけた。

 

「信頼されている人間は、自分がどれだけ影響力を持っているか自覚していないことが多い。そして周囲も、その価値を軽く見積もりがちです。ですが実際には、武器や資金より厄介な場合があります」

 

 彼は窓の外へ目を向けた。

 

「人は、信頼している相手のためなら無茶をしますから」

「東條、信頼って言葉嫌いそう」

「嫌いではありません」

「好きでもなさそう」

「仕事の現場では危険な要素です」

「夢がないわねえ」

「夢で生き残れるなら苦労しません」

「それもそうか」

 

 

 ココは肩をすくめながら笑った。東條は相変わらず表情をほとんど変えない。その淡々とした受け答えに、部屋の空気がわずかに緩む。冗談なのか本気なのか判別しづらいところも含めて、東條らしい反応だった。

 

 その笑いに、少しだけ部屋の空気が緩む。だが、ヨナだけは笑わなかった。

 彼は昨夜出会った少女のことを考えていた。

 

 ジブリール。

 褐色の肌。大きな目。まだ幼さの残る顔立ち。それなのに、その細い腕は迷いなく銃を構えていた。戦場にいることが当たり前になってしまった子供の目をしていたが、その奥には消えない強い意志があった。

 

 昨夜、煙と混乱の中で向けられた視線をヨナは覚えている。

 怯えでもなく、虚勢でもない。

 ただ真っ直ぐだった。

 彼女はヨナに向かって、はっきりと言った。

 ――子供を取り返しに来た。

 その言葉が、なぜか頭から離れなかった。

 ヨナは膝の上で手を組む。

 子供が子供を取り返す。

 

 言葉だけ聞けばおかしい。どこか歪んでいて、本来なら成立するはずのない話だ。助ける側も助けられる側も子供だなんて、まともな世界ならありえない。

 戦場は人間から順番を奪っていく。大人が守るはずのものを守らなくなり、子供が背負う必要のないものを背負わされる。気づけば誰もが、自分の年齢にふさわしくない役割を押しつけられている。

 

 ジブリールもそうだった。

 彼女はまだ子供だった。

 それなのに、自分より小さな子供たちを守ろうとしていた。

 その姿が、少しだけ昔の自分と重なった。

 だから気になったのかもしれない。

 

 ヨナは小さく息を吐いた。

 戦場には似たような子供が大勢いる。今さら一人増えたところで不思議ではない。そう思うのに、ジブリールの言葉だけは妙に耳に残っていた。

 

 ――子供を取り返しに来た。

 まるで、それ以外に選択肢など存在しないと言うような声だった。

 ヨナは、それを知っている。そういう声を出す人間を知っている。

 そして、そういう人間ほど危険な場所へ向かってしまうことも知っていた。

 

「ヨナ」

 

 バルメが声をかけた。

 

「何だ」

「顔色が悪い」

「いつもだ」

「いつもより悪い」

 

 ルツが口を挟んだ。

 

「お、バルメと俺の意見が一致した」

「黙れ、ルツ」

「はい」

 

 ヨナはうるさそうに眉を寄せた。

 

「大丈夫だ」

「大丈夫な奴はそういう顔をしない」

 

 バルメはそう言ったが、それ以上は何も聞かなかった。

 彼女はヨナを守りたいと思っている。

 だが、ヨナは守られるだけの存在でいることを嫌う。

 そのため、二人の距離感はいつも難しかった。

 

 レームが映像を止めた。

 画面には、煙の向こうに立つ青年の姿が映っている。

 

 黒髪。細い体つき。派手な装備もなければ、いかにも戦場慣れした兵士という雰囲気もない。むしろ、どこにでもいそうな若者に見えた。だが、その周囲で動いていた子供たちの行動を追っていくと、自然と視線は彼へ集まる。

 

 レームは映像を少し巻き戻した。

 煙幕が展開された瞬間、複数の子供が別々の方向へ散開する。誰も無駄に走らない。誰も勝手な行動を取らない。監視役、攪乱役、情報回収役、それぞれが役割を理解して動いている。

 

「本人の戦闘能力は未知数。少なくとも前線で撃ち合っていた様子はない。だが、指揮能力は相当高い」

 

 レームは画面を指差した。

 

「見ろ。このタイミングだ。警備側が煙に気を取られた瞬間に子供たちが動いている。偶然じゃない。誰かが全体を見て指示を出している」

 

 東條も映像を覗き込む。

 

「統制が取れすぎていますね」

「しかも軍隊式じゃない。命令で無理やり動かしている感じがないんだ。連中、自分で判断しているように見える」

「それでいて連携は崩れていない」

 

 東條が静かに言った。

 

「普通なら難しいですね」

「だから厄介なんだ」

 

 レームは腕を組む。

 

「訓練された兵士なら行動パターンが読める。だが、あの子供たちは違う。柔軟で、予測しづらい。その上で全体の目的だけは共有されている」

 

 映像の中のアラタは大きく動かない。

 前に出て戦うわけでもない。目立つ指示を出しているわけでもない。

 それでも、子供たちの動きを追っていくと、最終的に彼の存在へ行き着く。

 

「目立たないな」

 

 ルツが呟いた。

 

「だから余計に気になる」

 

 レームは短く答えた。

 

「目立ちたがる指揮官は多い。だが、本当に厄介なのは、自分が目立たなくても組織を動かせる奴だ」

 

 画面の中で、アラタが誰かに何かを伝えている。

 映像に音声はない。

 だが、その一言だけで周囲の子供たちが動き出したように見えた。

 

「少なくとも」

 

 レームは最後にそう付け加えた。

 

「昨夜の連中がただの寄せ集めじゃないことだけは確かだ。そして、その中心にいるのがこのアラタだ」

「ふーん」

 

 ココは椅子に腰を下ろし、足を組んだ。

 

「子供使い、ね」

 

 その呼び名を聞いた瞬間、ヨナの目が少しだけ動いた。

 

「その呼び方、やめろ」

 

 低い声だった。

 部屋の中の何人かがヨナを見る。

 ココは目を丸くしたあと、にこっと笑った。

 

「あら、嫌い?」

「嫌いだ」

「本人じゃなくて?」

「呼び名が嫌いだ」

「理由は?」

 

 ヨナは答えなかった。

 ココは数秒だけヨナを見て、それから肩をすくめた。

 

「じゃあ、アラタ陣営。これでいい?」

「勝手にしろ」

「はいはい」

 

 レームは話を戻した。

 

「問題は、アラタ陣営が持っている情報だ。子供の売買、白い学校、バベル・ルート。昨夜の連中が本当に証拠を持っているなら、こっちの契約は完全に地雷だ」

 

