JORMUNGAND:マージナル・チルドレン 作:たこ焼き 龍月
夜明け前の空気は、刃のように冷たかった。
偵察組が拠点を出たのは、まだ星が残っている時刻だった。ウゴの運転する車両が一台。乗っているのは、ココ、レーム、東條、アラタ、それにナディア。ワイリは通信支援のため、少し離れた高台へ別行動で向かっていた。バルメは護衛として同乗を主張したが、ココが拠点に残した。子供たちのそばに、腕の立つ者が要る。それが理由だった。
車は、灯りを消して走った。
ヘッドライトを点ければ、遠くからでも見える。だからウゴは、わずかな月明かりと、暗視装置だけを頼りにハンドルを握った。乾いた道が、タイヤの下で低く鳴る。誰も口を開かなかった。
やがて、旧鉱山道の分岐点が見えてきた。
道が二手に分かれている。一本は北へ、鉱山地帯の奥へ。もう一本は東へ、丘陵地帯へと折れていた。ナディアの記録が示していた通りだった。地図には載っていない、廃道扱いの道。だが、その路面には、確かに新しいタイヤの痕が残っていた。
「使われてるわね」
ココが、窓の外を見ながら言った。
「廃道のはずが、けっこう最近まで車が通ってる」
「頻度は?」
レームが聞いた。
「ナディアちゃん」
「痕跡から見て、定期的です」
ナディアが端末を確認しながら答えた。
「複数の轍が重なっています。同じ道を、何度も。しかも、大型車両です」
「子供を運ぶには十分だな」
レームの声は低かった。
ウゴが、分岐点の手前で車を止めた。ここから先へ車で入れば、痕跡が残る。それに、音も出る。ここからは、慎重に進むべきだった。
「歩くの?」
ナディアが聞いた。
「少しだけね」
ココが答えた。
「東の道が、どこへ向かってるのか。それを確かめるだけ。深入りはしない」
彼女は、車を降りた。乾いた冷気が、肌を刺す。他の者も、続いて降りた。ウゴだけは車に残る。いつでも動けるように、エンジンは切らない。
*
同じ頃、拠点では、ジブリールが眠れずにいた。
子供たちは、奥の部屋で眠っている。ミラが、その間を静かに見回っていた。バルメは入口の近くで、外の気配を探っている。だが、ジブリールは、壁にもたれたまま、じっと闇を見つめていた。
偵察組が出てから、何時間が経っただろう。
まだ、連絡はない。無音は、たいてい、良い兆候だった。何も起きていない。順調に進んでいる。だが、その無音が、かえってジブリールを落ち着かなくさせた。
「眠れないの」
ヨナが、近くに座った。彼もまた、眠っていなかった。
「眠れる」
「眠ってない」
「……眠れない」
ジブリールは、認めた。ヨナは、それ以上追及しなかった。ただ、隣に座って、同じ闇を見た。
「心配なんだろ」
ヨナが言った。
「アラタが」
「別に」
「銃声一つで、飛び出しそうな顔してる」
「してない」
ジブリールは、視線を逸らした。だが、ヨナの言う通りだった。彼女は、通信機を握ったまま、いつでも動けるように身構えていた。
「あなたは、平気なの」
ジブリールが、逆に聞いた。
「平気じゃない」
ヨナは、あっさり答えた。
「でも、ここで俺たちが飛び出したら、子供たちが無防備になる。だから、動かない」
「わかってる」
「わかってるなら、いい」
ヨナは、それ以上何も言わなかった。だが、彼もまた、通信機のそばを離れなかった。二人とも、同じだった。心配で、飛び出したい。だが、飛び出せない。だから、ただ、待っていた。
待つことは、時に、動くことよりも、つらかった。
バルメが、入口から、静かに言った。
「二人とも、少し休め」
「無理」
ジブリールが即答した。
「休めるわけない」
「気持ちはわかる」
バルメは、頷いた。彼女も、ヨナが偵察に出ていれば、同じように眠れなかっただろう。守りたい相手が、見えない場所で危険に晒されている。その不安を、彼女もよく知っていた。
「だが、疲れを残すな。何かあった時、動けなくなる」
「……わかった」
ジブリールは、渋々頷いた。だが、目は、闇を見つめたままだった。
*
偵察組は、丘の裏へ回り込んでいた。
東の道は、緩やかに丘を登っていた。道の両側には、乾いた低木が生えている。視界を遮るには十分な高さだった。一行は、その低木の陰を選びながら、道に沿って進んだ。誰も無駄な音を立てない。長い戦場を渡ってきた者たちの動きだった。アラタも、ナディアも、その速度に遅れなかった。
丘を一つ越えると、視界が開けた。
その先に、施設があった。
*
それは、遠目には何の変哲もない建物だった。
低い、灰色の建造物。周囲には、有刺鉄線の柵が張り巡らされている。門は一つだけ。そこに、警備の車両が二台。人影も、いくつか見えた。
「あれか」
