JORMUNGAND:マージナル・チルドレン   作:たこ焼き 龍月

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第四章 イルミネーター:名前で呼ぶ

 

 イルミネーターの画面は、冷たい光を放っていた。

 

 ただ明るいだけではない。無機質で、温度を感じさせない光だった。人の目に優しいように調整されているはずなのに、その奥にあるものはどこまでも冷え切っている。まるで、そこに映るものすべてから感情を削ぎ落とすために存在しているかのようだった。

 

 鉱山ターミナルの全体図が、複数の層に分かれて表示されている。地上のコンテナヤード、鉱石集積場、労働者宿舎、検査棟、管理棟、地下搬送区画。それぞれが別の色で塗り分けられ、立体的に重なり合いながらも、ひとつの巨大な構造として整理されていた。

 車両の流れは細い線で示され、一定のリズムで動いている。警備の配置は点で表示され、その点は規則的に巡回している。扉の開閉状況は色の変化で示され、通信の集中地点には微かな波形が揺れていた。それらがすべて、整然と、無駄なく、効率的に配置されている。

 

 点と線。

 それだけで、この場所のすべてが説明されているように見えた。

 人間も点だった。

 労働者も、兵士も、子供も。

 誰がどこにいるのか、どこへ向かっているのか、どれくらいの速度で移動しているのか。すべてが同じ形式で表示される。そこに違いはない。役割も、感情も、背景も、何もかもが削ぎ落とされている。

 

 すべてが記号になっている。

 名前も、顔も、声も、そこには存在しない。ただの識別番号と位置情報だけが残る。

 アラタはその画面を見つめていた。

 胃の奥が重い。

 鈍い圧迫感が、じわじわと広がっていく。吐き気に似ているが、吐き出せるものではない。内側に溜まり続けるだけの重さだった。

 

 これを使えば、見えないものが見える。

 壁の向こうも、地下の奥も、閉ざされた扉の先も。人が直接確認できない場所の情報が、すべてここに集まっている。まるで、この端末がこの施設の目そのものになっているかのようだった。

 

 だが、見えすぎる。

 誰かがどこにいるのか。どの道が空いているのか。どの扉が閉じるのか。どの車両が何分後に動くのか。何を選べば誰が助かり、何を選べば誰が取り残されるのか。

 

 画面は答えを出してくれない。

 最適解のようなものは提示されるかもしれない。だが、それはあくまで効率の話だ。人間の感情や、後悔や、罪悪感までは計算してくれない。

 

 ただ選択肢を並べるだけだ。

 冷静に、無機質に、平等に。

 選ぶのは人間だった。

 そして、その人間は今、自分だった。

 

「アラタ」

 

 隣でナディアが呼んだ。

 彼女の声にも緊張があった。普段よりわずかに硬く、呼吸も浅い。それでも、指先は止まらない。白い学校から抜き出したデータと、イルミネーターの管理画面に表示される番号を照合している。

 彼女の動きは正確で、迷いがない。だが、その速さの裏にある焦りを、アラタは感じ取っていた。

 

「C-112とC-203が検査棟へ移動中。C-217とC-224はコンテナヤード奥。C-301は地下搬送区画へ送られています」

「他には」

 

 アラタは短く聞いた。

 声が少しだけ掠れているのを、自分でも感じた。

 

「労働者宿舎からも移動があります。番号は不明。たぶん別施設から来た子たちです」

 

 ナディアは画面を拡大しながら答える。

 新しく現れた点が、ゆっくりと移動している。

 

「名前は?」

 

 ナディアは少しだけ唇を噛んだ。

 

「わかりません」

 

 その言葉は小さかった。

 だが、はっきりとした重さがあった。

 

「空欄にして」

「はい」

 

 ナディアは頷き、入力欄を操作する。

 画面の横に、名前欄のない子供たちが並んでいく。

 番号だけが並び、その隣に空白が続く。

 

 空欄。

 それは、まだ取り戻せていない名前だった。

 アラタは画面に手を置いた。

 冷たい。

 端末の表面は滑らかで、まるで人間の体温を拒むようだった。触れているのに、触れていないような感覚。そこにあるのはただの素材であり、意思も温度も持たない。

 

 それでも、この冷たい面の向こうに、たくさんの人間がいる。

 その事実だけが、かろうじて現実を繋ぎ止めていた。

 

 「全員、聞いてください」

 

 アラタは一度だけ深く息を吸い込み、喉の奥に溜まっていた緊張を押し出すように言葉を発した。その声は決して大きくはなかったが、通信回線を通じて確かに全員へ届いていく。

 通信越しに、複数の呼吸が聞こえた。

 

 ヨナ。

 ジブリール。

 サミル。

 ソフィア。

 オマル。

 レーム。

 ココ。

 ワイリ。

 マオ。

 ウゴ。

 そして、まだ名前を呼ばれていない者たちも含めて、全員がこの作戦の中にいる。

 

 それぞれ違う場所にいる。

 それぞれ違うものを見ている。

 だが、今だけは同じ画面の上にいた。

 アラタはそれを意識して、少しだけ嫌になる。

 

 みんなが点に見える。

 ただの座標。

 ただの対象。

 ただの「管理される存在」。

 それでも、彼は知っている。

 

 ヨナは点ではない。

 ジブリールは点ではない。

 サミルも、ナディアも、ソフィアも、ミラも、オマルも。

 ココも、レームも、バルメも、ウゴも、マオも、ルツも、ワイリも、東條も。

 誰も点ではない。

 画面がどう表示しようと、そこには人間がいる。

 その事実だけは、絶対に手放してはいけない。

 アラタはそう自分に言い聞かせながら、次の指示を出した。

 

「まず、コンテナヤード奥の二人を止めます。ジブリール、サミル、聞こえる?」

『聞こえてる』

 

 ジブリールの声は硬い。短く、無駄がない。だが、その奥には焦りと苛立ちが混じっているのがわかる。

 

『聞こえます!』

 

 サミルの声は少し上ずっていた。

 

「正面から近づかない。C-217とC-224は、白い車両の後ろを歩かされています。そばに警備が二人。だけど、三十秒後に鉱石搬送トラックが前を横切る」

 

 アラタは画面を見ながら、タイミングを計算する。トラックの速度、警備の視線、周囲の遮蔽物。すべてを頭の中で組み合わせる。

 

『その隙に?』

 

 ジブリールがすぐに食いつく。

 

「見つけるだけ。まだ連れ出さない」

『また待つの?』

 

 その一言には、明確な不満が込められていた。

 

「うん」

 

 短く答えた。

 それ以上の説明はしない。今は時間がないし、言葉を重ねても納得するとは限らない。

 ジブリールが何か言いかけた気配がした。

 だが、彼女は飲み込んだ。

 

『わかった』

 

 それだけだった。

 アラタは画面を見ながら続ける。

 

「ヨナ」

『聞こえてる』

 

 低く、落ち着いた声。

 

「検査棟へ向かう二人を見て。C-112とC-203。名前はまだわからない。警備は少ないけど、扉が閉まると追えなくなる」

 

『止めるのか』

「止めない。扉が閉まる前に中を見る」

 

 あえて曖昧な指示ではなく、目的だけを伝える。

 

『わかった』

「一人で行かないで」

 

 アラタは付け加えた。

 ほんのわずかな間。

 

『……』

 

 返答が遅れる。

 

「ヨナ」

『バルメが近くにいる』

 

 通信の向こうでバルメの声が入る。

 

『私が見ている』

 

 その声は静かで、しかし確かな重みがあった。

 

「お願いします」

『任せろ』

 

 アラタは少しだけ安堵した。

 ヨナ一人ではない。

 それだけで、判断の幅が広がる。

 だが、次の画面を見た瞬間、その安堵は消える。

 地下搬送区画へ向かうC-301。

 その動きが速い。

 他の子供たちとは明らかに違うルート。

 警備も多い。

 他の子供たちとは違う扱いを受けている。

 

「ナディア、C-301は?」

「詳細不明です。でも、他と違います。分類が……」

 

 ナディアの指が素早く動く。

 画面が拡大され、情報が重ねられていく。

 彼女は一瞬だけ言葉を止めた。

 そこに表示された文字を見て、声が止まった。

 

 特殊訓練適性。

 アラタの表情が変わる。

 

「消して」

「え?」

「その表示、今は見たくない」

 

 ナディアは一瞬だけ迷い、それから表示を畳んだ。

 消えたわけではない。

 隠しただけだ。

 だが、それでよかった。

 今その文字を見続けていたら、判断が歪む。

 アラタは自分でそう思った。

 

 怒りは必要だ。

 だが、怒りだけでは人は救えない。

 アラタは自分でそう思った。

 だから、今は見ない。

 見ないことで、守れる判断もある。

 

「東條さん」

『はい』

 

 落ち着いた声が返る。

 

「地下搬送区画へ向かう一人を追えますか」

『距離があります。ですが、経路は読めます』

 

 即答だった。

 状況を把握した上での、無理のない判断。

 

「無理はしないでください」

『それはこちらの台詞です』

 

 東條の声は変わらない。

 淡々としている。

 だが、その中にわずかな皮肉と、そして信頼が混じっている。

 アラタは少しだけ苦笑した。

 

「……すみません」

『謝罪は後で』

 

 東條の声はいつも通り淡々としていた。

 その淡々さが、今は少しだけ頼もしかった。

 感情に流されない声。

 状況を切り分ける声。

 それが、今のアラタには必要だった。

 

 アラタは画面を切り替える。

 指先がわずかに震えているのを、自分でも感じていた。だが、それを止める余裕はない。画面の中では、複数の点が絶えず動き続けている。止まっているものは一つもない。すべてが流れ、すべてが変化している。

 

「レームさん」

『聞こえてる』

 

 短い返答。だが、その声にはいつもの落ち着きがあった。

 

「外周の追跡車両が二台、五分以内に動きます。ルートは北側と西側、どちらも合流点へ向かう可能性が高いです」

『見えている。ルツとマオを回す』

 

 レームの判断は早い。迷いがない。

 

「マオさんは退路側に残してください。子供を乗せる車が必要になります。もし追跡が来た場合、逃げ道がなくなります」

『了解。ルツだけ回す』

『俺だけかよ』

 

 ルツの声が入る。少し不満げだが、どこか楽しんでいるようでもあった。

 

『働ける男はつらいねえ。こういう時だけ頼られるんだからな』

「撃たないでください」

 

 アラタは即座に言った。

 

『言われなくてもわかってる』

「本当に?」

『おい、信用低くないか』

『日頃の行いね』

 

 ココだった。

 

『ココに言われたくねえ!』

 

