あくまでリーゼはへこたれない!   作:ゆめみる夢見

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第一章の「暗黒版」です。
リゼの置かれた環境、魔界の凄惨さを軸に構成されてます。


一章:[暗黒版] 悪意の奔流
第1話 悪魔は傘を買えない


第1話 悪魔は傘を買えない

 

 悪魔学校の食堂では、このところ皿の底が見えるのが早い。

 

 精気(せいき)を煮詰めた黒いスープは、以前より薄かった。湯気だけは禍々しく立ちのぼる。けれど(さじ)で掬うと、向こう側が透ける。底に描かれた古い紋様が、黒い汁の下からぼんやり浮かんでいた。

 

 リゼは器を両手で持ち、最後の一口まで飲み干した。

 

 スープは薄く、喉を通っても腹の奥にほとんど残らない。

 

 隣の席で、匙が陶器を引っかいた。

 

 音を立てた悪魔は、自分の器の底を見ていた。黒い汁はほとんど残っていない。匙の先が、底に描かれた紋様をなぞるだけだった。

 

 やがて、その目がリゼへ向く。

 

 リゼは視線に気づかず、器を置いて、匙をきちんと揃えた。食べ終えた者の所作としては丁寧だったが、空腹を紛らわせるには何の役にも立たない。

 

 生徒たちは器の底を突き、教師たちは聞こえないふりをした。配膳口の奥では、鍋の底をさらう音がしている。食堂の天井から吊るされた蝙蝠灯(こうもりとう)だけが、何も知らない顔でゆらゆら揺れている。

 

 魔界は、少しずつ腹を空かせていた。

 

 悪魔が糧とするものは、人間の心からこぼれる精気である。

 

 怒り。妬み。恨み。欲。

 

 講義では、それらをまとめて悪感情と教える。けれど食堂の器に残るものは、教本の挿絵ほど黒くも、濃くもなかった。人間の心が濁る時、魔界へ細い流れが生まれる。悪魔はそれを辿り、あるいは呼ばれ、あるいは憑き、人間界へ手を伸ばす。そうして心の揺れを少しだけ大きくし、その揺れからこぼれたものを食べる。

 

 ただし、人間界は遠い。

 

 召喚陣(しょうかんじん)の前で何時間も待つ者がいる。人間の恨みが熟すのを、爪を噛みながら待つ者がいる。憑依できそうな隙を見つけても、相手の眠りが浅くて弾き出される者もいる。どれも悪魔としては、たいへんよくあることである。

 

 だから、リゼが渡航扉(とこうとびら)の前に立つたび、その黒い扉の周りの空気は少しだけ変わった。

 

 扉は学校の裏手、古い(びょう)の奥に立っていた。古びた黒い木でできており、表面には何重もの術式が刻まれ、取っ手には古い骨が巻きつけられている。普通の生徒が触れても、扉は冷たいまま動かない。だがリゼが手を伸ばすと、奥で小さく鍵が鳴る。

 

 かちり。

 

 それだけだった。

 

 リゼにとっては、教わった通りに手をかけ、教わった通りに歩き、教わった通りに帰ってくるだけのことだった。けれど他の悪魔たちは、そのたびに彼女を見る。腹を空かせた者が石床を這って、すがるように手を合わせる。

 

「期待の星」

 

 誰かがそう呼んだ時、リゼは背筋を伸ばした。唇の端がわずかに上がり、すぐに引き結ばれる。嬉しさを隠しきれない者の顔であり、同時に、乗せられたものの重さをまだ測りかねている者の顔でもあった。

 

 悪魔の誇りは、背中ではなく頭に宿る。

 

 血統。魔核(まかく)。家の名。魔界に属する証。

 

 それらを形にしたものが角だった。リゼにも、黒曜石のように滑らかな二本の角がある。顔を知らぬ両親から受け継いだであろう、リゼの誇り。まだ若く、立派な悪魔の角には少し遠い。けれど彼女は誰かに角を見られるたび、ほんの少し顎を上げた。

 

 リゼは魔界で育ち、魔界で学んだ悪魔である。

 

 少なくとも、リゼ自身はそう信じている。

 

 ◇

 

「リゼ。人間界へ行きなさい」

 

 ゼルマ教授の用件は、言葉にすれば短かった。

 

 教授室はいつも静かである。壁一面の書架には分厚い教本が並び、瓶詰めの煙、眠っている羽虫の標本、根元だけ少し黒ずんだ爪が置かれている。窓の外では灰まじりの雨が細く降り、硝子を叩く音だけが規則正しく続いていた。

 

