あくまでリーゼはへこたれない!   作:ゆめみる夢見

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第2話 悪魔は割り箸を落とす

第2話 悪魔は割り箸を落とす

 

 記念すべき初任務から、少し日が経った。

 

 魔界では、身の丈ほどのタケノコとキノコが合戦を繰り広げる頃である。食堂の掲示板には両軍の主張が貼られ、生徒たちはどちらが優勢かで言い合っていた。両軍とも食べられる側であることについては、いったん棚に上げている。荷車に積まれて運ばれてくるそれらを、教師たちは今日も見ないふりをした。

 

 悪魔学校の食堂では、精気のスープが相変わらず薄い。黒い湯気だけは禍々しく立ちのぼるが、匙を入れると底の模様が透ける。生徒たちは器の中をかき混ぜ、戦況よりも今日の具材の少なさを気にしている。食堂の天井から吊るされた蝙蝠灯(こうもりとう)だけが、何も知らない顔でゆらゆら揺れていた。

 

 魔界は腹を空かせている。

 

 召喚悪魔(しょうかんあくま)の授業が以前より重く扱われるようになったのは、そのせいだった。人間界へ自由に渡れない悪魔にとって、召喚は古くからある細い道である。

 

 恨み。執着。嫉妬。欲。

 

 人間の胸に溜まったものが形を失い、濁った時、悪魔は呼ばれる。呼ばれた悪魔は、その濁りに指を入れ、人間の心を少しだけ揺らす。こぼれたものを受け取るために。

 

 大きな悪事を起こせる者は少ない。だが、小さな悪事を積み重ねる者は多い。その小ささを見誤らないことが、召喚悪魔の技術だった。

 

 リゼはゼルマ教授の教授室へ向かう廊下を歩いていた。手には、かつて教授から受け取った小さな紙がある。

 

『大きな悪事をしないこと』

 

『人間を泣かせないこと』

 

『困ったら帰ってくること』

 

 威厳ある三行の余白には、赤い星のシールが一つ貼られている。透明傘から剥がされた小さな印であり、リゼにとっては初任務の戦利品である。廊下の角を曲がる前、リゼはその端を爪の腹でそっと押さえた。浮いていないか確かめる手つきには、悪事の証拠品を扱う者にしては妙な丁寧さがあった。

 

 教授室の扉は、今日も重い。取っ手を掴むリゼの指が、扉の重さに少し白んだ。

 

 室内には、ゼルマ教授のほかに、見慣れない悪魔が一人いた。

 

 机の脇に立ち、細い腕を組んでいる。背は高いが、上着の布が身体より余っていた。袖口から覗く手首は細く、頬には食事の不足がそのまま影になっている。リゼは一度そちらを見たが、ゼルマ教授が口を開いたので、すぐに姿勢を正した。

 

「それで」

 

 ゼルマ教授が言った。

 

「初めての悪事はどうだった」

 

 リゼは椅子の上で背筋を伸ばした。膝の上のメモを両手で押さえ、顔だけを教授へ向ける。報告の姿勢としては正しい。ただ、紙の端を押さえる指に力が入りすぎている。

 

「はい。対象の人間に、余分な傘を購入させました」

 

「そうか」

 

「自分のだぞって気持ちを剥奪して、不要な買い物をさせて、追加の出費を発生させました」

 

 教授は同じ声音で頷いた。褒めているとも、測っているともつかない。リゼは椅子の上でわずかに肩を上げ、胸を張る角度を少しだけ増やした。

 

「その後、わたしの傘は売り切れていました!」

 

 ゼルマ教授のまぶたが、ほんの少しだけ動いた。

 

「それから、雨宿りをしました」

 

「……」

 

「冷たかったです、雨」

 

「……そうか」

 

 教授はそれ以上をすぐには言わなかった。机の上には講義資料が開かれている。

 

 召喚陣。人間界への干渉経路。精気の還流。

 

 机の脇に立っていた悪魔が、小さく咳をした。

 