 彼はそう言いながら、机の上に広げられた資料を指先で軽く叩いた。

 港湾地区の監視記録。輸送車両の移動経路。政府関係者と民間軍事会社の契約書の写し。どれも単体では決定打にならないが、並べて見ると嫌な輪郭が浮かび上がってくる。

 

「しかも厄介なのは、その地雷がどこに埋まっているのか、まだ全部見えていないことだ」

 

 レームは続けた。

 

「ハキム大佐が隠していることがあるのは確実だ。グレイ・ハウンドも何かを握っている。そこへアラタ陣営が持っている情報が加わる。もし全部が一本の線で繋がったら、俺たちは知らないうちに爆発物の真ん中に立っていたことになる」

 

「楽しそうじゃない」

 

 ココが口元を緩める。

 

「全然楽しくありません」

 

 東條が即座に返した。

 

「私は楽しいわよ」

「だから困るんです」

 

 東條はため息をついた。

 ルツが肩をすくめる。

 

「まあ、ココが楽しそうな時って、大体ろくでもない案件だしな」

「失礼ね」

「事実だろ」

「事実でも失礼なものは失礼なの」

 

 ココはそう言って笑ったが、その目は資料から離れていなかった。

 白い学校。

 バベル・ルート。

 昨夜出会ったアラタという青年。

 それぞれがまだ断片に過ぎない。だが、断片同士が妙に噛み合っている気配がある。

 

「地雷でも、踏み方によっては道になるわ」

 

 ココが言った。

 その声は軽かったが、内容は軽くない。

 

「危険な場所ほど、人が隠したいものが埋まっている。誰も近づきたがらない場所だからこそ、本当に価値のある情報が残るのよ」

 

「うっかり踏めば吹っ飛びますよ」

 

 東條が返す。

 

「だから、うっかり踏まないの」

 

 ココは椅子の背にもたれながら言った。

 

「地雷原を歩く時に必要なのは勇気じゃない。地図と観察力と、それから少しの運よ」

「最後が一番信用できませんね」

 

 レームが言う。

 

「運だけで生き残れるほど、戦場は優しくない」

「もちろん。だから運に頼る前に、できるだけ情報を集めるの」

 

 ココは机の上の資料を一枚持ち上げた。

 

「アラタたちが持っている情報。ハキム大佐が隠している情報。グレイ・ハウンドが隠している情報。その全部を並べれば、地雷原の形くらいは見えてくるかもしれない」

「見えたとしても、安全とは限りません」

 

 東條は冷静に言った。

 

「ええ。でも、見えないまま歩くよりはずっといい」

 

 ココはそう言って資料を机に戻した。

 部屋の中に短い沈黙が落ちる。

 誰も楽観していなかった。

 昨夜の出来事は偶然ではない。アラタたちが現れたことも、子供たちが動いていたことも、その背後にある白い学校という存在も。

 

 何か大きな流れがある。

 そして、その流れの中心に近づきつつあることを、ここにいる全員が感じていた。

 

 ココは紙の地図に指を置いた。

 テーブルの上に広げられた地図は、何度も折り畳まれた跡が残っていた。新しい印刷物ではない。現地で手に入れた行政地図に、東條やレームが書き込みを加え、さらにココ自身が赤や青のペンで印をつけている。道路、検問所、港湾施設、軍の駐屯地。無数の情報が重なり合い、一見するとただの落書きのようにも見えた。

 

 だが、ココにとっては違う。

 地図は紙ではない。

 人間の流れだ。

 金の流れだ。

 武器の流れだ。

 そして時には、命の流れでもある。

 彼女の細い指先が、港湾都市サルマをなぞる。

 

 港湾都市サルマ。

 この国最大の貿易港。コンテナ船が出入りし、合法な貨物も違法な貨物も同じ海風を浴びながら運ばれていく場所。昼も夜も止まらず動き続ける巨大な胃袋。世界中から物資を飲み込み、また吐き出している。

 

 そこから指はゆっくりと内陸へ移動する。

 内陸へ伸びる幹線道路。

 舗装はされているが状態は悪い。軍用車両、鉱山関係者のトラック、支援団体の車列、そして密輸業者の車両までが同じ道を使う。国の血管のような道路だ。ここを押さえれば物流を支配できるし、逆にここが止まれば国全体が息苦しくなる。

 

 さらに北へ。

 北部鉱山地帯。

 カラバル共和国の重要な収入源。地下資源が眠り、それを巡って内戦が続いた土地。戦争が終わったと言われても、そこに集まる金と武器と人間の欲望までは消えていない。むしろ戦後だからこそ、別の形で争いが続いている。

 

 ココの指はそこで一度止まり、それから少し西へ滑った。

 難民キャンプ第七区。

 地図上では小さな印に過ぎない。

 だが実際には、一万人以上の人間が暮らしている場所だ。家を失った者。家族を失った者。帰る場所を失った者。支援物資を待ち、配給を待ち、明日を待ち続ける人々。

 

 そして子供たち。

 多すぎるほどの子供たち。

 ココは昨夜の映像を思い出した。煙の中を走る小さな影。銃を持つ細い腕。大人よりも早く状況を判断し、大人よりも危険な場所へ飛び込んでいく子供たち。

 

 彼女の指先はさらに地図の余白へ移動した。

 そこには何も描かれていない。

 行政地図には存在しない空白。

 ココは地図を見つめながら、小さく息を吐いた。

 点だけを見れば理解できない。

 だが線で結べば見えてくる。

 誰かがこの流れを作った。

 誰かが利益を得ている。

 誰かが子供たちを運び、誰かが受け取り、誰かが利用している。

 問題は、その「誰か」が一人ではないことだった。

 

「バベル・ルート。名前が大げさすぎて、むしろ気に入らないわね」

「聖書趣味ですかね」

 

 ワイリが言った。

 

「天まで届く塔。言語の混乱。人間の傲慢。武器密輸の名前にしちゃ、なかなか皮肉が効いてる」

「ワイリ、そういうの好きそうね」

「爆破対象としては、塔は嫌いじゃありません」

「まだ爆破しないでね」

「まだ、ですね」

 

 ココは笑い、すぐ真顔になった。

 

「ハキム大佐は嘘をついた。エリザ・クロウも嘘をついた。でも、嘘のつき方が違う。ハキム大佐は金を隠してる。エリザは仕組みを隠してる」

「グレイ・ハウンド社」

 

 レームが端末を操作し、資料を表示した。

 

「カラバル政府と治安維持契約を結んでいるPMC。復興支援施設の警備、鉱山周辺の警備、難民キャンプの外周警備まで請け負っている。表向きはきれいだが、関連会社が多すぎる」

 

