ポムニを愛したい男 作:ポムニに脳を壊された男
数日後。エイドリアンは地下工作室の作業台で、外へ持ち出せる専用の携帯中継端末を完成させていた。
機能はシンプルだ。高解像度のカメラとマイク、小型ディスプレイを備え、サーカス内部と映像・音声による双方向通信ができる。
ただし、この端末から直接サーカス本体へアクセスできるわけではない。地下工作室の隔離中継設備を経由させることで、外部ネットワークとの接続を完全に遮断している。
映像や音声の記録機能は物理的に外し、端末が破損した場合には自動で回線を切断するフェイルセーフも組み込んだ。
「よし、こんなものか」
エイドリアンは端末を立ち上げ、前回の取り決め通り、まずはサーカス側へ接続要求の通知だけを送った。
数分後。住人側からの許可のレスポンスがあり、端末のディスプレイに通信画面が映し出された。
初回のような、全員が整列した重苦しい雰囲気ではない。ポムニが画面のすぐ近くに立ち、その少し後ろにラガタやガングルが座っている。ズーブルは少し離れた場所から様子を窺い、キンガーは定位置らしき枕の砦から落ち着いてこちらを見ている。ケインだけは相変わらず、画面の周辺を忙しなく動き回っていた。
「久しぶりだな。映像と音声はそちらへ届いているか?」
『ええ、届いてるわ。そっちの画面には私たちが映ってる?』
ポムニが少しだけ身を乗り出して確認してくる。警戒心は解け切っていないが、前回のような突き刺すような視線は和らいでいた。
「ああ、問題なく映っている。外へ持ち出す前に、一度そっちから切断機能のテストをしてみたい。ポムニ、そっちの操作で通信を切ってみてくれ」
ポムニが通信画面の横に表示された切断ボタンに触れると、通信が即座に途切れた。
数秒後、再び住人側から接続要求があり、通信が再開される。
『……ちゃんと、私たちの方から切れたわね』
「問題なく動いたな。これなら、そっちの判断でいつでも回線を切ることができる。それじゃあ、階段を上がるぞ」
エイドリアンは携帯端末を片手に持ち、地下工作室の階段を上がった。
彼が居住スペースの扉を開けると、端末の向こう側から小さな感嘆の声が漏れた。
住人たちが初めて見る、地下室以外の場所だ。
映し出されたのは、ごく普通の一軒家の中だった。廊下、リビング、キッチン。窓から差し込む日光がフローリングを照らし、ソファーや日用品が並んでいる。
『ふふ、エイドリアンって、もっと機械だらけの無機質な部屋に住んでるのかと思ってた』
ラガタがくすりと笑う。
『あ、あれ……漫画の背表紙と、映画のソフト……?』
ガングルが、本棚に並んだものを見つけて小さく声を上げた。テーブルの上には食べかけのスナック菓子と、置きっぱなしのマグカップが放置されている。
「技術関係ばかりじゃないさ。漫画や映画も普通に好きだし、一人暮らしだから散らかる時もある」
エイドリアンの返答に、住人たちの空気が少しだけ柔らかくなった。
玄関の前まで来ると、エイドリアンは一度足を止めた。
「それじゃあ、開けるぞ」
大げさな演出はせず、エイドリアンは普通にドアノブを回して扉を開いた。
最初にカメラに映り込んだのは、薄い雲がゆっくりと流れる青空だった。日光が降り注ぎ、風に揺れる木々の葉が微かな音を立てている。芝生の緑が鮮やかに広がり、遠くの道路を走る車のエンジン音が響く。どこかから、名も知らぬ鳥の鳴き声が聞こえた。
サーカスの中にも空や自然は存在する。だが、そこにあるのはあくまでシステムによって生成され、管理された自然だ。
雲の形が変わり、風の強さが一定ではなく、葉や影が細かく揺れる。遠くの音が偶然に重なり合う。誰かに用意された演出ではない、無数の因果が重なって自然に動いている『現実』の風景。
エイドリアンはしばらく黙ったまま、彼らが映像を見るための時間を作った。
『……これは、本当に今の外の景色? 録画や、加工された映像じゃないの?』
しばらくして、ポムニが静かに問いかけた。彼女の視線は画面から離れず、その声は少し硬かった。
『本当に、2026年の現実なの?』
「ああ、今まさにカメラの前にある景色だ」
エイドリアンは端末を動かし、自分の手をカメラの前にかざして見せた。それから足元の芝生、風で揺れる木、住宅の外観、道路を通過する車を映す。
