あくまでリーゼはへこたれない!   作:ゆめみる夢見

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第4話 悪意は嘲り嗤う

第4話 悪意は嘲り嗤う

 

食堂の隅で、魔界ラジオが雑音を吐いていた。

 

『――三日前、筒入り芋片王国のプリングルス二世は中立を強調する声明を発表しました。しかし王の継室(けいしつ)には、タケノコ軍と深いつながりのある家の出身者がいるとして――』

 

『――中立を装った食糧支援ではないか、という疑念の声も――』

 

 配膳口の前に並んでいた生徒が、匙を持ったまま顔を上げた。タケノコ軍を推す者は胸を張り、キノコ軍の者は器の底を見た。ブルボンについては、今日もまだ誰も扱いを決められていない。

 

 けれど、食堂にいる悪魔たちが本当に気にしているのは、戦況ではなくなっていた。

 

 精気のスープは、もはや白湯に近かった。湯気は白く健康的に立ち昇り、匙を入れずとも器の底の模様が見える。

 生徒たちはそのことをもう知っていて、それでも一度はかき混ぜる。

 

 飲み終えても、腹はあまり膨れない。けれど隣の席の生徒が器の中をちらりと見たので、リゼは匙を動かした。

 

 リゼはスープを飲み終えると、胸元に仕舞った紙をそっと押さえた。

 

 教授の三行。

 

 赤い星。

 色とりどりの花丸。

 

 割り箸。

 弁当。

 サリルの似顔絵。

 

 落とし物。

 

 そして、『ありがとうは危険』。

 

 ありがとうの文字の周りだけ、指の下でかすかに温度が違っていた。熱いわけではない。痛いわけでもない。乾いたインクの周りに、白い息のようなものが薄く残っている。

 

 三日前、人間の女の子がリゼへ向けた声の名残だった。

 

 紙そのものにも、別の温かさがある。

 そちらは外へ出ていかない。ゼルマ教授の手書きの三行と一緒に、紙の奥で丁寧に畳まれているようだった。

 

 リゼには、その二つが同じではないことだけ分かった。

 

 どうして分かるのかは、分からない。

 

 テーブルの端で、小さな蝙蝠灯が羽を立てた。

 リゼが最近よく撫で回す幼体の蝙蝠灯だ。羽を立てる仕草の時は、威嚇をしているらしい。

 

 リゼが顔を上げると、配膳口の湯気の向こうからサリルが歩いてくるところだった。前よりも頬に色がある。椅子の背に手をかけた時、木が小さく軋んだ。

 

 蝙蝠灯はサリルが近づくにつれ後退り、飛び立ってしまった。その羽ばたきを目で追うサリルは、残念そうに眉を落としていた。

 

「ゼルマ教授は、今日は学校にいない」

 

 サリルは席に座らず、封蝋のついた黒い札を差し出した。

 

「朝から外だ。これを預かった」

 

 リゼは両手で受け取る。札には、渡航扉の許可印が押されている。

 

「ありがとうございます」

 

「門までは私が見る」

 

 サリルの声は短かった。だが、突き放す響きではない。

 

 リゼは札とメモを交互に押さえた。胸元で紙が重なり、手の中で札の角が少し冷たい。

 

「人間界の物品を、報告資料として持ち帰りたいです」

 

「土産か」

 

 サリルは、いつものリゼの様子から、土産だろうとあたりをつけた。

 

「ほ、報告資料です」

 

「任務の後にしろ。先に悪事だ」

 

 サリルの言葉を受け、リゼは真面目に頷いた。食事を済ませ、サリルと共に渡航扉へと向かう。

 

 食堂の湯気は、廊下へ出るころには背中のあたりで薄くなった。

 

 冷たい廊下。石畳。校舎裏へ向かう古い通路。サリルの足音が、リゼの少し前を歩き、一定の間隔を保っている。

 

 廊下の向こうから、いくつかの視線が刺さった。

 

 リゼはそれに気づきかけ、胸元の札を握る指に力を入れた。けれど、サリルが半歩だけ前へ出る。遮るほどではない。ただ、視線の通り道に、分厚い肩が一枚置かれた。

 

「渡航扉の中は、どんな暗さだ」

 

「ふ、ふんわりではありません。怖くない暗さです」

 

「誰もふんわりとは言っていない」

 

 リゼは少しだけ首を傾げた。さっきまで背中に残っていた視線の重さが、足音の間へ薄れていく。

 

 ゼルマ教授以外と、こんなふうに校内を歩くのは初めてだった。

 

 学校の裏手、校舎と外との境目に近い場所。壊れた尖塔に黒い蔦が絡み、読みづらくなった古い文字が、石の梁に残っている。かつて儀式のために使われた廟の奥に、黒い渡航扉は立っていた。

 

 扉の前には、今日も痩せた悪魔たちがいた。

 

 膝をつく者。礼装の襟元を正したまま動かない者。何かを期待する顔で、扉とリゼを交互に見る者。

 

 リゼは一度、顎を下げかけた。すぐに、少しだけ上げる。

 

 角は、隠すものではない。

 

 サリルが斜め後ろで足を止めた。

 

「さっき言っていたな。扉の中は、怖くない暗さだと」

 

「は、はい。怖くない暗さ、です」

 

「……そうか」

 

 リゼの様子に、不安げなものはなかった。

 

 リゼは許可札を胸の前に持ち、もう片方の手でメモを押さえる。

 

 骨の取っ手へ、いきなり力はかけない。

 

 爪の先が黒い板面に触れる。叩かず、押しつけず、そこにいることを知らせるような手つき。そうして、リゼは扉が鳴るのを待った。

 

 かちり。

 

 小さな鍵の音がする。

 

 黒い扉の隙間から暗さがほどけた。

 

 それはリゼにとって単なる暗さではなかった。黒い毛布を少し持ち上げた時のように、指先から静かに広がっていく温もり。古い扉は、リゼの前でだけ、少し柔らかくなる。

 

