第3話 悪魔は落とし物を届けない
食堂の掲示板には、臨時号外が斜めに貼られていた。
魔界では、タケノコとキノコの合戦がまだ続いている。そこへ今日、新たにブルボンという魔族が参戦した。タケノコ軍は困惑し、キノコ軍も困惑し、ブルボンはなぜか堂々としていた。戦場には香ばしい匂いが漂っているそうだ。リゼには、三つとも美味しそうに見えた。
もっとも、食堂にいる悪魔たちが本当に気にしていたのは、掲示板の戦況だけではなかった。
悪魔学校の食堂では、精気のスープが相変わらず薄い。黒い湯気だけは禍々しく立ちのぼるが、匙を入れると底の模様が透けて見える。器の底を見つめる生徒たちの目は、号外を見る時よりも少しだけ真剣だった。
配膳口の奥には空になった大鍋が並んでいる。食材札は残っているのに、実物が届かない棚がある。長椅子の端には、名前の書かれた小さな席札だけが置かれ、そこに座るはずの生徒は今日も来ていなかった。
魔界は腹を空かせている。
それは比喩ではなかった。
リゼは器を両手で持ち、薄いスープを少しだけ飲んだ。味は、遠くで誰かが悪意を思い出しかけたような味がする。口の中に残る前に消えていくそれを、彼女は真面目な顔で飲み込んだ。
その時、食堂の天井から蝙蝠便が一匹降りてきた。小さな黒い羽をばたつかせ、リゼの前に丸めた紙片を落とす。
紙にはゼルマ教授の印が押されていた。
リゼは匙を置いた。器の底には、まだ薄い黒が残っている。隣の席の生徒が、その残りをちらりと見た。
リゼは器を両手で持ち直し、最後まで飲んでから立ち上がった。
掲示板の前では、タケノコ軍とキノコ軍の優勢について生徒たちが言い合っていた。ブルボンの扱いについては、まだ誰も結論を出せていない。リゼはその横を通り過ぎる。
廊下へ出ると、食堂の匂いはすぐに薄れた。
悪魔学校の廊下は長い。壁には授業予定と配給表が並んでいる。精気節約週間、召喚実習延期、憑依許可申請の一時停止。古い掲示物の上に新しい掲示物が貼られ、それでも足りず、柱にまで紙が回り込んでいた。
リゼが歩くと、廊下にいた悪魔たちの視線が少しずつ集まった。
誰かが道を空ける。誰かが息を止める。痩せた指が胸の前で組まれ、すぐにほどかれる。声にはならない期待が、廊下の隅に溜まっている。
リゼは顎を引きかけ、すぐに上げた。
角を隠しかけて、見せる位置へ戻す。彼女はいつもそうする。恥じるように伏せかけ、次の瞬間には、そこが誇りの置き場所であることを思い出す。
教授室の扉は、今日も重かった。
中に入ると、ゼルマ教授は机の前に立っていた。机の上には、前回の報告書が閉じられている。赤い封蝋の横に、サリルの名が見えた。
教授は報告書に指を置き、リゼを見た。
「今日は一人で行きなさい」
リゼは背筋を伸ばした。
「はい」
「悪事は、小さくていい。起きたことを見落とさないこと。……帰ってきたら、記録すること」
教授の視線が、リゼの胸元へ落ちる。そこには服の下に隠れたメモがある。
リゼの指が、胸元の紙を押さえた。確かめるように抱えたそれは、任務の許可証というより、熱を逃がさないための小さな包みに見えた。
ゼルマ教授は、机の端に置いてあった黒い許可札を取った。渡航扉の使用を示す札である。リゼは両手でそれを受け取る。札は軽い。けれど、軽い札を持つ指に力が入った。
リゼが教授室を出ようとした時、背中に声が落ちた。
「リゼ」
リゼの足が止まる。
「成果を急がなくていい。行って、見て、帰ってくる。それでいい」
胸元のメモを押さえていた指から、力が少しだけ抜けた。軽くなったわけではない。ただ、角の付近に集まっていた意識の硬さが、息をする分だけほどけた。
「……はい」
リゼは振り返らなかった。けれど、返事のあとで背筋はもう一度伸びた。
教授はそれ以上、言葉を足さなかった。
教授室を出ると、廊下の空気はさきほどより冷たく感じられた。食堂のざわめきは、もう遠い。リゼは黒い許可札を胸元に抱え、渡航扉のある
