ポムニを愛したい男   作:ポムニに脳を壊された男

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 文字数を大幅に増やしています。あと執筆の仕方変えてます。


視点:ポムニ

 

 

 

 

 ポムニにとっては、時間が止まったという感覚すら全くなかった。

 

 何かが途切れた記憶もなければ、意識を失った覚えもない。

 

 直前まで続いていたはずの日常が、そのまま何事もなく続いている。歩いていたなら次の一歩を踏み出し、誰かと話していたなら、その続きの言葉を口にする。

 

 少なくとも、ポムニ自身にはそうとしか思えなかった。

 

 だから、最初に異変へ気づいたのはポムニではなかった。

 

 いつの間にか中央区域から姿を消していたケインが、しばらくして戻ってきた時だった。

 

 普段のような大げさなファンファーレはない。

 

 ケインは住人たちを集めると、いつもより慎重に言葉を選びながら、自分たちの置かれている状況を説明した。

 

 外部から声が届いたこと。

 

 このサーカスを動かしている機械が、C&Aとは無関係の人間に発見されたこと。

 

 機械は故障しており、外の世界では少なくとも一年以上、動いていなかった可能性があること。

 

 そして、現在は2026年だということ。

 

 時間が止まっていた。

 

 ケインの説明を聞いても、ポムニには実感できなかった。

 

 こちらでは一瞬すら過ぎていない。

 

 だが、外では一年以上の時間が流れていたのだという。

 

 何も感じないまま、自分たちは古い機械の中に閉じ込められ、誰にも知られず置き去りにされていた。

 

 その機械を、見知らぬ人間が拾った。

 

 故障を直し、自分たちを再び動かした。

 

 ケインは既にその相手と話をしているらしい。

 

「彼は、C&Aの関係者じゃないの?」

 

 ポムニが尋ねると、ケインは大きく頷いた。

 

「本人は違うと言っている! 近所のエステートセールで、我々が入っている機械を入手したそうだ!」

 

「エステートセール……?」

 

 聞き慣れた単語のはずなのに、それが自分たちの状況と結びつかない。

 

 この世界を動かす機械が、ほかの古道具やガラクタと同じように売りに出されていた。

 

 そんなものを偶然買った男が、今は自分たちの世界の外側にいる。

 

「その人は、私たちのことをどこまで知ってるの?」

 

「内部に複数の人格が存在していることは理解している! だが、個別の記憶や人格の中身には触れていないと言っていた」

 

「言っていただけでしょ」

 

 ズーブルが疑わしそうに言う。

 

「外にいる人間が、本当のことを言ってるって保証はないわ」

 

「その通りだとも」

 

 ケインは反論しなかった。

 

「だからこそ、私一人ですべてを決めるのではなく、君たちにも直接確認してもらいたいと思ったのだよ」

 

 その言葉を聞きながら、ポムニは胸の奥に冷たいものが広がっていくのを感じていた。

 

 外に出られるかもしれない。

 

 そんな期待よりも先に浮かんだのは、恐怖だった。

 

 相手は、自分たちの入っている機械を所有している。

 

 物理的に電源を切ることもできる。

 

 機械を分解することも、どこかへ運ぶことも、捨てることもできる。

 

 こちらからは、外の人間へ何もできない。

 

 機械を買ったというだけで、自分たちまで所有したつもりでいる可能性もあった。

 

 エピソード9以降、ポムニは自分が現実側の人間本人ではなく、その人物を起点に分かれた存在だと理解している。

 

 元の人間と同じ記憶から始まっていても、今ここで考えている自分は、自分以外の何者でもない。

 

 だからこそ、その意思をデータや所有物として扱われることには、強い抵抗があった。

 

「相手と直接話せるの?」

 

「もちろん、既に映像と音声の経路は繋がっている。彼自身の姿と、我々が収められている機械も見せてもらったよ!」

 

 ケインはそう答えると、住人たちを通信画面の前へ案内した。

 

 黒い画面にノイズが走る。

 

 その向こう側には、薄暗い地下室が映っていた。

 

 無数の工具。

 

 複数のモニター。

 

 太い配線と冷却設備。

 

 そして、古びた巨大なC&Aの筐体。

 

 その前に、一人の男が座っている。

 

 黒髪の、まだ若い男だった。

 

 住人たちの姿が画面へ映った瞬間、男の視線がわずかに揺れた。

 

 一人ずつ姿を確認していた視線が、ポムニのところで一瞬だけ止まる。

 

 ほんの僅かな間だった。

 

 だが、ポムニはその視線に気づき、反射的に眉を寄せた。

 

 自分の姿に何か違和感があるのか。

 

 それとも、自分について何か知っているのか。

 

 判断できるほど長い視線ではなかった。

 

 男はすぐに全員へ目を戻し、平静な表情を作った。

 

「さあ皆! 彼がエイドリアンだ!」

 

 ケインが住人たちの前で両腕を広げる。

 

「彼が壊れていた電源と周辺設備を直して、外部から通信できるようにしてくれたんだ! 今は2026年で、我々は少なくとも一年以上は停止していた可能性があるらしい! 内部のデータは勝手に変更していないと言っているよ!」

 

『連れてきてくれてありがとう、ケイン。初めまして、俺はエイドリアン・レン・ウォーカーだ』

 

 画面越しに聞こえてくる男の声は、思っていたよりも落ち着いていた。

 

 ポムニは周囲の誰かが話し始めるのを待てなかった。

 

「……あなたが、この機械を直したの?」

 

『ああ』

 

「私はポムニ」

 

 自分から名乗り、画面の向こうの男を真っ直ぐに見据える。

 

「……なぜ、再起動したの? 私たちに、何を求めてるの?」

 

 エイドリアンはすぐには答えなかった。

 

 僅かな沈黙があり、一度言葉を選ぶように視線を落とす。

 

『最初は、C&Aの古い機械そのものへの純粋な技術的興味だった』

 

 そこで一度区切り、続ける。

 

『だが、中を調べるうちに、どうやら単なるデータではなく、独立した意思を持つ存在がいると分かった。存在すると分かった以上、壊れたまま放置することはできなかったんだ。だから再起動して、直接話して意思を確認したかった。君たちに何かを要求するために再起動したわけじゃない』

 

 ポムニは目を細めた。

 

 完全には納得できない。

 

 技術的な興味で機械を買い、中に人間のような存在を見つけたから直した。

 

 説明としては理解できる。

 

 だが、善意だけで数十年前の未知の機械をここまで修理するものなのか。

 