 ゼルマ教授が、その悪魔へ視線を移す。

 

「サリル」

 

 呼ばれた悪魔は、わずかに顎を上げた。

 

「サリルだ」

 

 低い声を出そうとして、途中で少し咳き込んだ。

 

 召喚悪魔。

 

 サリルの袖口や襟元には、薄い(すす)の色が残っていた。何度も召喚路(しょうかんろ)を通った悪魔の灰色だった。教本の図ではなく、実際に人間界へ呼ばれる側の悪魔である。

 

 もっとも目の前の先輩は、教本の挿絵よりも明らかに栄養が足りていない。

 

「彼は、召喚の仕事に慣れている。今日は同行して見学しなさい」

 

「は、はい」

 

 リゼの返事に、サリルは腕を組み直した。細い腕を組むと、袖の余りがいっそう目立つ。

 

「……見ておけ。大切なのは、人間の悪意の大きさではない」

 

「お、大きさではない……!」

 

「濃さだ」

 

「濃さ……」

 

「その一滴を逃さず受け取る。それが召喚悪魔の技術だ」

 

 サリルはそう言って、教授室の床に落ちる細い影を見た。影の先は床板の継ぎ目へ入り込み、継ぎ目の奥で、煙より薄い黒がゆっくり動いている。召喚悪魔が人間界へ渡る道は、リゼの渡航扉(とこうとびら)とは違う。扉のように開き、歩き、閉じるものではない。人間の感情にできた小さな裂け目を辿り、呼ばれた場所へ押し出される細い道だった。

 

「見学なら、煤を落とすな」

 

「煤、ですか」

 

 リゼの返事は少し遅れた。床の継ぎ目を見て、それからサリルの細い指へ視線を移す。

 

「召喚路に入るための通行証だ。ついでに、人間の目も滑る」

 

「滑る……」

 

「消えるわけではない。輪郭を拾われにくくなるだけだ。走るな。濡れるな。強く触るな。転ぶな」

 

 リゼは両手で自分の角を押さえた。

 

「角は、固定です」

 

「それは聞いていない」

 

「はい……」

 

 サリルは細い指で、リゼの肩を軽く払った。黒い粉が羽虫の影のように舞い、髪、服、指先、角の輪郭へ薄く乗る。黒い霧ではない。もっと乾いていて、もっと軽い。強く息を吹きかければ飛んでしまいそうな煤が、リゼの身体を一枚だけ覆った。

 

 召喚悪魔の煤は、姿を消す術ではない。人間の視線が輪郭を結ぶ前に滑り、記憶が形を持つ前にほどける。

 

 けれど煤が落ちれば、その効果は切れる。水に濡れれば流れ、激しく動けば舞い、誰かに強く触れれば剥がれる。見学者を守るには十分だが、油断を許すほど親切なものではなかった。

 

 リゼは肩に乗った煤を指で触ろうとして、サリルに手首を押さえられた。

 

「触るな」

 

「は、はい」

 

 返事は小さかった。見学前から注意事項が増えた生徒の顔である。

 

 ゼルマ教授は二人を見て、静かに言った。

 

「見るだけでいい。小さい悪事ほど、結果が読みにくい」

 

 リゼの指が、胸元のメモへ重なった。紙の端に貼られた赤い星が、布の下でわずかに厚みを返す。

 

 ◇

 

 人間界にある会社の昼休みは、魔界よりも穏やかだった。

 

 少なくとも机が噛みついてくることはない。椅子も座った者を試すように沈み込まない。天井から灰も降らない。白い天井灯の下で、人間たちはそれぞれの席に弁当を広げ、飲み物を置き、小さな箱の中身を食べている。

 

 リゼとサリルは、その場に立っていた。

 

 人間たちの視線は二人を通り過ぎる。サリルの袖口から落ちた煤が、リゼの肩にも薄く残っていた。リゼは背筋を伸ばしたまま、両手をなるべく体の横に沿わせている。悪魔らしく堂々と立とうとする姿勢と、煤を落としてはいけないという注意を守るぎこちなさが、同じ身体の中に収まっていた。

