朝の食堂には、昨日までなかった空席がひとつできていた。
生徒がいなくなったわけではない。椅子が一脚、壊れただけだ。
背もたれを失った椅子は、四本の脚を上にして壁際へ退けられている。欠けた器は配膳口の奥で重ねられ、職員が黒い接着剤を縁へ塗っていた。床に残った傷だけは直しようがなく、長卓の下から白い筋が何本も覗いている。
議事堂から届いた濃い精気は、一日でなくなっていた。
今朝の器には、いつもの薄いスープが入っている。匙を沈めると、黒い水面の下から底の紋様が透けた。歓声も怒鳴り声もない。匙が器へ触れる音と、壁際で椅子を直す金槌の音だけが、広くなった空席のまわりへ落ちていた。
リゼは同じところを三度かき混ぜた。
「……リゼ。寝てないの?」
向かいの生徒に訊かれ、顔を上げる。
「横にはなりました」
「目は閉じた?」
「本を持っていましたので、閉じると読めません」
「……それは寝てないんだよ」
リゼは匙を止めた。昨夜の姿勢を最初から思い返し、わずかに顎を引く。
「……そうかもしれません」
向かいの生徒は何か言いかけたが、追及する代わりに自分の器へ匙を戻した。底に残った黒い筋を集める手つきは、昨日までと変わらない。
リゼが夜更けまで開いていたのは、図書館から借りた本の一冊だった。
手で似せる絵とは異なり、対象へ当たって戻った光を受け止める記録がある。写真、と本には書かれていた。本の横に観光パンフレットを並べたとき、青い海も、白い灯台も、その方法で紙の中へ移されたものだと分かった。
読めない字はなかった。ただ、読めることと分かることのあいだには、頁を五ページほど戻らなければならない距離があった。リゼはその距離を夜中に何度も往復した。
食堂の隅では、魔界ラジオが議事堂の発表を読み上げている。応急配給は一定の成果を上げた。軽微な混乱はあった。次回の供給については慎重に検討する。
やがて話題は、プリングルス二世がタケノコ軍へ筒を横流しした疑いへ移った。キノコ軍を推す生徒が鼻で笑い、タケノコ軍の生徒が証拠を要求する。昨日とは違う言い争いが食堂を満たすなか、薄いスープの湯気だけが器の上で静かに揺れていた。
リゼは器を空にした。腹にはほとんど残らなかったが、底まで確かめ、匙を揃える。
向かいの生徒が、壁際の椅子へ目をやった。
「昨日のあれ、飲まなくてよかったね」
「一口は飲みました」
「……じゃあ、その変な返事は前からか」
「…………変ではありません」
リゼは背筋を正した。
相手の顔の下半分が、匙を持たない方の手に隠れた。笑われたらしい。そのまま、相手は続けて何か言いかけ、やめた。代わりに口元を手で隠す。
あまりに楽しそうな姿で。悪意は感じなかったので、リゼは許すことにした。
◇
ゼルマ教授の部屋には、不在の札が掛かっていた。
呼び鈴の横にある黒い箱へ、丸められた報告書が何枚も押し込まれている。蓋の隙間から議事堂の封蝋が見えた。教授は昨日から、学校と議事堂を往復しているらしい。サリルも朝早くに校外へ呼び出されたと、食堂の職員から聞いていた。
リゼは教授室の前にある記入台へ向かった。
台の上には、黒い許可札が一枚置かれている。表にはリゼの名前。裏にはゼルマの字で、〈行き先、宿泊場所、帰還予定を記録すること〉とだけ記されていた。昨夜、写真調査の申請を箱へ入れておいた。その返事だった。
許可札を胸元へ収め、鞄から薄い封筒を取り出す。
表には、〈人間界で遭遇した天使について〉と書いてある。
白い翼。白銀色の剣。堕天使と誤認されたこと。制圧を中止されたあとも、観測すると告げられたこと。書き上げてから、渡すまでに何日かかかったのかは記録していない。
「ご報告が遅くなりました」
不在の扉へ告げ、封筒を黒い箱へ入れた。
続けて、渡航記録の用紙を取る。
名前には、リゼ。
行き先には、人間界、犬吠埼灯台。
目的には、写真および現地の観察。
帰還予定には、明日の夕刻。
最後に、宿泊場所という欄があった。
ペン先は、紙へ触れないまま宿泊欄の上に残った。
観光パンフレットを開き、灯台の周囲を確かめた。海沿いには広場があり、道を挟んだ先には建物が並んでいる。雨が降った時に身を寄せられそうな木陰も、紙の上では二つ見つかった。
リゼは欄へ、〈犬吠埼灯台付近〉と書いた。
用紙を畳んで黒い箱へ入れる。ほかの報告書に当たり、紙が奥へ落ちる音がした。
「一泊してまいります」
返事のない扉へ一礼し、旅行鞄を持ち直す。
財布。記録帳。パンフレット。昨夜読み終えた本。着替えは一組。野外で眠るための厚い布も、きちんと丸めて詰めてある。
準備に抜かりはない。
