あくまでリーゼはへこたれない!   作:ゆめみる夢見

5 / 5
第5話 悪魔は記録札を濡らす

第5話 悪魔は記録札を濡らす

 

 朝の机に、パンフレットが開かれていた。青い海。白い灯台。遠い山。夕焼けの温泉街。人間界の駅で持ち帰った紙は、折り目のところだけ少し白く擦れている。

 

 リゼは椅子に浅く腰かけ、紙の上の道を指でたどった。白い灯台へ続く細い坂道で指先が止まり、灯台の根元を小さくなぞる。

 

 温泉街の写真では、湯気の向こうに並ぶ店へ少しだけ顔を近づけた。紙から匂いはしない。けれど、湯気の白さを見ている間、まばたきの間隔が少しだけ長くなる。

 

 夕焼けの写真に指が移った。魔界の窓に映る赤よりも、紙の中の赤は薄く、遠かった。

 

 机の横には、図書館の本が一冊置かれている。表紙には、羽の生えた小魚を追いかける小さな悪魔の絵があった。題名は『魔界まぬけ生物図鑑 小型種篇』。リゼが借りてから、挿絵の多い章だけ、少し開き癖がついている。

 

 本の間から、返却期限の札が出ていた。

 

 期限は、今日だった。

 

 リゼはパンフレットを畳み、本の上に手を置いた。

 

 硬い本の表紙には、誰かが描いた生き物の形と、誰かが調べた名前が入っている。返さなければ次の悪魔が読めない。

 

 (かど)が折れないようにで布で包んで、鞄の中に本を入れる。

 

 今日は、まず本を返しに行く日だった。

 

()

 

 食堂は、朝から騒がしかった。

 

 普段なら配膳口(はいぜんぐち)の上をふらふら飛んでいる蝙蝠灯たちは、(はり)の端へ寄っていた。小さな羽を畳み、丸い目を下へ向けている。食堂の中央には、大鍋が三つ運び込まれていた。鍋の下では青黒い火が揺れ、卓の脚や生徒たちの頬を、いつもより近い明かりで照らしている。

 

 薄い匙の音ではない。

 

 器が卓に置かれる音。椅子を引く音。配膳口ではなく、大鍋の前で順番を急かす声。笑い声。腹が鳴る音。久しぶりに濃いものを待つ悪魔たちの音が、食堂の奥まで満ちていた。

 

 リゼは入口で足を止めた。

 

 大鍋のそばに、見慣れない壺が並んでいる。封蝋(ふうろう)には議事堂の印が押され、貼られた布には『応急配給』としたためられている。鍋から立つ湯気は、いつもの白湯とは違う。色が濃く、器に注がれるたび表面に黒い筋が細く走る。

 

「今日は底が見えないぞ」

 

「議事堂も、たまには仕事をする」

 

 誰かが笑った。

 

 笑い声は明るかった。けれど、途中から少しだけ尖る。笑った本人もそれに気づいていないようだった。

 

 リゼも器を受け取った。

 

 手の中で、器はいつもより重かった。湯気が鼻先に触れた瞬間、腹の奥が先に反応する。悪い匂いではない。けれど、舌に乗る前から、熱だけが喉の方へ上がってくる。

 

 ひと口だけ飲む。

 

 温かい。薄くない。腹の奥へ届く。

 

 それでも、リゼの匙は二口目の前で止まった。おいしい、という言葉は出てこない。濃いはずなのに、舌の奥にざらつくものが残る。壁の向こうで誰かの言い争いを聞いたあと、その部屋に入ってしまった時のような味だった。

 

 近くの席で、いつもリゼの器をちらちら見る生徒が身を乗り出した。

 

「残すのか」

 

 リゼは匙を持ったまま顔を上げた。

 

「え……」

 

「残すなら、寄越せよ」

 

 その生徒の指が、リゼの器の縁に触れかける。リゼは反射的に器を両手で引いた。中身が揺れ、紅い筋が器の内側にぶつかる。

 

「の、飲みます」

 

「じゃあ飲めよ」

 

「はい」

 

「遅いんだよ」

 

 言った生徒は、そこで自分の声の大きさに気づいたように口を閉じた。指はまだ宙に残っている。笑おうとして、うまく笑えない顔をした。

 

 別の卓では、椅子が荒く引かれた。

 