階段を下りる頃には、食堂の匂いは消えている。かわりに、外気の冷たさと、古い石の匂いが近づいてくる。校舎の裏口を抜けると、空は低く、灰色の雲が門柱の先に引っかかっていた。
旧門廟へ続く石畳には、悪魔たちがいた。
最初は数人だった。壁にもたれ、腹を押さえ、リゼが通ると黙って目だけを向ける。さらに進むと、数は増えた。欠けた角を布で巻いた者、痩せた尾を引きずる者、爪の先まで力が入らない者。古い外套を着た悪魔が道の端に立ち、子供ほどの大きさしかない悪魔がその足元に座っている。
リゼが近づくと、彼らは道を空けた。
声を上げる者はいない。けれど、動きは揃っていた。まるで潮が引くように、石畳の中央に細い道ができていく。リゼはその道を歩いた。黒い許可札を抱える指に、少しだけ力が入る。
誰もが、リゼの行動を静観していた。
議論なら擦り切れるほど重ねられている。普通の悪魔には開かない扉が、リゼの手には応えること。その先に魔界の飢えをしのぐ道があるかもしれないこと。リゼの悪事が、人間界へ新しい呼び口を造るかもしれないこと。
答えはまだ出ていない。
それでも、飢えた者たちは集まる。
旧門廟は、校舎の外れにあった。尖塔は折れ、黒い蔦が壁を這い、入口の上には読めなくなった古い文字が刻まれている。かつては儀式に使われた場所らしいが、今は渡航扉を収めるためだけに開かれていた。
奥に、黒い扉が立っている。
扉は古びた木でできていた。表面には何重もの術式が刻まれ、取っ手には古い骨が巻きつけられている。普通の生徒が触れても、扉は冷たいまま動かない。だがリゼが手を伸ばせば、奥で小さく鍵が鳴る。
そのことは、もう噂ではなかった。
検査も、記録も、教授たちの確認も済んでいる。リゼにとっては、教わった通りに手をかけ、教わった通りに帰ってくるだけのことだった。けれど他の悪魔たちは、そのたびに彼女を見る。
今日も、扉の前には悪魔たちが集まっていた。
床に膝をついた悪魔がいる。角は欠け、頬は落ち、指は骨の形をそのまま残している。祈るためではないはずの手が、胸の前で震えていた。その後ろには、古い礼装を着た悪魔たちが黙って立っている。彼らは手を合わせない。飢えていないわけではない。ただ、すがる姿を見せることを恥としているようだった。
リゼが渡航扉へ近づくにつれ、彼らは波打つように道を空ける。
そこかしこに、うめき声のような掠れた声が落ちていた。
「魔界を……お救いください」
その一つが、形を持ってリゼの足元まで届いた。
声は小さかった。けれど、扉の前にいた者たちの視線が、一斉にリゼへ集中した。
リゼの顎が一度下がり、すぐに上がった。角を隠しかけて、見せる位置へ戻す。期待の声を受けた時、彼女はいつもそうする。そこが誇りの置き場所であることを、身体が思い出すように。
リゼは振り返らなかった。
胸元のメモが、妙に温かく感じられた。
黒い扉に手を伸ばす。
かちり。
鍵の鳴る音は小さい。けれど廟にいた悪魔たちは、みな息を呑んで聞き入った。膝をついていた悪魔の指が床を掻き、古い礼装の悪魔たちの列がわずかに揺れる。
リゼは取っ手を握り、扉を開けた。
◇
人間界は、よく晴れていた。
駅前の広場には、人間たちが流れている。誰も床を這ってはいない。誰も扉の前で手を合わせてはいない。人間たちは鞄を持ち、紙袋を持ち、飲み物を持ち、それぞれ別の方向へ歩いていく。
リゼはその流れの端に立っていた。
サリルの
人間には、角が見えない。
リゼは顎を少し上げた。見えていなくても、そこにあるものはある。胸を張ると、通り過ぎた人間の鞄が袖をかすめた。リゼは慌てて半歩下がる。
人間界は、物が多い。
看板。紙袋。傘立て。自動販売機。案内板。誰かの落としたレシート。ベンチに置かれた空き缶。駅の売店には、色とりどりの箱が並んでいる。
リゼは売店の前で足を止めた。