 

「対象は、あれだ」

 

 サリルが細い指で示した。

 

 指先の向こうにいたのは、ひとりの女性だった。窓際から少し離れた席で、まだ弁当袋を開けずにいる。机の上には、布で包まれた箸が二膳置かれていた。どちらも同じ柄の布で巻かれ、結び目はきちんと揃っている。片方の布だけが、何度もほどいては結び直したように、端の折り目が少し柔らかくなっていた。

 

「お箸が、二膳あります」

 

 リゼは声をひそめた。

 

「そうだ。あれが濁りだ」

 

「……二膳あることが、ですか?」

 

 サリルはすぐには答えなかった。女性の指先を見ている。布で包まれた箸の上に置かれた指は、開きもせず、離れもせず、ただそこに留まっていた。

 

「二膳あるのに、渡せないことが……だ」

 

 サリルの声は低い。薄い体から出ているわりに、その言葉だけは仕事の形をしていた。

 

 女性の視線の先には、別の席の男性がいる。机の上には黒い弁当箱があり、その横に紙袋入りの割り箸が置かれていた。周囲の同僚が、いつもの冗談のように声をかける。

 

「今日も愛妻弁当ですか」

 

 男性は困ったように笑った。

 

「ハハ、まあ、そんな感じで……」

 

 その笑い方を、女性は箸の布越しに見ていた。

 

 男性の左手には銀色の指輪がある。彼が毎日弁当を持ってくることを、職場の人間は知っている。誰かが愛妻弁当と呼び、男性が強く否定しないことも、昼休みの風景の一部になっていた。女性はその風景の外側で、自分の弁当袋を開けずにいる。

 

 妻の顔は知らない。声も知らない。弁当を作った手つきも知らない。けれど男性の机に毎日置かれる白い割り箸の袋だけが、彼女にとって目に見える相手の輪郭だった。

 

 ちゃんとした箸ではない。毎日洗われ、包まれ、忘れないように用意されたものではない。ただの割り箸。

 

 そこだけが、彼女の目には小さな隙間のように映っていた。

 

 男性の机にある白い割り箸と、自分の机にある布包みの箸。

 

 比べてはいけない二つが、昼休みのたびに同じ白い天井灯の下へ置かれる。彼女は何度も自分の箸袋をほどき、結び直した。

 

 女性の指は、もう一方の箸袋に触れる。けれど結び目をほどかない。男性へ声をかけることもない。銀色の指輪を見て、白い割り箸を見て、また自分の箸袋へ視線を落とす。

 

 その小さな往復だけが、毎日少しずつ濁っていた。

 

 リゼは女性の二膳の箸を見て、次に男性の割り箸を見た。彼女の視線はその二点のあいだを静かに往復している。悪魔学校の講義で習った悪感情は、黒く、分かりやすく、禍々しいものとして描かれていた。だが人間界の濁りは、布の結び目や、机の端の白い紙袋に溜まることもある。

 

「落とすのは、あっちだ」

 

 サリルは男性の割り箸を指した。

 

「呼んだのは、こっちだ」

 

 次に女性の二膳の箸を指す。

 

「よく見ておけ、リゼ」

 

 リゼは返事をしなかった。胸元のメモへ伸びかけた指が途中で止まり、そのまま握り込まれる。講義で聞いた言葉が、机と机の間で形を持ちはじめていた。

 

 サリルは枯れ枝のような指を鳴らす仕草をした。男性の机に置かれた割り箸の袋が、ほんの少し動く。風はない。誰も触れていない。それでも割り箸は机の端へゆっくりとずれ、白い紙袋の角が空中へ出る。リゼの目がほんの少し開いた。女性の指が二膳の箸を握る。

 

 からん。

 

 割り箸が床に落ちた。

 