「行ってまいります」

 

 リゼは背を伸ばし、扉をくぐった。

 

 リゼが扉の向こうへ消えたあとも、サリルはすぐには旧門廟(きゅうもんびょう)を離れなかった。

 

 石柱のそばに立ち、衣嚢(いのう)から折りたたんだ紙を取り出す。前回の報告書の控えだった。端には、まだ新しい字で「悪感情ではない精気反応」と書かれている。

 

 記録そのものは腹を満たさない。

 

 けれど、残しておかなければ次の悪魔は同じ場所で迷う。召喚路の煤も、割り箸も、弁当も、リゼの妙な三行も、紙に残して初めて誰かへ渡せるものになる。

 

 サリルは紙に噛みつかれながら、それを畳み直した。

 

 扉の前に立つリゼは、出発前に何度も胸元のメモを押さえていた。帰ってきた時、何もなかった顔で迎える者が一人くらい必要だった。

 

 

 人間界は、今日も人間ばかりだった。

 

 駅へ向かう道には人が流れ、車が通り、信号が色を変えている。魔界の旧門廟にあった石の冷たさは、もう靴裏に少し残っているだけだった。かわりに、焼いたパンの匂いや、車の熱や、店先から流れる明るい音が、リゼの頭上を通り過ぎていく。

 

 人間たちは、リゼの角を見ない。そのことを確かめるように、リゼは人の流れから少し外れた場所で立ち止まり、胸元のメモを押さえた。

 

 指先のすぐ下に、『ありがとうは危険』の文字がある。

 

 そこだけ少し、外へほどけるような温度があった。紙そのものの奥に閉じている温かさとは違う。乾いたインクの周りで、白いものが薄く揺れている。

 

 胸元からほどけるその残滓を、遠くから見つけた者がいた。

 

 人の流れの上。建物の影と空の白さが重なる場所で、翼が一度だけ開く。

 

 白い羽。

 

 握られた柄。

 

 すでに剣の形をした、白銀色の刃。

 

 天使は、記録するためではなく、斬り伏せる準備を終えていた。

 

 

 白銀色の線が落ちた。

 

 リゼの足元で、影が裂ける。

 

 一拍遅れて、風が来た。髪が跳ね、袖が鳴り、胸元のメモが服の下で硬く当たる。切っ先は地面を割っただけだったが、リゼの膝はその場で固まった。

 

 危機を理解するよりも先に、リゼの両手は角を覆っていた。

 

 爪が角の根元に食い込み、痛みが少しだけ遅れて来ている。それでも、手は離れない。

 

「動かないでください」

 

 白い羽の少女が剣を構えたまま立っていた。

 

 柄を握る手に迷いはない。刃はまっすぐで、リゼの影の切れ目から次にどこへ動くかを測っている。声は澄んでいた。けれど、その澄み方は水ではなく、磨いた金属に近かった。

 

 リゼの喉が細く鳴った。

 

 返事をするための息が、うまく入ってこない。

 

「堕ちた者ですね」

 

 刃の角度が、わずかに上がる。

 

 リゼの肩が跳ねた。角を覆う指に力が入る。

 

「ち、違……」

 

「祈りの残滓を持つ堕天使。見過ごせません」

 

 堕天使。

 

 その言葉だけが、人混みの音から切り離されてリゼの耳に残った。周囲の人間たちは立ち止まらない。誰も白い羽を見上げない。誰もリゼの足元に残った裂け目を気にしない。

 

 この場でその剣を見ているのは、リゼだけだった。

 

「わ、わたしは……悪魔です」

 

 声は細かった。剣の白さに押されて、すぐ折れそうな声だった。それでも、リゼは角から手を離さなかった。

 

「誇りある、角の……悪魔です」

 

 白い羽の少女の視線が、そこで止まった。リゼの手。その隙間から見える、黒曜石のような二本の角。

 

 隠しているのではない。庇っている。折られないように、そこにあるものとして守っている。

 

 少女の眉が、ほんの少し寄る。

 

「……角」

 

 剣の切っ先が、呼吸一つ分だけ下がった。

 

 天使に角はない。堕天使にも角はない。

 

 祈りに似た残滓はある。胸元から、確かに白くほどけている。けれど、目の前のものは、角を持っている。

 

 少女はすぐに剣を消さなかった。

 

 ただ、踏み込むために置かれていた足が、そこで止まった。

 

「誤認しました。堕ちたものと判断しましたが、訂正します」

 

 剣が、ゆっくり下がる。

 

 それでも光は消えない。刃の縁は、人間界の明るさの中では、一層冷たく見えた。

 

「剣を抜いたことは謝罪します」

 

 リゼの口が、少し開いた。

 

 けれど思うように言葉は出なかった。

 

 白銀色の線が落ちた地面から、まだ風が立っているような気がした。リゼの指は、角の形を確かめるように動き、また止まる。

 

 少女は、その手を見ていた。

 

 剣を持つ肩が、少しだけ下がる。

 

「……制圧です。攻撃までは、まだしていませんよ。ですが、その恐怖についても謝罪します」

 

 リゼは小さく頷いた。

 

 頷いたというより、首がわずかに動いただけだった。顎はまだ高く上がらない。けれど、角を隠すほど下がってもいない。

 

 少女の視線は、リゼの胸元へ戻った。

 

 白い残滓。悪魔の姿。角。矛盾したものが、同じ場所にある。

 

「あなたは、何者ですか」

 

「わ、わたしは……悪魔です」

 

「それは聞きました」

 

「リゼです。とてもよわいので、攻撃も、制圧も、しません」

 

 少女の目が、わずかに細くなる。

 

 怒ったわけではない。分類したいものが、分類欄の外へ逃げた時の目だった。

 

「名前ではなく、存在の分類を聞いています」

 

「ぶ、分類……」

 

 リゼの指が、角から少しだけ離れた。

 

