JORMUNGAND:マージナル・チルドレン   作:たこ焼き 龍月

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第三章 白い学校

 

 

 朝靄の中を、二つの車列が北へ走っていた。

 夜明けからそれほど時間は経っていない。地平線の向こうから昇ったばかりの太陽はまだ低く、乾いた大地の上に薄い金色の光を落としている。赤土の平野には白い靄がたなびき、遠くの丘陵地帯は輪郭だけをぼんやりと浮かび上がらせていた。

 道路は決して良い状態ではない。ところどころ舗装が剥がれ、戦争の名残のようなひび割れが走っている。車輪がその上を通るたびに車体が小さく揺れ、砂埃が後方へと流れていった。

 

 そんな荒れた道を、二つの車列が一定の速度を保ちながら進んでいる。

 先頭を行くのは、ココ隊の車両だった。ウゴが運転席に座り、慣れた手つきでハンドルを握っている。彼の視線は常に前方へ向けられ、道路状況だけでなく周囲の地形や不自然な動きにも注意を払っていた。

 助手席にはレームが座っている。窓の外へ目を向けながらも、時折バックミラーやサイドミラーを確認し、周辺の警戒を怠らない。長年戦場を渡り歩いてきた彼にとって、移動中こそ最も神経を使う時間の一つだった。

 

 後部座席にはココとヨナ、そしてバルメがいた。

 ココは膝の上に地図や資料を広げ、何かを考え込むように視線を落としている。表情はいつも通り穏やかだったが、その瞳の奥では絶えず計算が続いていた。

 ヨナは窓際に座り、流れていく景色を眺めている。だが実際には景色を見ているわけではない。道路脇の廃屋、遠くの丘、放置された車両の残骸、そうした一つ一つを無意識に確認しながら危険の兆候を探していた。

 その隣ではバルメが腕を組み、静かに座っている。眠っているようにも見えるが、彼女もまた周囲への警戒を解いてはいない。何かあれば誰よりも早く反応できるよう、全身の感覚を研ぎ澄ませていた。

 

 少し距離を置いて、アラタ陣営の車が続く。

 先頭車両との間隔は十分に取られている。万が一の襲撃や爆発に巻き込まれないためでもあり、互いの行動の自由を確保するためでもあった。

 

 後続車両の窓には朝日が反射し、時折白く光る。その中にはアラタたちが乗っている。昨夜の救出作戦による疲労はまだ残っているはずだったが、誰も休もうとはしていなかった。

 

 彼らもまた、この先に待つものを理解している。

 白い学校。

 その名で呼ばれる施設が、本当にただの教育施設ではないことを、今では誰もが確信していた。

 

 車列は静かに北へ進む。

 朝の冷たい空気を切り裂きながら、二つの集団は同じ目的地へ向かっていた。まだ見ぬ真実と、そこに閉じ込められているかもしれない子供たちを追って。

 荷台には毛布や水、予備の医療品が積まれていた。昨夜救出した子供たちは、別ルートで支援団体の拠点へ移された。完全に安全とは言えない。それでも、あの医療搬送車へ戻されるよりはずっとましだった。

 

 車内に、眠気と緊張が混じっている。

 徹夜明けの体には、砂埃と疲労が重くまとわりついていた。それでも誰も眠ろうとはしなかった。眠れば、緊張が切れる。緊張が切れれば、次の瞬間に反応が遅れる。

 戦場では、眠ることさえ選択だった。

 ココは指先でいくつかの地点をなぞっていた。

 

 港湾都市サルマ。

 難民キャンプ第七区。

 旧道。

 北部鉱山地帯。

 農業訓練施設。

 地図の上ではただの点と線だった。だが、実際にはその線の上を武器と金と子供たちが流れている。

 

「白い学校、ねえ」

 

 ココは呟いた。

 

「名前だけ聞くと、ずいぶん清潔そう」

「清潔な場所ほど、汚れを隠しやすい」

 

 レームが言った。

 

「詩人みたい」

「徹夜で機嫌が悪いだけだ」

「いつもでしょ」

「否定はしない」

 

 ココは小さく笑い、地図から顔を上げた。

 窓の外では、荒れた平野が続いている。乾いた赤土、低い灌木、遠くに見える鉱山の稜線。ときどき戦争で放置された車両の残骸が道端に見えた。錆びた骨のように、過去の戦争がまだそこに残っている。

 

 戦争は片付けられない。

 終戦協定が結ばれ、政治家が握手をし、国際社会が復興を語っても、土地に残った傷は簡単には消えない。穴の開いた壁。砲撃で割れた道路。親を失った子供。銃を持つことを覚えた少年。

 

 それらは全部、戦後という言葉の中に押し込められる。

 ヨナは窓の外を見ていた。

 乾いた平野が流れていく。

 赤土の地面。ところどころに生えた低い灌木。遠くには霞んだ鉱山の稜線が見える。風が吹くたびに砂埃が舞い上がり、それが朝日に照らされて白く光っていた。

 

 だが、ヨナの視線は景色だけを追っていたわけではない。

 時折、バックミラー越しに後続車両へ目を向ける。

 後続車両の助手席にはジブリールがいる。車間距離が縮まるたびに、窓越しに彼女の横顔が見えた。

 彼女は眠そうだった。

 昨夜はほとんど休めていないはずだ。救出作戦の後も、子供たちの移送や警戒で動き続けていた。年齢を考えれば、とっくに限界を超えていてもおかしくない。

 

 それでも彼女は起きていた。

 目だけは完全に覚めている。

 周囲を見ている。

 道路脇の廃屋。

 丘の上。

 遠くの車影。

 何か異常がないか探している。

 警戒心を解くことを知らない目だった。

 

 ヨナはその目を知っている。

 戦場で育った人間の目だ。

 眠っていても半分は起きているような目。

 安心する方法を忘れた目。

 誰かを信用した瞬間に死ぬかもしれないと知っている目。

 だからこそ、少しだけ気になった。

 気になったという言葉は正確ではないかもしれない。

 ただ、視界に入る。

 何度も。

 それだけだ。

 ヨナは再び窓の外へ視線を戻した。

 

「気になる?」

 

 ココが聞いた。

 

 声には明らかに面白がっている響きが混じっていた。

 

「何が」

「ジブリールちゃん」

「別に」

 

 即答だった。

 ココはにやりと笑う。

 

「ヨナ君の別には、だいたい別にじゃないわよね」

「うるさい」

 

 ココは楽しそうに笑った。

 その笑い声は、徹夜明けの重い空気を少しだけ軽くした。

 バルメはそんな二人を横目で見ながら、静かに周囲を警戒している。

 

「ココ」

「なあに?」

 

 地図を見ていたココが顔を上げる。

 レームはしばらく前方の道路を見つめていた。乾いた大地の向こうに続く一本道。その先にある白い学校を思い浮かべながら、言葉を選ぶように口を開く。

 

「白い学校に近づけば、向こうもこちらを見る。もう奇襲は期待できない」

「知ってるわ」

 

 ココはあっさり答えた。

 まるで天気の話でもしているような口調だった。

 だが、その軽さが本当に油断から来ているわけではないことを、レームはよく知っている。

 

「検問もあった。監視も増えている。昨日の件で向こうも警戒しているはずだ」

「そうでしょうね」

「エリザは待っている」

 

 その名前が出た瞬間、車内の空気がわずかに変わった。

 バルメもヨナも何も言わない。

 だが、全員が同じ人物を思い浮かべていた。

 

 エリザ・クロウ。

 穏やかな笑顔のまま、人を値踏みする女。

 感情を見せずに相手を追い詰める女。

 そして何より、準備を怠らない女。

 

「でしょうね」

 

 ココは窓の外へ視線を向けた。

 遠くに見える荒野を眺めながら、小さく肩をすくめる。

 

「昨日の時点で、私たちが動くことくらい予想してるでしょうし」

「予想しているどころじゃない」

 

 レームは低く言った。

 

「待ち構えている」

「そうかも」

「そうかもじゃない」

 

 レームは少しだけ眉をひそめる。

 

「相手は馬鹿じゃない。こちらが白い学校に興味を持ったことも、難民キャンプを調べていることも把握しているはずだ」

 

「ええ」

「なら、向こうは準備している」

「もちろん」

「それでも行くのか」

 

 ココは少しだけ笑った。

 その笑みには、いつもの軽薄さと、それとは別の種類の意志が混ざっていた。

 

「あの人、待つのが上手そうだもの」

「感心している場合か」

「してないわよ」

 

 ココはくすりと笑う。

 

「ただ、そういう人だなって思っただけ」

 

 エリザは焦らない。

 相手が動くのを待つ。

 相手が選ぶのを待つ。

 そして、その選択肢そのものを最初から用意している。

 そういう種類の人間だった。

 ココもまた、人を見る目だけは確かだった。

 

「わかっていて行くのか」

 

 レームが改めて聞く。

 ココは少し考えるように顎へ指を当てた。

 

「行くわ」

「理由は」

「見たいから」

「それだけか」

「それだけじゃないけど、それが一番大きい」

 

 ココは地図を指先で軽く叩いた。

 

「私ね、知らないことがあると気になるの」

「知っている」

「気になったら見たくなる」

「それも知っている」

「見たくなったら止まれない」

「それが問題なんだ」

 

 レームは即答した。

 ヨナが小さく鼻を鳴らす。

 バルメも否定しなかった。

 ココは不満そうな顔をした。

 

「みんなひどい」

「事実だ」

「事実は時々人を傷つけるわ」

「お前はもっと傷つける」

「否定できない」

 

 ココは楽しそうに笑った。

 そして少しだけ真面目な顔になる。

 

「でもね」

「何だ」

「罠があるなら、罠ごと見に行くの」

 

 その言葉は軽く聞こえる。

 だが、ココにとっては本気だった。

 危険だから近づかない。

 それは正しい判断だ。

 

 だが、危険だからこそ中身を知る価値がある場合もある。

 武器商人として生きてきた彼女は、そういう場所を何度も見てきた。

 

 戦場。

 政変。

 密輸ルート。

 秘密施設。

 

 誰も近づきたがらない場所ほど、大きな利益や大きな真実が転がっている。

 だから彼女は行く。

 危険を承知で。

 レームが小さく息を吐いた。

 

「その言い方、前にも聞いたな」

「私は名言を繰り返すタイプなの」

「名言だと思っているのは本人だけだ」

「ひどい」

「迷惑な名言だ」

 

 車列は旧道へ入った。

 舗装はところどころ剥がれ、車体が大きく揺れる。タイヤがひび割れた路面を踏むたびに、車内へ鈍い振動が伝わってきた。道の両側には、使われなくなった農地と小さな村の跡が続いていた。壁の崩れた家、屋根のない学校、井戸の跡。生活の痕跡だけが残り、人影はない。

 

 畑だった場所には雑草が伸び放題になっている。かつて灌漑用だったと思われる水路は干上がり、ひび割れた土だけが残っていた。風が吹くたびに砂埃が舞い上がり、朽ちた柵が軋む音が遠くから聞こえてくる。

 

 かつて人が暮らしていた場所。

 今は、誰も帰らない場所。

 戦争が終わったと言われてから何年も経っている。それでも、この土地には終わらなかった戦争が残っていた。砲撃で崩れた壁。焼け焦げた車両。放置されたままの検問所。人がいなくなった後も、傷だけは消えずに残り続ける。

 車窓の向こうに見える廃屋の一つを見ながら、ミラが小さく呟いた。

 

「昔は、あそこにも人がいたんですよね」

 

 誰に向けた言葉でもなかった。

 ナディアが静かに答える。

 

「いたはずです」

「戻ってこないのかな」

「戻れない人もいる」

 

 ナディアの声は淡々としていたが、その言葉には重みがあった。

 ミラはそれ以上何も言わなかった。

 アラタは後続車両の中で、地図と端末を見比べていた。

 

 隣にはナディア。後ろにはジブリール、サミル、ソフィア、ミラ。オマルは別車両で周辺警戒に回っている。

 端末の画面には、昨夜までに集めた情報が表示されていた。難民キャンプから消えた子供たちの記録。輸送車両の目撃情報。グレイ・ハウンドの活動範囲。そして白い学校と呼ばれる施設の位置。

 

 情報はまだ断片的だった。

 だが、その断片を繋ぎ合わせると、一つの嫌な形が浮かび上がってくる。

 アラタは画面を閉じ、窓の外へ目を向けた。

 遠くの丘の上に、崩れた監視塔のようなものが見える。

 誰もいないはずなのに、誰かに見られているような感覚が消えなかった。

 

「ここから先は、監視が増えるはずです」

 

 ナディアが言った。

 

「施設まであと何キロ?」

「直線で八キロ弱。でも道なりだと十二キロくらい」

「検問は?」

「表向きの検問は二つ。でも、非公式の監視地点があるかもしれません」

「あると思った方がいい」

 

 オマルの声が無線に入る。

 

『こちらからも確認した。道沿いに新しい轍がある。昨夜か今朝のものだ』

 

 アラタは眉をひそめた。

 

「輸送車両?」

『可能性は高い。大型車両の跡も混じってる』

「子供を運んだ車かもしれないね」

 

 サミルが言う。

 誰も否定しなかった。

 その沈黙が答えだった。

 

「待たれてるね」

 

 ソフィアが不機嫌そうに言った。

 

