JORMUNGAND:マージナル・チルドレン   作:たこ焼き 龍月

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第五章 BABEL-00(中盤)

 

 夜明け前の空気は、刃のように冷たかった。

 

 偵察組が拠点を出たのは、まだ星が残っている時刻だった。ウゴの運転する車両が一台。乗っているのは、ココ、レーム、東條、アラタ、それにナディア。ワイリは通信支援のため、少し離れた高台へ別行動で向かっていた。バルメは護衛として同乗を主張したが、ココが拠点に残した。子供たちのそばに、腕の立つ者が要る。それが理由だった。

 

 車は、灯りを消して走った。

 

 ヘッドライトを点ければ、遠くからでも見える。だからウゴは、わずかな月明かりと、暗視装置だけを頼りにハンドルを握った。乾いた道が、タイヤの下で低く鳴る。誰も口を開かなかった。

 

 やがて、旧鉱山道の分岐点が見えてきた。

 

 道が二手に分かれている。一本は北へ、鉱山地帯の奥へ。もう一本は東へ、丘陵地帯へと折れていた。ナディアの記録が示していた通りだった。地図には載っていない、廃道扱いの道。だが、その路面には、確かに新しいタイヤの痕が残っていた。

 

「使われてるわね」

 

 ココが、窓の外を見ながら言った。

 

「廃道のはずが、けっこう最近まで車が通ってる」

「頻度は?」

 

 レームが聞いた。

 

「ナディアちゃん」

「痕跡から見て、定期的です」

 

 ナディアが端末を確認しながら答えた。

 

「複数の轍が重なっています。同じ道を、何度も。しかも、大型車両です」

「子供を運ぶには十分だな」

 

 レームの声は低かった。

 

 ウゴが、分岐点の手前で車を止めた。ここから先へ車で入れば、痕跡が残る。それに、音も出る。ここからは、慎重に進むべきだった。

 

「歩くの?」

 

 ナディアが聞いた。

 

「少しだけね」

 

 ココが答えた。

 

「東の道が、どこへ向かってるのか。それを確かめるだけ。深入りはしない」

 

 彼女は、車を降りた。乾いた冷気が、肌を刺す。他の者も、続いて降りた。ウゴだけは車に残る。いつでも動けるように、エンジンは切らない。

 

     *

 

 同じ頃、拠点では、ジブリールが眠れずにいた。

 

 子供たちは、奥の部屋で眠っている。ミラが、その間を静かに見回っていた。バルメは入口の近くで、外の気配を探っている。だが、ジブリールは、壁にもたれたまま、じっと闇を見つめていた。

 

 偵察組が出てから、何時間が経っただろう。

 

 まだ、連絡はない。無音は、たいてい、良い兆候だった。何も起きていない。順調に進んでいる。だが、その無音が、かえってジブリールを落ち着かなくさせた。

 

「眠れないの」

 

 ヨナが、近くに座った。彼もまた、眠っていなかった。

 

「眠れる」

「眠ってない」

「……眠れない」

 

 ジブリールは、認めた。ヨナは、それ以上追及しなかった。ただ、隣に座って、同じ闇を見た。

 

「心配なんだろ」

 

 ヨナが言った。

 

「アラタが」

「別に」

「銃声一つで、飛び出しそうな顔してる」

「してない」

 

 ジブリールは、視線を逸らした。だが、ヨナの言う通りだった。彼女は、通信機を握ったまま、いつでも動けるように身構えていた。

 

「あなたは、平気なの」

 

 ジブリールが、逆に聞いた。

 

「平気じゃない」

 

 ヨナは、あっさり答えた。

 

「でも、ここで俺たちが飛び出したら、子供たちが無防備になる。だから、動かない」

「わかってる」

「わかってるなら、いい」

 

 ヨナは、それ以上何も言わなかった。だが、彼もまた、通信機のそばを離れなかった。二人とも、同じだった。心配で、飛び出したい。だが、飛び出せない。だから、ただ、待っていた。

 

 待つことは、時に、動くことよりも、つらかった。

 

 バルメが、入口から、静かに言った。

 

「二人とも、少し休め」

「無理」

 

 ジブリールが即答した。

 

「休めるわけない」

「気持ちはわかる」

 

 バルメは、頷いた。彼女も、ヨナが偵察に出ていれば、同じように眠れなかっただろう。守りたい相手が、見えない場所で危険に晒されている。その不安を、彼女もよく知っていた。

 

「だが、疲れを残すな。何かあった時、動けなくなる」

「……わかった」

 

 ジブリールは、渋々頷いた。だが、目は、闇を見つめたままだった。

 

     *

 

 偵察組は、丘の裏へ回り込んでいた。

 

 東の道は、緩やかに丘を登っていた。道の両側には、乾いた低木が生えている。視界を遮るには十分な高さだった。一行は、その低木の陰を選びながら、道に沿って進んだ。誰も無駄な音を立てない。長い戦場を渡ってきた者たちの動きだった。アラタも、ナディアも、その速度に遅れなかった。

 

 丘を一つ越えると、視界が開けた。

 

 その先に、施設があった。

 

     *

 

 それは、遠目には何の変哲もない建物だった。

 

 低い、灰色の建造物。周囲には、有刺鉄線の柵が張り巡らされている。門は一つだけ。そこに、警備の車両が二台。人影も、いくつか見えた。

 

「あれか」

 