レームが、双眼鏡を覗きながら呟いた。
「見た目は、ただの倉庫だな」
「倉庫にしては、警備が厚いわね」
ココも、目を細めて施設を見た。
「柵。門。車。人。ただの荷物置き場に、あれだけの警備はいらない」
「中継所ですね」
東條が、静かに言った。
「BABEL-00そのものではないでしょう。でも、そこへ向かう途中の、どこか」
「同感だ」
レームが頷いた。
アラタは、その施設を見ていた。灰色の建物。有刺鉄線。門の警備。ここに、四人がいるのか。それとも、ここを通り過ぎて、さらに上へ運ばれたのか。それは、まだわからなかった。
ナディアが、端末で施設の位置を記録している。
「座標、取りました」
「中の様子は?」
アラタが聞いた。
「ここからは、わかりません。柵の外までしか見えないので」
ナディアの声には、悔しさが滲んでいた。壁の向こうは、やはり見えない。ここまで来ても、肝心なところは、まだ闇の中だった。
「近づく?」
ナディアが聞いた。
「いや」
ココが、即座に否定した。
「今日は、ここまで。場所がわかっただけで十分よ。無理に近づけば、気づかれる。気づかれれば、向こうは警戒を上げる。そうしたら、次が難しくなる」
彼女は、双眼鏡を下ろした。
「今日は、見るだけ。それで――」
その時だった。
施設の門で、動きがあった。
警備の車両が一台、門を出てくる。ゆっくりと、こちらへは向かわず、施設の周囲を回るように。巡回だった。定期的に、周辺を確認しているのだ。
「伏せて」
ココが、低く言った。
一行は、低木の陰に身を沈めた。車両は、丘の麓を通り過ぎていく。こちらには気づいていない様子だった。だが、その車両が、ある地点で、ふいに速度を落とした。
アラタの背筋が、冷たくなった。
車両の窓から、誰かがこちらを――正確には、丘の斜面を、じっと見ている。
「見られたか?」
レームが、囁くように聞いた。
「わからない」
ココが、目だけを動かして答えた。
「動かないで。じっとしてれば、たぶん――」
車両のドアが、開いた。
警備員が二人、降りてくる。銃を手にしている。彼らは、丘の斜面を指差し、何かを話している。それから、ゆっくりと、斜面を登り始めた。
「気づかれた」
東條が、静かに言った。
誰も、すぐには動かなかった。まだ、断定はできない。ただの確認かもしれない。何かの気配を感じて、念のため見に来ただけかもしれない。だが、警備員の足取りは、確実に、こちらへ近づいてきていた。
ココが、ゆっくりと、通信機を口元へ寄せた。
「ワイリ」
声は、囁きに近かった。
『聞こえてる』
「気づかれたかもしれない。高台から、施設の様子は見える?」
『見えてる』
「門の動きを教えて。増援が出るかどうか」
『……今のところ、門は静かだ。出てきた車一台だけだな』
「わかった」
ココは、通信を切った。それから、レームを見る。
「どうする?」
「静かに引く」
レームが答えた。
「まだ、向こうは二人だ。増援も出ていない。今なら、気づかれる前に距離を取れる。ゆっくり、後ろへ下がる」
その判断は、正しかった。誰もが、それに従おうとした。
一行は、身を低くしたまま、後ろへ下がり始めた。低木の陰を選び、音を立てず、一歩ずつ。警備員は、まだ斜面の下にいる。距離はある。このまま丘の裏へ回れば、視界から消えられる。
だが。
ナディアの足が、乾いた枝を踏んだ。
小さな音だった。ほんの、乾いた小枝が折れる音。普段なら、聞き逃されるような音。だが、静まり返った丘の斜面では、その音は、驚くほど遠くまで届いた。
警備員が、足を止めた。
そして、銃を構えた。
「いた!」
声が、上がった。
次の瞬間、乾いた破裂音が、朝の空気を裂いた。
*
最初の一発は、外れた。
弾丸は、ナディアのいた場所から、わずかに逸れて、低木の枝を弾き飛ばした。乾いた木片が、宙に舞う。
「走れ!」
レームが叫んだ。
もう、静かに引く段階ではなかった。気づかれた以上、あとは速度の勝負だった。一行は、身を起こし、丘の裏へ向かって走り出した。
二発目。三発目。
弾丸が、周囲の地面を叩く。乾いた土が、小さく跳ね上がった。アラタは、走りながら、ナディアの腕を掴んだ。彼女は端末を抱えたまま、必死に足を動かしている。だが、戦闘の訓練を積んだ者ではない。速度が、わずかに足りなかった。
「ナディア、前だけ見て!」
アラタが叫んだ。
「はい!」
ナディアの声は、掠れていた。恐怖で、足がもつれそうになる。それでも、彼女は走った。アラタが腕を引き、その速度を支えた。
レームは、走りながら、背後を確認した。警備員が、斜面を駆け下りてくる。二人。まだ二人だけだった。だが、その一人が、無線機に何かを叫んでいた。増援を呼んでいる。時間の問題だった。