「待たれてる場所に行くって、趣味悪くない?」

「今さらだ」

 

 ジブリールが返す。

 

「今さらだけど言いたくなる」

 

 アラタは端末を閉じた。

 

「全員、確認。今日は無理をしない。戦いに来たんじゃない。中を見る。子供がいれば助ける。証拠を取る。危険なら撤退する」

「危険じゃない場合ってある?」

 

 ソフィアが言う。

 

「ないと思う」

「じゃあ最初から撤退じゃん」

「だから、危険の種類を見極める」

「面倒くさい」

「面倒くさいことをしないと、誰かが死ぬ」

 

 ソフィアは口を閉じた。

 アラタの声は強くなかった。

 怒鳴ったわけでもない。

 命令口調でもない。

 それでも、それ以上の反論を許さないものがあった。

 

 彼自身が何度も失敗を見てきたからだ。

 焦って動いた結果、取り返しのつかないことになる。

 善意だけでは人は救えない。

 救うためには順番が必要だ。

 そのことを、アラタは誰よりも理解していた。

 だからこそ慎重になる。

 だからこそ急ぎたい気持ちを押し殺している。

 

 ジブリールはそんなアラタを横目で見た。

 彼が焦っていないわけではないことを知っている。

 むしろ、自分と同じくらい焦っている。

 ただ、それを表に出さないだけだ。

 ジブリールは窓の外を見たまま言う。

 

「アラタ」

「何?」

「中に入ったら、止めても私は動く」

「止める」

「知ってる」

「それでも止める」

「それも知ってる」

「聞く気がないね」

「場合による」

 

 アラタは困ったように笑った。

 

「その場合を、できるだけ少なくしたいんだけど」

「努力して」

「君がね」

「アラタが」

 

 サミルが二人を見て、小さく笑った。

 

「いつも通りだ」

「笑い事じゃない」

 

 ナディアが言う。

 

「でも、いつも通りの方が少し安心する」

 

 ミラがぽつりと言った。

 車内が一瞬だけ静かになる。

 ミラは膝の上で救急袋を抱えていた。まだ若い少女だったが、昨夜の救出後もずっと医療スタッフを手伝っていた。眠れていないのは全員同じだが、彼女の目の下には特に濃い疲労が浮かんでいた。

 

「安心する?」

 

 サミルが聞く。

 

「うん。怖い時に、みんなが変わらず喧嘩してると、まだ大丈夫なんだって思う」

「喧嘩じゃない」

 

 ジブリールが言った。

 

「意見交換」

「便利な言葉」

 

 ナディアが淡々と返す。

 アラタは少しだけ笑った。

 その瞬間、無線にレームの声が入った。

 

『前方、検問』

 

 車内の空気が一気に変わる。

 全員の表情から緩みが消えた。

 

     *

 

 検問は、いかにも急造されたものだった。

 道路を横切るように並べられた錆びたドラム缶。砂が詰められた古い土嚢。鉄パイプと有刺鉄線を組み合わせただけの簡易バリケード。見た目だけなら、地方軍閥や民兵組織が慌てて設置したような粗末な検問所に見える。

 

 だが、近づくにつれて違和感が強くなった。

 配置が整いすぎている。

 遮蔽物の位置。

 監視員の立ち位置。

 

 射線の確保。

 道路脇の高所に置かれた見張り。

 どれも即席に見せかけながら、実際にはよく計算されていた。

 レームは前方を見ながら小さく鼻を鳴らした。

 

「見た目だけ粗末だな」

「ええ」

 

 ココも窓の外を眺める。

 

「本当に雑な人たちは、こんなに綺麗に並べないもの」

 

 道路脇には放棄されたトラックの残骸が置かれていた。偶然放置されたように見えるが、その位置は絶妙だった。車列が突破を試みれば進路を塞ぎ、銃撃戦になれば遮蔽物として機能する。

 

 さらに少し離れた丘の上には双眼鏡を持った監視員の姿も見えた。

 ヨナは無言でそれらを確認していた。

 監視員が一人。

 丘の陰にもう一人。

 道路左側の廃屋にも気配がある。

 見える人数より多い。

 そう考えるのが自然だった。

 

 兵士たちは共和国軍ではなかった。

 制服は統一されている。

 銃器の整備状態も良い。

 立ち姿にも無駄がない。

 戦場慣れした人間特有の緊張感があった。

 

 グレイ・ハウンドだった。

 兵士たちは車列を見ると、銃口こそ向けなかったが、明らかに警戒を強めた。

 何人かが無線へ手を伸ばし、別の兵士は車列全体を観察している。

 ただの視察団に向ける視線ではない。

 相手が誰なのか知っている目だった。

 先頭車両が止まる。

 エンジン音が静かに落ちる。

 乾いた風が吹き抜け、赤土が舞った。

 レームは窓を下げずに言った。

 

「来たぞ」

「はいはい」

 

 ココは軽い調子で答えた。

 まるで退屈な商談にでも向かうような口調だった。

 だが、その目はすでに検問全体を観察している。

 武装。

 逃走経路。

 監視位置。

 彼女もまた、戦場の人間だった。

 

 ココは車を降りた。

 白いスーツは赤土で少し汚れていたが、それでも彼女は気にしない。むしろわざとらしいほど明るく手を振った。

 その姿は場違いだった。

 

 乾いた荒野。

 武装兵士。

 緊張した空気。

 その中心で、彼女だけが社交パーティーに来たような笑顔を浮かべている。

 兵士たちの何人かが困惑したような顔をした。

 ココはそういう反応が嫌いではない。

 

「おはようございます。復興支援施設の視察に来ました」

 

 兵士の一人が眉をひそめる。

 

「許可証を」

「もちろん」

 

 ココは迷いなく書類を差し出した。

 兵士は受け取る前に一瞬だけ彼女を見た。

 名前を聞いたことがあるのかもしれない。

 あるいは単純に警戒しているだけか。

 どちらにせよ、歓迎されている様子ではなかった。

 

 ココが差し出したのは、ハキム大佐経由で用意された正式な通行許可だった。もともとは難民キャンプの視察用だったが、ココはそこに追加の確認書類を挟んでいた。内容は曖昧だが、形式だけは整っている。

 

 役所の印。

 担当部署の署名。

 確認番号。

 承認印。

 細かい部分まで揃えられていた。

 この国では、形式が整っていれば多くのものが通る。

 逆に言えば、形式さえ整っていれば誰も責任を取りたがらない。

 

 兵士は書類を見た。

 一枚。

 二枚。

 三枚。

 視線が何度も行き来する。

 彼は内容を確認しているというより、自分が判断していい案件なのかを考えているようだった。

 そして迷った。

 目の前の女を通していいのかどうか判断しかねている顔だった。

 書類に問題は見当たらない。

 だが、ココ・ヘクマティアルという存在そのものが問題だった。

 兵士は無線機へ手を伸ばした。

 確認を取るつもりらしい。

 

 ココはそれを見ながら、相変わらず愛想よく微笑んでいた。

 急ぐ様子もない。

 焦る様子もない。

 まるで結果がどうなるか最初から知っているかのようだった。

 

「確認する」

「どうぞ」

 

 兵士は無線で連絡を入れる。

 肩に掛けた無線機へ短くコードを告げ、こちらの車列について説明しているらしかった。声は小さく、内容までは聞き取れない。

 

 だが、その様子から迷っていることだけはわかった。

 目の前にいるのはただの視察団ではない。

 ココ・ヘクマティアルという名前を知っている者ならなおさらだ。

 通していいのか。

 止めるべきなのか。

 その判断を、自分一人では下したくない。

 そんな空気が兵士の背中から伝わってくる。

 

 数十秒。

 短い時間のはずだった。

 だが、検問での数十秒は妙に長い。

 誰も口を開かない。

 

 エンジン音だけが低く響き、乾いた風が道路脇の砂を巻き上げていた。

 長い沈黙。

 

 ヨナは車内から外を見ていた。

 検問の右側、崩れた小屋の裏。そこに一人いる。左側の丘の上にも一人。道路脇の廃車の影にも気配がある。

 待ち伏せではない。

 見張りだ。

 検問を守るための配置。あるいは、施設へ近づく者を監視するための配置。

 だが、何かあればすぐに動ける配置だった。

 

 射線も通っている。

 退路も確保されている。

 訓練を受けた人間が考えた配置だ。

 ヨナはそれを確認しながら、静かに窓の外を見続けた。

 

 外のココは笑っている。

 いつも通りの笑顔だった。

 だが、ヨナは知っている。

 ココもまた周囲を見ている。

 笑いながら数を数え、位置を覚え、誰がどこにいるかを把握している。

 だからこそ平然としていられる。

 知らないから笑っているのではない。

 知っているから笑っているのだ。

 兵士が無線を終える。

 

「通れ。ただし施設内では係員の指示に従え」

「もちろん。私は礼儀正しい女ですから」

 

 レームが小さく呟いた。

 

「どの口が言う」

「聞こえてるわよ」

「聞こえるように言った」

 

 ココは楽しそうに笑い、車へ戻った。

 車列が再び動き出す。

 検問を越えた瞬間、空気が変わった。

 それは本当に空気そのものが変わったような感覚だった。

 さっきまで道路沿いには、わずかながら人の暮らしの痕跡が残っていた。崩れた家屋、放置された農機具、乾ききった畑。それでもそこには、人が生きていた記憶があった。

 

 だが検問を過ぎると、その気配が途切れる。

 道の周囲から生活の匂いが消えた。

 家も畑もなく、ただ乾いた土地と低い丘が続いている。

 

 風が吹くたびに赤土が舞い上がり、車体を細かく叩いた。鳥の姿も少ない。人影はもちろんない。まるで誰かが意図的に周囲から人間を遠ざけているような、不自然な静けさだった。

 レームは窓の外を見ながら眉をひそめる。

 

「嫌な場所だな」

「同感」

 

 ヨナが短く答える。

 こういう場所を彼は知っていた。

 戦場には時々ある。

 地図の上では何の変哲もない場所なのに、近づいた瞬間に肌が警告を発する場所。

 

 人間が何かを隠している場所。

 あるいは、人間が見たくないものを押し込めている場所。

 遠くに、白い建物が見えた。

 最初は陽光を反射する岩かと思った。

 だが距離が縮まるにつれ、それが巨大な建築物だとわかる。

 

 白い学校。

 その名前にふさわしく、建物は白かった。

 遠目には美しく見えるが、近づくほどにその白さが不自然に感じられる。周囲の赤土や錆びた鉄、灰色の岩肌から浮き上がるように、白い壁だけが異様に目立っていた。

 

 フェンスが見える。

 二重の外周フェンス。

 ただの境界線ではない。

 内側へ入る者よりも、外へ出る者を防ぐために作られたような構造だった。

 

 フェンスの上には有刺鉄線。

 ところどころに監視カメラ。

 監視塔。

 塔の上には人影がある。

 双眼鏡か照準器かはわからないが、こちらを見ていることだけはわかった。

 

 門。

 大型車両も通れる幅がある。

 校舎のような建物。

 整然と並ぶ白い棟。

 

 倉庫。

 窓の少ない大型施設。

 運動場のような広場。

 

 そして、広場に並ばされた子供たち。

 その光景を見た瞬間、車内の空気がさらに重くなった。

 子供たちは列を作っていた。

 年齢は様々だった。

 小さな子は七、八歳ほど。

 大きい子は十代半ばに見える。

 全員が同じ色の服を着ている。

 同じような髪型。

 同じような姿勢。

 遠目にもわかるほど統制されていた。

 

 教師らしき人物が前に立ち、その横には武装した男がいる。

 農業訓練施設。

 教育施設。

 保護施設。

 そう説明されていた場所。

 だが、広場に並ぶ子供たちの姿は、学校の朝礼というより新兵訓練に近かった。

 ヨナの目が細くなる。

 

 彼は子供たちの並び方を見ていた。

 肩幅。

 間隔。

 視線の向き。

 足の位置。

 偶然ではない。

 繰り返し訓練された動きだった。

 ジブリールも後続車両の中で拳を握った。

 

 窓越しに見える子供たち。

 その中には、自分と同じくらいの年齢の子もいる。

 もっと幼い子もいる。

 誰も笑っていない。

 誰も隣と話していない。

 誰も列を崩さない。

 それが彼女には何より異様だった。

 

 子供は本来、そんなふうに静かではない。

 怒られても喋る。

 怖くても動く。

 退屈なら落ち着かなくなる。

 だが、あの広場の子供たちは違った。

 静かすぎる。

 従順すぎる。

 まるで失敗することそのものを恐れているようだった。

 

 ジブリールは唇を噛む。

 胸の奥から怒りが湧いてくる。

 だが今は抑えるしかない。

 ここで感情に任せて飛び出せば、助けられるものも助けられなくなる。

 それは理解していた。

 理解しているからこそ苦しかった。

 

 アラタは黙っていた。

 ただ、視線だけが冷たくなっていく。

 その冷たさは憎しみではない。

 諦めでもない。

 目の前の現実を正確に見ようとする時の目だった。

 そして、その現実があまりにも許しがたいものである時の目だった。

 ココは窓の外を見ながら、低く言った。

 

「なるほど」

「何が」

 

 バルメが聞く。

 

「これは学校じゃないわ」

 

 ココは白い建物を見つめた。

 