最後に、ポケットから取り出したスマートフォンの画面をカメラに向けた。そこには現在の日付と時刻、そしてリアルタイムの天候が表示されている。
「間違いなく、今現在の現実だ」
ポムニはそれ以上何も言わず、ただ映像をじっと見つめ続けていた。ラガタもポムニの様子を気にかけながら、食い入るように画面を見ている。ガングルは言葉を発することなく、何気ない風景を眺めていた。
『おお! これは素晴らしい! 我々のデジタル・サーカスとはまた違った、見事な混沌と無秩序だね!』
ケインだけが分かりやすく興奮して飛び回っていた。
エイドリアンは庭をゆっくりと歩き始めた。
特別なものは見せない。木、花壇、芝生、郵便受け。近所の家々や、道路、遠くを通る車、犬の散歩をする人影、飛んでいる鳥。
現実でただ生活が続いている様子を、そのままカメラ越しに映していく。ただし、通行人の顔がはっきりと映ったり、他人の家の内部が覗き込めたりしないよう、カメラの向きには細心の注意を払った。
『ねえ』
しばらく外の景色を眺めた後、ズーブルが少し億劫そうに口を開いた。
『外の景色が見られるのはいいけど、これって毎回、あなたを呼ばなきゃいけないわけ? あなたが寝てる時や仕事中は見られないんでしょ。私たちの好きな時に、外を眺めることはできないの?』
「それについては提案がある」
エイドリアンは庭のベンチに腰を下ろした。
「携帯端末で俺が案内するだけじゃなく、家の敷地内に常設の固定カメラを置ける。空や庭を広く映すものをいくつか設置して、そっちから自由に視点を切り替えられるようにする。敷地内を動かせる小型端末も後から用意できるし、俺が外出する時に中継することも可能だが……それはその都度相談だな」
『へえ、悪くないわね』
ズーブルが興味深そうに頷く。
「サーカス側に映像を映す画面を新設することになるが、どこに置くか、どの程度の大きさにするか、音声を出すかは君たちで決めてくれ。ケインに画面を用意してもらって、俺はそこへ映像信号だけを供給する形にしよう」
『お任せあれ! サーカスの中に現実への窓を開くなんて、実に魅力的だ!』
ケインが張り切って指を鳴らすと、彼らのいる空間の壁際に、大きな観測用のスクリーンがぽつりと出現した。住人たちがひとまず見やすい位置へと、仮設として設置したようだ。
「ただ、常時配信する上でいくつかルールを決めたい」
エイドリアンは表情を引き締めた。
「映すのは基本的に俺の敷地内だけだ。他人の顔や私生活を追跡するような使い方はしない。録画機能はつけないし、そっちからいつでも映像を切れる。俺の室内は常時配信しないし、寝室や浴室などにはカメラを置かない。外部ネットワークとの接続もさせない」
「君たちが現実を自由に見られるようにする代わりに、俺や第三者の生活領域も守らせてもらう」
エイドリアンがそう告げると、ポムニが小さく頷いた。
『……分かった。お互いのために、その方がいいと思うわ』
「よし。話だけで終わらせるのもなんだからな」
エイドリアンは立ち上がり、庭の隅にある雨風から保護された柱に向かった。そこには、今回の通信前に設置しておいた、試験用の固定カメラがあった。
「このカメラの映像を、そっちの新しい観測画面に繋いでみる。携帯端末の通信はそのまま残しておくから、そっちから接続、切断、音声のオン・オフ、画角の変更ができるか試してみてくれ」
エイドリアンが操作すると、ケインが用意した観測用スクリーンに固定カメラの映像が映し出された。
ポムニたちが操作を試すと、カメラの向きが動き、庭の環境音が聞こえたり消えたりする。住人側から画角変更や接続の操作を行えることが確認できた。
「それじゃあ、今日の携帯端末での会話はここまでにする。観測画面の映像は残しておくから、好きに見てくれ」
エイドリアンはそう言い残し、携帯端末の通信を切断した。
プツン、と電子音が鳴り、エイドリアンが映っていた通信画面が消える。
しかし、サーカス内に新設された観測画面の映像は消えなかった。
流れる雲。風に揺れる木。鳥の声。移り変わる日差し。
誰かが操作しているわけではない。現実の庭と空が、ただそこに映り続けている。
ポムニは、画面の向こうで風に揺れる現実の木々を、ただ静かに見つめ続けていた。