 ゼルマ教授は机の向こうに座り、いつもの講義と同じ理知的な声音で告げた。静かで、よく通る声だった。

 

 リゼは膝の上の教本を両手で押さえている。呼び出されたのは自分ひとりなのに、授業を受ける時と同じ姿勢だった。ひとりで座るには不相応なくらい大きな椅子が、彼女の肩を余計に小さく見せている。

 

「は、はい。悪事を……しかけるんですね」

 

「そうだ。小さいものでいい」

 

「小さい悪事……小さく、陰湿に……」

 

「必ずしも陰湿である必要はない」

 

「で、では、控えめに、邪悪に……」

 

 ゼルマ教授は少しだけ目を細めた。笑ったのか、疲れたのか、判別しにくい表情だった。

 

「人間の心を、少しだけ揺らしてきなさい」

 

「揺らす……」

 

「大きく揺らす必要はない。大きな揺れは、戻るまでに時間がかかる」

 

 リゼは真剣に頷いた。頷き方だけは、講義室で優等生が見せるそれに近い。ただし、耳の先がわずかに強張っている。悪事と聞いて胸を張りたい未熟さと、大きく揺らすなと言われて息を詰める慎重さが、同じ姿勢の中に収まっていた。

 

 教授は机の引き出しから、小さな紙を一枚取り出した。白い紙だった。魔界の紙にしては珍しく、端が噛みついてこない。

 

 そこには、手書きで三つのことが書かれている。

 

『大きな悪事をしないこと』

 

『人間を泣かせないこと』

 

『困ったら帰ってくること』

 

 ゼルマ教授の威厳ある手書きだった。最後の一行だけ、絶対に守れと言わんばかりに少し字が濃い。

 

 リゼはそれを両手で受け取った。

 

 指先の揃え方が、呪物を扱う時の作法に似ている。

 

「人間を……少し、困らせてきます!」

 

 言ってから、リゼは背筋を正して胸を張った。声は少し上擦っていたが、表情だけはまっすぐだった。悪魔らしい言葉を口にできた生徒の、精いっぱいの得意げな顔だった。

 

 ゼルマ教授は何も言わず、ただ頷いた。

 

 その視線が、ふとリゼの頭に向けられる。

 

 リゼは反射のように顎を引き、すぐにまた上げた。角を見られた時、彼女はいつもそうする。恥じるように伏せかけ、次の瞬間には、そこが誇りの置き場所であることを思い出す。

 

 黒曜石の角は、教授室の薄暗い光を小さく返していた。

 

 ◇

 

 渡航扉を抜けた先の人間界は、魔界より少し明るい。

 

 魔界の暗がりに慣れた悪魔にとって、その白さは親切というより、隠れる場所を奪うものに近かった。道路は濡れても腐らず、街灯は炎を吐かず、建物の硝子は中の様子を無防備に映している。

 

 音も多い。

 

 信号機の短い電子音。濡れたタイヤが水を裂く音。店先の自動扉が開くたびに漏れる、温められた空気の音。人間たちはその全部の中を、当然のように歩いていく。

 

 リゼは通りの端に立ち、人の流れから半歩だけ外れた場所を選んだ。

 

 人間たちは忙しそうに歩いている。手に四角い板を持つ者。耳に何かを詰めている者。何も見えていないような顔で、信号の色だけに従って進む者。誰も、道端のリゼには気を留めない。

 

 人間には、悪魔の角が見えない。

 

 教授からそう聞いていた通り、誰の目もリゼの頭上を通り過ぎていく。魔界では角に集まる視線が、ここでは何もない空間を撫でるだけだった。

 

 リゼは前髪を指先で整え、少しだけ背筋を伸ばした。

 

 見えない誇りを、見えないまま支えるような仕草だった。

 

 ぽつり、と雨が落ちた。

 

 人間たちはすぐに傘を開く。黒、紺、透明、柄のついたもの。通りの上に、いくつもの丸い屋根が咲いた。魔界では雨を避ける者はあまりいない。雨が降れば濡れ、灰が降れば振り払い、霧が出れば迷う。そういうものだった。

 

 リゼは人間たちの傘を目で追った。口元に、小さな笑みが浮かんでいる。雨に道具で対抗する人間の姿は、悪魔学校の教本に載っていた挿絵よりも、ずっと整然として見えた。

 

 その間にも、雨粒は少しずつ数を増やしていた。

 

 透明な傘の表面を、水の筋が何本も走る。道路の色が濃くなり、車の足元で小さな水しぶきが跳ねた。

 

 やがて、雨脚が強くなった。

 