 レームが、双眼鏡を覗きながら呟いた。

 

「見た目は、ただの倉庫だな」

「倉庫にしては、警備が厚いわね」

 

 ココも、目を細めて施設を見た。

 

「柵。門。車。人。ただの荷物置き場に、あれだけの警備はいらない」

「中継所ですね」

 

 東條が、静かに言った。

 

「BABEL-00そのものではないでしょう。でも、そこへ向かう途中の、どこか」

「同感だ」

 

 レームが頷いた。

 

 アラタは、その施設を見ていた。灰色の建物。有刺鉄線。門の警備。ここに、四人がいるのか。それとも、ここを通り過ぎて、さらに上へ運ばれたのか。それは、まだわからなかった。

 

 ナディアが、端末で施設の位置を記録している。

 

「座標、取りました」

「中の様子は?」

 

 アラタが聞いた。

 

「ここからは、わかりません。柵の外までしか見えないので」

 

 ナディアの声には、悔しさが滲んでいた。壁の向こうは、やはり見えない。ここまで来ても、肝心なところは、まだ闇の中だった。

 

「近づく?」

 

 ナディアが聞いた。

 

「いや」

 

 ココが、即座に否定した。

 

「今日は、ここまで。場所がわかっただけで十分よ。無理に近づけば、気づかれる。気づかれれば、向こうは警戒を上げる。そうしたら、次が難しくなる」

 

 彼女は、双眼鏡を下ろした。

 

「今日は、見るだけ。それで――」

 

 その時だった。

 

 施設の門で、動きがあった。

 

 警備の車両が一台、門を出てくる。ゆっくりと、こちらへは向かわず、施設の周囲を回るように。巡回だった。定期的に、周辺を確認しているのだ。

 

「伏せて」

 

 ココが、低く言った。

 

 一行は、低木の陰に身を沈めた。車両は、丘の麓を通り過ぎていく。こちらには気づいていない様子だった。だが、その車両が、ある地点で、ふいに速度を落とした。

 

 アラタの背筋が、冷たくなった。

 

 車両の窓から、誰かがこちらを――正確には、丘の斜面を、じっと見ている。

 

「見られたか?」

 

 レームが、囁くように聞いた。

 

「わからない」

 

 ココが、目だけを動かして答えた。

 

「動かないで。じっとしてれば、たぶん――」

 

 車両のドアが、開いた。

 

 警備員が二人、降りてくる。銃を手にしている。彼らは、丘の斜面を指差し、何かを話している。それから、ゆっくりと、斜面を登り始めた。

 

「気づかれた」

 

 東條が、静かに言った。

 

 誰も、すぐには動かなかった。まだ、断定はできない。ただの確認かもしれない。何かの気配を感じて、念のため見に来ただけかもしれない。だが、警備員の足取りは、確実に、こちらへ近づいてきていた。

 

 ココが、ゆっくりと、通信機を口元へ寄せた。

 

「ワイリ」

 

 声は、囁きに近かった。

 

『聞こえてる』

「気づかれたかもしれない。高台から、施設の様子は見える?」

『見えてる』

「門の動きを教えて。増援が出るかどうか」

『……今のところ、門は静かだ。出てきた車一台だけだな』

「わかった」

 

 ココは、通信を切った。それから、レームを見る。

 

「どうする?」

「静かに引く」

 

 レームが答えた。

 

「まだ、向こうは二人だ。増援も出ていない。今なら、気づかれる前に距離を取れる。ゆっくり、後ろへ下がる」

 

 その判断は、正しかった。誰もが、それに従おうとした。

 

 一行は、身を低くしたまま、後ろへ下がり始めた。低木の陰を選び、音を立てず、一歩ずつ。警備員は、まだ斜面の下にいる。距離はある。このまま丘の裏へ回れば、視界から消えられる。

 

 だが。

 

 ナディアの足が、乾いた枝を踏んだ。

 

 小さな音だった。ほんの、乾いた小枝が折れる音。普段なら、聞き逃されるような音。だが、静まり返った丘の斜面では、その音は、驚くほど遠くまで届いた。

 

 警備員が、足を止めた。

 

 そして、銃を構えた。

 

「いた!」

 

 声が、上がった。

 

 次の瞬間、乾いた破裂音が、朝の空気を裂いた。

 

     *

 

 最初の一発は、外れた。

 

 弾丸は、ナディアのいた場所から、わずかに逸れて、低木の枝を弾き飛ばした。乾いた木片が、宙に舞う。

 

「走れ!」

 

 レームが叫んだ。

 

 もう、静かに引く段階ではなかった。気づかれた以上、あとは速度の勝負だった。一行は、身を起こし、丘の裏へ向かって走り出した。

 

 二発目。三発目。

 

 弾丸が、周囲の地面を叩く。乾いた土が、小さく跳ね上がった。アラタは、走りながら、ナディアの腕を掴んだ。彼女は端末を抱えたまま、必死に足を動かしている。だが、戦闘の訓練を積んだ者ではない。速度が、わずかに足りなかった。

 

「ナディア、前だけ見て!」

 

 アラタが叫んだ。

 

「はい!」

 

 ナディアの声は、掠れていた。恐怖で、足がもつれそうになる。それでも、彼女は走った。アラタが腕を引き、その速度を支えた。

 

