JORMUNGAND:マージナル・チルドレン   作:たこ焼き 龍月

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第五章 BABEL-00(前半)

 

 

 灰の駅を離れてから、車列は二度、進路を変えた。

 

 追手の目を散らすための遠回りだった。一度は枯れた川床に沿って北へ向かい、途中で東へ折れ、それからまた別の道を選び直す。無駄に見える動きだが、無駄ではない。まっすぐ進めば、それだけ足取りが読まれやすくなる。レームはそれを知っていたし、ウゴもまた黙ってハンドルを切り続けた。

 

 新しい拠点に着いたのは、明け方だった。

 

 かつて灌漑用の施設だったという建物が、乾いた丘の陰に半分埋もれるように残っている。厚いコンクリートの壁は砲撃の痕を残しながらも崩れきってはおらず、奥まった一室は外からの視線を完全に遮っていた。天井は低く、窓は小さく、光はほとんど入らない。それでも、身を隠すには十分だった。

 

 水路はとうに枯れていた。

 

 かつて水が流れていたはずの溝には、乾いた砂と割れたコンクリートだけが残っている。壁の内側には、水位を示していたらしい線がうっすらと残っていた。人がこの土地に水を引こうとした痕跡。今はもう、その努力すら忘れられている。

 

 子供たちは奥の部屋で眠っていた。

 

 毛布にくるまり、身を寄せ合って、浅い呼吸を繰り返している。眠っていても、時々誰かの指が小さく動く。夢の中でも、何かから逃げているのかもしれない。ミラがその間を静かに歩き、毛布を掛け直していた。

 

 手前の部屋には、明かりが一つだけ灯っていた。

 

 小型のランタンだった。乾いた光が、灰色の壁に人影を長く伸ばしている。その光の輪の中に、数人が集まっていた。

 

 ナディアが端末を広げている。

 

 彼女の指はもう何時間も動き続けていた。灰の駅での仮眠のあいだも、車の中でも、この部屋に着いてからも、ほとんど休んでいない。画面の光が、彼女の目の下に薄い影を落としていた。それでも、その指先には迷いがなかった。

 

 アラタはその隣に立っていた。

 

 座ることを忘れているようだった。考え事をしている時の癖だと、もう誰もが知っている。彼は腕を組み、画面を見つめたまま、時々小さく眉を寄せる。頭の中で情報を並べ替えているのだろう。

 

 ココは壁にもたれていた。

 

 白いスーツは、もう白いとは呼べなかった。鉱山ターミナルの灰が肩に積もり、袖には赤土が染み込んでいる。それでも本人は気にする様子もなく、ぬるくなったコーヒーの入った紙コップを片手に、画面を横から覗き込んでいた。

 

 レームは入口の近くにいた。

 

 外を警戒しながら、耳だけはこちらの話へ向けている。東條はその反対側で、紙の資料と電子データを交互に確認していた。ヨナは壁際に座り、膝を立てて腕を乗せている。ジブリールはその近くで、立ったまま画面を見ていた。

 

 ワイリの声が、通信機から入ってきた。

 

『こっちの回線は生きてる。ただ、あんまり長くは使えないぞ』

 

 少し離れた場所に陣取り、通信状況を確認しているのだ。

 

「どれくらい?」

 

 ナディアが聞いた。

 

『三十分ってところだ。それ以上は足がつく』

「十分です」

『お前も十分って言うのか』

 

 ワイリがぼやいた。

 

『ココといい、お前といい、みんな十分の使い方が雑なんだよ』

「事実を言っただけです」

『その事実が信用できない』

 

 ワイリはそう言ったが、通信を切りはしなかった。

 

 ナディアは端末に向き直る。画面には、鉱山ターミナルから抜き出したログが並んでいた。完全なものではない。途中で切れているものもあれば、意図的に消されたらしい欠落もある。それでも、断片は残っていた。

 

「まず、確認したいことがあります」

 

 ナディアは言った。

 

「BABEL-00へ送られた四人の記録です」

「見せて」

 

 アラタが短く応じる。

 

 ナディアは画面を切り替えた。四つの番号が並ぶ。

 

 C-330。

 C-331。

 C-332。

 C-333。

 

 名前欄は、すべて空白だった。

 

 その空白を、アラタはじっと見つめる。鉱山ターミナルで見た時と、何も変わっていない。誰の名前も、まだそこにはない。

 

「経路は追えた?」

 

 アラタが聞いた。

 

「途中まで」

 

 ナディアは慎重に答えた。

 

「鉱山ターミナルを出た車両は、確認できています。そこから北へ向かいました。でも、ある地点で記録が途切れます」

「途切れる?」

「消されたんじゃありません。最初から、そこには記録が残らない仕組みになっています」

 

 その言い方に、アラタは眉を寄せた。

 

「どういうこと?」

「BABEL-00より上は、別の系統です。イルミネーターの管理下にありません」

 

 ナディアは画面を指でなぞった。線が一本、北へ伸びている。だが、その線はある地点でふつりと消えていた。まるで、そこから先が世界の縁であるかのように。

 

「鉱山ターミナルまでは、すべてが一つの系統で管理されていました。港も、白い学校も、難民キャンプも。全部イルミネーターで見えていた」

 

