JORMUNGAND:マージナル・チルドレン   作:たこ焼き 龍月

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第二章 ココとアラタ

 

 キャンプの外、少し高くなった赤土の斜面に停められたグレイ・ハウンドの装甲車両の中で、エリザ・クロウは静かに報告を聞いていた。

 

 車内には冷房の低い唸りが響いている。外では乾いた風が砂埃を巻き上げ、難民キャンプ第七区の白いテント群を薄く霞ませていた。

 窓越しに見えるキャンプは、一見すれば平穏な人道支援の現場に見える。給水車が停まり、配給の列ができ、子供たちが空の容器を抱えて歩いている。だが、エリザの目には違うものが映っていた。

 

 そこは人と物資と情報が絶えず流れ込む巨大な集積所だった。

 管理と監視と取引が絡み合う、一つの市場。

 車内には数名の部下がいたが、誰も無駄口を叩かない。端末の操作音と無線の微かなノイズだけが、閉ざされた空間に断続的に響いている。

 

 エリザは背もたれに身を預けたまま、膝の上で指を組んでいた。その横顔には焦りも苛立ちもない。むしろ盤上の駒の動きを観察する棋士のような、静かな集中だけがあった。

 助手席の男が端末を差し出す。

 

「HCLIの一行がキャンプ内を視察中です。ココ・ヘクマティアル本人、護衛数名。昨夜の子供部隊とも接触した可能性があります」

「接触ではなく、誘導でしょう」

 

 エリザは静かに言った。

 

「アラタはココをここへ呼び込んだ。昨夜の港で顔を見せたのも、そのため」

「放置しますか?」

 

 助手席の男は慎重に言葉を選ぶように問いかけた。

 ココ・ヘクマティアルという存在が、この地域に現れたこと自体が予想外だった。しかも彼女は単なる視察ではなく、難民キャンプの内部を歩き回り、子供たちや支援関係者と接触している。

 

 放置するには危険すぎる。

 だが、下手に手を出せば別の問題が生じる。

 その判断を委ねられるのは、ここではエリザだけだった。

 

「いいえ。観察します」

 

 エリザは即答した。

 迷いはなかった。

 むしろ、その答えは最初から決まっていたかのように自然だった。

 

「監視を継続。接触した人物、移動経路、通信履歴、可能な限り洗い出してください」

「了解」

「ただし近づきすぎないこと。ココ・ヘクマティアルは鈍い人間ではありません。こちらが見ていることに気づけば、逆にこちらを観察し始める」

「すでに始めている可能性もあります」

「ええ」

 

 エリザは小さく頷いた。

 

「だからこそ面白い」

 

 その言葉に、助手席の男は何も返さなかった。

 エリザが「面白い」と言うとき、それは決して良い意味ではない。

 彼女にとって面白い対象とは、予測不能であり、利用価値があり、そして時に排除対象にもなり得る存在だった。

 

 エリザは窓の外を見る。

 キャンプでは、白いスーツの女が子供たちに囲まれていた。ココは笑っている。まるで場違いなほど明るく。

 乾いた風が吹き抜ける難民キャンプの中で、その姿だけが妙に鮮やかだった。

 周囲の人々は疲れ切った顔をしている。配給を待つ者、診療所の列に並ぶ者、水を運ぶ者。誰もが生活に追われ、明日の保証もない。

 

 その光景の中で、ココだけが妙に浮いて見えた。

 荒れ果てた土地にも、疲れ切った人々にも染まらず、まるでそこだけ違う空気をまとっているようだった。

 子供たちは自然と彼女のそばへ寄っていき、次々と言葉を投げかける。

 ココはそれを軽やかに受け止め、ときに笑い、ときに大げさな身振りで応じていた。

 作られた振る舞いにも見えるし、素の性格にも見える。

 エリザには、その境界が読み取れなかった。

 しかし、読み取れないからこそ警戒する価値がある。

 

 人は理屈だけでは動かない。

 利益や命令では説明できない理由で、誰かに従い、誰かを信じることがある。

 ココ・ヘクマティアルは、そうした感情を引き寄せる力を持っていた。

 エリザは静かに視線を向けたまま、その姿を観察し続けた。

 戦場において、人心を動かせる者ほど扱いづらい存在はいない。

 

「あの女は危険です。利益だけで動く商人なら扱いやすい。でも、彼女は利益以外のものにも興味を持つ」

「では、排除を?」

「早い」

 

 エリザは短く答えた。

 

「ハキム大佐は排除したがるでしょう。けれど、軍人はいつも早く撃ちすぎる。撃つのは、相手がどちらへ動くか見てからでいい」

「アラタは?」

「彼はもっと危険」

 

 エリザの声には、かすかな興味が混じっていた。

 

「子供を恐怖で支配していない。金でも縛っていない。なのに、子供たちは彼の指示で動く。あれは商品としては極めて価値が高い」

「商品、ですか」

「言葉が気に入りませんか?」

「いえ」

「気に入らなくても、現実は変わりません。戦場では、人間も能力も商品です。彼がそれを嫌がるなら、なおさら利用しやすい」

 

 エリザは端末の画面に映るアラタの顔を見た。

 監視映像から切り出された静止画だった。画質は決して良くない。少し角度の悪い位置から撮られており、光の加減で輪郭も曖昧になっている。それでも、彼女には十分だった。

 

 普通の青年。

 少なくとも、資料だけを見ればそう見える。

 軍歴はない。特殊部隊出身でもない。傭兵として名を上げた記録もない。戦場で生き残るための華々しい経歴など、どこにも存在しなかった。

 だが、その平凡さこそが異質だった。

 この国には英雄を名乗る者が多い。革命家、解放者、愛国者、救世主。肩書きを欲しがる人間はいくらでもいる。だがアラタにはそうした匂いがない。

 

 目立とうとしていない。

 支配しようとしていない。

 恐怖で従わせてもいない。

 それなのに、子供たちは彼の周囲へ集まる。

 命令されるからではなく、自分の意思で。

 それがエリザには興味深かった。

 戦場では、人は恐怖か利益で動く。

 少なくとも、多くの場合はそうだ。

 金を与えれば働く。脅せば従う。家族を人質に取れば裏切らない。そうした単純な原理で組織は維持できる。

 

 だがアラタの周囲にいる子供たちは違う。

 彼らは彼を恐れていない。

 金で雇われてもいない。

 それでも危険な任務に参加し、彼のために動く。

 エリザには、その仕組みが少しだけ理解できなかった。

 理解できないものは危険だ。

 だからこそ価値がある。

 戦場に似合わない顔。

 疲れたような目をしているが、どこか諦めきれていない。理想を捨てきれない人間の目だった。

 そういう人間は厄介だ。

 現実を知れば折れる。

 だが、折れなかった場合は周囲を巻き込む。

 しかも本人にその自覚がないことが多い。

 

 エリザは画面を指先で軽くなぞった。

 もし彼がもっと利己的な人間なら扱いやすかっただろう。

 もし彼がもっと野心的な人間なら利用もできた。

 だが彼は違う。

 自分の利益よりも他人を優先する人間は、予測が難しい。

 合理性だけでは動かないからだ。

 だからこそ、戦場にいる意味がある。

 この国の盤面において、アラタはまだ小さな駒に過ぎない。

 

 しかし、ときに盤面を崩すのは王でも将軍でもない。

 誰も注目していなかった一つの駒だ。

 エリザは静かに端末を閉じた。

 その表情には警戒と興味が同居していた。

 

「白い学校の移送予定を早めます」

「明後日ではなく?」

「今夜」

 

 助手席の男が一瞬だけ驚いた。

 

「準備がまだ――」

「準備はできています。できていないのは、関係者の覚悟だけです」

 

 エリザは端末を閉じた。

 

「ココ・ヘクマティアルとアラタ。二人とも、今夜動くでしょう。なら、こちらも盤面を変える」

 

     *

 

 夕方、古い浄水場には赤い光が差していた。

 太陽は地平線へ沈みかけており、その光は昼間の鋭さを失っていた。乾いた大地や崩れた建物の輪郭をゆっくりとなぞるように広がり、廃墟となった施設全体を赤銅色に染め上げている。

 

 施設はキャンプの西側、枯れた川のそばにあった。かつては周辺地域の水を処理していたらしいが、内戦で設備の大半が壊れ、今はコンクリートの骨組みと錆びた配管だけが残っている。

 巨大な貯水槽には無数のひびが走り、壁面には砲撃の痕と思われる穴がいくつも開いていた。地面には崩れた配管や割れたコンクリート片が散乱し、雑草がその隙間からしぶとく顔を出している。

 

 完全に死んだ場所には見えなかった。

 誰かが見張りに使った形跡や、最近踏み固められた足跡がところどころに残っている。戦争が終わったと言われても、人の流れだけはまだこの土地から消えていない。

 ココは瓦礫の上に立ち、周囲を見回した。崩れた壁、傾いた鉄骨、夕陽に照らされた配管の影。その一つ一つを眺めながら、無意識に地形や遮蔽物の位置を確認している。

 

 武器商人としての習慣なのか、長年戦場を渡り歩いてきた経験なのか、自分でも区別はついていない。ただ、この場所が単なる待ち合わせ場所ではなく、何かが起きるには十分すぎる舞台であることだけは理解できた。