「東條!」
レームが叫んだ。
「見えています!」
東條が答える。彼は、走りながらも、周囲の地形を頭に入れていた。逃走経路。遮蔽物。距離。すべてを、瞬時に計算している。
「右の岩場を抜ければ、車まで一直線です!」
「わかった!」
一行は、右へ折れた。岩場が、遮蔽になる。銃弾が、岩に当たって、火花を散らした。だが、体には当たらない。岩が、盾になっていた。
その時、ココが、足を止めた。
「ココ!」
レームが振り返る。
「先に行って」
ココは、岩陰に身を寄せ、拳銃を抜いた。
「ナディアちゃんを、先に車へ。私が、少し足止めする」
「一人でか」
「一人じゃないわ」
ココは、通信機を口元へ寄せた。
「ワイリ。ルツはどこ?」
沈黙の後、別の声が返ってきた。
『ここにいる』
ルツの声だった。いつもの、軽い調子。だが、その裏に、集中がある。
『高台の反対側だ。ワイリと一緒に、そっちを見てた。嫌な予感がしてな』
「気が利くわね」
『長い付き合いだ』
「警備員、二人。斜面を登ってくる。増援も、たぶんもうすぐ」
『見えてる』
ルツの声は、落ち着いていた。
『撃つか?』
「当てなくていい。足を止めるだけ」
『了解。派手にやるなよってことだな』
「そういうこと」
ココは、岩陰から、わずかに顔を出した。警備員が、斜面を登ってくる。もう、すぐそこまで来ていた。
次の瞬間。
乾いた銃声が、一発。
だが、それはココの拳銃でも、警備員の銃でもなかった。もっと遠く、高台の方向から響いた音だった。
警備員の足元、すぐ手前の地面が、弾け飛んだ。
狙撃だった。ルツの一発。当てるためではない。警備員の、一歩先の地面を撃ち抜いたのだ。
警備員が、反射的に足を止めた。予想外の方向からの射撃。しかも、正確だった。あと少しずれていれば、足に当たっていた。彼らは、慌てて周囲を見回す。狙撃手が、どこにいるのか。それが、わからない。
「動きが止まった」
ココが、小さく笑った。
「ルツ、もう一発。今度は、反対側」
『注文が多いな』
ルツはぼやいたが、すぐに応じた。二発目。今度は、警備員の左手、数メートル先の岩が砕けた。
警備員は、完全に混乱していた。前からも、横からも、狙われている。しかも、撃ってくる相手の位置がわからない。彼らは、その場に伏せた。むやみに動けば、次は当たるかもしれない。そう判断したのだ。
「今よ」
ココが、岩陰から離れた。
「ナディアちゃんたちは、もう車の近くのはず。私も下がる」
彼女は、身を低くして、岩場を走った。ルツの狙撃が、警備員の頭を上げさせない。その隙に、ココは距離を取っていく。
だが、その時だった。
施設の門から、新たな車両が二台、飛び出してきた。
増援だった。無線を受けて、駆けつけてきたのだ。車両は、丘の麓で止まり、複数の兵士が降りてくる。今度は、二人ではなかった。六人。いや、八人。しかも、装備が違う。先ほどの警備員よりも、明らかに、訓練された動きだった。
「増えたな」
ルツの声が、通信機から入る。
『高台からじゃ、全部は抑えきれないぞ』
「わかってる」
ココは、走りながら答えた。
「レーム、車の準備は?」
『ウゴが待ってる。あと少しだ』
「ナディアは?」
『乗せた。アラタも、東條も』
「じゃあ、あとは私だけね」
ココは、丘の斜面を駆け下りた。だが、増援の兵士たちが、散開し始めている。彼らは、逃走経路を塞ごうとしていた。訓練された動き。囲い込みだった。
一発、また一発。
銃弾が、ココの足元を、追ってくる。今度は、当てに来ていた。先ほどの警備員とは、精度が違う。ココは、身を低くし、遮蔽物から遮蔽物へと移動する。だが、開けた斜面では、隠れる場所が限られていた。
『ココ、左の兵士が回り込んでる』
ワイリの声が、通信機から飛んだ。
「見えてる」
ココは、左を確認した。一人の兵士が、彼女の退路を塞ぐように、横から回り込んでいた。このままでは、車まで辿り着く前に、挟まれる。
「ルツ、左の兵士」
『遠い。角度が悪い』
「無理?」
『無理とは言ってない』
ルツの声には、いつもの余裕があった。だが、その余裕の裏で、彼は必死に照準を合わせていた。回り込む兵士。動く標的。しかも、遠距離。難しい射撃だった。
一拍。
銃声。
回り込んでいた兵士の、すぐ足元が、弾け飛んだ。兵士は、たたらを踏んで、足を止めた。当たってはいない。だが、あと数センチだった。その事実が、兵士の動きを鈍らせた。
「さすが」
ココが、笑った。
『褒めても、弾は増えないぞ』
「知ってる」
だが、状況は、まだ好転していなかった。