 ほかに目的がないのか。

 

 それでも、少なくともエイドリアンは、最初から自分を救世主のようには語らなかった。

 

 助けたのだから感謝しろとも言わない。

 

 ポムニがさらに問いを重ねる前に、ズーブルが前へ出た。

 

「ちょっといい?」

 

 不揃いな部品で構成された腕を組み、画面を睨む。

 

「……ズーブルよ。機械を直してくれたのは分かった。でも、一つ確認させて。あなたは通信していない時も、外から私たちの様子を勝手に見られるわけ? 私たちの会話や映像を記録することはある?」

 

『外部の電源や冷却設備など、物理的な環境の維持と修理は俺が責任を持って担当する。だから、電源状態や温度、エラーログといった技術的な監視は常時行う』

 

 エイドリアンは、できること自体を隠そうとはしなかった。

 

『だが、通信していない時に内部の生活空間を勝手に覗き見ることはしないし、会話や映像を無断で記録もしない』

 

「そう」

 

 ズーブルはそれだけでは引き下がらなかった。

 

「……じゃあ、もう一つ。機械を買ったって言ってたわよね。それって、私たちまで自分の所有物になったつもりでいるわけ?」

 

 ポムニも、その答えを待った。

 

 最も気になっていたことの一つだった。

 

『いいや、違う』

 

 返答は早かった。

 

『俺が購入したのは、あくまで外側の機械だけだ。君たちを所有物として扱うつもりはないし、内部に変更を加える必要がある場合は、必ず先に君たちに相談する。俺が自分の判断で動くのは、火災や機械の致命的な故障など、緊急時に君たちの安全を確保しなければならない時だけだ』

 

 言葉だけなら、何とでも言える。

 

 だが、所有していないという部分を曖昧にしなかったことだけは、ポムニも記憶へ残した。

 

「私はキンガーだ」

 

 大きな金属製のバケツを斜めに被ったキンガーが、縁の下から片目を覗かせる。

 

「……緊急停止は、どのように行われるんだい?」

 

『俺が外部から強制的に電源を引き抜くような真似はしない。元々C&Aのシステムに備わっていた純正の状態固定処理を呼び出して、世界全体を安全に停止させる手順にしてある。故障の兆候があれば、この通信回線を使ってすぐにそちらへ知らせるつもりだ』

 

「もし故障が起きた場合、君だけでなく、こちら側でも事前に気づくことはできるのかな?」

 

 エイドリアンは一つずつ、キンガーの質問へ答えていった。

 

 キンガーは説明を聞き終えると、小さく頷く。

 

「なるほど、純正の保守処理か。説明に明らかな矛盾はないし、無茶な停止方法ではないね」

 

 その言葉で、張り詰めていた空気が僅かに緩んだ。

 

「私はラガタよ」

 

 ラガタが一歩前へ出る。

 

「直してくれたことには、お礼を言うわ。でも……まだあなたのことを全部信じ切れるわけじゃないわ」

 

『構わない。当然の反応だ』

 

 エイドリアンは不満を示さなかった。

 

 その後ろから、ガングルが悲劇の仮面を伏せながら声を上げる。

 

「あ、あの、ガングルです……」

 

『初めまして』

 

「私たちの姿を、エイドリアンさん以外の……外のたくさんの人に見せたりは、しない……?」

 

『しないよ』

 

 エイドリアンは断言した。

 

『許可なく他人へ見せることはないし、記録を第三者へ渡すこともない』

 

 ガングルは小さく息を吐き、リボンの肩を下げた。

 

 一通り全員が名乗り終える。

 

『さて』

 

 エイドリアンが少しだけ声の調子を変えた。

 

『俺から一方的に、この接続を維持しろと強要するつもりはない。今後も通信を続けていいか、あるいは回線を閉じるべきか……君たちで決めてほしい』

 

 住人たちは互いの顔を見た。

 

 完全に信用できる相手ではない。

 

 だが、既に機械は彼の家にあり、自分たちが動き続けるための設備も彼が維持している。

 

 何も知らないまま接触を断つより、監視し、確認し、必要な条件を決めたうえで会話を続けた方がいい。

 

 ズーブルが肩をすくめる。

 

「条件を守るなら、別にいいんじゃない」

 

 ラガタも小さく頷いた。

 

 ガングルとキンガーにも異論はないようだった。

 

 ポムニは一度考えてから、エイドリアンへ向き直った。

 

「……まだ、完全に信用したわけじゃない。でも、今すぐ外部との接触を切る理由もないわ」

 

 慎重に言葉を選ぶ。

 

「あなたがさっき言った条件……勝手に見ない、無断で記録しない、勝手に変更しないっていうルールを守ってくれるなら、通信は続けてもいい。何か問題があれば、私たちの方からも通信を切れるようにしてほしい」

 

『分かった。異論はない』

 

 エイドリアンは頷いた。

 

『通信を始める前には必ず通知を送るし、そちらからも回線を切断できる仕組みを用意しよう。もし必要になれば、後からルールを変えても構わない』

 

 通信を終了する流れになったところで、ポムニはふと思いついた。

 

 外の世界は二〇二六年。

 

 今も、自分たちの知らないところで続いている。

 

「あの、最後に一つ、いいかな」

 

『何だ?』

 

「今って二〇二六年なんでしょ? 次に通信する時に……カメラで、その地下室じゃない、外の世界の景色を見せてもらうことって、できる?」

 

 エイドリアンは少し驚いたように瞬きをした。

 

『……ああ、もちろんだ。次の通信までに、外へ持ち運べる端末を用意しておこう』

 

「分かった」

 

 ポムニは短く答えた。

 

 通信が切れる直前まで、最初に感じた違和感は残っていた。

 

 自分へ向けられた、僅かに長い視線。

 

 エイドリアンが本当に信用できる人間なのか。

 

 あの視線に何か意味があったのか。

 

 今はまだ、何一つ判断できなかった。

 

 数日後。

 

 前回の取り決め通り、エイドリアンから接続要求の通知が届いた。

 

 今回は初回のように、全員が画面の前へ整列して待っていたわけではない。

 

 ポムニが画面の近くに立ち、その少し後ろにラガタとガングルがいる。

 

 ズーブルは少し離れた場所から様子を窺い、キンガーは枕の砦に座っていた。

 

 住人側で接続を許可すると、画面の向こうにエイドリアンの姿が映る。

 

『久しぶりだな。映像と音声はそちらへ届いているか?』

 