 食堂は賑わっている。久しぶりに、腹を温めるものがある。だが、その賑わいは足元の悪い場所に立っているようだった。冗談の終わりに棘が残り、笑い声の先が怒鳴り声に近づいていく。

 

 リゼは匙を置いた。

 

 鞄の中には返却期限の本がある。図書館へ行かなければならない。ゆっくりしている場合ではない。

 

 それは本当だった。

 

 器の中にはまだ残っている。残すのは悪魔らしくない気がした。けれど今日の器は、全部を腹に入れてよいものなのか、まだ分からなかった。

 

 席を立つ時、配膳口の奥で新しい壺の封が切られた。

 

 歓声に押されて、蝋が倒れる音がした。食堂の声は、また一段と大きくなった。

 

 

 廊下へ出ると、食堂の湯気が背中から離れた。

 

 リゼは鞄の中の本を確かめる。表紙の角は折れていない。返却札も、まだ挟まっている。

 

「リゼ」

 

 呼ばれて振り返る。

 

 サリルは食堂の出口の脇に立っていた。扉の内側から漏れる湯気が、肩のあたりで薄くほどけている。片手は扉枠に触れていた。リゼを呼び止めながらも、食堂の奥へすぐ戻れる位置だった。

 

「サリル先輩」

 

 サリルの視線が、リゼの鞄の中へ落ちた。少し剥がれた布から、本の角と、返却札の端が見えている。

 

「図書館か」

 

「はい。本の返却期限が今日なので」

 

 サリルは頷いた。

 

「それならいい。あれを飲み切らずに出たのは、正しい」

 

 リゼは食堂の扉を見た。

 

「あれは、悪いものなのですか」

 

「悪いものではある」

 

 サリルは一度、言葉を選ぶように黙った。

 

「ただし、腹は満たす」

 

 食堂の奥で、誰かが大きく笑った。笑い声は途中で乱れ、怒鳴り声となり、また笑いへ戻る。

 

 サリルは顎を少しだけ動かし、リゼに食堂の内側を見るよう促した。

 

 扉の隙間から、器を抱え込む生徒の背中が見える。その向かいで、別の生徒が机に手をついていた。さっきまで笑っていたはずの顔が、もう笑っていない。

 

「濃い悪意は、腹を満たす。だが、食ったものに性質が寄る。……怒号を食えば、声が荒くなる。妬みを食えば、目が濁る。恐怖を食えば、怯え方を覚える」

 

「悪魔なのに、ですか」

 

「悪魔だからだ」

 

 短い答えだった。

 

 リゼは扉の隙間を見たまま、鞄の紐を握った。

 

「……私たちは、飢えたまま育っている」

 

 サリルの声は低かった。

 

「だから、満ちた時にどうなるかを知らない。記録には残っている。教師は知っている。古い悪魔も知っているのだろう。……だが、腹の空いた俺たちは、自分の腹を信じてしまう」

 

 リゼは返事を探したが、適切なものを見つけられなかった。

 

 サリルは、扉枠に置いた自分の手を一度だけ見た。

 

「私は、前より少し、余計なことを言うようになった」

 

「えと、余計なこと、ですか……?」

 

「……ああ」

 

 サリルの喉が、小さく動いた。

 

「……それが私のものなのか。食ったもののせいなのか、まだ分からない」

 

 リゼはサリルを見上げた。

 

「でも、先輩はいつも助けてくれます」

 

「それが問題だと言っている」

 

「……問題なのですか?」

 

「…………たぶん」

 

 食堂の中で、椅子の脚が床を削る音がした。

 

 次に、短い怒鳴り声。

 

 リゼとサリルは、同時に扉の方を向いた。開いた隙間の向こうで、生徒の一人が椅子を持ち上げている。向かいの悪魔は器を抱えたまま固まっていた。周囲の生徒たちが立ち上がり、誰かが止めようとして、別の誰かが笑う。

 

 サリルは言葉を切った。

 

「行け。図書館だろう」

 

「で、でも」

 

「記録を探せ。こっちは止める」

 

 返事を待たず、サリルは食堂へ戻った。

 

 扉の向こうで、走っていく背中が、持ち上がった椅子の前に立つ。そこから先は、湯気と立ち上がった悪魔たちの影に遮られた。

 

 リゼは鞄を抱え直した。

 

 図書館へ行く理由は、鞄の中の返却札だけではなくなっていた。

 

 悪意。食べたもの。性質。記録。

 

 サリルが残した言葉が、次に探す棚を決めていた。

 