 

「廃墟デートには悪くないわね」

「相手が悪い」

 

 ヨナが言った。

 

「ひどい。アラタさん、けっこう可愛い顔してるじゃない」

「そういう話じゃない」

「ヨナ君、嫉妬?」

「違う」

 

 バルメが低く言った。

 

「ココ、遊ぶな」

「はーい」

 

 今回同行したのは、ココ、ヨナ、バルメ、レーム、東條の五人だった。ルツとマオは浄水場の外周に展開し、接近してくる車両や不審な人影がないか監視している。ワイリは少し離れた高台に陣取り、通信状況を確認していた。ウゴは車両のそばで待機し、いつでも撤収できるようエンジンと周辺を確認している。

 

 アラタ陣営はすでに来ていた。

 古い浄水場の敷地内には、夕暮れの赤い光が斜めに差し込み、崩れたコンクリートの壁や錆びた配管の影を長く伸ばしている。その影の中に、人の気配がいくつも潜んでいた。

 無秩序に集まっているようでいて、実際には周囲を見渡せる位置に散開している。警戒と監視を兼ねた配置だと、一目でわかった。

 

 アラタ、ジブリール、オマル、ソフィア、ナディア、サミル。

 ほかにも子供が数人、遠巻きに配置されている。

 オマルは大柄な男で、レームと視線が合うと、軽く顎を引いた。

 

 レームも同じように返す。

 兵士同士の挨拶だった。

 一方、ソフィアはココを見るなり、露骨に嫌そうな顔をした。

 

「うわ、本当に白い」

 

 ココはにこっと笑った。

 

「あなたは本当に口が悪そうね」

「よく言われる」

「褒めてないわ」

「知ってる」

 

 バルメは腕を組んだまま、少し離れた場所に立つソフィアへ視線を向けた。

 

「お前がソフィアか」

「だったら何?」

「騒がしいと聞いている」

「そっちの筋肉女に言われたくない」

 

 バルメの眉がぴくりと動いた。

 ココが慌てて笑う。

 

「はいはい、初対面で殺気を出さない。今日はお話の日よ」

「そっちが先に殺気を出した」

 

 ソフィアが言う。

 

「私はまだ出していない」

 

 バルメが真顔で答える。

 

「出したらどうなるの」

「わかる」

「うわ、嫌な答え」

 

 アラタは一度周囲を見回した。ソフィアとバルメの間に漂う険悪な空気に気づき、わずかに肩を落とす。

 

「すみません。ソフィアは少し、言い方が直接的で」

「少し?」

 

 オマルが呟く。

 その声には呆れが混じっていた。

 

「かなり」

 

 ジブリールが即座に訂正する。

 迷いのない断言だった。

 

「味方からもこの扱い!」

 

 ソフィアが両手を広げる。

 

「ひどくない!? 私は正直なだけでしょ!」

「正直と遠慮がないは違う」

 

 ナディアが冷静に言った。

 

「ナディアまで!」

「事実だから」

「裏切り者!」

「裏切ってない」

 

 ナディアは淡々としている。

 ソフィアは大げさに胸を押さえた。

 

「傷ついた。私は今とても傷ついた」

「元気そうだな」

 

 サミルがぼそりと言う。

 

「サミル君まで!?」

「だって元気じゃん」

「味方がいない!」

 

 ソフィアは天を仰いだ。

 その様子を見ていたココが楽しそうに笑う。

 

「いいわね。賑やかで」

「笑い事じゃない」

 

 アラタは額を押さえた。

 

「いつもこんな感じなんです」

「大変そう」

「かなり」

 

 今度はアラタ自身が認めた。

 するとソフィアが即座に指を差す。

 

「ほら! 指揮官まで!」

「事実だから」

 

 アラタもナディアと同じ答えを返した。

 ソフィアは数秒固まり、それから大きくため息をつく。

 

「もういい。覚えてろ」

「何を?」

 

 ジブリールが首を傾げる。

 

「その反応が一番腹立つ」

 

 そう言いながらも、ソフィアの口元にはわずかに笑みが浮かんでいた。

 張り詰めていた空気が少しだけ緩む。

 バルメも無言のままその様子を見ていたが、先ほどまでの険しさはわずかに薄れていた。

 少なくとも今すぐ殴り合いになることはなさそうだった。

 アラタは内心で安堵しながら、小さく息を吐いた。

 ココは楽しそうに笑った。

 

「いいわね。うちにも似たようなのが何人かいる」

「誰のことだよ」

 

 ルツの声が通信越しに入る。

 

「聞こえてるぞ、ココ」

「あら、聞こえるように言ったのよ」

 

 空気が少しだけ緩んだ。

 だが、アラタの表情は硬いままだった。

 

「時間がありません」

「でしょうね」

 

 ココも笑みを薄める。

 

「白い学校?」

 

 ナディアは周囲の視線を一瞬だけ気にするように肩をすくめたが、すぐに意を決したように前へ出た。抱えていた端末を両手で持ち上げ、アラタとココの見える位置へ差し出す。

 

 彼女の指先はわずかに緊張していた。ここにいる大人たちは皆、自分より経験も知識もある。レームや東條のような歴戦の兵士もいれば、ココのように世界中の戦場を渡り歩いてきた人間もいる。その前で説明するのは正直気が重かった。

 それでも、今この場で一番多くの情報を持っているのは自分だという自覚もあった。

 ナディアは深く息を吸い、端末の画面を切り替える。

 

「港で取ったデータと、キャンプ内の移送記録を照合しました。子供たちは一度、福祉局の施設に送られたことになっています。でも実際には、その日の夜に別の車両へ移されています」

 

 画面には車両番号、時間、道路上の監視カメラ映像の断片が並んでいた。

 東條が覗き込む。

 

「よく取れたな」

 

 ナディアは少し誇らしげに胸を張った。

 

「一人じゃ無理でした」

 

 そう言って、後ろにいる仲間たちを見る。

 

「サミルが無線を取って、ジブリールが注意を引いて、私がログを抜きました」

「子供の仕事じゃない」

 

 ヨナが言った。

 その声は強くはなかったが、静かな重みがあった。

 まるで事実を確認するような口調だった。

 怒っているわけではない。

 責めているわけでもない。

 それでも、その一言には妙な圧力があった。

 ナディアは思わず肩をすくめる。責められたわけではない。それでも、ヨナの言葉には反論を飲み込ませるだけの力があった。

 

 彼女は端末を抱え直した。

 自分たちがやっていることが普通ではないことくらい、わかっている。

 無線を盗聴し、監視記録を抜き取り、移送ルートを追跡する。

 本来なら大人がやるべき仕事だ。

 いや、大人でも危険すぎて避けるような仕事かもしれない。

 それを自分たちは当たり前のようにやっている。

 必要だから。

 誰もやらないから。

 そう思っていた。

 

 だからこそ、ヨナの言葉は胸の奥に引っかかった。

 場に短い沈黙が落ちる。

 風が吹き抜け、壊れた浄水場の鉄骨がかすかに軋んだ。

 夕暮れの光はさらに赤みを増し、崩れた壁の影を長く伸ばしている。

 誰もすぐには言葉を続けなかった。

 

 オマルは腕を組み、レームは無言で周囲を見渡している。

 ソフィアは何か言いたそうな顔をしていたが、珍しく口を挟まなかった。

 アラタも黙っていた。

 その沈黙の中で、ジブリールが一歩前へ出た。

 

「じゃあ誰の仕事?」

 

 真っ直ぐな声だった。

 迷いも遠慮もない。

 怒りというより、納得できないという感情が強かった。

 ヨナは答えない。

 ジブリールはさらに一歩踏み込む。

 

「誰がやるの?」

 

 ヨナは黙ったままだった。

 彼女の視線を受け止めながらも、何も言わない。

 答えを持っていないのか。

 答えたくないのか。

 それとも、答える資格がないと思っているのか。

 ジブリールにはわからなかった。

 その沈黙が、逆に彼女を苛立たせる。

 

「大人がやらないから、私たちがやる」

 

 声が少し強くなる。

 

「誰も助けないから、私たちが探す」

 

 さらに一歩。

 

「誰も見てないから、私たちが見る」

 

 彼女の拳は固く握られていた。

 白い学校に連れて行かれた子供たちの顔が脳裏に浮かんでいる。

 

 港で見たコンテナ。

 泣いていた子供。

 消えていった仲間たち。

 全部が胸の奥で燃えていた。

 

「待ってろって言われても、待ってる間に連れて行かれる」

 

 ジブリールは言う。

 

「危ないからやるなって言われても、その危ない場所にいるのは私たちと同じ子供たちだ」

 

 誰も口を挟まない。

 彼女の言葉には感情だけではなく、現実があった。

 

「だから私たちがやる」

 

 ヨナは静かに彼女を見ていた。

 ジブリールも視線を逸らさない。

 二人の間に張り詰めた空気が生まれる。

 そしてヨナは、ようやく口を開いた。

 

「その大人の一人が、アラタか」

 

 ヨナの言葉に、ジブリールの顔が険しくなった。

 

「ヨナ」

 