 ナディアは続ける。

 

「でも、BABEL-00は違います。そこから先は、別の目で管理されている。私たちがイルミネーターを覗いても、その先は見えない」

 

 部屋の中が、少し静かになった。

 

 誰もがその意味を理解していた。これまで追ってきたものは、巨大ではあったが、少なくとも一つの流れだった。追えば、いつか辿り着けるものだと思っていた。だが、そうではなかった。上には、また別の層がある。しかも、その層は、これまでとは違う原理で動いている。

 

「つまり」

 

 ヨナが口を開いた。

 

 短い声だった。

 

「壁がある」

「はい」

 

 ナディアが頷く。

 

「今の私たちの目では、越えられない壁です」

 

 ヨナは何も言わなかった。ただ、膝の上で組んだ手を、少しだけ握り直す。

 

 ジブリールが画面に近づいた。

 

「四人は、その壁の向こう?」

「たぶん」

「たぶん、って」

「確実じゃありません。でも、車両はその方向へ向かいました」

 

 ジブリールは空欄を見た。名前のない四つの欄。彼女はそれを見つめたまま、低い声で言う。

 

「また番号」

「うん」

 

 アラタが答えた。

 

「まだ番号のままだ」

「名前は」

「わからない」

「わからないまま、壁の向こうに行った」

 

 ジブリールの声には、隠しきれない苛立ちがあった。だが、その苛立ちの矛先は、アラタではなかった。アラタもそれをわかっている。だから、言い返さない。ただ、同じ空欄を、彼も見つめていた。

 

「消えてはいない」

 

 アラタは言った。

 

「壁の向こうにいるだけだ。消えたわけじゃない」

「壁は越えられないんでしょ」

「今は」

 

 その二文字に、ジブリールは反応した。鉱山ターミナルの小屋で、ナディアが同じ言葉を使ったことを、彼女は覚えていた。今は。まだ終わっていない、という意味の二文字。

 

「今は、ね」

 

 ジブリールは繰り返した。少しだけ、声の角が取れていた。

 

 ココが、ぬるいコーヒーを一口飲んだ。

 

「面白いわね」

 

 その一言に、何人かが彼女を見た。ジブリールの視線が、わずかに険しくなる。

 

「面白い?」

「言い方が悪かったわ」

 

 ココは肩をすくめた。

 

「興味深い、と言い直す」

「同じでしょ」

「少し違うのよ」

 

 ココは紙コップを壁際に置いた。それから、ナディアの端末を指差す。

 

「ナディアちゃん、さっきの話。BABEL-00から上は別系統だって言ったわね」

「はい」

「それ、逆に言えば」

 

 ココはゆっくりと言葉を選んだ。

 

「イルミネーターは、そこまでしか見えないように作られてる、ってことよ」

 

 その言葉に、ナディアの手が止まった。

 

「わざと?」

「たぶんね」

 

 ココは頷く。

 

「よく考えてみて。イルミネーターは便利な道具よ。施設全体を一枚の画面で見られる。人も、車も、荷物も、全部。でも、その便利な道具に、あえて見えない場所を作ってある」

 

 ココは指を一本立てた。

 

「それは、誰かが意図的に線を引いたってこと。ここから下は見せる。ここから上は見せない。そう決めた人間がいる」

 

 アラタの表情が変わった。

 

「ターミナルの管理者にも、上は見えないってことですか」

「そういうこと」

 

 ココは答えた。

 

「エリザにも、たぶん全部は見えていない。彼女はターミナルの主かもしれない。でも、塔の主じゃない」

 

 その言葉が、部屋の空気を少しだけ変えた。

 

 エリザ・クロウ。あの、穏やかで、冷たくて、いつも一歩先に選択肢を用意している女。彼女ですら、この構造の全体を見ているわけではない。そのことは、奇妙な安堵と、それ以上の不安を同時に運んできた。

 

 もしエリザが末端に過ぎないのなら、その上にいるのは、いったい誰なのか。

 

「上に、誰かがいる」

 

 東條が言った。静かな声だった。

 

「エリザさんですら見えない層を管理している人間が」

「ええ」

 

 ココは頷く。

 

「それがBABEL-00の正体でしょうね」

 

 レームが入口から振り返った。

 

「厄介だな」

「そうね」

「見えない相手ほど、対処が難しい」

「でも」

 

 ココは笑った。いつもの、軽い笑みだった。

 

「見えないってことは、向こうもこっちを完全には見ていない、ってことよ」

 

 レームは小さく息を吐いた。

 

「楽観的だな」

「現実的よ」

 

 ココは壁から背を離した。

 

「完璧な監視なんて存在しないの。イルミネーターですら、上を見られないように作られてる。それはつまり、この仕組み全体が、どこかで区切られてるってこと。区切りがあるなら、隙もある」

 

 彼女は部屋の中央に立った。ランタンの光が、その横顔を照らす。

 

「隙を見つければ、越えられる」

「どうやって」

 

 ジブリールが聞いた。

 

 ココはジブリールを見た。それから、少しだけ表情を和らげる。

 

「それを、これから探すのよ」

 

     *

 

 朝が完全に明けても、拠点の中は薄暗いままだった。

 