 完全には離れない。片手だけが角の根元に残り、もう片方の手が胸元のメモを押さえる。紙の奥にある閉じた温かさと、『ありがとうは危険』の文字の周りに散る温度が、指先に別々に触れた。

 

 悪魔である。

 

 それ以上を問われても、リゼの口元は答えの形を作れなかった。

 

「あ、……悪魔です」

 

 同じ言葉を、もう一度置く。

 

 今度は、さっきより少しだけ息が通っていた。

 

 少女はリゼの角を見た。足元の影を見た。胸元を見た。手を見た。

 

 剣は、既に下がっている。

 

 だが、柄を握る指はまだ緩んでいない。

 

「現時点での制圧を中止します。ただし、判断は保留します」

 

 保留、という言葉に、リゼのまぶたが一度だけ動く。

 

 少女は剣を納めた。

 

 刀身が白い粒にほどけ、柄の奥へ収まっていく。最後に残った光の線が、少女の手元で薄い記録板へ変わった。

 

「名乗りが遅れました。私は、セラです」

 

「えと……」

 

「対象、観測」

 

 リゼが聞き返した時には、白い羽が広がっていた。

 

 風が下から上へ巻く。落ちた羽が一枚、光の粒になってほどける。少女の輪郭が、人混みの明るさを白くかすめた。

 

 リゼが瞬きをした時には、もうその場所にはいなかった。遅れて、羽音が駅舎の屋根の方へ流れていく。

 

 リゼは一度だけ、白銀の線が落ちた足元を見た。何も残っていない。影も、舗装の継ぎ目も、さっきまでと変わらない。それでも靴先は、そこを避けるように半歩ずれた。

 

 角を庇った指は、力いっぱい握ったことで、まだ少し痛む。手のひらの中に角の硬さが残っている。

 

 リゼは駅の明かりへ顔を向けた。

 

 靴音。改札の音。店先の呼び込み。誰かの笑い声。

 

 人の流れは、白い刃の冷たさを知らないまま、絶えず動いている。リゼはその端へ小走りに近づいていった。前髪が揺れ、胸元の紙が服の内側で小さく擦れる。

 

 セラは、頭上からその背中を見送った。

 

 白い羽が建物の影に薄く溶ける。

 

 その後、記録板に挟まれた紙へ何が書かれたのかを、リゼは知らない。

 

天核(てんかく)魔核(まかく)、両立を確認。要観測』

 

 

 そのころ、魔界の旧門廟では、渡航扉が異様な音を立てていた。

 

 どん、と。

 

 旧門廟の石壁が反響するように鳴る。黒い扉の表面に刻まれた術式が、一瞬だけ赤く(にじ)む。

 

 膝をついていた悪魔が、顔を上げた。古い礼装の列が、ほんの少し揺れる。

 

 もう一度、扉が向こう側から打ちつけられた。

 

 今度は物が投げつけられたような、湿った重さのある音だった。扉そのものが、閉じたまま一歩下がりたがっているように軋む。

 

 サリルはその光景に眉をひそめた。

 

 扉の前に並ぶ悪魔たちを見ていた。痩せた指。伏せられた顔。リゼが扉へ近づいた時だけ、いっせいに持ち上がる目。

 

 見送りに来るだけなら、知らずに済んだ光景だった。

 

 サリルは廟を離れなかった。リゼが戻った時、同じ目に囲まれるのを想像すると、どうしても足が動かなかった。

 

 さきほどまでの光景が、まだ目に残っている。

 

 リゼは許可札を両手で持ち、骨の取っ手へ指を置く前に一度息を整えた。叩かず、押しつけず、扉が応えるのを待っていた。

 

 その同じ扉が、今は向こう側から打たれている。

 

 リゼではない、何かがいる。

 

 かちり。

 

 そのあとで、鍵が鳴った。

 

 さきほどリゼのために鳴った音と似ている。けれど、廟に落ちた重さが違っていた。門の前にいた悪魔たちが、一斉に口を閉じる。床に落ちていたうめき声が、ぴたりと止まった。

 

 古い礼装の悪魔たちの列から、低い声が漏れた。

 

「おお……」

 

 期待とも、畏怖ともつかない声。

 

 かつての儀式を知る者だけが出す、古臭い喉の震えだった。

 

 扉が開く。

 

 向こう側には、炎があった。

 

 燃えている建物。倒れた柱。割れた窓。赤く揺れる煙の奥で、人間たちの声が混ざり合っている。助けを求める声。誰かを責める声。恐怖に濁った怒号。何かが崩れる音。

 

 そのすべてが、紅い糸になって扉の縁から垂れていた。

 

 糸は床につく前にほどけ、熱を持った声になる。廟の石を撫でるたび、そこにいた悪魔たちの喉が鳴った。

 

 ひとりが口元を押さえた。指の隙間から、透明な唾液が落ちる。別の悪魔は膝をつき、紅い糸へ手を伸ばしかけた。けれど、その手は途中で止まった。

 

 扉の向こうから、男が出てきた。

 

 最初に見えたのは、黒ずんだ翼だった。羽根は白くない。夜よりも重く、煤よりも湿っている。次に太い腕が現れた。肩幅は広く、胸板は厚く、古い戦場からそのまま歩いてきたような上裸の大男だった。

 

 角はない。

 

 男の首元で、白く磨かれたものがいくつも鳴った。

 

 飾りとして、そこにあった。穴を穿たれ、紐に通され、首飾りの一部として磨かれている。

 

 だが、魔族にとって、それは飾りで済むものではない。

 

 一本一本に、根元の輪が残っていた。かつて誰かの頭の上にあり、名を継ぎ、家を示し、誇りを宿していたものだった。折られ、磨かれ、鳴るように並べられてなお、その形だけは失われていない。

 

 誇り高き魔族の角を、男は戦利品の鳴り物のように首へ巻いていた。

 

「まだ集まっているのか」

 