「汚い会社ほど名刺が多いのよ」

 

 ココが言った。

 

「それで、今日の予定は?」

 

 バルメが聞いた。

 

「まずは難民キャンプ第七区」

 

 ココは軽く言った。

 まるで近くの市場へ買い物に行く予定でも告げるような口調だった。

 だが、その言葉が持つ意味は、この部屋にいる全員が理解していた。

 難民キャンプ第七区。

 

 地図の上ではただの一地点に過ぎない。行政資料の中では、支援対象者が集まる保護区域として記載されている。国際機関の報告書には、食料不足や衛生環境の問題が並び、政府の広報資料には復興の成果として写真が掲載されている。

 

 しかし実際には、そこは噂の中心だった。

 子供が消える場所。

 白い学校へ続く入口。

 そして、おそらくバベル・ルートの末端の一つ。

 昨夜までに集めた情報の多くが、その場所を指していた。

 部屋の空気が変わった。

 それまで雑談混じりだった空気が静まり、全員の意識が自然とココへ向く。

 

 ルツは紙コップを持ったまま動きを止めた。

 マオは分解していた銃から顔を上げる。

 東條は地図の上に置いていたペンを静かに置いた。

 ワイリは工具箱の蓋を閉じ、何かを考えるように顎へ手を当てる。

 

 ヨナもまた、床から顔を上げた。

 レームが眉を上げる。

 彼は椅子の背にもたれながら、ココをじっと見た。

 

「正面から行くのか?」

「正面から行かないと見えないものがある。復興支援に熱心な武器商人として、視察に行くわ」

「復興支援に熱心な武器商人」

 

 ルツが呟く。

 

「言葉同士が喧嘩してる」

「商売ってそういうものよ」

「俺は車で待ってていい?」

「だめ」

「ですよね」

 

 ココは立ち上がった。

 

「行きましょう。子供たちがどこから消えて、どこへ運ばれるのか。まずは入口を見る」

 

 ココはそう言って資料を閉じた。軽い口調だったが、その目は笑っていない。部屋にいる全員が、それを理解していた。

 武器の取引先が嘘をついていること自体は珍しくない。むしろ当たり前だ。だが今回の話は、単なる横流しや汚職では済まない匂いがしていた。

 

 子供たちが消えている。

 その事実だけで十分に厄介だった。

 

 レームは椅子から立ち上がり、腰の装備を確認する。東條は地図を丁寧に折りたたみ、ルツは飲みかけのコーヒーを一気に飲み干した。バルメは窓の外を見ながら周辺の様子を確認し、マオは銃の安全装置を確かめる。

 誰も大きな声では話さない。

 これから向かう場所が、ただの視察先ではないことを全員が理解していたからだ。

 ココはそんな仲間たちを見回し、満足そうに頷いた。

 

「難民キャンプっていうのはね、世界中どこでも似たような顔をしているの。でも、中身は全然違う。誰が管理しているのか、誰が儲けているのか、誰が泣いているのか。それを見るだけでも価値があるわ」

 

「嫌な価値だな」

 

 レームが言う。

 

「そうね。でも、嫌なものほど高く売れるのよ」

 

 ココは肩をすくめた。

 昨夜は断片だった情報が、少しずつ繋がり始めていた。

 その先にあるものを見たいわけではない。

 むしろ見たくない。

 だが、見なければならない気がしていた。

 

 ヨナは無言で立った。

 その動きが、いつもより少し早かった。

 バルメはその変化に気づいたが、何も言わなかった。

 ただ静かにヨナの後ろへ回り、いつでも守れる位置につく。

 ココはそんな二人を横目で見て、小さく笑う。

 

「さあ、仕事の時間よ」

 

 そう言って部屋の扉へ向かう。

 乾いた朝の光が廊下から差し込み、彼らを外へと誘っていた。

 

     *

 

 難民キャンプ第七区は、首都と鉱山地帯を結ぶ古い幹線道路の脇に広がっていた。

 

 かつては物流の要所だったらしいその道路も、今ではひび割れたアスファルトがところどころ剥がれ、戦争と放置の年月を物語っている。その道沿いに、白いテントが果てしなく並んでいた。規則正しく設置された区画もあれば、後から増設されたのだろう雑然とした一角もある。ところどころにトタン屋根の小屋や木材を組み合わせた粗末な住居が混じり、長期化した避難生活の現実を無言で示していた。

 

 赤土の地面は乾ききっている。人が歩くたびに細かな砂埃が舞い上がり、風に乗ってテントの隙間へ入り込む。給水車の周囲には長い列ができていた。大人たちは無言で順番を待ち、子供たちは空のポリタンクや金属製の容器を抱えて立っている。中には容器の重さに耐えられないほど幼い子供もいたが、それでも列から離れようとはしなかった。

 

 遠くから見れば、そこは人道支援の現場だった。

 国際機関の旗。

 支援団体の車両。

 整然と並ぶテント。

 配給所へ向かう人々の列。

 

 写真に撮れば、復興へ向かう国の一場面に見えるかもしれない。

 だが、近づけば別の匂いがする。

 乾いた土の匂い。

 汗の匂い。

 薬品の匂い。

 そして、それらに混じる目に見えない空気。

 

 諦め。

 空腹。

 警戒。

 取引。

 ここでは食料も、水も、薬も、情報も、時には人間さえも取引の対象になる。生き延びるために必要なものが不足している場所では、善意だけでは何も回らない。誰もが何かを失い、誰もが何かを求めている。その空気が、キャンプ全体に重く沈殿していた。

 

 テントの間では子供たちが遊んでいた。だが、その遊び声にもどこか遠慮がある。笑っているはずなのに、周囲を気にしている。大人たちの顔色を窺い、兵士の姿を見れば自然と道を空ける。その仕草は、この場所で長く生きてきた証拠だった。

 

 キャンプの入口には、カラバル共和国軍の兵士が二人立っていた。

 しかし、その姿は頼もしさとは程遠い。制服は汚れ、装備も統一されていない。銃の手入れも十分ではなく、立哨というより暇つぶしをしているように見える。片方は煙草をくわえ、もう片方は日陰を探すように壁へ寄りかかっていた。

 

 一方で、少し離れた場所にはグレイ・ハウンド社の装甲車両が停車している。

 黒と灰色で塗装された車体はよく整備されており、その周囲に立つ兵士たちの装備も統一されていた。防弾ベスト、通信機器、携行武器の配置まで無駄がない。姿勢も鋭く、周囲への警戒を怠っていない。

 共和国軍の兵士たちが「そこにいる」だけなのに対し、グレイ・ハウンドの兵士たちは「支配している」ように見えた。

 