「倉庫よ」

 

     *

 

 正門の前で、車列は止められた。

 施設全体を囲むフェンスは思った以上に高かった。

 有刺鉄線こそ目立たないよう処理されているが、近くで見れば二重構造になっていることがわかる。監視塔もある。学校や訓練施設というより、小規模な軍事施設に近い造りだった。

 

 門には施設名が掲げられていた。

 カラバル共和国北部農業技術訓練センター。

 看板は新しい。白地に青い文字。下には政府福祉局と国際復興支援プログラムのロゴが並んでいる。

 塗装は剥げていない。

 文字にも傷がない。

 周囲の建物や道路が戦争の痕跡を残しているのに、その看板だけが妙に新しかった。

 まるで最近になって急いで取り付けられたような印象を受ける。

 

 よくできた看板だった。

 よくできすぎていた。

 ココは車から降り、看板を見上げた。

 

「農業技術訓練センター」

 

 ココが読み上げる。

 

「畑は?」

 

 ヨナが聞く。

 彼は周囲を見回していた。

 施設の外周。

 監視塔。

 門の脇に立つ警備員。

 建物の配置。

 そして逃走経路になりそうな場所。

 いつものように、無意識に戦場として分析している。

 

「見当たらないわね」

 

 ココが答える。

 

「農業とは」

「難しい学問なのよ」

「そうか」

「畑がなくても農業になることがあるの」

「初めて聞いた」

「私も今考えた」

 

 ヨナは小さくため息をついた。

 後ろではバルメも施設を観察している。

 彼女の視線は監視塔に向いていた。

 

「警備が多い」

「農業は危険だから」

 

 ココが言う。

 

「便利な言葉だな」

 

 レームが呟いた。

 門の向こうでは数人の職員らしき人間がこちらを見ていた。

 誰も近づいてこない。

 ただ様子を窺っている。

 その反応だけでも、この施設が普通ではないことがわかる。

 視察団が来たなら歓迎するはずだ。

 だが彼らは歓迎よりも警戒を優先していた。

 

 やがて門の向こうから、スーツ姿の男が歩いてきた。

 細身で、神経質そうな顔つきだった。

 年齢は四十代半ばほど。

 髪はきちんと整えられているが、額には薄く汗が浮いている。

 笑顔を作っているが、目だけが忙しく動いていた。

 施設の管理責任者か、それに近い立場の人間だろう。

 こちらの人数を数えている。

 誰が護衛で、誰が責任者かを見極めようとしている。

 

 そして、おそらくはどこまで知っているのかも探っている。

 ココはそんな視線に慣れていた。

 武器商人を長くやっていれば、人間が何を隠しているかはだいたい顔に出る。

 男は門の前まで来ると、丁寧に頭を下げた。

 

「ようこそ。ミス・ヘクマティアルですね。私は施設長補佐のラシードです」

「ココ・ヘクマティアルです。武器商人です」

 

 ラシードの笑顔が一瞬固まった。

 ココは気にしない。

 むしろ楽しそうだった。

 

「冗談です。今日は復興支援施設の視察に来ました」

「は、はい。伺っております」

 

 ラシードは咳払いした。

 動揺を隠そうとしているのがわかる。

 

「ここでは内戦で親を失った子供たちに、農業、読み書き、基礎的な職業訓練を提供しています。カラバルの未来を担う若者を育てる、非常に重要な施設です」

 

 まるで暗記した文章を読み上げるような説明だった。

 言葉に感情がない。

 何度も同じ説明を繰り返してきた人間の話し方だった。

 

「素晴らしいわ」

 

 ココはにこにこしている。

 だが、その目は笑っていない。

 

「見学できます?」

「もちろんです。ただし、安全管理上、一部区域は立ち入りを制限しております」

「安全管理」

 

 レームが呟く。

 

「農業は危険だからな」

 

 ココは笑いそうになったが、こらえた。

 アラタは門の内側を見ていた。

 

 広場に並ぶ子供たち。

 同じ灰色の服。短く切られた髪。顔つきはばらばらだが、目だけが似ていた。

 怯え。

 諦め。

 空腹。

 そして、何かを待つような空白。

 ジブリールが小さく息を吸う。

 

「アラタ」

「わかってる」

 

 彼は低く答えた。

 その声には、怒りよりも抑制があった。

 怒りはある。

 だが、今ここで怒りに任せて動けば終わる。

 だから押し込める。

 ココはその横顔を見ていた。

 

「アラタさん」

「はい」

「顔が怖い」

「すみません」

「謝らなくていいわ。怖い方が正常よ」

 

 ラシードに案内され、彼らは施設内へ入った。

 

 正門をくぐった瞬間から、外とは空気が違っていた。

 乾いた赤土の匂いも、風に乗ってくる砂埃も薄れる。代わりに漂っているのは消毒液のような匂いだった。病院ほど強くはないが、生活の場としては不自然なほど整えられた匂いだった。

 

 白い廊下。

 白い壁。

 白い床。

 天井には等間隔に照明が並び、壁際には観葉植物が置かれている。だが、その植物でさえどこか作り物めいて見えた。葉は綺麗すぎるほど整い、土も乱れていない。

 

 どこも掃除されている。

 床には埃一つ落ちていない。

 窓ガラスも磨かれている。

 子供たちが暮らしているはずなのに、壁に落書きもなければ、靴跡も少ない。掲示板には絵や作文が貼られているが、どれも同じような位置に並び、同じような大きさで切り揃えられていた。

 

 飾られた絵はある。

 だが、どれも同じような構図だった。

 太陽。

 畑。

 笑う子供。

 国旗。

 青空。

 収穫された作物。

 働く大人。

 どの絵にも似たような要素が描かれている。

 色使いまで似ていた。

 

 誰かに描かされたような絵。

 あるいは、描くべきものを教え込まれたような絵。

 ココは歩きながら壁の絵を眺めた。

 

「ずいぶん優等生な作品ばかりね」

「子供たちは真面目ですから」

 

 ラシードが答える。

 

「そう」

 

 ココはそれ以上何も言わなかった。

 ヨナは廊下を歩きながら、耳を澄ませていた。

 子供の声が少ない。

 学校なら、もっとざわめきがあるはずだ。

 足音。

 話し声。

 笑い声。

 誰かを呼ぶ声。

 教師に叱られる声。

 机を引く音。

 そういう雑多な音が混ざり合って、一つの空気を作る。

 だがここには、そういう音がほとんどない。

 代わりに聞こえるのは、遠くから響く笛の音と、同じリズムで動く足音だった。

 規則的な音。

 訓練場で聞くような音。

 

 ヨナは視線だけを動かした。

 廊下の角。

 天井の隅。

 非常口の上。

 監視カメラが設置されている。

 学校としては少し多い。

 少なくとも、彼にはそう見えた。

 ラシードが説明する。

 

「こちらは教室です。読み書きや算数を教えています」

 

 扉の開いた部屋の中では、子供たちが机に座っていた。

 黒板には簡単な文字が書かれている。

 教師らしい女性が立ち、子供たちは前を向いている。

 

 一見、普通の授業だった。

 だが、ヨナはすぐに違和感を覚えた。

 子供たちは誰も隣を見ない。

 誰も手遊びをしない。

 誰も退屈そうに欠伸をしない。

 誰も鉛筆を落とさない。

 誰も教師の目を盗んで窓の外を見ない。

 全員が同じ姿勢で座り、同じ方向を見ていた。

 

 静かすぎる。

 教師が黒板に文字を書く。

 子供たちは一斉にノートへ書き写す。

 教師が振り返る。

 子供たちは同時に顔を上げる。

 その動きは自然というより訓練に近かった。

 

「よくしつけられてるわね」

 

 ココが言った。

 ラシードは誇らしげに頷いた。

 

「規律は教育の基本ですから」

「子供には少し窮屈そうだけど」

「彼らは戦争で混乱した環境から来ています。まずは規則正しい生活を覚える必要があります」

「へえ」

 

 ココは教室の子供たちを見た。

 その視線は笑顔のままだったが、観察する目だった。

 教室の後方に座る少女。

 窓際の少年。

 前列の小柄な子供。

 誰もが教師を見ている。

 だが、その目には好奇心が少ない。

 学ぶことへの興味ではなく、間違えないことへの恐怖が見えた。

 

 ココはそれを見逃さなかった。

 戦場で育った子供の目。

 命令に従うことを覚えた目。

 そして、逆らうことを忘れ始めた目だった。

 そのうちの一人と目が合う。

 

 少年だった。

 年は十歳くらい。

 彼はすぐに視線を逸らした。恐怖で逸らしたのではない。そうするよう教えられている動きだった。

 ココの笑みが薄くなる。

 

 次の部屋。

 食堂。

 長机が整然と並び、食器も揃っている。

 金属製の皿とコップが規則正しく並べられ、椅子も寸分違わず机の下へ収められていた。

 窓から差し込む光が食器に反射し、白い壁へ冷たい光を散らしている。

 だが、食事の匂いはしない。

 スープの匂いもなければ、焼いたパンの香りもない。

 子供が集まる場所なら必ず残るはずの生活臭が存在しなかった。

 

 ヨナは視線を巡らせる。

 床は磨かれている。

 食べこぼしの跡もない。

 椅子の脚が引きずられた傷も少ない。

 まるで誰も使っていない食堂だった。

 

「昼食前だからかしら」

 

 ココが軽く言う。

 

「はい。ちょうど準備中でして」

 

 ラシードは即座に答えた。

 

「なるほど」

 

 ココはそれ以上追及しなかった。

 だが、その返事を信じたわけでもなかった。

 

 次の部屋。

 寝室。

 扉が開いた瞬間、ジブリールは眉をひそめた。

 二段ベッドが規則正しく並ぶ。

 左右対称。

 等間隔。

 毛布は綺麗に畳まれている。

 枕も同じ向き。

 シーツの皺さえほとんど見当たらない。

 あまりにも綺麗だった。

 子供が暮らしている部屋には見えない。

 兵舎に近い。

 いや、兵舎の方がまだ生活感がある。

 

 ここには個人の痕跡がほとんど存在しなかった。

 写真もない。

 玩具もない。

 お気に入りの本もない。

 壁に貼られた絵もない。

 誰がどこで寝ているのかさえ判別できない。

 ただ同じベッドが並んでいるだけだった。

 

 アラタは静かに部屋を見回した。

 胸の奥が重くなる。

 孤児院も難民施設も見てきた。

 貧しい施設もあった。

 設備の足りない場所もあった。

 だが、そこには必ず子供たちの存在が残っていた。

 笑った跡。

 泣いた跡。

 喧嘩した跡。

 生きている痕跡。

 ここにはそれがない。

 あるのは管理だけだった。

 

 ヨナはベッドの一つに視線を向けた。

 何かが引っかかった。

 ほんの小さな違和感。

 彼は近づく。

 枕元に小さな傷がある。

 爪で何かを刻んだ跡。

 数字だった。

 四一。

 

 名前ではない。

 番号。

 ヨナの指先がわずかに動く。

 その数字を見た瞬間、彼の脳裏に過去の光景がよぎった。

 戦場で見た少年兵。

 収容施設。

 識別札。

 名前を呼ばれなくなった子供たち。

 番号だけで管理される人間。

 効率的だ。

 だからこそ嫌悪感があった。

 

 ジブリールもそれに気づいた。

 彼女は唇を噛んだ。

 視線を別のベッドへ向ける。

 そこにも傷がある。

 薄く削られた跡。

 数字は読めない。

 だが、同じようなものだとわかった。

 誰かが自分の存在を残そうとした。

 名前を奪われても。

 忘れられても。

 ここにいたと証明するために。

 その痕跡だけが残っている。

 

 ジブリールの胸の奥に怒りが湧いた。

 だが今は抑える。

 ここで感情を爆発させても意味はない。

 助けるなら、もっと先まで見なければならない。

 ラシードは先へ進もうとする。

 彼もこの空気を感じ取ったのか、少しだけ歩く速度を速めていた。

 

「こちらへ」

 

 その時、廊下の奥から笛の音が響いた。

 短く、鋭い音。

 軍隊で使われる号令に近い音だった。

 続いて、子供たちの足音。

 複数。

 しかも揃っている。

 自然な足音ではない。

 訓練された集団の足音だった。

 窓の外を見ると、広場に子供たちが並んでいた。

 

 教師ではない。

 兵士が立っている。

 腕を組み、子供たちを監視している。

 子供たちは小さな木製の棒を持ち、号令に合わせて動いていた。

 一歩前へ。

 一歩後ろへ。

 棒を構える。

 振る。

 下げる。

 繰り返す。

 その動きは農具の扱い方には見えなかった。

 少なくとも、種をまく動きではなかった。

 鍬でもない。

 鋤でもない。

 むしろ銃を持つための基礎動作に近い。

 

 ヨナは無言だった。

 ジブリールも無言だった。

 アラタの顔が変わった。

 ラシードが慌てて言う。

 

「あれは体力訓練です。農作業には体力が必要ですから」

「便利ね、農業」

 

 ココが言った。

 

「何でも説明できる」

 

 ラシードは笑おうとしたが、失敗した。

 額に汗が浮いている。

 空調の効いた建物の中で汗をかく理由は一つしかない。

 緊張だ。

 ココはそれを見逃さなかった。

 アラタも見ていた。

 エリザほどではない。

 だが、この男もまた何かを知っている。

 少なくとも、自分が嘘をついていることは理解している。

 