 窓が小さく、光がほとんど入らない。それでも、外の気配は伝わってくる。乾いた風が壁の隙間を通り抜け、時々、遠くで鳥の声がした。戦場の中にあっても、朝は朝だった。

 

 子供たちが、少しずつ起き出してきた。

 

 アイシャが、まず目を覚ました。それからラフィ、ノア、リナ。エミルはまだ眠っていて、マリクは起きているのか眠っているのか、毛布の中で目だけを開けていた。

 

 ミラが、一人ずつに水を渡していく。

 

「飲んで」

「……いいの?」

 

 リナが、小さな声で聞いた。

 

「いいよ」

「勝手に飲んで、怒られない?」

「怒られない」

 

 ミラは優しく言った。

 

「もう、そういうのはないから」

 

 リナは、水の入ったカップを両手で持った。それでも、すぐには口をつけない。周囲を確認するように、何度か視線を動かす。誰も止めないことを確かめてから、ようやく、ほんの少しだけ口をつけた。

 

 その様子を、ヨナが少し離れた場所から見ていた。

 

 彼は何も言わなかった。ただ、その光景を見つめている。許可がなければ水も飲めない子供。それがどういうことなのか、彼は知りすぎるほど知っていた。

 

「見てるな」

 

 ジブリールが、隣に来て言った。

 

「見てない」

「見てた」

「……少しだけ」

 

 ヨナは視線を逸らさないまま答えた。ジブリールも、同じ方向を見る。リナがようやく水を飲みきり、空になったカップをミラに返していた。

 

「あの子、まだ怖がってる」

 

 ジブリールが言った。

 

「当たり前だ」

「当たり前?」

「昨日まで、番号だった」

 

 ヨナの声は低かった。

 

「番号は、水を飲む許可なんかいらない。渡されたものを飲むだけだ。自分で決めることじゃない」

「……」

「決めていいって言われても、すぐには決められない。決め方を、忘れさせられてる」

 

 ジブリールは、ヨナの横顔を見た。

 

 彼がこういうことを口にするのは、珍しかった。普段のヨナは、言葉を惜しむ。感情を隠す。だが、子供のことになると、時々、こうして言葉が漏れる。それが本人の意図なのか、それとも抑えきれずに出てしまうものなのか、ジブリールにはまだわからなかった。

 

「あなたも、そうだったの?」

 

 ジブリールは聞いた。

 

 ヨナは、すぐには答えなかった。

 

 長い沈黙があった。リナが、ミラに何か小さな声で話しかけている。その声は聞き取れないが、さっきよりは少しだけ、口が動いていた。

 

「昔の話だ」

 

 ヨナは、それだけ言った。

 

 ジブリールは、それ以上聞かなかった。聞いてはいけない気がした。ヨナの「昔」がどんなものだったのか、それを軽々しく尋ねるのは、違う気がした。

 

 二人は、しばらく黙って子供たちを見ていた。

 

     *

 

 部屋の反対側では、ナディアがまだ端末に向かっていた。

 

 ワイリとの回線はすでに切れている。三十分の制限を守ったのだ。それでも、ナディアの作業は続いていた。オフラインで扱える範囲のデータを、ひたすら整理し続けている。

 

 アラタが、彼女の後ろに立った。

 

「休んだ方がいい」

 

 ナディアは画面から目を離さずに答える。

 

「それ、この前も言われました」

「今回は本気だ」

「前回も本気だと言っていました」

「……言った」

 

 アラタは苦笑した。ナディアの手は、それでも止まらない。

 

「もう少しで、整理が終わります」

「何の整理?」

「これまでの記録全部です」

 

 ナディアは画面を切り替えた。港の記録、白い学校の名簿、難民キャンプの移送表、鉱山ターミナルのログ。それらが、一つの時系列に並べ直されている。

 

「バラバラに集めた情報を、時間順に並べています。そうすると、見えてくるものがあるかもしれません」

「例えば?」

「四人が、いつ、どこを通ったのか。同じ経路を通った子が、他にもいるのか。BABEL-00へ向かった車両が、過去にもあったのか」

 

 アラタは、その画面を覗き込んだ。膨大な数字と記号の羅列。普通なら、途中で目が滑ってしまうような情報の山だった。だが、ナディアはそれを丁寧に並べ替えていく。

 

「よく続くね」

 

 アラタが言った。

 

「消されたものほど、重要ですから」

 

 ナディアは静かに答えた。

 

「誰かが隠したがった痕跡は、逆に言えば、隠したい理由があるってことです」

「それ、前も言ってた」

「私の口癖です」

「知ってる」

 

 アラタは少しだけ笑った。それから、画面に視線を戻す。

 

 ナディアが並べた時系列の中に、一つ、気になる点があった。アラタはそこを指差す。

 

「これ、何?」

 

 画面には、ある日付が示されていた。その日、複数の車両が、ほぼ同時に鉱山ターミナルを出発している。行き先は、すべてBABEL-00。

 

「一斉移送です」

 

 ナディアが答えた。

 

「一度に、まとまった人数が上へ送られた記録があります」

「四人だけじゃない?」

「四人は、その中の一部かもしれません」

 

 アラタの表情が、硬くなった。

 

「他にも、いるってこと?」

「可能性はあります」

 

 ナディアは慎重に言った。

 