「ええ、届いてるわ。そっちの画面には私たちが映ってる?」

 

『ああ、問題なく映っている。外へ持ち出す前に、一度そっちから切断機能のテストをしてみたい。ポムニ、そっちの操作で通信を切ってみてくれ』

 

「分かった」

 

 ポムニが通信画面の横に表示された切断ボタンへ触れる。

 

 その瞬間、エイドリアンの姿が消え、音声も完全に途切れた。

 

 外部の人間に頼まず、自分たちの意思で通信を止められる。

 

 約束通り、機能は用意されていた。

 

 数秒後、住人側から改めて接続要求を送り、通信を再開する。

 

「……ちゃんと、私たちの方から切れたわね」

 

『問題なく動いたな。これなら、そっちの判断でいつでも回線を切ることができる。それじゃあ、階段を上がるぞ』

 

 エイドリアンが携帯端末を持ち、地下工作室から外へ向かう。

 

 画面が揺れ、これまで見えていた機械だらけの地下室から、普通の家の中へ景色が変わった。

 

 廊下。

 

 リビング。

 

 キッチン。

 

 窓から差し込む日光。

 

 ソファーや日用品。

 

 テーブルには食べかけのスナック菓子と、置きっぱなしのマグカップがある。

 

「ふふ、エイドリアンって、もっと機械だらけの無機質な部屋に住んでるのかと思ってた」

 

 ラガタがくすりと笑う。

 

「あ、あれ……漫画の背表紙と、映画のソフト……」

 

 ガングルが本棚へ気づいた。

 

『技術関係ばかりじゃないさ。漫画や映画も普通に好きだし、一人暮らしだから散らかる時もある』

 

 これまでポムニたちが知っていたエイドリアンは、地下室で機械を操作し、自分たちへ慎重に説明する人間だった。

 

 その男が、漫画や映画を持ち、食べかけの菓子をテーブルへ置いたままにしている。

 

 画面越しに見えていた印象が、少しだけ現実の人間らしい形へ変わった。

 

 エイドリアンは玄関の前で一度立ち止まった。

 

『それじゃあ、開けるぞ』

 

 普通にドアノブを回す。

 

 最初に画面へ飛び込んできたのは、薄い雲が流れる青空だった。

 

 日光。

 

 風に揺れる木々。

 

 鮮やかな芝生。

 

 遠くを走る車のエンジン音。

 

 どこかで鳴いている鳥。

 

 サーカスにも空はある。

 

 風も、木も、鳥も存在している。

 

 だが、画面に映るものは、それとは明らかに違った。

 

 雲は誰かの都合に合わせず形を変え、風の強さも一定ではない。

 

 葉と影が細かく揺れ、遠くの音が偶然に重なっている。

 

 誰かが住人たちへ見せるために整えた風景ではない。

 

 ただ、そこに存在し続けている現実だった。

 

 エイドリアンは何も言わず、住人たちが映像を見るための時間を作った。

 

「……これは、本当に今の外の景色?」

 

 ポムニは画面から目を離さないまま尋ねた。

 

「録画や、加工された映像じゃないの?」

 

『ああ。今まさにカメラの前にある景色だ』

 

 エイドリアンは自分の手をカメラの前にかざした。

 

 足元の芝生。

 

 風で揺れる木。

 

 住宅の外観。

 

 道路を通過する車。

 

 最後にスマートフォンの画面を映す。

 

 そこには現在の日付と時刻、リアルタイムの天候が表示されていた。

 

「本当に、二〇二六年の現実なの?」

 

『間違いなく、今現在の現実だ』

 

 ポムニはそれ以上、何も言えなかった。

 

 現実は続いている。

 

 自分たちが停止している間も。

 

 サーカスの中で過ごしている間も。

 

 自分の原型となった人間も、あの空の下で別の人生を続けているのかもしれない。

 

 だとすれば、今の自分が帰るはずだった場所は、既に自分のものではない。

 

 元の生活へ戻ったところで、そこには別の自分がいる可能性すらある。

 

 自分が偽物だというわけではない。

 

 ここで考え、苦しみ、ほかの住人たちと過ごしてきた時間は、間違いなく自分のものだ。

 

 それでも、画面の向こうに広がる現実は、どうしようもないほど遠かった。

 

 ラガタはポムニの様子を気にかけながら、同じように画面を見つめている。

 

 ガングルも言葉を発しない。

 

「おお! これは素晴らしい!」

 

 ケインだけが分かりやすく興奮していた。

 

「我々のデジタル・サーカスとはまた違った、見事な混沌と無秩序だね!」

 

 エイドリアンは庭をゆっくり歩きながら、特別でも何でもないものを映していった。

 

 木。

 

 花壇。

 

 芝生。

 

 郵便受け。

 

 道路を走る車。

 

 遠くを歩く人影。

 

 空を飛ぶ鳥。

 

 通行人の顔や他人の家の中が映らないよう、カメラの向きは慎重に調整されていた。

 

 しばらく外の景色を眺めた後、ズーブルが口を開いた。

 

「外の景色が見られるのはいいけど、これって毎回、あなたを呼ばなきゃいけないわけ? あなたが寝てる時や仕事中は見られないんでしょ。私たちの好きな時に、外を眺めることはできないの?」

 

『それについては提案がある』

 

 エイドリアンは庭のベンチへ腰を下ろした。

 

『携帯端末で俺が案内するだけじゃなく、家の敷地内に常設の固定カメラを置ける。空や庭を広く映すものをいくつか設置して、そっちから自由に視点を切り替えられるようにする。敷地内を動かせる小型端末も後から用意できるし、俺が外出する時に中継することも可能だが……それはその都度相談だな』

 

「へえ、悪くないわね」

 

「お任せあれ! サーカスの中に現実への窓を開くなんて、実に魅力的だ!」

 

 ケインが張り切って指を鳴らす。

 

 中央区域の壁際に、大きな観測用スクリーンが出現した。

 

 住人たちが見やすい位置へ、ひとまず仮設されたものだった。

 

『ただ、常時配信する上でいくつかルールを決めたい』

 

 エイドリアンの表情が真面目なものへ変わる。

 

『映すのは基本的に俺の敷地内だけだ。他人の顔や私生活を追跡するような使い方はしない。録画機能はつけないし、そっちからいつでも映像を切れる。俺の室内は常時配信しないし、寝室や浴室などにはカメラを置かない。外部ネットワークとの接続もさせない』

 