 ルツが即座に反論する。

 

『あら、心当たりがあるのね』

『ありすぎて困ってるんだよ!』

 

 短いやり取り。

 だが、その軽口の応酬が、張り詰めた空気をほんの少しだけ緩めた。

 アラタは小さく息を吐く。

 胸の奥に溜まっていた重さが、ほんのわずかに軽くなる。

 画面の点だけを見ていると、人間が薄れていく。

 だが、声を聞けば戻ってくる。

 そこにいるのは点ではない。

 

 面倒で、うるさくて、勝手で、それでも頼もしい人間たちだった。

 アラタはもう一度、画面を見た。

 

「作戦を変えます」

 

 その一言で、通信の向こうが静まり返る。

 誰もすぐには口を開かない。

 それだけ、この言葉の重さを全員が理解していた。

 

「子供たちを一か所へ集めません。敵はそれを待ってる。まとめて捕まえるつもりです。今の配置だと、合流点に集中した瞬間に包囲される可能性が高い」

『じゃあどうするの』

 

 ジブリールが聞いた。

 

「三方向に逃がす。コンテナヤード組は外周の廃ベルトコンベア跡へ。検査棟組は医療搬入口から出す。地下搬送区画の一人は、東條さんが追って、可能なら管理棟裏へ出す」

 

 アラタは画面を指でなぞりながら説明する。

 それぞれのルートが、頭の中で線として繋がっていく。

 

『バラバラに?』

 

 ジブリールの声に、わずかな不安が混じる。

 

「うん。リスクはある。でも、一か所に集めるよりは生存率が高い。最後に採石場じゃなく、第二合流点へ行く」

『第二合流点ってどこ?』

 

 サミルが聞く。まだ地理を完全には把握していない声だった。

 

「オマルさん」

『旧排水路跡だ』

 

 オマルがすぐに答えた。

 

『今は使われていない。車は入れないが、人なら抜けられる。通路は狭いが、その分追跡も入りにくい。出口は鉱山道の外側にある』

 

 その説明は簡潔で、無駄がない。

 現場を知っている人間の言葉だった。

 ジブリールがすぐに続ける。

 

『子供でも?』

『歩ける子ならな。歩けない子は担ぐ』

『誰が』

 

 短い問い。

 だが、その裏には覚悟がある。

 

『お前たちだけにやらせる気はない』

 

 オマルの声は静かだった。

 だが、その静けさの中に確かな意志があった。

 ジブリールは何も返さなかった。

 アラタは続ける。

 

「ジブリール、サミル。君たちはコンテナヤード側。ヨナとバルメは検査棟側。東條さんは地下。ソフィアは外周で合流点の誘導。オマルさんは第二合流点で受け入れ。マオさんとウゴさんは車両準備。ルツさんは追跡車両を遅らせる。ワイリさんは扉と通信を見てください」

 

 役割が次々と割り振られていく。

 誰がどこで何をするのか。

 それが明確になるほど、全体の輪郭が浮かび上がる。

 

『注文が多いな』

 

 ワイリがぼやく。

 

「お願いします」

『そういう言い方はずるいぞ』

「すみません」

『謝るな。やる』

 

 ワイリの声は、結局いつも通りだった。

 文句を言いながらも、やるべきことはやる。

 その信頼がある。

 ココの声が入る。

 

『私は?』

 

 アラタは一瞬だけ画面を見た。

 管理棟の会議室付近。

 そこにココの位置が表示されている。

 近くにカドリ。

 ヴォルフ。

 さらに少し離れて、エリザの通信反応。

 危険な場所だ。

 だが、同時に重要な場所でもある。

 

「時間を稼いでください」

『得意よ』

「それと、できればカドリを離さないでください」

『どうして?』

「カドリが動くと、管理権限が移ります。彼の端末が、いくつかの扉と車両の承認に紐づいている。彼がその場にいるだけで、こちらの動きが通りやすくなる」

『つまり、人質にしろと?』

「違います」

『冗談よ』

「冗談に聞こえません」

『失礼ね』

 

 ココは楽しそうに笑った。

 

『わかったわ。書類で殴ってくる男を、こっちは会話で縛っておく』

「お願いします」

『了解、指揮官』

 

 その呼び方に、アラタは少しだけ息を止めた。

 指揮官。

 その言葉は、重い。

 責任の重さをそのまま押し付けてくるような響きがある。

 嫌いな言葉だった。

 できれば、ずっと避けていたかった。

 

 だが今は、その言葉から逃げられない。

 彼が選ばなければ、誰かが取り残される。

 彼が見なければ、誰かが消える。

 アラタは画面に向き直った。

 

「開始します」

 

     *

 

 コンテナヤードでは、鉱石を積んだトラックがゆっくりと動き始めていた。

 

 昼間の熱をまだ残した地面からは、じわりとした熱気が立ち上り、空気は重く濁っている。遠くでは金属同士がぶつかる鈍い音が響き、クレーンの軋む音が規則的に繰り返されていた。ここでは常に何かが動いている。止まることのない流れの中で、人も物もただ運ばれていく。

 黒い粉塵を巻き上げながら、巨大な車体が白い車両の前を横切る。タイヤが地面を擦る低い振動が足元から伝わり、視界が一瞬だけ完全に遮られる。粉塵が風に乗って広がり、視界を曇らせる。作業員たちの怒鳴り声が重なり、苛立ちと疲労が混じった声が空気を震わせる。警備員の視線も自然とそちらへ流れ、注意がわずかに逸れた。

 

 そのほんの一瞬の隙。

 ジブリールとサミルが動いた。

 走るのではない。

 走れば目立つ。音も出る。視線を引き寄せる。

 だから、彼らは流れに紛れる。

 

 作業員の影に溶け込むように、低く、速く、しかし決して急ぎすぎない速度で移動する。周囲の動きと同調し、違和感を消す。視線を避けるのではなく、視線の中に自然に入り込む。

 

 サミルは息を殺していた。

 胸が苦しい。

 呼吸を浅くしすぎて、肺が焼けるように痛む。

 怖い。

 手が汗で湿る。

 それでも足は止めない。

 止まれば終わる。

 ジブリールが前にいる。

 彼女の背中は小さい。

 

 だが、その動きには迷いがない。

 一歩一歩が確かで、無駄がない。

 その背中を見ていると、不思議と足が動いた。

 怖さが消えるわけではない。

 それでも、進める。

 

『右、二歩下がって』

 

 アラタの声が耳元に届く。

 冷静で、迷いのない声。

 ジブリールは反射的に従う。

 直後、警備員の一人がこちらを向いた。

 鋭い視線が、さっきまで自分たちがいた位置をなぞる。

 もしさっきの位置にいれば、確実に視界に入っていた。

 ジブリールは小さく舌打ちする。

 

「見えてるんだ」

『見えてる』

「でも、助かる」

『うん』

 

 短いやり取り。

 それだけで十分だった。

 二人は白い車両の後方へ回り込む。

 車体の影に入ると、外の喧騒が少しだけ遠くなる。だが、完全に遮断されるわけではない。むしろ、音の反響が変わり、別の緊張感が生まれる。

 そこにいた子供たちは、まだ移動を待たされていた。

 二人。

 

 C-217。

 C-224。

 

 番号しかわからない。

 片方は少女だった。十二歳くらい。灰色の作業服の袖を握りしめている。もう一人は少年で、足元を見たまま動かない。

 ジブリールは近づき、低い声で言った。

 

「こっちを見るな」

 

 子供たちは反応しない。

 聞こえていないのか、それとも反応することを恐れているのか。

 

「そのまま聞いて」

 

 少女の肩がわずかに震えた。

 

「逃げるよ。今じゃない。合図したら、左のコンテナの間に入って」

 

 少年が小さく言う。

 

「命令?」

 

 その言葉はかすれていた。

 だが、はっきりとした意味を持っていた。

 ジブリールは一瞬だけ言葉を飲み込む。

 白い学校。

 リアム。

 同じ問い。

 同じ傷。

 命令かどうかでしか動けない世界。

 

「違う」

 

 彼女は答えた。

 短く、はっきりと。

 

「お願い」

 

 少女が少しだけ顔を上げた。

 その目には、まだ何も信じられない色があった。

 疑いと恐れと、ほんのわずかな期待。

 サミルが小さく笑う。

 

「大丈夫。ジブリールは怖いけど、味方だから」

「怖くない」

 

 ジブリールが即座に言った。

 サミルは少女へ小声で言う。

 

「ほら、怖い」

 

 少女の目がわずかに揺れた。

 ほんの少しだけ。

 笑ったわけではない。

 だが、固まっていた表情にひびが入った。

 それだけで、サミルは少しだけ安心した。

 

『十秒後、前方の警備が移動します』

 

 アラタの声。

 

『合図で左』

 

 ジブリールは頷く。

 子供たちにも小さく言う。

 

「三つ数えたら」

 

 少女と少年がかすかに頷く。

 サミルは周囲を見た。

 警備員が無線に気を取られる。

 別の方向から呼び出しが入ったのか、視線がそちらへ向く。

 トラックがもう一台、視界を塞ぐ。

 粉塵がさらに濃くなり、空気が白く濁る。

 音が重なり、視界が揺らぐ。

 その瞬間が、唯一のチャンスだった。

 ジブリールが囁く。

 

「一」

 

 金属音。

 

「二」

 

 怒鳴り声。

 

「三」

 

 四人は同時に動いた。

 

     *

 

 検査棟の入口は、遠目にはどこにでもある小さな医療施設のように見えた。

 

 白く塗られた壁は、ところどころ塗り直された跡があり、均一ではない光沢を放っている。蛍光灯の光がその表面に反射して、妙に冷たい印象を与えていた。

 消毒液の匂いが鼻を刺す。強すぎるほどの清潔さを演出するその匂いは、安心感よりもむしろ違和感を呼び起こす。何かを隠すために上塗りされたような、そんな不自然さがあった。

 簡易ベッドが壁際に並び、白いシーツがきっちりと張られている。だが、その整然さは患者を迎えるためのものではなく、効率よく人を処理するための配置に見えた。

 

 検査用の机には、無機質な器具が並べられている。体温計や血圧計に似たものもあるが、それらはどこか用途が違うようにも見える。記録用の端末が置かれ、そこには数字と記号が淡々と流れていた。

 だが、そこにあるのは治療の空気ではなかった。

 

 選別の空気だった。

 必要なものと不要なものを分けるための、冷たい判断の場。

 ヨナは扉の影に身を潜め、その内部をじっと見つめていた。呼吸を浅くし、気配を消す。視線だけが鋭く動く。

 

 C-112とC-203。

 