増援の兵士たちは、狙撃を警戒しながらも、確実に包囲を狭めていた。彼らは、無闇に動かない。一人が前進する間、他が援護する。訓練された連携だった。ルツの狙撃で一人を止めても、別の一人が、じりじりと距離を詰めてくる。
『ココ、右も来てる』
ワイリの声が、緊張していた。
『高台から見えてる。全部で八人。三方向から、じわじわ寄せてきてる。ルツ一人じゃ、全部は抑えられない』
「わかってる」
ココは、岩陰で、拳銃を握り直した。彼女は、戦闘のプロではない。だが、追い詰められた時の判断だけは、誰よりも速かった。
「レーム、車の位置は」
『岩場の向こう。あと五十メートルってところだ』
「五十メートル、か」
ココは、その距離を測った。開けた斜面を、五十メートル。狙撃に守られても、その間、無防備に晒される。楽な距離ではなかった。
「ルツ」
『言え』
「今から、私が走る。全部の兵士を、一度に止められる?」
『無茶を言うな』
「一瞬でいい。三秒。三秒だけ、全員の頭を下げさせて」
通信の向こうで、ルツが、短く息を吐いた。
『三秒か』
「できる?」
『できるとは言ってない。やるとは言う』
ルツの声には、覚悟があった。彼は、高台で、照準を素早く動かした。三方向。八人。全員を、一度に狙うことはできない。だが、順番に、一発ずつ、最も近い脅威を撃ち抜いていく。頭を下げさせる。それを、連続で。
『合図しろ』
「三、二、一――今!」
ココが、走り出した。
同時に、ルツの狙撃が、始まった。
一発。右の兵士の足元。
二発。左の兵士の、頭のすぐ横の岩。
三発。正面の兵士の、盾にしていた木箱。
連続した射撃が、兵士たちの動きを、一瞬、凍りつかせた。誰もが、反射的に頭を下げた。どこから撃たれるか、わからない。その恐怖が、彼らの前進を止めた。
その、三秒。
ココは、開けた斜面を、全力で駆け抜けた。銃弾が、遅れて追ってくる。だが、兵士たちが体勢を立て直した時には、ココは、すでに岩場の陰へ滑り込んでいた。
「抜けた」
ココは、荒い息のまま言った。
『ぎりぎりだったぞ』
ルツの声も、緊張が抜けきっていなかった。
『あと一発でも遅れてたら、当たってた』
「当たらなかったでしょ」
『結果論だ』
「あなたを信じてただけよ」
『……調子のいいことを』
ルツは、そう言ったが、その声には、わずかな安堵があった。ココは、岩場の陰を、車の方向へと走った。
その先に、車が見えた。
ウゴが、運転席で待っている。後部座席には、ナディア、アラタ、東條。エンジンは、すでに回っていた。
「ココ!」
アラタが、ドアを開けて叫んだ。
「早く!」
ココは、最後の距離を走った。銃弾が、車体を掠める。乾いた金属音。だが、ココは止まらない。彼女は、開いたドアへ飛び込んだ。
「出して!」
叫ぶより早く、ウゴがアクセルを踏んだ。
車は、砂利を巻き上げて発進した。背後で、銃声が続く。弾丸が、車体の後部を叩いた。だが、ウゴは速度を緩めない。乾いた道を、車は全速力で駆け抜けた。
*
高台では、ルツとワイリが、離脱の準備をしていた。
ルツは、狙撃銃を素早く分解し、ケースへ収めていく。もう、援護の役目は終わった。ココたちは、車で離脱した。あとは、自分たちが、無事にここを抜けるだけだった。
「派手にやったな」
ワイリが、機材をまとめながら言った。
「やらされたんだよ」
ルツが、答えた。
「ココの注文が、無茶すぎる。八人を三秒で止めろだと」
「で、止めたんだろ」
「まあな」
ルツは、ケースを閉じた。彼の顔には、いつもの軽さが戻っていた。だが、その手は、まだ、わずかに緊張を残していた。難しい射撃だった。一発でも外していれば、ココは、車まで辿り着けなかったかもしれない。
「施設の連中は?」
ルツが聞いた。
「動いてない」
ワイリが、双眼鏡を覗きながら答えた。
「車を追いかける気配もない。門の中に、引き上げてる」
「持ち場を離れないってわけか」
「徹底してるな」
ワイリは、双眼鏡を下ろした。
「あの施設、守りが固すぎる。ただの中継所じゃない」
「ココも、同じことを言ってた」
「だろうな」
二人は、機材をまとめ終えると、高台を、静かに下り始めた。追跡はない。だが、油断はしない。長い戦場を渡ってきた者たちの動きだった。彼らは、来た時とは違う道を選び、痕跡を残さないように、丘を下っていった。
「しかし」
ワイリが、歩きながら言った。
「上に行くほど、面倒になるな」
「戦場ってのは、だいたいそうだ」
ルツが、答えた。
「入口は簡単。奥は難しい。当たり前だろ」
「その当たり前が、嫌になる」
「同感だ」
二人は、それ以上何も言わず、丘を下った。乾いた風が、彼らの背中を、静かに押していた。
*
しばらく走って、追跡が途切れたのを確認してから、ウゴは速度を落とした。