 

 悪魔学校別館図書館は、校舎から少し離れた場所にある。

 

 食堂の裏口を出て、ひびの入った敷石を渡り、枯れた薬草園の脇を抜ける。そこまで行くと、校舎の声は急に薄くなる。風は同じはずなのに、図書館の前だけ、紙をめくる前のような乾いた静けさがあった。

 

 建物は、ひと目で形を捉えにくかった。

 

 正面の低い石壁の上に、背の高い書庫塔が乗っている。その横から、別の時代につけ足された渡り廊下が斜めに伸び、隣の小塔へ刺さっている。窓の高さは揃わず、階段は外壁を這うように途中で曲がり、地下書架へ降りる扉だけが庭の端に口を開けていた。

 

 あとから足された部分が多すぎて、どこまでが最初の図書館だったのか分からない。

 

 一番古い部分は、正面の低い書庫だという。

 

 飢餓を予測した悪魔たちが、失敗の記録を集め始めた場所。そこへ召喚路の事故報告が増え、憑依門(ひょういもん)の研究が増え、帰還できなかった悪魔の名簿が増えた。入りきらなくなるたびに壁が破られ、塔が足され、廊下が伸び、地下が掘られた。

 

 図書館は、終わりかけている世界を収めるために、今も少しずつ大きくなっている。

 

 リゼは正面扉の前で少しだけ顔を上げる。

 

 高い壁面に、古い文字が刻まれていた。

 

『記録せよ。飢えより先に、忘却が来る』

 

 難しい言葉だった。

 

 けれど、ここに来るたび、リゼはなんとなく背筋を正した。

 

 図書館の扉を開けると、乾いた紙の匂いがした。古い革。煤。インク。何度もめくられた紙の端。奥の書架から、ページをめくる音が細く重なっている。

 

 リゼは受付へ向かった。

 

 受付には、羊の角を持つ年配の司書悪魔が座っている。眼鏡の鎖が胸元まで垂れ、手元の帳面には小さな文字が隙間なく並んでいた。

 

「返却です」

 

 リゼは両手で本を差し出した。

 

 司書悪魔は表紙を見て、返却札を抜き、帳面の上で名前を探す。

 

「リゼ。『魔界まぬけ生物図鑑 小型種篇』。返却期限内」

 

 木箱の中から、一枚の札が取り出された。

 

 借書記録札。

 

 薄い木札に紙が貼られ、そこへ細かな文字で貸出履歴が記されている。リゼの札には、まだ多くの行はない。それでも、これまで借りた本の名が並んでいた。

 

『魔界まぬけ生物図鑑 小型種篇』

 

『食べられる草花と食べてくる草花』

 

『議事堂おじさん決闘札遊び攻略 初級構築』

 

『人間界土産物図鑑 絵入り』

 

『幼体蝙蝠灯の生育記録』

 

 司書悪魔はその行を一目見て、眼鏡の奥でまばたきをした。

 

「絵のある本が多いね」

 

「字も、読みます」

 

「……そうかい」

 

 司書悪魔は何も言わず、返却印を押した。

 

 リゼは記録札を受け取る。薄い札の端には、小さな擦れ跡があった。誰かが読むたびに、本の名前が増える。借りた本が返され、返却印が押され、また次の行が足される。

 

「次は何を借りる」

 

 司書悪魔が尋ねた。

 

 リゼは少し迷った。食堂でサリルが言った言葉が、まだ耳の奥にある。

 

「悪意を食べた悪魔の本は、ありますか」

 

 司書悪魔の手が、帳面の上で止まった。

 

 その視線が、脇の時計へと向く。

 

「……食堂で、何かあったね」

 

「ちょっと、椅子が」

 

「椅子?」

 

「持ち上がりました」

 

 司書悪魔は、ゆっくり眼鏡を押し上げた。

 

「……議事堂め、学校にも壺を回したか」

 

 声は大きくなかった。だが、机の下で帳面の角が少し沈む。司書悪魔の指に力が入ったせいだった。

 

「第三閲覧室。赤い棚の下段。読むだけなら許可は要らない。借りるなら教師印がいる」

 

「ありがとうございます」

 

「札をしおり代わりにするんじゃないよ。折るな、失くすな。再発行は面倒だし、少し高い」

 

「高いのですか」

 

「高い。自分が読んできたものを失くすのが代金だ」

 