 端末に表示された番号と一致する二人の子供が、部屋の中央に並ばされている。

 一人は痩せた少年だった。頬がこけ、腕は細く、骨ばっている。視線は床に落ちたままで、何も見ていないようにも見える。

 もう一人は、髪を短く切られた少女だった。無理やり整えられたようなその髪型は、個性を削ぎ落とすためのものにしか見えない。彼女の目は虚ろで、しかし完全に死んではいない、かすかな抵抗の光が残っていた。

 白衣を着た職員が、淡々と何かを記録している。ペンを走らせる音と、端末の入力音だけが規則的に響く。

 

 子供たちは何も言わない。

 聞かれたことにだけ答え、指示されれば腕を出し、立てと言われれば立つ。その動きには迷いがなく、逆にそれが異様だった。考えることをやめさせられた動き。

 ヨナの隣でバルメが低く言う。

 

「医者には見えないな」

「見るのは身体じゃない」

 

 ヨナが短く答える。

 視線は外さない。

 

「商品価値か」

 

 バルメの声が低くなる。

 ヨナは答えなかった。

 答える必要がなかった。

 

『ヨナ』

 

 通信機からアラタの声が入る。

 その声は落ち着いているが、わずかに緊張が滲んでいる。

 

「聞こえてる」

『二人は三分後に別々の部屋へ移されます。その前に止めてください』

「どうやって」

 

 短く、無駄のない問い。

 

『検査棟の裏口が開きます。今、ワイリさんが準備中です』

『俺は便利屋じゃないぞ』

 

 ワイリの声が割り込む。いつもの調子だが、どこか急いでいる気配もある。

 

『でも今は便利屋です』

 

 ナディアが淡々と言った。

 その言い方に感情はないが、妙に容赦がない。

 

『ナディア、お前までそういうこと言うようになったか』

『事実です』

『みんな冷たい』

 

 ワイリがぼやく。

 ヨナは小さく息を吐いた。

 こういうやり取りがあるだけで、ほんの少しだけ現実に引き戻される。

 目の前の光景だけを見続けていると、胸の奥が冷えすぎて、何も感じなくなりそうだった。

 バルメがヨナを見る。

 

「行けるか」

「行ける」

「無理はするな」

「俺に言うな」

「言う」

 

 短いやり取り。

 それ以上は必要なかった。

 ヨナはそれ以上返さず、再び視線を前へ戻す。

 検査棟の中で、白衣の職員が子供たちへ何かを指示する。声は抑えられているが、その内容は明確だった。

 

 移動が始まる。

 ヨナは扉を開けた。

 大きな音は立てない。

 ただ、そこにいるのが当然であるかのように、自然に中へ入る。

 職員が振り返る。

 

「何だ、君は」

 

 警戒と苛立ちが混じった声。

 

「間違えた」

 

 ヨナは短く言った。

 表情は変えない。

 

「出て行きなさい」

「そっちが間違えてる」

 

 職員が眉をひそめる。

 警備員が一歩前に出た。

 その瞬間、裏口のロックが外れる音がした。

 バルメが動く。

 一歩で間合いを詰め、警備員の前に滑り込む。逃げ場を奪うように視線を断ち、体格差を押し付けて、抗えない壁として立ちはだかる。

 ヨナはその隙に子供たちへ近づいた。

 距離が縮まる。

 少年と少女の顔がはっきり見える。

 

「名前は」

 

 少年は答えない。

 少女も答えない。

 ヨナは少しだけ言葉を探した。

 こういう時、何と言えばいいのかまだうまくわからない。

 それでも言うしかない。

 

「番号じゃない。名前だ」

 

 少女の目が大きく揺れる。

 少年の唇がわずかに動いた。

 

「……ノア」

 

 かすれた声。

 少女は少し遅れて言う。

 

「リナ」

 

 ヨナは頷いた。

 

「ノア、リナ。走れるか」

 

 二人は戸惑う。

 命令を待っている。

 どう動けばいいのか、誰かに決めてもらうことに慣れすぎている。

 ヨナは短く言い直した。

 

「お願いだ。走ってくれ」

 

 その言葉はぎこちなかった。

 だが、確かに命令ではなかった。

 その違いが、二人に伝わる。

 ノアの足がわずかに動く。

 リナもそれに続く。

 バルメが裏口を指す。

 

「こっちだ」

 

 職員が叫ぶ。

 

「止めろ!」

 

 警備員が動く。

 だが、バルメがその進路を塞いだ。

 

「通すなとは言われていない」

 

 ヨナがその言葉を聞いて、少しだけ眉を寄せる。

 

「ココみたいなことを言うな」

「便利だった」

 

 バルメは平然と答えた。

 二人の子供は裏口から外へ出る。

 外ではマオが待っていた。

 

「こっち!」

 

 彼女が手を振り、二人を誘導する。

 ノアとリナは一瞬だけ振り返る。

 ヨナと目が合う。

 その目にはまだ不安がある。

 だが、ほんの少しだけ、違う光も混じっていた。

 

 ヨナは最後に部屋を振り返った。

 白衣の職員が怯えた顔でこちらを見ている。

 その顔には、理解できないものを見る恐怖が浮かんでいた。

 ヨナは何も言わなかった。

 ただ、その視線だけを残して外へ出た。

 

     *

 

 地下搬送区画へ向かった東條は、一人で細い通路を進んでいた。

 背後にはアラタの声が、一定の間隔で静かに届いている。焦りを抑えたその声は、状況を整理しながらも、どこかで必死に均衡を保とうとしている響きを含んでいた。

 横にはナディアの情報が流れ続ける。位置、距離、警備の動き、扉の開閉。数字と記号の羅列だが、その一つ一つが現実の危険と直結している。

 

 前方には、C-301。

 

 名前のない子供。

 地下搬送区画は、地上とは違う静けさに包まれていた。車両用の小型搬送路があり、壁際には金属製の棚や箱が並んでいる。物資の出入りに使う場所だろう。だが、床には子供用と思われる小さな靴跡も残っていた。

 

 東條はそれを見た。

 表情は変えない。

 だが、視線だけがほんのわずかに冷たくなる。

 その痕跡が意味するものを、彼は理解していた。

 

『東條さん、前方に警備二人』

 

 ナディアの声が入る。

 落ち着いているが、わずかに緊張が混じっている。

 

「確認しています」

 

 東條は短く答える。

 視線はすでに前方の影を捉えていた。

 

『C-301はその奥です』

「状態は」

『移動中。小型搬送車両に乗せられる前です』

「時間は」

『一分ありません』

「了解」

 

 東條は足を止めない。

 だが走らない。

 走れば音が出る。

 音が出れば警戒される。

 彼は自然に歩いた。

 まるでそこを通る権限がある人間のように。

 警備員が彼に気づく。

 

「止まれ」

 

 東條は止まった。

 焦らない。

 慌てない。

 その場にいることが当然であるかのように、わずかに首を傾ける。

 

「管理棟から確認指示です」

 

 淡々と告げる。

 余計な説明はしない。

 説明が多いほど、嘘は露呈する。

 警備員が一瞬迷う。

 その迷いはほんの一瞬だが、十分だった。

 

 東條は小さな書類端末を見せる。

 ワイリが一時的に作った偽の表示だった。

 詳細は見せない。

 見せる必要もない。

 人間はそれらしい画面を見ると、確認した気になる。

 

「確認番号は」

 

 警備員が聞く。

 東條は答えない。

 代わりに相手をまっすぐ見る。

 

「そちらへ送信されています」

 

 言い切る。

 疑いを挟ませない。

 警備員が端末を見る。

 その瞬間、彼の端末に通知が入った。

 ワイリの声が通信に入る。

 

『雑なのは嫌いだが、雑に見せないのは得意だ』

 

 東條は小さく答えた。

 

「助かります」

 

 警備員は端末を見て、眉をひそめる。

 そこには確認中と表示されているだけだった。

 だが、それだけで足りた。

 確認中。

 責任は自分にない。

 そう思わせるには十分だった。

 その隙に、東條は奥へ視線を向ける。

 小さな子供がいた。

 

 C-301。

 

 十歳前後の少年。

 手首に識別帯。

 足元には小さなバッグ。

 泣いてはいない。

 だが、顔に表情がない。

 東條はその表情を見て、ほんの少しだけ目を細めた。

 恐怖ではない。

 諦めでもない。

 何も期待しない顔だった。

 

「確認します」

 

 東條は警備員の横を通る。

 警備員が止めようとした瞬間、通路の照明が一瞬だけ暗くなった。

 ワイリの仕業だった。

 完全な停電ではない。

 だが、人間が反射的に視線を上げるには十分だった。

 東條はその一瞬で少年の前に立った。

 

「名前は」

 

 少年は答えない。

 視線だけが東條を捉える。

 警戒でも拒絶でもない。

 ただ、観察するような目。

 東條はしゃがんだ。

 視線の高さを合わせる。

 声を少しだけ落とす。

 

「番号ではなく、名前を教えてください」

 

 少年は東條を見た。

 長い沈黙。

 時間がない。

 背後で警備員が動く気配がある。

 それでも東條は急かさなかった。

 急かせば、閉じる。

 この種の沈黙は、無理に破るものではない。

 

「……エミル」

 

 小さな声。

 かすれるような音。

 

「エミル。歩けますか」

 

 少年は首を横に振った。

 足が震えている。

 長時間の拘束か、恐怖か、あるいはその両方。

 東條は頷いた。

 

「わかりました」

 

 彼は少年を抱き上げた。

 軽い。

 想像よりもずっと軽い。

 その軽さが、逆に重く感じられた。

 警備員が叫ぶ。

 

「何をしている!」

「確認が必要です」

 

 東條は淡々と言った。

 

「医療確認です」

「そんな指示は――」

 

 その時、警備員の無線が混線した。

 別方向から警報が流れる。

 検査棟。

 コンテナヤード。

 搬送区画。

 複数の異常報告が同時に入る。

 声が重なり、情報が錯綜する。

 警備員の判断が乱れる。

 

 東條はその間に歩き出した。

 走らない。

 だが、止まらない。

 一定の速度で、確実に距離を取る。

 腕の中で、エミルが小さく言う。

 

「戻される?」

 

 その声には、期待も恐怖も混ざっている。

 どちらともつかない、不安定な響き。

 

「戻しません」

「命令?」

 

 東條は一瞬だけ考えた。

 言葉を選ぶ。

 

「いいえ」

 

 そして、少しだけぎこちなく続けた。

 

「約束です」

 

 その言葉は、彼にとっても慣れないものだった。

 命令ではなく、約束。

 強制ではなく、意思。

 エミルはその言葉を理解するのに時間がかかった。

 だが、やがて小さく息を吸う。

 そして、東條の服を小さく握った。

 