車内は、荒い息で満ちていた。ナディアは、端末を胸に抱えたまま、震えていた。アラタが、その背中に手を添えている。東條は、後方を警戒しながら、静かに呼吸を整えていた。
「怪我は?」
ココが、後部座席を振り返って聞いた。
「ありません」
東條が答えた。だが、その声に、わずかな遅れがあった。ココは、それを聞き逃さなかった。
「東條」
「……かすりました」
東條は、静かに認めた。左の二の腕。上着の袖が、裂けている。その下から、赤いものが滲んでいた。深くはない。弾が、掠めただけだった。だが、確かに、当たっていた。
「見せなさい」
ココの声が、少しだけ変わった。
「大したことはありません」
「私が決める」
ナディアが、震える手で、救急の袋を開けた。彼女は、戦闘の恐怖がまだ抜けきっていない。それでも、手は動いた。ミラから、応急の手当てを教わっていたのだ。
「東條さん、腕を」
「自分でできます」
「私にやらせてください」
ナディアの声は、掠れていた。だが、譲らなかった。東條は、少しだけ躊躇ってから、腕を差し出した。
ナディアは、傷口を確認した。浅い。だが、出血はある。彼女は、教わった通り、傷を圧迫し、包帯を巻いた。手つきは、まだぎこちない。それでも、丁寧だった。
「痛みますか」
「大丈夫です」
「無理、してませんか」
「していません」
東條は、淡々と答えた。だが、彼は、ナディアの手が、まだ震えていることに気づいていた。恐怖の中で、それでも、自分の役目を果たそうとしている。その姿を、彼は、静かに見ていた。
「ありがとうございます」
東條が、言った。
「うまくなりましたね」
「……ミラに、教わったので」
ナディアは、包帯を巻き終えると、ようやく、少しだけ息を吐いた。手当てをしている間だけは、恐怖を忘れられた。何かをしている、という感覚が、彼女を、かろうじて支えていた。
ココは、その様子を見て、少しだけ表情を和らげた。
「全員、無事ね」
「かすり傷なので」
東條が言った。
「かすり傷でも、傷は傷よ」
ココは、そう言って、前を向いた。
「今日は、危なかった。次は、同じやり方はしない」
「怪我は?」
彼女は、改めて、他の者にも聞いた。
「ナディアちゃんは?」
「……大丈夫、です」
ナディアの声は、まだ掠れていた。だが、はっきりと答えた。
「端末も、無事です」
ココは、少しだけ笑った。
「そっちを先に言うのね」
「大事なので」
「頼もしいわ」
ナディアは、震えながらも、わずかに口の端を上げた。恐怖は、まだ体に残っている。それでも、彼女は、自分の役目を放さなかった。
アラタは、ナディアの背中をさすりながら、窓の外を見ていた。遠ざかっていく丘。その向こうに、灰色の施設があった。有刺鉄線。門の警備。そして、あの、訓練された兵士たち。
「あの警備」
アラタが、低く言った。
「ただの中継所にしては、厳重すぎます」
「そうね」
ココが頷いた。
「最初に出てきた警備員は、普通だった。でも、増援は違った。あれは、訓練された兵士よ。しかも、装備がいい。ただの荷物置き場を守る連中じゃない」
「じゃあ、あそこは」
「重要な場所ってこと」
ココは、窓の外を見た。
「どうでもいい場所なら、あんな連中は置かない。守る価値があるものが、あそこにある。それが何かは、まだわからないけど」
彼女は、そこで少し考えた。
「気になるのは、警備の質の差ね」
「差、ですか」
東條が聞いた。
「最初に出てきた警備員と、増援。まるで別の組織みたいだった」
ココは、記憶を辿るように言った。
「最初の連中は、ただの見張り。地元で雇った程度の兵士よ。でも、増援は違った。装備も、動きも、明らかに格上。あれは、PMC。しかも、それなりのランクの」
「二層に、なっていると」
東條が、言葉を継いだ。
「表向きは、地元の警備員に見せておく。でも、本当に守っているのは、その裏にいるPMC」
「そういうこと」
ココは頷いた。
「地元の警備員は、飾りよ。何かあった時、まず前に出るのは彼ら。でも、本当の戦力は、奥に隠してる。それだけ、あの施設は、大事に守られてる」
アラタは、その分析を、静かに聞いていた。二層の警備。飾りの見張りと、隠された戦力。それは、白い学校や鉱山ターミナルには、なかった構造だった。上へ行くほど、守りは、巧妙になっていく。
「PMCって、グレイ・ハウンドですか」
アラタが聞いた。
「かもしれない。でも、違うかもしれない」
ココは、慎重に言った。
「グレイ・ハウンドは、このルートに関わってる。それは間違いない。でも、あの施設を守ってるのが、グレイ・ハウンドとは限らない。もっと上の、別の組織かもしれない」
「別の組織」