 冷たい水が髪を流れ、肩を濡らし、首筋を伝って服の内側へ入り込む。リゼは数秒だけその場に立っていたが、やがて瞬きを一つ増やし、唇を結んだ。濡れた前髪の下で、眉の端が少しだけ下がっている。魔界の雨に耐える時の顔ではなく、予想より質の悪いものに触れた時の顔だった。

 

「……人間界の雨、思ったより性格が悪いですね」

 

 魔界の雨は、肉が焦げる痛みを伴い、炎が濡れるようにまとわりつく。比べて、人間界の雨は陰湿なまとわり方をする。

 

 リゼは、逃げるように近くのコンビニの軒下へと入った。

 

 自動ドアからは少し離れて立つ。人間界では、近づくだけで開く扉を便利と呼ぶらしい。魔界では、勝手に開く扉の向こうにはたいてい何かがいる。腹を空かせたものか、退屈したものか、いずれにせよ近づく者に優しくはない。リゼが扉の正面を避けて立ったのは、悪魔学校で身についた防衛の型でもあった。

 

 店内の白い光が硝子越しにこぼれている。食べ物が並び、湯気の匂いと甘い菓子の匂いと冷たい空気の匂いが混ざっていた。人間界の店は、魔界の保管庫よりも明るい。その明るさは、隠し事を許さない種類のものに見える。

 

 入口の外には、傘立てがあった。

 

 透明な傘が何本も並んでいる。

 

 骨の数も、柄の形も、濡れたビニールの光り方もほとんど同じだった。雨粒はどの傘の上でも同じ速度で滑り、軒下の光を拾って、同じように白く濁っている。

 

 その中の一本に、小さな赤い星のシールが貼ってあった。

 

 赤い星は、ただの飾りではなかった。

 

 同じ形の傘が並ぶ場所で、それは持ち主が自分のものを見失わないための小さな名札だった。赤い端はほんの少し擦れていて、何度も指で押さえられた跡のように、透明なビニールの上で薄く曇っている。

 

 壊せば、分かりやすい。

 

 盗めば、騒ぎになる。

 

 けれど、この星だけを剥がせば、傘は傘のままだった。骨も折れない。柄も残る。透明なビニールは、さっきと同じように雨を弾く。

 

 ただ、持ち主が探す場所だけが、少し曖昧になる。

 

 リゼは教授のメモを一度だけ押さえ、爪の先を赤い星の端にかける。

 

 濡れた前髪の下で、その目だけが妙に落ち着いている。傘を折るでも、盗むでもない。印だけを奪うという小さな手つきに、彼女なりの悪魔としての確信が宿っていた。

 

 ぺり。

 

 音は小さい。雨音に混じれば、誰にも聞こえないほどの音だった。

 

 傘は壊れていない。盗まれてもいない。ただ、自分が自分であるための印だけを失った。それだけだった。

 

 リゼは剥がしたシールを指先に乗せた。小さな赤い星は濡れた指に貼りつき、なかなか離れない。彼女は一度だけ唇を引き結び、教授から貰ったメモを取り出す。

 

『大きな悪事をしないこと』

 

『人間を泣かせないこと』

 

『困ったら帰ってくること』

 

 威厳ある三行の余白に、赤い星が貼られる。白い紙の端に色が増え、教授の手書きは少しだけ別のものになった。リゼは貼りついた星の端を爪で丁寧に押さえた。戦利品をぞんざいに扱わないところに、彼女の真面目さが出ている。

 

 メモを折りたたみ、ポケットにしまう。肩が少しだけ上がっていた。にやけるのを堪える者の姿勢である。潜伏任務中の悪魔としては、いささか分かりやすい。

 

 しばらくして、ひとりの女性が店から出てきた。

 

 女性は傘立てに手を伸ばす。

 

 そして、止まった。

 

 雨音のせいで声は聞こえない。けれど、表情は見えた。女性は傘を一本持ち上げ、戻し、別の一本を見る。指先は柄ではなく、透明なビニールのどこかを探していた。

 

 赤い星があった場所だった。

 

 女性の指は、何度か同じあたりを確かめるように動いた。見つからないものを探す手つきは、傘そのものよりも、その傘が自分のものだと言える理由を探しているように見えた。

 

 同じ形のものが並ぶ場所では、ほんの小さな印が道しるべになる。

 

 その道しるべは、もうない。

 

 リゼは軒下の柱の陰で、胸元のポケットを押さえた。目は女性から逸れない。悪事の成果を確かめる悪魔の顔にしては、瞬きが少し多かった。

 