 自分たちが現実を見られるようにする代わりに、外にいる人間たちの生活も守る。

 

 一方的に好き勝手見せるのではなく、双方に境界線を作るという話だった。

 

『君たちが現実を自由に見られるようにする代わりに、俺や第三者の生活領域も守らせてもらう』

 

「……分かった。お互いのために、その方がいいと思うわ」

 

 ポムニが頷く。

 

 エイドリアンは、事前に庭へ設置していた試験用の固定カメラへ移動した。

 

『このカメラの映像を、そっちの新しい観測画面に繋いでみる。携帯端末の通信はそのまま残しておくから、そっちから接続、切断、音声のオン・オフ、画角の変更ができるか試してみてくれ』

 

 ポムニたちが操作を試すと、カメラの向きが動いた。

 

 庭の環境音を消し、再び流す。

 

 映像を切断し、接続し直す。

 

 すべて、住人側から操作できた。

 

『それじゃあ、今日の携帯端末での会話はここまでにする。観測画面の映像は残しておくから、好きに見てくれ』

 

 電子音とともに、エイドリアンが映っていた通信画面が消える。

 

 だが、新しく設置された観測画面には、現実の庭と空が映り続けていた。

 

 流れる雲。

 

 風に揺れる木。

 

 鳥の声。

 

 移り変わる日差し。

 

 誰かが操作しているわけではない。

 

 現実が、ただそこに映り続けている。

 

 ポムニは画面の向こうで揺れる木々を、静かに見つめ続けた。

 

 それから数日後。

 

 エイドリアンとケインが、ほかの住人を交えずに話している場面を見かけた。

 

 ポムニは最初、そのまま通り過ぎるつもりだった。

 

 だが、「新しいサーバー」という聞き慣れない言葉が耳へ入り、足を止める。

 

 画面の中では、古いC&Aの機械とは別の、新しい筐体の設計図が表示されていた。

 

 ケインは、新しい冒険用の世界を作れる可能性に、目を輝かせている。

 

「……二人で、何の話をしてるの?」

 

 画面の端から問いかけると、エイドリアンがこちらを見る。

 

『今の機械が古くなってきたから、安全のために新しい冒険用の場所を作ろうという話だ』

 

 新しい場所。

 

 その言葉だけで、ポムニの警戒心が僅かに戻った。

 

 今のサーカスとは別の機械。

 

 そこへ繋がる入口。

 

 安全だと言われても、実際に何が起こるかは分からない。

 

『いきなり君たちを危険な場所へ放り込むつもりはない。まずはケインが調べ、次に無人のアバターで試験をする。君たちが参加するのは、安全が確認されてからだ』

 

 ポムニはエイドリアンとケインを交互に見た。

 

「……参加するかどうかは、私たちが決められるの? 入口を開く前に、私たちに確認してくれる?」

 

「もちろんだとも!」

 

 ケインが先に答えた。

 

「今後はどんな新しいアトラクションでも、参加する者には必ず事前に確認するよ! 不参加の者を巻き込んだりはしないさ!」

 

『ああ、参加はあくまで任意だ』

 

 エイドリアンも頷く。

 

『君たちの意思を無視して参加させることはない。危険があればすぐに中止する』

 

 ポムニはしばらく二人の顔を見た。

 

 言っていることは、これまでに決めた条件と矛盾していない。

 

 少なくとも、完成する前から自分たちを試験へ使うつもりはないらしい。

 

「……分かった」

 

 小さく頷き、その場を離れる。

 

 その後も二人の会話は続いていたが、ポムニは聞かなかった。

 

 さらに数日後。

 

 今度はサーカス側から、エイドリアンへ通信を繋ぐことになった。

 

 これまで、住人たちはエイドリアンから外の景色や家の中を見せてもらっている。

 

 こちらだけ何も見せないままでいるのも、どこか一方的な気がした。

 

 何より、外部の人間を相手にした説明や確認ばかりではなく、自分たちが普段どのように過ごしているのかを見せてもいいのではないか。

 

 住人たちで話した結果、サーカスの中を案内しようということになった。

 

 通信要求を送ると、画面へエイドリアンが映った。

 

「やあエイドリアン! 今日も素晴らしい一日だね! 仕事の調子はどうだい?」

 

 最初にケインが顔を大きく映し出す。

 

『ああ、順調だよ。そっちから通信をくれるなんて珍しいな。何か問題でも起きたか?』

 

「ノンノン! 問題なんて何一つ起きていないとも! 今日はね、我がデジタル・サーカスの誇るスターたちから、君へ提案があるのさ!」

 

 ケインが画面の端へ退く。

 

 ポムニは、ケインが用意した小さなカメラ付き通信パネルを手に持ち、エイドリアンの前へ出た。

 

「エイドリアン、今ちょっといい?」

 

『こんにちは、ポムニ。みんな、どうしたんだ?』

 

「この前は、そっちの家とか外の景色を見せてくれたでしょ? もらいっぱなしっていうのも変だから、今日はこっちを見せようって話になったの」

 

 一度言葉を切る。

 

「今、時間ある?」

 

 エイドリアンが僅かに息を飲んだ。

 

 断られる可能性を考えていなかったわけではない。

 

 だが、画面の向こうの男はすぐに頷いた。

 

『……とても嬉しい提案だ。ちょうど一息つこうと思っていたところだよ。ぜひ、案内をお願いしたい』

 

「わかった。じゃあ、行くね」

 

 通信パネルを持って歩き始めようとした瞬間、派手なファンファーレが鳴った。

 

「パッパラー! さあ始まりました、エイドリアンのための特別VIPツアー! まずは私、ケインが特別に用意した、重力無視のウェルカム・ウォーター・ファウンテンから――」

 

「ケイン、ちょっと静かにしてて。今回は普通に歩くんだから」

 

「あ、ああ、そうだったね! 私は裏方に徹するとしよう!」

 

 ケインがしょんぼりしながら画面の外へ退く。

 

 後ろからラガタが歩み寄った。

 

「ふふ、相変わらずね。エイドリアン、改めて」

 

 ラガタが手を広げる。

 

「ここがメインの広場よ。最近は皆で少しずつ手を加えているの。あそこのテーブルセットは、皆でお茶を飲んだり、食事をしたりするために置いたの。食べなくても困りはしないけど、味はちゃんとするし、皆で集まる理由にはなるから」

 

『なるほど、集まって話す場所としては機能しているんだな』

 

「ええ。冒険がない日は、だいたい誰かがここにいるわ」

 