棚の上には、おみやげ、と書かれた紙が立っている。小さな箱、丸い缶、透明な袋に入った焼き菓子。どれも人間界らしく、どれも魔界の食堂よりずっと密度がありそうだった。
リゼは棚の前で少し悩んだ。
赤い包装は、悪魔らしい。白い包装は、店の光を受けすぎて少し落ち着かない。黒い包装は、教授の机に置くと目立たない。
伸びかけた手は、途中で止まった。
任務の前である。
リゼは棚の前を一度通り過ぎ、振り返り、もう一度だけ見た。
店先の電信柱のそばには、落とし物は駅係員へ、という文字が貼られている。リゼはその文字を見ている。
落とし物。或いは忘れ物。
人間界では、所有者の手から離れた物を、持ち主へと戻すことがあるらしい。つまり、逆をすれば悪事になる。盗みや破壊ほどおおごとではない。届けない。或いは、少しだけ見つかりにくくする。
それは、リゼの目指す慎ましい悪事として十分に思えた。
リゼは柱から視線を離し、広場を見渡した。
土産物を探していた時には気づかなかったものが、いくつか目に入る。ベンチの下、植え込みの縁、案内板の足元。人間たちはよく物を持っているぶん、よく物を置いていく。
青いポーチは、広場の端のベンチの下にあった。
小さな布製で、丸い金具がついている。誰の手にも持たれていない。誰の鞄にも繋がれていない。けれど、捨てられたものの顔はしていなかった。
まだ誰かの手の形を覚えているように、ベンチの影に残っていた。
リゼは周囲を見た。
誰も気づいていない。
ポーチの近くを、人間たちの靴が通り過ぎる。踏まれそうで踏まれない。見つかりそうで見つからない。青い布だけが、ベンチの影の中で小さく残っていた。
リゼはしゃがむ。
爪の先が、ポーチの紐にかかった。
盗むのではない。壊すのでもない。ただ、少しだけ遠くへ移す。案内所から離れた柱の裏か、自動販売機の隙間あたりなら、見つけるまでに時間がかかる。人間を泣かせるほどではなく、けれど困らせるには足りる。
小さな悪事としては、かなり控えめだった。
リゼはポーチを持ち上げた。
その時、駅の方から足音が戻ってきた。
「ない……」
声がした。
「ここにも、ない……」
リゼの手が止まる。
女の子が、広場の端へ走ってきた。背はリゼよりも低く、肩から小さな鞄を下げている。後ろから母親らしい女性がついてきていた。女の子はベンチの周りを見て、鞄の中を開け、もう一度ベンチの下を覗こうとする。
リゼの手には、青いポーチがある。
女の子はまだ泣いていなかった。
けれど、泣くための形に近づいていた。瞬きが多く、口元は何度も結ばれてほどける。声を出せば泣いてしまうのが分かっている者の顔だった。
リゼの指が、ポーチの紐をつかんだまま固まった。胸元の紙が、服の下で小さく折れる。三行のうち、どれか一つだけではない。紙そのものの硬さが、指の腹に戻ってきた。
『大きな悪事をしないこと』
『人間を泣かせないこと』
『困ったら帰ってくること』
リゼはポーチを見た。それから、女の子を見た。
自動販売機の隙間は、すぐそこにある。あと数歩で、落とし物はもっと見つけにくくなる。悪事は成立する。
女の子の瞳がさらに潤んだ。母親らしき女性も泣きそうな顔をする。
リゼはゆっくりとしゃがみ直し、ポーチをベンチの脚元へ戻した。
手渡しはしない。届けるわけではない。ただ、そこに置く。
それから、リゼは立ち上がった。人間の流れの中で、少しだけ背筋を伸ばす。
「そこの貴様」
女の子と母親が、同時に顔を上げた。
リゼは青いポーチを指差した。
「探し物は、あれですか」
女の子の目が、大きく開いた。
「あっ……!」
女の子は駆け寄り、ポーチを両手で拾い上げた。胸に抱きしめるようにして、何度も金具を確かめる。母親が息を吐き、リゼへ頭を下げた。
「ありがとうございます。助かりました」
リゼはすぐには答えなかった。指差した手を下ろすタイミングを失い、しばらく空中に残している。悪魔として名乗るべきか、悪事の成果を宣言するべきか、そのどちらも人間界では少し違うように見えた。