 男の口元が、ゆっくりと横へ裂けた。

 

「飢えた顔は、昔から変わらないな」

 

 古い礼装の悪魔たちは頭を下げかけた。けれど、最後まで下げきれない。首元の角飾り(つのかざり)を見たせいだった。敬意を示すべき古い相手。近づいてはならない古い災い。その二つが、彼らの背を半端な角度で止めている。

 

 それでも、飢えは理性より先に動く。

 

 膝をついていた悪魔が、這うように前へ出た。細い指が、紅い糸の一本に触れようとする。

 

 男はそちらを見もしなかった。

 

 歩き出した足が、その悪魔の手を踏んだ。

 

 骨が砕けるほど強くはない。けれど、飢え細った手にはそれで十分だった。悪魔が短く呻く。男は足元に何かあったことを、遅れて思い出したように視線を落とした。

 

「邪魔だ」

 

 軽く足を払う。

 

 それだけで、悪魔の身体は石床を滑った。別の悪魔が支えようとして、二人まとめて倒れる。

 

 もうひとりが、反射的に紅い糸へ手を伸ばす。

 

 男は片腕を振った。

 

 風を払うような動きに過ぎない。だが飢えた悪魔の身体は小枝のように浮き、廟の柱に肩からぶつかった。乾いた音が鳴る。伸びていた指が、力なく床へ落ちた。

 

 男は歩みを止めない。

 

 散歩でもしているようだった。

 

 倒れた悪魔のそばで、男の足が止まる。

 

 その悪魔はまだ、紅い糸へ目を向けていた。頬は落ち、唇は乾き、布の下から小さな角の先が覗いている。

 

 男の太い指が、その頭へ伸びた。

 

 慰めるための手つきではない。物の形を確かめるような、雑な手つきだった。

 

 指先が、布の隙間から覗く小さな角にかかりかける。

 

 そこで、サリルの拳が握られた。

 

「……そこまでだ」

 

 サリルの声は低かった。

 

 男の指が止まる。

 

 ようやく、視線がサリルへ向いた。

 

「あ?」

 

 サリルは一歩ずつ、地面の硬さを調べるかのように前へ出た。倒れた悪魔たちと男の間に立つ。握った拳はまだ柔らかいが、指先には強く力を入れていて硬い。腕ごと掴んでいた袖の布には、爪の形が残っている。

 

「それ以上、近づくな」

 

 男はサリルを見た。

 

 顔。肩。色付きの良い血色。飢えた者たちの中で、ひとりだけ満たされている身体。

 

 男の目が、サリルの顔から肩へ、肩から腹のあたりへと落ちた。器の中身を、器の持ち主より先に言い当てる目だった。

 

 口元だけが、ゆっくりと歪む。

 

「お前、アレを喰ったのか」

 

 サリルの肩が、わずかに強張った。

 

 男は嗤った。

 

「甘い方だ。怒号でも、恨みでも、恐怖でもない。もっと細くて、向きがあって、作るのが面倒なやつ」

 

 首飾りにされた角が、乾いた音を立てる。

 

「恥じることはない。腹は正直だ」

 

 サリルは答えなかった。

 

 男は楽しそうに目を細める。

 

「効率の悪いことをするなァ」

 

 扉の向こうで、炎が揺れた。紅い糸がまたほどけ、熱い声が廟に流れ込む。

 

「悪意なら、転がる。ひとつ起こせば十が吠える。十が吠えれば、百が怯える。人間は簡単に恐怖して、恐怖は隣へ移る。怒号はまた怒号を産む」

 

 男は掌を広げた。

 

「腹を満たすなら、そっちの方が早い」

 

 サリルは倒れた悪魔たちを横目で見た。

 

 ひとりは手を押さえている。ひとりは肩を押さえて、息を詰まらせている。それでも二人の目は、まだ紅い糸の方へ向いていた。

 

「それで、これか」

 

「これ?」

 

「歩くついでに踏むのか」

 

 男は一瞬だけ黙り、それから喉の奥で嗤った。低い音が、廟の石床を這う。

 

「踏まれる場所にいる方が悪い」

 

 サリルの足が、さらに半歩前へ出た。

 

「名前を名乗れ」

 

「名乗ってどうする」

 

「記録する」

 

 その言葉に、男の目が細くなった。怒ったのではない。新しい玩具の仕組みを見つけた時のような目だった。

 

「記録」

 

 男はその二文字を、舌の上で潰すように言った。

 

「飢えると、悪魔は几帳面になるのか。……昔はよかった。喰えるものを喰い、足りなければまた転がす。誰がどれだけ啜ったかなど、数えもしなかった」

 

 男は紅い糸を指で払う。

 

「今は名前まで控えるのか。かわいらしいことだ」

 

 サリルは、指先にゆっくりと力を入れていった。

 

 だが、その腕は廟の入口から落ちた声によって留められる。

 

「サリル」

 

 大きな声ではなかった。だが、サリルの肩が止まった。

 

 旧門廟の入り口に、ゼルマ教授が立っていた。

 

 黒い外套の裾に、外の灰が薄くついている。学校にいる時よりも靴先が汚れていた。朝から外に出ていた者が、そのまま戻ってきた足元だった。

 

 廟の中へ入ってきても、教授の歩調は変わらない。ただ視線だけが、扉、紅い糸、倒れた悪魔たち、男、サリルの拳を順に確認した。

 

「教授」

 

「校舎で待っていなさい」

 

 サリルは振り返る。

 

「ですが」

 

「待っていなさい」

 

 二度目は、さらに静かだった。

 

 サリルの拳から、少しずつ力が抜ける。納得した顔ではない。けれど、命令を退ける顔でもなかった。

 

 男が低く嗤った。

 

「よく躾けている」

 

 ゼルマは答えなかった。

 

 サリルはもう一度だけ男の首飾りを見た。次に倒れた悪魔たちを見る。まだ紅い糸へ、飢えに歪んだ目を向けている者達がいる。

 