「BABEL-00は、いくつもの組織が関わってる仕組みよ。だから、警備も、一枚岩じゃない。どの層を、誰が守ってるのか。それを見極めるのが、次の仕事ね」
通信機が、鳴った。
『ココ』
ルツの声だった。
「聞こえてる。助かったわ」
『こっちは無事に離脱した。ワイリも一緒だ』
「追跡は?」
『高台からは、もう見えない。追ってこなかった。施設の中に、引き上げていった』
「深追いはしない、ってことね」
『みたいだな』
ルツの声には、疑問が滲んでいた。
『妙だと思わないか。あれだけ撃ってきたのに、施設から離れようとしない』
「思うわ」
ココは、答えた。
「あの連中は、守ってるの。施設を。中にあるものを。だから、外まで追ってこない。持ち場を離れないように、命令されてる」
『徹底してるな』
「徹底してるってことは、それだけ大事なものがあるってこと」
ココは、通信を切った。それから、しばらく黙っていた。
車内は、静かだった。エンジンの音と、乾いた道を走るタイヤの音だけが響いている。誰もが、それぞれに、今しがたの銃撃戦を反芻していた。
アラタは、ナディアの震えが、少しずつ収まっていくのを感じていた。彼女の呼吸が、ゆっくりと、落ち着いていく。それでも、アラタは手を離さなかった。
「ごめん」
ナディアが、小さく言った。
「何が?」
「私が、枝を踏んだから。あれで、気づかれました」
その声には、後悔があった。自分のせいで、全員を危険に晒した。彼女は、そう思っていた。
「ナディアのせいじゃない」
アラタは、静かに言った。
「あの場所に近づいた時点で、いつか気づかれた。たまたま、あのタイミングだっただけだ」
「でも」
「それに」
アラタは、続けた。
「君は、走りながらも、端末を離さなかった。座標も、記録も、全部守った。あの場所が、どこにあるのか。それがわかったのは、君のおかげだ」
ナディアは、アラタを見た。
「役に、立ちましたか」
「立った」
アラタは、即答した。
「すごく」
ナディアは、しばらく黙っていた。それから、小さく頷いた。震えは、もう、ほとんど止まっていた。
*
拠点に戻ったのは、昼過ぎだった。
子供たちは、無事だった。ジブリールとヨナ、ミラとバルメが、しっかりと守っていた。偵察組が戻ると、ジブリールが真っ先に駆け寄ってきた。
「遅い」
彼女は、開口一番に言った。だが、その声には、怒りよりも、安堵が滲んでいた。
「心配した?」
ココが、からかうように聞いた。
「してない」
「顔に出てるわよ」
「出てない」
ジブリールは、視線を逸らした。だが、その目は、すぐにアラタへ向いた。
「アラタ、無事?」
「無事だ」
「怪我は?」
「ない」
ジブリールは、アラタを、上から下まで確認した。本当に無事なのか、自分の目で確かめたいのだ。その様子を見て、アラタは少しだけ笑った。
「本当に、大丈夫だから」
「銃声、聞こえた」
ジブリールが言った。
「遠くだったけど。だから、心配した」
「……心配してたのか」
「してない」
また、同じやり取りだった。アラタは、それ以上追及しなかった。ただ、ジブリールが本当に心配していたことは、わかっていた。
だが、ジブリールの表情は、すぐには晴れなかった。彼女は、東條の腕に巻かれた包帯に、気づいていた。
「それ」
彼女は、東條を見た。
「怪我」
「かすり傷です」
「かすり傷でも、当たったんでしょ」
ジブリールの声が、低くなった。彼女は、拳を握った。誰かが、傷を負った。偵察のはずが、銃撃戦になった。壁は、思っていたよりも、厚かった。
「……次は、私も行く」
ジブリールが言った。
「戦えるから。足手まといには、ならない」
「ジブリール」
アラタが、静かに言った。
「今日は、偵察だった。戦うつもりは、なかった」
「でも、戦いになった」
「なった。だから、次は、もっと慎重にする」
「慎重にして、それで、また誰かが撃たれたら」
ジブリールの声には、抑えきれない何かがあった。彼女は、待つことに、耐えられなかった。誰かが危険な場所へ行き、自分は拠点で待つ。その間、何もできない。ただ、無事を祈るだけ。それが、つらかった。
「わかってる」
アラタは、彼女の目を見た。
「君が、戦えることは、わかってる。でも、今日、君には、子供たちを守ってほしかった。それも、大事な役目だ」
「守るだけじゃ」
「守るだけ、じゃない」
アラタは、はっきりと言った。
「君がいたから、僕は、安心して偵察に行けた。子供たちが、無防備にならないって。それは、君にしか、頼めなかった」
ジブリールは、しばらく黙っていた。それから、視線を逸らす。
「……ずるい」
「何が」
「そういう言い方」