 その力は弱かった。

 だが、確かに握っていた。

 離さないという意思が、そこにはあった。

 

     *

 

 管理棟の会議室では、ココがカドリと向かい合っていた。

 室内は静かだった。外の喧騒とは対照的に、厚い壁と防音材に守られた空間は、まるで別世界のように落ち着いている。だが、その静けさは安らぎではなく、むしろ張り詰めた緊張を際立たせていた。

 

 カドリは明らかに焦り始めている。

 

 額にはうっすらと汗が浮かび、指先は机の上でわずかに動いていた。普段なら見せない小さな癖だ。彼自身もそれに気づいているのか、時折手を止めては姿勢を正すが、完全には抑えきれていない。

 外では複数の異常報告が出ていた。コンテナヤード、検査棟、地下搬送区画。それぞれ違う場所で、小さな歯車が狂い始めている。

 

 それは単なるトラブルではない。連鎖している。誰かが意図的に、複数の箇所を同時に揺らしている。

 

 だが、カドリは動けない。

 ココがいる。

 目の前で笑っている。

 それだけなのに、動きづらい。

 彼女は武器を構えているわけでもない。脅しているわけでもない。ただ椅子に座り、足を組み、楽しそうにこちらを見ているだけだ。

 それなのに、動けば何かを失う気がする。

 その感覚が、カドリの判断を鈍らせていた。

 

「現場が騒がしそうね」

 

 ココが言った。

 軽い調子だった。まるで天気の話でもするかのように。

 

「通常の作業です」

「通常って便利」

 

 ココは肩をすくめる。

 

「何が起きても、通常って言えば済むものね」

「ミス・ヘクマティアル」

 

 カドリの声に、少しだけ苛立ちが混じる。

 

「あなたは何をしているのですか」

「見学」

 

 即答だった。

 

「これは見学ではありません」

「じゃあ何?」

「妨害です」

「いいえ」

 

 ココはにっこり笑った。

 その笑顔は柔らかいが、どこか底が見えない。

 

「勉強よ」

 

 カドリは黙った。

 その言葉の意味を測ろうとするが、測れない。彼女は本気で言っているのか、それともただの挑発なのか。

 その沈黙の中で、ココの通信機が小さく鳴る。

 アラタの声。

 

『コンテナヤード組、移動開始。検査棟組、外へ。地下の一人、東條さんが確保』

「順調?」

『今のところは』

「その言い方、だいたい順調じゃない時の言い方よ」

『はい』

 

 ココは笑った。

 

「正直でよろしい」

 

 カドリが立ち上がる。

 

「これ以上は許可できません」

「何を?」

「あなた方の行動すべてです」

「許可制だったの?」

 

 ココは首を傾げる。

 

「ここは共和国政府の管理施設です」

「本当に?」

 

 ココは机に置かれた書類を一枚持ち上げた。

 紙の端を指で軽く弾きながら、そこに並ぶ名前を眺める。

 

「ここ、管理者の名前が多すぎるのよ。共和国政府、資源復興庁、民間鉱山会社、グレイ・ハウンド、支援財団、関連物流会社」

 

 彼女は一つ一つ指でなぞるように読み上げる。

 

「責任者が多い場所って、だいたい誰も責任を取らないの」

 

 カドリの目が細くなる。

 

「侮辱ですか」

「分析」

「根拠は?」

「経験」

「主観ですね」

「ええ」

 

 ココは笑う。

 

「人間なんて主観の塊よ」

 

 その言葉は、エリザへ言ったものと同じだった。

 カドリには響かなかった。

 だが、それでいい。

 響かせるために言ったのではない。

 時間を稼ぐために言ったのだ。

 レームが窓際で言う。

 

「ココ、外周が動いた」

「どれくらい?」

「追跡車両二台。あと警備班がコンテナヤードへ」

「ルツ」

 

 ココが通信を開く。

 

『聞こえてる。足止めしてる』

 

 ルツの声は軽いが、その裏に緊張がある。

 

「ほどほどに」

『わかってるって』

 

 ココはカドリを見る。

 その視線は柔らかいが、逃がさない。

 

「忙しそうね」

「あなた方のせいです」

「そうかも」

「認めるのですか」

「嘘をつく必要がない時は、正直なの」

 

 カドリは完全に笑みを消した。

 その瞬間、会議室の扉が開いた。

 空気がわずかに動く。

 ヴォルフが入ってくる。

 足取りは速いが、慌ててはいない。状況を把握した上で、最短の判断を選んでいる動きだった。

 

「カドリ、外へ出るな」

「しかし」

「今動けば狙われる」

「狙われる?」

「情報を持っていると思われている」

 

 ヴォルフはココを見た。

 その視線には警戒と、わずかな興味が混じっている。

 

「実際、持っているんだろう」

 

 ココは答えない。

 ただ笑う。

 ヴォルフはため息を吐いた。

 

「面倒な女だ」

「よく言われる」

「褒めていない」

「知ってる」

 

 ヴォルフはレームを見る。

 レームもまた彼を見ていた。

 兵士同士の距離だった。

 敵ではある。

 だが、互いに相手が何をする人間かは理解している。

 

「ここで撃つ気はない」

 

 ヴォルフが言った。

 その言葉は宣言であり、同時に牽制でもあった。

 レームは頷く。

 

「俺も今は撃つ気がない」

「今は、か」

「お互い様だろ」

「違いない」

 

 その短いやり取りの間にも、外の状況は動いていた。

 警報が遠くで鳴り、無線の声が重なり、車両のエンジン音が低く響く。

 この静かな会議室の外で、すべてが崩れ始めている。

 そして、その崩れを引き起こしている中心に、今ここにいる者たちがいるのだった。

 

     *

 

 第二合流点へ向かう旧排水路跡は、狭く暗かった。かつて水が流れていた名残なのか、壁面には黒ずんだ筋が幾重にも残り、足元には乾ききらない泥が薄く広がっている。空気はひんやりとしているのに、どこか湿り気を帯びていて、息を吸うたびに喉の奥に重さが残った。遠くで水滴が落ちる音が、規則的とも不規則ともつかない間隔で響き、そのたびに空間の広さと閉塞感が同時に意識される。

 

 最初に到着したのは、ジブリールとサミルの組だった。

 

 C-217とC-224。

 

 名前はまだわからない。

 少女と少年。

 二人は息を切らし、何度も後ろを振り返る。振り返るたびに肩がびくりと揺れ、足取りがわずかに乱れる。そのたびにジブリールは舌打ちしたくなる衝動を抑えた。怖いのはわかる。自分だって怖くないわけじゃない。それでも、ここで立ち止まれば終わる。

 ジブリールは言った。

 

「後ろ見るな。前だけ見て」

 

 声は低く、短い。命令のようでいて、どこか焦りも混じっている。

 少女が震える声で言う。

 

「怒られる」

 

 その言葉は、まるで反射のように出てきたものだった。考えて言ったのではなく、体に染みついた恐怖がそのまま言葉になったような響き。

 

「誰に」

「戻らないと」

「戻らない」

「でも」

 

 その「でも」は小さく、弱く、それでも確かにそこにあった。

 ジブリールは足を止めた。

 本当は止まりたくない。

 追跡が来るかもしれない。

 時間がない。

 ここで一秒でも無駄にすれば、その分だけ危険が増える。

 だが、このまま引っ張れば、少女は途中で動けなくなる。恐怖に足を取られて、完全に止まってしまう。それはもっと危険だ。

 ジブリールはしゃがんだ。少女と目線を合わせるために、わざと低くなる。

 

「名前は?」

 

 少女は答えない。

 少年も黙っている。

 二人とも、質問の意味を理解していないわけではない。ただ、答えていいのかどうかがわからないのだ。名前を言うことが許されていたのかどうか、その記憶すら曖昧になっている。

 

「番号じゃない。名前」

 

 ジブリールは少しだけ言い方を変えた。強くなりすぎないように、でも逃げ道を与えないように。

 サミルが横から言う。

 

「名前を言うと、ちょっとだけ強くなるよ」

 

 軽い調子だったが、その言葉には実感がこもっていた。

 少女が彼を見る。

 

「本当?」

「たぶん」

 

 サミルは肩をすくめる。

 

「たぶん?」

「僕はそうだった」

 

 サミルは少し恥ずかしそうに笑った。自分のことを話すのは、まだ少し照れくさい。

 

「アラタに名前を呼ばれた時、ちょっとだけ戻ってきた気がした」

 

 その言葉に、ジブリールは一瞬だけサミルを見た。何も言わないが、否定もしない。

 少女は長く黙った。唇を噛み、視線を落とし、何かを探すように自分の内側を見つめる。

 それから、小さな声で言う。

 

「……アイシャ」

 

 その名前は、かすれていたが確かにそこにあった。

 少年も少し遅れて言った。

 

「ラフィ」

 

 ジブリールは頷いた。

 

「アイシャ。ラフィ。行くよ」

 

 二人の目が揺れる。

 名前で呼ばれた。

 それだけなのに、胸の奥に何かが触れたような感覚があった。忘れていたものを、ほんの少しだけ思い出したような。

 足が少し動く。

 さっきまで重かった足が、ほんのわずかに軽くなる。

 ジブリールは立ち上がる。

 

「走れる?」

 

 アイシャは小さく頷いた。まだ不安は消えていないが、さっきよりも視線が前を向いている。

 ラフィも頷く。彼はまだ無言だが、その頷きにはさっきよりも意志があった。

 サミルが笑う。

 

「よし。じゃあ行こう」

 

 その声は明るく、少しだけ場の空気を軽くする。

 その時、通信からアラタの声が入った。

 

『ジブリール、後方から警備一人。右の排水溝跡へ』

 

 冷静で、しかし急かすような響き。

 

「わかった」

『無理に走らないで』

「わかってる」

『本当に?』

「本当に!」

 

 ジブリールは少し怒ったように返した。だが、その怒りは完全なものではなく、どこか照れ隠しのようでもあった。

 彼女はアイシャとラフィの背中を軽く押す。

 

「右だ。ついてきて」

 

 二人は頷き、サミルとともに狭い排水溝跡へと身を滑り込ませる。足元はさらに悪く、滑りやすい。それでも、さっきよりも足取りは確かだった。

 見えている。

 アラタが見ている。

 安心する。

 危険が近づけば教えてくれる。道を間違えれば修正してくれる。その存在が、確かに背中を押している。

 

     *

 

 検査棟から逃げたノアとリナは、バルメとヨナに連れられて別ルートへ向かっていた。

 