 リゼは借書記録札を鞄の内ポケットへしまった。返却札やしおりが曲がらないように、指先で端をそろえる。

 

 

 第三閲覧室は、図書館の奥にあった。

 

 途中の廊下には、背の高い書架が並んでいる。書架と書架の間には細い鎖が渡され、そこに蝙蝠灯が何匹も逆さに下がっていた。眠そうに羽を畳んでいた一匹が、リゼの足音に片目だけ開ける。

 

 赤い棚には、悪意を扱う本が集められていた。古い時代のものは布で製本されており、表紙には鎖が繋がれている。

 

『濃い悪意を食べたあとの変化』

 

『召喚路から外れた悪魔たち』

 

『怒号・妬み・恐怖の分類記録』

 

 題名は短い。けれど、背表紙の古さは、軽い本ではないことを示している。角は擦り切れ、何度も貼り直された分類札が背に重なっていた。

 

 上の棚には、厚い本もある。

 

『人間界の大戦と悪魔の人口爆発』

 

 リゼは題名を見上げた。背表紙だけで重い本だった。他にも、自分のあだ名と似た名前が書かれた本も気になった。それらは脚立を使わなければ届かない高さにあり、貸出札には禁帯出の赤い印が押されていた。

 

 リゼはまず、手の届く本を三冊取った。さらに下の棚から、『絵に残された悪魔が力を得た事例』と、『好意・感謝・愛着は食べられるか』を抜き出す。

 

 閲覧机へ向かう。

 

 机の表面には、古い傷がいくつもある。誰かが昔、ペン先で強く書きすぎた跡。爪で引っかいた跡。丸い染み。乾いても完全には消えなかったもの。

 

 リゼは本を開いた。

 

 最初のうちは、指で一行ずつ追っていた。

 

 濃い悪意。行動の変化。怒号。妬み。恐怖。帰属。絵。名前。許可。

 

 言葉はどれも読める。けれど、続けて読んでいくと、意味が棚の奥へ逃げていく。リゼは題名だけを紙に写し、分かりそうな言葉に小さな丸をつけた。丸は少しずつ増えたが、答えは増えなかった。

 

 午前の灰色と、夕方の灰色は少し違う。

 

 図書館の窓は外の色をあまり入れない。それでも、時間が進むにつれ、書架の上の蝙蝠灯が一匹、また一匹と目を開けた。閲覧机の上に、薄い光が増えていく。

 

 リゼの前には、開いた本が三冊。閉じた本が二冊。題名だけ写した紙が一枚。

 

 借りる本は、まだ決まっていなかった。

 

「精が出るね」

 

 司書悪魔が、机の端に小さな水差しを置いた。

 

「根を詰めると、字が虫に見えてくるよ」

 

「字は、まだ字です」

 

「それなら結構」

 

 司書悪魔は水差しの水滴を布でぬぐい、脇に小さな杯を置いた。机の上を一瞥し、開いた本を一冊ずつ閉じる。水差しから遠い側へ寄せ、角をそろえる。濡れて困るものを、当然のように安全な場所へ移していった。

 

「何を調べているんだい」

 

 司書悪魔が尋ねた。

 

 リゼは閉じている本を見た。

 

「悪意を食べると、悪くなるのか。悪意ではないものも、食べられるのか。絵に残された悪魔は、どうして力が増えたのか、です」

 

「欲張ったね」

 

「すみません」

 

「謝ることではないよ。図書館は、欲張った悪魔の失敗で大きくなった建物だからね」

 

 司書悪魔は、閉じた本の上に指を置いた。

 

「濃い悪意は、腹を満たす。けれど、怒号を食べた者は声を荒らしやすい。妬みを食べた者は、他人の行動を気にしやすい。恐怖を食べた者は、逃げるか、先に脅すかを選びやすくなる」

 

 リゼは食堂を思い出した。

 

「……椅子を持ち上げるのも、ですか」

 

「椅子で済むなら、まだ記録の浅い頁だね」

 

 司書悪魔の声は淡々としていた。軽く言ったわけではない。重く言いすぎないための声だった。

 

「悪意ではないものは、食べられますか」

 

「食べられるものもある。けれど配りにくい。感謝は向きがあるからね。好意は相手を選んで守る。愛着は長く残るが、無理に奪うと、持っていた者を傷つける」

 

「では、絵は?」

 

「絵は食べ物ではないよ。だが、絵を見た者の感情が、どこへ向くかによって変わる」

 