「でも、断定はできません。記録が不完全なので」

 

 アラタは、その日付を見つめた。一斉移送。まとまった人数。それがどれくらいの数なのか、記録からは読み取れない。十人かもしれない。二十人かもしれない。あるいは、もっと。

 

 名前のない子供たちが、まとめて壁の向こうへ運ばれていく。その光景を想像すると、胃の奥が重くなった。

 

「ナディア」

「はい」

「その日付、覚えておいて」

「もう、記録しました」

 

 ナディアは即座に答えた。

 

「他の一斉移送がなかったかも、調べています」

「あった?」

「今のところ、その一件だけです。でも、記録が残っていないだけかもしれません」

 

 アラタは頷いた。それから、深く息を吐く。

 

 情報が増えるほど、状況は複雑になっていく。四人を追っていたはずが、もっと多くの子供が視界に入ってくる。壁の向こうには、想像していたよりもずっと多くの空欄があるのかもしれない。

 

 その全部を、追えるのか。

 

 その全部を、救えるのか。

 

 答えは、まだ出せなかった。

 

     *

 

 昼近くになって、ココが全員を集めた。

 

 子供たちは奥の部屋に残し、ミラとラシードが付き添っている。手前の部屋に集まったのは、ココ、レーム、東條、ヨナ、ジブリール、アラタ、ナディア、それにサミルとオマルだった。バルメは外周を見回りに出ている。ワイリとマオ、ウゴは車両と通信を守っていた。

 

「状況を整理しましょう」

 

 ココは中央に立って言った。ランタンの光の代わりに、今は壁の隙間から差し込む細い光が、彼女の輪郭を薄く照らしている。

 

「私たちは今、BABEL-00っていう壁の前にいる。四人の子供が、その向こうに送られた。たぶん、四人だけじゃない」

 

 ココは、そこで一度言葉を切った。

 

「壁の向こうは、イルミネーターでも見えない。別の系統で管理されてる。つまり、これまでのやり方は通用しない」

 

 誰も口を挟まなかった。ココは続ける。

 

「だから、二つに分けて考える」

 

 彼女は指を二本立てた。

 

「一つ。BABEL-00が何なのか。どこにあって、誰が管理していて、どういう仕組みで動いているのか。これは、上から見る話。物の流れ、お金の流れ、契約の流れ。そっちは私が追う」

 

 ココは、もう一本の指を示した。

 

「もう一つ。四人の子供が、今どこにいるのか。生きているのか。壁の向こうで、どう扱われているのか。これは、下から見る話。人の話。そっちは、アラタさんたちが追う」

 

 アラタが、静かに頷いた。

 

「役割分担、ですか」

「そう」

 

 ココは笑った。

 

「私は世界を見るのが得意。あなたは、目の前の一人を見るのが得意。だったら、分けた方が効率がいい」

「効率」

 

 アラタは、その言葉を小さく繰り返した。ココはそれに気づいて、わずかに目を細める。

 

「嫌い?」

「あまり」

「でも、今は使うのよ」

 

 ココの声は、軽いようでいて、譲らなかった。

 

「時間は足りない。人も足りない。情報も足りない。だったら、得意なことを分担するしかない。それが一番、多くを救える」

 

 アラタは、しばらく黙っていた。それから、口を開く。

 

「エリザさんも、同じことを言いました」

 

 部屋の空気が、わずかに緊張した。

 

「時間は足りない。人も足りない。だから、選別が必要だって」

 

 ココは、アラタを見た。その視線は、いつもの軽さを少しだけ引っ込めていた。

 

「似てるでしょうね」

 

 ココは認めた。

 

「私とあの女は、たぶん、見ている景色が近い。世界を上から見てる。人を数で数える。効率を考える。そこは、似てる」

 

 彼女は一歩、アラタに近づいた。

 

「でも、決定的に違うところがある」

「どこですか」

「私は、あなたを止めないの」

 

 ココは言った。

 

「あの女は、あなたをこっちへ引っ張ろうとする。効率の側へ。数の側へ。でも私は、あなたに効率を分担させるだけで、あなた自身を効率に変えようとはしない」

 

 アラタは、ココを見返した。

 

「違いが、わかりにくいです」

「わかりにくくていいのよ」

 

 ココは肩をすくめた。

 

「はっきり違うなら、誰も間違えない。わかりにくいから、危ないの。だから、見張りがいる」

 

 ココは、ちらりとヨナとジブリールを見た。二人とも、こちらを見ていた。

 

「あなたには、見張りが多い。それは、いいことよ」

 

 アラタは、少しだけ目を伏せた。それから、頷いた。

 

「わかりました」

 

 彼は顔を上げる。

 

「役割を分けます。上は、ココさんに。下は、僕たちが追う」

「決まりね」

 

 ココは満足そうに言った。

 

 その時、オマルが初めて口を開いた。

 

「一つ、いいか」

 

 低い声だった。彼はめったに口を挟まない。だからこそ、その一言に全員が耳を向けた。

 

「下を追うのは構わない。だが、四人がどこにいるかもわからないうちに、アラタがまた画面を覗くのか」

 

 その問いに、部屋が静かになった。

 

 画面。イルミネーター。オマルが言っているのは、そのことだった。

 

 アラタは、すぐには答えなかった。

 