 女性はしばらく迷ったあと、店内へ戻る。

 

 ガラス越しに見ると、レジで何かを買っている。財布を出す指が少し濡れていた。店員が袋を渡し、女性は軽く頭を下げる。やがて新しいビニール傘を手にして戻り、入口の前で傘を開いた。

 

 その時、リゼの眉がわずかに上がった。

 

 所有権を曖昧にした。不要な購買行動を誘発した。人間に追加の出費を発生させた。

 

 そう報告書に書けば、立派な成果に見える。

 

 リゼはポケットの上からメモを押さえ直した。紙の端に貼られた赤い星の厚みが、指先にかすかに触れる。

 

 女性は新しい傘を差し、雨の街へ去っていった。赤い星を失ったビニール傘は、他の傘と見分けがつかなくなったまま、傘立てに残される。

 

 雨脚は、さらに強くなっている。

 

 軒下の端から落ちる雨水は、細い鎖のようにつながっていた。道路には水たまりが増え、車が通るたびに白い水しぶきが跳ねる。リゼは傘立てと店内を交互に見た。さきほど女性が通ったレジ横には、傘が置かれていたらしい空白がある。

 

 リゼは自動ドアの前に立った。

 

 扉が開く。

 

 中は白く、明るく、少し暖かい。店員が顔を上げる。

 

「いらっしゃいませ」

 

 リゼは背筋を伸ばした。

 

「傘を、一つ所望します」

 

 扉をくぐったら、自分の目的を言う。魔界では当然の礼儀だ。しかし店員は目を瞬かせた。沈黙が落ちる前に、リゼはほんの少しだけ顎を引いた。

 

「あ、傘をください」

 

 店員は申し訳なさそうにレジ横を見た。

 

「……すみません。さっきので最後でして」

 

 リゼは動かなかった。

 

「急に降ってきたので、売り切れちゃって」

 

「……はい……」

 

 その返事は、悪魔のものとしてはずいぶん小さかった。

 

 リゼはゆっくりと外の傘立てを見た。赤い星のシールを剥がされた傘は、まだそこにある。女性は新しい傘を買って去った。ならば、残されたあの傘は、いま所有者の手を離れているようにも見える。

 

 けれど傘立てには、似たようなビニール傘が何本もある。

 

 赤い星は、もうない。

 

 どれがあの傘だったのか。どれが別の人間の傘なのか。リゼの視線は一本ずつ傘をなぞり、最後には何も選べないまま止まった。

 

 意味だけを削る悪事は、きれいに決まれば上等である。

 

 ただし、削った意味は、実行した悪魔にも戻せない。

 

 魔界では、物を奪えば殴られる。ともすれば腕の三本や四本が飛び交うこともある。人間が腕を投げつけてくるかどうかは、まだ確認されていない。

 

 リゼは傘立てから目を逸らした。

 

 撤退する者の動きではない。少なくとも本人は、そう見せようとしていた。肩を張り、背筋を正し、何も失敗していない悪魔の顔で店内へ向き直る。ただ、濡れた袖の先から落ちる水滴だけが、床に小さな跡を作っていた。

 

「あの、大丈夫ですか?」

 

 店員が心配そうに言った。

 

「……はい……」

 

 リゼは店の外へ戻った。

 

 雨は相変わらず降っている。白い店内の光は背中にあり、目の前には濡れた道路が広がっている。軒下の外へ半歩出たリゼの肩を、雨が叩いた。

 

 リゼはすぐに戻った。

 

「……人間界の雨、かなり陰湿です」

 

 震える声でそう言い、リゼはもう一度、雨を睨んだ。睨むには少し目元が弱く、怒るには少し唇が震えていた。それでも彼女はポケットの中のメモに触れ、折りたたまれた紙の硬さと、端に貼られた赤い星の厚みを確かめた。

 

 初めての悪事は、たしかに成功した。

 

 その成果として、人間がひとり、余分な傘を買った。

 

 そして悪魔がひとり、傘もなく、雨宿りをしていた。

 

「……」

 

 リゼは不遜な悪魔らしく、ちょっと大きめのくしゃみをした。

 

 胸元のポケットの中で、メモの紙がかすかに鳴った。リゼはそれを、戦利品の重みとして受け取った。まだ、その軽さを疑う理由がなかった。

 





報告書
人間の傘にたぐいまれなる細工を施し、な、な、なんと所有権の認識を混乱させました。
――スゴイ。――
追記:人間界の雨は、じとじと張りつき、重たくて冷たいです。
ただし、水たまりは安全でした。踏むと少し楽しいです。
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