 バルメが低く制する。

 アラタは一度だけ視線を落とした。短く息を整え、迷いを押し込めるように顔を上げる。

 

「その通りです」

 

 全員がアラタを見る。

 

「僕は大人です。彼らに危険なことをさせています。そこに言い訳はできません」

「アラタ」

 

 ジブリールが不満げに言う。

 アラタは彼女を見ず、ココに向き直った。

 

「でも、僕たちだけでは白い学校を潰せない。だから、あなたに会いに来ました」

「潰す?」

 

 ココは首を傾げた。

 

「私は商人よ。慈善活動家じゃない」

「知っています」

「じゃあ、私に何を期待しているの?」

「あなたの流通網と情報網です」

 

 アラタは即答した。

 

「HCLIは、この国に入る物と出る物を把握できる。少なくとも、僕たちよりずっと広く見られる。白い学校は施設一つの問題じゃありません。子供を集める人間、運ぶ人間、買う人間、訓練する人間、装備を売る人間がいます。その流れを切らないと、施設を一つ壊してもまた作られる」

 

 ココの表情が変わった。

 楽しそうでも、不機嫌そうでもない。

 仕事の顔だった。

 

「よくわかってるじゃない」

「嫌になるくらいには」

「その流れがバベル・ルート?」

「はい」

「名前をつけたのは?」

「グレイ・ハウンド側です。内部資料にありました」

「趣味が悪い」

「同感です」

 

 レームが地図を広げた。

 折り目だらけになった紙の地図が、崩れたコンクリートの上に広げられる。周囲にはナディアが書き込んだメモや、港で回収した資料のコピーも並べられていた。

 

「位置は絞れているのか?」

 

 レームの問いに、ナディアが頷いた。

 彼女は端末を操作しながら、地図上の一点を指差す。

 

「完全な特定まではできていません。でも候補はかなり絞れています」

「どこだ」

「北部鉱山地帯に向かう旧道沿いです」

 

 ナディアは画面を拡大した。

 

「行政地図には農業訓練施設として登録されています。表向きは孤児や難民の子供たちに農業技術を教える施設です。国際支援団体への提出書類も、その内容になっています」

「ずいぶん立派な建前だな」

 

 東條が呟く。

 

「建前だけなら立派です」

 

 ナディアは淡々と続けた。

 

「でも衛星画像を見ると不自然な点が多いんです」

 

 画面が切り替わる。

 上空から撮影された施設の画像が映し出された。

 

「まず外周フェンス。高さは推定三メートル以上。しかも二重構造です」

「農場にしては物騒だな」

 

 レームが言う。

 

「さらに監視塔があります。少なくとも四か所。夜間照明も確認できました」

 

 ナディアは別の画像を表示する。

 

「こちらは夜間の熱源データです。施設内には常時武装警備員と思われる人員が配置されています」

「農業に監視塔は必要ないな」

 

 東條が言った。

 

「必要なのは畑と水だ」

「猪でも来るんじゃない?」

 

 ソフィアが言う。

 

「銃を持った猪か」

 

 オマルが返す。

 

「この国ならいるかも」

 

 ソフィアは肩をすくめた。

 

「しかも無線機付き」

「それはもう兵士だろ」

 

 サミルが小声で突っ込む。

 わずかな笑いが起きたが、すぐに消える。

 地図の上に示された施設は、どう見ても普通ではなかった。

 アラタは画像を見つめる。

 

 建物の配置。

 フェンスの位置。

 監視塔の死角。

 そして施設の周囲に広がる荒れ地。

 

「出入りは?」

 

 アラタが聞いた。

 ナディアは別の資料を開く。

 

「正面ゲートが一つ。裏手に搬入口らしき道路があります。ただし、どちらも監視されています」

「車両の出入りは?」

「週に二回から三回。大型トラックが確認されています」

「積み荷は」

「不明です。でも重量はかなりあります」

 

 ココが腕を組んだ。

 

「食料だけじゃないわね」

「私もそう思います」

 

 ナディアは頷く。

 

「それに、施設の規模に対して物資搬入量が多すぎます」

「訓練施設じゃなくて収容施設か」

 

 レームが低く言った。

 

「あるいは、その両方」

 

 アラタの声は重かった。

 ジブリールが地図を見つめる。

 

「ここに子供たちがいるんだよね」

 

 誰もすぐには答えなかった。

 だが、その沈黙が答えだった。

 ナディアは静かに言う。

 

「可能性は高いです」

 

 ジブリールは拳を握る。

 ソフィアも珍しく何も言わない。

 夕陽に照らされた地図の上で、白い学校と呼ばれる施設の位置だけが、不気味なほどはっきりと浮かび上がっていた。

 ココは地図を見つめた。

 

 港。

 キャンプ。

 旧道。

 鉱山。

 白い学校。

 ばらばらに見えていた情報が、一つの流れとして形を取り始める。

 点と点がつながる。

 

「で、アラタさん」

「はい」

「あなたの目的は子供の救出。私の目的はルートの全貌把握。似てるけど違うわね」

「わかっています」

「あなたは今夜にでも助けたい。私は証拠が欲しい。証拠がなければ、施設を潰してもグレイ・ハウンドは逃げる。ハキム大佐も逃げる。エリザ・クロウは、もっと上手に逃げる」

「それでも、子供たちは移送されます」

「いつ?」

「明後日の予定です」

 

 アラタは言った。

 その言葉が落ちた直後だった。

 ナディアの端末が小さく震える。

 静かな電子音が鳴り、彼女は反射的に画面へ視線を落とした。

 

 最初はただの通知だと思った。

 だが、表示された内容を読んだ瞬間、彼女の表情が変わる。

 目が見開かれ、指先が止まった。

 

「アラタ」

「どうした」

 

 アラタが問い返す。

 ナディアはすぐには答えなかった。

 画面をもう一度確認する。

 

 通信ログを開き直し、送信元を確認し、更新時刻を確認する。

 何かの誤送信ではないか。

 偽装データではないか。

 あるいは自分の解析ミスではないか。

 そんな可能性を一つずつ潰していくように指を動かした。

 しかし結果は変わらない。

 

 表示されている命令書は本物だった。

 しかも、ごく最近になって更新されたばかりのものだ。

 ナディアはゆっくり顔を上げた。

 その顔色は明らかに悪かった。

 

「移送予定が変わりました」

 

 一瞬、誰も言葉を発しなかった。

 場の空気が凍る。

 明後日という前提で組み立てていた計画が、音もなく崩れ落ちる感覚だった。

 

「どういうことだ」

 

 オマルが低く言う。

 ナディアは端末を握りしめたまま答えた。

 

「更新された移送命令です。正式な認証コードも付いています」

「間違いじゃないのか」

 

 サミルが不安そうに聞く。

 ナディアは首を横に振った。

 

「間違いありません。更新された移送命令です」

 

 アラタは画面を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。

 その表情は冷静に見えたが、拳はわずかに強く握られている。

 ココの笑みも消えていた。

 先ほどまでの軽い空気は完全に消え失せている。

 

「いつ」

 

 短い問いだった。

 ナディアは唇を噛み、それから答える。

 

「今夜です」

 

 その言葉が落ちた瞬間、周囲の空気がさらに重くなった。

 サミルが息を呑む。

 

「そんな……!」

 

 予定が明後日なら準備の時間があった。

 監視もできる。

 偵察もできる。

 救出経路の確保もできる。

 

 だが今夜となれば話は別だ。

 相手はこちらの動きを察知したのか、それとも別の理由があるのか。

 どちらにせよ、先手を打たれたことだけは間違いない。

 ジブリールが拳を握る。

 その指先が白くなるほど強く。

 

「やっぱり行くしかない」

「待って」

 

 アラタが言う。

 

「待てない!」

 

 ジブリールの声が鋭くなる。

 

「今夜連れていかれたら、次にどこへ行くかわからない!」

「わかってる」

「わかってない!」

「わかってる!」

 

 アラタの声が初めて大きくなった。

 ジブリールが黙る。

 アラタはすぐに表情を歪めた。怒鳴ったことを後悔している顔だった。

 

「ごめん」

「……謝らないで」

 

 ジブリールは視線を逸らした。

 ココはそのやり取りを見ていた。

 怒鳴り合いにも似た短いやり取りだった。けれど、その中には単純な反抗や命令への不服従だけでは説明できない何かがあった。

 

 ジブリールはアラタに食ってかかった。

 アラタもまた、感情を抑えきれず声を荒げた。

 だが、それは互いを否定するための衝突ではなかった。

 むしろ逆だった。

 相手のことを気にかけているからこそ、譲れないものがぶつかっているように見えた。

 

 ココは戦場で多くの人間を見てきた。

 上官と部下。

 雇い主と傭兵。

 親と子。

 教師と生徒。

 支配する者と従う者。

 そのどれにも当てはまらない関係というものも、もちろん存在する。

 だが、目の前の二人はそのどれとも少し違っていた。

 

 ヨナも見ていた。

 彼は黙ったまま、アラタとジブリールを交互に見ている。

 その視線は冷静だったが、完全に無関心というわけでもなかった。

 ヨナ自身もまた、子供でありながら戦場にいる。

 だからこそ、あのやり取りの意味を考えていたのかもしれない。

 それは指揮官と部下の会話ではなかった。

 命令を下し、それに従うだけの関係なら、あんな言葉は出てこない。

 