 ポムニは通信パネルを動かし、中央区域全体が見えるようにする。

 

 これまでエイドリアンが見ていたのは、固定された観測画面からの映像だけだった。

 

 今は、住人たちと同じ高さで、自分たちが普段歩く場所を見ている。

 

「あっちの廊下が、私たちの部屋が並んでるところ。部屋では普通に寝てるわ。夢を見ることもあるし、一人になりたい時にも使うの」

 

『夢も見るんだな。部屋は休むための場所でもあるのか』

 

 歩いていると、ガングルがポムニの横へ寄ってきた。

 

「あ、あのね……ここ、私が描いたの。ちょっと殺風景だったから、色を足したくて……」

 

 壁に飾られた絵や装飾を指差す。

 

 エイドリアンは画面へ少し顔を近づけた。

 

『ガングルが描いたのか。この色の組み合わせ、俺は好きだな。何もなかった壁より、ずっとここで誰かが暮らしている感じがする』

 

「ほ、本当……? エイドリアンさんにそう言ってもらえると、嬉しい……」

 

「でしょう? ガングルは絵が上手なのよ」

 

 ラガタも自分のことのように笑った。

 

 その時、画面の奥に奇妙な物体が映り込んだ。

 

 逆さまになったティーカップから、水が上へ向かって流れている。

 

 周囲の空間まで僅かに歪んでいた。

 

 先ほどケインが出し損ねた演出の一部らしい。

 

『……あれは、重力場の演算エラーか? いや、流体の粘性係数とベクトルを意図的に反転させているのか……? ケイン、あの部分のオブジェクトの物理法則はどうやって定義しているんだ?』

 

「おお!」

 

 ケインが再び姿を現す。

 

 エイドリアンが技術的な話を始めた途端、二人の会話は止まらなくなった。

 

「ちょっとエイドリアン。そこ、真面目に分析するとこじゃないわよ。ケインが適当に出しただけのガラクタなんだから」

 

 通りかかったズーブルが呆れた声を出す。

 

『いや、しかし、あの流体の振る舞いを演算だけでシミュレートしているのだとすれば、かなりの処理能力を食うはずで――』

 

「はいはい、ストップ。そういう理屈っぽいのはいいから。ポムニ、次行きなさい」

 

「うん、そうだね」

 

 ポムニは苦笑しながら歩き出した。

 

(この人、技術の話になると本当に止まらないのね)

 

 これまでの慎重で落ち着いた印象とは、随分違う。

 

 何かを隠すために冷静な態度を作っているというより、普段から考え込む性格で、興味のあるものを見つけると周囲が見えなくなるらしい。

 

 次に画面へ映ったのは、クッションと枕がうず高く積まれた一角だった。

 

「よく来たね、外部の観察者よ!」

 

 枕の山からキンガーが顔を出す。

 

『キンガー。それは……随分と立派な要塞だな。防音や通気性はどうなっているんだ?』

 

「ふっふっふ、聞いて驚け。これは完全なる対バグ仕様の要塞だ。あらゆる予期せぬエラーから身を守るための、完璧なシェルターさ! 通気性? そんなものはこのデジタル空間では不要だ!」

 

 言葉には淀みがない。

 

 バケツの影に包まれているため、明るい場所にいる時よりも落ち着いているようだった。

 

『なるほど、完璧な防壁というわけか。いつかその構造の秘密を教えてほしいな』

 

「いいだろう! ただし、最高機密だからね!」

 

 他愛のないやり取りを交えながら、案内は続いた。

 

 途中でポムニは、画面の向こうにある地下工作室を見た。

 

 エイドリアンはいつも、同じような場所から通信している。

 

「……ねえ、エイドリアン」

 

『俺か?』

 

「うん。いつもその地下室にいるみたいだけど、ちゃんとご飯とか食べてるの? 寝てる?」

 

 ほかの住人たちも、画面の向こうへ視線を向けた。

 

『食事も睡眠も、人並みには取っているよ。仕事は大部分を自動化しているから、一日中ここに張り付いているわけじゃないんだ』

 

「そうなんだ」

 

 ポムニは、エイドリアンの後ろで動く作業用アームへ気づいた。

 

「……じゃあ、あそこに見えるのは何?」

 

 組み上げ途中の大きな金属製フレームが映っている。

 

『ああ、あれか。あれは、先日ケインと話した、新しい機械の部品だよ。今、ゆっくりと製造を進めているところだ』

 

「あれが……新しい場所?」

 

『そうだ。だが、まだ組み立ての途中で、接続できる段階じゃない。当分は試験も行わないし、完成して実際に動かす前には、必ず君たち全員に再度説明する。それに、参加する者からはきちんと同意を取るし、関係ない者を巻き込むことはない。安心してくれ』

 

 エイドリアンはポムニへ返事をする前に、僅かに一拍置いていた。

 

 言葉を選んでいるだけなのか。

 

 ポムニにはまだ、その理由までは分からなかった。

 

「分かった。でも、実際に繋ぐ前には、ちゃんともう一度説明してね」

 

『ああ』

 

 一通りの案内を終え、ポムニたちは中央区域へ戻った。

 

 壁際には、現実を映し続けている観測画面がある。

 

 その画面の向こうでは、激しい雨が降っていた。

 

「あ、雨が降ってる……」

 

『ああ、こっちは少し前から雨だ。夕方になって、少し冷え込んできたよ』

 

 木々の葉が雨粒を弾き、庭に水たまりができ始めている。

 

 誰かが演出として用意したものではない。

 

 現実の天候として降り続けている雨だった。

 

 住人たちは、しばらくその風景を眺めた。

 

 画面のこちら側と向こう側で、同じ雨音を聞いている。

 

 その時間は、ポムニが予想していたよりも普通だった。

 

 外部の人間との技術的な相談でも、相手の目的を確かめるための質問でもない。

 

 ただ、同じものを見ているだけだった。

 

「……あのさ、エイドリアン」

 

『何だ?』

 

「皆で話してたんだけど、今度一緒に映画見ない? 画面越しでもできるでしょ?」

 

 ラガタが隣で期待するように画面を見る。

 

 ガングルも小さく頷いている。

 

『もちろんだ。映像をそっちの画面に繋ぐ仕組みを作っておこう。どんなジャンルが見たいか、次回までにみんなで考えておいてくれ』

 

「本当!? やったわ!」

 

 ラガタが弾んだ声を上げ、ガングルも小さく拍手をした。

 