彼女は、拳を、少しだけ緩めた。アラタの言葉は、彼女を納得させたわけではなかった。だが、その言葉の中に、確かな信頼があることは、伝わっていた。
ヨナが、少し離れた場所から、近づいてきた。
「無事か」
「無事だ」
「そうか」
ヨナは、それだけ言った。だが、その短い言葉の中に、確かな確認があった。彼もまた、銃声を聞いて、案じていたのだ。
彼は、東條の包帯を、ちらりと見た。
「かすったか」
「はい」
「浅いな」
「浅いです」
ヨナは、それ以上聞かなかった。傷の深さを見れば、状況の危険度がわかる。浅い傷。全員が無事に戻れた。だが、あと少しずれていれば、どうなっていたか。それは、彼にも、わかっていた。
東條が、車から降りながら、ヨナに言った。
「銃撃戦になりました」
「聞いた」
「ルツさんの狙撃がなければ、危なかった」
東條の声は、淡々としていた。だが、その内容は、事態の深刻さを示していた。ヨナの表情が、わずかに硬くなる。
「敵は」
「訓練された兵士です。数も、装備も、想定以上でした」
ヨナは、それを聞いて、しばらく黙っていた。それから、静かに言う。
「壁が、厚くなってきたな」
「はい」
東條が頷いた。
「近づくほど、厚くなります」
*
その夜、拠点で、偵察の報告がまとめられた。
ナディアの記録した座標。施設の外観。警備の規模。増援の質。それらが、一つずつ、確認されていく。子供たちは、奥の部屋で眠っていた。手前の部屋に、主要な者たちが集まっていた。
「まとめると」
ココが、口を開いた。
「東の丘陵地帯に、施設がある。灰色の建物。有刺鉄線。門の警備。そして、訓練された兵士たち。ただの中継所じゃない。何か、守る価値のあるものがある」
「四人が、そこにいるんでしょうか」
アラタが聞いた。
「わからない」
ココは、正直に答えた。
「いるかもしれない。もう、通り過ぎたかもしれない。中が見えない以上、断定はできない」
アラタの表情が、曇った。ここまで来ても、まだ、はっきりしない。四人が、どこにいるのか。生きているのか。それすら、確かめられない。
「でも」
ココが、続けた。
「一つ、わかったことがある」
彼女は、地図の、あの施設の位置を指差した。
「あそこは、BABEL-00へ向かう道の、途中にある。つまり、あそこを調べれば、その先が見えてくる。壁の、越え方が」
「調べる、って」
ジブリールが聞いた。
「もう一度、近づくの?」
「今度は、違うやり方でね」
ココは、笑った。
「正面から近づけば、また撃たれる。だから、別の方法を考える。中がどうなってるのか。何を守ってるのか。誰が管理してるのか。それを、外から、少しずつ剥がしていく」
「時間がかかりますね」
東條が言った。
「かかるわ」
ココは、認めた。
「でも、急げば失敗する。焦れば、また撃たれる。今日みたいに」
彼女は、そこで、少しだけ声を落とした。
「今日は、運が良かった。ルツがいて、ワイリがいて、ウゴが待ってた。だから、誰も欠けずに戻れた。でも、次も、そうとは限らない」
その言葉に、部屋の空気が、少し重くなった。
銃撃戦。あの、乾いた破裂音。足元を叩く弾丸。訓練された兵士たち。今日は、全員が無事に戻れた。だが、それは、幸運でもあった。次は、どうなるか、わからない。
「無理は、しない」
アラタが、静かに言った。
「今日、わかりました。壁は、厚い。近づけば、撃たれる。でも、無理をして、誰かを失ったら、意味がない」
彼は、周囲を見回した。ココ。レーム。東條。ナディア。ジブリール。ヨナ。オマル。ミラ。全員が、そこにいた。全員が、無事だった。
「四人を救うために、ここにいる誰かを失うのは、違う」
アラタは、言った。
「順番を、間違えない。焦らない。今日、それを、教わりました」
ヨナが、口を開いた。
「珍しいな」
「何が?」
「お前が、そこまで言うのは」
ヨナの声には、わずかな驚きがあった。アラタは、いつも、目の前の子供を、全部救おうとする。焦りすぎるほどに。それが、彼の危うさでもあった。だが、今日は違った。
「銃撃戦は、初めてじゃありません」
アラタは、答えた。
「でも、ナディアが震えているのを見て、思いました。この人たちを、危険な場所へ連れて行くのは、僕の判断だって。だから、その判断を、間違えたくない」
ヨナは、しばらくアラタを見ていた。それから、短く言った。
「いい判断だ」
それは、ヨナにしては、珍しい言葉だった。褒め言葉に近いものを、彼が口にするのは、めったにないことだった。アラタは、少しだけ、意外そうな顔をした。
「褒めてます?」
「言っただけだ」
「同じでは」
「違う」
ヨナは、視線を逸らした。だが、その口元は、わずかに緩んでいた。
ジブリールが、二人を見て、小さく笑った。