 ジブリールはアラタに反論した。

 アラタも彼女を黙らせようとはしなかった。

 怒鳴ったあとですぐに謝った。

 それは軍隊の指揮系統とは程遠い。

 保護者と子供の会話でもなかった。

 もっと歪で、もっと近いものだった。

 戦場という場所が作り上げた関係。

 本来なら出会うはずのなかった子供たちと、一人の青年が同じ場所で生き延びるために結びついた関係。

 家族ではない。

 仲間という言葉だけでも足りない。

 それでも互いを見捨てられない。

 そんな不安定な絆だった。

 

 ココは無意識に小さく息を吐いた。

 危うい、と彼女は思う。

 だが同時に、その危うさこそがアラタという人間を動かしているのだとも感じていた。

 そして、それはきっと子供たちの側も同じだった。

 

「ココ」

 

 レームが低く言う。

 それまで地図を見つめていたココは、ゆっくりと顔を上げた。夕暮れの赤い光が横顔を照らしている。

 

「どうする」

「選択肢は?」

 

 レームは地図を指先で軽く叩いた。

 

「一つ。今夜の移送を追う」

 

 指が北へ伸びる道路をなぞる。

 

「二つ。白い学校へのルートを探る」

 

 今度は鉱山地帯へ続く旧道を示す。

 

「三つ。手を引く」

 

 最後の言葉だけは、わずかに皮肉が混じっていた。

 ココは即答した。

 

「三つ目は却下」

「言うと思った」

 

 レームはため息混じりに言う。

 ココは視線をアラタへ向けた。

 アラタもまた、彼女を見返している。

 互いに相手を信用していないことを理解した上で、それでも話を続けている目だった。

 

「私はあなたの作戦に乗らない」

 

 その言葉に、ジブリールの目が怒りで燃えた。

 一歩前へ出かける。

 

「やっぱり――」

 

 だが、ココは最後まで言わせなかった。

 

「でも、あなたたちを私の作戦に乗せる」

 

 ココは続けた。

 アラタが黙る。

 

「今夜の移送車両を追う。子供たちの安全を最優先。ただし、車両の行き先と関係者の証拠も取る。白い学校への入口を押さえる。救出と証拠保全を同時にやる」

 

「そんな都合よくできますか」

 

 疑いではなく確認だった。

 現実を知っている人間の問いだった。

 ココは笑う。

 いつもの軽い笑みだったが、その奥には妙な自信があった。

 

「都合よくするのが仕事よ」

 

 彼女は胸を張る。

 

「武器商人を舐めないで」

「信用できません」

 

 アラタは即答した。

 ココは肩をすくめる。

 

「でしょうね」

 

 あっさり認めた。

 その反応に、逆にアラタの方が少しだけ言葉を失う。

 

「私もあなたを信用してない」

 

 ココは続けた。

 

「だって、あなたは子供を戦場に出す」

 

 アラタの表情が固まる。

 ジブリールが何か言い返そうとしたが、アラタは手で制した。

 ココは視線を逸らさない。

 

「でも」

 

 少しだけ声の調子が変わる。

 

「信頼はできるかもしれない」

「違いは?」

 

 アラタが聞く。

 ココは少し考えるように顎へ指を当てた。

 

「信用は人格にするもの」

 

 そしてアラタを指差す。

 

「信頼は能力にするもの」

 

 その場にいた全員が黙って聞いていた。

 

「私はあなたが善人かどうか知らない」

 

 ココは言う。

 

「あなたも私が善人だなんて思ってない」

「思っていません」

「でしょうね」

 

 ココは笑った。

 

「でも、あなたは今夜、子供たちを助けるために最善を尽くす」

 

 その言葉には迷いがなかった。

 

「そこは信頼できる」

 

 アラタはしばらく黙っていた。

 そして、深く息を吐いた。

 

「わかりました」

「交渉成立?」

「まだです」

 

 即答だった。

 ココは思わず吹き出す。

 

「細かい男ね」

「確認は必要です」

「面倒な男とも言う」

「よく言われます」

 

 そのやり取りに、周囲から小さな笑いが漏れた。

 だが、アラタはすぐに真顔へ戻る。

 

「子供たちは、あなたの駒じゃありません」

 

 空気が少しだけ変わった。

 ココの笑みが止まる。

 その言葉は冗談ではなかった。

 アラタにとって最も譲れない部分だった。

 

「知ってるわ」

 

 ココは静かに答える。

 

「本当に?」

 

 アラタは視線を逸らさない。

 ココも逸らさなかった。

 数秒の沈黙。

 そして彼女は肩をすくめる。

 

「ヨナが怒るから」

 

 ヨナが顔を上げた。

 

「俺を理由にするな」

「いいじゃない」

 

 ココは悪びれない。

 

「怖い番犬がいる商人は、少し信用できるでしょ」

「できない」

 

 ヨナは即答した。

 

「ほら、厳しい」

「自業自得だ」

「ひどい」

 

 ココは大げさに肩を落とす。

 その様子を見ていたソフィアが、とうとう吹き出した。

 

「その子、面白いね」

「面白くない」

「面白くない」

 

 ヨナとバルメが同時に言った。

 ソフィアはますます笑った。

 アラタはその空気の中で、少しだけ肩の力を抜いた。だが、すぐに端末へ目を戻す。

 

「移送車両は三台。表向きは医療搬送車です。出発は二十一時。キャンプ北門から出ます」

「護衛は?」

「共和国軍が二台。グレイ・ハウンドが一台。途中で車両を変える可能性があります」

「なら、変える場所を見る必要があるわね」

 

 ココは通信機を取った。

 

「ルツ、聞こえる?」

『ばっちり。嫌な話も全部聞こえた』

「高所を取って。キャンプ北側の道路を見張る。マオはウゴと合流。追跡車両の準備。ワイリ、車両を止める手段は?」

『穏便なのと派手なの、どっちがいい?』

「穏便」

『つまらないな』

「子供が乗ってるの」

 

 通信の向こうで、ワイリが少し黙った。

 

『了解。タイヤと通信だけにする』

「いい子」

『俺は子供じゃない』

「今日は全員、子供に優しくする日よ」

 

 ココは通信を切った。

 アラタはその様子を黙って見ていた。彼女の軽薄そうな言葉遣いの裏で、状況を冷静に整理し、次の一手を組み立てていることは理解できる。

 だからこそ厄介だった。

 信用はできない。

 だが、無視することもできない。

 

「あなたは、なぜそこまでするんですか」

「何が?」

「これはあなたの商売には不利です」

「そうとも限らないわ」

「契約先の政府軍と揉めます」

「揉める契約先なら、こっちから揉んでやればいい」

「HCLIにも迷惑がかかる」

「会社は迷惑を処理するために大きくなるの」

「答えになっていません」

 

 ココはアラタを見た。

 

「あなた、面倒な男ね」

「よく言われます」

「でしょうね」

 

 赤く染まった浄水場の壁に夕陽が長い影を落としていた。崩れた配管と錆びた鉄骨の向こうで風が砂を巻き上げ、廃墟は静かに沈みゆく光を受け止めていた。

 

「私はね、アラタ。自分の商品がどこに行くか、知っているつもりでいたいの」

「つもり?」

「全部は知らない。全部は追えない。武器は売った瞬間に、誰かの手へ行く。その誰かがまた別の誰かへ売る。いつか、知らない子供の手に渡る」

 

 アラタは黙って聞いている。

 

「だから、たまに確認するの。私が売ったものが、どこで、誰の手にあって、何に使われるのか」

「確認して、どうするんですか」

「気に入らなければ、壊す」

 

 その言葉は軽かった。

 だが、誰も笑わなかった。

 

「あなたは世界を変えたいんですか」

 

 アラタが静かに問いかけた。

 ココはにこっと笑った。

 

「秘密」

「そうですか」

「あなたは?」

「僕は世界を変えたいわけじゃありません」

「じゃあ何を?」

「目の前の子供を、戦場の外に出したいだけです」

「それ、世界を変えるより難しいかもよ」

「知っています」

 

 二人はしばらく見つめ合った。

 武器商人と、子供たちの指揮官。

 笑う少女と、笑えない青年。

 遠くを見すぎる者と、近くを見すぎる者。

 

 ココは世界全体を盤面のように見ている。港から港へ、国から国へ、人から人へ流れていく金や武器や情報。その巨大な流れの中で、どこを押せば何が動くのかを考えている。

 

 一方でアラタは違う。彼の視線はいつも目の前にいる子供たちへ向いている。救えるかもしれない一人、今にも連れて行かれそうな一人、泣いている一人。その積み重ねの先に何があるのかは考えていても、まず最初に見るのは目の前の人間だった。

 

 どちらが正しいのか、ヨナにはわからなかった。

 ココのやり方がなければ、大きな仕組みは壊せないのかもしれない。だが、アラタのやり方がなければ、今日助けられるはずだった子供が明日には消えてしまうのかもしれない。

 二人とも戦場を知っている。

 二人とも人が死ぬことを知っている。

 それなのに、見ている方向だけが違っていた。

 