 リゼの視線は床の割り箸から、サリルの指先へ移った。サリルは指を下ろさない。細い横顔には、現場を知る悪魔の静けさがある。

 

 リゼは胸元のメモを押さえたまま、息だけを小さく止めていた。

 

 講義で見た図と、目の前の白い紙袋が、ようやく同じ場所に重なった。悪魔の干渉は、教本の中ではなく、人間の机の端で起きていた。

 

 男性は「あれ」と言って、箸を取るため机の下へ手を伸ばす。椅子の脚が床を擦り、弁当箱の蓋がかすかに揺れた。女性の手は、二膳の箸を握ったまま動けない。今なら渡せる。けれど、その一歩はまだ喉の奥で止まっている。

 

 ごん、と鈍い音がした。

 

 男性の肩が跳ねる。机の下から上がった頭が天板にぶつかり、弁当箱の端に置かれていた蓋がずれた。近くの同僚が小さく息を呑む。サリルの指先も、そこで止まった。

 

 次に動いたのは、男性の肘だった。

 

 痛みに身を引いた腕が、机の上の弁当箱を横から押す。黒い箱は一度だけ踏みとどまるように傾き、それから蓋を滑らせたまま、床へ落ちた。

 

 がしゃり。

 

 白いご飯が散った。卵焼きが転がる。茶色いおかずが、床の上で形を崩す。昼休みの音が、そこで薄くなった。

 

 女性の顔から血の気が引いた。握っていた二膳の箸袋が布ごと少し潰れる。望んでいたのは、白い紙袋が机から消えることだけだった。床に散らばる弁当までは、彼女の願いの中に入っていない。リゼは固まっていた。サリルも、床を見ていた。さきほどまで仕事の形をしていた横顔から、ほんの少し余裕が剥がれている。

 

「……今のは」

 

 リゼが小さく言う。

 

 サリルの喉が、一度だけ上下した。

 

「私ではない」

 

「で、でも、お弁当が」

 

「私は箸しか落としていない」

 

 声は低かったが、先ほどより少し速かった。男性はこぼれた弁当を前に、慌てて床にかがむ。女性は布巾を取りに走った。ごみ袋がどの棚に入っているか、男性が鞄をどちらに置くか、それから割り箸がどこへ滑ったか。彼女はそれらを知っていた。知っていたことを隠す余裕もないまま、床に膝をつく。

 

「て、手伝います。拭きます」

 

「いや、悪いよ」

 

「いえ、近いので」

 

「近い?」

 

「あっ……その、布巾が……近いので……」

 

 女性はしどろもどろに言った。男性は一瞬きょとんとして、それから小さく頭を下げた。昼休みの空気には、焦りと気まずさと、床に落ちた弁当の匂いが混ざっている。

 

 サリルの喉が小さく鳴った。リゼは隣を見た。サリルの頬に、ほんの少しだけ色が戻っている。

 

「……悪くない」

 

「え」

 

 リゼの返事は遅れた。床の弁当と、サリルの頬と、女性の握った箸袋を順に見てから、ようやく小さく口を開く。

 

「悪く、ないのですか」

 

「悪感情としては濃い」

 

 サリルの細い指先に、わずかに肉がついた。

 

 女性の罪悪感。男性の焦り。弁当が床に散った時の小さな沈黙。

 

 それらは細い流れになって、サリルの喉元へ戻っていく。

 

 サリルのこけた頬に、ほんの少し色が差した。

 

 ただし、床に散ったものは戻らない。

 

 男性の弁当箱は、片づけが終わる頃には空に近くなっていた。端に残ったご飯粒と、小さな漬物だけが残っている。食事と呼ぶには心細い。

 

 女性は自分の席へ目をやった。まだ開かれていない弁当袋がある。二膳の箸も、そこにある。彼女は布で包まれた弁当箱を両手で持ち、男性の前で一度だけ立ち止まった。さきほどまで押し込めていたものが、床にこぼれた弁当の隙間から押し出されるような間だった。

 

「あ、あの……!」

 