「それじゃあ、今日はこれで。案内、付き合ってくれてありがとう」

 

『こちらこそ。そっちの生活が少し分かって、嬉しかったよ。また連絡する』

 

 ポムニは小さく手を振り、通信を切断した。

 

 最初に話した時よりも、エイドリアンを相手に身構える時間は短くなっていた。

 

 信用し切ったわけではない。

 

 だが、次の通信が技術の説明や質問だけではなく、映画を見るためのものになることを、悪いことだとは思わなかった。

 

 そして、映画を見るはずだった日。

 

 中央区域には、住人たちが椅子やクッションを持ち寄っていた。

 

 ラガタは皆の座席を並べながら、スクリーンの見やすい中央の席を自分用に確保している。

 

 ガングルは映画候補の条件を書いたボードを抱えていた。

 

 ズーブルは少し遅れて現れ、準備には加わらず、画面や機材の様子を観察している。

 

 キンガーは、いつもの大きな金属製のバケツを斜めに被って座っていた。

 

 ポムニは観測画面の近くに立ち、エイドリアンから送られてくるテスト用のカラーバーを確認している。

 

「パッパラー! さあスターたちよ! 映画の準備はいいかい!?」

 

 ケインが空中から飛び出す。

 

 画面の周囲には重厚な赤いカーテンが付き、映画館を意識した照明が設置された。

 

 ただし、少し明るすぎる。

 

「上映環境はこれでどうかな!?」

 

「ケイン、もう少し暗くして」

 

「カーテンが画面の端にかかってる。邪魔」

 

「あの、画面を少しだけ高くしてもらえると……」

 

 ポムニ、ズーブル、ガングルから要望が飛ぶ。

 

「おっと、失礼! では微調整といこう!」

 

 ケインは素直にカーテンを動かし、照明を暗くし、画面の高さを調節した。

 

『映像の同期は問題なさそうだな。それじゃあ、最終確認をする』

 

 エイドリアンが手元のキーボードを操作する。

 

 観測画面の隅に、四人分の入力欄が表示された。

 

 【プレイヤー1】

 

 【プレイヤー2】

 

 【プレイヤー3】

 

 【プレイヤー4】

 

「ちょっと待って。なんで映画を見るだけなのに、四人分のコントローラー設定があるの?」

 

 ズーブルがすぐに気づく。

 

『ああ。映像だけじゃなく、そっちからの入力信号も直接送れるように組んでみたんだ。使うかもしれないと思って』

 

「もしかして、最初からゲームする気だった?」

 

 ポムニもエイドリアンの机を覗き込んだ。

 

 ゲーム機は既に起動している。

 

「“使うかもしれない”にしては、もう起動してるけど」

 

『……準備だけなら無駄にはならないだろ?』

 

「ふうん……あんた、意外とそういうとこ用意周到なのね」

 

 ズーブルは面白そうに鼻を鳴らした。

 

 ポムニも少し呆れた。

 

 遊びたかったなら、普通にそう言えばいい。

 

 それでも、自分からゲームを押しつけず、使うかどうかをこちらへ任せているところは、いかにもエイドリアンらしい気がした。

 

「じゃあ、動くか確認すればいいでしょ。実際に対戦した方が早いわ」

 

「えっ、映画は?」

 

「後で見ればいいじゃない」

 

 ズーブルに押し切られ、ゲームを始めることになった。

 

「なるほど! では私から皆へ、操作端末を提供しよう!」

 

 ケインが指を鳴らすと、住人たちの手元へコントローラーが出現した。

 

 ポムニは、自分の手に収まった標準的な形のコントローラーを見つめた。

 

「ボタン、多くない? これ全部使うの?」

 

『ゲームにもよるが、基本的に使うのは二つのスティックと四つのボタン、それに背面のトリガーだ。やってみればすぐに慣れるさ』

 

 持ち方そのものには迷わなかった。

 

 親指をスティックへ置き、ボタンを何度か押して感触を確かめる。

 

 ズーブルは自分のコントローラーを振った。

 

「ねえ、これ持ちにくいんだけど」

 

『どんな形がいい? ケイン、ズーブルの要望に合わせて外形を調整してやってくれ』

 

「お安い御用だ!」

 

「もう少し横幅を狭くして、スティックの位置を右に寄せて。右側のボタンを、もう少し親指が届きやすい位置にして」

 

 ケインが要望に合わせて形を変えていく。

 

 ガングルには、リボンの手でも扱いやすい小型のコントローラーが作られた。

 

「落としちゃいそう……あ、でも、ちゃんと押せる」

 

 キンガーはバケツを被ったまま、正確にボタンを押し分けている。

 

「問題ない。手元を見なくても押せそうだ」

 

「ところで、最初の対戦に私の席はあるのかい!?」

 

『最初は四人までだ。交代で遊ぼう』

 

「仕方ない! それなら私は、この世紀の対決を盛り上げる実況役に回るとしよう! 実況は必要かい!?」

 

「いや、普通に見といて」

 

 ポムニが即座に断る。

 

 最初に選ばれたのは、簡単なレースゲームだった。

 

 参加者は、エイドリアン、ポムニ、ズーブル、ラガタ。

 

 初心者向けの、ギミックが少ないコースが選ばれる。

 

 ポムニは車体性能の違いを気にしながら、操作説明を読み込んだ。

 

 だが、実際に走り始めると、カートは思った通りには曲がらない。

 

 最初のカーブで壁にぶつかる。

 

 次のカーブでも外側へ膨らむ。

 

 隣ではズーブルが、最初から安定して先頭集団を走っていた。

 

 ラガタも、可愛い見た目で選んだと言いながら、ポムニより綺麗にコーナーを曲がっていく。

 

 それでも、何度か走るうちに操作の感覚が分かってきた。

 

 前にいるラガタへ向かって、妨害アイテムを投げる。

 

「あっ! ポムニ、今当てたわね!」

 

「あ、ごめん! ……でもゲームだから!」

 

 ズーブルから攻撃を受けたラガタも、すぐに反撃へ切り替えた。

 

 三周目。

 

 上位が集まったところで、横からキンガーの声が聞こえる。

 

「ポムニ、その速度だと次のカーブを曲がりきれないぞ」

 

 直後、ポムニのカートは曲がりきれず、崖の下へ落ちた。

 

「ちょっと、もっと早く言ってよ!」

 

「気づいた時には、もうカーブの手前だったんだ」

 

 第一レースはズーブルが一位。

 

 ラガタが二位。

 