 レームは、走りながら、背後を確認した。警備員が、斜面を駆け下りてくる。二人。まだ二人だけだった。だが、その一人が、無線機に何かを叫んでいた。増援を呼んでいる。時間の問題だった。

 

「東條!」

 

 レームが叫んだ。

 

「見えています!」

 

 東條が答える。彼は、走りながらも、周囲の地形を頭に入れていた。逃走経路。遮蔽物。距離。すべてを、瞬時に計算している。

 

「右の岩場を抜ければ、車まで一直線です!」

「わかった!」

 

 一行は、右へ折れた。岩場が、遮蔽になる。銃弾が、岩に当たって、火花を散らした。だが、体には当たらない。岩が、盾になっていた。

 

 その時、ココが、足を止めた。

 

「ココ!」

 

 レームが振り返る。

 

「先に行って」

 

 ココは、岩陰に身を寄せ、拳銃を抜いた。

 

「ナディアちゃんを、先に車へ。私が、少し足止めする」

「一人でか」

「一人じゃないわ」

 

 ココは、通信機を口元へ寄せた。

 

「ワイリ。ルツはどこ?」

 

 沈黙の後、別の声が返ってきた。

 

『ここにいる』

 

 ルツの声だった。いつもの、軽い調子。だが、その裏に、集中がある。

 

『高台の反対側だ。ワイリと一緒に、そっちを見てた。嫌な予感がしてな』

「気が利くわね」

『長い付き合いだ』

「警備員、二人。斜面を登ってくる。増援も、たぶんもうすぐ」

『見えてる』

 

 ルツの声は、落ち着いていた。

 

『撃つか?』

「当てなくていい。足を止めるだけ」

『了解。派手にやるなよってことだな』

「そういうこと」

 

 ココは、岩陰から、わずかに顔を出した。警備員が、斜面を登ってくる。もう、すぐそこまで来ていた。

 

 次の瞬間。

 

 乾いた銃声が、一発。

 

 だが、それはココの拳銃でも、警備員の銃でもなかった。もっと遠く、高台の方向から響いた音だった。

 

 警備員の足元、すぐ手前の地面が、弾け飛んだ。

 

 狙撃だった。ルツの一発。当てるためではない。警備員の、一歩先の地面を撃ち抜いたのだ。

 

 警備員が、反射的に足を止めた。予想外の方向からの射撃。しかも、正確だった。あと少しずれていれば、足に当たっていた。彼らは、慌てて周囲を見回す。狙撃手が、どこにいるのか。それが、わからない。

 

「動きが止まった」

 

 ココが、小さく笑った。

 

「ルツ、もう一発。今度は、反対側」

『注文が多いな』

 

 ルツはぼやいたが、すぐに応じた。二発目。今度は、警備員の左手、数メートル先の岩が砕けた。

 

 警備員は、完全に混乱していた。前からも、横からも、狙われている。しかも、撃ってくる相手の位置がわからない。彼らは、その場に伏せた。むやみに動けば、次は当たるかもしれない。そう判断したのだ。

 

「今よ」

 

 ココが、岩陰から離れた。

 

「ナディアちゃんたちは、もう車の近くのはず。私も下がる」

 

 彼女は、身を低くして、岩場を走った。ルツの狙撃が、警備員の頭を上げさせない。その隙に、ココは距離を取っていく。

 

 だが、その時だった。

 

 施設の門から、新たな車両が二台、飛び出してきた。

 

 増援だった。無線を受けて、駆けつけてきたのだ。車両は、丘の麓で止まり、複数の兵士が降りてくる。今度は、二人ではなかった。六人。いや、八人。しかも、装備が違う。先ほどの警備員よりも、明らかに、訓練された動きだった。

 

「増えたな」

 

 ルツの声が、通信機から入る。

 

『高台からじゃ、全部は抑えきれないぞ』

「わかってる」

 

 ココは、走りながら答えた。

 

「レーム、車の準備は?」

『ウゴが待ってる。あと少しだ』

「ナディアは?」

『乗せた。アラタも、東條も』

「じゃあ、あとは私だけね」

 

 ココは、丘の斜面を駆け下りた。だが、増援の兵士たちが、散開し始めている。彼らは、逃走経路を塞ごうとしていた。訓練された動き。囲い込みだった。

 

 一発、また一発。

 

 銃弾が、ココの足元を、追ってくる。今度は、当てに来ていた。先ほどの警備員とは、精度が違う。ココは、身を低くし、遮蔽物から遮蔽物へと移動する。だが、開けた斜面では、隠れる場所が限られていた。

 

『ココ、左の兵士が回り込んでる』

 

 ワイリの声が、通信機から飛んだ。

 

「見えてる」

 

 ココは、左を確認した。一人の兵士が、彼女の退路を塞ぐように、横から回り込んでいた。このままでは、車まで辿り着く前に、挟まれる。

 

「ルツ、左の兵士」

『遠い。角度が悪い』

「無理?」

『無理とは言ってない』

 

 ルツの声には、いつもの余裕があった。だが、その余裕の裏で、彼は必死に照準を合わせていた。回り込む兵士。動く標的。しかも、遠距離。難しい射撃だった。

 

 一拍。

 

 銃声。

 

 回り込んでいた兵士の、すぐ足元が、弾け飛んだ。兵士は、たたらを踏んで、足を止めた。当たってはいない。だが、あと数センチだった。その事実が、兵士の動きを鈍らせた。

 

「さすが」

 