 どちらが本当の管理者なのか。

 その答えは、キャンプへ足を踏み入れる前から一目でわかった。

 ココは白いスーツのまま車を降りた。

 ドアが開いた瞬間、乾いた熱気が流れ込んでくる。昼に近づいた太陽は容赦なく照りつけ、赤土の地面からはむっとするような熱が立ち上っていた。

 

 そんな環境の中でも、ココの白いスーツは妙に目立っていた。難民キャンプのくすんだ色彩の中で、その白さだけが場違いなほど鮮やかだった。だが本人は周囲の視線など気にした様子もなく、軽く肩を回してから空を見上げる。

 サングラス越しに周囲を観察しながら、ココはゆっくりと一歩を踏み出した。その仕草には警戒も緊張も見えない。まるで商談先の展示会場にでも来たかのような気軽さだった。しかし彼女を長く知る者なら、その無防備そうな態度こそが彼女なりの警戒であることを知っている。

 

 後ろから降りてきたレームは周囲を一瞥し、自然な動作で警戒位置を取った。バルメもまた周辺の人の流れや建物の配置を確認している。ヨナは無言のままキャンプの奥へ視線を向けていた。

 

 ココだけが、まるで散歩でもするような足取りで前へ進んだ。もっとも、その青い瞳はすでにキャンプ全体を値踏みするように観察していた。人の数、警備の配置、車両の位置、支援物資の流れ。彼女の頭の中では、それらがすでに一枚の地図として組み上がり始めていた。

 

「暑い」

「服の色は正解だな」

 

 レームが言った。

 

「でしょ? 白は正義の色だもの」

「武器商人が着ると、だいぶ意味が変わる」

「白い悪魔?」

「自覚があるならいい」

 

 ココはくすくす笑った。

 バルメ、ヨナ、レーム、東條が同行し、ウゴは車両に残った。ルツとマオは少し離れた位置で周辺警戒に回り、キャンプへ出入りする車両や武装兵の動きを監視している。二人とも気楽そうな顔をしていたが、その視線は絶えず周囲を走っていた。こういう場所では、油断しているように見える人間ほど油断していない。

 

 ワイリはキャンプ外周の電源設備や通信塔を観察していた。彼は双眼鏡を覗き込みながら、時折小型端末に何かを入力している。支援施設にしては通信設備が妙に充実している場所や、不自然に新しい配線、最近交換されたと思われる発電機などを細かく確認していた。

 

「どうだ?」

 

 レームが無線越しに尋ねる。

 

『面白いな』

 

 ワイリの声が返ってきた。

 

『難民キャンプにしちゃ設備が良すぎる場所がある。逆に必要なところはボロボロだ。金の使い方が変だな』

「変というと?」

『誰かが優先順位を決めてる。住民のためじゃなくて、自分たちの都合でな』

 

 それだけ言うと、ワイリは再び観察に戻った。

 ココはそのやり取りを聞きながら、ゆっくりとキャンプ全体を見渡した。

 一見すると、世界中のどこにでもある難民キャンプだった。

 

 だが、よく見れば違和感がある。

 支援物資の倉庫周辺だけ警備が厳重なこと。

 そして、人々が兵士を見る目よりも、黒い制服を着たグレイ・ハウンドの警備員を見る目の方が明らかに怯えていること。

 ココは小さく息を吐いた。

 

「嫌な匂いがするわね」

「いつものことだろ」

 

 レームが言う。

 

「そうなんだけど、今回は特にね」

 

 ココはそう答えながら歩き出した。

 彼らを迎えたのは、国際支援団体の腕章をつけた女性だった。

 

「ミス・ヘクマティアルですね。視察の件は聞いています」

 

 案内役の女性は、どこか緊張した面持ちでそう言った。支援団体の腕章をつけた彼女は、疲労の色を隠しきれていない。それでも礼儀正しく背筋を伸ばし、目の前に立つ来訪者を迎えようとしていた。

 

「ええ。子供たちの支援に興味がありまして」

 

 ココは柔らかな声で答えた。その表情には一点の曇りもなく、まるで慈善活動家か人道支援の専門家であるかのような穏やかな笑みが浮かんでいる。白いスーツに身を包んだ彼女は、乾いた難民キャンプの風景の中では妙に目立っていたが、その笑顔だけを見れば誰もが好印象を抱くだろう。

 

 もっとも、その笑顔がどこまで本心なのかを知る者は少ない。

 ココは相手に警戒心を抱かせないことにかけては天才的だった。親しみやすく、無邪気で、善意に満ちているように見せる。その一方で、頭の中では常に複数の計算が走り続けている。相手が何を知っているのか、何を隠しているのか、どこまで踏み込めるのか。そんなことを考えながらも、表面上はただの気さくな訪問者を演じていた。

 

 一方、その隣に立つヨナは対照的だった。

 彼は無言のまま周囲を見渡し、警戒を解こうとしない。愛想笑いを浮かべることもなく、歓迎の言葉に応じることもない。その目は相変わらず生気に乏しく、まるで死んだ魚のようだとよく言われる目だった。

 実際、初対面の人間から見れば、ココが善良な訪問者で、ヨナの方がよほど危険人物に見えるかもしれない。

 

 だが、ココ隊の面々は知っている。

 笑顔の裏に何枚もの仮面を持つココと、感情を表に出すのが苦手なだけのヨナ。そのどちらがより厄介かと問われれば、答えに迷う者は少ないだろう。

 

「ココ」

「なあに?」

「嘘が下手だ」

「失礼ね。上手すぎるから本当っぽく聞こえないだけよ」

「それを下手と言う」

 

 案内役の女性は困ったように笑ったが、何も言わなかった。彼女もまた、この国で生きるために、聞かなかったふりをする技術を身につけているのだろう。

 

 キャンプの中では、たくさんの子供がいた。水を運ぶ子、小さな弟妹の手を引く子、配給所の横で座り込む子。走り回るには元気が足りず、泣くには疲れすぎている子もいる。ヨナは彼らを見た。見たくないのに、見てしまう。バルメはその横顔を見て、声をかけようとしてやめた。支援団体の女性が説明する。

 

「第七区には現在、約一万二千人がいます。半数近くが未成年です。内戦の終結後も、北部の村から流入が続いています」

 

「子供が消えているという話は?」

 

 レームがそれまでの穏やかな空気を断ち切るように問いかけた。

 支援団体の女性は一瞬、何を言われたのかわからないという顔をした。だが次の瞬間、その表情は目に見えて強張る。肩がわずかに震え、視線が泳いだ。

 

「……どこで、それを聞いたんですか?」

 

 声は小さかった。周囲に聞かれることを恐れているのがわかる。

 レームは女性の反応を見逃さなかった。

 

