ポムニを愛したい男 作:ポムニに脳を壊された男
2026年10月3日、土曜日。アメリカ合衆国ノースカロライナ州ウェイク郡、エイペックス郊外。
絵に描いたような穏やかな週末の朝、エイドリアン・レン・ウォーカーは、自宅の地下工作室でひっそりと人類の科学史を置き去りにしていた。
空中に展開された半透明の仮想ディスプレイを指先で弾きながら、エイドリアンは作業台の上に転がっている銀色の円盤を睨みつける。
「うーん、出力の安定性がまだ甘いな。これじゃあトースターを動かす前に家が吹き飛ぶ」
彼の手元にあるのは、手のひらサイズでありながら都市一つの電力を賄えるほどの高密度電源だ。実際には多重安全機構が先に停止させるため、家が吹き飛ぶことはない。ただ、家電用電源としてはまだ過剰だった。エイドリアンはそれを、ハンダごての横で無造作にいじくり回している。
エイドリアンの本業であるデータ解析やシステム構築も、日常的な作業の大半はとっくに自動化されている。彼には前世の記憶があった。日本人として生きた記憶だ。そして前世の記憶と共に、彼には物理法則を逸脱した技術すら設計し、現実の装置として組み上げられる異常な才能が備わっていた。
だが、彼はこの力を使って世界征服を企むわけでも、億万長者になるわけでもなかった。ただ単に、オタク趣味とモノ作りに莫大な時間と資金を注ぎ込む、愉快な独身生活を満喫しているだけである。
作業用AIからの通知が、空中に投影されたディスプレイに音もなくポップアップした。AIに余計な人格や合成音声は持たせていない。スマートフォンとPCの画面にも、収集されたデータがテキストと画像だけで淡々と流れていく。
その中の一つ、近所で開催されるエステートセールの情報に、エイドリアンの視線が引き寄せられた。
古い電子部品や工具を探す自動巡回プログラムが拾ってきた画像だ。ガレージに無造作に並べられたガラクタの隅に、日焼けしたベージュ色の大型PCケースが写り込んでいる。
CRTモニターと、黄ばんだ古いキーボード。そして、PCの側面にプリントされた赤と黄色の特徴的なロゴマーク。
『C&A』
その文字列を見た瞬間、エイドリアンの脳裏に前世の記憶がフラッシュバックした。
この世界には存在しないはずの映像作品、『アメイジング・デジタル・サーカス』。その舞台となる仮想空間を管理していた架空の企業名と、ロゴのデザインが完全に一致している。
エイドリアンはハンダごてを置き、画像を拡大した。
ただの同名企業かもしれない。偶然似たロゴを作っただけの、前世の記憶とは何の関係もない古いコンピューターメーカーの可能性も十分にある。中に誰かがいると考えたわけではない。ただ、自分の記憶と現実が一致した理由を確かめたかった。
エステートセールの会場となっている家の前庭には、折りたたみ机がいくつも並べられ、雑多な品物が所狭しと置かれていた。
エイドリアンの足は、芝生の隅っこに鎮座する1990年代風の巨大なデスクトップコンピューターの前で止まった。実物を間近で見ると、画像で見るよりも遥かに年季が入っている。
金属製の重い筐体には、無数の管理番号のシールや、学校の備品らしきステッカーが貼られては剥がされた痕がある。側面のパネルにはマジックで乱暴に『電源入らず』『ジャンク』といった書き込みがいくつも残されており、何人もの所有者の間をたらい回しにされてきたことが窺えた。
本体のフロントパネルにはかすれた文字でこう印字されている。
『C&A DIGITAL CIRCUS - INTERNAL RESEARCH EQUIPMENT』
C&Aの、内部研究用機材。
「おっ、そいつに興味があるのかい? 兄ちゃん」
ふと声をかけられ、エイドリアンは顔を上げた。恰幅の良い中年男性が近づいてくる。このエステートセールの売り主らしい。
「ええ、まあ。古いコンピューターを見るのが好きでして。これは一体、どこから?」
「さあな。亡くなった親父が1、2年前に倉庫オークションで他のガラクタと一緒に落札したらしいんだがね。電源を繋いでもウンともスンとも言わなかったそうだ。クソ重いし、処分に困ってたところなんだよ」
「じゃあ、全部まとめて引き取りますよ。言い値でいいです」
交渉は数分で終わった。エイドリアンは重厚なPC本体と、CRTモニター、専用キーボード、用途不明の接続カード、ボロボロのマニュアルを引き取った。
そして箱の底から、古いVRゴーグルのような形状をした機器を見つけ出し、エイドリアンは慎重にそれらをトラックの荷台へ積み込んだ。
全ての機材を自宅の隔離された工作室に運び込んだエイドリアンは、すぐさま作業着に着替えた。
当然だが、いきなりコンセントを挿して電源を入れるような真似はしない。自宅のネットワークからは完全に物理分離し、独立した検査用ベンチに本体を設置する。