 男性が顔を上げる。

 

「私のでよかったら、一緒に食べませんか……!」

 

「え」

 

「き、今日は、作りすぎたので」

 

 女性は少し早口になった。

 

「本当に。いつも。……いえ、今日は」

 

 男性は困ったように笑った。

 

「でも、それは悪いよ」

 

「捨てる方が農家さんに悪いです!」

 

 言ってから、女性は自分の声に驚いたように口を閉じた。毎日、残った弁当を夜に食べる時、自分へ向けて使っていた言い訳が、今は男性へ差し出されている。

 

 女性は弁当箱を開いた。中には、ひとりで食べるには多い、卵焼きと野菜と小さなおかずがいくつも詰まっている。派手ではない。だが一つひとつの色が丁寧に置かれていた。男性がいつも最初に卵焼きを食べることを知らなければ、そこに卵焼きを置く理由はなかった。

 

 箸も二膳あった。男性が箸を見る。

 

「よ、予備です……」

 

 女性は言った。予備というには、どちらの箸も丁寧に包まれている。男性は少しだけ迷い、それから頭を下げた。

 

「じゃあ……少しだけ」

 

「は、はい……!」

 

 二人は同じ弁当を挟むように座った。昼休みのざわめきが、ゆっくり戻ってくる。男性が卵焼きを口に入れる。

 

 少しだけ目を開いた。

 

「おいしい」

 

 女性の箸が止まる。

 

「……本当ですか」

 

「これ、どう作るの?」

 

「え、えっと、そんなに難しくは……」

 

「俺のよりずっとちゃんとしているよ」

 

「そ、そんなことは」

 

 女性の声は、さきほどより小さい。箸を持つ指に力が入り、目元には薄く水の気配がある。泣くには早く、笑うには少し危うい顔だった。男性は、もう一口食べる。

 

「本当においしい」

 

 その言葉が落ちた瞬間、サリルの肩が跳ねた。

 

「待て……」

 

 リゼは振り向いた。箸が落ちてからの展開に目を奪われ、サリルの変化に気づいていなかった。

 

「ど、どうしました?」

 

「何か来ている」

 

「な、なにかとは……?」

 

「こ、これは……!」

 

 サリルは眉間に皺を寄せた。こけていた頬に、みるみる血色が戻っていく。枯れ枝のようだった腕に肉がつき、丸まっていた背筋がすっと伸びる。目の下の隈が薄くなり、髪にわずかなつやが出た。

 

「違う。これは悪感情ではない」

 

 さらに肩が少し広がった。黒い上着が、みしりと鳴る。リゼは一歩退きかけ、足を止めた。動けば煤が落ちる。見学前に言われた注意が、足首のあたりでぎりぎり守られている。

 

「サリル先輩が……健康に……」

 

「おかしい」

 

 サリルは自分の腕を見下ろした。さきほどまで骨の線が浮いていた腕に、明らかに力がある。

 

「悪感情ではないのに」

 

 髪がさらりと揺れた。

 

「栄養になる……!」

 

「な、なってますね」

 

「かなりなっている」

 

 サリルは両手を握った。思わずポーズを取ってしまう。指ががっしりしていた。悪魔にとって、何を食べたか分からないまま満たされることは、飢えることと同じくらい不穏である。サリルの顔色がよくなることは、笑いごとではなかった。少なくとも本人は、裂けかけた上着を押さえながら、かなり真剣な顔をしている。

 

「これは困る」

 

「困るのですか」

 

「報告すると面倒なやつだ」

 

 サリルは深刻に言った。深刻な顔のまま、顔色はとてもよかった。人間の席では、男性と女性がまだ弁当を食べている。弁当箱はひとつ。箸は二膳。床に散ったものは戻らなかったが、そのあとに別のものが置かれている。こぼれた場所を、少しずつ埋めるように。リゼの視線は、床に落ちた割り箸から、空に近い弁当箱へ移り、最後に二膳の箸へ戻った。落ちたものは一本だったはずなのに、動いたものは一つではなかった。胸元のメモを押さえる指に、煤が少しだけついている。