「あなたたち、似てきた」
「「似てない」」
ヨナとアラタが、同時に言った。
その息の合い方に、今度は、ココが吹き出した。
「息ぴったりじゃない」
「「違います」」
また、同時だった。部屋の空気が、少しだけ緩む。重すぎる一日の終わりに、その小さな笑いは、貴重だった。
*
夜が更けて、大半の者が眠りについた頃。
ヨナは、一人、拠点の隅で膝を立てて座っていた。眠れなかった。今日、偵察組が銃撃戦に巻き込まれた。自分は、拠点で待っていた。子供たちを守るために。それは、正しい判断だった。頭では、わかっている。
だが、銃声を聞いた時、彼の体は、動こうとした。
飛び出したかった。加勢に行きたかった。誰かが撃たれているかもしれない。その想像が、彼を、じっとしていられなくさせた。それでも、動かなかった。動けば、子供たちが無防備になる。だから、耐えた。
耐えることは、つらかった。
昔の自分なら、迷わず飛び出していただろう。仲間が危険なら、後先考えずに、銃を持って走った。それが、生き残るための、唯一のやり方だと思っていた。だが、今は違う。守るべきものが、増えた。だから、動けない場面がある。
それは、成長なのか。それとも、鈍っただけなのか。ヨナには、まだ、わからなかった。
奥の部屋で、子供が寝返りを打つ音がした。エミルだった。今夜は、静かに眠っている。ヨナは、その気配を、静かに聞いていた。
守るために、動かない。
その選択を、今日、自分はした。飛び出したい衝動を抑えて、拠点に残った。それは、たぶん、正しかった。子供たちは、無事だった。偵察組も、無事に戻った。全員が、欠けずに済んだ。
それでいい。ヨナは、そう思うことにした。
*
同じ夜、アラタもまた、眠れずにいた。
彼は、拠点の入口近くに座っていた。あの銃撃戦が、まだ、頭の中に残っている。足元を叩いた弾丸。ナディアの震え。訓練された兵士たち。壁の、厚さ。
「眠れないの?」
ココが、隣に来て座った。彼女も、眠っていなかったらしい。
「はい」
「わかるわ」
ココは、そう言って、乾いた夜空を見上げた。星が、いくつも瞬いている。戦場の空は、皮肉なほど、美しかった。
「怖かった?」
ココが聞いた。
「怖かったです」
アラタは、正直に答えた。
「でも、それより」
「それより?」
「ナディアを、あんな目に遭わせたことが、苦しかったです」
ココは、少しだけ、アラタを見た。
「あなたは、そういう人ね」
「どういう?」
「自分の恐怖より、他人の恐怖を、先に背負う」
ココの声は、静かだった。
「それは、いいことよ。でも、危ないことでもある」
「危ない?」
「他人の恐怖を全部背負ってたら、あなたが潰れる」
ココは、星を見上げたまま言った。
「今日、ナディアちゃんは震えてた。でも、端末を離さなかった。あの子は、あの子なりに、戦ってた。あなたが、全部背負う必要はないの。あの子は、自分の分を、ちゃんと背負ってる」
アラタは、その言葉を、静かに聞いていた。
「みんな、それぞれの分を背負ってる」
ココは、続けた。
「ヨナも、ジブリールも、レームも、私も。誰も、あなたに全部背負ってほしいなんて思ってない。あなたは、あなたの分だけ背負えばいい。それで、十分よ」
アラタは、しばらく黙っていた。それから、小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
「珍しく素直ね」
「今日は、いろいろ、教わったので」
ココは、笑った。
「いい傾向よ」
二人は、しばらく、並んで星を見ていた。
遠くに、あの丘がある。その向こうに、灰色の施設がある。その先に、BABEL-00がある。壁は、まだ、越えられていない。四人は、まだ、名前のないままだった。
それでも、道は、少しずつ見えてきていた。
東の丘陵地帯。灰色の施設。守る価値のある何か。その糸を手繰っていけば、いつか、壁の向こうへ辿り着ける。今日は、そのための、最初の一歩だった。銃弾に追われ、狙撃に助けられ、全員が無事に戻れた、苦い一歩。
「登るのよね」
アラタが、ぽつりと言った。
「塔の、上に」
ココは、少しだけ驚いたように、アラタを見た。それから、笑った。
「登るわ」
彼女は、答えた。
「あなたも、来るんでしょう」
「行きます」
アラタは、即答した。
「四人が、いるなら」
「たぶん、いる」
「なら、行きます」
ココは、星を見上げた。その横顔には、いつもの軽さと、いつもとは違う、静かな決意が混じっていた。
「面倒な塔ね」
彼女は、言った。
「でも、面倒な塔ほど、崩し甲斐がある」
夜は、まだ深かった。星は、乾いた空に、いくつも瞬いていた。その下で、二人は、しばらく黙って、遠い丘を見ていた。