「イルミネーターは、ターミナルに置いてきました」

 

 彼は言った。

 

「持ち出していません」

「だが、また使う場面が来る」

 

 オマルは引かなかった。

 

「BABEL-00へ近づけば、また同じような道具が出てくる。もっと大きいのが。その時、お前はまた覗くのか」

 

 アラタは、オマルを見た。オマルの目には、非難はなかった。ただ、心配があった。友人として、現場の支柱として、アラタの危うさを最もよく知っている男の、静かな心配だった。

 

「たぶん、覗きます」

 

 アラタは、正直に答えた。

 

「必要なら」

「呑まれるぞ」

「わかっています」

 

 アラタの声は、掠れていなかった。だが、楽観もしていなかった。

 

「呑まれないように、みんなに見張ってもらいます」

 

 オマルは、しばらくアラタを見ていた。それから、短く息を吐く。

 

「それでいい」

 

 彼は言った。

 

「一人で背負うって言い出したら、殴るところだった」

「殴らないでください」

「言わなきゃ殴らない」

 

 オマルは、わずかに口の端を上げた。笑みとも呼べないほどの、小さな変化だった。だが、それで十分だった。

 

 ジブリールが、口を開いた。

 

「私も見張る」

「うん」

「番号で呼んだら、怒る」

「知ってる」

「本気で怒る」

「それも知ってる」

 

 ヨナも、短く言った。

 

「見張る」

 

 それだけだった。だが、その一言に、余計な説明はいらなかった。

 

 アラタは、三人を見た。ジブリール、ヨナ、オマル。それぞれ違う立場から、同じことを言っている。見張る、と。

 

「見張りが、多いですね」

 

 アラタは言った。

 

「必要だからな」

 

 オマルが答える。

 

「アラタは面倒だから」

 

 ジブリールが続ける。

 

 ヨナは、何も言わなかった。ただ、否定もしなかった。それが、彼なりの同意だった。

 

 アラタは、少しだけ笑った。困ったような、それでいて、どこか救われたような笑みだった。

 

 だが、笑みはすぐに引いた。役割は決まった。それでも、肝心なことは、まだ何も決まっていない。

 

「それで」

 

 東條が、静かに口を開いた。

 

「下を追うと言っても、今の私たちには、四人の居場所がわかりません」

「はい」

 

 ナディアが答える。

 

「壁の向こうは、見えないので」

「では、どこから手をつけますか」

 

 東條の問いは、的確だった。方針は立った。だが、最初の一歩を、どこに置くのか。それが見えなければ、方針は絵に描いた餅にすぎない。

 

 部屋の中が、少し静かになった。

 

 ナディアが、端末を開いた。

 

「一つ、手がかりがあります」

 

 彼女は、時系列を表示した。膨大な記録の中から、一本の線を引き出す。

 

「BABEL-00へ向かった車両は、記録が途切れます。でも、途切れる直前まで、経路は追えました」

「どこまで?」

 

 アラタが聞いた。

 

「北の、旧鉱山道の分岐点です」

 

 ナディアは、地図を拡大した。鉱山ターミナルから北へ伸びる道が、ある地点で二手に分かれている。一本は、さらに北の鉱山地帯へ。もう一本は、東の丘陵地帯へ。

 

「車両は、東へ折れました」

「東に、何がある?」

 

 レームが、入口から聞いた。

 

「わかりません」

 

 ナディアは、正直に言った。

 

「地図には、何も載っていません。廃道扱いです。でも、車両は、確かにそっちへ向かいました」

「廃道の先に、何かがある」

 

 東條が、静かに言った。

 

「地図に載っていない、ということは、載せたくないものがある、ということです」

「同感だ」

 

 レームが頷いた。

 

 ココが、地図を覗き込んだ。

 

「面白い場所ね」

 

 彼女は、東の丘陵地帯を指差した。

 

「地図に載ってない道。廃道扱い。でも、車が通ってる。しかも、そこから先は記録が消える」

「怪しいですね」

 

 ナディアが言った。

 

「怪しいわ。でも、だからこそ、そこに何かある」

 

 ココは、指を離した。

 

「まず、その分岐点まで行きましょう。そこから先が、廃道なら、廃道なりの理由がある。誰が管理してるのか。どんな車が通るのか。それを見れば、少しは見えてくる」

「偵察、ですか」

 

 東條が確認した。

 

「そう。いきなり壁を越えようとしない。まず、壁がどこにあるのか、確かめる」

 

 ココは、そう言って、周囲を見回した。

 

「ただし、無理はしない。子供たちを連れたまま、危ない場所には近づけない。偵察は、少人数で」

 

 その言葉に、サミルが手を挙げた。

 

「僕、行ける」

「あなたは残る」

 

 ジブリールが、即座に言った。

 

「なんで!」

「子供たちの見張りが必要だから」

「僕だって役に立つ」

「わかってる。だから、残って役に立って」

 

 サミルは、口を尖らせた。だが、ジブリールの言い方には、彼を軽んじる響きはなかった。むしろ、信頼していた。だからこそ、大事な役目を任せようとしていた。

 

「……わかった」

 

 サミルは、渋々頷いた。

 

「でも、次は連れてって」

「次はね」

 