「否定はしないんだな」

 

 女性はすぐには答えない。唇を結び、少しだけ俯く。

 

「私は……」

 

 言いかけて、周囲を見回した。近くを通り過ぎる難民たち。給水車の列。遠くに見える共和国軍の兵士。そして、そのさらに向こうに停まっているグレイ・ハウンドの車両。

 彼女は息を飲み込んだ。

 

「ここでは、その話は……」

「港は噂の流れが早いんです」

 

 ココが柔らかく笑いながら口を挟んだ。

 

「船乗りは暇だからおしゃべりが好きなの。荷役作業員も好き。税関職員も好き。酒場の店主なんて、噂を集めるために店を開いているようなものよ」

 

 女性は困惑したようにココを見る。

 ココは相変わらず人懐っこい笑顔を浮かべていた。

 

「もちろん、そのほとんどは嘘。でもね、嘘が十個集まると、その中に一つくらい本当が混じるのよ」

「それで……子供が消えているという話を?」

「ええ。親戚に引き取られた子。職業訓練施設へ行った子。別のキャンプへ移送された子。そういう話をたくさん聞いたわ」

 

 ココは少し首を傾げる。

 

「でも不思議なのよね。その子たちが戻ってきたという話を、ほとんど聞かない」

 

 女性の顔色がさらに悪くなった。

 レームは静かに続ける。

 

「俺たちは別に正義の味方じゃない。だが、何かがおかしいということくらいはわかる」

「……」

「だから聞いている」

 

 女性はしばらく黙っていた。

 何かを言おうとして、やめる。その迷いが表情にはっきりと浮かんでいる。

 やがて彼女は小さく息を吐いた。

 

「ここでは話せません」

 

 その声には恐怖が混じっていた。

 無意識なのだろう。声量も必要以上に抑えられている。

 誰かに聞かれることを本気で警戒している声だった。

 単なる噂話ではない。

 それだけは十分に伝わってきた。

 ココの笑みが深くなる。

 

「じゃあ、どこなら?」

 

 女性は配給所の奥にある小さな診療テントへ案内した。

 中には簡易ベッドが三つ。薬品棚には、最低限の抗生物質と消毒液、包帯があるだけだった。若い医師が疲れた顔で子供の熱を測っている。奥には痩せた老人が横になっていた。

 女性は入口の布を下ろした。

 

「この一ヶ月で、十六人の子供が消えています。記録上は、親戚に引き取られた、別のキャンプへ移った、職業訓練施設に入った、という扱いです」

「白い学校?」

 

 ヨナが言った。

 その言葉が診療テントの中に落ちた瞬間、空気がわずかに変わった。

 女性の目が揺れる。

 

 それは驚きだけではなかった。警戒と、ためらいと、諦めに近い感情が一瞬のうちに浮かび、消える。この国では余計なことを知っている人間ほど長生きできない。だから人々は知らないふりを覚え、聞かなかったことにする。だが今、目の前の少年は、その名前をためらいなく口にした。

 

「知っているんですね」

 

 女性は小さく息を吐いた。

 ヨナは答えない。ただ相手を見ている。

 その視線は鋭いわけではない。威圧しているわけでもない。けれど、逃げ道を与えない種類の静けさがあった。女性は思わず視線を逸らしそうになり、それをこらえる。

 

「場所は?」

 

 ヨナの声は低い。

 感情を押し殺した声だった。

 テントの外では子供たちの話し声が聞こえる。給水車のエンジン音も遠くに響いている。だが、その音が妙に遠く感じられた。

 女性は首を横に振る。

 

「わかりません。北部のどこか、としか」

 

 それは無責任な答えではなかった。

 本当に知らないのだ。

 何度も調べようとした。支援団体の人間たちも情報を集めた。だが、移送された子供たちは記録の上では別の施設へ移ったことになり、その先の足取りは途切れる。行政文書は整いすぎていて、逆に不自然だった。

 

「誰が連れていく」

 

 ヨナが続ける。

 女性は唇を湿らせた。

 

「政府の福祉局の人間です。でも、実際に護衛しているのはグレイ・ハウンドです」

 

 その名前を口にするとき、彼女の声はわずかに硬くなった。

 恐怖なのか、嫌悪なのか、それとも諦めなのか。

 おそらく、その全部だった。

 キャンプの外周に停まっている車両が脳裏をよぎる。統一された装備。規律正しい動き。共和国軍よりもよほど訓練された兵士たち。

 

 表向きは治安維持と人道支援のための警備会社。

 復興支援施設の警備。輸送車列の護衛。難民キャンプの安全確保。

 書類の上では、彼らはこの国を支える善良な協力者だった。

 だが、このキャンプで暮らす人々にとって、彼らは監視者であり、時には連行者でもあった。

 

 夜中にテントを訪れ、名前を確認する者。

 移送命令書を持って現れる者。

 泣き叫ぶ子供を車両へ乗せる者。

 そして翌日には、何事もなかったような顔で外周を巡回する者。

 女性は拳を握りしめた。

 

「彼らはいつも合法です」

 

 その言葉には強い皮肉が滲んでいた。

 

「書類もある。許可もある。署名もある。だから誰も止められない。私たちが何を言っても、全部正式な手続きだと言われるんです」

 

 テントの中に、短い沈黙が落ちた。

 ヨナは何も言わない。

 ただ、その目だけが静かに細められていた。

 

「親は?」

 

 東條が聞いた。

 

「同意書に署名させられます。読めない人も多い。読めても、拒否できません。食料配給、医療支援、居住許可。全部、握られています」

 

 ココは黙って聞いていた。

 いつものように軽口を挟むことも、相手を試すような質問を重ねることもない。ただ、腕を組み、わずかに首を傾けながら女性の話を聞いている。その表情は穏やかだったが、目だけは鋭かった。

 

 難民キャンプ。消えた子供たち。整いすぎた書類。福祉という名目。護衛につくPMC。

 どれも珍しい話ではない。

 世界には、もっと露骨なやり方もある。もっと血なまぐさい方法もある。だが、だからといって見過ごせるわけではなかった。むしろ、こういう手口の方が厄介だ。暴力が書類に置き換えられ、誘拐が行政手続きに変わり、人身売買が支援事業の顔をしている。

 

 ココはテントの薄い布越しに外の気配を感じていた。子供たちの声。給水車のエンジン音。遠くで誰かが怒鳴る声。そして、そのすべてを覆うような、諦めに似た空気。

 彼女はゆっくりと視線を女性へ戻した。

 女性は唇を噛む。

 その仕草には迷いがあった。恐怖もあった。ここで話している内容が誰かに知られれば、自分の立場が危うくなることを理解しているのだろう。それでも話さずにはいられないほど、状況は悪化している。