 その時だった。

 廊下の向こうから、女の声が聞こえた。

 

「お気に召しましたか、ミス・ヘクマティアル」

 

 穏やかで、落ち着いた声。

 だが、その場にいた全員が反射的にそちらを見る。

 エリザ・クロウが立っていた。

 黒いスーツ。

 整った髪。

 穏やかな笑み。

 

 背筋は真っ直ぐで、まるでこの施設そのものを象徴するような佇まいだった。

 昨日と同じ顔だった。

 だが今は、難民キャンプで見た時よりもずっと自然に見える。

 まるでこここそが彼女の本来いるべき場所であるかのように。

 ここが難民キャンプでも、軍司令部でも、白い学校でも、彼女の佇まいは変わらない。まるでどこにいても、自分の立つ場所こそが正しいと信じているようだった。

 

「エリザさん」

 

 ココは笑った。

 

「素敵な学校ね。ちょっと白すぎるけど」

「清潔さは大切です」

「ええ。汚れを見つけやすいものね」

 

 エリザは微笑む。

 

「その通りです」

 

 二人の間に、冷たい空気が流れた。

 それは単なる緊張ではなかった。

 廊下の温度が下がったわけでもない。兵士たちが銃を構えたわけでもない。それでも、その場にいる全員が感じていた。

 

 目の前にいる二人は、同じものを見ていない。

 同じ子供たちを見ているはずなのに、見えている世界が違う。

 アラタはエリザを見た。

 エリザもまた、彼を見る。

 互いに視線を逸らさない。

 

 エリザの目は穏やかだった。怒りも焦りもない。まるで会議室で商談でもしているような落ち着きだった。

 それがアラタには不気味だった。

 ここには怯えた子供たちがいる。

 番号で呼ばれる子供たちがいる。

 自由に話すことも許されず、決められた時間に起き、決められた時間に眠り、決められた言葉だけを口にする子供たちがいる。

 

 それなのに、この女は平然としている。

 何も間違っていないと信じている顔だった。

 

「アラタさん」

 

 エリザが先に口を開いた。

 

「僕の名前を知っているんですね」

「もちろん。あなたは有名です」

「悪い意味で?」

「価値のある意味で」

 

 アラタは目を細めた。

 その言葉が気に入らなかった。

 

 価値。

 エリザは人を見る時、その言葉を使う。

 人間としてではなく、資源として。

 利用できるかどうか。

 利益になるかどうか。

 組み込めるかどうか。

 そんな基準で測っているように聞こえた。

 

「子供たちを返してください」

 

 アラタは真っ直ぐ言った。

 遠回しな言い方をする気はなかった。

 エリザは少しだけ首を傾げる。

 

「どの子供たちでしょう?」

「ここにいる子供たちです」

「彼らは保護対象です」

「監禁対象の間違いでしょう」

 

 ラシードが顔色を変えた。

 

「失礼な――」

 

 エリザが手を上げ、彼を制した。

 

「いいのです」

 

 その声は静かだった。

 だが、ラシードは即座に口を閉じる。

 命令に慣れた人間の反応だった。

 エリザは再びアラタへ向き直る。

 

「あなたは誤解している」

「そうでしょうか」

「ここは戦争で傷ついた子供たちを再教育する施設です。彼らに規律と技能を与え、将来の選択肢を増やす」

「選択肢?」

 

 アラタは周囲を見た。

 白い壁。

 閉ざされた扉。

 監視カメラ。

 規則正しく並ぶ子供たち。

 

「僕には選択肢を奪っているようにしか見えません」

「自由は教育の後に与えられるものです」

「自由を与える側が決めるんですか」

「未熟な子供に全てを委ねる方が無責任でしょう」

 

 エリザは淡々と答える。

 まるで当然のことを説明しているようだった。

 

「戦争孤児は脆弱です。利用されやすい。犯罪組織に取り込まれることもある。武装勢力に徴兵されることもある。飢えで死ぬこともある」

 

「だから閉じ込める?」

「だから守る」

「守るために名前を奪うんですか」

「番号管理は混乱を避けるためのものです」

「家族との連絡を断つのは?」

「安全上の理由です」

「武装訓練は?」

「護身です」

「嘘が多いですね」

「世界は嘘で回っています」

 

 エリザは穏やかに言った。

 

「あなたも知っているでしょう」

 

 アラタは拳を握った。

 ジブリールが一歩前へ出ようとする。

 ヨナが小さく言った。

 

「動くな」

「わかってる」

「顔が動いてる」

「うるさい」

「今にも飛びかかりそうだ」

「飛びかからない」

「半分くらい飛びかかってる」

「半分って何」

「知らん」

 

 ジブリールは不機嫌そうにヨナを睨んだ。

 だが、そのやり取りのおかげで少しだけ肩の力が抜ける。

 彼女自身も気づいていなかった。

 怒りで呼吸が浅くなっていたことに。

 ココは二人のやり取りを横目で見てから、エリザへ向き直る。

 

「ねえ、エリザさん」

「はい」

 

 エリザは穏やかな笑みを崩さない。

 その笑顔は丁寧で、礼儀正しく、どこから見ても非の打ち所がないように見えた。

 だが、その奥にあるものは違う。

 ココは知っていた。

 この女は笑顔を武器にする。

 銃やナイフではなく、言葉と理屈と正しさで相手を追い詰める種類の人間だ。

 

「ここ、見学してもいい?」

「すでにご案内しています」

 

 エリザは即座に答えた。

 まるでその質問が来ることを最初から予想していたかのようだった。

 

「案内されてない場所があるわ」

「安全管理上、立ち入りをご遠慮いただいている区域です」

「見たいわ」

「お断りします」

「どうしても?」

「どうしてもです」

「困ったわね」

「困りますね」

 

 二人とも笑っている。

 だが、その笑顔はまったく温かくなかった。

 周囲にいる者たちは、その空気を肌で感じていた。

 

 レームは小さくため息をつく。

 バルメは腕を組んだまま動かない。

 ヨナは壁際に立ち、周囲を観察している。

 

 アラタはエリザとココのやり取りを見ながら、施設全体の異様さを改めて感じていた。

 普通の学校なら、こんな空気にはならない。

 普通の学校なら、見学者が来れば子供たちは興味を示す。

 教師は誇らしげに説明する。

 施設側は活動を見せたがる。

 だが、ここは違う。

 見せたい場所だけを見せる。

 見せたくない場所は徹底して隠す。

 それは学校ではなく、管理施設の発想だった。

 

「じゃあ勝手に見る」

 

 ココが言った。

 あまりにも自然な口調だった。

 まるで「お茶を飲むわ」とでも言うような軽さだった。

 

 しかし、その言葉の意味は重い。

 エリザの笑みがわずかに薄くなる。

 ほんの一瞬だった。

 だが、確かに変化した。

 

「それは困ります」

「困らせに来たの」

 

 ココはにこっと笑った。

 

「武器商人って、だいたいそういう仕事よ」

「初めて聞きました」

「私が今決めたもの」

「なるほど」

「名言になるかもしれない」

「ならないと思います」

「ひどい」

 

 ココは肩をすくめた。

 その様子だけ見れば冗談を言い合っているようにも見える。

 だが、実際には互いの探り合いだった。

 エリザはココがどこまで掴んでいるのかを測っている。

 ココはエリザが何を隠しているのかを探っている。

 そして、その均衡が崩れたのは次の瞬間だった。

 

 施設内の放送が鳴った。

 短い電子音。

 乾いた機械音。

 それだけで空気が変わる。

 職員たちの肩がわずかに強張った。

 

 兵士たちの視線が動く。

 エリザだけは変わらない。

 続いて、機械的な声が流れた。

 

『全職員に連絡。第二警戒態勢へ移行。訓練生は指定区域へ移動』

 

 廊下の空気が一変した。

 遠くで扉が閉まる音。

 金属製のロックが作動する音。

 複数の足音。

 無線機から漏れる短い通信。

 施設全体が一つの生き物のように動き始める。

 ヨナの目が細くなる。

 ジブリールの表情も変わった。

 

「罠だ」

「でしょうね」

 

 ココは平然としていた。

 まるで予想通りだと言わんばかりだった。

 レームが低く言う。

 

「ココ、下がるぞ」

「まだ」

「言うと思った」

「期待に応えないと」

「応えなくていい」

 

 レームは呆れたように言った。

 だが、その視線はすでに周囲を警戒している。

 兵士の配置。

 出口。

 射線。

 いつでも動けるように準備していた。

 エリザは微笑んだまま、一歩下がる。

 

「せっかく来ていただいたのです。少しだけ授業を見ていかれますか」

「悪趣味ね」

「教育熱心と言ってください」

「その授業、卒業率が低そう」

「優秀な生徒だけが残ります」

「最低」

「ありがとうございます」

「褒めてない」

 

 エリザは肩をすくめた。

 その仕草さえ洗練されている。

 だからこそ不気味だった。

 

 廊下の奥に、グレイ・ハウンドの兵士たちが現れた。

 銃口は下げている。

 だが、いつでも上げられる位置だった。

 威圧。

 警告。

 そして包囲。

 それらを同時に成立させる配置だった。

 

 アラタは静かに周囲を見た。

 廊下の幅。

 窓の位置。

 子供たちの所在。

 出口。

 エリザの位置。

 兵士の数。

 そして、自分たちの人数。

 ここで正面からぶつかれば、子供たちを巻き込む。

 それだけは避けなければならない。

 

 彼の頭の中では、すでに複数の選択肢が並んでいた。

 戦う。

 撤退する。

 時間を稼ぐ。

 陽動する。

 救出を優先する。

 どれも完全ではない。

 だからこそ判断が必要だった。

 

「アラタ」

 

 ナディアが小声で言った。

 彼女は端末を見ている。

 

「西棟から通信が出ています。子供たちを移動させてる」

「どこへ」

「地下か、裏手の搬入口」

「確率は?」

「どちらも高い。でも搬入口の方が優先順位が高そう」

「理由は」

「輸送準備の記録がある」

 

 アラタの目が鋭くなる。

 

「わかった」

 

 彼はココを見る。

 ココも同じことを理解していた。

 子供たちを隠すだけではない。

 移送するつもりだ。

 つまり今動かなければ、証拠も子供も消える。

 

「ヨナ君」

「何だ」

「ジブリールちゃんと西棟」

「ココ」

 

 バルメが低く言う。

 その声には警告が含まれていた。

 

「大丈夫。大丈夫じゃないけど、大丈夫にする」

「それが一番信用できない」

「レーム、エリザさんとお話ししてて。バルメは私と一緒。東條はアラタさんの護衛。ワイリ、聞こえる?」

『聞こえてる。施設、かなり嫌な作りだな』

 

 通信越しに聞こえる声も緊張していた。

 ワイリは外から施設のネットワークを監視している。

 彼の視点から見ても、この施設は異常だった。

 

「西棟の扉、開けられる?」

『穏便に?』

「できるだけ」

『できるだけって言葉は嫌いなんだよ』

「でも便利でしょ」

『便利だから嫌いなんだ』

「努力する?」

『努力する』

「ありがとう」

『期待するな』

「期待してる」

『だから嫌なんだ』

 

 通信が切れる。

 そのやり取りを、エリザは静かに聞いていた。

 止めようともしない。

 慌てもしない。

 むしろ観察しているようだった。

 

「ずいぶん堂々としていますね」

「隠すと怪しいでしょ」

「隠さなくても怪しいです」

「よく言われる」

 

 ココは笑った。

 その笑顔の裏で、すでに全員が動き始めていた。

 次の瞬間、施設の照明が一瞬だけ揺れた。

 完全な停電ではない。

 だが、電子ロックの一部が一瞬だけ沈黙するには十分だった。

 ヨナとジブリールが同時に走り出す。

 

「行くぞ」

「言われなくても!」

 

 二人は廊下を曲がり、西棟へ向かった。

 兵士の一人が動こうとする。

 バルメがその前に立った。

 

「通すなと言われているのか」

 

 兵士は答えない。

 バルメは一歩近づく。

 

「なら、私も通すなと言われていない」

 

 兵士は銃を上げかけた。

 その前にレームが声をかける。

 

「やめておけ。ここで撃てば、外にいる全員が聞く」

「脅しか」

「助言だ」

 

 エリザは静かにその光景を見ていた。

 

「ココ・ヘクマティアル。あなたは本当に面白い人ですね」

「ありがとう。褒められると伸びるタイプなの」

「褒めていません」

「でしょうね」

 

     *

 

 西棟の廊下は、さっきまでの白い校舎とは違っていた。

 壁の塗装は同じ白だが、空気が違う。生活の匂いも教育施設の匂いもない。もっと乾いていて、もっと冷たい。扉には番号が振られ、窓は小さく、廊下の角には監視カメラがある。

 

 それだけではない。

 床には擦れた靴跡が残っていた。だが、それは子供たちが自由に走り回った跡ではない。同じ方向へ何度も往復したような、規則的な線だった。

 壁際には消毒液の匂いが漂っている。

 病院に似ている。

 だが、病院よりも無機質だった。

 誰かを治療するための場所ではなく、管理するための場所。

 そんな印象を受ける。

 ヨナは走りながら言った。

 