 ココが、笑った。

 

『褒めても、弾は増えないぞ』

「知ってる」

 

 だが、状況は、まだ好転していなかった。

 

 増援の兵士たちは、狙撃を警戒しながらも、確実に包囲を狭めていた。彼らは、無闇に動かない。一人が前進する間、他が援護する。訓練された連携だった。ルツの狙撃で一人を止めても、別の一人が、じりじりと距離を詰めてくる。

 

『ココ、右も来てる』

 

 ワイリの声が、緊張していた。

 

『高台から見えてる。全部で八人。三方向から、じわじわ寄せてきてる。ルツ一人じゃ、全部は抑えられない』

「わかってる」

 

 ココは、岩陰で、拳銃を握り直した。彼女は、戦闘のプロではない。だが、追い詰められた時の判断だけは、誰よりも速かった。

 

「レーム、車の位置は」

『岩場の向こう。あと五十メートルってところだ』

「五十メートル、か」

 

 ココは、その距離を測った。開けた斜面を、五十メートル。狙撃に守られても、その間、無防備に晒される。楽な距離ではなかった。

 

「ルツ」

『言え』

「今から、私が走る。全部の兵士を、一度に止められる?」

『無茶を言うな』

「一瞬でいい。三秒。三秒だけ、全員の頭を下げさせて」

 

 通信の向こうで、ルツが、短く息を吐いた。

 

『三秒か』

「できる?」

『できるとは言ってない。やるとは言う』

 

 ルツの声には、覚悟があった。彼は、高台で、照準を素早く動かした。三方向。八人。全員を、一度に狙うことはできない。だが、順番に、一発ずつ、最も近い脅威を撃ち抜いていく。頭を下げさせる。それを、連続で。

 

『合図しろ』

「三、二、一――今!」

 

 ココが、走り出した。

 

 同時に、ルツの狙撃が、始まった。

 

 一発。右の兵士の足元。

 二発。左の兵士の、頭のすぐ横の岩。

 三発。正面の兵士の、盾にしていた木箱。

 

 連続した射撃が、兵士たちの動きを、一瞬、凍りつかせた。誰もが、反射的に頭を下げた。どこから撃たれるか、わからない。その恐怖が、彼らの前進を止めた。

 

 その、三秒。

 

 ココは、開けた斜面を、全力で駆け抜けた。銃弾が、遅れて追ってくる。だが、兵士たちが体勢を立て直した時には、ココは、すでに岩場の陰へ滑り込んでいた。

 

「抜けた」

 

 ココは、荒い息のまま言った。

 

『ぎりぎりだったぞ』

 

 ルツの声も、緊張が抜けきっていなかった。

 

『あと一発でも遅れてたら、当たってた』

「当たらなかったでしょ」

『結果論だ』

「あなたを信じてただけよ」

『……調子のいいことを』

 

 ルツは、そう言ったが、その声には、わずかな安堵があった。ココは、岩場の陰を、車の方向へと走った。

 

 その先に、車が見えた。

 

 ウゴが、運転席で待っている。後部座席には、ナディア、アラタ、東條。エンジンは、すでに回っていた。

 

「ココ!」

 

 アラタが、ドアを開けて叫んだ。

 

「早く!」

 

 ココは、最後の距離を走った。銃弾が、車体を掠める。乾いた金属音。だが、ココは止まらない。彼女は、開いたドアへ飛び込んだ。

 

「出して!」

 

 叫ぶより早く、ウゴがアクセルを踏んだ。

 

 車は、砂利を巻き上げて発進した。背後で、銃声が続く。弾丸が、車体の後部を叩いた。だが、ウゴは速度を緩めない。乾いた道を、車は全速力で駆け抜けた。

 

     *

 

 高台では、ルツとワイリが、離脱の準備をしていた。

 

 ルツは、狙撃銃を素早く分解し、ケースへ収めていく。もう、援護の役目は終わった。ココたちは、車で離脱した。あとは、自分たちが、無事にここを抜けるだけだった。

 

「派手にやったな」

 

 ワイリが、機材をまとめながら言った。

 

「やらされたんだよ」

 

 ルツが、答えた。

 

「ココの注文が、無茶すぎる。八人を三秒で止めろだと」

「で、止めたんだろ」

「まあな」

 

 ルツは、ケースを閉じた。彼の顔には、いつもの軽さが戻っていた。だが、その手は、まだ、わずかに緊張を残していた。難しい射撃だった。一発でも外していれば、ココは、車まで辿り着けなかったかもしれない。

 

「施設の連中は?」

 

 ルツが聞いた。

 

「動いてない」

 

 ワイリが、双眼鏡を覗きながら答えた。

 

「車を追いかける気配もない。門の中に、引き上げてる」

「持ち場を離れないってわけか」

「徹底してるな」

 

 ワイリは、双眼鏡を下ろした。

 

「あの施設、守りが固すぎる。ただの中継所じゃない」

「ココも、同じことを言ってた」

「だろうな」

 

 二人は、機材をまとめ終えると、高台を、静かに下り始めた。追跡はない。だが、油断はしない。長い戦場を渡ってきた者たちの動きだった。彼らは、来た時とは違う道を選び、痕跡を残さないように、丘を下っていった。

 

「しかし」

 

 ワイリが、歩きながら言った。

 

「上に行くほど、面倒になるな」

「戦場ってのは、だいたいそうだ」

 