 ポムニが三位。

 

 エイドリアンは最下位だった。

 

「あんた、手抜いてたでしょ」

 

 ズーブルがすぐに指摘する。

 

『最初だったからな。操作の遅延がないか、様子を見ていたんだ』

 

「別に手加減してって頼んでないけど」

 

 ポムニもコントローラーを握り直した。

 

 壁にぶつかったことよりも、最初から競争相手として扱われていなかったことの方が腹立たしかった。

 

「次は普通にやりなさいよ」

 

「私も次は負けないわ」

 

 第二レースでは、エイドリアンも最初から普通に走った。

 

 終盤、エイドリアンへ妨害アイテムが集中し、その隙にズーブルが一位でゴールする。

 

 エイドリアンが二位。

 

 ポムニとラガタが後に続いた。

 

「ふん、初心者相手に手を抜いた罰ね」

 

「でも、最後のアイテム運が良かっただけじゃない?」

 

「はあ? あれは実力よ。あんたのカーブの曲がり方が甘いのよ」

 

「次は私があの車使うから!」

 

 何戦か遊んだ後、参加者を交代する。

 

 ガングルは最初、誰かへ妨害を当てるたびに謝っていた。

 

「ひっ! ご、ごめんなさいズーブル!」

 

「今のはゲームなんだから謝らなくていいよ」

 

 ポムニが言うと、ガングルも少しずつ攻撃へ慣れていった。

 

 キンガーは、飛んでくる障害物を正確なタイミングで避け、誰も見つけていなかった隠し通路へ入った。

 

「ラガタ、そこの岩の後ろが近道だぞ」

 

「本当? ……あ、本当に道があるわ!」

 

 だが、一位でゴールする直前に急停止する。

 

「ふむ、全員揃ってゴールした方が美しい隊列になるのではないかな……」

 

 その結果、後続全員に抜かれていった。

 

 レースが一段落し、映画へ戻ろうとしたところで、ズーブルが格闘ゲームを見つけた。

 

「これ、二人で殴り合うやつ?」

 

『ああ。一対一の対戦型格闘ゲームだ』

 

「面白そうじゃない。ちょっとやらせてよ」

 

 エイドリアンが操作を説明している途中で、ズーブルは攻撃を始めた。

 

『おい、まだ説明の途中だぞ』

 

「もう始まってるんだから、ぼーっと喋ってる方が悪いでしょ」

 

 一戦目はエイドリアンが勝った。

 

 二戦目では、ズーブルが急速に操作を覚え、体力を僅かに残すところまで追い詰めた。

 

「そこっ!」

 

 だが、最後の大技を防がれ、反撃を受ける。

 

『……危なかったな』

 

「チッ。もう少しだったのに」

 

『なら、もう一戦だ』

 

「ちょっと、映画見る時間なくなるんだけど。いつまでやってるの」

 

 ポムニが間へ入る。

 

「……仕方ないわね。でも映画の後でもう一回。一度も勝てないまま終われないから」

 

 ズーブルが引き下がった後、ほかの住人たちも別のゲームを少しずつ遊んだ。

 

 ガングルはリズムゲームで高い得点を出す。

 

『すごいな。完璧なタイミングだった』

 

 褒められたガングルは、嬉しそうにその場で回った。

 

 ポムニはラガタと協力ゲームを遊ぶ。

 

「あ、ラガタ! 今スイッチ離すの早い!」

 

「でもポムニ、今のはそっちがジャンプするの遅かったわよ?」

 

 二人で笑いながら、何度も同じ場所へ挑戦した。

 

 キンガーはパズルゲームの複雑な法則をすぐに見抜いたが、決定と取り消しを間違えて盤面を崩した。

 

「ああっ、今ので全部崩れた! 決定と取り消しが逆だったのか……」

 

 最後に、ポムニはエイドリアンと二人用の協力パズルゲームを遊ぶことになった。

 

 エイドリアン側には全体地図。

 

 ポムニ側には迷路内部の視点。

 

 互いに見えているものが違い、言葉だけで誘導しなければならない。

 

『いいかポムニ、まず現在地から北へ三歩進んで、そこにある赤いレバーの横を通り過ぎたら、東へ向かって――』

 

「長い。今は右か左かだけ言って」

 

『……分かった。とりあえず右だ』

 

 だが、ポムニは説明を最後まで聞かずに曲がり、罠へ落ちた。

 

『すまん、俺の指示のタイミングが遅かったか』

 

「いや、今のは私が先に動いたから」

 

 役割を交代する。

 

 今度はポムニが地図を見て、エイドリアンを誘導する。

 

「えっと、そこをまっすぐ行って、曲がる」

 

『曲がると言われても、ここは分かれ道が三本あるんだが。どれだ?』

 

「あ、ごめん! 一番右の道!」

 

 自分は説明を省きすぎる。

 

 エイドリアンは説明が長すぎる。

 

 二度、三度と失敗しながら、互いに必要な情報の量が少しずつ分かっていった。

 

 最後の扉が開き、クリア画面が表示される。

 

「ふぅ……やっと終わった」

 

 ポムニはコントローラーを置き、大きく息を吐いた。

 

 最初から上手くいったわけではない。

 

 何度も失敗した。

 

 言い方が伝わらなければ変え、相手の説明が終わるまで待ち、もう一度やり直した。

 

 失敗しても、それで終わりにはならない。

 

 その感覚は、ポムニにとって思っていたよりも心地よかった。

 

「まあ、最初よりはマシになったんじゃない?」

 

 横で見ていたズーブルが言う。

 

 ゲームを交代する間にも、雑談は続いた。

 

 エイドリアンが子供の頃に遊んだゲーム。

 

 ラガタが感じた、失敗してもすぐにやり直せることの気楽さ。

 

 ズーブルによる、キャラクター性能への文句。

 

 キンガーが、四角いブロックを積み続ける夢について話す。

 

 かなり時間が経ってから、ようやく映画へ戻った。

 

 エイドリアンは飲み物と食べ物を用意するため、携帯端末を持ってキッチンへ向かった。

 

 鍋の中でコーンが弾け、キャラメルが絡められていく。

 

「おお! それは映画館に欠かせない魅惑の食べ物だね! 現実側と同じものをこちらにも用意できると思うが、味付けはどうする?」

 

「私は普通の塩味で」

 

「じゃあ、私はキャラメルにしようかしら」

 

「私は甘すぎないやつにして」

 

「あ、あの……私も、エイドリアンさんと同じものを……」

 