女の子がリゼの前へ来た。
「ありがとう」
声は小さかった。けれど、まっすぐだった。
「これ、大事だったの。本当にありがとう」
リゼの喉が、かすかに動いた。
「わ、わたしは届けていません!」
「え?」
「ただ、そこにあると告げただけです」
リゼは胸を張った。悪魔としての線引きは重要である。届けてはいない。親切に手渡してもいない。場所を教えただけだ。
女の子は一瞬だけきょとんとして、それから笑った。
「でも、見つけてくれた」
ありがとう、ともう一度言った。
その二度目の声が落ちた時、リゼの胸元で、熱いものが一瞬だけ白く透けた。
風ではない。光でもない。赤い星の横を、何か薄いものがかすめる。リゼが慌てて胸元を押さえた時には、もう何も見えなかった。
女の子は青いポーチを鞄にしまった。今度は、紐を鞄の金具にしっかり結びつける。母親がもう一度会釈し、二人は駅の方へ戻っていった。
リゼは、しばらくその場に立っていた。
広場の人間たちは、また流れ始めている。自動販売機は何も知らない顔で光り、案内板は同じ方向を指し続けていた。ベンチの下には、もう青いポーチはない。
リゼは指先を見た。
ポーチの紐をつかんでいた指に、何も残っていない。
ただ、ありがとう、という音だけが、まだ指のあたりに絡んでいるようだった。
やがてリゼは、広場を離れた。
帰還の扉は、人目につかない通路の奥にある。人間にはただの古い非常口に見えるらしい。リゼが近づくと、黒い木目がわずかに浮き上がり、骨の取っ手が息をするように冷えた。
通路へ入る前に、リゼは一度だけ売店の方を見た。
棚には、色とりどりの箱がまだ並んでいる。赤い包装。白い包装。黒い包装。教授の机に置くはずだったものは、どれも人間たちの間に残っていた。
リゼは胸元のメモを押さえた。
指の下で、紙とともに静かに熱を持つ。
ありがとう。
その声は、扉の鍵よりも先に、リゼの内側で鳴っていた。
◇
人間界の高いところで、白い羽が一枚、音もなく傾いた。
街を見下ろし、彼女は探るような視線を各所へ向けている。手には、薄い紙を挟んだ白い記録板があった。銀色の留め具が紙の端を押さえ、風に揺れかける角を留めている。
ペン先が、記録板に挟まれた紙面を小さく突いた。
苛立っているようにも、確かめているようにも見える手つきだった。紙には、細い文字で記録が残されている。
『祈りに似た残滓を感知。悪魔の輪郭に接触』
『発生地点、駅前広場付近』
白い羽を持つ者は、しばらくその場から動かなかった。
「……悪魔?」
少しだけ首を傾げる。
残滓の糸はすぐに消えた。けれどもう、一度見えたものは、見えなかったことにはできない。
「堕ちたもの、でしょうか」
その言葉とともに、手に持つ記録板が白銀色の剣へと変化する。
◇
黒い扉が開き、魔界の空気が戻ってきた。
灰と鉄と古い墨の匂いがする。人間界の広場にあった明るさは、扉を一枚隔てただけで遠くなった。旧門廟の石床は冷たく、天井の蝙蝠灯が低い羽音を立てている。
渡航扉の前には、まだ何人かの悪魔が残っていた。
彼らの視線は、リゼの手元へ落ちる。何かを持ち帰ったのか。精気の器か。人間界の戦利品か。新しい呼び口の証か。
リゼの両手は空だった。
膝をついていた悪魔は、ゆっくりと顔を上げた。古い礼装の悪魔たちは、何も言わない。沈黙の種類だけが、行きと帰りで少し変わっていた。
リゼは一度だけ顎を引き、すぐに上げた。
手ぶらで帰ってきた者の顔ではないように、角の位置を直す。胸元のメモを押さえ、廟を出る。
石畳の道は、帰りも細く空いていた。
けれど、行きより声は少なかった。リゼが歩くと、悪魔たちの視線だけがついてくる。黒い許可札はもう役目を終えている。胸元だけが、まだ少し温かかった。
リゼは姿勢を正して歩いた。
けれど、廊下を進むにつれて、視線は少しずつ下がっていく。胸元のメモを押さえる指だけが、何度も同じ場所を確かめていた。