 ジブリールは、少しだけ笑った。

 

 ココが、話をまとめた。

 

「偵察は、レーム、東條、それにワイリの通信支援。私も行く。アラタさんは?」

「行きます」

「無理はしないでね」

「しません」

「その返事、信用できないのよね」

 

 ココは、肩をすくめた。アラタは、少しだけ苦笑する。

 

「ヨナ君は?」

 

 ココが聞いた。

 

 ヨナは、少し考えてから答えた。

 

「残る」

「あら、意外」

「子供たちに、慣れた顔が要る」

 

 ヨナは、短く言った。

 

「知らない大人ばかりだと、あの子たちは落ち着かない。ジブリールとミラだけじゃ足りない」

 

 その言葉に、ジブリールが少しだけ目を見開いた。ヨナが、子供たちのことを、そこまで考えているとは思っていなかったのだ。

 

「あなた、面倒見いいんだ」

「違う」

「今のは、面倒見いい発言だった」

「違う」

「照れてる」

「照れてない」

 

 ヨナは、視線を逸らした。ジブリールは、それ以上追及しなかった。ただ、少しだけ、口元が緩んでいた。

 

「決まりね」

 

 ココが言った。

 

「偵察組は、夜明け前に出る。それまで、休める者は休む。子供たちは、ここで待つ」

 

 彼女は、手を叩いた。

 

「解散。以上」

 

 人々が、それぞれの場所へ散っていく。会議は終わった。方針が立ち、最初の一歩も決まった。それでも、壁の向こうは、まだ見えていなかった。

 

     *

 

 会議のあと、ココはレームと二人になった。

 

 拠点の外れ、崩れた水路の縁に腰を下ろす。乾いた風が、白いスーツの裾を揺らした。レームは少し離れた場所に立ち、周囲を警戒しながら、耳だけをココへ向けている。

 

「どう思う?」

 

 ココが聞いた。

 

「何がだ」

「BABEL-00」

 

 レームは、しばらく黙っていた。

 

「でかいだろうな」

 

 それから、彼は言った。

 

「白い学校が入口。ターミナルが心臓の一部。それでこの規模だ。上はもっとでかい」

「でしょうね」

「相手は、企業か、政府か、それとも情報機関か。あるいは、全部か」

「全部でしょうね」

 

 ココは、あっさりと言った。レームが少しだけこちらを見る。

 

「根拠は」

「勘」

「勘か」

「長年の勘」

 

 ココは笑った。

 

「こういう仕組みはね、一つの組織じゃ作れないの。企業がお金を出す。政府が目をつぶる。情報機関が情報を管理する。軍事会社が現場を動かす。みんなが少しずつ関わって、誰も全体を見ていない。そういう作り方をする」

 

 彼女は、枯れた水路の底を見つめた。

 

「そうすれば、誰も責任を取らなくて済むから」

 

 レームは、腕を組んだ。

 

「厄介だな」

「厄介よ」

「潰せるのか」

「全部は無理」

 

 ココは、正直に言った。

 

「一つの組織なら、頭を潰せば終わる。でも、これは違う。頭がいくつもある。一つ潰しても、他が残る」

「じゃあ、どうする」

「流れを止めるの」

 

 ココは、指で空中に線を引いた。

 

「頭は潰せなくても、流れは止められる。子供が運ばれる道を、一本ずつ断つ。それだけでも、意味はある」

「一本ずつ、か」

「気の長い話でしょ」

 

 ココは肩をすくめた。

 

「でも、アラタさんのやり方と、そんなに違わない」

 

 レームが、少し意外そうな顔をした。

 

「あいつは、目の前の一人を追ってるぞ」

「そうよ」

「お前は、流れを止めようとしてる」

「そう」

「別物だろう」

「別物じゃないの」

 

 ココは、遠くを見た。乾いた丘の向こうに、うっすらと山の稜線が見える。その、さらに向こうに、BABEL-00があるのかもしれなかった。

 

「一人を救うのも、流れを止めるのも、結局は同じ壁の前にいる。ただ、見ている高さが違うだけ」

 

 彼女は、少しだけ声を落とした。

 

「あの子は、下から壁を見てる。私は、上から壁を見てる。でも、壁は一つよ」

 

 レームは、それ以上何も言わなかった。ただ、ココの横顔を、しばらく見ていた。

 

 風が吹いた。乾いた砂が、水路の底を薄く滑っていく。かつて水が流れていた場所を、今は砂が流れている。

 

「登るのか」

 

 しばらくして、レームが聞いた。

 

「塔の上に」

 

 ココは、答えなかった。

 

 代わりに、少しだけ笑った。その笑みには、いつもの軽さと、いつもとは違う何かが混じっていた。危険なものに近づく時の、あの目だった。獲物の匂いを嗅ぎつけた捕食者の目でもあり、複雑なパズルの欠けた一片を見つけた子供の目でもあった。

 

「壊すなら、上まで見ないと」

 

 ココは言った。

 

 それは、鉱山ターミナルを離れる時に言ったのと、同じ言葉だった。

 

     *

 

 夕方、拠点の中に、小さな声が響いた。

 

 子供の一人が、目を覚まして泣いていた。エミルだった。悪い夢を見たのか、毛布の中で身を縮め、小さくしゃくり上げている。

 