「右」

「わかってる」

 

 ジブリールは先に曲がった。

 その動きは速い。小柄な体を活かし、壁際を滑るように進む。ヨナは少し後ろを走り、周囲を警戒する。

 互いに何も決めていない。

 それでも動きは噛み合っていた。

 ジブリールが前を見る。

 ヨナが後ろを見る。

 ヨナが立ち止まれば、ジブリールも止まる。

 ジブリールが扉へ近づけば、ヨナが廊下を押さえる。

 短い時間で覚えた連携だった。

 たぶん、似た場所で生きてきたからだ。

 

「ここ」

 

 ジブリールが扉の前で止まった。

 扉には小さなプレートがあった。

 

 第四保管室。

 保管。

 その文字を見た瞬間、ジブリールの眉がぴくりと動く。

 

「保管室って何」

「聞くな」

 

 ヨナは短く答えた。

 

「答えがわかってる」

 

 中から微かな声がする。

 子供の声。

 ヨナは扉に耳を近づけた。

 泣き声ではない。

 小さく数を数える声だった。

 

「一、二、三……」

 

 声が震えている。

 数えることで恐怖を紛らわせているのかもしれない。

 あるいは、そうするよう命じられているのかもしれない。

 どちらにしても正常ではなかった。

 ジブリールがロックを確認する。

 

「開かない」

「下がれ」

「撃つなって言ったの、そっちでしょ」

「撃たない」

 

 ヨナは扉の隙間を見た。

 その時、無線からワイリの声。

 

『その扉、今』

 

 電子音。

 ロックが外れる。

 ジブリールが即座に扉を開けた。

 中には子供たちがいた。

 十人ほど。

 灰色の服を着て、壁際に座らされている。全員が番号札を首にかけていた。

 部屋は狭かった。

 窓は高い位置に一つだけ。

 外は見えない。

 床には薄いマットが敷かれているだけで、玩具も本も何もない。

 子供が過ごす部屋には見えなかった。

 

 待機室。

 あるいは収容室。

 そんな言葉の方が似合う。

 その中に、枕元に「四一」と刻まれていたベッドの少年がいた。

 少年はヨナとジブリールを見る。

 だが、叫ばない。

 助けを求めることさえ恐れている顔だった。

 ジブリールはしゃがんだ。

 

「助けに来た」

 

 子供たちは動かない。

 その反応に、ジブリールの顔が歪む。

 彼女は昨夜も子供たちを助けた。

 怯えた子供は見慣れている。

 だが、この反応は違った。

 怯えているだけではない。

 自分で判断することを許されていない。

 そんな沈黙だった。

 

「大丈夫。私たちはグレイ・ハウンドじゃない」

 

 少年が小さく言った。

 

「命令は?」

「命令?」

「移動命令がないと、動いてはいけない」

 

 ヨナの手がわずかに握られた。

 ジブリールの目に怒りが浮かぶ。

 だが、彼女は怒鳴らなかった。

 怒鳴れば余計に怯えさせる。

 それくらいはわかっていた。

 深く息を吸って、声を落とす。

 

「命令じゃない。お願い」

 

 少年が彼女を見る。

 

「逃げよう」

 

 その言葉に、子供たちの目が揺れた。

 命令ではない。

 お願い。

 その違いが、彼らにはすぐに理解できなかった。

 お願いという言葉を聞く機会が、ほとんどなかったのかもしれない。

 誰かに頼まれるのではなく。

 誰かに命じられるだけの毎日だったのかもしれない。

 ヨナは少年の前に膝をついた。

 

「名前は」

 

 少年は答えない。

 いや、答え方を忘れているようだった。

 首元の番号札へ視線が落ちる。

 そこには数字しかない。

 名前の代わりに。

 

「番号じゃない。名前だ」

 

 少年の唇が震える。

 長い沈黙。

 まるで遠い記憶を探るような時間だった。

 

「……リアム」

 

 小さな声だった。

 だが、それは確かに名前だった。

 ヨナは頷く。

 

「リアム。立てるか」

 

 少年は、ゆっくりと立ち上がった。

 足元がおぼつかない。

 長い間、自由に歩くことさえ許されていなかったのかもしれない。

 それにつられるように、他の子供たちも動き始める。

 

 一人。

 また一人。

 恐る恐る立ち上がる。

 誰かが動けば、他の誰かも動く。

 その連鎖が少しずつ広がっていく。

 ジブリールはすぐに出口を確認した。

 

「こっち」

 

 子供たちを誘導しようとする。

 だが、その時だった。

 

 廊下の向こうで足音が響く。

 最初は一人分。

 次に二人。

 さらに増える。

 硬い軍靴が床を叩く音。

 

 兵士が来る。

 ヨナは子供たちを背にかばった。

 反射的な動きだった。

 考えるより先に体が動いていた。

 

「ジブリール」

「わかってる」

 

 ジブリールは子供たちを別の扉へ誘導する。

 だが、子供たちはすぐには動けない。

 振り返る者もいる。

 立ち尽くす者もいる。

 リアムが小さな声で言った。

 

「見つかったら……」

「見つからない」

 

 ジブリールは即座に答えた。

 

「でも」

「大丈夫」

 

 その言葉に根拠はなかった。

 それでも彼女は言った。

 今必要なのは説明ではなく、一歩踏み出させる言葉だったからだ。

 

「だから来て」

 

 リアムは彼女を見た。

 そして、小さく頷いた。

 その後ろで、足音はさらに近づいていた。

 ヨナは廊下に出た。

 兵士が二人。

 銃口が上がる。

 ヨナは先に動いた。

 銃声は鳴らなかった。

 

 短い衝突。

 兵士の武器が床を滑り、もう一人が壁に押しつけられる。ヨナは無駄な動きをしない。倒すためではなく、通れなくするために動く。

 背後でジブリールが叫ぶ。

 

「早く!」

 

 子供たちは走れない。

 足がもつれる子もいる。

 リアムは一度転びかけたが、サミルが横から現れて支えた。

 

「こっち!」

「サミル」

 

 ヨナが驚いたように言う。

 

「アラタが行けって!」

「勝手に来たんだろ」

「半分!」

「半分って何だ」

「半分命令、半分勝手!」

 

 ヨナはため息をつく暇もなかった。

 西棟の奥から、さらに足音が増える。

 ジブリールは子供たちを誘導しながら、短く言った。

 

「ヨナ、来て!」

「先に行け」

「またそれ!」

「行け!」

 

 ジブリールは唇を強く噛みしめた。

 本当は残りたかった。

 ヨナを置いて行きたくなかった。

 

 だが、今ここで優先すべきなのは子供たちだった。助け出した以上、外へ連れ出さなければ意味がない。途中で取り返されれば、彼らは二度と逃げる機会を与えられないかもしれない。

 

「急いで!」

 

 ジブリールは振り返りながら叫んだ。

 子供たちはまだ混乱していた。突然現れた見知らぬ大人たちに連れ出され、走れと言われている。何が起きているのか理解できていない子も多い。

 

 それでも、リアムを先頭に何人かが必死に足を動かしていた。

 サミルが転びそうになった少女を支える。

 

「大丈夫! もう少しだから!」

 

 少女は涙を浮かべながら頷いた。

 ジブリールはもう一度だけ後ろを見た。

 廊下の中央に立つヨナの姿が見える。

 細い背中だった。

 だが、不思議と小さくは見えなかった。

 彼は一人でそこに立ち、迫ってくる兵士たちとの間に壁のように存在していた。

 ジブリールは唇を噛み、子供たちと一緒に走った。

 

 ヨナは廊下に残り、迫る兵士たちを見た。

 足音が近づいてくる。

 複数。

 規則正しく、訓練された兵士の足音だった。

 廊下の向こう側では怒号も聞こえる。

 無線の声。

 命令。

 封鎖。

 追跡。

 施設全体が慌ただしく動き始めているのがわかった。

 

 だが、ヨナの表情は変わらない。

 焦りも恐怖も見せない。

 ただ静かに状況を見ていた。

 時間を稼ぐ。

 それだけでいい。

 勝つ必要はない。

 

 殺す必要もない。

 ただ、子供たちが角を曲がるまで止める。

 ヨナは銃を構えた。

 撃つためではなく、相手を止めるために。

 銃口は兵士たちへ向けられている。

 

 だが指は引き金を急がない。

 必要なら撃つ。

 しかし、それは最後だ。

 兵士たちの姿が見えた。

 一人。

 二人。

 三人。

 さらに後ろにもいる。

 先頭の兵士が足を止めた。ヨナを見たからだ。少年にしか見えない相手。

 だが、その立ち方が普通ではない。銃の構え方も。視線も。

 兵士はすぐに理解した。目の前にいるのは子供ではない。

 戦場を知っている人間だ。

 短い沈黙が生まれる。その数秒が貴重だった。

 ヨナは動かない。

 兵士たちもすぐには動かない。

 互いに相手の出方を探っている。

 

 その間にも、背後では子供たちの足音が遠ざかっていく。

 角を曲がる音。

 誰かが転びそうになる声。

 サミルの励ます声。ジブリールの怒鳴る声。

 まだ聞こえる。だから、まだ足りない。もう少しだけ時間が必要だった。

 ヨナは銃を構えたまま、静かに兵士たちを見据えた。

 

 兵士は四人。

 正面に二人、右手の資材置き場付近に一人、そして背後の通路を塞ぐようにもう一人。

 数だけなら絶望的ではない。

 だが、ここは敵地のど真ん中だった。

 発砲すれば増援が来る。

 倒しても終わりではない。

 生きて抜けなければ意味がなかった。

 

「武器を捨てろ」

 

 兵士の一人が叫ぶ。

 ヨナは答えない。

 代わりに視線だけを動かした。

 左。

 白い壁。

 清掃用具が並ぶ倉庫。

 その先に職員用通路。

 さらに奥には中庭へ続く扉。

 逃げ道はある。

 問題はそこまで辿り着けるかどうかだった。

 

「最後の警告だ!」

 

 兵士が一歩前へ出る。

 その瞬間だった。

 ヨナは腰のポーチから小さな金属筒を抜き、床へ投げた。

 閃光。

 轟音。

 白い光が通路を埋め尽くす。

 

「ぐあっ!」

「目が――!」

 

 兵士たちが悲鳴を上げた。

 ヨナは迷わず走った。

 発砲はしない。

 音を増やしたくなかった。

 混乱する兵士の脇をすり抜け、角を曲がる。

 背後で怒号が響く。

 

「追え!」

「逃がすな!」

 

 足音が増える。

 予想通りだった。

 だが、追跡が始まる前に距離を取れれば十分だ。

 

 ヨナは白い廊下を駆け抜ける。

 右へ。

 左へ。

 階段を下り、途中で進路を変える。

 追跡者に考える時間を与えない。

 銃声が響いた。

 弾丸が壁を叩く。

 白い破片が飛び散る。

 ヨナは振り返らない。

 振り返る時間があるなら前へ進む。

 それが彼のやり方だった。

 

 やがて裏手の搬入口へ辿り着く。

 物資搬入用の小型車両が停められていた。

 ヨナはその陰へ滑り込み、身を低くする。

 数秒後、追ってきた兵士たちが通路の先へ現れる。

 

「どこだ!」

「見失った!」

「探せ!」

 

 怒鳴り声が遠ざかる。

 ヨナは息を殺した。

 車両の陰に身を隠したまま、周囲の気配を探る。

 心臓だけがうるさかった。

 だが顔には出さない。

 しばらくして足音が離れていく。

 ヨナは静かに立ち上がった。

 

 目の前には裏門へ続く細い通路。

 その向こうには外壁。

 さらに先には、アラタたちが待つ合流地点の方向があった。

 ヨナは一度だけ背後を見た。

 白い学校。

 静かで、整っていて、どこまでも白い施設。

 その中には、まだ助けを待つ子供たちがいる。

 

「……待ってろ」

 

 誰に向けた言葉か、自分でもわからなかった。

 ヨナは外壁沿いの影へ身を滑り込ませ、そのまま姿を消した。

 

     *

 

 一方、中央棟ではココとエリザが向かい合っていた。

 白い廊下の空気は冷たかった。

 空調が効いているからではない。

 そこにいる人間たちが互いを信用していないからだ。

 

 廊下の両側には兵士が立っている。

 グレイ・ハウンドの兵士たちは無言だった。

 銃口は下げられている。

 だが、それは安全を意味しない。

 いつでも上げられる位置だった。

 指は引き金から離れている。

 だが、離れているだけだ。

 命令一つで撃てる。

 そんな距離だった。

 

 レーム、バルメ、東條、アラタもその場にいた。

 誰も武器に手をかけてはいない。

 しかし全員が戦闘態勢に近い緊張を保っている。

 レームは兵士たちの配置を見ていた。

 バルメはエリザの護衛たちの動きを観察している。

 

 東條は廊下の構造を頭に入れていた。

 そしてアラタは無線機から流れてくる断片的な報告に耳を傾けていた。

 状況は明らかに危険だった。

 だが、ココは平然としている。

 まるで高級ホテルのロビーで商談でもしているような顔だった。

 

「西棟が騒がしいわね」

「子供はよく走りますから」

 

 エリザが答える。

 こちらも穏やかな声だった。

 まるで教育施設の責任者同士が雑談しているような調子だ。

 