 司書悪魔は、『絵に残された悪魔が力を得た事例』の表紙を軽く叩いた。

 

「人間が絵を見て、これは悪魔だと認識する。怖い、すごい、綺麗だ、知りたい。そう思えば、細い流れはできる」

 

 司書は指折りをして、ひとつひとつ、リゼに説いた。

 

「精気の流れが誰へ還るかは、簡単ではない。名前、由来、媒介(ばいかい)、許可。つまり元となる被写体が正しく書けているか。被写体は自分が絵画にされたことを知っているのか。描いた本人の意図が強すぎれば、指向性は宙に浮く。……曖昧なものは、個体ではなく、悪魔という大きな入れ物へ散る」

 

 リゼは「許可」と書いた丸を見た。

 

 許可札。貸出札。誰かのものを扱う時に、そこにあるべき印。

 

 まだ、答えには遠かった。

 

「司書さん」

 

「何だい」

 

「自分に悪事をした本は、ありますか」

 

 司書悪魔は、指折りをしていた手をほどいた。

 

「妙な本を探すね」

 

「ありませんか」

 

「……本にはないよ。少なくとも、図書館の本にはない」

 

 リゼは膝の上で指をそろえた。

 

「自分のものを、自分から奪うには、どうすればいいのでしょうか」

 

「難しく考えるね」

 

 司書悪魔は閉じた本の背を指で軽く叩いた。

 

「悪事は、相手の持ち物を少し困らせるところから始めることが多い。……だが、ここにある本は図書館のものだ」

 

「はい」

 

「やるなら、自分のものとは何かを考えてから、やるといい」

 

 司書悪魔はそれだけ言うと、次の机へ歩いていった。

 

 机の上には、閉じられた本と、水差しと、小さな杯が残った。リゼの借書記録札は、写した題名の紙のそばに置かれている。

 

 リゼは杯を見た。

 

 水なら、こぼれる。

 

 こぼれた水は、盗まれたわけではない。元には戻らない。けれどこの水は、自分のものではなく図書館のものだ。水を失くしても困らない。

 

 リゼは、机の上を整えた。

 

 図書館の本をさらに遠ざける。写した題名の紙も脇へ寄せる。司書悪魔が置いた水差しと布は、反対側へ。

 

 借書記録札だけが、リゼの正面に残った。

 

 リゼは、杯を記録札の真上には置かなかった。

 

 かといって、遠くへ離しもしなかった。

 

 記録札の端に水が届くかどうか。そのくらいの距離で、杯の縁に指を添える。

 

 杯は倒れた。

 

 水が机に広がる。思っていたより速く広がった。

 

 リゼは息を呑み、慌てて借書記録札を持ち上げる。けれど間に合わなかった。札の下側が少し濡れて、紙の端が波打つ。細い文字の一部がにじみ、黒い点になった。

 

 水はまだ机の上を広がっている。

 

 リゼは布を取って。拭く。机の端から落ちそうになった水を押さえる。袖口が濡れる。札を乾いた場所へ置き、指で端を押さえる。押さえたところで、波打ちは完全には戻らない。

 

 大きなことは起きなかった。

 

 誰も泣いていない。誰も怪我をしていない。本も濡れていない。

 

 けれど、借書記録札の端は、さっきと違っていた。

 

 リゼは濡れた指を見た。

 

 自分にした悪事は、誰かを倒すものではなかった。

 

 ただ、片づけが残った。

 

 

 議事堂は、低い街並みを見下ろす岩盤の上に建っていた。

 

 近づくほど、建物は高くなるのではなく、重くなっていく。正面の階段は広く、段差は低い。急がせるための階段ではない。来た者に、自分がどこへ向かっているのかを一段ずつ思い出させるための階段だった。

 

 階段の両脇には、古い戦争の石像が並んでいる。角の欠けた将軍。名の読めなくなった書記官。器を掲げる飢饉王(ききんおう)。風が吹くたび、石像の足元に溜まった灰が薄く動いた。

 

 ゼルマ教授は、その階段を上っていた。

 

 入り口で議事衛兵が一度だけ槍を動かした。穂先が道を塞ぎかけ、すぐに下がる。誰何の声は出ない。門衛の一人が名簿を開こうとして、隣の年長の衛兵に手首を押さえられた。

 

 ゼルマは名乗らなかった。

 

 来訪者名簿には、まだ何も書かれていない。

 