     *

 

 二十一時前。

 難民キャンプ第七区は、昼間より静かだった。

 夜のキャンプには、独特の息苦しさがある。灯りは少なく、人々は早く眠る。眠るというより、動かないことで空腹と不安をやり過ごしている。

 

 北門近くの倉庫前に、医療搬送車が三台止まっていた。白い車体。赤い十字のマーク。だが、窓には内側から目隠しがされている。

 ヨナは離れた建物の影から、それを見ていた。

 隣にはジブリールがいる。

 

「近い」

 

 ヨナが言った。

 

「何が」

「お前の位置」

「見やすいから」

「邪魔だ」

「そっちこそ」

 

 二人は小声で言い合った。

 少し離れた場所で、バルメが二人を見ている。彼女は何か言いたそうだったが、任務中なので黙っていた。

 通信からレームの声が入る。

 

『北側道路、共和国軍車両二台。グレイ・ハウンド一台。予定通りだ』

 

 続いてルツ。

 

『見えるぜ。嫌な感じの連中だ。子供相手にあの装備は大げさだろ』

 

 マオの声。

 

『追跡車両準備完了。ウゴが運転、俺が横。派手にやるなよ、ワイリ』

『俺はいつも繊細だ』

『どの口が言う』

 

 ココは別の場所で、アラタと共に全体を見ていた。

 指揮所代わりに使われている廃屋は、かつて管理事務所だったらしい。壁の塗装は剥がれ落ち、窓ガラスも半分以上が割れている。床には砂埃が積もり、風が吹き込むたびに細かな塵が舞った。

 壁には何枚もの地図が貼られている。キャンプ周辺の簡易地図、道路網の図面、ナディアが独自に書き込んだメモ付きのルート図。赤や青の印がいくつも重なり、どこを誰が監視しているのかが一目でわかるようになっていた。

 

「緊張してる?」

 

 ココが聞く。

 

「してます」

 

 アラタは正直に答えた。

 

「指揮官は嘘でも余裕って言うものよ」

「僕が余裕と言ったら、ジブリールに嘘だと言われます」

「いい部下ね」

「部下ではありません」

「じゃあ何?」

 

 アラタは少し迷った。

 

「仲間です」

「子供でも?」

「子供だからです」

 

 ココはアラタの横顔を見る。

 

「あなた、本当に面倒な男」

「さっきも言われました」

「何度でも言いたくなる」

 

 ナディアが小さく声を上げた。

 

「動きました」

 

 画面に、搬送車の扉が開く様子が映る。

 子供たちが出てきた。

 いや、出てきたのではない。連れてこられたのだ。

 眠そうな子。泣いている子。何が起きているかわからずぼんやりしている子。年齢はばらばらで、一番小さい子は五歳くらいに見えた。

 兵士たちは子供たちを荷物のように扱っていた。

 名前を呼ぶ者はいない。

 体調を気遣う者もいない。

 ただ人数を数え、書類と照合し、順番に車へ押し込んでいく。

 

 その光景は静かだった。

 だからこそ、余計に不気味だった。

 ジブリールの呼吸が変わった。

 ほんのわずかな変化だったが、ヨナにはわかった。

 

「動くな」

「わかってる」

「わかってない顔だ」

「うるさい」

 

 最後に、一人の少年が抵抗した。

 母親らしい女性にしがみつき、泣き叫ぶ。

 兵士が引き離そうとする。

 女性も泣いている。だが、周囲の大人は動けない。

 ヨナの体が前に出かけた。

 ジブリールも同じだった。

 バルメが二人の肩を掴む。

 

「まだだ」

 

 ヨナは歯を食いしばる。

 

「離して」

 

 ジブリールが言う。

 

「まだだ」

「今助けないと!」

「今動けば全員逃げられない」

 

 バルメの声は低い。

 

「助けたいなら、待て」

 

 ジブリールは悔しそうに唇を噛んだ。

 車両の扉が閉まる。

 搬送車三台と護衛車両が、ゆっくり北門を出た。

 レームの声が入る。

 

『追跡開始。距離を取る』

 

 ココは地図を見た。

 

「さて、どこで化けるかな」

 

 移送車両は北へ向かう幹線道路に入った。しばらくは予定通り。だが十分ほど走ったところで、先頭の護衛車両が脇道へ入った。

 

 ナディアが言う。

 

「地図にない道です」

「鉱山用の旧道だ」

 

 オマルが言った。

 

「内戦中に軍が使っていた。今は閉鎖されたことになっている」

「閉鎖された道ほど、よく使われるものよ」

 

 ココは通信機を取る。

 

「ワイリ、出番」

『待ってました』

「子供に優しく」

『了解。大人には?』

「ほどほどに」

『つまらないけど了解』

 

 数分後、旧道の先で小さな火花が散った。

 先頭の護衛車両が急に速度を落とす。タイヤが裂けたのだ。後続車両も止まる。グレイ・ハウンドの兵士たちが降りて周囲を警戒する。

 その瞬間、道路脇の通信中継機が沈黙した。

 ワイリの声が入る。

 

『通信、二分だけ黙らせた。長くは無理だ』

「十分」

 

 レームが言った。

 

『ルツ、右側の監視役を抑えろ。撃つな、目を逸らせ』

『了解』

 

 遠くで小石が弾ける音がした。

 監視役の兵士が慌てて身を伏せる。

 その隙に、ジブリールとサミルが低く走る。

 ヨナも動いた。

 

「ヨナ!」

 

 バルメが追う。

 搬送車の後部へ回り込む。扉には簡易ロック。ヨナが銃を構えようとした瞬間、ジブリールが工具を差し込んだ。

 

「撃つと中の子が怖がる」

「開けられるのか」

「ナディアが教えた」

「何でもできるな」

「何でもはできない。必要なことだけ」

 

 ロックが外れる。

 中には子供たちがいた。狭い車内に詰め込まれ、目隠しをされている子もいる。薬で眠らされている子もいた。

 ジブリールの顔から血の気が引いた。

 ヨナは短く言う。

 

「起こせ。静かに」

 

 ジブリールは頷いた。

 サミルが小声で子供たちに話しかける。

 

「大丈夫。助けに来た。声を出さないで。順番に降りて」

 

 その声は震えていたが、優しかった。

 グレイ・ハウンドの兵士が一人、こちらに気づいた。

 銃口が向く。

 だが、その前にバルメが踏み込んだ。

 兵士の腕を弾き、地面に押さえ込む。無駄のない動きだった。

 

「殺してない」

 

 バルメが言った。

 

「聞いてない」

 

 ヨナが返す。

 

「お前に言った」

「そうか」

 

 別の方向で銃声が鳴る。

 アラタの声が通信に入る。

 

『予定より早い。敵が増えています。撤収を優先』

 

 ココの声。

 

『子供は?』

 

 ヨナは車内を見る。

 

「まだ半分」

『急いで。でも無理はしない』

 

 その言葉に、ヨナは一瞬だけ違和感を覚えた。

 ココの声が、いつもより硬かった。

 ジブリールが眠っている小さな女の子を抱えた。

 

「この子、熱がある」

「運べ」

「わかってる」

 

 ヨナは別の子の手を引いた。

 その子は震えていた。ヨナの手を強く握る。

 

「怖い」

 

 小さな声。

 ヨナは少しだけ迷った。

 

「大丈夫だ」

 

 自分で言って、嘘くさいと思った。

 大丈夫なことなど、何もない。

 だが、子供はその言葉に頷いた。

 嘘でも必要な言葉がある。

 ヨナは、それをあまり好きではなかった。

 

 搬送車の前方で、エンジン音が響いた。

 新しい車両が来る。

 レームの声が飛ぶ。

 

『撤収! 増援だ!』

 

 オマルが道路脇から姿を見せ、子供たちを誘導する。

 

「こっちだ! 伏せて走れ!」

 

 マオとウゴの車両が横付けされる。避難した子供たちを次々に乗せる。

 ソフィアが子供を抱き上げ、乱暴だが確実に車へ押し込む。

 

「頭下げて! 泣くのはあと!」

「ソフィア、言い方」

 

 アラタが言う。

 

「優しくしてる暇ない!」

「それはそうだけど!」

 

 ココは廃屋から現場へ向かっていた。レームが止めようとする。

 

「ココ、前に出るな」

「出ないと見えない」

「見えなくていいものもある」

「それを決めるのは私」

 

 ココは前方の道路を見た。

 増援車両。

 グレイ・ハウンドの兵士。

 そして、医療搬送車の中に残された子供。

 

「ヨナ、残りは?」

『一台目完了。二台目もほぼ完了。三台目が開かない』

 

 ジブリールの声が混じる。

 

『ロックが違う!』

 

 ナディアが叫ぶ。

 

『電子ロックです! 外部から制御されています!』

 

 ワイリの声。

 

『俺がやる。三十秒くれ』

 

 レームが吐き捨てる。

 

『三十秒は長い』

『じゃあ二十秒で神に祈れ』

『俺は神を信用してない』

『俺もだ』

 