 背後ではまだ警報の残響がかすかに響いている。白い壁に反射したその音は、どこか現実感を失っていて、まるで遠くの出来事のようにも感じられた。それでも、足を止めればすぐに追いつかれるという確信だけは、四人の間に共有されていた。

 

 ノアは何度も振り返る。

 振り返るたびに、そこに誰もいないことを確認しているのか、それとも誰かが来ることを恐れているのか、自分でもわからないまま首を動かしていた。呼吸は浅く、肩が上下するたびに胸の奥が痛む。

 

 リナは黙っている。

 だが手が震えていた。

 指先が小刻みに揺れ、袖を握る力が強くなったり弱くなったりを繰り返している。その震えは寒さのせいではない。恐怖と、まだ理解しきれていない状況への戸惑いが混ざり合ったものだった。

 

 ヨナはそれに気づき、何も言わずに少し速度を落とした。

 ほんのわずかな調整だったが、子供たちにとっては大きな違いだった。息を整える余裕が生まれ、足のもつれも減る。ヨナ自身はそれを意識してやったわけではない。ただ、自然とそうしていた。

 バルメが横目で見る。

 

「優しいな」

「違う」

 

 ヨナは即座に否定する。

 

「何が違う」

「走れないと困る」

「そういうことにしておく」

 

 バルメは肩をすくめるようにして言った。その声音にはからかいが混じっているが、完全な冗談でもなかった。

 ヨナは不機嫌そうに眉を寄せた。

 リナが小さく言う。

 

「怒ってる?」

 

 ヨナは彼女を見る。

 

「誰が」

「あなた」

「怒ってない」

「顔が怖い」

 

 バルメが少しだけ笑う。

 

「それはいつもだ」

「うるさい」

 

 ヨナは短く言った。

 リナはほんの少しだけ目を瞬かせた。

 怖い大人だと思っていた相手が、隣の女性にからかわれている。

 その光景が少しだけ不思議だったのかもしれない。絶対的な存在だと思っていた大人にも、こういうやり取りがあるのだと、ほんのわずかに現実が揺らぐ。

 ノアが言う。

 

「戻らなくていいの?」

「いい」

 

 ヨナは即答した。

 

「でも、点呼が」

「もうない」

「でも」

「ない」

 

 強い声だった。

 ノアは肩を震わせる。

 その反応を見て、ヨナは自分の声が強すぎたことに気づいた。

 少しだけ言葉を探す。

 どう言えばいいのか、まだうまくわからない。それでも、さっきの言い方では足りないことだけは理解していた。

 

「……戻らないでいい」

 

 今度は少しだけ声を落とした。

 

「名前で呼ばれる場所へ行く」

 

 ノアはその言葉を聞いて、黙った。

 その意味を完全に理解したわけではない。ただ、「戻らなくていい」という言葉と、「名前で呼ばれる」という響きが、胸の奥に引っかかる。

 リナは小さく頷いた。

 彼女の中では、その言葉はすでに答えになっていたのかもしれない。

 

『ヨナ、前方左に警備』

 

 アラタの声。

 ヨナはすぐに足を止める。

 バルメも同時に動いた。

 二人の動きはほとんど同時で、言葉を交わす必要もなかった。長く戦場にいた者同士の、無言の連携だった。

 

「見えてるのか」

「らしい」

「便利だな」

「嫌な便利さだ」

 

 ヨナは短く答えた。

 便利なものは怖い。

 それはアラタだけではなく、ヨナも感じていた。

 人の位置が見える。

 危険がわかる。

 逃げ道が示される。

 それは助かる。

 

 だが、画面の向こうで誰かに動かされているような感覚もある。

 もし相手がアラタでなければ、ヨナは従わなかったかもしれない。

 

 いや。

 アラタだからというより。

 アラタの声に、子供を数字として見ていない響きがあるから従っているのかもしれない。

 あの声は、位置や番号を伝えていても、その奥に「人」を見ている気配がある。

 それがなければ、ただの命令にしか聞こえなかっただろう。

 ヨナはそう思って、少しだけ嫌な顔をした。

 考えることが増えている。

 それが面倒だった。

 そして、その面倒さを完全には嫌いになれない自分がいることも、また面倒だった。

 

     *

 

 地下搬送区画から出た東條は、エミルを抱えたまま狭い管理通路を進んでいた。

 

 通路は低く、天井には配線がむき出しのまま走っている。ところどころで蛍光灯がちらつき、白い光が不規則に明滅していた。そのたびに影が揺れ、空間そのものが不安定に見える。足音は金属の床に吸い込まれるように響き、わずかな反響が遅れて返ってくる。

 

 エミルは腕の中で静かだった。

 泣きもしない。

 暴れもしない。

 ただ、東條の服を握っている。

 その指先は小さく、しかし確かな力で布を掴んでいた。離れたくないという意思が、言葉よりもはっきりと伝わってくる。

 

 東條はその重みを感じながら歩いていた。

 軽い。

 だが、その軽さが逆に胸に残る。

 この程度の重さの子供が、ここで運ばれていたという事実が、静かに積み重なっていく。

 

『東條さん、右の通路は閉鎖されます』

 

 アラタの声が耳元に届く。

 わずかに息が上がっている。複数の状況を同時に見ている負荷が、その声に滲んでいた。

 

「左ですか」

『はい。ただし左は警備が近い』

「了解」

『無理は』

「しません」

 

 東條は即答した。

 彼は無理をするタイプではない。

 必要なことをするタイプだ。

 だからこそ、アラタにとっては頼もしい。

 東條は左の通路へ入る。

 

 空気が少しだけ変わる。人の気配が近い。

 前方に警備員の声。

 近い。

 エミルが小さく身を縮める。

 

「怖いですか」

 

 東條が聞いた。

 声は低く、落ち着いている。

 急かさない。

 押しつけない。

 ただ、そこにある感情を確認するような問いだった。

 エミルは答えない。

 だが、服を握る手に力が入った。

 その沈黙が答えだった。

 

「怖いなら、怖いと言って構いません」

 

 エミルは少しだけ顔を上げる。

 東條の顔を見た。

 その表情は変わらない。

 だが、拒絶もない。

 

「言っていい?」

「はい」

「怖い」

 

 小さな声だった。

 それでも、はっきりとした言葉だった。

 

「わかりました」

 

 東條は頷いた。

 その言葉を受け止めるように。

 

「では、怖いまま行きます」

 

 エミルはきょとんとした。

 

「怖いまま?」

「怖くなくなるのを待つ時間がありません」

 

 東條は淡々と言った。

 

「ですが、怖くても進むことはできます」

 

 エミルはしばらく考えた。

 その言葉の意味を、自分なりに理解しようとしているようだった。

 怖いままでもいい。

 怖くてもいい。

 それでも進める。

 それは、今まで教えられてきたこととは違う考え方だったのかもしれない。

 やがて、小さく頷く。

 

「怖いまま行く」

「はい」

 

 東條はその答えを受け取り、歩みを止めなかった。

 角を曲がる。

 視界が開ける。

 

 警備員が一人、通路の先にいた。

 東條は止まらない。

 警備員が気づく。

 

「おい」

 

 東條は端末を見せる。

 動きに迷いはない。

 

「医療搬送です」

「聞いていない」

「今、聞きました」

 

 警備員が一瞬戸惑う。

 そのわずかな間が重要だった。

 責任の所在が曖昧になる瞬間。

 確認が必要だと思わせる隙。

 

 その瞬間、通路の奥で警報が鳴った。

 別方向の扉が誤作動したかのように開閉を繰り返す。

 ワイリの声。

 

『通れ』

 

 短く、的確な指示。

 東條は歩き続ける。

 警備員は無線を取ろうとする。

 視線がそちらへ逸れる。

 その間に、東條は通路を抜けた。

 振り返らない。

 速度も変えない。

 ただ、自然にその場を離れる。

 エミルが小さく言う。

 

「今の、嘘?」

「はい」

「嘘ついていいの?」

「場合によります」

「場合」

「人を助ける時などです」

 

 東條は答える。

 簡潔に。

 だが、曖昧さを残したまま。

 エミルは少しだけ考えた。

 その言葉をどう受け取るか、迷っているようだった。

 

「難しい」

「ええ」

 

 東條は静かに答えた。

 

「とても難しいです」

 

     *

 

 イルミネーターの前で、アラタは汗をかいていた。

 地下の空気は冷たい。

 それなのに、背中にはじっとりと汗が滲んでいる。

 首筋を伝う汗が襟元へ落ち、服の内側に張り付く感覚が不快だった。

 呼吸は浅くなり、胸の奥がじわじわと圧迫される。

 画面上の点は動き続ける。

 

 ジブリールたち。

 ヨナたち。

 東條。

 警備。

 追跡車両。

 閉じる扉。

 動く車両。

 

 それぞれが別々の速度で、別々の方向へ、しかし確実に何かへ収束するように動いている。

 すべてが同時に流れ込んでくる。

 視界の端から端まで、情報が溢れ、重なり、押し寄せる。

 見える。

 見えてしまう。

 その情報量は、目ではなく頭の奥を直接揺さぶるようだった。

 思考が追いつく前に、次の情報が押し寄せる。

 判断する前に、選択を迫られる。

 ナディアが横で補助している。

 彼女の指は迷いなく動き、必要な情報だけを抽出し、アラタの視界へと整理して送り込んでくる。

 

「コンテナヤード組、第二合流点へ向かっています」

「追跡は」

「一人。ソフィアが間に入っています」

「ソフィア」

『聞こえてる』

 

 軽い声。

 だが、その裏にある緊張は隠しきれていない。

 

「無茶しないで」

『しないしない』

「声が信用できない」

『アラタに言われたくない!』

 

 アラタは少しだけ笑いそうになったが、すぐに画面へ戻る。

 笑っている余裕はない。

 だが、その一瞬のやり取りが、かろうじて自分を現実に繋ぎ止めていた。

 

「ヨナたちは」

「検査棟組、迂回路へ。バルメさんが前方警備を回避しています」

「東條さんは」

「地下から出ます。あと一分」

 

 よし。

 そう思った瞬間、画面に赤い警告が出た。

 鋭い色。

 他の情報を押しのけるように表示される。

 搬出車両、予定変更。

 地下搬送区画から別の子供たちが動く。

 番号が並ぶ。

 

 C-330。

 C-331。

 C-332。

 C-333。

 

 名前欄は空白。

 移送先、BABEL-00承認待ち。

 アラタの指が止まった。

 

「BABEL-00?」

 

 ナディアも画面を見る。

 彼女の表情がわずかに強張る。

 

「知らないコードです」

「ターミナルじゃない?」

「違います。BABEL-03より上位です」

 