 ミラが、すぐに近づいた。

 

「エミル、大丈夫」

「……」

「ここにいるよ。もう、大丈夫」

 

 エミルは、返事をしなかった。ただ、震えている。ミラは無理に抱き寄せず、そばに座って、静かに背中に手を添えた。

 

 その様子を、少し離れた場所からアラタが見ていた。

 

 彼は動かなかった。ミラに任せた方がいいと、わかっていた。自分が近づけば、かえって子供を緊張させるかもしれない。ミラの方が、こういう時はうまい。

 

 だが、見ていることしかできない自分が、少しだけ苦しかった。

 

「行かないの」

 

 ジブリールが、隣に来て言った。

 

「ミラに任せる」

「そう」

「僕が行くと、緊張させる」

「……そうかもね」

 

 ジブリールは、エミルの方を見た。ミラの手の下で、エミルの震えが、少しずつ収まっていく。泣き声も、小さくなっていった。

 

「あの子、名前は思い出してた」

 

 ジブリールが言った。

 

「エミルって、自分で言った」

「うん」

「でも、まだ怖がってる。名前を思い出しても、怖さは消えない」

 

 アラタは、静かに頷いた。

 

「名前は、始まりでしかないから」

 

 彼は言った。

 

「番号じゃなくなる。それは、大事なことだ。でも、それで全部が解決するわけじゃない。名前を取り戻しても、怖い夜はある。眠れない夜もある。ここまで来ても、まだ長い」

 

 ジブリールは、アラタを見た。

 

「わかってて、やってるんだ」

「うん」

「全部は救えないって、わかってて」

「わかってる」

 

 アラタの声は、静かだった。

 

「でも、始まりだけは、渡せる。名前を返す。それは、僕にできる。その先を、その子が生きていくのは、その子自身だ。僕は、代わりに生きてやれない。でも、始まりだけは、渡せる」

 

 ジブリールは、しばらく黙っていた。

 

 エミルの泣き声が、完全に止んだ。ミラが、小さな声で何かを話しかけている。子守唄のような、ゆっくりとした調子だった。

 

「四人にも」

 

 ジブリールが言った。

 

「壁の向こうの四人にも、始まりを渡すの」

「渡す」

 

 アラタは即答した。

 

「まだ会ってない。名前も知らない。それでも、渡す」

「どうやって」

「わからない」

 

 アラタは、正直に言った。

 

「壁の越え方は、まだわからない。でも、諦めるとは言ってない」

 

 ジブリールは、アラタの横顔を見た。疲れている。目の下には濃い影がある。それでも、その目は、まだ前を見ていた。

 

「見張ってる」

 

 ジブリールは言った。

 

「あなたが、壁の向こうの四人を、番号のままにしないか。見張ってる」

「頼む」

 

 アラタは、短く答えた。

 

 それ以上の言葉は、いらなかった。二人は、しばらく並んで、子供たちの眠る部屋を見ていた。

 

     *

 

 夜になった。

 

 拠点の中は、また暗くなった。ランタンの光が一つだけ灯り、その周りに、数人が集まっている。子供たちは眠っていた。エミルも、今度は静かに眠っている。

 

 ナディアが、端末を閉じた。

 

 長い作業が、一区切りついたらしい。彼女は、深く息を吐いて、ようやく背もたれに体を預けた。

 

「終わった?」

 

 アラタが聞いた。

 

「一段落です」

 

 ナディアは、目を閉じたまま答えた。

 

「時系列は、だいたい並べ終わりました。あとは、明日、ワイリさんの回線が使える時に、外部と照合します」

「ご苦労さま」

「まだ、途中です」

「それでも、ご苦労さま」

 

 ナディアは、目を開けた。それから、少しだけアラタを見る。

 

「アラタも、休んでください」

「僕は大丈夫」

「嘘です」

「……少し疲れてる」

「素直でよろしい」

 

 ナディアは、わずかに口の端を上げた。それから、また目を閉じる。今度は、本当に休むつもりらしかった。

 

 アラタは、彼女を見て、少しだけ笑った。それから、自分も壁に背を預けて、目を閉じる。

 

 眠れるとは思わなかった。頭の中には、まだ空欄が並んでいる。C-330、C-331、C-332、C-333。名前のない四つの欄。その向こうに、もっと多くの空欄があるかもしれないという不安。壁の越え方が、まだわからないという焦り。

 

 それでも、隣には気配があった。

 

 眠っているナディア。少し離れた場所で、膝を立てて座っているヨナ。その近くで、壁にもたれているジブリール。子供たちの眠る部屋。ミラの気配。オマルの気配。

 

 一人ではない。

 

 その事実だけが、かろうじて、アラタを現実に繋ぎ止めていた。

 

     *

 

 同じ夜、拠点から遠く離れた場所で、一つの部屋に明かりが灯っていた。

 

 窓のない部屋だった。壁は灰色で、装飾は何もない。ただ、機能だけがある空間。その中央に、女が一人、座っていた。

 

 エリザ・クロウだった。

 

 彼女の前には、複数の画面が並んでいる。だが、それらは鉱山ターミナルの画面とは違っていた。表示されているのは、施設の地図でも、人員の配置でもない。もっと抽象的な、数字と記号の羅列。契約。承認。移送。それらの言葉が、静かに流れていた。