 ルツが、答えた。

 

「入口は簡単。奥は難しい。当たり前だろ」

「その当たり前が、嫌になる」

「同感だ」

 

 二人は、それ以上何も言わず、丘を下った。乾いた風が、彼らの背中を、静かに押していた。

 

     *

 

 しばらく走って、追跡が途切れたのを確認してから、ウゴは速度を落とした。

 

 車内は、荒い息で満ちていた。ナディアは、端末を胸に抱えたまま、震えていた。アラタが、その背中に手を添えている。東條は、後方を警戒しながら、静かに呼吸を整えていた。

 

「怪我は?」

 

 ココが、後部座席を振り返って聞いた。

 

「ありません」

 

 東條が答えた。だが、その声に、わずかな遅れがあった。ココは、それを聞き逃さなかった。

 

「東條」

「……かすりました」

 

 東條は、静かに認めた。左の二の腕。上着の袖が、裂けている。その下から、赤いものが滲んでいた。深くはない。弾が、掠めただけだった。だが、確かに、当たっていた。

 

「見せなさい」

 

 ココの声が、少しだけ変わった。

 

「大したことはありません」

「私が決める」

 

 ナディアが、震える手で、救急の袋を開けた。彼女は、戦闘の恐怖がまだ抜けきっていない。それでも、手は動いた。ミラから、応急の手当てを教わっていたのだ。

 

「東條さん、腕を」

「自分でできます」

「私にやらせてください」

 

 ナディアの声は、掠れていた。だが、譲らなかった。東條は、少しだけ躊躇ってから、腕を差し出した。

 

 ナディアは、傷口を確認した。浅い。だが、出血はある。彼女は、教わった通り、傷を圧迫し、包帯を巻いた。手つきは、まだぎこちない。それでも、丁寧だった。

 

「痛みますか」

「大丈夫です」

「無理、してませんか」

「していません」

 

 東條は、淡々と答えた。だが、彼は、ナディアの手が、まだ震えていることに気づいていた。恐怖の中で、それでも、自分の役目を果たそうとしている。その姿を、彼は、静かに見ていた。

 

「ありがとうございます」

 

 東條が、言った。

 

「うまくなりましたね」

「……ミラに、教わったので」

 

 ナディアは、包帯を巻き終えると、ようやく、少しだけ息を吐いた。手当てをしている間だけは、恐怖を忘れられた。何かをしている、という感覚が、彼女を、かろうじて支えていた。

 

 ココは、その様子を見て、少しだけ表情を和らげた。

 

「全員、無事ね」

「かすり傷なので」

 

 東條が言った。

 

「かすり傷でも、傷は傷よ」

 

 ココは、そう言って、前を向いた。

 

「今日は、危なかった。次は、同じやり方はしない」

「怪我は?」

 

 彼女は、改めて、他の者にも聞いた。

 

「ナディアちゃんは?」

「……大丈夫、です」

 

 ナディアの声は、まだ掠れていた。だが、はっきりと答えた。

 

「端末も、無事です」

 

 ココは、少しだけ笑った。

 

「そっちを先に言うのね」

「大事なので」

「頼もしいわ」

 

 ナディアは、震えながらも、わずかに口の端を上げた。恐怖は、まだ体に残っている。それでも、彼女は、自分の役目を放さなかった。

 

 アラタは、ナディアの背中をさすりながら、窓の外を見ていた。遠ざかっていく丘。その向こうに、灰色の施設があった。有刺鉄線。門の警備。そして、あの、訓練された兵士たち。

 

「あの警備」

 

 アラタが、低く言った。

 

「ただの中継所にしては、厳重すぎます」

「そうね」

 

 ココが頷いた。

 

「最初に出てきた警備員は、普通だった。でも、増援は違った。あれは、訓練された兵士よ。しかも、装備がいい。ただの荷物置き場を守る連中じゃない」

「じゃあ、あそこは」

「重要な場所ってこと」

 

 ココは、窓の外を見た。

 

「どうでもいい場所なら、あんな連中は置かない。守る価値があるものが、あそこにある。それが何かは、まだわからないけど」

 

 彼女は、そこで少し考えた。

 

「気になるのは、警備の質の差ね」

「差、ですか」

 

 東條が聞いた。

 

「最初に出てきた警備員と、増援。まるで別の組織みたいだった」

 

 ココは、記憶を辿るように言った。

 

「最初の連中は、ただの見張り。地元で雇った程度の兵士よ。でも、増援は違った。装備も、動きも、明らかに格上。あれは、PMC。しかも、それなりのランクの」

「二層に、なっていると」

 

 東條が、言葉を継いだ。

 

「表向きは、地元の警備員に見せておく。でも、本当に守っているのは、その裏にいるPMC」

「そういうこと」

 

 ココは頷いた。

 

「地元の警備員は、飾りよ。何かあった時、まず前に出るのは彼ら。でも、本当の戦力は、奥に隠してる。それだけ、あの施設は、大事に守られてる」

 

 アラタは、その分析を、静かに聞いていた。二層の警備。飾りの見張りと、隠された戦力。それは、白い学校や鉱山ターミナルには、なかった構造だった。上へ行くほど、守りは、巧妙になっていく。

 

「PMCって、グレイ・ハウンドですか」

 

 アラタが聞いた。

 

「かもしれない。でも、違うかもしれない」

 

 ココは、慎重に言った。

 