 ヨナは三台目の扉を叩いた。

 中から小さな声がする。

 泣き声。

 助けを呼ぶ声。

 ジブリールが扉にしがみつく。

 

「開けて! 開けてよ!」

「下がれ」

 

 ヨナが言った。

 

「嫌!」

「下がれ!」

 

 ヨナはジブリールの肩を掴み、無理やり引き剥がした。

 直後、扉のロックが外れる音がした。

 

『開いた!』

 

 ワイリの声。

 ヨナが扉を開ける。

 中には六人の子供がいた。そのうち一人は、昼間キャンプで母親にしがみついていた少年だった。彼は涙と汗で顔を濡らしながら、ヨナを見上げた。

 

「早く」

 

 ヨナは手を伸ばした。

 そのとき、道路の向こうから強いライトが差した。

 増援車両の機銃手がこちらを捉える。

 バルメが叫んだ。

 

「ヨナ!」

 

 ヨナは子供を抱えて車外へ飛び出す。

 ジブリールも二人を引きずり出す。

 サミルが最後の一人を抱えようとして、足を滑らせた。

 ヨナは戻った。

 

「馬鹿!」

 

 ジブリールが叫ぶ。

 ヨナはサミルの襟を掴み、車外へ引っ張り出した。

 直後、搬送車の側面に弾が当たり、金属音が鳴る。

 レームの声。

 

『ルツ!』

 

『やってる!』

 

 機銃手のライトが逸れた。

 射撃が止まる。

 その隙に、全員が道路脇の斜面へ飛び込んだ。

 ヨナは息を整えながら、サミルを見た。

 

「動けるか」

「う、うん」

「なら走れ」

「ありがとう」

「あとで言え」

 

 ジブリールがヨナを見る。

 

「今の、危なかった」

「知ってる」

「死んだらどうするの」

「死んでない」

「そういうことじゃない!」

 

 ジブリールは本気で怒っていた。

 ヨナは少し戸惑った。

 怒られる理由はわかる。

 だが、彼女が自分を心配したことが、少し意外だった。

 

「お前も同じことをする」

 

 ヨナが言った。

 

「私はいいの!」

「よくない」

「私はジブリールだから!」

「意味がわからない」

「うるさい!」

 

 二人が言い合っていると、バルメが二人の襟首をまとめて掴んだ。

 

「走れ」

「離せ!」

「自分で走る!」

「なら走れ」

 

 バルメは二人を斜面の下へ押し出した。

 

     *

 

 撤収は成功した。

 だが、それは誰もが胸を張って喜べるような種類の成功ではなかった。

 夜の旧道で行われた救出作戦は、結果だけを見れば目的を達成している。移送車両に乗せられていた子供たちは救い出され、少なくとも今この瞬間はグレイ・ハウンドの手から離れている。

 

 しかし、その代償も決して小さくはなかった。

 グレイ・ハウンドの増援は予想より早く到着した。あと数分遅れていれば、あるいはもう少し余裕を持って証拠を回収できたかもしれない。だが現実には、子供たちの安全を優先するために多くを諦めなければならなかった。

 

 車両の一部データは回収できなかった。

 護衛の一人も逃げた。

 移送先を示す書類は燃やされ、白い学校への直接的な証拠はまだ足りない。

 バベル・ルートの全貌を暴くには、決定的な何かが欠けている。

 それでも。

 それでも、救い出された子供たちはそこにいた。

 

 古い農業倉庫を使った一時避難場所で、子供たちは毛布に包まれていた。支援団体の女性医師が熱を測り、ミラと呼ばれる少女が手伝っている。マオは水と食料を配り、ウゴは外で車両を見張っていた。

 ソフィアは小さな子供に袖を掴まれて困っていた。

 

「離して」

 

 子供は離さない。

 

「私は優しくないよ」

 

 子供はさらに袖を掴む。

 

「……あー、もう」

 

 ソフィアはしゃがみ込み、子供の頭を雑に撫でた。

 

「泣くな。もう車には乗せない」

 

 その声は乱暴だったが、子供は少しだけ安心したようだった。

 バルメはそれを見て、かすかに笑った。

 

「意外と面倒見がいい」

「見てない!」

 

 ソフィアが叫ぶ。

 バルメは真顔で言う。

 

「そうか」

「その顔やめて! 絶対信じてない!」

 

 少し離れた場所で、レームとオマルが並んで煙草を吸っていた。

 

「いいのか、子供の前で」

 

 オマルが聞く。

 

「外だ」

「そういう問題か?」

「お互い、今さら健康を気にする身でもないだろ」

 

 オマルは低く笑った。

 

「確かに」

 

 レームは倉庫の中を見る。

 

「お前のところの指揮官、危ういな」

「知っている」

「止めないのか」

「止めて止まるなら、苦労はしていない」

「それもそうだ」

 

 オマルは煙を吐いた。

 

「そっちの白い女も危うい」

「知ってる」

 

 レームが同じように答えた。

 

「止めないのか」

「止めて止まるなら、苦労はしていない」

 

 二人は一瞬黙り、それからほとんど同時に小さく笑った。

 

「どこも同じか」

「らしいな」

 

 倉庫の奥で、アラタは救出した子供たちの名簿を確認していた。ナディアが端末で記録を照合する。サミルは疲れ切って座り込んでいるが、目はまだ興奮していた。

 

 ココはアラタの横に立つ。

 倉庫の中では、救出された子供たちが毛布に包まれ、ようやく落ち着きを取り戻し始めていた。泣き疲れて眠ってしまった子もいれば、まだ周囲を警戒するように目を開けたままの子もいる。医療スタッフが忙しく動き回り、簡易照明の白い光が薄暗い空間を照らしていた。

 アラタは端末を手にしたまま、何度も名簿を確認している。その表情には安堵と疲労、そして消えない緊張が混ざっていた。

 

「全員?」

 

 ココが静かに尋ねる。

 アラタは画面から目を離さずに答えた。

 

「移送車両にいた子は全員です」

 

 その言葉に、ココは小さく息を吐いた。

 少なくとも、今夜の目的は果たせた。

 だが、それだけでは終わらないことも二人とも理解している。

 

「キャンプの名簿とは?」

「一致しません」

 

 アラタは苦い顔をした。

 端末の画面には複数のデータが並んでいる。キャンプ管理局の登録情報、支援団体の記録、そして今回救出した子供たちの聞き取り結果。

 どれも綺麗には繋がらない。

 

「名簿にない子が三人います」

 

 アラタは画面をスクロールしながら続けた。

 

「年齢は七歳、九歳、十一歳。どの登録情報にも存在しません」

「偽名?」

「その可能性もあります。でも、それだけじゃ説明できない」

 

 アラタは眉を寄せた。

 

「別のキャンプから混ぜられた可能性があります」

「やっぱり、入口は第七区だけじゃない」

「はい」

 

 ココは腕を組んだ。

 予想はしていた。

 だが、実際に証拠が出てくると話は違う。

 第七区は単なる集積地点の一つに過ぎない。

 つまり、同じような場所が他にも存在するということだ。

 

「バベル・ルートは広いわね」

「広すぎます」

 

 アラタは端末を閉じた。

 小さな電子音が鳴る。

 ようやく一息ついたように肩の力を抜き、それからココへ向き直った。

 

「でも、今日は助かりました」

「礼を言われるようなことじゃないわ」

「それでも、言います」

 

 アラタは真っ直ぐに言った。

 

「ありがとうございました」

 

 その言葉には打算がなかった。

 外交辞令でもない。

 本当にそう思っているのだとわかる。

 ココは少しだけ目を丸くした。

 

「あなた、律儀ね」

「よく言われます」

「そして面倒」

「それもよく言われます」

 

 ココはくすりと笑った。

 アラタもわずかに苦笑する。

 ほんの短い時間だったが、二人の間に張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ。

 もっとも、それは互いを信用したからではない。

 ただ、同じ現場を見て、同じ結果を共有したからだ。

 戦場では、それだけで十分なこともある。

 

「でも、これであなたは私に借りができた」

 

 ココが冗談めかして言う。

 アラタは真顔で頷いた。

 

「わかっています」

「あら」

 

 ココは思わず吹き出した。

 

「冗談のつもりだったのに」

「僕は借りを軽く見ません」

「そういうところが、危ないのよ」

 

 ココの声が少し低くなる。

 

「アラタ。あなたは今日、子供たちを助けた。でも、同時にグレイ・ハウンドに喧嘩を売った。ハキム大佐にも。たぶん、エリザ・クロウにも」

「最初から売っています」

「向こうが本気になる」

「こちらも本気です」

「本気の子供は、死ぬわ」

 

 アラタの顔が止まった。

 ココは続ける。

 

「大人よりまっすぐで、大人より速く走って、大人より疑うことを知らない。だから、死ぬときも早い」

 

 アラタは何も言えなかった。

 ココの声は責めているようで、そうではなかった。

 ただ、事実を言っていた。

 

「あなたは子供を守りたい。でも、子供たちはあなたを守りたがる。今日もそうだった。ジブリールも、サミルも、ナディアも」

「……わかっています」

「本当に?」

「わかっているつもりです」

「つもり、ね」

 

 ココは窓の外を見た。

 

「私と同じだ」

 

 アラタは彼女を見る。

 