 

 画面の一つに、四つの番号が表示されていた。

 

 C-330。

 C-331。

 C-332。

 C-333。

 

 そのすべてに、「BABEL-00 承認済み」という文字が付いている。

 

 エリザは、その番号を見つめていた。表情は、変わらない。喜びも、後悔も、そこにはなかった。ただ、事務的に、記録を確認しているだけのようだった。

 

 彼女の横で、通信機が小さく鳴った。

 

『クロウ』

 

 男の声だった。落ち着いた、しかしどこか傲慢さの滲む声。

 

「はい」

 

 エリザは、静かに応じた。

 

『ターミナルは、少し騒がしかったようだな』

「多少は」

『子供使いか』

「ええ」

 

 エリザは、わずかに間を置いた。

 

「アラタさんです」

『イルミネーターを使ったと聞いた』

「使いました」

『どうだった』

 

 エリザは、少しだけ考えた。それから、言葉を選ぶ。

 

「呑まれませんでした」

『ほう』

「見張りがいる、と言っていました」

 

 通信の向こうで、男が小さく笑った気配がした。

 

『見張り、か』

「ええ」

『非効率だな』

「私も、そう言いました」

 

 エリザは、画面の四つの番号を見つめたまま答えた。

 

『それで?』

「それでも、あなたの効率よりましだと」

 

 少しの沈黙があった。

 

『面白い男だ』

 

 男は言った。

 

『使えるか』

「使えません」

 

 エリザは、即座に答えた。

 

「あの人は、こちらに来ません。何度誘っても、来ない。だから、使えません」

『残念だな』

「ええ」

 

 エリザは、初めて、ほんのわずかに、感情のようなものを声に滲ませた。

 

「残念です」

 

 通信の向こうの男は、それには応じなかった。しばらく、沈黙があった。エリザは、その沈黙の意味を測りかねた。この男は、無駄な間を取らない。沈黙にも、必ず意味がある。

 

『クロウ』

 

 やがて、男が言った。

 

「はい」

『お前は、なぜあの男を惜しむ』

 

 その問いは、唐突だった。エリザは、わずかに眉を動かした。

 

「惜しんでいません」

『残念だと言った』

「事実を述べたまでです」

『事実に、感情が乗っていた』

 

 男の声には、責める響きはなかった。ただ、観察するような、値踏みするような冷たさがあった。エリザは、この男が、自分をも管理対象として見ていることを、改めて理解した。

 

「才能を、惜しんだのかもしれません」

 

 エリザは、慎重に言葉を選んだ。

 

「あの人は、人を動かせます。恐怖でも、金でもなく。それは、稀有な力です。こちら側に来れば、多くのことができた。それが、できない。だから、惜しい」

『それだけか』

「それだけです」

 

 少しの間があった。

 

『ならば、いい』

 

 男は言った。

 

『感情で判断が鈍るなら、お前も交代だ』

「承知しています」

『お前は、下を管理していればいい。上のことは、考えるな』

 

 その言葉は、命令だった。同時に、警告でもあった。エリザは、静かに応じた。

 

「承知しました」

 

 男の声が、少しだけ和らいだ。あるいは、和らいだように聞こえた。

 

『四人は、予定通りだ』

「承知しています」

『他の分も、そろそろ動かす』

「一斉移送、ですか」

『ああ』

 

 エリザの目が、わずかに動いた。

 

「人数は」

『気にするな』

 

 男は言った。

 

『お前が知る必要はない。お前は、下を管理していればいい』

「……承知しました」

 

 エリザは、それ以上聞かなかった。聞いても、答えは返ってこない。それが、この構造だった。彼女ですら、上の全部を見ているわけではない。彼女は、あくまで一つの層を管理しているに過ぎなかった。

 

 通信が切れた。

 

 部屋は、また静かになった。

 

 エリザは、画面の四つの番号を、もう一度見つめた。C-330、C-331、C-332、C-333。名前のない四つの番号。彼女にとって、それは、ただの移送対象だった。番号であり、記録であり、承認済みの項目に過ぎない。

 

 だが、ふと、彼女の脳裏に、あの青年の声がよぎった。

 

 番号で終わらせない。

 

 アラタは、そう言った。今助けている子も、後で助ける子も、番号で終わらせない、と。

 

 エリザは、その言葉を、理解できなかった。効率で考えれば、それは無意味な執着だった。番号を名前に変えたところで、救える人数が増えるわけではない。むしろ、非効率になる。感情が入れば、判断は鈍る。数で見られなくなれば、選別ができなくなる。

 

 それでも。

 

 エリザは、画面の空欄を見つめた。名前欄の、四つの空白。

 

 あの青年は、ここを埋めようとするのだろう。会ったこともない、名前も知らない子供のために。壁の越え方もわからないまま。それでも。

 

「非効率です」

 

 エリザは、誰もいない部屋で、小さく呟いた。

 

 その声には、いつもの冷たさがあった。だが、その奥に、ほんのわずかに、別の響きが混じっていたことに、彼女自身は気づいていなかった。

 

 画面の光が、彼女の顔を青白く照らしている。

 

 四つの番号は、まだ、空欄のままだった。

 

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