 アラタの胸が冷える。

 まだ上がある。

 白い学校の上に鉱山ターミナルがあった。

 そして、鉱山ターミナルの上にBABEL-00がある。

 階層。

 積み重なった構造。

 見えているものはほんの一部に過ぎない。

 画面の中で、四人の子供が別ルートへ動かされている。

 今救出している子供たちとは別。

 完全に別の流れ。

 このままでは消える。

 アラタは一瞬で理解した。

 

 選択。

 また選択だ。

 今進行中の三方向救出を維持するか。

 それともBABEL-00へ向かう四人を追うか。

 

 全部は無理だ。

 全部を助けたい。

 それも本音だ。

 だが、全部に手を伸ばせば、今助けている子供たちまで失う。

 その可能性が現実として突きつけられる。

 エリザの声がスピーカーから響いた。

 

『見えましたか』

 

 アラタは画面を睨む。

 

『それが、あなたの嫌う現実です』

 

 エリザの声は穏やかだった。

 責めるでもなく、嘲るでもなく、ただ事実を提示するような声音。

 

『助けたい子供は常に複数いる。時間は足りない。人員も足りない。情報も足りない。だから選別が必要になる』

「黙ってください」

『あなたも選ぶでしょう』

「黙ってください」

『誰を救い、誰を後回しにするのか』

 

 アラタの手が震える。

 ナディアが彼を見る。

 

「アラタ」

 

 彼は歯を食いしばった。

 エリザの言葉は毒だった。

 だが、毒の中に事実が混じっている。

 完全に否定できない。

 だからこそ、刺さる。

 選ばなければならない。

 それは避けられない。

 

 ただし。

 彼は画面を見る。

 BABEL-00へ向かう四人の番号。

 今は追えない。

 距離も、時間も、手段も足りない。

 

 でも、記録は残せる。

 経路を追える。

 次に繋げられる。

 今、すべてを捨てて追うのではない。

 今助けられる子供を助け、次に助けるための道を残す。

 それが順番だ。

 嫌になるほど苦い順番だ。

 だが、それでも順番を守らなければ、何も残らない。

 

「ナディア」

「はい」

「BABEL-00の経路を保存。追跡印を残して」

「はい」

 

 ナディアの指が素早く動く。

 ログが固定され、経路がマーキングされる。

 

「ワイリさん」

『聞こえてる』

「その車両に印をつけられますか」

『物理的には無理だ。だが通信上の癖なら拾える』

「お願いします」

『了解』

 

 エリザの声が少しだけ変わる。

 興味を持ったような、わずかな揺らぎ。

 

『追わないのですか』

「追います」

 

 アラタは答えた。

 

「今じゃない」

『それで、その四人が消えたら?』

 

 アラタの顔が歪む。

 一瞬だけ、感情が表に出る。

 だが、声は崩さなかった。

 

「消させない」

『根拠は?』

「僕が覚えた」

 

 短い沈黙。

 

「ナディアが記録した。ワイリさんが追った。ココさんが使う。だから消えない」

 

 エリザは黙った。

 否定も肯定もしない。

 ただ、その言葉を受け止めた。

 アラタは続ける。

 

「今助けている子たちも、後で助ける子たちも、番号で終わらせない」

 

 画面の中で、BABEL-00へ向かう四つの点が移動していく。

 アラタはその番号を見た。

 忘れない。

 今は名前を知らない。

 でも、空欄のまま残す。

 空欄は、まだ埋められる。

 消えたわけではない。

 まだ途中だ。

 

「今の救出を続けます」

 

 ナディアが頷く。

 

「はい」

 

 アラタは通信を開いた。

 

「全員、変更なし。第二合流点へ」

『了解』

 

 ジブリールの声。

 即答。

 

『でも、何かあったでしょ』

 

 鋭い。

 アラタは一瞬黙った。

 

「後で話す」

『絶対?』

「絶対」

『嘘だったら怒る』

「うん」

 

 ヨナの声が入る。

 

『今は走れ』

『わかってる!』

 

 アラタは画面に戻る。

 点が動く。

 みんなが動く。

 子供たちが逃げる。

 警備が追う。

 扉が閉まる。

 扉が開く。

 車両が動く。

 時間が削れていく。

 一秒ごとに状況が変わる。

 

 アラタは、そのすべてを見ながら、声を出し続けた。

 誰をどこへ。

 どの道を避けるか。

 どこで待つか。

 どこで曲がるか。

 いつ走るか。

 いつ止まるか。

 それは命令ではなかった。

 少なくとも、彼はそうしようとしていた。

 命令ではなく、声。

 駒を動かすのではなく、人を呼ぶ。

 選択を押し付けるのではなく、選択を支える。

 

「ジブリール、アイシャとラフィを先に」

『わかった』

「サミル、後ろを見ないで。二人に声をかけ続けて」

『はい!』

「ヨナ、ノアとリナは曲がった先で止まる。バルメさん、そこから右へ」

『了解』

『わかった』

 

「東條さん、エミルは息が浅いです。少し止まってください」

『承知しました』

「ソフィア、合流点の手前に警備が来ます。見つからないように誘導を変えて」

『注文多い!』

「お願いします」

『やるけど!』

 

「オマル、第二合流点の出口、確保できますか」

『できる。だが時間は短い』

「十分です」

『ココの真似か』

「……すみません」

『謝るな。急げ』

 

 声が繋がる。

 断片だった情報が、声によって一本の流れになる。

 点が声に戻っていく。

 画面の中の数字が、人間に戻っていく。

 少なくとも、アラタの中では。

 

     *

 

 第二合流点に、最初の子供たちが到着した。

 荒れた排水路跡の入口は、昼間でも薄暗く、湿った空気が漂っている。足元には砕けた石や錆びた金属片が散らばり、少しでも気を抜けば転びそうな場所だった。それでも、そこは今、逃げ場として用意された唯一の安全圏だった。

 

 そこへ、最初に飛び込んできたのがアイシャとラフィだった。

 ジブリールが二人の背中を押すようにして、半ば強引に排水路跡の中へと入れる。追われる恐怖がまだ抜けきっていない二人は、足をもつれさせながらも必死に前へ進んだ。

 サミルはその後ろから駆け込み、壁に手をついて息を整えながら、それでも笑顔を浮かべた。

 

「ついた!」

 

 その声には安堵が混じっていたが、まだ完全に気を抜ける状況ではないこともわかっている響きだった。

 アイシャは肩を震わせたまま、その場に立ち尽くしていた。呼吸は浅く、目はまだ周囲を警戒するように揺れている。

 ラフィは膝に手をつき、何度も大きく息を吸っては吐いていた。肺が焼けるように痛むのか、顔をしかめながらも必死に呼吸を整えようとしている。

 

 そんな二人の前に、オマルがゆっくりと歩み寄った。

 彼は慌てる様子もなく、ただ静かに二人の前に立つ。その存在だけで、場の空気が少し落ち着くようだった。

 

「よく来た」

 

 低く、落ち着いた声だった。責める響きも、急かす響きもない。ただ事実を受け止めるような声。

 アイシャは恐る恐る顔を上げ、オマルを見上げる。

 

「怒られない?」

「怒られない」

 

 オマルは即座に答えた。

 

「戻らなくていい?」

「戻らなくていい」

 

 同じ調子で、オマルは繰り返した。

 ラフィが、少し遅れて口を開く。

 

「命令?」

 

 その言葉には、これまでの生活がそのまま滲んでいた。何かをするには命令が必要で、命令がなければ動いてはいけないという感覚。

 オマルは一瞬だけ考えるように目を細めた。

 

「違う」

 

 短く答えたあと、彼はゆっくりとしゃがみ込み、ラフィと同じ目線に合わせる。

 

「お前が戻りたくないなら、戻らなくていい」

 

 その言葉は、命令ではなかった。選択を渡す言葉だった。

 ラフィはすぐには理解できなかった。

 戻りたくないなら戻らなくていい。

 そんな単純なことが、どうしてこんなにも難しく感じるのか、自分でもわからない。

 これまで、戻るかどうかを自分で決めたことなどなかったのだ。

 しばらくの沈黙のあと、ラフィはゆっくりと頷いた。

 

「戻りたくない」

 

 その言葉は小さかったが、確かに自分で選んだ言葉だった。

 

「なら、ここにいろ」

 

 オマルは静かにそう言った。

 その一言で、ラフィの肩から少しだけ力が抜けた。

 その直後、排水路の入口から新たな足音が響いた。

 ヨナたちが到着したのだ。

 ノアとリナを連れて、バルメが後方を警戒しながら入ってくる。

 ヨナは息を乱していなかったが、袖や肩には灰色の粉塵が付着しており、ここまでの道のりが決して楽ではなかったことを物語っていた。

 ジブリールが彼を見る。

 

「遅い」

「来た」

 

 ヨナも同じように短く返す。

 

「遅い」

「来た」

 

 同じやり取りが繰り返される。

 

「……来たならいい」

 

 最後にそう言って、ジブリールは視線を逸らした。

 ヨナはわずかに眉をひそめる。

 

「何だ」

「別に」

「ココみたいなこと言うな」

「言ってない」

「言った」

 

 そのやり取りに、サミルが思わず吹き出しそうになるが、ジブリールに鋭く睨まれて慌てて口を押さえた。

 続いて、さらに奥から足音が近づく。

 東條が現れた。

 彼は腕にエミルを抱えている。エミルは東條の服をしっかりと握りしめたまま、離そうとしない。

 

「怖いまま来た」

 

 エミルが小さく言った。

 その言葉には、無理に強がる様子もなく、ただ正直な感情がそのまま乗っていた。

 東條は静かに頷く。

 

「よくできました」

 

 あまりにも淡々とした言い方だったが、その中には確かな肯定があった。

 サミルがそのやり取りに少しだけ笑う。

 だが、エミルの表情はほんのわずかに緩んでいた。怖さは消えていない。それでも、ここまで来られたことを認められたことで、少しだけ安心したのだ。

 これで、ここに集まった子供たちは六人になった。

 

 全員が揃った。

 ――いや。

 全員ではない。

 アラタはまだ地下にいる。

 ナディアも同じ場所にいる。

 ココたちは管理棟に残っている。

 この場にいるのは、あくまで一部だ。

 まだ終わっていない。

 

『第二合流点、全員確認』

 

 オマルが通信機に向かって報告する。

 

『子供は六人。全員生存。移動可能』

 

 少しの間を置いて、アラタの声が返ってきた。

 

『よかった』

 

 短い言葉だった。

 だが、その一言に、張り詰めていた緊張と疲労が滲んでいた。

 ジブリールがすぐに口を開く。

 