「グレイ・ハウンドは、このルートに関わってる。それは間違いない。でも、あの施設を守ってるのが、グレイ・ハウンドとは限らない。もっと上の、別の組織かもしれない」

「別の組織」

「BABEL-00は、いくつもの組織が関わってる仕組みよ。だから、警備も、一枚岩じゃない。どの層を、誰が守ってるのか。それを見極めるのが、次の仕事ね」

 

 通信機が、鳴った。

 

『ココ』

 

 ルツの声だった。

 

「聞こえてる。助かったわ」

『こっちは無事に離脱した。ワイリも一緒だ』

「追跡は?」

『高台からは、もう見えない。追ってこなかった。施設の中に、引き上げていった』

「深追いはしない、ってことね」

『みたいだな』

 

 ルツの声には、疑問が滲んでいた。

 

『妙だと思わないか。あれだけ撃ってきたのに、施設から離れようとしない』

「思うわ」

 

 ココは、答えた。

 

「あの連中は、守ってるの。施設を。中にあるものを。だから、外まで追ってこない。持ち場を離れないように、命令されてる」

『徹底してるな』

「徹底してるってことは、それだけ大事なものがあるってこと」

 

 ココは、通信を切った。それから、しばらく黙っていた。

 

 車内は、静かだった。エンジンの音と、乾いた道を走るタイヤの音だけが響いている。誰もが、それぞれに、今しがたの銃撃戦を反芻していた。

 

 アラタは、ナディアの震えが、少しずつ収まっていくのを感じていた。彼女の呼吸が、ゆっくりと、落ち着いていく。それでも、アラタは手を離さなかった。

 

「ごめん」

 

 ナディアが、小さく言った。

 

「何が?」

「私が、枝を踏んだから。あれで、気づかれました」

 

 その声には、後悔があった。自分のせいで、全員を危険に晒した。彼女は、そう思っていた。

 

「ナディアのせいじゃない」

 

 アラタは、静かに言った。

 

「あの場所に近づいた時点で、いつか気づかれた。たまたま、あのタイミングだっただけだ」

「でも」

「それに」

 

 アラタは、続けた。

 

「君は、走りながらも、端末を離さなかった。座標も、記録も、全部守った。あの場所が、どこにあるのか。それがわかったのは、君のおかげだ」

 

 ナディアは、アラタを見た。

 

「役に、立ちましたか」

「立った」

 

 アラタは、即答した。

 

「すごく」

 

 ナディアは、しばらく黙っていた。それから、小さく頷いた。震えは、もう、ほとんど止まっていた。

 

     *

 

 拠点に戻ったのは、昼過ぎだった。

 

 子供たちは、無事だった。ジブリールとヨナ、ミラとバルメが、しっかりと守っていた。偵察組が戻ると、ジブリールが真っ先に駆け寄ってきた。

 

「遅い」

 

 彼女は、開口一番に言った。だが、その声には、怒りよりも、安堵が滲んでいた。

 

「心配した?」

 

 ココが、からかうように聞いた。

 

「してない」

「顔に出てるわよ」

「出てない」

 

 ジブリールは、視線を逸らした。だが、その目は、すぐにアラタへ向いた。

 

「アラタ、無事?」

「無事だ」

「怪我は?」

「ない」

 

 ジブリールは、アラタを、上から下まで確認した。本当に無事なのか、自分の目で確かめたいのだ。その様子を見て、アラタは少しだけ笑った。

 

「本当に、大丈夫だから」

「銃声、聞こえた」

 

 ジブリールが言った。

 

「遠くだったけど。だから、心配した」

「……心配してたのか」

「してない」

 

 また、同じやり取りだった。アラタは、それ以上追及しなかった。ただ、ジブリールが本当に心配していたことは、わかっていた。

 

 だが、ジブリールの表情は、すぐには晴れなかった。彼女は、東條の腕に巻かれた包帯に、気づいていた。

 

「それ」

 

 彼女は、東條を見た。

 

「怪我」

「かすり傷です」

「かすり傷でも、当たったんでしょ」

 

 ジブリールの声が、低くなった。彼女は、拳を握った。誰かが、傷を負った。偵察のはずが、銃撃戦になった。壁は、思っていたよりも、厚かった。

 

「……次は、私も行く」

 

 ジブリールが言った。

 

「戦えるから。足手まといには、ならない」

「ジブリール」

 

 アラタが、静かに言った。

 

「今日は、偵察だった。戦うつもりは、なかった」

「でも、戦いになった」

「なった。だから、次は、もっと慎重にする」

「慎重にして、それで、また誰かが撃たれたら」

 

 ジブリールの声には、抑えきれない何かがあった。彼女は、待つことに、耐えられなかった。誰かが危険な場所へ行き、自分は拠点で待つ。その間、何もできない。ただ、無事を祈るだけ。それが、つらかった。

 

「わかってる」

 

 アラタは、彼女の目を見た。

 

「君が、戦えることは、わかってる。でも、今日、君には、子供たちを守ってほしかった。それも、大事な役目だ」

「守るだけじゃ」

「守るだけ、じゃない」

 

 アラタは、はっきりと言った。

 

「君がいたから、僕は、安心して偵察に行けた。子供たちが、無防備にならないって。それは、君にしか、頼めなかった」

 

 ジブリールは、しばらく黙っていた。それから、視線を逸らす。

 