少なくとも、リゼの鞄はそう主張していた。
◇
旧門廟の前には、今日も悪魔たちがいた。
柱の根元へ座り込んだ者。壁に背を預け、呼吸のたびに肩を上下させる者。リゼの旅行鞄へ視線を向ける者もいる。
何を持ち帰るのか。
次はいつ食べられるのか。
声にならない問いが、通路の両側から寄せられていた。
リゼは歩幅を変えなかった。黒曜石の角がよく見えるよう顔を上げ、胸元の許可札を確かめてから、骨の取っ手へ手を置く。昨夜ほとんど眠っていないことも、鞄の中身が人間界の食糧ではないことも、ここでは見せない。
期待の星は、出発する時にふらついてはならない。
扉の奥で、鍵が鳴る。
かちり。
リゼの前へ、怖くない暗さが開いた。
「行ってまいります」
誰に向けたとも決めずに告げ、扉をくぐった。
◇
人間界の駅では、朝の人波が薄くなり始めている頃合いだ。
改札の上に、大きな路線図が掲げられている。色の違う線が何本も交わり、離れ、駅の名前を連れて遠くへ伸びていた。
リゼは柱の前に立ち、パンフレットと路線図を見比べる。
最初の列車は二十分後。そこから東へ向かい、もう一度乗り換えて銚子駅。銚子駅からは別の鉄道へ移り、犬吠駅で降りる。
往復の運賃は足りている。帰りの分は、財布の内側にある小さな仕切りへ分けた。途中で何かを買っても、そこへは手をつけない。
パンフレットの路線図へ指を置いた時、すぐ後ろから声がした。
「犬吠埼まで行くのですか」
リゼは半歩離れて振り返った。片手が角へ上がりかけ、途中で旅行鞄の持ち手へ戻る。
そこに立っていたのは、セラだった。
白鷺のように折り畳まれた真っ白な翼が、ふわりと揺れた。
人間の少女と変わらない服を着ている。淡い色の上着に、膝下まである濃紺のスカート。向かってきた人間が、ぶつからないよう二人を避けた。誰の目にもセラの翼はなく、リゼの角もない。
「……セラ」
セラの視線が、持ち上がりかけた手へ落ちた。近づきかけていた足を止め、通行人ひとり分の距離を残す。
「今日は、制圧をしにきたのではありませんよ」
リゼは両手を見た。
「剣も、持っていませんか?」
「手に持っていなければ安全、というわけでもありませんが」
旅行鞄の持ち手が、リゼの指の中で細く潰れた。
セラは言い終えてから、自分の言葉を確かめるように口を閉じた。
「……失礼しました。いまのは、安心していただくところでしたね」
「…………」
駅の放送が、二人のあいだを通り過ぎる。間もなく到着する列車と、黄色い線の内側へ下がるよう告げていた。
セラはもう一歩を詰めず、路線図へ顔を向けた。
「犬吠埼灯台へ?」
「……写真に写っている場所を、自分で見るためです。明日の夕刻までに戻ります」
「……計画を訊いても構いませんか?」
命令の形ではなかった。
リゼはしばらくセラの手を見てから、記録帳を開いた。
列車の時刻。乗り換える駅。片道の運賃。犬吠駅から灯台までの道。帰りに列車を一本逃した場合の次の時刻も書き込んである。
セラは上から順に目を通した。
「……本だけで、ここまで調べたのですね」
「駅でも調べました」
「そうですか」
費用の欄へ来ると、セラの指が数字のない一行を押さえた。
「宿泊費がありません」
「必要ありません」
リゼは鞄から出た布の端を示した。
「野宿しますので」
発車を知らせる音が、遠くのホームで鳴った。
セラは記録帳から顔を上げない。返事がないので、リゼは補足した。
「厚い布です」
「……布の厚さを考えていたのではありません」
ようやく顔を上げたセラは、角ではなく、リゼの人間に見えている部分を順に見た。肩。腕。旅行鞄を持つ手。
「人間には、あなたも少女に見えます。海辺で一人、眠らせてよい相手には見えません」
「でも、角は見えません」
「角以外は、よく見えているんです」
リゼは自分の袖と靴を見た。先ほどから通行人は、進路が塞がらないよう道を選んで歩いている。
「……では、人の少ない場所を探します」
「問題を人目から隠す方へ進めないでください」
セラの声が強くなった。リゼの肩が上がる。
セラは唇を引き結び、記録帳を返した。声も、それ以上は強くならなかった。
「宿を探します。今日でも受け入れてくれるところなら、まだあるはずです」
「……宿泊費が増えます」
「野宿よりは増えますね」
「厚い布なら無料です」
「比べる相手を変えてください……」
セラの返事は、それまでより速かった。
リゼはセラの視線を追った。その先にあるのは角ではなく、鞄から出た布だった。持ち手へ食い込んでいた指が、一本ずつ戻る。
「それから」
セラは言葉を区切り、先ほどより声を落とした。