 

「帰るぞ、リゼ」

 

 サリルが言った。声には、しっかりと張りがある。

 

「え、もうですか?」

 

「これ以上いると、もっと来る」

 

「げ、元気になるのは良いことなのでは……」

 

「上着がもたない」

 

 見ると、サリルの肩口は筋肉に押し上げられ、布地が少し裂けていた。リゼは口を開きかけ、一度閉じた。それから、たいへん真面目な顔で頷いた。

 

「そ、それは確かに困ります!」

 

 二人の悪魔は、昼休みのオフィスを離れた。

 

 ◇

 

 ふたりの悪魔が去ったあと、人間界の昼休みはまだ少しだけ続いていた。女性の弁当箱は半分ほど空になっている。男性は箸を置き、少し照れたように笑った。

 

「本当においしかった」

 

「あ、ありがとうございます……」

 

「今度、作り方教えてくれる?」

 

 女性は一瞬だけ返事に詰まった。

 

「……はい」

 

「俺、いつも適当に作っているから」

 

 女性は顔を上げた。

 

「え……ご、自分で?」

 

「ハハ……まあ、うん」

 

 男性は少し困ったように笑う。

 

「その、愛妻弁当って言われるけど、あれ、なんか今さら違うって言いづらくなっちゃって」

 

「……じゃあ奥様は」

 

「うん、いないよ」

 

「け、けど指輪が……」

 

「ん、ああ……これはね」

 

 男性は銀色の指輪を撫でた。

 

「姪っ子にもらったんだ。外しちゃダメだよって約束。まあ、怒られるからね」

 

 女性はしばらく黙っていた。それから小さく息を吐く。彼女の指は、二膳の箸の片方を軽く撫でていた。目に見えない相手として置かれていたものが、少しずつただの白い割り箸へ戻っていく。

 

「そう、だったんですね」

 

「うん。なんか、ちょっと恥ずかしいな」

 

「いえ……」

 

 少しだけ、間があいた。昼休みのざわめきはさきほどより穏やかだったが、二人の間に流れる沈黙は、少しだけ気恥ずかしいものになっている。男性が言った。

 

「明日、よかったら……お弁当、交換する?」

 

「こ、交換、ですか……?」

 

「うん。俺のも、ちゃんと作ってくるから」

 

 女性は少しだけ笑った。

 

「では、私は二膳、持ってきますね」

 

「ふふ、予備のお箸?」

 

「……よ、予備のお箸です」

 

 それから、男性も女性も笑った。昼休みはもうすぐ終わる。床に落ちた割り箸は、もう捨てられていた。こぼれた弁当も、もう戻らない。

 

 最後に机の上には、紐の結ばれた巾着が残っていた。

 

 ◇

 

 帰還路に入ると、人間界の昼休みの音は薄く剥がれていった。笑い声も、椅子の軋みも、遠い膜の向こうへ押しやられる。白い天井灯の光は縦に伸び、机の輪郭は水面に映した影のように揺れた。リゼの袖に乗っていた煤が、帰還路の風に少しだけ浮く。

 

「煤は払うな。……落とすと、変なところに出る」

 

 リゼの手が、胸元のメモを押さえたまま止まった。

 

 召喚路は、まっすぐな道ではない。人間の感情に残った裂け目を辿り、呼ばれた場所から魔界へ押し戻される細い流れである。少しでも足を外せば、見知らぬ夢や、古い恨みや、誰かの寝言に引っかかる。サリルの煤は、その流れの中で悪魔の輪郭を結び留める。軽いが、失えば危ういものだった。

 

 リゼは歩幅を小さくした。煤を落とさないための慎重な足取りは、悪魔らしい堂々さからは少し遠い。それでも彼女は胸を張ろうとして、途中で肩の煤が浮くのを見て、そっと力を抜いた。

 

 やがて空気の匂いが変わった。

 