 それでも、門は開いた。

 

 玄関広間には封蝋の匂いが満ちていた。左右の壁には各国の紋章旗が垂れ、中央の床には魔界全域を示す古い地図が彫り込まれている。その地図の上を、来客たちは避けて歩く。踏んではならないものとしてだけではない。踏んでも変わらないほど古く、重いものとして。

 

 受付の悪魔は登庁名簿を前にしていた。羽ペンを持つ手が一度上がり、止まる。ゼルマが広間の中央を通る間、そのペン先から黒いインクが一滴落ちた。紙には触れず、机の端に丸く残る。

 

 奥の検問廊には、さらに多くの衛兵がいた。

 

 黒鉄の扉の前に二人。階段の折り返しに三人。封蝋保管室の前には、角に銀環を通した老練の衛兵が立っている。彼らは職務を果たすためにそこにいた。だが、ゼルマの足音が近づくと、槍を交差させるより先に、喉が小さく動いた。

 

 ゼルマの歩調は変わらない。

 

 手順の方が、脇へ寄っていく。

 

 退いた者たちは皆、すぐに視線を戻した。目を伏せるにはプライドがあり、見続けるには畏れがある。だから彼らの視線は、ゼルマの肩の少し後ろに留まった。

 

 大議円卓室の前で、扉番が深く頭を下げた。

 

 厚い扉が内側へ開く。

 

 中にいた声が、そこで一度止まった。

 

 大議円卓室は、議事堂の最奥にある。

 

 円卓は古い竜骨(りゅうこつ)を削って作られたものだという。表面には国ごとの紋章が埋め込まれ、席ごとに違う角の意匠が彫られている。そこに座る悪魔たちは、誰も若くない。痩せた者も、太った者も、飢えを香で隠している者もいたが、どの顔にも、長く命令する側にいた者の硬さがあった。

 

 ゼルマが入っても、誰も席を立たなかった。

 

 ただ、何人かの指先が卓の下へ下がる。無意識に爪を隠す仕草だった。

 

 ゼルマは空席へ向かわない。

 

 扉から少し入ったところで立ち止まり、円卓の中央に言葉を放った。

 

「日程。門の数。開く場所。流入量」

 

 挨拶はなかった。

 

 羽ペンの音が止まる。

 

 円卓の右奥から、鼻先の長い老悪魔が口を開いた。声は柔らかいが、目は笑っていない。

 

「ずいぶん急く」

 

「アゼルが転がすと言った件です」

 

 ゼルマは声を荒げない。

 

「議事堂が受け皿を作るなら、魔界側にも崩れる場所が出る。予定を出してください」

 

 円卓がざわつく。

 

 反発より先に、驚きがあった。議事堂の最奥で、その言葉を許可の形ではなく、記録提出の形で出したからだった。

 

「それを知って、どうする」

 

「鎮圧します」

 

 沈黙が落ちた。

 

 誰かの指輪が卓を叩く音だけが、ひとつ鳴る。

 

「どこの鎮圧を」

 

「魔界側です。学校区も含めます」

 

「学校の教師が、議事堂の調整に口を出すのかね」

 

「教師として来たのではありません」

 

 その一言で、円卓の空気が変わった。

 

 香炉の煙が、卓の上で細く切れる。奥の席にいた女悪魔が、閉じていた扇を少しだけ開いた。

 

「では、何として」

 

 ゼルマは答えなかった。

 

 答えなかったことが、答えの代わりになった。

 

 古い悪魔たちは、誰も軽く笑わない。畏怖はある。だが、盲従はない。彼らは議事堂の古い悪魔であり、長く座り続けた椅子を誇りとしている。簡単には頭を下げない。恐れていても、席は譲らない。

 

 だからこそ、部屋の緊張は緩まなかった。

 

「アゼルの件は、まだ議事堂預かりだ」

 

「では、議事堂は学校に濃縮精気を回していないのですか」

 

 円卓の端で、若い書記悪魔が息を呑んだ。若いと言っても、学校の生徒よりはずっと年上だ。だが、その場では若すぎた。

 

 老悪魔の一人が、その書記を見ずに羽ペンを置いた。

 

「試験供給だ。薄めてある」

 

「記録を」

 

「後ほど」

 

「今」

 

 短い一語だった。

 

 円卓の数人が、同時にゼルマを見る。

 

 奥の席にいた女悪魔が、扇を閉じた。

 