「同じ?」

「自分の商品がどこに行くか、知っているつもり。自分の選択が何を壊すか、わかっているつもり。世界を見ているつもり」

 

 ココは笑った。

 

「つもりって、便利で残酷な言葉ね」

 

 アラタは少しだけ視線を落とした。

 

「僕は、どうすればいいんでしょう」

「それを私に聞くの?」

「聞いていません。言ってしまっただけです」

「ふふ。正直ね」

 

 ココはアラタの肩を軽く叩いた。

 

「正解は知らない。でも、不正解なら山ほど知ってる」

「例えば?」

「子供たちを数字で見ること。子供たちのためと言いながら、子供たちの声を聞かないこと。自分だけが背負っていると思い込むこと」

 

 アラタは黙った。

 その言葉は、彼のどこかに刺さった。

 ココはそれ以上言わず、倉庫の外へ出た。

 

     *

 

 ヨナは倉庫の裏手にいた。

 夜風は冷たく、遠くで犬が吠えている。空には星が出ていたが、街の灯りと埃でぼんやりしていた。

 

 倉庫の壁にもたれながら、ヨナは静かに息を吐く。戦闘が終わった直後の独特の疲労感が体に残っていた。銃を構えていた腕は重く、耳の奥にはまだ断続的な銃声の残響がこびりついている気がする。

 倉庫の中からは、子供たちの話し声や泣き声が微かに聞こえてきた。誰かが水を配っている声。医療スタッフが名前を確認する声。助かったという安堵と、まだ消えない恐怖が入り混じったざわめき。

 

 ヨナは目を閉じる。

 今日だけで何人の子供を抱えて走っただろう。

 何人の怯えた顔を見ただろう。

 助けられた子供もいる。

 だが、まだ終わっていない。

 白い学校は残っている。

 バベル・ルートも残っている。

 だから安心するには早すぎた。

 

 足音が近づいてくる。

 軽い足音だった。

 振り返らなくても誰かわかる。

 ジブリールが隣に来る。

 彼女も疲れているはずだった。服には土埃が付き、髪も乱れている。それでも目だけは妙にしっかりしていた。

 

「さっきは、ありがとう」

 

 ヨナは彼女を見ない。

 

「あとで言えと言った」

「今があと」

「そうか」

 

 ジブリールは少しだけ口を尖らせた。

 

「それだけ?」

「何を言えばいい」

「普通は、どういたしましてとか」

「どういたしまして」

「遅い」

 

 ヨナは少しだけ眉を寄せた。

 

「面倒だな」

「あなたも」

 

 二人はしばらく黙った。

 風が吹き、倉庫のトタン屋根がかすかに鳴る。

 遠くでは車両のエンジン音が聞こえた。見張りが移動しているのだろう。

 静かな夜だった。

 戦場にしては、という条件付きではあるが。

 その静けさの中で、二人はしばらく何も言わずに立っていた。

 倉庫の中から、子供の泣き声と、それをなだめる声が聞こえる。

 救われた後でも、すぐに安心できるわけではない。

 ヨナはそれを知っている。

 ジブリールが口を開いた。

 

「あの子たち、明日には笑えるかな」

「わからない」

「あなたなら、何て言う?」

「何も言わない」

「冷たい」

「嘘を言いたくない」

「大丈夫って言ってた」

 

 ヨナは黙る。

 ジブリールは彼を見る。

 

「あれ、嘘?」

「たぶん」

「でも、あの子は安心した」

「そうか」

「嘘でも、必要なときがある」

 

 ヨナは夜空を見上げた。

 

「知ってる」

「じゃあ、言えばいい」

「嫌いだ」

「私も嫌い。でも言う」

 

 ジブリールは倉庫の明かりを見る。

 

「アラタもよく嘘をつく」

「どんな」

「大丈夫。怖くない。ちゃんと帰れる。次は危ないことをさせない」

「最後は嘘だな」

「うん。いつも嘘」

 

 ジブリールは少しだけ笑った。

 

「でも、アラタがそう言うと、少しだけ本当になる気がする」

 

 ヨナは彼女を見る。

 

「お前は、アラタを信じてるんだな」

「信じてる」

「大人は信用できないと言った」

「アラタはアラタ」

「便利な言い方だ」

「便利じゃない。大事な言い方」

 

 ジブリールはヨナに向き直った。

 

「あなたは、ココを信じてるの?」

 

 ヨナはすぐには答えなかった。

 ココ・ヘクマティアル。

 武器商人。

 笑う女。

 嘘つき。

 危険な人間。

 それでも、ヨナが今そばにいる相手。

 

「わからない」

 

 ヨナは言った。

 

「でも、ココは俺を道具にはしない」

「本当に?」

「たぶん」

「たぶん?」

「それくらいで十分だ」

 

 ジブリールは少し考える。

 

「変なの」

「お前も変だ」

「知ってる」

 

 二人はまた黙った。

 

 やがて、ジブリールが言った。

 

「白い学校には、まだ子供がいる」

「わかってる」

「助ける」

「そうか」

「絶対に」

「今夜助けられた子たちみたいに、まだ待ってる子がいる」

 

 彼女の脳裏には搬送車の中の光景が残っていた。

 狭い車内。

 怯えた目。

 泣き声。

 助けを求める小さな手。

 あれを見てしまった以上、見なかったことにはできない。

 

「助けないと、また連れて行かれる」

「そうだな」

「兵士にされる」

「そうだ」

「死ぬかもしれない」

 

 ヨナは答えなかった。

 答える必要がなかった。

 二人とも知っている。

 戦場で子供がどうなるか。

 利用される子供がどうなるか。

 だからこそ、ジブリールは前を向いた。

 

「あなたも来る?」

 

 ヨナは倉庫の中を見た。

 ココが子供たちと話している。

 アラタが名簿を確認している。

 バルメがこちらを見ている。

 レームとオマルが何かを話している。

 それぞれ違う場所から来た人間たち。

 考え方も違う。

 目的も少しずつ違う。

 

 それでも今夜は同じ方向を向いていた。

 戦場では、誰かが誰かを使う。

 誰かが誰かに使われる。

 それでも、全部が道具になるわけではない。

 ヨナは短く答えた。

 

「ココが行くなら行く」

「自分では決めないの?」

「決めてる」

「何を」

「ココが行く場所に、俺も行く」

 

 ジブリールは少し不満そうな顔をした。

 

「それ、自分で決めてないじゃない」

「決めてる」

「どこが」

「俺はそう決めた」

 

 ヨナの声は淡々としていた。

 だが、その言葉に迷いはなかった。

 ジブリールは少しだけ考える。

 そして、なんとなく理解した。

 ヨナは命令されているわけではない。

 自分で選んでいるのだ。

 ココについて行くことを。

 その選択を。

 だから否定されても変わらない。

 

「変なの」

「よく言われる」

「私も言う」

「そうか」

 

 ジブリールは少し不満そうだったが、やがて小さく頷いた。

 

「じゃあ、また一緒」

「味方じゃない」

「今は?」

 

 ヨナは少し考えた。

 ジブリールを見る。

 口が悪い。

 勝手に動く。

 危険なことをする。

 そして、自分が危険な目に遭うことをあまり気にしていない。

 正直、面倒だ。

 だが――。

 

「邪魔ではない」

 

 ジブリールは笑った。

 

「それ、味方に近い」

「違う」

「近い」

「違う」

 

 倉庫の入口から、サミルが顔を出した。

 

「ジブリール! アラタが呼んでる!」

「わかった!」

 

 ジブリールは走り出そうとして、振り返った。

 

「ヨナ」

「何だ」

「サミルを助けてくれて、ありがとう」

「二回目だ」

「何回でも言う」

 

 ジブリールはそう言って、倉庫へ戻っていった。

 ヨナは一人、夜風の中に残った。

 手の中に、さっき子供に握られた感触がまだ残っている気がした。

 

     *

 

 深夜。

 

 共和国軍司令部の一角にある執務室には、重苦しい空気が満ちていた。

 窓の外は完全な闇に沈んでいる。遠くの検問所から時折サーチライトの光が揺れ、発電機の低い唸りが夜気に混じって聞こえてくる。昼間は人の出入りが絶えない建物も、この時間になると静まり返っていた。

 

 だが、この部屋だけは違った。

 怒声が壁を震わせる。

 ハキム大佐は執務室で怒鳴っていた。

 

「移送車両が襲われた? 子供を奪われただと? 何をしていた!」

 

 机を叩く音が響く。

 その勢いで机の上のグラスが倒れ、琥珀色の酒が書類へ流れ落ちた。インクの文字が滲み、移送計画書の端が濡れていく。

 だが、それを気にする者はいない。

 部下たちは壁際に並び、誰も目を合わせようとしなかった。

 

 報告書を持った若い将校は顔を青くしている。通信担当の士官は額に汗を浮かべ、視線を床へ落としていた。誰もが大佐の怒りの矛先が自分へ向かうことを恐れている。

 失敗だった。

 それも小さな失敗ではない。

 極秘移送作戦が襲撃され、対象となる子供たちを奪われた。

 しかも襲撃した相手は正体不明のゲリラではない。

 