 彼は唇を結び、ゼルマへ頭を下げた。

 

「……失礼します」

 

 旧門廟を出ていく時、サリルは倒れていた悪魔のひとりに肩を貸した。もうひとりを起こすために、近くにいた悪魔へ視線だけで促す。

 

 男は、それを見てまた嗤った。

 

 廟の中には、ゼルマと、黒ずんだ翼の男が残る。

 

 紅い糸はまだ扉の縁から垂れていた。

 

 糸に触れようとする者はもういない。ゼルマ教授が入ってきてから、飢えた悪魔たちは顔を伏せはじめていた。けれど喉だけは、紅い熱が揺れるたびに小さく動く。

 

 男はそれを見て、少しだけ退屈そうに息を吐いた。

 

「懐かしいな、ゼルマ」

 

 ゼルマは、男の名を呼んだ。

 

「アゼル」

 

 その声に、旧門廟の空気がもう一段冷えた。

 

 アゼルは首飾りの一本を指先で弄んだ。

 

 白く磨かれた小さな角だった。ほかの角より少し細く、根元に古い傷が残っている。ゼルマの視線が、一瞬だけそこへ落ちた。

 

 すぐに戻る。

 

 アゼルの口元が歪んだ。

 

「つまらなくなったな、ゼルマ」

 

 言葉は吐き捨てるようだった。けれど、その目は離れない。退屈を装うには、少しだけ熱が残りすぎていた。

 

「昔のお前なら、そのあたりで噛みついてきた」

 

 ゼルマは動かなかった。

 

「昔の話だ」

 

「古い連中の中で、お前が一番古い顔をしていたくせに」

 

 アゼルは、白い角を指で弾いた。乾いた音が鳴る。

 

「何を食えば、そこまで変わる」

 

 嘲りの形をした声だった。けれど、その奥で何かがくすぶっていた。変わるものなどないと決めている者が、変わったものを見つけてしまった時の、苛立ちに似た熱だった。

 

 ゼルマは、その熱を見た。

 

 しかし、見ただけだった。

 

「ここはもう、貴様を迎える場所ではない」

 

「知っている」

 

 アゼルは扉から流れ込む紅い糸を、指先で払った。払われた糸は床に落ち、短い悲鳴の形になって消えた。

 

「今日は迎えられに来たんじゃない。知らせに来た」

 

 ゼルマの目が細くなる。

 

 アゼルは、焦らすように視線を空におく。

 

 廟の天井を見上げる。黒ずんだ梁。火を受けた跡。古い儀式の煙が染みついた石。その一つひとつを、懐かしむというより、かつて自分のものだった家具の傷を確かめるように眺める。

 

「近く、大きく転がす」

 

 その言葉で、廟の奥の呼吸が止まった。

 

「場所が少し悪い。お前の学校の近くに、召喚路と憑依門がいくつも口を開ける。精気は溢れるぞ。濁流みたいにな」

 

 息を呑む音がした。

 

 期待の音だった。同時に、恐怖の揺れでもあった。

 

 ゼルマは紅い糸を見て、次いで倒れた悪魔たちを見た。それから、アゼルから視線を外して、廟の外へ続く石畳の先を見る。そこには校舎がある。教授室があり、食堂があり、まだ何も知らない生徒たちがいる。

 

「議事堂へ行くつもりか」

 

「古い連中には、古い礼儀で通してやる」

 

 アゼルは首を傾けた。角飾りが白く鳴る。

 

「お前にもな」

 

 ゼルマは一歩、横へ動いた。

 

 それは道を譲る動きではなかった。アゼルと、校舎へ続く道の間に立つ動きだった。

 

「校門まで送る」

 

 アゼルの眉が、わずかに上がった。

 

「俺をか」

 

「生徒を守るためだ」

 

 アゼルは喉の奥で笑った。

 

「本当に、つまらなくなったな」

 

 同じ言葉に近かった。

 

 けれど、今度の目は少し違っていた。首元の白い角を弄ぶ指が止まり、ゼルマの横顔を測るように見る。廟の赤い光が、その瞳の奥で小さく揺れていた。

 

 ゼルマは答えない。

 

 ただ、旧門廟の出口へ向けて歩き出した。

 

 アゼルがその後に続く。

 

 その一歩で、飢えた悪魔たちが身を引いた。彼らは紅い糸から目を離せないまま、アゼルの首飾りからも目を離せない。欲しいものと、奪われたものが、同じ男の周りで鳴っている。

 

 ゼルマは廟の出口で一度だけ立ち止まった。

 

 振り返らない。

 

「扉を閉じなさい」

 

 誰に向けたとも分からない声だった。

 

 古い礼装の悪魔のひとりが、遅れて動く。痩せた指が黒い扉の端へ伸びた。紅い糸の一本がまだ扉の縁に絡んでいる。指が震え、触れられない。

 

 アゼルが肩越しにそれを見た。

 

 笑うでもなく、怒るでもなく、ただ指を軽く振る。

 

 紅い糸は、焼けた髪のように縮れ、扉の向こうへ戻った。

 

 扉が閉じる。

 

 かちり、とは鳴らなかった。

 

 外へ出ると、灰色の空気が二人を包んだ。

 

 旧門廟の熱が背中から遠ざかるにつれ、石畳の上の灰が目立つようになる。風は冷たい。けれど、外にいる者ですら感じられるほどの、紅い糸の熱がまだ首筋に残っているようで、道の端にいる悪魔たちは誰も襟元を直さなかった。

 

 ゼルマは校舎側を歩いた。

 

 アゼルを、自然と外門へ寄せる位置だった。

 

 アゼルは急がない。古い礼装の者たちは頭を下げ、路外れの者たちは目を伏せる。けれど誰の視線も、完全には彼の背後から離れない。首で鳴る角と、閉じられた扉の向こうに残るはずの紅い熱を、飢えた目が追っている。