「同行しても構いませんか。観測を続けるためでもありますが、人間界の移動や宿のことなら、わたしの方が役に立てます」
リゼはすぐには答えなかった。
「剣も抜きません」
「……まだ、少し怖いです」
セラの唇が動き、何も言わずに閉じた。否定も、安全だという説明も来なかった。
リゼは記録帳を鞄へ戻した。
「でも、野宿をしてはいけないことは分かりました」
「そこだけで決めたように聞こえます」
「……ほかにも、ちょっとは考えています」
リゼは口を閉じ、ホームへ続く階段を見た。
「セラ。同行してください」
セラは一度だけ目を瞬いた。
それから小さな通信機を取り出し、画面を開く。何軒かを見比べ、海沿いにある小さな旅館へ電話をかけた。
今夜、二人。夕食つき。人目を気にせず使える風呂のある部屋。
最後の条件を聞いて、リゼは自分の角へ触れた。セラの背中にも、今は見えないものがある。
電話を終えたセラへ、金額を訊ねる。
「今回は、わたしが費用を出します」
「……なぜですか?」
セラは通信機の縁を親指でなぞった。
「同行を決めたのはわたしです。それに、以前の件もあります」
以前。
白銀色の刃が足元へ落ちた日を指す言葉は、それきり続かなかった。
「……あとで半分お返しします」
「……受け取りません」
「では、何か別の形で」
「……分かりました。ただ、いま決めなくて結構ですよ。まずは列車に乗りましょう」
発車案内の時刻が変わる。
セラはリゼの正面を通ってから、階段の方へ身体を向けた。
リゼも歩き出す。二人のあいだには、人一人分ほどの距離が残っていた。
◇
最初の列車では、二人とも扉の近くに立っていた。
座席は半分ほど空いている。セラは一度そちらへ目を向けたが、リゼが旅行鞄を両手で抱えたまま動かなかったので、何も言わずに隣へ立った。
扉が閉まり、町が後ろへ滑り始める。
高い建物の隙間へ低い家が増え、線路沿いの壁が途切れると、遠くまで平たい土地が見えた。渡航扉の一歩先から、人間界は物の多い場所だった。けれど窓硝子の外へ押し込められると、それらは触れられない速さで並び替わっていく。
「次の駅で、向かいのホームへ移ります」
セラはパンフレットの路線図を開いた。
「乗り換え時間は七分。階段は進行方向の後ろ側です。いまのうちに後ろ寄りの車両へ移っておくと――」
「あの畑は、何を育てているのでしょうか」
リゼが指した先に、低い葉が幾列も並んでいた。
セラは路線図から畑へ視線を移す。
「……おそらくキャベツです」
「丸くありません」
「まだ育っている途中です。キャベツは最初から丸い状態ではないんです」
「では、どの時点で丸くなるのですか?」
質問を受けたセラは、路線図を畳んだ。知っていることを途中で切らないための姿勢に見えた。
「外側の葉が広がったあと、内側の葉が重なって――」
列車が高架へ上がり、その向こうに幅の広い川が現れた。
「セラ。川です」
「……いまはキャベツの説明をしていました」
「聞いています。葉が重なるそうです」
「まだ、途中です」
「ですが、川はもう通り過ぎます」
リゼは窓へ顔を向けたまま答えた。
陽を砕いた水面が、橋脚のあいだで何度も切れる。川岸の草が流れ、遠くの白い建物が一瞬だけ硝子へ重なった。いま見なければ、同じ形では二度と戻らないものだった。
セラの口が開き、閉じる。
「……分かりました。川を見てください」
拗ねたように聞こえたので、リゼは振り返った。
「あとで続きをお願いします」
「覚えていたら」
「セラが、ですか」
「……はぁ。……そうですね」
列車は川を渡り終えた。
リゼはもう一度キャベツ畑を探したが、窓の外には住宅が戻っている。セラは畳んだ路線図を開き直したものの、キャベツの続きまでは戻さなかった。
次の駅では、言われた通り、進行方向の後ろ側に階段があった。二人は七分のうち三分を残して向かいのホームへ着く。
リゼは記録帳へ、〈階段は後ろ〉と書き足した。
「そこは覚えているのですね」
「帰りにも必要です」
リゼは書きかけた〈キャベツ〉の最初の一画へ、ペンで書き足そうとした。
「…………帰りにもありますか?」
「……畑は逃げませんが、育ってしまって、丸くなっているかもしれませんね」
答えになっているような、いないような説明だった。
次の列車では、セラが先に窓側へ腰を下ろした。リゼは立ったまま、空いている隣とセラを見比べる。
セラは通路側へ身を寄せ、座席の奥を空けた。促す言葉はなかった。
リゼは旅行鞄を膝へ載せ、その場所へ座った。二人の袖は触れず、人一人分あった距離だけが、隣り合う座席に収まる幅へと変わっていた。