「アラタ、そっちは?」

『まだ地下』

「出て」

『すぐ出る』

「嘘っぽい」

『本当』

「アラタの本当は信用できない」

『ひどい』

「早く」

『うん』

 

 通信が切れた。

 ジブリールは不安そうに管理棟の方向を見た。

 ヨナも同じ方向を見る。

 まだ戻ってきていない。

 まだ終わっていない。

 

「行くか」

 

 ジブリールが聞いた。

 

「今行くと邪魔になる」

 

 ヨナが即座に答える。

 

「でも」

「待つ」

「また待つ」

「今度はアラタを待つ」

 

 その言葉に、ジブリールは少しだけ黙り込んだ。

 待つことは嫌いだ。

 何もできない時間は、どうしても不安を増幅させる。

 それでも。

 誰かを信じて待つという選択も、必要なのだと、頭ではわかっている。

 そう思ってしまう自分が、少しだけ悔しかった。

 

     *

 

 イルミネーターの部屋で、アラタはようやく椅子から立ち上がった。

 背中に重い疲労がのしかかっている。

 ただ座っていただけなのに、全身を走らされたような疲れだった。

 画面の中では、救出した六人の表示が第二合流点へ移っている。

 

 名前が入った。

 アイシャ。

 ラフィ。

 ノア。

 リナ。

 エミル。

 

 そして空欄だった一つにも、サミルが現地で聞き取った名前が追加されていた。

 マリク。

 アラタはその名前を見つめた。

 点が名前になる。

 

 それだけで画面の見え方が変わる。

 だが、すべてが変わるわけではない。

 画面の端には、BABEL-00へ向かった四つの番号が残っている。

 空欄。

 まだ名前のない子供たち。

 アラタはそこから目を逸らせなかった。

 その時、低く唸るような音が床下から響いた。

 ナディアが顔を上げる。

 

「……警備システムが再起動しています。ここ、もう長く持ちません」

 

 壁の奥で何かが動く音がする。重いシャッターが閉じる気配。遠くで警報が鳴り始める。

 地下が目を覚まし始めていた。

 

「行きましょう」

 

 ナディアが言った。

 

「ここに長くいるのは危険です」

「うん」

 

 アラタは頷いた。

 だが足がすぐには動かなかった。

 画面の光がまだ目に焼き付いている。

 名前と番号。

 救えたものと、まだ届かないもの。

 その境界線が、頭の中で離れない。

 ナディアが一歩近づく。

 

「アラタ」

 

 その声で、彼はようやく現実に戻った。

 

「……行こう」

 

 二人は端末から離れ、部屋の出口へ向かう。

 だが扉はすでに半分閉まりかけていた。

 ワイリの声が通信に入る。

 

『急げ。地下の隔壁が順番に閉じてる。あと三十秒でそこもロックされる』

「解除できますか」

『一時的ならな。だが一回きりだ』

「お願いします」

『言われなくてもやる』

 

 扉のロックが一瞬だけ緩む。

 アラタはナディアの手を引いた。

 

「走るよ」

「はい」

 

 二人は狭い通路へ飛び出した。

 地下の空気は冷たく、湿っている。壁には配管が走り、ところどころから蒸気が漏れていた。照明は不安定に明滅し、影が揺れる。

 背後で重い音が響く。

 イルミネーターの部屋の扉が完全に閉じた。

 戻れない。

 アラタは振り返らなかった。

 

『右だ』

 

 ワイリの指示。

 アラタは迷わず曲がる。

 その先の通路はさらに狭く、床には水が溜まっていた。足音が響く。

 ナディアが息を切らしながら言う。

 

「この先、搬送路に出ます」

「そこから上に?」

「はい。でも警備が来る可能性が」

「来る前に抜ける」

 

 言いながらも、アラタの胸は強く打っていた。

 さっきまで画面で見ていた「警備」が、今は現実として迫ってくる。

 点ではない。

 人間だ。

 そして、こちらも見られる側になる。

 通路の先で、金属音が響いた。

 誰かがいる。

 ナディアが足を止めかける。

 アラタは小さく言った。

 

「止まらない」

 

 そのまま進む。

 角を曲がると、警備員が一人、端末を操作していた。

 こちらに気づく。

 

「止まれ!」

 

 叫び声。

 アラタの体が一瞬だけ固まる。

 だが、その瞬間にナディアが腕を引いた。

 

「左!」

 

 二人は横の細い通路へ滑り込む。

 背後で足音が追ってくる。

 銃の安全装置が外れる音。

 アラタの心臓が跳ねる。

 

『そのまま直進、十メートル先に梯子がある』

 

 ワイリの声。

 アラタは走る。

 水を蹴り、滑りそうになりながらも前へ。

 ナディアも必死に続く。

 背後で銃声が一発響いた。

 壁に弾が当たり、火花が散る。

 ナディアが小さく息を呑む。

 

「大丈夫?」

「はい……!」

 

 梯子が見えた。

 上へ続く縦穴。

 アラタはナディアを先に押し上げる。

 

「先に!」

「でも」

「いいから!」

 

 ナディアは頷き、梯子を登り始める。

 アラタはその下で振り返る。

 警備員が通路の入口に現れる。

 

 銃口がこちらを向く。

 その瞬間、照明が完全に落ちた。

 真っ暗。

 ワイリの声が低く響く。

 

『今だ』

 

 アラタは梯子に飛びついた。

 暗闇の中で必死に登る。

 下から怒鳴り声が聞こえるが、狙いは定まらない。

 数秒後、上からナディアの手が伸びた。

 

「アラタ!」

 

 彼はその手を掴み、最後の力で引き上げられる。

 二人は床に転がり込んだ。

 すぐにナディアがハッチを閉める。

 ロックがかかる音。

 下から叩く音が響くが、もう開かない。

 しばらく、二人はその場で息を整えた。

 荒い呼吸。

 鼓動の音。

 それが少しずつ落ち着いていく。

 

「……出られた」

 

 ナディアが小さく言う。

 アラタは天井を見上げた。

 そこには地上へ続く通路が伸びている。

 まだ完全に安全ではない。

 だが、地下の中心からは離れた。

 

「行こう」

 

 彼は立ち上がる。

 ナディアも頷く。

 二人は再び歩き出した。

 その時、スピーカーからエリザの声が響いた。

 

『見事でした』

 

 アラタは振り返らない。

 

『あなたはイルミネーターを使えた。やはり、あなたには適性がある』

「適性って言葉が嫌いです」

『便利な言葉です』

「人間を分類するための言葉でしょう」

『分類しなければ、管理できません』

「管理しなければ、支配できない。そう言いたいんですか」

『支配ではありません。秩序です』

 

 アラタは走り続ける。

 秩序。

 その言葉の下に、名前のない子供たちが運ばれていく。

 

「あなたの秩序は、人を番号にする」

『あなたも番号を見た』

「名前を入れました」

『すべてではない』

 

 アラタは拳を握る。

 エリザは続けた。

 

『あなたは今日、六人を救った。でも四人を見送った。いずれ、もっと多くを見送ることになる』

「……」

『その時、あなたは何で自分を許しますか』

 

 アラタは息を止めた。

 その問いは鋭かった。

 許せるはずがない。

 だが、許せないまま進まなければならない。

 それをエリザは知っている。

 だから突いてくる。

 

「許しません」

 

 アラタは言った。

 

『では壊れます』

「壊れないように、みんなが見張っています」

 

 少しの沈黙。

 アラタは続ける。

 

「ジブリールが怒る。ヨナが見張る。ナディアが止める。ココさんが笑う。たぶん、レームさんも呆れる。だから、僕一人では壊れません」

 

 エリザは何も言わない。

 

「あなたはそれを理解できない」

『信頼ですか』

「はい」

『非効率ですね』

「そうですね」

 

 アラタは初めて少しだけ笑った。

 

「でも、あなたの効率よりましです」

 

 通信の向こうで、エリザが静かに笑った気配がした。

 

『また会いましょう、アラタさん』

「会いたくありません」

『それでも、あなたは来ます』

「子供がいるなら」

『ええ』

 

 エリザの声は穏やかだった。

 

『だから、あなたは来る』

 

 BABEL-00。

 その文字が残っている。

 ナディアが小さく言った。

 

「ログ、保存しました」

「ありがとう」

「BABEL-00の追跡情報も残っています。完全ではありませんが、消えてはいません」

「うん」

 

 アラタは頷いた。

 

「消さない」

 

 画面の光はまだ彼の目の奥に残っていた。

 

     *

 

 地上へ戻ると、ココが待っていた。

 白いスーツはさらに汚れていた。

 灰色の粉塵が肩に積もり、袖にも赤土がついている。

 それでも本人は気にしていない。

 むしろ、その汚れすら計算の一部のように見える。

 アラタは一瞬だけ足を止めた。

 地下の冷たい光から、現実の光へ戻ってきた感覚が遅れて追いつく。

 ココはそれを見逃さなかった。

 

「おかえり、アラタさん」

 

 軽い声だった。

 だが、その一言で、張り詰めていた何かが少しだけ緩む。

 

「ただいま、でいいんでしょうか」

 

「いいんじゃない?」

 

 ココはあっさり言った。

 

「帰ってきたって思えた場所が、帰る場所よ」

 

 その言葉に、アラタは少しだけ目を伏せる。

 帰る場所。

 それを持っている実感は、まだ薄い。

 それでも、ここに戻ってきたことに、どこか安堵している自分がいる。

 ココはそれ以上は踏み込まなかった。

 代わりに、いつもの調子で話題を変える。

 

「どうだった? イルミネーター」

 

 アラタは少しだけ息を吐いた。

 

「嫌な道具でした」

「でしょうね」

 

 即答だった。

 

「でも、使いました」

「でしょうね」

 

 同じ調子で返される。

 アラタは苦笑する。

 

「……止めないんですね」

「止めて止まるの?」

「止まりません」

「なら言うだけ無駄」

 

 ココは肩をすくめる。

 その仕草は軽いが、言っていることは重い。

 アラタは少しだけ視線を逸らした。

 止めてほしいわけではない。

 でも、誰かに止められたら楽になるかもしれない、という弱さもある。

 ココはそれを見抜いている。

 だから止めない。

 

「ただし」

「はい」

「番号だけで見るようになったら、私も殴るわ」

 

 冗談のような口調だったが、目は笑っていなかった。

 アラタはその視線を受け止める。

 

「ジブリールにも言われそうです」

「ヨナ君も見張るでしょうね」

 