 

 校舎の方から、遠く鐘の音が聞こえた。

 

 授業の終わりを告げる音だった。

 

 窓の内側で、まだ何も知らない生徒たちが席を立つ気配がする。椅子の脚が床を擦り、廊下へ流れ出る声が少しずつ増える。

 

 ゼルマの歩幅が、わずかに変わった。

 

 速くはならない。

 

 ただ、校舎とアゼルの間に置く距離だけが、少し広くなる。

 

 アゼルはそれを見ていた。

 

「教師の足だな」

 

 ゼルマは前を向いたまま歩く。

 

「昔のお前は、もっと早く歩いた。獲物を見つけた犬みたいに」

 

「昔の話だ」

 

「便利な言葉だ」

 

 アゼルはくつくつと嗤った。

 

 風が吹き、彼の首飾りが乾いた音を立てる。その音に、道の端の生徒が肩を震わせた。ゼルマの視線が、すぐにそちらへ動く。

 

 アゼルはその視線の動きを見逃さなかった。

 

「守るものが増えると、首が忙しい」

 

「見るべきものを見ているだけだ」

 

「俺は見たものしか信じない」

 

 アゼルは校舎の窓へ目を向けた。

 

 窓の向こうで、生徒の影が動く。誰かがこちらを見かけ、すぐに友人に呼ばれて視線を外した。まだ、異物に気づいていない。

 

「だから、見せに来た」

 

 ゼルマの足が止まりかける。

 

 この男を一刻も早く外に出すこと。それを優先したのか、歩みは止まらなかった。

 

 アゼルはその横顔を見て、口元を歪めた。

 

「飢えた魔界に、食わせる方法をな」

 

「貴様のやり方は、食事ではない」

 

「腹に入れば食事だ」

 

「腹に入ったものが、あとで何を壊すかまで見ろ」

 

 アゼルの目が細くなる。

 

 彼は少しの間、黙った。

 

 その沈黙の底に、笑いとは違うものがあった。苛立ち。あるいは、理解する気のない者が理解できる言葉を聞いてしまった時の、既に捨てたものを見た不快な熱だった。

 

「つまらない教師になった」

 

「その言葉は、もう聞いた」

 

「何度でも言ってやる」

 

 校門が見えてきた。

 

 黒い鉄でできた門柱には、悪魔学校の紋章が刻まれている。片方の門柱には生徒以外立入禁止の札が三枚重ねて貼られていた。風で端がめくれ、また戻る。

 

 ゼルマは門の手前で足を止めた。

 

「ここから先は、学校の外だ」

 

 アゼルも止まる。

 

 しばらく、門柱に刻まれた紋章を見ていた。そこに懐かしさがあるのか、ただ石の傷を眺めているのか、横顔からは読めない。

 

「律儀だな」

 

「律儀でなければ、教師は務まらない」

 

 ゼルマ教授の声は変わらなかった。

 

 アゼルは少しだけ肩を揺らした。笑ったのか、ただ退屈したのか、首飾りの角が乾いた音を立てただけだった。

 

「では、また来る」

 

「来なくていい」

 

「扉は、俺を覚えている」

 

 アゼルは一度だけ、旧門廟の方へ視線を戻した。

 

 その目が、少し細くなる。

 

 扉そのものは、もう見えない。見えるのは、黒い蔦に覆われた尖塔の一部だけだ。それでもアゼルは、そこに残った何かを嗅ぎ分けるように、しばらく目を動かさなかった。

 

「……妙な閉じ方をしたな」

 

 ゼルマ教授の指が、外套の袖の中でわずかに動いた。

 

 アゼルはそれを見た。

 

 だが、深くは追わなかった。

 

 見ていないものに、名前をつける気はない。興味がないのではない。ただ、目の前にないものを信じるほど、彼は楽観していなかった。

 

「まあいい」

 

 アゼルは門の外へ一歩出た。

 

「次は、見える場所で転がしてやる」

 

 風が、校門に貼られた札を鳴らした。

 

 ゼルマ教授は答えなかった。

 

 ただ、校門の内側に立ったまま、アゼルが学校の外へ出るのを見届けた。

 

 

 渡航扉は、帰りには静かだった。

 

 小さな鍵の音がして、旧門廟の石床が足元へ戻ってくる。リゼは一歩遅れて体を支え、まず胸元のメモに触れた。それから、手に提げた紙袋と、腕の内側に挟んだ二枚のパンフレットを確かめる。

 

 お土産は、ある。

 

 パンフレットの角も折れていない。

 

 人間界の駅にあった明るい音は、扉が閉じた瞬間に遠くなった。かわりに、旧門廟の奥には、古い石と煤の匂いが沈んでいる。けれど、出発した時と同じではなかった。

 

 扉の前に並んでいた痩せた悪魔たちの姿が、まばらになっている。

 

 石段の端に座り込んだ者が数人、顔を伏せていた。誰もリゼへ期待の声を投げない。礼装の列も崩れている。石床には擦れた跡が残り、柱の根元には、何か硬いものがぶつかったような白い傷が走っていた。

 

 リゼは紙袋の持ち手を握り直す。

 

「……サリル先輩?」

 

 声は廟の中で小さく反っただけだった。

 

 返事はない。

 

 黒い扉は閉じている。骨の取っ手も動かない。だが、空気の底にだけ、焦げたものの名残が薄く沈んでいた。人間界で嗅いだ焼き菓子の匂いとは違う。もっと苦く、喉に引っかかる匂いだった。

 

 リゼは一度メモを押さえ、旧門廟を出た。

 

 旧門廟は学園の裏手にある。校舎裏と外との境目に近く、教授室へ戻るには、古い石畳を抜け、裏口から校内へ入らなければならない。正面の校門は遠い。普段なら、その距離のおかげで校門前の様子など気にしない。

 

 けれどその日は、校舎へ続く道の途中で、正門の方が見えた。

 