町並みが途切れる時間は長くなった。田畑の向こうで送電塔が並び、低い雲の下へ細い線を渡している。車輪の音は短く繰り返され、昨夜閉じなかったまぶたの裏へ、同じ間隔で届いた。
セラは犬吠埼について話し始めた。
関東の東端に近い岬であること。沖を流れる海流。漁港。醤油造り。白い灯台は煉瓦で造られ、長いあいだ海を照らしていること。
最初の三つまで、リゼは質問をしながら聞いていた。
四つ目の途中で、返事がなくなる。
「それから、灯台に使われているレンズは――」
セラが隣を見る。
リゼの頭は、列車の揺れに合わせてゆっくり傾いていた。窓へ近づき、離れ、もう一度近づく。
こつん。
角ではなく、額が窓へ当たった。
「ふあ、……起きています」
「窓に頭をぶつけていましたよ」
「……景色を近くで見ていました」
「目を閉じて?」
リゼは窓硝子に残った、自分の額の跡を見た。
「……少し、休んでいたかもしれません」
「銚子へ着くまで、まだ時間があります。眠った方がよいでしょう」
「観察が……」
「海が見えたら起こしますよ」
リゼは窓の外を見た。家と畑のほかに、まだ青いものはない。
「見落としませんか?」
「まあ、善処します」
「必ず、ではないのですね」
「列車の反対側へ現れたら、わたしにも見えませんから」
リゼは窓を見たまま、しばらく返事をしなかった。
「では、見える範囲でお願いします」
そう言って目を閉じる。
ほどなく、頭がまた窓へ傾いた。セラはリゼの膝からずり落ちかけたパンフレットを拾い、二つ折りにして窓と頭のあいだへ差し込んだ。
今度の音は、紙が小さく擦れただけだった。
◇
「リゼ。乗り換えです」
呼ばれて目を開けると、列車は銚子駅へ入るところだった。頭部を受け止めていたパンフレットの枕が、膝の上へ落ちる。
「海は……」
「わたしに見える側には、まだ」
セラはホームの反対側まで見渡した。リゼはパンフレットを膝へ戻した。
長い列車を離れ、二人は小さな鉄道へ乗り換える。改札の向こうには短い車両が停まり、窓の下には見慣れない広告がいくつも並んでいる。
「ここからは銚子電鉄です。銚子駅と外川駅を結ぶ短い路線で、犬吠駅は終点のひとつ手前。途中には――」
「ぬれ煎餅、と書いてあります」
売店の札には、照りのある煎餅の絵が描かれていた。
「銚子電鉄の名物です。醤油だれへ浸した、柔らかい煎餅です」
「濡れせんべいということは、濡らしてしまったのですか」
「……失敗作ではありませんよ?」
「乾かさないのですか?」
「乾かしません。それが完成です」
「…………魔界の議員のような言い訳に聞こえてしまいます」
リゼは棚に並ぶ袋をしばらく見つめた。
「人間は、ときどき完成の位置が難しいですね」
「……きっと、魔界に言われたくはないと思いますよ」
リゼは一度瞬きをし、唇の端をわずかに上げた。セラは受け取った切符を、すぐには鞄へしまわなかった。
銚子電鉄の車両は、走り始めるとよく揺れた。
民家の近くを抜け、小さな踏切をいくつも越える。線路と家の庭が近く、干された洗濯物や植木鉢が窓の外を流れていく。大きな列車では遠くにあった生活が、ここでは一軒ずつ線路へ顔を向けていた。
駅に停まるたび、扉が開く。
乗る人より降りる人が多くなり、車内へ潮の匂いが混じり始めた。
セラが窓の向こうへ身を寄せた。
「海が近いのかもしれません」
リゼは目を凝らす。建物と建物のあいだに青い色が現れ、ほんの数秒で隠れた。次の隙間からは、白い波が見えた。
「海です」
今度はリゼが言った。
セラは胸の前で小さく息を吐いた。
リゼは鼻先へ手を当てる。
「塩の匂いがします」
「海が近いですから」
「パンフレットには、匂いがありませんでした」
膝の上の紙では、青い海も白い灯台も、朝から同じ色をしている。列車が揺れても、潮の匂いは紙の中へ入っていかない。
「写真には、匂いまでは写りません」
「……では、来なければ分からないことですね」
セラは同意する代わりに、窓の隙間へまた海が現れるのを待った。
リゼはパンフレットを閉じかけ、灯台の写真が見えるところで止める。
「写真を調べて、何をしようとしているのですか?」
セラの問いは、先ほどまでの地理の説明より遅かった。
「悪魔の写真を見た人の気持ちを、精気にしようかと。そうやって悪魔へ届けられないか、考えていました」
「悪魔を、写真に?」
「でも、困ったことに、たぶん人間には角が見えません」
「……普通に撮れば、人間に見える部分だけが残りますね」
セラは窓に映ったリゼの頭と、実際の角を見比べた。