数十年前の研究機器へ不用意に通電し、劣化した部品や未知の回路を破損させないための措置だった。
「まずは非破壊検査からだな」
エイドリアンはカバーを開ける前に、外部からX線と超音波による非破壊走査を実行した。内部の電源回路やコンデンサの劣化状態を確認し、もし未知の部品が暴走した場合には即座に電力供給を物理遮断できる環境を整える。
だが、非破壊走査の結果がモニターに表示された瞬間、エイドリアンは言葉を失った。
外装は1990年代の古めかしいタワー型PCだというのに、筐体の内部には現代の技術でも説明のつかない部品が密集していた。
マザーボード上の回路は異常なほどの情報密度を持ち、いくつかのチップには製造された痕跡すら見当たらない。通常のシリコン半導体とは根本的に異なる構造を持ったプロセッサと、電源を完全に失った状態でも長期間にわたってデータ構造を保持し続ける未知の記憶素子。
外装の年代と、中核となっている技術レベルが全く一致していない。
少なくとも、年代物の研究機器というだけでは説明できない。エイドリアンはそう考え始めた。
続いて、エイドリアンは付属していたVRヘッドセットの構造をスキャンした。
「……明らかに映像や音声の出力よりも、人間の脳から情報を吸い上げることに特化した設計になっている」
スキャン結果が示すヘッドセットの内部には、人間の神経活動、記憶の想起、感情反応、さらには自己認識に関係する深い信号までを高精度に取得するためのセンサーがびっしりと組み込まれていた。そのくせ、過負荷を防止するための安全機構は極端に省かれている。人間の人格に関わる情報を抽出するための装置。それがこのヘッドセットの正体だった。
本体の電源ユニットは完全にイカれており、通常の方法では起動しない。エイドリアンは物理的な破損を避けるため、慎重に特殊な記録媒体を取り外した。
オリジナル媒体から物理イメージデータを作成した後、媒体そのものは遮蔽容器へ移して保管する。今後の解析は、すべてこの読み取り専用のコピー環境で行う。自動実行コマンドは完全にブロックした。
まずは中身を見ず、ファイルシステム全体の構造、ファイル名、容量、そして依存関係のツリーだけを抽出する。人格データらしきファイルの中身を勝手に開くような真似はしない。個々の人格領域には触れず、システムが外部管理用に出力しているプロセス一覧と保存状態のヘッダーだけを取得した。
解析プログラムが弾き出したファイルリストが、モニターに流れていく。
caine.exe
paraphernalia-engine.dat
Scratch.dat
/brainscans/
前世の記憶と一致する名称が、そこにはっきりと刻まれている。サーカス世界そのものを動かす実行領域、複数の人格プロセスと、それらを保持する領域。
ここに保存されているのは、設定資料や再現用データではない。少なくとも構造上は、あの『アメイジング・デジタル・サーカス』そのものだった。
さらにファイルの状態を検証していくと、エイドリアンはある事実に気がついた。
通常の終了処理を経た形跡はない。だが、データが破損した様子もなかった。世界全体の実行状態が、一つの瞬間を境に固定され、そのまま保持されている。
個々の人格が休眠状態にあるのではない。世界というアプリケーションそのものが、そのままの形で保存されていたのだ。
エイドリアンはモニターの前に深く腰を沈め、腕を組んだ。
安全な実行環境を整えて再開させれば、彼らの時間は再び動き出すだろう。本当に彼らがいるなら、会ってみたい。
だが、すぐに起動させるわけにはいかない。
現在の劣化した機器状態のまま再開して安全か。停止直前の状態を正確に復元できるか。コピー環境でシステムを起動してしまえば、彼らの人格を複製することにならないか。解析用コピーは絶対に実行せず、実際に再開するのは、オリジナルの実行状態だけにする必要がある。一度起動した後、再び安全に停止させることはできるのか。
何より、どうやって彼らと外部から対話するのか。
エイドリアンは考えを巡らせる。もし今、何の手立てもなくシステムを起動すれば、中にいる彼らにとって自分はどう見えるだろうか。自分たちを収めた機械を所有し、内部へ干渉できる正体不明の人間。下手をすれば彼らに警戒されるだけだ。
「まずは、安全な環境づくりからだな」
エイドリアンは静かに呟いた。
必要なものを頭の中で並べていく。安定した外部電源。世界を継続稼働させるための実行環境。VRヘッドセットを介さず、映像と音声だけで内部と対話するための入出力装置。そして、緊急時にも世界を壊さず停止できる仕組み。
それらの準備をすべて完璧に整えるまでは、起動ボタンは押さない。
エイドリアンはそう決意し、次なる作業のために仮想ディスプレイを呼び出した。