 女性は一度目を伏せ、小さく息を吐いた。まるで覚悟を決めるように。

 

「私たちは何度も抗議しました。でも、証拠がない。子供たちは正式な手続きで移送されたことになっている。行政書類は完璧です」

「完璧な書類は、だいたい一番汚い」

 

 ココが言った。

 

「行き先がわからないなら、移送日は?」

 

 レームが聞く。

 

「次は明後日です。名簿には十二人。ですが……」

「実際は?」

「二十人以上になるかもしれません」

 

 ヨナの手が、わずかに握られた。

 そのとき、診療テントの外で小さな騒ぎが起きた。

 子供の声。

 大人の怒鳴り声。

 何かが倒れる音。

 ヨナが反応するより早く、バルメが入口の布を上げた。

 

 外では、共和国軍の兵士が少年の腕を掴んでいた。少年は十歳くらい。小さな袋を抱えている。袋からは乾パンがいくつかこぼれていた。

 

「盗みだ!」

 

 兵士が怒鳴る。

 

「このガキ、配給所から盗んだ!」

 

 少年は怯えていた。だが、袋を離さない。

 

「弟がいるんだ!」

「黙れ!」

 

 兵士が手を振り上げた。

 少年は反射的に肩をすくめ、目を閉じる。周囲の人々も息を呑んだが、誰も動かなかった。

 その腕を、ヨナが振り下ろされる寸前ので止めた。兵士が驚いて振り返った。

 目の前には痩せた少年が立っていた。怒っているわけでも、怯えているわけでもない。ただ静かに、その場に立っていた。

 

「何だ、お前は」

「やめろ」

 

 ヨナは短く言った。

 余計な説明もなければ、説得しようという気配もない。ただ事実だけを告げるような口調だった。

 

「こいつは泥棒だ」

「だから何だ」

 

 ヨナの声は平坦だった。

 感情を押し殺しているというより、最初から大きな感情の起伏が存在しないような声だった。その無機質さが、かえって兵士の神経を逆撫でする。

  相手が大人ならまだよかった。だが、自分より年下に見える少年に止められている。その事実が兵士の苛立ちを増幅させていた。周囲の視線も気になる。難民たちが遠巻きにこちらを見ているのがわかる。

 

 それが逆に、兵士の怒りを煽った。

 

「ガキが口を出すな!」

 

 兵士がヨナを突き飛ばそうとした瞬間だった。

 大きな影が二人の間へ滑り込む。

 バルメだった。

 彼女はいつものように軽口を叩いてもいなければ、余裕のある笑みも浮かべていなかった。表情は静かだったが、その静けさがかえって危険だった。戦場で長く生き残ってきた人間だけが持つ、冷えた刃物のような気配が全身から滲み出ている。

 

 兵士の腕はまだ振り上げられたままだった。

 だが、その腕はそれ以上動かなかった。

 バルメが一歩前へ出る。

 それだけで空気が変わった。

 

「その手を下ろせ」

 

 兵士は一瞬で黙った。

 バルメの目を見て、言葉を失ったのだ。

 ココがゆっくり歩いてくる。

 

「まあまあ、そんなに怒らないで。乾パンで国家の秩序が崩れるなら、その国家はかなり軽いわ」

 

 兵士はココを見る。

 

「部外者が――」

「部外者じゃないわ。未来の大口取引先よ」

 

 ココはにっこり笑い、兵士の胸元の階級章を見た。

 

「あなたのお給料も、私の商品で守られるかもしれない」

 

 兵士は顔を歪めたが、それ以上は言えなかった。遠くでグレイ・ハウンドの兵士がこちらを見ている。騒ぎを大きくしたくないのだろう。

 

 ヨナは少年から袋を受け取らなかった。

 代わりにしゃがみ込み、赤土の上に散らばった乾パンを一つずつ拾い始める。

 乾いた地面には細かな砂が混じっていた。落ちた乾パンの表面にも埃が付いている。だが、この場所ではそんなことを気にして食べ物を捨てられる人間の方が少ない。

 

 少年は呆然とヨナを見ていた。

 怒鳴られると思っていたのかもしれない。兵士に突き出されると思っていたのかもしれない。

 だが、ヨナは何も言わない。

 ただ黙々と乾パンを拾い、袋へ戻していく。

 最後の一つを拾い上げたところで、ようやく口を開いた。

 

「弟はどこだ」

 

 少年は警戒しながら、テントの列の向こうを指差した。

 ヨナは黙って乾パンを袋に戻した。

 

「行け」

 

 少年は一瞬迷い、それから走っていった。

 ココは少年が走り去っていくのを見送り、肩の力を抜くように小さく息を吐いた。乾いた風が吹き、舞い上がった赤土が足元をかすめていく。

 

「ヨナ君、正義の味方みたい」

「違う」

「じゃあ何?」

「腹が立っただけだ」

「それを世間では正義感と言うのよ」

「言わない」

 

 ヨナは不機嫌そうに眉を寄せた。

 兵士に殴られそうになっていた少年の姿が、まだ頭の片隅に残っていた。空腹を抱えた子供が食べ物を盗むことなど、この場所では珍しくもない。だが、それを理由に力でねじ伏せようとする光景を見るたび、胸の奥に鈍い苛立ちが湧く。

 

 その感情に名前をつける気はなかった。

 ふと、視界の端で何かが動いた。

 ヨナの意識が瞬時に切り替わる。さっきまでの会話を断ち切るように、鋭い視線がテント群の隙間へ向けられた。

 

 人影だった。

 小柄な体がテントの影に半分隠れている。

 昨日の夜、港で出会った少女。

 

 ジブリールだった。

 彼女は逃げるでもなく、隠れるでもなく、ただそこに立っていた。大きな瞳がまっすぐヨナを見つめている。偶然見かけたというより、最初から彼を待っていたような落ち着きがあった。

 ヨナは無言のまま、その方向へ歩き出した。

 

「ヨナ」

 

 背後からバルメの声が飛んだ。

 ヨナは足を止めず、肩越しに振り返る。

 

「すぐ戻る」

 

 短くそう告げると、再びジブリールの方へ視線を向けた。

 

「一人で行くな」

 

 バルメの声には警戒が滲んでいた。昨夜銃を向けてきた相手だ。子供だからといって油断できる相手ではない。

 

「大丈夫だ」

 

 ヨナは素っ気なく答える。

 

「その台詞は信用していない」

 

 案の定、バルメは眉をひそめた。彼女はヨナを追おうと一歩踏み出す。

 だが、その前にココがひらりと手を上げて制した。

 