教授棟へ入る手前で、黒い革靴が視界に入った。
リゼは足を止め、慌てて顔を上げる。
ゼルマ教授が立っていた。
教授はリゼの手元を見なかった。顔を見て、それから胸元の紙があるあたりを見る。
「帰ったな」
リゼは頷いた。
「は、はい……」
少し間があった。
「今日は、落とし物を、届けませんでした」
報告の第一声としては、妙だった。だがリゼは真面目な顔をしている。
「青いポーチが落ちていました。駅前のベンチの下です。わたしは、それを案内所へ届けませんでした」
ゼルマ教授は言葉を挟まなかった。
「ただ、そこにあると告げました……」
リゼの声が、少しだけ小さくなる。
「それから、人間に、ありがとうと言われました」
教授の指が、袖の内側でわずかに動いた。
それは相槌ではなかった。急がせる動きでもない。言葉が落ちる先を、少しだけ探るような仕草だった。
「二回、言われました。……落とし物は、届けてはいません」
今度は、そこだけ少し強い。
教授は、リゼの角を見た。次に、胸元のメモがあるあたりを見る。
「……自室へ戻り、忘れず記録しなさい」
教授はそれ以上、ありがとうについて聞かなかった。届けなかったとは何のことか、人間界で何を成したのか、そうしたものを聞いてこなかった。リゼは教授の言葉に頷いて、少しふらつくように歩き出した。
教授はそれを、リゼが廊下を曲がるまでそこに立って見届けていた。
◇
自室に戻ると、魔界ラジオが雑音まじりに鳴っていた。
『――臨時速報です。筒入り芋片王国のプリングルス二世が声明を発表しました。キノコ軍、タケノコ軍、ならびに新たに参戦したブルボンに対し、王国は中立の筒として――』
そこで音が割れた。
ラジオの中では、まだ誰かが何かを読み上げている。戦況図がどうとか、香ばしさの均衡がどうとか、筒の尊厳がどうとか、そういう言葉が雨音に混ざっていた。
リゼはラジオを見なかった。
机の上には、教授のメモがある。赤い星は、今日も端に貼りついている。その横には、これまでの記録が少しずつ増えていた。
リゼは椅子に座り、ペンを持った。
『落とし物は動かす前から危険』
最初の一行は、すぐに書けた。
青いポーチは、まだ動かしていない時から危険だった。見つけにくくする前に、もう誰かを泣かせかけていた。悪事は、手を出す前から始まっていることがある。
次の行で、ペン先が少し止まる。
『泣きそうな人間は危険』
それも書けた。
問題は、その次だった。
ありがとう。
人間界で聞いた声が、ペン先より先に紙の上へ残っている。女の子の声。母親の会釈。青いポーチを胸に抱えた両手。届けてはいない、と言った時の、自分の声。
リゼはペン先を置いた。
『ありがとうは危険』
書いたあと、しばらく文字を見ていた。
危険。
その言葉で囲えば、落とし物も、泣きそうな人間も、ありがとうも、同じ場所にしまえるはずだった。けれど三つ目の文字だけは、紙の上で少し違って見える。黒いインクで書いたはずなのに、そこだけ薄く白が混ざっているように見えた。
リゼは赤い星の端を指で押さえた。
傘から剥がされた印。
割り箸が落ちた記録。
弁当が危険だったこと。
サリル先輩が育ったこと。
そして、ありがとう。
魔界ラジオでは、プリングルス二世の声明がまだ続いている。筒の未来について、ずいぶん真剣に語っているらしい。
リゼは聞いていなかった。
ありがとう、という声が、まだ紙の上に残っていた。
閑話
やってしまった…と女性は思った。
張り切りすぎた。
まるで正月に出されるおせちのような弁当を前に、ガクリと肩を落とす。
職場の男性と交換こする弁当である。
このまま持ってゆくべきか…。
しかし流石に引かれるのではなかろうか。
でも盛り付けはとっても綺麗……と。
そんなことを悩んで、もうかれこれ出社間近の時間である。
もはや容器を移し替える余裕などなし。
―――恋するわたし、今日はおせちで勝負します。
女性の頬には、期待と悲しみの涙が流れた。