「写真は、人が見た形を記憶するものではありません。対象へ当たり、戻ってきた光を受け取って絵にするんです」
「…………そのはずです。でも、光も角を通り抜けてしまいます」
「……普通の光なら」
セラの説明が一度止まった。窓に映る、角のないリゼへ視線を置き、通信機の発光部を指でなぞる。
「フラッシュの光へ、精気と同じ性質を持つ薄い膜を重ねます。普通の光が角を通り抜けても、その膜なら触れられるかもしれません」
「もしかして、角が光るのですか」
「撮影の一瞬だけ。角に当たった光が、来た方へ戻れば、すぐそばのレンズへ入ります」
リゼは自分の角へ触れた。黒曜石のような艶は、窓に映るリゼの頭から抜け落ちている。
「精気を取られませんか?」
「リゼの精気は取りません。消耗するのは、光へ膜を重ねる側の力です。わたしなら、霊力を、発光する一瞬だけ精気に似た形へ整えます」
「……安全ですか?」
「人の感情から生まれたものではないので、魔核の糧にはなりませんし、吸収もされないでしょう。角へ触れるための真似にすぎません」
リゼは角を撫でていた指を下ろした。膝の記録帳は、まだ白い頁を開いている。
「触れた光は、カメラに戻りますか?」
「そこまでは分かりません。輪郭に沿って戻るか、散ってしまうか。試してみなければ」
「分からないのですね」
「まだ、仮説です」
セラの指は、通信機の発光部で止まった。
「旅館へ着いたら、試しませんか」
「そうですね。……人目のない場所で、強さを抑えて。一度だけなら」
リゼは記録帳へ、〈光に精気をまとわせる〉と書いた。隣へ、迷ってから〈角は光を返すかもしれない〉と続ける。
「精気ではなく、似せた霊力です」
セラの指した箇所へ、リゼは小さく〈ではない〉と書き足した。
「写真を媒介に精気を生み出し、それを悪魔に食べてもらうのですよね」
「そうです。好きだとか、きれいだとか。そういう気持ちも、少しなら食べられたことがあります」
「……そう、ですか」
「…………皆のお腹を満たすには、全然足りません」
列車が曲がり、窓の中で海が傾いた。
セラの指は、膝の上の地図で犬吠駅の手前を覆っていた。
「それでリゼは、繰り返し見てもらえそうな写真を、調べているのですね」
「……一度見た写真を、もう一度見てもらえるかは分かりません」
「……今日、灯台を見て。どうして行きたいと思ったのかを調べている?」
リゼはパンフレットを開き直した。
「それもあります」
灯台の白い壁を、指の腹でなぞる。
「あとは、行ってみたかったのです」
「ふふ。研究だけではなかったのですね」
「はい。旅行ですので」
今度は、窓の中の海を二人で見た。
◇
犬吠駅の外へ出た途端、海からの風が二人の髪と外套を持ち上げた。
駅舎の向こうに空が広い。海そのものは建物に隠れているが、潮の匂いと、遠くで崩れる波の音が届いていた。
セラは観光案内所でもらった地図を開く。
「まず宿へ荷物を預けましょう。そこから海沿いを歩いて、時間があれば――」
リゼが歩き出さない。
駅前の道から、細い路地が分かれていた。その奥に、古い赤い暖簾が下がっている。店の看板は日に焼け、最初の一文字がほとんど読めない。磨り硝子の引き戸にも油の跡が残っていた。
見るからに古い、小さなラーメン屋だった。
そこから、醤油と脂の匂いが流れている。
リゼの顔は暖簾へ向いたままだった。
「……リゼ。宿は、反対側ですよ」
「分かっています」
「足は分かっていないようですが……」
リゼは自分の靴を見た。確かに、爪先は暖簾へ向いている。
「調査の途中で空腹になると、判断を誤るかもしれません」
「朝食は、魔界で食べてきたのでは?」
「薄かったので、お腹の中にはもういません」
「……そう」
観光案内の地図には、その店の名前はない。海鮮料理の店なら、駅の反対側にいくつも印がついていた。
セラは時計を見てから、地図を見た。暖簾を見る。もう一度、地図へ戻る。
「銚子まで来て、最初にラーメンですか」
「よい匂いがします」
「……旅行の予定には入っていませんよ?」
「セラ。予定にないところへ入るのも、旅行なのでしょうか」
セラの親指が、地図にある海鮮料理の印を隠した。
暖簾が風に持ち上がり、醤油の匂いがセラにも届いた。
「……旅行です」
「では、行きましょう」
リゼは凛々しく暖簾をくぐった。
セラは地図の折り目を一つ間違え、開き直してから、そのあとに続いた。
◇
店の中には、カウンターが六席と、小さな卓がひとつあった。
客はいない。奥で鍋を見ていた店主らしき老婆が顔を上げ、短く「いらっしゃい」と言った。二人であることを指で示すと、カウンターの端へ水が二つ置かれる。