「あなた、冗談下手ね」

「練習します」

「しなくていいわ。怖いから」

 

 ココは肩をすくめた。

 エリザも微笑む。

 だが、その笑みは温度を持たない。

 二人とも笑っている。

 それなのに空気は冷え続けていた。

 

 アラタは無線の声を聞いていた。

 雑音混じりの通信。

 短い報告。

 急ぐ足音。

 ヨナとジブリールが子供たちを見つけた。

 サミルも合流した。

 救出は始まっている。

 だが、兵士が向かっている。

 時間はない。

 彼は動きたかった。

 今すぐ走り出したかった。

 しかし目の前にはエリザがいる。

 

 ここで動けば、彼女はそれを利用する。

 彼女はそういう人間だ。

 感情で動く相手を誘導することに慣れている。

 怒りも焦りも、彼女にとっては利用できる資源でしかない。

 アラタは拳を握る。

 爪が掌に食い込む。

 

 それでも表情は崩さない。

 エリザはそれを見ていた。

 観察するように。

 分析するように。

 興味深い標本を見るように。

 

「つらそうですね」

「あなたには関係ない」

「ありますよ。あなたがつらい時、何を選ぶのかに興味があります」

「僕は見世物じゃない」

「戦場では誰もが見世物です」

 

 エリザは一歩近づいた。

 兵士たちがわずかに反応する。

 だが誰も止めない。

 

「アラタさん。あなたは自分を過小評価している」

「何の話です」

「あなたの価値です」

 

 アラタの表情が硬くなる。

 エリザは続けた。

 

「あなたは自覚していないでしょう。しかし、あなたの周囲には人が集まる」

 

 アラタは黙っている。

 

「子供たちだけではありません。難民も、元兵士も、傭兵も、医療スタッフも。立場も思想も違う人間が、あなたの言葉を聞く」

「買いかぶりです」

「いいえ」

 

 エリザは即座に否定した。

 

「私は人を見る仕事をしています」

 

 その声には妙な確信があった。

 

「子供たちはあなたの言葉で動く。恐怖でも報酬でもない。あれは極めて珍しい能力です。戦場で組織を作る者にとって、喉から手が出るほど欲しい才能です」

「才能じゃない」

「では何です?」

「責任です」

 

 アラタは迷わず答えた。

 

「誰かが信じてくれたなら、その分だけ応えなきゃいけない。それだけです」

「美しい言葉です」

 

 エリザは微笑む。

 

「ですが、美しい言葉ほど商品価値があります」

 

 アラタは彼女を睨んだ。

 怒りはあった。

 だが、怒りだけで動かない。

 それが彼の強さでもあり、苦しさでもある。

 その様子を見て、エリザはさらに興味を深める。

 まるで希少な鉱石でも見つけたような目だった。

 

「あなたがこちらに来れば、もっと多くの子供を管理できます。救うという言い方でも構いません。環境を整え、教育を与え、役割を与える。あなたなら、今より効率的にできる」

「子供を兵士にする効率ですか」

「兵士とは限りません」

「同じです」

「本当に?」

 

 エリザは首を傾げた。

 

「世界はあなたが思うほど優しくありません」

「知っています」

「では、なぜ現実を使わないのです」

「現実に使われたくないからです」

 

 その答えに、エリザの笑みがほんの少しだけ止まった。

 ほんの一瞬だった。

 だが確かに止まった。

 ココが小さく笑う。

 

「いい返事」

「褒められている気がしません」

 

 アラタが言う。

 

「褒めてないもの。ただ、嫌いじゃない」

「それも微妙です」

「私はだいたい微妙よ」

 

 ココは楽しそうだった。

 

 エリザはココを見る。

 

「あなたも似ていますよ、ミス・ヘクマティアル」

「私が?」

「世界を見下ろしているつもりで、結局は自分が選んだものに縛られている」

「あら、痛いところを突くじゃない」

「事実です」

 

 エリザは淡々と言う。

 

「あなたは武器を売る。人を殺す道具を売る。その一方で、自分の商品が気に入らない使われ方をすれば介入する。矛盾しています」

「人間って矛盾でできてるのよ」

「便利な言葉ですね」

「ええ。便利で残酷」

 

 ココは笑った。

 だが、その笑みの奥には別の感情がある。

 エリザもそれを理解していた。

 

「でも、あなたよりは人間らしいと思うわ」

 

 エリザの目が細くなる。

 

「人間らしい、ですか」

「ええ」

 

 ココは軽く頷いた。

 

「私は欲張りだし、気まぐれだし、気に入らない相手には嫌がらせもする。失敗もするし、後悔もする」

「それが人間らしさですか」

「少なくとも、あなたよりはね」

 

 短い沈黙が落ちた。

 兵士たちも動かない。

 レームは小さく息を吐いた。

 この二人は銃を使わずに撃ち合っている。

 しかもかなり危険な種類の撃ち合いだ。

 

 その時、施設全体に再び放送が鳴った。

 電子音。

 続いて機械的な声。

 

『西棟封鎖。搬入口を閉鎖。外周警備、配置につけ』

 

 アラタの顔が変わる。

 無意識に一歩踏み出しかける。

 東條がわずかに視線を向けた。

 バルメも気づいている。

 エリザは静かに言った。

 

「子供たちは逃げられません」

 

 その声には確信があった。

 予測ではない。

 計算だった。

 

「決めるのが早いわね」

 

 ココは通信機を握った。

 指先で軽くアンテナ部分を叩きながら、周囲の様子を確認する。

 廊下の空気は張り詰めていた。

 兵士たちはいつでも動けるように身構え、エリザは穏やかな笑みを崩さず、レームとバルメはそれぞれの位置から周囲を警戒している。

 

 誰も銃を撃っていない。

 だが、ほんの少し均衡が崩れれば、一気に流血沙汰になる。

 そんな空気だった。

 

「ワイリ」

 

 ココが呼びかける。

 数秒の沈黙の後、通信機から聞き慣れた声が返ってきた。

 

『聞こえてる』

 

 いつも通りの気だるそうな声だった。

 だが、その裏には集中力がある。

 ワイリは今もどこか離れた場所から施設の通信網を監視し、電子ロックや監視システムを相手に戦っている。

 

『搬入口の外側に車両が二台。閉じ込めるつもりだな』

「予想通りね」

 

 ココは小さく笑った。

 

「歓迎されてるみたい」

『歓迎というより捕獲だろ』

「似たようなものよ」

『全然違う』

 

 ワイリは即座に否定した。

 ココは楽しそうだった。

 

「開けられる?」

『開けるだけなら』

「十分」

『十分じゃない気もするがな』

「私にとっては十分」

『お前の十分は信用できない』

 

 ココは肩をすくめる。

 

「ひどい言われよう」

『事実だ』

 

 ワイリは迷いなく言った。

 

『ただ、派手になるぞ』

「どれくらい?」

『施設側があとで報告書を書くのを嫌がるくらい』

「いいわね」

『褒めてない』

「上品に派手に」

『難しい注文だ』

「あなたならできる」

『できるかどうかと、やりたいかどうかは別問題だ』

「できるのね」

『話を聞け』

 

 ココはくすくす笑った。

 エリザはそのやり取りを黙って聞いている。

 まるで理解できない文化を観察する研究者のような目だった。

 ココはさらに続ける。

 

「お願い」

『嫌な予感しかしない』

「信頼してるわ」

『もっと嫌な予感がした』

「あなたならできる」

 

『褒めても何も出ない』

「あとでお菓子あげる」

『子供扱いするな』

 

 通信が切れる。

 短い沈黙が落ちた。

 その場にいた兵士たちは理解できないものを見るような顔をしていた。

 エリザはわずかに首を傾げる。

 

「あなた方は、本当に騒がしい」

 

 その言葉には呆れと興味が混じっていた。

 ココは笑う。

 

「静かな武器商人なんて売れないわ」

「そういうものですか」

「そういうものよ」

 

 ココは軽く答えた。

 

「黙ってる武器商人なんて、ただ怪しいだけだもの」

「十分怪しいと思いますが」

「失礼ね」

 

 ココはそう言って、アラタを見た。

 その瞬間だけ、表情が少し変わる。

 軽薄さが消える。

 冗談も消える。

 

「行って」

 

 アラタは動かなかった。

 

「でも」

「ここは私が遊ぶ」

「遊びじゃありません」

「知ってる」

 

 ココの声は静かだった。

 その目は笑っていない。

 いつものように軽口を叩いているようでいて、その実、状況を正確に見ていた。

 ここで時間を稼ぐ人間が必要だ。

 子供たちのところへ向かう人間も必要だ。

 両方を同時にはできない。

 だから役割を分ける。

 

「だから行って」

 

 アラタは一瞬だけ迷った。

 西棟。

 子供たち。

 エリザ。

 ココ。

 全部が頭の中をよぎる。

 

 ここに残るべきか。

 それとも向かうべきか。

 だが答えは最初から決まっていた。

 子供たちがいる場所へ行く。

 それが自分の役割だ。

 アラタは小さく息を吐いた。

 

「……お願いします」

「任せて」

 

 ココは即答した。

 その言葉に迷いはなかった。

 アラタは頷く。

 そして次の瞬間には走り出していた。

 東條もすぐに後を追う。

 

「待て!」

 

 兵士の一人が反応する。

 だが、その前にバルメが一歩前へ出た。

 大柄な体が廊下を塞ぐ。

 それだけで圧力になる。

 

「通す」

「命令は受けていない」

「なら今受けろ」

 

 低い声だった。

 怒鳴ってはいない。

 だが、兵士は思わず足を止めた。

 バルメの目には本気があった。

 ここを通そうとしている。

 必要なら力ずくで。

 

 その意思がはっきり見えた。

 兵士がわずかに迷う。

 その一瞬が十分だった。

 アラタと東條は廊下を駆け抜ける。

 角を曲がり、視界から消える。

 

 エリザはそれを見ていた。

 止めようと思えば止められたかもしれない。

 命令を出せば兵士たちは動いただろう。

 だが彼女は何もしなかった。

 ただ静かに見送る。

 まるで予定通りだと言わんばかりに。

 

「追わなくていいの?」

 

 ココが聞いた。

 エリザは視線をアラタが消えた方向へ向けたまま答える。

 

「追いますよ」

「じゃあ今すぐ?」

「いいえ」

 

 その返答は落ち着いていた。

 焦りがない。

 怒りもない。

 むしろ余裕がある。

 エリザは微笑む。

 

「彼は必ず子供のところへ行く。なら、行き先はわかっています」

 

 ココは肩をすくめた。

 

「やっぱり性格悪いわ」

「あなたに言われるとは光栄です」

 

 エリザは微笑みを崩さない。

 

「人は必ず大切なもののところへ向かう。それを予測するのは難しくありません」

「私は難しいと思うけど」

「あなたは例外です」

「褒めてる?」

「いいえ」

「でしょうね」

 

 ココは笑った。

 だが、その目はエリザから離れない。

 エリザもまたココを見ている。

 

 互いに笑っている。

 互いに礼儀正しい。

 そして互いに相手を信用していない。

 廊下の空気は静かだった。

 だが、その静けさの下では、見えない刃が何本も交差していた。

 

     *

 

 西棟の搬入口は、倉庫のような場所だった。

 壁際には木箱や機材が積まれ、奥には外へ続く大きな扉がある。その前に、救出された子供たちが集まっていた。

 

 倉庫の天井は高く、薄暗い照明がところどころで白く光っている。油と埃の匂いが混じり、長い間換気されていないような重たい空気が漂っていた。床には荷物を運ぶためのレールが走り、壁際には番号の書かれた木箱が整然と並べられている。

 その光景は、まるで人間ではなく荷物を管理するための場所のようだった。

 そして実際、この施設では子供たちもまた荷物のように扱われていた。

 

 ジブリール、サミル、合流したヨナが誘導している。

 子供たちは混乱していた。逃げたい気持ちはある。だが、体が追いつかない。命令がなければ動いてはいけないと教え込まれた子もいる。大人を見るだけで怯える子もいる。

 

 ジブリールは苛立ちを押し殺していた。

 怒鳴れば逆効果だとわかっている。

 怖がらせれば、さらに動けなくなる。

 だから必死に声を抑える。

 

「走って。お願い、走って」

 

 彼女は一人ひとりの肩を軽く押しながら言った。

 

「大丈夫だから。外に出れば終わる。もうここに戻らなくていい」

 

 だが、その言葉を信じられない子供もいる。

 何度も騙されてきたのだ。

 従えば食事がもらえる。

 従えば殴られない。

 従えば生きられる。

 そう教えられてきた子供たちにとって、自分で選ぶという行為は恐怖だった。

 サミルも声をかける。

 

「大丈夫。外に出たら車がある。怖くない」

 

 その声も震えている。

 彼自身も怖いのだ。

 だが、それでも言う。

 怖くない、と。

 自分自身に言い聞かせるように。

 ヨナは扉の前に立っていた。

 金属製の大型搬入口。

 

 電子ロックがかかっている。

 外から開けることはできても、中から解除するのは難しい。

 ヨナは扉の縁を確認し、ロック部分へ視線を向けた。

 

「開かない」

 

 ジブリールが言う。

 

「ワイリがやる」

「早くして」

「俺に言うな」

 