 ケインはキンガーにも希望を聞き、それぞれへポップコーンを出した。

 

 キンガーはバケツの隙間からポップコーンを入れていたが、何個かは中へ落ちたらしい。

 

 動くたびに、バケツの中からカラカラと音が鳴った。

 

「そういえばあんたの家の棚、やたら保存食とかシリアルばっかりだったけど。本当に普段ちゃんと食べてるの?」

 

 ズーブルがキッチンを見ながら尋ねる。

 

「それ、私も前から気になってた」

 

 ポムニも加わる。

 

『研究や作業で忙しい時に、手早く済ませるためのものだよ。普段はちゃんとしたものを自炊してる』

 

 二人で疑わしそうな目を向けたが、それ以上は追及しなかった。

 

 映画選びでは、意見が割れた。

 

「大爆発と宇宙戦争と感動の歌が詰まった作品がいい!」

 

「三時間以上あるやつと、感動を押し付けてくるのは無理」

 

「映像が綺麗で、音楽が素敵なのがいいな……」

 

「できれば明るい話がいいわね」

 

 キンガーは古いSF映画の宇宙船を見て、外殻が薄すぎると指摘している。

 

「せっかくだから、こっちの誰も内容を知らないやつがいいな」

 

 ポムニの提案もあり、最終的にはコメディ要素のあるSFアドベンチャーに決まった。

 

 ケインが照明を落とす。

 

 暗くなるにつれて、キンガーのバケツの内側の影も深くなり、姿勢と声がさらに落ち着いていく。

 

 全員が座り直し、上映開始を待った。

 

 同じ場所へ集まり、同じ方向を向いて、これから始まる一つの物語を待つ。

 

 誰かに参加を強制された催しではない。

 

 成功や失敗を決める条件もない。

 

 ただ、皆が見たいからここにいる。

 

 その時間が、ポムニには不思議なくらい穏やかに感じられた。

 

「さあ、待ちに待った上映開始だ! 果たして――」

 

「ケイン、ちょっと黙って見て」

 

 ポムニが止める。

 

 ケインはしばらく静かにしていたが、面白い映像表現を見ると、小声で呟いた。

 

「なるほど、これは世界生成の参考になるな……」

 

 笑える場面では、ラガタが声を上げ、ガングルも楽しそうに笑う。

 

 ズーブルは口元を僅かに動かした後、すぐにポップコーンへ手を伸ばした。

 

 ポムニは登場人物の間の抜けた行動へ、何度もツッコミを入れた。

 

 突然怪物が飛び出してくる場面では、ズーブルが身体を震わせる。

 

「……音が大きかっただけよ」

 

 ポムニも胸元を押さえながら、演出に文句を言った。

 

 物語が核心へ近づくと、誰も話さなくなった。

 

 淡い光が住人たちの顔を照らす。

 

 ポムニも、瞬きを忘れるほど画面へ見入っていた。

 

 映画が終わり、エンドロールが流れても、すぐには誰も口を開かなかった。

 

 最初に余韻を破ったのはズーブルだった。

 

「あの主人公、最後の判断はおかしいでしょ。燃料の残量も怪物の位置も確認しないで、あそこで助けに戻ったら全滅してたかもしれないのよ」

 

「でも、あの星空の映像と音楽、すごく綺麗だった……」

 

「私は、主人公が仲間を見捨てなかったところが好きよ」

 

「私は納得いかないな。あそこで隠れてた方が絶対安全だったのに」

 

 ポムニも納得できなかった部分を口にする。

 

『映画の文法としては王道だが、現実的に考えればポムニの言う通りだな』

 

 エイドリアンも客観的に答えた。

 

「主人公が戻ったのは合理的ではなかった。でも、あそこで見捨てていたら、最後まで自分を許せなかったんだろう」

 

 キンガーが静かに言う。

 

 ズーブルは小さく息を吐いた。

 

「……まあ、そうね。気持ちは分からなくもないわ」

 

「素晴らしい映画だった! ねえ、この作品を参考にした冒険も作れそうだが、興味はあるかい!?」

 

「……怪物に追われるだけのやつは嫌」

 

「強制参加はなしにしてよね」

 

「宇宙の景色は、ちょっと見てみたいかも……」

 

「なるほど、追跡要素は控えめ、希望者制、景色重視だね! しっかりメモしておこう!」

 

 感想を話し終え、そろそろ解散する空気になった時、ズーブルが立ち上がった。

 

「で、さっきの続きは?」

 

「えっ、まだやるの?」

 

「当然でしょ。一度も勝てないまま終われないから」

 

 三戦目の格闘ゲームが始まった。

 

 最後は、ズーブルがエイドリアンの攻撃をかわし、カウンターからコンボを繋ぐ。

 

 画面にKOの文字が表示された。

 

「よし。今度は取った」

 

『最後は完全に読まれたな。今回は俺の負けだ』

 

 ズーブルが満足し、今度こそ通信を終える時間になった。

 

 ガングルとラガタは、映画の感想を言いながら先に戻っていく。

 

 ズーブルは、次は別のキャラクターを試すと言い残した。

 

 キンガーも枕の砦へ帰っていった。

 

 ケインは、映画用に作った設備を残しておくかどうか、住人たちへ確認している。

 

 ポムニは少しだけ画面の前に残った。

 

「映画を見るだけの予定だったのにね。結局、ゲームしてた時間の方が長かった気がする」

 

『俺も、ここまで長くなるとは思っていなかったよ』

 

 ポムニは、まだ片づけられていない椅子や、空になったポップコーンの器を見た。

 

 予定とは違った。

 

 だが、嫌ではなかった。

 

「でも、またやろう。次は別のゲームも見たい」

 

『ああ。また連絡する』

 

 通信が切断され、画面からエイドリアンの姿が消えた。

 

 中央区域には、映画やゲームを楽しんだ後の空気だけが残っている。

 

 最初に通信画面の前へ立った時、ポムニは画面の向こうの人間が何をするのか、確かめることしか考えていなかった。

 

 今でも、無条件に信用できるわけではない。

 

 新しい機械の安全性。

 

 約束がこれからも守られるのか。

 

 外部へ自分たちの存在が漏れないか。

 

 確認すべきことはいくらでも残っている。

 

 それでも、次に接続を知らせる表示が灯った時、以前のようにただ身構えるだけではないだろう。

 

 少なくとも、また皆で何かをしてもいい。

 

 今のポムニが感じている変化は、まだその程度のものだった。

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