「あなたが動くなら、学校区の暴発は短く済むでしょうね」

 

 声は静かだった。慰めではない。評価でもない。古い記録を読み上げるような言い方だった。

 

「ただし、短く済むことと、救われることは違う」

 

「承知しています」

 

「それでも鎮圧を?」

 

「必要なら」

 

 女悪魔は少しだけ目を細めた。

 

「……必要を作るのが、議事堂であっても?」

 

 円卓の数人が、扇を持つ女悪魔を見た。

 

 ゼルマは答えなかった。

 

 代わりに、視線だけで円卓を一周する。議事堂の壺を見た者。アゼルの名を避けた者。飢えた生徒を試験対象と呼んだ者。沈黙している者。

 

 その一人ひとりの顔を、ゼルマは記録するように見た。

 

「日程。門の数。開く場所。流入量」

 

 同じ言葉を、もう一度置いた。

 

 今度は、誰もすぐには笑わなかった。

 

 

 図書館を出るころには、空気が少し冷えていた。

 

 リゼは本を一冊だけ借りた。

 

『好意・感謝・愛着は食べられるか』

 

 題名は疑問の形だった。答えを言い切っていなかったので、借りることにした。

 

 借書記録札には、新しい一行が増えた。下の端は乾いたあとも少し波打っている。司書悪魔はそれを見たが、何も言わなかった。ただ、札を戻す時に、ほんの少しだけ眉を上げた。

 

 帰り道、リゼは食堂の方を見た。

 

 遠くからでは、中の様子は分からない。窓の一部が開いていて、湯気が外へ逃げている。椅子を振り上げた生徒がどうなったのか、サリルが無事なのか、リゼには分からなかった。

 

 ただ、食堂の前の敷石に、割れた器の欠片が一つだけ落ちていた。

 

 白い破片の縁に、紅い筋が薄く残っている。

 

 リゼはそれを拾おうとして、やめた。

 

 拾うべきものなのか、触れない方がいいものなのか、まだ分からなかった。

 

 リゼは鞄を抱え直し、自宅へ戻った。

 

 

 その日の終わり、リゼは机に紙を広げた。

 

 パンフレットは、朝と同じ場所にある。青い海。白い灯台。遠い山。夕焼けの温泉街。

 

 借りてきた本は、机の端に置いてある。

 

 借書記録札の端は、まだ少し波打っていた。完全には戻らない。乾いているのに、濡れた時の形を覚えている。

 

 リゼは今日の記録を三つに絞った。

 

『借書記録札は濡れると戻らない』

 

 字を書き終えると、リゼは自分の指を見る。

 

 水はもう乾いている。けれど、慌てて拭いた感覚は少し残っていた。

 

 二行目は、少し迷った。

 

『自分にする悪事は、片づけが残る』

 

 悪事としては弱い。とても弱い。水をこぼしただけだ。けれど、机を拭き、札を乾かし、袖口に水気が残った。誰にも怒られていないのに、机の上には波打った札が残った。

 

 三行目を書く前に、リゼは赤い星を見た。

 

 教授の三行の横に貼られた、小さな赤い星。

 

 雨の日の透明な傘についていた印。誰かが、自分のものだと分かるように貼っていたもの。リゼが爪の先で剥がして、持ち帰ったもの。

 

 借書記録札も、誰かが何を読んだかを残す印だった。パンフレットも、どこかにある景色を紙へ残すものだった。本も、誰かが考えたことを忘れないためのものだった。

 

 赤い星も、ただ貼ってあったわけではなかった。

 

 リゼはペンを握り直した。

 

『赤い星は、ここにある』

 

 書き終えて、しばらく見つめる。

 

 返す、とは書けなかった。

 

 剥がす、とも書けなかった。

 

 窓の外で、魔界ラジオの雑音が遠く鳴っている。

 

 議事堂からの応急配給について、誰かが早口で話していた。久しぶりの濃い精気だと喜ぶ声と、試験供給という言葉を繰り返す声が、雑音の中で何度も重なる。

 

 リゼはラジオを消した。

 

 机の上には、青い海と白い灯台が残っている。

 

 リゼの指は、もう一度、パンフレットの灯台へ戻った。

 

 朝よりも長く、そこに留まる。

 

 紙の中の景色は、持ち帰れるもののようにも、触れてはいけないもののようにも見えた。

 

 リゼは紙を畳んだ。

 

 それはいつもより少しだけ、重くなっていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。