 短いやり取りだった。

 だが、その間にも時間は過ぎていく。

 廊下の奥から足音。

 最初は一人分。

 次に二人。

 さらに増える。

 硬い軍靴が床を叩く音が反響し、倉庫の中へ近づいてくる。

 

 ヨナが振り返る。

 兵士たちが迫っていた。

 ヨナは銃を構える。

 だが、その前にアラタが廊下の角から飛び込んできた。

 

「全員、伏せて!」

 

 鋭い声が倉庫に響いた。

 子供たちは反応できない。

 何を言われたのか理解できない子もいる。

 だが、ジブリールとサミルが彼らを抱えるようにして身を低くさせる。

 

 次の瞬間、搬入口の外側で大きな金属音が響いた。

 扉のロックが外れ、わずかに開く。

 細い隙間から光が差し込む。

 白く眩しい外光。

 

 薄暗い倉庫にいた子供たちは思わず目を細めた。

 その光は、まるで別世界への出口のようだった。

 同時に、マオの声が飛ぶ。

 

「こっちだ! 急げ!」

 

 外にはウゴの車両が待っていた。

 エンジンはかかったまま。

 荷台の扉も開いている。

 オマルとルツもいる。

 二人とも周囲を警戒しながら、子供たちを迎える準備をしていた。

 

「急げ!」

「順番に!」

「押すな!」

 

 子供たちは次々に外へ出る。

 最初は恐る恐る。

 だが、一人が走れば二人目が続く。

 三人目が続く。

 少しずつ流れができる。

 外へ。

 施設の外へ。

 檻の外へ。

 リアムが足を止めた。

 

 外の光を見て、震えている。

 ヨナは彼の隣にしゃがんだ。

 

「行くぞ」

「戻されたら」

「戻さない」

「命令は?」

「ない」

 

 リアムは動けない。

 ヨナは少しだけ迷った。

 それから言った。

 

「お願いだ」

 

 リアムの目が揺れる。

 命令ではない。

 

 お願い。

 彼はゆっくり頷き、外へ一歩踏み出した。

 そしてもう一歩。

 最後には小走りになって光の中へ消えていく。

 ヨナはその背中を見送る。

 ジブリールが横に来た。

 

「言えたじゃん」

「うるさい」

「嘘もお願いも、少し上手くなった」

「嬉しくない」

「でも必要」

「知ってる」

 

 ジブリールは少しだけ笑った。

 ヨナは顔をしかめた。

 だが否定はしなかった。

 最後の子供が外へ出る。

 

 その直後、兵士たちが廊下に到着した。

 銃口が上がる。

 緊張が一気に高まる。

 アラタが前に出る。

 

「撃つな!」

 

 その声に、兵士たちの動きが一瞬止まる。

 彼らの背後には施設の子供たちがいる。誤って当たれば問題になる。いや、彼らにとって問題なのは子供の命ではない。商品価値の損失だ。

 アラタはそれを理解していた。

 だから一歩も引かない。

 兵士たちも撃てない。

 その数秒が命を分ける。

 ヨナが低く言う。

 

「アラタ、下がれ」

「君が言うの?」

「俺はいい」

「よくない」

 

「ジブリールみたいなこと言うな」

「彼女の方が正しいこともある」

 

 その時、ジブリールが二人の襟をまとめて掴みかけた。

 

「まとめて走れ!」

 

 怒鳴るような声だった。

 だが、その声には焦りが滲んでいる。

 兵士たちも限界だった。

 あと数秒で発砲が始まる。

 誰もがそれを理解していた。

 ヨナとアラタは同時に動いた。

 

 搬入口の外へ飛び出す。

 車両が急発進する。

 背後で扉が閉まり始める。

 金属の重い音が響く。

 施設側の兵士たちが外へ出ようとするが間に合わない。

 

 外周では別の兵士たちが動いていたが、ルツとマオが視線を逸らし、オマルが子供たちを車へ押し込む。ワイリは高台から通信を見ていた。

 

『長居は無理だぞ。外周警備が集まってきてる』

「撤収!」

 

 レームの声が飛ぶ。

 車列が動く。

 白い学校の敷地内にサイレンが響いた。

 

     *

 

 中央棟の前で、ココはまだエリザと向かい合っていた。

 遠くで車両の音がする。

 子供たちを乗せた車が離れていく音だった。

 乾いた地面を蹴り上げながら走るエンジン音は、少しずつ遠ざかっていく。

 

 その音を聞きながら、ココは内心で時間を数えていた。

 もう十分ほど経てば施設の外周を抜ける。

 さらに数分で追跡は難しくなる。

 もちろん、エリザもそれくらいは計算しているだろう。

 だからこそ、彼女は慌てない。

 

 エリザは目を細める。

 

「ずいぶん派手な視察になりましたね」

「ええ。勉強になったわ」

「あなたは証拠を手に入れていない」

「本当に?」

 

 ココは笑った。

 その笑みはいつもの軽薄なものだったが、目だけは鋭い。

 エリザの表情がわずかに変わる。

 ほんの一瞬だった。

 だが、その一瞬だけで十分だった。

 ココは通信機を軽く振った。

 

「ナディアちゃん、優秀ね」

 

 エリザは一瞬だけ沈黙した。

 その沈黙は短かったが、否定よりも雄弁だった。

 ココはそれを見逃さない。

 その間に、ココは続ける。

 

「施設の名簿、移送記録、番号管理表、搬出予定。全部じゃないけど、十分に面白いものは見えたわ」

「不正な取得情報に価値はありません」

「世の中の価値ある情報って、だいたい不正に近いところに落ちてるのよ」

「あなたはそれを使うつもりですか」

「もちろん」

「誰に?」

「さあ。誰に売るのが一番高くつくか、考え中」

 

 ココはにこっと笑った。

 

「でも安心して。あなたには売らない」

 

 エリザはしばらくココを見つめた。

 その視線には怒りも焦りもない。

 あるのは観察だった。

 まるで珍しい標本を見る研究者のような目。

 ココもまた同じようにエリザを見ていた。

 この女は危険だ。

 単純な敵ではない。

 金で動くわけでもなく、権力だけを求めているわけでもない。

 

 自分が正しいと信じている人間ほど厄介なものはない。

 そしてエリザは、その種類の人間だった。

 やがて彼女は静かに言った。

 

「あなたは、バベル・ルートを壊せると思っているのですか」

「壊せるかどうかはまだ知らない」

「なら、なぜ進むのです」

「見ちゃったから」

 

 ココの声は軽かった。

 だが、その目は違った。

 冗談を言う時の目ではない。

 商談の席で値段を吊り上げる時の目でもない。

 もっと個人的な色があった。

 

「見たものを、見なかったことにするのは苦手なの」

「武器商人にしては、ずいぶん感傷的ですね」

「感傷じゃないわ」

 

 ココは言った。

 

「商売よ」

 

 エリザがわずかに眉を上げる。

 

「私の商品が、私の知らないところで、私の嫌いな使われ方をしている。気に入らないの」

「所有欲ですか」

「それもあるわね」

 

 ココは否定しなかった。

 むしろあっさり認めた。

 

「私は欲張りだから」

「正直ですね」

「嘘をつく必要がないもの」

 

 ココは肩をすくめる。

 

「武器商人なんて、だいたい欲張りよ。お金も欲しいし、情報も欲しいし、影響力も欲しい。でもね」

 

 彼女は少しだけ声を落とした。

 

「嫌いなものもあるの」

「例えば?」

「子供を番号で呼ぶ連中」

 

 エリザは何も言わない。

 ココは続けた。

 

「戦争は嫌いじゃないわ。戦争で食べてるもの。でも、戦争を便利な工場みたいに使う連中は好きじゃない」

「違いがあるのですか」

「あるわ」

 

 ココは即答した。

 

「少なくとも私の中にはね」

 

 エリザは小さく息を吐いた。

 

「主観的ですね」

「人間なんて主観の塊よ」

「それで世界を変えられると?」

「変える気はないわ」

 

 ココは笑う。

 

「ただ、気に入らないものを引っかき回したいだけ」

 

 その答えに、エリザはわずかに口元を緩めた。

 初めて見せる種類の笑みだった。

 

「あなたらしい」

「褒め言葉として受け取っておく」

「好きにしてください」

 

 短い沈黙が落ちる。

 遠くではまだサイレンが鳴っていた。

 施設内を走る兵士たちの姿も見える。

 だが、その騒ぎの中心にいるはずの二人だけが、不思議なほど静かだった。

 

「でも、もう一つ」

 

 ココが言う。

 

「何でしょう」

「あなたが気に入らない」

 

 その瞬間、二人の間に静かな火花が散った。

 エリザは微笑む。

 

「それは光栄です」

「光栄に思っていいわ」

 

 レームが近づいてくる。

 

「ココ、撤収だ」

「はいはい」

 

 ココはエリザに背を向けた。

 その背中へ、エリザが言う。

 

「次は、もっと深い場所で会いましょう」

 

 ココは振り返らずに手を振った。

 

「デートのお誘いなら考えておくわ」

「残念ながら仕事です」

「それが一番面倒なのよ」

 

 そして歩き出す。

 白い学校のサイレンが鳴り続けている。

 その音は、校鐘には似ていなかった。

 どちらかといえば、檻の中の警報だった。

 教育施設の音ではない。

 管理施設の音だ。

 ココは振り返らない。

 

 だが背中越しに感じていた。

 エリザ・クロウはまだそこに立っている。

 こちらを見ている。

 そして次の手を考えている。

 ココもまた同じだった。

 

 これは終わりではない。

 ようやく入口を見つけただけだ。

 

     *

 

 撤収した車列は、旧道を外れ、鉱山へ続く廃道の脇にある採石場跡へ入った。

 そこはかつて石材を切り出していた場所だったらしい。今は使われておらず、削られた岩肌と放置された小屋だけが残っている。周囲から見えにくく、一時的に身を隠すには都合がよかった。

 採石場の底には風が吹き込み、乾いた砂を巻き上げている。

 崩れかけた重機が横倒しになり、錆びたワイヤーが岩陰に埋もれていた。

 

 人の気配はない。

 だからこそ安全だった。

 少なくとも今は。

 救出した子供たちは車から降ろされ、ミラがすぐに状態を確認した。水を飲ませ、毛布をかけ、怪我がないかを見る。ジブリールとサミルも手伝う。

 リアムは毛布に包まれたまま、何度も自分の首元を触っていた。

 そこにはもう番号札がない。

 ジブリールが外したのだ。

 

「落ち着かない?」

 

 ミラが聞く。

 リアムは小さく頷いた。

 

「番号がないと、呼ばれた時にわからない」

 

 ミラは何も言えなかった。

 胸の奥が痛くなる。

 名前より番号に慣れてしまった子供。

 それがどれほど長い時間を意味するのか、想像したくなかった。

 ジブリールがしゃがむ。

 

「名前で呼ぶ」

「名前……」

「リアム」

 

 少年は顔を上げた。

 ジブリールはもう一度言う。

 

「リアム」

 

 少年の目が揺れた。

 まるで遠くから自分自身を呼び戻されたような顔だった。

 しばらくして、彼は小さく呟く。

 

「……リアム」

 

 自分の名前を確認するように。

 忘れないように。

 失くさないように。

 ヨナは少し離れた場所でその様子を見ていた。

 バルメが隣に立つ。

 

「大丈夫か」

「誰が」

「お前だ」

「俺は何もしてない」

「そういう時のお前は、だいたい何かしている」

 

 ヨナは答えなかった。

 手の感触が残っていた。

 子供の手。

 小さくて、冷たくて、必死に握ってきた手。

 戦場で、そういう手を何度も見た。

 握れなかった手もある。

 離した手もある。

 握ったまま救えなかった手もある。

 ヨナはそれを忘れていない。

 忘れられない。

 ココは採石場跡の小屋の中で、ナディアが抜き出したデータを見ていた。

 

 小屋の中は薄暗かった。

 壁には古い工具が掛けられたままになっており、床には石粉が薄く積もっている。かつて採石場で働いていた人間たちが使っていた場所なのだろう。今は誰もいない。聞こえるのは外で風が岩肌を撫でる音と、遠くで子供たちの様子を見ているミラたちの声だけだった。

 

 小さな折り畳み机の上にはノートパソコンと携帯端末が並べられている。

 ナディアはその前に座り、休む間もなく解析を続けていた。

 彼女の顔色は悪い。

 疲労だけではない。

 昨夜からほとんど眠っていないこともあるが、それ以上に画面に映っている内容が重かった。

 

 数字。

 施設名。

 移送日時。

 管理番号。

 それらはただの文字列に見える。

 だが、その一つ一つが子供たちの人生だった。

 名前を消され、番号に置き換えられた子供たち。

 どこから来て、どこへ送られたのか。

 

 誰が管理し、誰が受け取ったのか。

 その痕跡が冷たいデータとして並んでいる。

 ナディアは画面から目を離さず言った。

 

「移送記録は一部だけです」

 

 声にも疲れが滲んでいた。

 

「施設のサーバーに残っていた断片しか取れていません。削除された部分も多いですし、暗号化されている領域もあります」

 

「でも?」

 

 ココが促す。

 ナディアは頷いた。

 

「でも、これだけでも十分です。白い学校は単独施設じゃありません」

「やっぱりね」

 