 渡り廊下の窓と校舎の角の隙間から、門の外側に立つ大きな影が斜めに切り取られている。

 

 リゼは足を止めた。

 

 見知らぬ男だった。

 

 来客札は下げていない。誰かに案内される様子もない。門の外にいるはずなのに、立ち方だけが、門の内側まで自分の場所だと告げている。

 

 その向かいに、ゼルマ教授がいた。

 

 教授は門の内側ではなく、外側で男と向き合っている。外套の裾がわずかに風を受けていた。距離があるので声は聞こえない。だが、教授の姿勢は動かず、校舎へ続く道を背中で塞いでいるように見えた。

 

 男には、角がなかった。

 

 かわりに、背に翼がある。

 

 白くない翼だった。

 

 人間界で見た天使の羽とは違う。光を返さず、空気を澄ませもしない。濡れた煤を何度も乾かしたような重い色で、羽先の輪郭はところどころ崩れている。

 

 その首元で、白いものが揺れていた。

 

 音は届かない。

 

 ただ、黒ずんだ翼の下で、その白さだけが妙に浮いて見えた。飾りなのか、骨なのか、リゼには分からない。分からないのに、視線がそこへ引っかかる。

 

 胸元のメモが、指の下でかすかに瞬いた。

 

 『ありがとうは危険』の文字から、外へほどける白い温度とは違う。紙そのものの奥、ゼルマ教授の三行があるあたりで、閉じた温かさがほんの一瞬だけ向きを持った。声ではない。命令でもない。だが、胸元の紙が、リゼの足を校門の方へ進ませまいと推し留めているようだった。

 

 リゼは窓辺から、半歩離れた。

 

 角を庇った時の指がまだ痛む。人間界で白銀色の刃が落ちた瞬間、爪が角の根元に食い込んだもの。その痛みが、今になって小さく戻ってくる。

 

 白い翼の冷たさとは違う。

 

 校門の男からは、もっと古く、重いものが来る。遠いのに、近づけば足元から沈むような気配だった。

 

 男の顔が、わずかにこちらを向いた。

 

 視線が合ったのか、ただ門の内側を見ただけなのか、分からない。リゼは紙袋の持ち手を強く握った。袋の中で菓子箱がかすかに傾く。

 

 ゼルマ教授は、リゼの方を見なかった。

 

 その背中が、見なくてよい、と告げているようだった。

 

 リゼは息を浅く吸い、教授室へ急いだ。

 

 

 教授室の扉の前で待っている間、紙袋の持ち手は少しずつ指に食い込んだ。リゼは一度持ち替え、パンフレットの端を整える。青い海と白い灯台が、紙の隙間から少しだけ覗いていた。

 

 やがて、廊下の向こうから足音が近づいた。

 

 ゼルマ教授だった。

 

 歩調は崩れていない。けれど外套の裾には灰がつき、靴先には旧門廟の石粉とは違う土が残っている。教授は扉の前に立つリゼを見て、鍵を開けた。

 

「中へ入りなさい。廊下で話すことではない」

 

「はい」

 

 教授室の中は、いつもよりわずかに暗く見えた。

 

 机の上の書類は端が揃っていない。椅子の背には外用の手袋が片方だけ掛かっている。窓辺の小瓶も、いつもの位置から少しずれていた。ゼルマ教授はそれらを直さず、机の横で立ち止まる。

 

 リゼは紙袋を両手で持ち直した。

 

「教授。人間界で、美味しいものを買ってきました。お土産です」

 

 紙袋を差し出す手は、少し硬かった。ゼルマ教授はすぐには受け取らない。袋を見る。リゼの指を見る。それから、胸元のメモの位置へ視線を落とした。

 

「買えたのなら、よかった」

 

 短い言葉だったが、拒む響きではなかった。

 

 リゼの肩がわずかに上がる。紙袋の隣に、パンフレットも差し出した。

 

「報告資料もあります。人間界の景色が載っていました」

 

 二枚もらってきたうちの、一枚だった。

 

 紙の上には、蒼い海、白い灯台、山の稜線、夕焼けの温泉街が並んでいる。魔界の窓からは見えない色ばかりだった。

 

 ゼルマ教授の視線が、灯台の白で一度止まった。

 

 ほんの短い間だった。

 

 教授はそのまま紙袋とパンフレットを受け取り、机の端に置く。菓子箱の入った袋は倒れないよう、わずかに向きを直された。

 

「預かっておく。今日は、細かな報告は後でよい」

 

 その言い方で、リゼは校門の黒い翼を思い出した。

 

 教授の外套についた灰がまだ落ちていない。机の上の乱れも、そのままだ。リゼは胸元のメモへ指を伸ばしかけ、途中で止めた。

 

「教授。校門にいらした、黒い翼の方は……教授のお知り合いですか」

 

 ゼルマ教授の手が、パンフレットの端に触れたまま止まった。

 

 沈黙は長くない。

 

 だが、その間に、部屋の空気だけが一段重くなる。窓辺の小瓶の影が机の上へ細く伸びていた。

 

「あれは、アゼルという」

 

 教授の声は低くない。

 

 けれど、名前だけが床へ落ちるように重かった。

 

「堕天使だ。興味を持つな。近づくな。見かけても、追うな」

 

 リゼは小さく頷いた。

 

 ただの注意ではないことは分かった。いつもの「記録しなさい」や「帰ってきなさい」とは違う。そこには、リゼが踏み込む前に線を引く硬さがあった。

 

「悪魔では、ないのですね」

 

「違う。少なくとも、君が真似をする相手ではない」

 

 ゼルマ教授の視線が、リゼの角のあたりへ上がる。

 

 厳しい目ではなかった。

 

 それでも、リゼは背筋を伸ばした。胸元のメモの奥で、さきほどの白い瞬きが静かに沈む。教授の言葉と、紙の奥の温かさが、同じ方向を指している気がした。

 

「分かりました。アゼルには近づきません」

 