壁の品書きは多くなかった。
醤油ラーメン。塩ラーメン。大盛り。チャーシュー追加。
リゼは一番上を指した。
「こちらを、二つお願いします」
店主は頷き、鍋へ向かった。
「……わたしも同じものなのですか」
隣から聞こえた声に、リゼの指が品書きから浮いた。
「違うものがよかったですか?」
「先に訊かれると思っていました」
リゼは品書きへ指を戻し、醤油と塩の文字のあいだを一度往復した。
「塩も、あります」
「……ちょうど醤油が食べたかったので、大丈夫です」
湯の沸く音が、会話の続きを引き取った。
店主は冷蔵庫から透明な袋を出し、中の麺を鍋へ入れた。別の容器から濃い液体を丼へ注ぎ、湯で伸ばしている。
セラの眉がわずかに動いた。
「どうしました」
「麺は、市販の生麺ですね」
リゼは湯の中でほどける麺を想像した。
「スープも、既製のものを使っているように見えます」
「同じ味になりますか?」
「……大きくは外れにくいでしょうけど」
テーブルに置かれた水差しが、結露を辿って板面を濡らす。
表面張力でぷくりと膨らんだ水を、指で引き延ばす。遊んでいるうちに、引き延ばした先にあったパンフレットに気づき、濡れる前に引き上げて膝の上へ置いた。
その間も、セラの話は続いていた。
「――なのですが、せっかく観光地まで来たのですから、その土地でなければ食べられないものを選ぶ方が――」
丼が二つ、カウンターへ置かれた。
醤油の黒いスープに、細い麺。海苔。ねぎ。ゆで卵が半分。そして、表面を炙った厚いチャーシューが二枚載っている。
「お待ちよ」
店主はそれだけ言い、奥へ戻った。
リゼは、本で読んだ人間界の作法にならい、両手を合わせた。
「いただきます」
まずスープを飲む。
醤油が濃く、脂が舌へ残った。魔界の精気とは違う重さがあり、温度と塩気が喉を通っていく。
「おいしいです」
「……まあ、悪くはありません」
セラも慎重にスープを飲んだ。
「ただ、やはり味に意外なところがありません。麺も普通で――」
次に、チャーシューを一口かじる。
続くはずだった批評が消えた。
箸で断面を見て、もう一口食べる。立ち上がりかけた膝がカウンターの下へ当たり、鈍い音を立てた。
「――え、なにこれ。おいし……」
奥にいた店主が振り返る。
セラは口元を手で隠していた。目だけが大きく開いている。脂は柔らかいのに肉の形が残り、外側の焦げた醤油が、噛むたびに香った。甘さは強くなく、スープへ沈めても味がぼやけない。
「これだけ、別の店の料理みたいです……」
「セラが、とても褒めています」
「聞こえてるよ」
店主は無愛想な顔のまま答えた。
「チャーシューだけは、うちで朝から煮てる」
「麺とスープは?」
「リゼ」
セラが止めた。
店主は答えず、鍋へ向き直る。肩だけが一度揺れたので、怒ってはいないようだった。
リゼもチャーシューを食べた。
目が丸くなる。飲み込んでから品書きを見上げ、財布の中の小さな仕切りを指で確かめた。
「追加するべきでは?」
「帰りの運賃は分けてあるのですよね」
「そこへは触れません」
「夕飯もありますから、一皿だけなら」
追加したチャーシューを、二人で分けた。
セラは麺とスープへ小さな批評を続けたが、チャーシューを食べる時だけ黙った。そのたび、さっきまでの言葉がきれいに途切れる。店主は奥を向いたまま、何も聞いていない顔をしていた。
丼が半分ほど空いたところで、セラがリゼの箸を見る。
「悪魔も、人間の料理を食べるのですね」
「食べられます」
「魔界の食事とは違うのでしょう?」
「味は、分かります。一時的には満腹にも感じます。でも、身体を保つ精気にはなりません」
「では、命を養う食事にはならない」
リゼは首を縦に振った。
セラは追加皿に残った最後の一枚を見た。
「それでも食べるのですか」
「おいしいので」
短い答えのあと、鍋の湯が店の奥で鳴った。
セラはチャーシューを半分に分け、大きい方をリゼの皿へ置いた。
リゼは二つの大きさを見比べた。言葉をつむごうと唇が開きかけ、先に大きい方を食べる。
人間の料理は魔核を支えないが、チャーシューの時だけ箸は止まらない。リゼは譲られた一切れを噛み終えるまで、記録帳へ手を伸ばさなかった。
◇
店を出ると、潮の匂いが戻ってきた。
セラは地図を開き直し、折り目を正しく合わせる。
「今度こそ、宿へ向かいます」
「先ほどのチャーシューは、どのように作るのでしょうか」
セラは路地の真ん中で足を揃えた。
「たしか、豚肉の部位ごとに違います。表面を焼いてから、醤油、酒、砂糖、香味野菜などを合わせた煮汁で――」