 ココは腕を組んだ。

 予想はしていた。

 あれほど大規模な施設が単独で動いているはずがない。

 子供を集める者。

 管理する者。

 選別する者。

 輸送する者。

 受け取る者。

 それぞれが役割を持ち、組織として機能している。

 そうでなければ、あれほど多くの子供を長期間扱うことはできない。

 

 アラタが画面を見る。

 そこには複数の施設名が並んでいた。

 

 北部農業技術訓練センター。

 東部職業再教育施設。

 鉱山労働準備校。

 第三区保護観察拠点。

 そして、番号だけで記された複数の中継地。

 

「学校が複数ある」

 

 アラタの声は低かった。

 画面を見つめる目が冷たくなる。

 白い学校だけでも十分ひどかった。

 だが、それが一つではない。

 同じような場所が複数存在する。

 それはつまり、今この瞬間にも別の場所で同じことが行われているということだった。

 

「それぞれ役割が違うみたいです」

 

 ナディアは画面を切り替える。

 新しい一覧が表示される。

 施設ごとの移送人数。

 滞在期間。

 搬出先。

 断片的ではあるが、流れが見えてくる。

 

「白い学校は集約と初期訓練。別の施設で選別。さらに別ルートで搬出。最終的には鉱山地帯の奥にあるターミナルへ送られています」

 

「選別って何を基準に?」

 

 アラタが聞いた。

 ナディアは少しだけ言葉を選ぶ。

 

「年齢、体力、適性評価……そういう項目があります」

「適性?」

「詳細は不明です。でも、労働向け、警備補助向け、特殊訓練向けみたいな分類が見えます」

 

 小屋の空気が重くなる。

 誰もすぐには言葉を返せなかった。

 子供を人間としてではなく資源として扱う発想。

 数字で管理し、用途ごとに振り分ける仕組み。

 それは教育施設ではない。

 工場だった。

 人間を加工するための工場。

 

「ターミナル?」

 

 レームが聞く。

 

「名前だけです。場所はまだ特定できません」

 

 ナディアは画面を拡大した。

 

「ただ、複数の施設から同じ場所へ輸送記録が集中しています。おそらく中核拠点です」

「集積所か」

 

 東條が言う。

 

「あるいは最終選別地点」

 

 ナディアは頷いた。

 

「可能性は高いです」

 

 ココは画面の一部を指差した。

 

「このコードは?」

「BABEL-03」

 

 ナディアが答える。

 

「他にもBABEL-01、02、04があります。たぶん拠点番号です」

「他にもあるのね」

 

「はい」

 

 ナディアはさらに別のファイルを開いた。

 そこには短い通信記録が残されていた。

 内容は断片的だったが、共通して同じ単語が使われている。

 

 BABEL。

 BABEL。

 BABEL。

 

 まるで組織全体を示す識別名のように。

 

「バベル・ルートは道じゃなくて網か」

 

 東條が言った。

 

「ええ」

 

 ココの目が細くなる。

 最初は一本の輸送経路だと思っていた。

 だが違う。

 これはもっと大きい。

 複数の施設。

 複数の中継地。

 複数の輸送網。

 

 それらが互いに繋がり、一つの巨大な構造を作っている。

 一本の道ではない。

 蜘蛛の巣だ。

 あるいは名前の通り、積み上げられた塔。

 どこか一つを壊しても、別の場所から補われる。

 そういう仕組みになっている。

 ココはしばらく画面を見つめていた。

 

 数字の羅列。

 施設名。

 移送記録。

 その背後にある金の流れ。

 武器。

 労働力。

 政治。

 軍閥。

 企業。

 

 様々な利害が絡み合っているのが見える。

 単なる人身売買組織ではない。

 もっと大きな何かだ。

 

「白い学校は入口の一つ」

 

 ココは静かに言った。

 その声には先ほどまでの軽さがなかった。

 

「奥にはもっと大きなものがある」

 

 誰も否定しなかった。

 画面の向こうにある巨大な構造を、全員が感じ取っていたからだ。

 アラタは黙っていた。

 救出した子供たちはいる。

 助けられた。

 それは事実だ。

 だが、画面の中にはまだ助けられていない子供たちの痕跡が並んでいる。

 

 数字として。

 記録として。

 番号として。

 それらは単なるデータではない。

 一つ一つが誰かの人生だった。

 誰かの名前だった。

 誰かの未来だった。

 

「アラタ」

 

 ココが声をかけた。

 小屋の中には、発電機の低い唸りと、遠くで聞こえる子供たちの話し声だけが響いていた。

 誰もが疲れていた。

 徹夜で動き続け、白い学校へ潜り込み、子供たちを救出し、追跡を振り切ってここまで来た。

 それでも休めない。

 休めば、その間にもどこかで別の輸送が動く。

 別の子供たちが消える。

 その事実を、ここにいる全員が理解していた。

 

「はい」

 

 アラタは画面から目を離さずに答えた。

 そこには施設名と番号が並んでいる。

 ただの文字列。

 ただのデータ。

 だが、その数字の一つ一つが人間だった。

 名前を奪われた子供たちだった。

 

「今すぐ全部は助けられない」

 

 ココは静かに言った。

 いつもの軽い調子ではない。

 冗談もない。

 事実だけを置くような声だった。

 

「わかっています」

「本当に?」

 

 ココは問い返した。

 責めるためではない。

 確認するためだった。

 アラタはしばらく画面を見つめていた。

 

 施設名。

 輸送記録。

 番号。

 移送先。

 その向こうにいる子供たちを想像する。

 

 白い学校にいた子供たちと同じように、番号で呼ばれ、命令で動き、名前を忘れかけている子供たち。

 助けを待っているかもしれない。

 あるいは、助けを待つことすら諦めているかもしれない。

 それでも今は行けない。

 その現実が苦しかった。

 それから、ゆっくり頷いた。

 

「わかっています」

 

 その声は苦かった。

 飲み込みたくない現実を無理やり飲み込んだような声だった。

 だが、先ほどよりは少しだけ冷静だった。

 

「今日助けた子たちを逃がす。データを整理する。白い学校の次の搬出先を探る。順番を間違えれば、もっと多くの子供が消える」

 

 アラタは自分自身に言い聞かせるように続けた。

 

「焦って飛び込めば、向こうの思う通りになる。エリザはそれを待ってる」

 

 ココは小さく頷く。

 

「そうね」

「だから順番を守る」

「いいわ」

 

 ココは頷いた。

 

「それがわかってるなら、まだ一緒にやれる」

 

 アラタは彼女を見る。

 

「一緒に?」

「今はね」

 

 ココは肩をすくめた。

 

「私は慈善事業家じゃないし、あなたも理想だけで動いてるわけじゃない。だから今は利害が一致してる」

「便利な言葉ですね」

「そう。便利で残酷」

 

 ココは笑った。

 

「でも戦場では、そのくらいがちょうどいいのよ」

 

 二人は同じ画面を見た。

 そこに並ぶ施設名と数字。

 バベル・ルートの断片。

 その一つ一つの先に、子供がいる。

 まだ見ぬ子供たち。

 まだ助けを求めることすら許されていない子供たち。

 ヨナが小屋の入口に立っていた。

 

 腕を組み、外を見ている。

 ジブリールもその隣にいる。

 彼女は落ち着かない様子で足元の石を蹴った。

 

「次はどこ」

 

 ジブリールが聞いた。

 待つことが苦手な声だった。

 今すぐにでも走り出したいという焦りが滲んでいる。

 ナディアは画面を見る。

 

「このデータだと、白い学校から次に出る輸送は、鉱山地帯の補給拠点へ向かうはず」

「そこに子供がいる?」

「可能性はあります」

「可能性じゃなくて」

 

 ジブリールは眉をひそめた。

 

「いるの?」

 

 ナディアは少し考えた。

 

「断定はできません。でも、移送記録の流れを見る限り、かなり高い確率でいます」

「なら行く」

 

 ジブリールは即答した。

 迷いがなかった。

 それは彼女の強さでもあり、危うさでもあった。

 

「すぐには行かない」

 

 アラタが言う。

 

「またそれ」

「またそれ」

 

 今度はアラタも引かなかった。

 

「助けるために準備する」

「準備してる間に」

「だから急いで準備する」

「その間に連れて行かれたら?」

「だから情報を集める」

「間に合わなかったら?」

「間に合わせる」

 

 ジブリールは言葉に詰まった。

 怒っているわけではない。

 焦っているのだ。

 白い学校で見たものが頭から離れない。

 番号で呼ばれる子供たち。

 命令がなければ動けない子供たち。

 あのまま残された子供たち。

 だから急ぎたい。

 だが――。

 

 彼女は視線を横へ向けた。

 リアムたちがいた。

 助け出された子供たち。

 毛布に包まり、水を飲み、ようやく少しだけ落ち着き始めている。

 それでも誰かが近づくたびに肩を震わせる。

 眠ることすら怖がっている。

 夢の中でまた連れ戻されると思っているのかもしれない。

 彼らを安全な場所へ移さなければならない。

 ただ次へ走ればいいわけではない。

 ジブリールにも、それはわかっていた。

 わかっているからこそ悔しい。

 

「……わかった」

 

 小さな声だった。

 アラタは少しだけ驚いた顔をした。

 

「本当に?」

「本当に」

「珍しい」

「怒るよ」

「ごめん」

「本気で怒るよ」

「ごめんって」

 

 サミルが吹き出した。

 

「アラタ、それは余計だった」

「そうかな」

「そうだよ」

 

 ナディアも少しだけ口元を緩めた。

 張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。

 ほんの数秒だったが、それだけでも十分だった。

 ココはその様子を見て、軽く手を叩いた。

 

「よし。方針決定」

「何をする」

 

 レームが聞く。

 

「まずは子供たちの移送先を確保。次にデータ解析。白い学校に残した足跡を消すか、逆に利用するか考える。それから鉱山ターミナルを探す」

「やることが多いな」

「退屈しなくていいでしょ」

「徹夜明けに言う台詞じゃない」

「私は元気」

「お前だけだ」

 

 レームは呆れたように言った。

 ココは伸びをした。

 背筋を鳴らしながら笑う。

 

「それから、エリザさんにお礼状を出さなきゃ」

「挑発状の間違いでは?」

 

 東條が言う。

 

「似たようなものよ」

「相手は喜びそうだな」

「それが嫌なのよね」

 

 ココは本気で嫌そうな顔をした。

 その反応に何人かが笑う。

 短い笑いだった。

 だが、それだけで少しだけ空気が軽くなる。

 

 ヨナはリアムを見た。

 番号札を外された少年は、毛布に包まれながら眠りかけていた。まだ眉間には不安の皺が残っている。それでも、首元にはもう番号がない。

 名前を取り戻した子供。

 リアム。

 番号ではなく。

 記号でもなく。

 一人の人間として。

 

 だが、まだ戦場の外へは出られていない。

 ここもまた安全ではない。

 ただ、少しだけ危険が遠い場所というだけだ。

 ヨナは小さく息を吐いた。

 ジブリールが隣で言う。

 

「まだ終わってない」

「知ってる」

「また行く」

「知ってる」

「止める?」

「たぶん」

「たぶん?」

「アラタが止める。ココも止める。バルメも止める」

「あなたは?」

 

 ヨナは少し考えた。

 

「一緒に行って、危なくなったら引っ張る」

 

 ジブリールは目を丸くした。

 

「それ、味方じゃない?」

「違う」

「近い」

「違う」

「かなり近い」

「うるさい」

 

 ジブリールは少しだけ笑った。

 ヨナもほんの少しだけ口元を動かした。

 それを見たサミルが驚いた顔をする。

 

「今笑った?」

「気のせいだ」

「笑ったよね?」

「気のせい」

「絶対笑った」

「うるさい」

 

 採石場跡に、少しだけ穏やかな空気が流れた。

 朝日が高くなり、採石場跡の岩肌を白く照らし始めた。

 削られた岩壁は眩しく光り、その光が子供たちの毛布にも落ちる。

 白い学校から連れ出された子供たちは、その光の中で毛布に包まれている。

 光は優しかったが、世界はまだ優しくない。

 彼らが本当に安心して眠れる日は、まだ遠い。

 遠くの鉱山地帯には、灰色の稜線が続いていた。

 乾いた空気の向こうに、ぼんやりとした影が連なっている。

 

 その向こうに、バベル・ルートの次の拠点がある。

 白い学校は終点ではなかった。

 入口でもなかった。

 ただの一つの部屋に過ぎない。

 巨大な塔の、低い階層。

 その上には、まだ見えない暗闇が積み上がっている。

 

 ココ・ヘクマティアルは、その塔を商売の構造として見た。

 アラタは、その塔に閉じ込められた子供たちの声を聞いた。

 ヨナは、その塔の中に、かつての自分の影を見た。

 そしてエリザ・クロウは、塔の上から彼らを見下ろしている。

 

 次に向かうべき場所は決まった。

 鉱山ターミナル。

 バベル・ルートの心臓に近い場所。

 そこには、さらに大きな真実が待っている。

 さらに多くの子供たちがいる。

 さらに危険な敵がいる。

 車列はまだ動かない。

 

 だが、誰も引き返すとは言わなかった。

 疲れている。

 傷ついている。

 それでも進む。

 白い学校で見たものを、見なかったことにはできないからだ。

 朝日は高く昇り続ける。

 その光の下で、彼らは次の戦いの準備を始めていた。

 

 

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