「少し行かせてあげて」

「ココ」

 

 バルメは納得できないという顔を向ける。

 ココはテントの影に立つジブリールを見やり、肩をすくめた。

 

「大丈夫。たぶん、あの子はヨナを撃たない」

「たぶんで済ませるな」

 

 即座に返ってきた言葉に、ココは苦笑する。

 

「じゃあ、バルメは三歩後ろ。怖い顔しない」

 

 バルメは不満そうに唇を引き結んだが、それ以上は言わなかった。完全に納得したわけではない。それでもココの判断を尊重し、一定の距離を保ちながら後を追うことにした。

 

     *

 

 ジブリールはキャンプの外れ、かつて給水設備として使われていたらしい巨大なタンクの影にいた。タンクは内戦のどこかの時点で砲撃を受けたのか、大きくひしゃげており、側面には錆と無数の傷跡が残っている。乾いた風が吹くたびに、剥がれかけた金属片がかすかに軋んだ音を立てた。周囲には背の低い雑草がまばらに生え、赤土の地面には古い足跡が幾重にも刻まれている。キャンプの喧騒から少し離れたその場所は、人目につきにくい一方で周囲を見渡しやすく、警戒する者が身を潜めるには都合のいい場所だった。

 

 ヨナがゆっくりと近づいていく。足元の砂利が小さく音を立てたが、ジブリールはそれに驚く様子もなかった。最初から彼が来ることを予想していたように、静かにそこに立っている。

 

 彼女は逃げなかった。

 銃も向けなかった。

 ただ、手を腰の近くに置いている。力を抜いているように見えて、その実、いつでも動ける位置だった。視線はヨナから外していない。警戒を解いたわけではないが、敵意をむき出しにしているわけでもない。その微妙な距離感が、彼女がこれまでどんな環境で生きてきたのかを物語っているようだった。

 

「また会った」

 

 ジブリールが言った。

 その声は昨日と同じだった。警戒心を隠していないのに、不思議と敵意だけではない響きが混じっている。

 ヨナは立ち止まり、少女を見た。

 

「ここで何をしてる」

「こっちの台詞」

 

 ジブリールは肩をすくめる。

 

「難民キャンプをうろつく武器商人の護衛なんて、普通は見ない」

「普通じゃないからな」

「それは見ればわかる」

 

 ジブリールはそう言って、ヨナの顔をじっと観察した。

 

「昨日より疲れてる」

「お前もだ」

「私はいつもこんな感じ」

「そうか」

「そう」

 

 短いやり取りだったが、どちらもその場を離れようとはしなかった。

 風が吹き、乾いた砂が足元を転がる。遠くでは子供たちの声が聞こえ、給水車の周りには長い列ができていた。

 

「俺たちは視察だ」

「武器商人の視察?」

 

 ジブリールは露骨に疑わしそうな顔をした。

 

「そうだ」

「悪い冗談」

「俺もそう思う」

「じゃあ嘘?」

「半分くらいは本当だ」

「半分しか本当じゃないじゃない」

「十分だろ」

「十分じゃない」

 

 ジブリールは呆れたように息を吐いた。

 

「大人ってそういう言い方する」

「俺は大人じゃない」

「子供でもない」

「そうかもな」

 

 ヨナは否定しなかった。

 ジブリールは少しだけ目を細める。

 

「変な奴」

「よく言われる」

「私も」

「知ってる」

「何で」

「昨日会ったからだ」

 

 その答えに、ジブリールは少しだけ笑った。

 ほんの一瞬だった。

 年相応の少女が見せる、ごく自然な笑顔。

 戦場とも難民キャンプとも関係のない場所なら、友達との会話の途中に浮かべていたかもしれない笑顔だった。

 

 だが、その笑みは長く続かなかった。

 次の瞬間には消え、代わりにいつもの警戒心が戻ってくる。

 ヨナはそれを見ていた。

 彼女が笑うことに驚いたわけではない。

 むしろ、笑えることに少し安心した。

 戦場にいる子供は、時々笑い方を忘れる。

 ヨナはそういう子供を何人も見てきた。

 

「昨日、撃たなかった」

 

 ジブリールが言った。

 その言葉には、確認するような響きがあった。

 

「お前も撃たなかった」

 

 ヨナが返す。

 

「撃とうと思えば撃てた」

「そっちも」

「そうだな」

 

 少しだけ沈黙が落ちる。

 ジブリールはヨナをじっと見た。

 

「アラタが、無駄に撃つなって言ってる」

「無駄かどうかは誰が決める」

「アラタ」

「即答だな」

「でも、全部じゃない」

 

 ジブリールは首を振った。

 

「アラタは撃つなって言う。でも、本当に撃たないかどうかは私たちが決める」

「アラタが言えば何でも聞くのか」

 

 ジブリールの目が細くなる。

 

「違う」

 

 ジブリールは即座に否定した。その返事には迷いがなく、まるで何度も同じことを考えてきたかのようだった。

 

「じゃあ、何だ」

 

 ヨナが問い返す。

 ジブリールは少しだけ視線を逸らし、それから真っ直ぐ前を見た。

 

「アラタが間違ってると思ったら聞かない」

「思ったことあるのか」

「ある」

「いつ」

「毎日」

 

 ヨナが眉をひそめる。

 

「毎日?」

「毎日」

 

 あまりにも当然のように言われて、ヨナは一瞬言葉を失った。

 

「それでよく一緒にいるな」

「だって、アラタはすぐ変なこと言う」

「例えば」

「危ないから行くな、とか」

「正しいだろ」

 

 ヨナは即座に返した。

 だが、ジブリールは納得していない顔だった。

 

「でも行かないと助けられない子がいる」

「それで勝手に行くのか」

「行く」

「怒られるだろ」

「怒られる」

「学習しないな」

「アラタも学習しない」

 

 ジブリールは少しだけ肩をすくめた。

 

「私たちが勝手に動くって知ってるのに、毎回止めようとする」

「止めるのが仕事だと思ってるんだろ」

「たぶん」

 

 その答えには、どこか諦めにも似た親しさが混じっていた。

 

「じゃあ、お前たちが困らせるのも仕事か」

「それは違う」

「違うのか」

「結果的にそうなるだけ」

 

 ジブリールは真顔で言った。

 まったく悪びれた様子がない。

 冗談を言っているようにも見えないし、からかっているようにも見えない。ただ本気でそう思っているから、そのまま口にしただけなのだろう。

 

 そのあまりにも自然な態度に、ヨナは一瞬言葉を失った。

 普通なら、少しくらいは気まずそうな顔をする。あるいは、自分でも変なことを言ったと気づいて笑う。しかしジブリールにはそういう様子がまるでない。

 大きな目でまっすぐこちらを見返しているだけだ。

 ヨナは小さく息を吐いた。

 そして、少しだけ呆れた顔をする。

 