「それでいい。今日は自宅へ帰り、忘れず記録しなさい」

 

 リゼの口元まで、別の報告が上がってきた。

 

 白い翼の少女。

 

 白銀の剣。

 

 堕ちたもの、と呼ばれたこと。

 

 誤認しました、と謝られたこと。

 

 けれど、ゼルマ教授の手はまだパンフレットの端に置かれている。外套の灰も、机の乱れも、そのままだ。教授室の空気はリゼの言葉を受け取る余白を残していない。

 

 リゼは息を整え、頭を下げた。

 

「はい。自宅で記録します」

 

 教授は短く頷く。

 

 リゼが扉へ向かうと、背後で紙袋が少しだけ動いた。ゼルマ教授が、菓子箱の向きを裏返した音だった。

 

 教授室を出る時、机の端に置かれたパンフレットが目に入る。薄暗い部屋の中で、灯台の白だけが小さく残っている。

 

 

 その日の終わり、リゼは自宅の机にメモを広げた。

 

 赤い星のシールは、ゼルマ教授の三行の横にまだ貼られている。端は少しだけ浮いていたが、剥がれてはいない。人間界の傘から剥がしてきた、小さな赤い星だった。

 

 その周りには、色とりどりの花丸が増えていた。

 

 割り箸。

 弁当。

 サリル先輩の挿絵。

 

 落とし物。

 

 ありがとう。

 

 紙の上は、最初よりずいぶん賑やかになっている。余白はある。けれど、無駄に使えるほど広くはない。

 

 リゼはペン先を紙の上で止め、今日の出来事を三つに絞った。たくさん書けば、見落とさないで済むかもしれない。けれど、書きすぎれば、何が大事だったのか分からなくなる。

 

 最初の行は、少し迷ってから書いた。

 

『天使は危険』

 

 ペン先が止まる。

 

 白い羽の少女は謝った。剣を下ろし、誤認だと言った。けれど、剣は確かに落ちてきた。角を庇った指の痛みは、まだ爪の奥に残っている。

 

 謝罪と恐怖を同じ行に入れる言葉を、リゼはまだ持っていない。

 

 だから、危険にした。

 

 二行目は、すこし柔らかい字になった。

 

『パンフレットは綺麗』

 

 悪事の記録としては、弱い。けれど観察記録ではある。蒼い海も、白い灯台も、山の稜線も、夕焼けの温泉街も、紙の中で静かに明るかった。魔界の火の雨とも、旧門廟の黒い石とも違う白さが、そこにはあった。

 

 三行目を書く時、リゼはペンを持つ指に力を入れた。

 

『アゼルに近づかない』

 

 この行だけ、少し濃くなった。

 

 ゼルマ教授の声が耳の奥に残っている。興味を持つな。近づくな。追うな。胸元のメモが校門で白く瞬いたことも、同じ場所へ重なっていた。

 

 リゼは書き終えた行を、しばらく見つめた。

 

 『ありがとうは危険』の文字の周りには、まだ外へほどける白い温度がある。女の子の声の名残は、紙の上で薄く広がり、触れれば周囲の空気まで揺らす。

 

 一方で、紙そのものの温かさは、封をされたように閉じていた。

 

 教授の三行の奥にあり、外へ散らず、内側から紙を支えている。校門を見て瞬いたものも、いまはそこへ戻っている。リゼは、二つの温度が違う場所にあることを指先で確かめた。

 

 その指が、赤い星の上で止まった。

 

 雨の日の透明な傘についていた印。誰かが自分のものだと分かるように貼っていた、小さな星。リゼが爪の先で剥がし、持ち帰り、教授の三行の横へ貼ったもの。

 

 リゼはその端をなぞった。

 

 紙の上には白いものがいくつもある。ありがとうの周りにほどける温度。教授の文字の奥に閉じている温かさ。校門で一瞬だけ向きを持った守るような瞬き。

 

 けれど、赤い星の周りだけは違っていた。

 

 光らないのではない。

 

 光を退けているように見えた。

 

 赤い表面はつやりとしているのに、そこだけ机の灯りを受け取らない。指先が触れると、胸の奥に細い皺が寄る。痛みではない。熱でもない。名前のない小さな引っかかりが、息を吸うたびに同じ場所へ戻ってくる。

 

 リゼは指を離した。

 

 赤い星は動かない。

 

 剥がれもせず、消えもせず、教授の三行の横に貼られたまま、静かに暗く残っている。

 

 これは、リゼがやり遂げた悪事の証拠だった。

 

 そのはずなのに、紙の上でいちばん小さなそれが、いちばん考えるのをやめさせてくれない。

 

 リゼはペンを持ち直しかけて、何も書かなかった。

 

 白い羽のことを教授に詳しく報告していない。

 

 その事実だけが紙の余白に小さく残る。だが、灰のついた外套と、乱れた机と、短く閉じられた教授の声が、まだ目に残っていた。

 

 リゼは余白に何も足さなかった。

 

 メモを丁寧に畳む。

 

 これは日記ではない。

 

 悪事の記録であり、観察記録であり、教授から渡された大切な紙だった。書かなかったことまで全部押し込めてしまうには、少しだけ重すぎる。

 

 窓の外では、魔界ラジオの雑音が遠く混じっていた。タケノコとキノコとブルボンの三つ巴は、まだ続いているらしい。プリングルス二世の声明について、誰かが早口でまくしたてている。

 

 リゼはラジオを聞いていない。

 

 机の端には、リゼのために持ち帰ったパンフレットが一枚ある。教授へ渡したものと同じ景色が、少しだけ違う折り目でそこに残っていた。

 

 青い海。白い灯台。遠い山。夕焼けの温泉街。

 

 灯台の白は、天使の羽とは違って見えた。

 

 リゼは角にそっと触れた。

 

 硬くて、暖かい。

 

 そこにあることを確かめてから、畳んだメモを胸元へ戻した。

 

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