「……ずるい」

「何が」

「そういう言い方」

 

 彼女は、拳を、少しだけ緩めた。アラタの言葉は、彼女を納得させたわけではなかった。だが、その言葉の中に、確かな信頼があることは、伝わっていた。

 

 ヨナが、少し離れた場所から、近づいてきた。

 

「無事か」

「無事だ」

「そうか」

 

 ヨナは、それだけ言った。だが、その短い言葉の中に、確かな確認があった。彼もまた、銃声を聞いて、案じていたのだ。

 

 彼は、東條の包帯を、ちらりと見た。

 

「かすったか」

「はい」

「浅いな」

「浅いです」

 

 ヨナは、それ以上聞かなかった。傷の深さを見れば、状況の危険度がわかる。浅い傷。全員が無事に戻れた。だが、あと少しずれていれば、どうなっていたか。それは、彼にも、わかっていた。

 

 東條が、車から降りながら、ヨナに言った。

 

「銃撃戦になりました」

「聞いた」

「ルツさんの狙撃がなければ、危なかった」

 

 東條の声は、淡々としていた。だが、その内容は、事態の深刻さを示していた。ヨナの表情が、わずかに硬くなる。

 

「敵は」

「訓練された兵士です。数も、装備も、想定以上でした」

 

 ヨナは、それを聞いて、しばらく黙っていた。それから、静かに言う。

 

「壁が、厚くなってきたな」

「はい」

 

 東條が頷いた。

 

「近づくほど、厚くなります」

 

     *

 

 その夜、拠点で、偵察の報告がまとめられた。

 

 ナディアの記録した座標。施設の外観。警備の規模。増援の質。それらが、一つずつ、確認されていく。子供たちは、奥の部屋で眠っていた。手前の部屋に、主要な者たちが集まっていた。

 

「まとめると」

 

 ココが、口を開いた。

 

「東の丘陵地帯に、施設がある。灰色の建物。有刺鉄線。門の警備。そして、訓練された兵士たち。ただの中継所じゃない。何か、守る価値のあるものがある」

「四人が、そこにいるんでしょうか」

 

 アラタが聞いた。

 

「わからない」

 

 ココは、正直に答えた。

 

「いるかもしれない。もう、通り過ぎたかもしれない。中が見えない以上、断定はできない」

 

 アラタの表情が、曇った。ここまで来ても、まだ、はっきりしない。四人が、どこにいるのか。生きているのか。それすら、確かめられない。

 

「でも」

 

 ココが、続けた。

 

「一つ、わかったことがある」

 

 彼女は、地図の、あの施設の位置を指差した。

 

「あそこは、BABEL-00へ向かう道の、途中にある。つまり、あそこを調べれば、その先が見えてくる。壁の、越え方が」

「調べる、って」

 

 ジブリールが聞いた。

 

「もう一度、近づくの?」

「今度は、違うやり方でね」

 

 ココは、笑った。

 

「正面から近づけば、また撃たれる。だから、別の方法を考える。中がどうなってるのか。何を守ってるのか。誰が管理してるのか。それを、外から、少しずつ剥がしていく」

「時間がかかりますね」

 

 東條が言った。

 

「かかるわ」

 

 ココは、認めた。

 

「でも、急げば失敗する。焦れば、また撃たれる。今日みたいに」

 

 彼女は、そこで、少しだけ声を落とした。

 

「今日は、運が良かった。ルツがいて、ワイリがいて、ウゴが待ってた。だから、誰も欠けずに戻れた。でも、次も、そうとは限らない」

 

 その言葉に、部屋の空気が、少し重くなった。

 

 銃撃戦。あの、乾いた破裂音。足元を叩く弾丸。訓練された兵士たち。今日は、全員が無事に戻れた。だが、それは、幸運でもあった。次は、どうなるか、わからない。

 

「無理は、しない」

 

 アラタが、静かに言った。

 

「今日、わかりました。壁は、厚い。近づけば、撃たれる。でも、無理をして、誰かを失ったら、意味がない」

 

 彼は、周囲を見回した。ココ。レーム。東條。ナディア。ジブリール。ヨナ。オマル。ミラ。全員が、そこにいた。全員が、無事だった。

 

「四人を救うために、ここにいる誰かを失うのは、違う」

 

 アラタは、言った。

 

「順番を、間違えない。焦らない。今日、それを、教わりました」

 

 ヨナが、口を開いた。

 

「珍しいな」

「何が?」

「お前が、そこまで言うのは」

 

 ヨナの声には、わずかな驚きがあった。アラタは、いつも、目の前の子供を、全部救おうとする。焦りすぎるほどに。それが、彼の危うさでもあった。だが、今日は違った。

 

「銃撃戦は、初めてじゃありません」

 

 アラタは、答えた。

 

「でも、ナディアが震えているのを見て、思いました。この人たちを、危険な場所へ連れて行くのは、僕の判断だって。だから、その判断を、間違えたくない」

 

 ヨナは、しばらくアラタを見ていた。それから、短く言った。

 

「いい判断だ」

 

 それは、ヨナにしては、珍しい言葉だった。褒め言葉に近いものを、彼が口にするのは、めったにないことだった。アラタは、少しだけ、意外そうな顔をした。

 

「褒めてます?」

「言っただけだ」

「同じでは」

「違う」

 

 ヨナは、視線を逸らした。だが、その口元は、わずかに緩んでいた。

 