「面倒だな」

「アラタも同じこと言う」

「だろうな」

「でも、アラタも面倒」

「そう見える」

「すごく面倒」

「そこまで言うか」

「言う」

 

 ジブリールは即答した。

 迷いはなかった。考える素振りすら見せず、まるで最初から答えが決まっていたかのように言葉を返した。その声には強がりも見栄もなく、ただ真っ直ぐな確信だけがあった。

 ヨナはその反応を予想していなかったわけではない。だが、ここまでためらいなく返されるとは思っていなかった。

 

 ほんの一瞬、言葉が途切れる。

 ジブリールはそんなヨナの様子にも気づかないのか、それとも気づいたうえで気にしていないのか、変わらない表情のままこちらを見ていた。乾いた風がが彼女の髪を揺らし、その瞳だけが静かに光を映している。

 その勢いに、ヨナはわずかに目を瞬かせた。

 

「考えすぎるし、心配しすぎるし、自分だけで何とかしようとするし」

 

 言葉を重ねるたびに、ジブリールの口調には不満と同じくらいの親しみが滲んでいた。

 

「それで、お前たちは勝手に動く」

「そう」

「悪循環だな」

「うん」

 

 ジブリールは素直に頷いた。自覚はあるらしい。

 だからといって改める気があるようには見えなかった。

 二人は少しだけ顔を見合わせた。

 

「それでも、アラタがいるから助かった子はたくさんいる」

 

 ジブリールが静かに言う。

 

「だから、間違ってると思ったら反対する。でも、いなくなったら困る」

 

 ヨナは答えなかった。

 答えようと思えば答えられたのかもしれない。だが、口を開けば余計なことまで言ってしまいそうだった。戦場では、言葉より先に銃が動くことが多い。だからヨナは昔から、自分の考えを説明するのが得意ではなかった。

 

 ジブリールもそれ以上は言わない。

 乾いた風だけが、二人の間を通り過ぎた。

 砂埃が足元を転がり、壊れた給水タンクの錆びた表面を撫でていく。太陽は高く、影は短い。暑いはずなのに、ヨナは少しだけ寒さに似た感覚を覚えていた。

 

 ジブリールの言葉を考えていたからだ。

 アラタがいるから忘れない。

 戦う理由を。

 守りたいものを。

 そんなことを言える人間が、この戦場にまだいるのかと、ヨナは少しだけ不思議に思った。

 

 ヨナは少しだけ意外そうな顔をした。

 その変化はほんのわずかだったが、ジブリールは見逃さなかった。彼女はヨナの表情をじっと見つめ、それから小さく肩をすくめる。

 まるで、「そんなに驚くこと?」と言いたげだった。

 ジブリールは真面目な顔のまま続ける。

 

「アラタは、私たちを前に出したくない。でも、前に出ないと助けられない子がいる。だから、私たちは勝手に前に出る。アラタは怒る。私たちは謝る。またやる」

「それでいいのか」

「よくない。でも、何もしないよりいい」

 

 ヨナは黙った。

 ジブリールの言葉は簡単だった。

 簡単すぎるほど、残酷だった。

 

「お前は、アラタのために戦ってるのか」

 

 ヨナが聞いた。

 ジブリールは少しだけ考えた。

 

「違う」

「じゃあ誰のためだ」

 

「私たちのため。あの子たちのため。アラタがいるから、私たちはそれを忘れないでいられる」

「どういう意味だ」

「戦ってると、何のために戦ってるのかわからなくなる。相手を倒すことだけ考えるようになる。そうなったら、グレイ・ハウンドと同じになる」

 

 ジブリールはキャンプの中心を見た。

 

「アラタは、それを止める。だから必要」

「大人は信用できるのか」

「できない」

 

 即答だった。

 

「でも、アラタは大人じゃない」

「大人だろ」

「たまに大人。たまに子供。たまに変な人」

 

 ヨナは眉をひそめた。

 

「何だそれ」

「アラタ」

 

 ジブリールは真顔で言った。

 ヨナは少しだけ笑いそうになったが、やめた。

 給水タンクの向こうでは、子供たちが列を作っている。その中に、昨日見た少年がいた。サミル。彼はヨナに気づくと、少しだけ目を輝かせた。

 

「ジブリール!」

 

 少年が小声で呼んだ。

 

「ナディアが呼んでる。アラタも」

「わかった」

 

 ジブリールは一度だけ周囲を見回した。給水タンクの向こうでは子供たちが列を作り、遠くでは大人たちの怒鳴り声や車両のエンジン音がかすかに聞こえる。戦場ほどではないにせよ、この場所にも常に緊張が漂っていた。

 

 それから彼女はゆっくりとヨナの方へ体を向けた。褐色の顔にはいつもの警戒心が残っていたが、その奥にはわずかな迷いのようなものも見える。逃げるつもりはない。かといって完全に心を開いているわけでもない。互いに相手を測りながら、それでも言葉を交わそうとしている。

 ジブリールはヨナに向き直る。

 

「アラタが会いたいって」

「誰に」

「白い服の女」

「ココか」

「たぶん」

「俺が決めることじゃない」

「じゃあ伝えて」

 

 ジブリールは一歩近づいた。

 

「今日の夕方、キャンプの西にある古い浄水場。来なかったら、私たちは私たちだけで動く」

「白い学校か」

 

 ジブリールは答えなかった。

 だが、その沈黙が答えだった。

 

「子供だけで行く気か」

「子供だけじゃない。アラタがいる」

「同じだ」

 

 ヨナの声が少し強くなる。

 

「危ない」

 

 ジブリールの表情が変わった。

 

「危なくない場所なんて、どこにあるの」

 

 その言葉に、ヨナは何も言えなかった。

 ジブリールは踵を返した。

 

「あなたは変」

「何が」

「武器商人といるのに、子供を見る目をしてる」

「どういう目だ」

「こっち側の目」

 

 ジブリールはそれだけ言って、テントの間に消えた。

 細い背中はあっという間に人影の中へ紛れ、褐色の肌も、肩にかけた古びたライフルも見えなくなる。

 残されたのは、乾いた風と、遠くから聞こえる子供たちの声だけだった。

 ヨナはしばらくそこに立っていた。

 

 こっち側。

 あっち側。

 そんなもの、本当にあるのだろうか。

 

 ヨナは自分の手を見た。

 銃を握る手。

 ココのそばにいる手。

 人を撃ってきた手。

 子供の手ではない。

 だが、大人の手でもなかった。

 

    

 

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