 灰と鉄と古い墨の匂いが戻ってくる。白い光は黒ずみ、床の感触は硬くなり、遠くで蝙蝠灯の羽音が聞こえた。召喚路の出口は、悪魔学校の裏手にある古い回廊へつながっていた。

 

 リゼの肩に乗っていた煤が、そこでようやくぱらぱらと落ちる。

 

 黒い粉は床に触れる前に消えた。サリルは裂けた上着の肩口を押さえ、教授棟の方を見ていた。出発前より肩幅が増え、頬に血色が戻り、歩き方にも重さがある。栄養を得た悪魔の姿としては正しい。けれど、本人の顔はあまり晴れていなかった。

 

「ここから先は、私が話す。……リゼは帰れ」

 

「え、で、でも……」

 

 リゼは口を開きかけた。悪感情ではないもの。健康になったサリル。二膳の箸。落ちた割り箸と、こぼれた弁当。いくつかの言葉が喉元まで来て、どれも形にならないまま止まった。

 

 サリルは教授棟の奥を見たまま、少しだけ声を低くした。

 

「記録はしておけ」

 

 リゼの指が、胸元のメモを押さえる。

 

「……はい」

 

 返事は小さかった。教授棟の奥では、ゼルマ教授の部屋だけに灯りが残っていた。サリルはそこへ向かう。途中で一度だけ振り返ったが、何も言わなかった。リゼは回廊に残り、扉が閉まる音を聞いた。

 

 その音は、思ったより重かった。

 

 ◇

 

 自室に戻ると、リゼはすぐには灯りをつけなかった。

 

 窓の外では、魔界の雨が斜めに降っている。遠くからは、タケノコ軍を推す者たちの勝どきのようなものが聞こえた。机の上には、授業で使った教本と、削りかけの鉛筆と、まだ名前のない小さな標本瓶が並んでいる。

 

 リゼは椅子に座り、教授のメモを開いた。

 

 白い紙の端には赤い星がある。傘から剥がされた印は、もう傘の場所へ戻らない。けれど今は、教授の三行の横で今日の出来事を待つ余白のようにも見えた。

 

 リゼはペンを持った。

 

『割り箸は落ちると危険』

 

 そこまでは、すぐに書けた。

 

 次の行で、ペン先が止まる。床に散った弁当の白い米粒が、紙の上に小さく浮かぶようだった。落ちたのは割り箸だった。けれど、こぼれたのは弁当だった。動いたのは女性で、増えたのは会話だ。

 

『弁当も危険』

 

 リゼはそう書いた。それから少し離して、もう一行。

 

『サリル先輩は育った』

 

 書き終えても、リゼは紙を閉じなかった。三行の下には、まだ余白がある。悪感情ではない何か。おいしいと言われた時の女性の顔。二膳の箸。どれも悪事の結果だったはずなのに、悪事だけでは書ききれない。

 

 紙の上には、まだ名前のつかない余白が残っている。

 

 リゼはペンを置いて、赤い星の端を指で押さえた。傘から剥がされた小さな印は、教授のメモの上で静かに貼りついている。その横に増えた文字は、注意書きのようで、報告書のようで、まだ本人が読み方を知らない地図のようでもあった。

 

 今日の悪事は、たしかに成功した。

 

 その成果として、割り箸が一本落ち、弁当がひとつ床に散った。そして悪魔がひとり、悪感情ではない何かで、やたら健康になっていた。リゼはメモを閉じなかった。余白は、余白のまま残った。

 





閑話
―――雨の日、野良猫に傘を差しだしたリゼは、「くくく…」と悪だくみの笑みを溢した。

「これで貴様は人のぬくもりを知ってしまったな……二度と孤独にはもどれまい!」

そうして一時間ほど寄り添ってあげたリゼのもとを、野良猫はなんの気なしにタタタと走り去ってゆく。
リゼは胸を押さえ、孤独に耐えながら、今日も誇らしげに悪さをしたのであった。
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