 ジブリールが、二人を見て、小さく笑った。

 

「あなたたち、似てきた」

「「似てない」」

 

 ヨナとアラタが、同時に言った。

 

 その息の合い方に、今度は、ココが吹き出した。

 

「息ぴったりじゃない」

「「違います」」

 

 また、同時だった。部屋の空気が、少しだけ緩む。重すぎる一日の終わりに、その小さな笑いは、貴重だった。

 

     *

 

 夜が更けて、大半の者が眠りについた頃。

 

 ヨナは、一人、拠点の隅で膝を立てて座っていた。眠れなかった。今日、偵察組が銃撃戦に巻き込まれた。自分は、拠点で待っていた。子供たちを守るために。それは、正しい判断だった。頭では、わかっている。

 

 だが、銃声を聞いた時、彼の体は、動こうとした。

 

 飛び出したかった。加勢に行きたかった。誰かが撃たれているかもしれない。その想像が、彼を、じっとしていられなくさせた。それでも、動かなかった。動けば、子供たちが無防備になる。だから、耐えた。

 

 耐えることは、つらかった。

 

 昔の自分なら、迷わず飛び出していただろう。仲間が危険なら、後先考えずに、銃を持って走った。それが、生き残るための、唯一のやり方だと思っていた。だが、今は違う。守るべきものが、増えた。だから、動けない場面がある。

 

 それは、成長なのか。それとも、鈍っただけなのか。ヨナには、まだ、わからなかった。

 

 奥の部屋で、子供が寝返りを打つ音がした。エミルだった。今夜は、静かに眠っている。ヨナは、その気配を、静かに聞いていた。

 

 守るために、動かない。

 

 その選択を、今日、自分はした。飛び出したい衝動を抑えて、拠点に残った。それは、たぶん、正しかった。子供たちは、無事だった。偵察組も、無事に戻った。全員が、欠けずに済んだ。

 

 それでいい。ヨナは、そう思うことにした。

 

     *

 

 同じ夜、アラタもまた、眠れずにいた。

 

 彼は、拠点の入口近くに座っていた。あの銃撃戦が、まだ、頭の中に残っている。足元を叩いた弾丸。ナディアの震え。訓練された兵士たち。壁の、厚さ。

 

「眠れないの?」

 

 ココが、隣に来て座った。彼女も、眠っていなかったらしい。

 

「はい」

「わかるわ」

 

 ココは、そう言って、乾いた夜空を見上げた。星が、いくつも瞬いている。戦場の空は、皮肉なほど、美しかった。

 

「怖かった?」

 

 ココが聞いた。

 

「怖かったです」

 

 アラタは、正直に答えた。

 

「でも、それより」

「それより?」

「ナディアを、あんな目に遭わせたことが、苦しかったです」

 

 ココは、少しだけ、アラタを見た。

 

「あなたは、そういう人ね」

「どういう?」

「自分の恐怖より、他人の恐怖を、先に背負う」

 

 ココの声は、静かだった。

 

「それは、いいことよ。でも、危ないことでもある」

「危ない?」

「他人の恐怖を全部背負ってたら、あなたが潰れる」

 

 ココは、星を見上げたまま言った。

 

「今日、ナディアちゃんは震えてた。でも、端末を離さなかった。あの子は、あの子なりに、戦ってた。あなたが、全部背負う必要はないの。あの子は、自分の分を、ちゃんと背負ってる」

 

 アラタは、その言葉を、静かに聞いていた。

 

「みんな、それぞれの分を背負ってる」

 

 ココは、続けた。

 

「ヨナも、ジブリールも、レームも、私も。誰も、あなたに全部背負ってほしいなんて思ってない。あなたは、あなたの分だけ背負えばいい。それで、十分よ」

 

 アラタは、しばらく黙っていた。それから、小さく頷いた。

 

「……ありがとうございます」

「珍しく素直ね」

「今日は、いろいろ、教わったので」

 

 ココは、笑った。

 

「いい傾向よ」

 

 二人は、しばらく、並んで星を見ていた。

 

 遠くに、あの丘がある。その向こうに、灰色の施設がある。その先に、BABEL-00がある。壁は、まだ、越えられていない。四人は、まだ、名前のないままだった。

 

 それでも、道は、少しずつ見えてきていた。

 

 東の丘陵地帯。灰色の施設。守る価値のある何か。その糸を手繰っていけば、いつか、壁の向こうへ辿り着ける。今日は、そのための、最初の一歩だった。銃弾に追われ、狙撃に助けられ、全員が無事に戻れた、苦い一歩。

 

「登るのよね」

 

 アラタが、ぽつりと言った。

 

「塔の、上に」

 

 ココは、少しだけ驚いたように、アラタを見た。それから、笑った。

 

「登るわ」

 

 彼女は、答えた。

 

「あなたも、来るんでしょう」

「行きます」

 

 アラタは、即答した。

 

「四人が、いるなら」

「たぶん、いる」

「なら、行きます」

 

 ココは、星を見上げた。その横顔には、いつもの軽さと、いつもとは違う、静かな決意が混じっていた。

 

「面倒な塔ね」

 

 彼女は、言った。

 

「でも、面倒な塔ほど、崩し甲斐がある」

 

 夜は、まだ深かった。星は、乾いた空に、いくつも瞬いていた。その下で、二人は、しばらく黙って、遠い丘を見ていた。

 

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