「セラ。あそこに魚がいます」
「……まだ作り始めてもいません」
道の脇に、小さな池があった。
石の縁に囲まれ、水面には午後の空が映っている。赤や白の鯉が何匹も泳ぎ、人影が近づくと一斉に寄ってきた。
リゼは池の前へしゃがんだ。
一匹の赤い鯉へ指を向ける。鯉は水面近くまで上がり、口を丸く開けた。
指を右へ動かすと、鯉も右へ曲がる。
左へ動かす。
今度は白い鯉がついてきた。
「別の子になりました」
「鯉は人が来ると、餌をもらえると思って集まることがあります。赤い個体は、おそらく緋鯉ですね」
「この子は、金色です」
白い鯉の後ろから、別の鯉が水面へ上がっていた。
セラは説明していた個体を見失い、金色の背を目で追う。
「……今度は金色ですね」
「こちらを見ています」
「餌を待っているのでしょう」
リゼは指を水面の上で止めた。
鯉たちは、何も落ちてこないと分かるまで口を開けていた。やがて一匹ずつ向きを変え、池の奥へ戻っていく。最後まで残った金色の鯉も、尾を一度揺らして離れた。
「行ってしまいました」
「餌を持っていませんから」
「期待させてしまったでしょうか」
「指を動かしただけです。そこまで責任を負わなくても――」
リゼは池の脇にある小さな札を見つけた。〈魚の健康管理のため、餌を与えないでください〉と書かれている。
「与えてはいけません」
「ふふ。わたしの説明より先に、答えがありましたね」
セラは言いかけた言葉を引き取り、地図の裏へ目印をつけた。
リゼも記録帳を開く。〈鯉の餌は与えない〉と書き、その下へ〈チャーシューは煮汁で〉まで記した。
続きの空白を残して帳面を閉じる。
池から宿までの道では、二人とも何度か足を止めた。
海が道の切れ目から見えるたび、リゼはパンフレットと見比べた。白い欄干へ薄く残る塩。土産物店の軒下で回る小さな風車。郵便受けの上に寝そべる猫。どれも観光案内の写真にはなく、記録帳へ入れるほどの発見でもなかった。
パンフレットの地図なら、池から宿までは指一本でなぞれた。
紙では隣り合っていた駅と海と宿のあいだに、坂と風と、立ち止まる理由がいくつも挟まっていた。
◇
海沿いの旅館は、駅前の建物より古く見えた。
玄関の木は潮風で色が薄くなり、軒下の金属には白い跡が浮いている。けれど引き戸の硝子は磨かれ、石畳には打ち水がしてあった。建物の向こうから、波の音が絶えず聞こえている。
セラが受付を済ませるあいだ、リゼは玄関の内側で待った。
靴を脱ぐ場所。荷物を預ける場所。館内で履くもの。夕食の時間。朝食の時間。風呂の扱い。
仲居が一つずつ説明し、セラが必要なところで問い返す。リゼも隣にいたが、四つ目からは海の音を聞いていた。
「リゼ」
呼ばれてセラと仲居の方へ顔を戻す。
「リゼ。夕食は何時でしたか?」
「……夜です」
「聞いていませんでしたね」
「セラが聞いていましたので」
仲居の頬に、堪えた笑いの跡が浮かんだ。
セラはすぐに説明を繰り返さず、館内案内の紙に書かれている夕食の時刻を丸で囲んだ。それをリゼのパンフレットへ挟む。
「この印より前に、部屋へ戻ってください」
リゼは丸と時計を見比べた。
「分かりました」
部屋は二階の端にある。
襖を開けると、畳の匂いがした。低い卓と座椅子。床の間には花が一輪だけ生けられ、窓の向こうには海が広がっている。白い波が岩へ当たるたび、硝子は音のない震えを返した。
さらに奥の戸を開けると、小さな露天風呂がついていた。湯気の向こうにも、同じ海がある。
リゼは部屋と風呂を見比べた。
「これは、高い部屋では?」
「金額は教えませんよ」
「やはり、高いのですね」
「人目を気にせず休める場所が必要でしたから」
セラは背中へ片手を回した。見えない翼の根元に触れる仕草だった。
リゼも角へ触れる。
「人間には見えません」
「見えないことと、気にせず休めることは別です」
荷物を置き、低い卓へパンフレットを広げる。青い海。白い灯台。坂道。夕暮れの温泉街。窓の外には同じ海がある。けれど写真より音が大きく、同じ青のままでは一度も止まらない。
セラは灯台の説明欄を指でなぞった。
「灯台の参観は、もう終わっています」
「……では、入れないのですね」
「今日は無理です。明日の朝なら登れます」
リゼはパンフレットの白い塔を見た。
「灯台は、閉まると止まってしまうのでしょうか」
「いいえ」
セラの指が、塔の上にある小さな光へ移る。
「むしろ夜の方が、きちんと働いています」
紙の中の灯台には昼の光が当たり、灯火は白い点にしか見えない。
「では、夜に行きましょう」