 ココ・ヘクマティアル。

 そしてアラタ。

 今や大佐にとって最も厄介な名前だった。

 

「警備部隊は何をしていた!」

 

 ハキム大佐は報告書を掴み、床へ叩きつけた。

 

「護衛車両は三台いたはずだ! PMCもいた! それなのに子供を全員奪われたのか!」

「ぜ、全員ではありません」

 

 部下が震える声で答える。

 

「何だと?」

「移送対象二十七名のうち、二十一名が救出されました。残り六名は――」

「救出された時点で同じだ!」

 

 大佐は怒鳴った。

 

「連中は我々の計画を知っていた! 出発時刻も、ルートも、護衛構成もだ! 内部に情報提供者がいる!」

 

 部屋の空気がさらに重くなる。

 誰も反論できない。

 実際、その可能性は高かった。

 移送計画は限られた人間しか知らない機密事項だった。それにもかかわらず、襲撃はあまりにも正確だった。

 まるで待ち伏せされていたかのように。

 

 ハキム大佐は荒い息を吐きながら椅子へ腰を下ろした。

 だが怒りは収まらない。

 拳は震え、額には血管が浮いている。

 

「HCLIが関わっているんだぞ!」

 

 彼は吐き捨てるように言った。

 

「あの小娘が裏切った!」

 

 部屋の隅には、エリザ・クロウが静かに立っていた。

 彼女だけは最初から表情を変えていない。

 怒鳴り声にも動じず、部下たちの怯えた様子にも興味を示さない。

 まるで別の場所からこの光景を観察しているようだった。

 

「落ち着いてください、大佐」

「落ち着けるか! HCLIが関わっているんだぞ! あの小娘が裏切った!」

「まだ裏切りとは限りません」

「同じことだ!」

 

 大佐は立ち上がった。

 

「契約先の作戦を妨害した時点で同じだ! あの女は自分が何をしたかわかっているのか!」

「理解しているでしょう」

 

 エリザは淡々と答える。

 

「だからこそ動いた」

「ならなおさら問題だ!」

 

 ハキム大佐は机を回り込みながら歩いた。

 

「私は最初から信用していなかった。武器商人など金でしか動かん。あの女との契約は破棄だ。いや、拘束する。カラバル政府への妨害行為として――」

「それはおすすめしません」

 

 エリザの声は柔らかい。

 だが、部屋の温度が少し下がった。

 

「ココ・ヘクマティアルを正面から敵に回すには、準備が足りません。HCLIは彼女一人ではない。兄のキャスパーもいる」

「ではどうする!」

「彼女に、もっと深く入ってもらいます」

 

 ハキム大佐は眉をひそめた。

 

「何?」

「彼女は興味を持ちました。なら、その興味を利用する。白い学校の外側ではなく、内側へ誘導します」

「危険すぎる」

「危険だから価値があります」

 

 エリザは微笑んだ。

 

「アラタも同じです。子供を助けるためなら必ず来る。彼は罠を疑っても、子供を見捨てられない」

「捕らえるのか」

「可能なら」

「子供使いを?」

「ええ」

 

 エリザの目が細くなる。

 

「彼は商品として価値がある。あるいは、研究対象として」

 

 ハキム大佐は気味悪そうに彼女を見た。

 

「君たちPMCは、時々軍人よりも悪趣味だな」

「軍人の方々から多くを学びましたので」

 

 エリザは丁寧に答えた。

 大佐は舌打ちする。

 

「白い学校に警戒態勢を敷け。移送計画を第二段階へ移す」

「すでに指示済みです」

「早いな」

「遅いよりは」

 

 エリザは窓の外を見た。

 夜のカラバルは静かだった。

 だが、その静けさの下で、無数の車両が動き、通信が飛び、金が移り、人間が運ばれている。

 

 バベル・ルート。

 武器と資金と子供たちが流れる、見えない道。

 その道に、今夜二つの異物が入り込んだ。

 

 ココ・ヘクマティアル。

 アラタ。

 

 エリザは、どちらも好きではなかった。

 だが、どちらにも価値があった。

 

「では、始めましょう」

 

 彼女は小さく呟いた。

 

「白い学校の授業を」

 

     *

 

 夜明け前、ココ隊とアラタ陣営は一時的な合流地点を離れる準備をしていた。

 東の空はまだ薄暗く、地平線の向こうがわずかに白み始めているだけだった。夜の冷気は残っていたが、乾いた風にはすでに朝の気配が混じっている。

 

 救出した子供たちは支援団体の別ルートで移送される。もちろん安全は保証できない。だが、少なくとも今夜あの車に戻されることはない。

 倉庫の中では、疲れ切った子供たちが毛布に包まれて眠っていた。泣き疲れて眠った子もいる。警戒心が抜けず、目を閉じても浅い眠りを繰り返している子もいた。

 

 ミラは医療スタッフの手伝いを続けていた。

 熱を測り、薬を配り、水を飲ませる。彼女自身もほとんど眠っていないはずだったが、弱音は吐かなかった。

 

「この子、少し熱が下がった」

 

 そう言って微笑む姿は、年齢よりずっと大人びて見えた。

 サミルは眠気と興奮でふらつきながらも、ナディアの荷物を運んでいる。

 ジブリールは最後まで周囲を警戒していた。

 ココは車の前で伸びをした。

 

「眠い。徹夜は美容の敵」

「戦場も美容に悪い」

 

 レームが言った。

 

「それは困るわ」

「今さらか」

 

 アラタが近づいてくる。

 

「ココさん」

「はい、アラタさん」

「白い学校に行くんですね」

「行くわ」

「僕たちも行きます」

「でしょうね」

「止めないんですか」

「止めて止まるの?」

「止まりません」

「なら言うだけ無駄」

 

 ココは笑った。

 

「ただし、次からは私のルールも聞いてもらう」

「内容によります」

「子供を無駄に前へ出さない」

 

 アラタの表情が固まる。

 その言葉は昨夜も聞いた。

 だが、今こうして朝の光の中で聞くと、また違う重みがあった。

 

「……それは、僕も同じです」

「でも、あなたの無駄と私の無駄は違うかもしれない」

「そうですね」

「だから揉める」

「揉めても、助けられるなら」

「いい返事」

 

 ココは手を差し出した。

 アラタは一瞬迷い、その手を握った。

 武器商人と子供たちの指揮官。

 二人の握手は、同盟というには軽く、取引というには重かった。

 

 互いに信用していない。

 互いに譲れないものを持っている。

 それでも同じ敵を見ている。

 だから手を組む。

 

 戦場では珍しくない話だった。

 だが、この二人の場合は少し違った。

 ココは世界全体を見ている。

 アラタは目の前の子供を見ている。

 視線の高さも、見ている範囲も違う。

 それでも今だけは、同じ方向へ進もうとしていた。

 

 ヨナはそれを少し離れて見ていた。

 ジブリールが横に立つ。

 

「手を組んだの?」

「たぶん」

「信用できる?」

「できない」

「じゃあどうするの」

「見張る」

「私も」

 

 二人は同じ方向を見た。

 朝日が、カラバルの乾いた大地を照らし始めていた。

 光は美しかった。

 だが、その光の先には、まだ見えない施設がある。

 

 白い学校。

 子供を集め、名前を奪い、兵士に変える場所。

 その背後には、港から鉱山へ伸びる長い道がある。

 

 バベル・ルート。

 人間の欲望が作った、天へ届かない塔。

 ココは車に乗り込む前に、アラタへ言った。

 

「ねえ、アラタ」

「はい」

「あなたは目の前の子供を救いたい。私は、その子たちを運ぶ道を壊したい」

「はい」

「目的が違うわね」

「でも、今は同じ方向です」

「そう。今はね」

 

 ココは楽しそうに笑った。

 

「そのうち喧嘩するかもしれない」

「かもしれません」

「結構派手に」

「否定できません」

「でも、その時はその時」

 

 ココは空を見上げた。

 

「まずは白い学校」

「はい」

「そこから先は、その後考える」

 

 アラタは頷いた。

 ヨナは銃を肩にかけ、ジブリールは隣で小さく息を吸う。

 サミルは欠伸を噛み殺し、ナディアは端末を抱え直した。

 バルメは周囲を確認し、レームは車列の順番を決めている。

 オマルは仲間たちへ指示を出し、ソフィアは眠そうな顔で文句を言いながらも最後の荷物を積み込んでいた。

 

 誰も完全には休めていない。

 誰も完全には安心していない。

 それでも前へ進むしかなかった。

 まだ、彼らは味方ではない。

 けれど、同じ車列が同じ朝へ向かって走り出す。

 戦場の外へ出たい子供たちと、戦場を商売にする大人たち。

 その境界線は、朝靄の中でひどく曖昧だった。

 そして曖昧な場所にこそ、戦争は根を張る。

 だからこそ、その根を掘り起こさなければならない。

 

 白い学校の先に何があるのか。

 バベル・ルートの終点に誰がいるのか。

 まだ誰も知らない。

 だが、車列は動き始めた。

 後戻りはできない。

 

 朝日は高く昇り始めていた。

 新しい一日の始まりだった。

 そしてそれは、彼らにとって次の戦いの始まりでもあった。

 

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