 ココは顎で少し離れた場所を示す。

 ヨナはそこにいた。

 ジブリールと並んで、救出した子供たちの方を見ている。

 二人ともこちらを見てはいない。

 だが、完全に無関心でもない。

 いつでも振り返れる距離にいる。

 それが見張りなのか、仲間なのかは、まだ曖昧だった。

 ココはそちらへ目を向ける。

 

「見張りが多くて大変ね」

「ありがたいです」

 

 アラタは静かに答えた。

 本心だった。

 一人で抱え込むより、ずっといい。

 ココは彼を見る。

 その横顔には疲労が深く刻まれている。

 だが、白い学校の後よりも少しだけ違って見えた。

 諦めてはいない。

 だが、自分一人で全部抱えることも、少しだけやめたように見える。

 ほんの少しだけ。

 

「いい顔になったわね」

 

 ココが言う。

 

「褒めていますか」

「少し」

「少しですか」

「かなり少し」

 

 アラタは苦笑した。

 その笑いは、さっきよりも自然だった。

 ココはそれを見て、ほんのわずかに満足そうに目を細める。

 

「でもね」

 

 彼女は続けた。

 

「その顔、長くは持たないわよ」

「え?」

「またすぐ、嫌なものを見る」

 

 アラタは言葉を失う。

 否定できない。

 むしろ、もう見えている。

 

 BABEL-00。

 名前のない四人。

 その先にあるもの。

 

「それでも」

 

 ココは軽く言った。

 

「今はその顔でいい」

 

 アラタはゆっくり頷いた。

 その時、レームが近づいてくる。

 

「撤収準備はできている。長居は危険だ」

「カドリは?」

 

 ココが聞く。

 

「ヴォルフが連れて下がった。今ここで無理に追う必要はない」

「エリザさんは?」

「見えない」

「でしょうね」

 

 ココは空を見上げた。

 鉱山ターミナルには、まだ作業音が響いている。

 これだけの騒ぎがあっても、施設は完全には止まらない。

 鉱石は運ばれる。

 車両は動く。

 書類は処理される。

 人は流れる。

 まるで、何もなかったかのように。

 それが一番気味悪かった。

 

「心臓は止まってないわね」

 

 ココが言った。

 

「一部を詰まらせただけだ」

 

 レームが答える。

 

「十分よ、今日は」

「お前が十分と言う時は、だいたい十分じゃない」

「今日は本当に十分」

 

 ココは言った。

 その声は少しだけ真面目だった。

 

「子供を六人救った。イルミネーターを見た。BABEL-00の尻尾も掴んだ。欲張れば全部失う」

「珍しく正しい」

 

 レームが言う。

 

「私はいつも正しいわよ」

「それは違う」

 

 ココは笑った。

 その笑いは、いつも通り軽かった。

 だが、その奥にあるものを、アラタは少しだけ感じ取っていた。

 この人もまた、全部を見ているわけではない。

 全部を救えるわけでもない。

 それでも前に進むことを選んでいる。

 その背中を、少しだけ理解できた気がした。

 

     *

 

 第二合流点の外れで、救出された子供たちは車に乗せられていた。

 アイシャ、ラフィ、ノア、リナ、エミル、マリク。

 六つの名前。

 それぞれがまだ不安そうに周囲を見ている。

 それでも、手首の識別帯は外されていた。

 ミラが一人ずつ水を渡し、サミルが名前を確認している。

 

「アイシャ」

 

 少女が小さく頷く。

 

「ラフィ」

 

 少年が頷く。

 

「ノア」

「うん」

「リナ」

「はい」

「エミル」

「怖いまま来た」

 

 サミルは少し笑う。

 

「うん。よく来た」

「マリク」

 

 最後の少年は、少し遅れて顔を上げた。

 

「……それ、僕の名前?」

 

 サミルは止まった。

 

「違うの?」

「わからない」

 

 その場が静かになる。

 少年は自分の手を見る。

 

「そう呼ばれてた気がする。でも、違うかもしれない」

 

 ミラがそっと近づく。

 

「じゃあ、今はマリクでいい?」

 

 少年は少し考えた。

 

「今は?」

「思い出したら、変えればいい」

 

 少年は驚いたようにミラを見た。

 

「変えていいの?」

「いいよ」

 

 ミラは優しく言った。

 

「名前は、番号じゃないから」

 

 少年はしばらく黙っていた。

 それから、小さく頷いた。

 

「じゃあ、今はマリク」

「うん」

 

 サミルは名簿に書いた。

 マリク。

 仮の名前かもしれない。

 本当の名前ではないかもしれない。

 それでも、番号よりはずっとよかった。

 ジブリールはその様子を見ていた。

 拳は握られていない。

 ただ、目だけが少し赤かった。

 ヨナが隣に立つ。

 

「泣くのか」

「泣かない」

「そうか」

「泣いてない」

「まだ何も言ってない」

「言いそうだった」

 

 ヨナは少しだけ黙る。

 

「名前、戻るといいな」

 

 ジブリールは彼を見た。

 意外そうな顔だった。

 

「あなたがそういうこと言うんだ」

「悪いか」

「悪くない」

「なら見るな」

「見てない」

「見てる」

「見てない」

 

 サミルがまた笑いそうになったが、今度はうまくこらえた。

 ヨナは空を見た。

 鉱山ターミナルの上には、灰色の粉塵が薄く漂っている。

 その向こうに、まだ見えない道がある。

 

 BABEL-00。

 名前のない子供たちが運ばれた先。

 ヨナはそれを忘れなかった。

 たぶんアラタも忘れない。

 

 ジブリールも。

 

 ココも。

 

     *

 

 夕方、車列は鉱山地帯を離れた。

 長く続いた灰色の地面が、ゆっくりと後方へ流れていく。タイヤが踏みしめる砂利の音が、一定のリズムで車内に響いていた。遠くにはまだ採掘機の影が見え、煙のような粉塵が空に漂っている。それらは次第に小さくなり、やがて地平線の向こうへと沈んでいった。

 

 完全な勝利ではない。

 誰もがそれを理解していた。誰も口には出さなかったが、胸の奥に残る重さが、それをはっきりと示していた。

 むしろ、バベル・ルートの巨大さを思い知らされた一日だった。

 白い学校は入口の一つに過ぎず、鉱山ターミナルは心臓の一部に過ぎなかった。

 その奥に、まだ上がある。

 

 見えない層が、いくつも重なっている。

 BABEL-00。

 塔の上層。

 そこへ続く道は、まだ遠い。

 遠いだけではない。複雑で、歪で、簡単には辿り着けない場所だと、誰もが直感していた。

 

 だが、何も得られなかったわけではない。

 イルミネーター。

 それは敵の道具だった。

 人を番号にし、配置し、動かし、選別するための道具だった。

 だが、アラタはそれを使った。

 同じ画面を見て。

 同じ点を見て。

 

 それでも、名前を呼んだ。

 すべてを救えたわけではない。

 それでも、六人の子供が番号ではなく名前で呼ばれるようになった。

 その事実だけは、誰にも奪えなかった。

 それは小さな成果かもしれない。

 

 だが、その小ささの中に、確かな意味があった。

 移動中の車内で、アラタは眠っていなかった。

 体は限界に近いほど疲れているはずなのに、意識だけが妙に冴えている。

 端末の画面を見つめている。

 そこには保存されたログがあった。

 

 BABEL-00へ向かった四つの番号。

 名前欄は空白。

 

 C-330。

 C-331。

 C-332。

 C-333。

 

 アラタはその空欄を見つめる。

 いつか埋める。

 必ず。

 そう思っていると、隣からジブリールが画面を覗き込んだ。

 

「それ、あの四人?」

「うん」

「名前は?」

「まだわからない」

「じゃあ、空けておいて」

「そのつもり」

「番号で呼んだら壊す」

「イルミネーターを?」

「アラタを」

 

 アラタは苦笑した。

 その言い方があまりにもジブリールらしくて、少しだけ肩の力が抜ける。

 

「それは困る」

「困って」

「戻さないよ」

 

 ジブリールは彼を見た。

 その視線は真っ直ぐで、冗談ではないことを示している。

 

「本当に?」

「本当に」

「嘘だったら怒る」

「うん」

「本気で怒る」

「知ってる」

 

 ヨナが後ろから言った。

 

「なら、見張る」

 

 ジブリールがすぐに続く。

 

「私も」

 

 アラタは二人を見た。

 少しだけ困ったように笑う。

 

「見張りが多いね」

「必要だろ」

 

 ヨナが言う。

 

「アラタは面倒だから」

 

 ジブリールが言う。

 

「そこは否定してほしかった」

「無理」

「無理だな」

 

 二人が同時に答えた。

 その息の合い方に、アラタは思わず小さく笑った。

 アラタは深く息を吐いた。

 疲れている。

 怖い。

 画面の光がまだ目の奥に残っている。

 人が点になって見えた感覚が消えない。

 それでも、隣には声がある。

 

 怒る声。

 呆れる声。

 見張る声。

 それらが、現実へ引き戻してくれる。

 だからまだ、自分は戻れる。

 そう思えた。

 

 前方の車で、ココは通信ログを見ていた。

 BABEL-00。

 その文字を見て、彼女は口元を歪める。

 

「塔の上層、か」

 

 レームが隣で聞く。

 

「楽しそうだな」

「楽しくはないわ」

「嘘だな」

「少しだけね」

 

 ココは窓の外を見た。

 夕陽が鉱山地帯を赤く染めている。

 灰色の粉塵が光を受けて、空に薄い幕のように広がっていた。

 その光景は美しくもあり、どこか不気味でもあった。

 

「ようやく塔らしくなってきたわね」

「登る気か」

「壊すなら、上まで見ないと」

「また面倒なことを言う」

「いつものことよ」

 レームはため息を吐いた。

 

 だが、それ以上は何も言わなかった。

 車列は夕陽の中を進んでいく。

 背後には鉱山ターミナル。

 そのさらに奥には、まだ見ぬBABEL-00。

 

 バベル・ルートは壊れていない。

 ただ、ひびが入っただけだ。

 だが、そのひびから光が差した。

 イルミネーター。

 照らすもの。

 それは人を番号にする光だった。

 だが、その光で見つけた名前もある。

 

 アイシャ。

 ラフィ。

 ノア。

 リナ。

 エミル。

 マリク。

 

 それぞれの名前が、確かにそこに存在している。

 そして、まだ空欄のまま残された四つの名前。

 塔はまだ高い。

 夜はまだ深い。

 それでも、彼らはもう入口にはいなかった。

 灰の駅を越え、塔の内部へ足を踏み入れたのだ。

 戻ることはできない。

 進むしかない。

 

 その先に何があるのか、まだ誰も知らないまま。

 

 

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