「……中には入れませんよ?」
「灯台へ入るために来たのではありません。写真の場所へ来たかったのです」
セラはパンフレットからリゼへ目を移した。リゼの指は、白い塔の写真に残っている。
「夕食のあとがよいです。暗くなってから、働いている灯台を見ます」
「灯台は、ここから歩ける距離です。夜道ですから、行くときは地図はこちらで持ちます」
リゼは記録帳へ、〈夕食後、灯台〉と書いた。
文字の横へ丸をつけ、先ほど挟まれた館内案内の丸と見比べる。さらに、帰る時刻を書き込む余白を作った。
「戻る時刻は、わたしが見ます」
セラは地図から顔を上げた。
「夕食の時刻は、聞いていなかったのでは?」
「丸は見ました」
リゼが示した紙には、仲居のつけた丸が残っている。
「遅れた時は、旅館へ連絡もします。ご飯のあとに行って、見たら戻りましょう」
「では、時刻はお願いします。道はこちらで」
地図と記録帳が、卓の左右へ分かれた。
紙の上で、夕食と灯台が初めて同じ一日の中へ収まった。
◇
灯台の時刻を決めると、リゼは記録帳の前の頁を開いた。
〈光へ、精気に似せた霊力の膜〉
〈角は光を返すかもしれない〉
セラは通信機を取り出した。窓の厚いカーテンを閉め、襖の白い面を背景に選ぶ。戻る光が、ほかの色と混ざらないようにするためだった。
発光部へ人差し指を添える。指先からほどけた白い霊力が、硝子の内側へ薄く広がった。発光する一瞬だけ、精気と似た性質を持たせる。
「最初は、できるだけ弱くします。痛みや違和感があれば、すぐに言ってください」
リゼは襖の前へ立った。
通信機を向けられると、背筋が自然に伸びた。顎も上がる。
「撮ってもよいですか?」
問いが部屋へ置かれたまま、セラの指は動かない。
リゼは角へ触れてから、手を身体の横へ戻した。
「はい。撮ってください」
白い光が、部屋を一度だけ平らにした。
襖。畳。浴衣の入った籠。リゼの輪郭。そのすべてが影を失い、次の瞬間には元の色へ戻る。
リゼは角の根元を確かめた。硬さも重さも、先ほどまでと変わらない。
セラは通信機の画面へ顔を寄せた。
「一本です」
「一本?」
画面では、右の角だけが白い縁を残していた。左側には輪郭の代わりに、襖へ溶けた光の斑がある。
「反射の向きを読み違えました。左の光が、レンズから外れています」
リゼは顔を右へ向けた。
「こうでしょうか」
「それでは、左の角がもっと遠ざかります」
リゼは正面へ戻った。セラも通信機の位置を下げ、発光部を覆う霊力をほどいた。
「セラ。もう一度――」
「いいえ。念のため、時間をおいて。害がなかったかだけは確認しなければなりません」
セラの指が発光部から離れた。
「そうでした。今日は、ここまでにします」
リゼは一本だけ角のある写真と、通信機の向こうにいるセラを見た。
「もう一度は、危険ですか」
「同じ強さなら、先ほど以上の反応は起こらないと思います。ですが、念のためです」
リゼは右の角だけが写った画面を、もう一度確かめた。
「では、普通に一枚。お願いします」
画面の中に、人間界の服を着たリゼがいる。人間に見える顔。その頭上にあるはずの角は、レンズ越しでは写らない。
リゼは画面へ顔を近づけた。
「……リゼ。なぜ二枚とも、撮る瞬間に顎を上げるのですか」
「凛々しく写ろうとしました」
「……まあ、確かにきれいに撮られたい気持ちは分かります」
「セラには、どう見えますか?」
訊かれたセラは、写真と本人を二度見比べた。
「……力が入っています」
「凛々しくは?」
「そこまでは、まだ」
リゼは記録帳の〈かもしれない〉を消さず、その下へ〈二度目、霊力なし〉と書き足した。
リゼのペンは、〈凛々しい〉と書く場所を見つけられずに頁の端へ退いた。
「……続きは、夜の灯台で撮りましょう」
セラは通信機を伏せて卓へ置いた。画面には、凛々しくなりきれていない少女の写真が残っていた。
◇
温泉へ入る前に、リゼは一階の廊下で卓球台を見つけた。
緑色の台の中央に網が張られ、壁の籠には白い球と木のラケットが入っている。横の札には、三十分ごとの予約制と書かれていた。
リゼの手が予約表の鉛筆へ伸びる。
鉛筆へ届く前に手を引き、後ろにいるセラへ顔を向けた。
「これは、何をする台ですか」
「卓球です。小さな球をラケットで打ち、中央のネットを越して相手側へ入れます」
説明はそこで終わらず、得点とサービスの話へ続きかけた。
「セラも、なさいますか」
セラは予約表と、鉛筆を持たずに待つリゼを見た。返事までに一拍あった。
「一度だけなら」
リゼは予約台帳の空いている項へ、二人分の印をつけた。
最初の一球は、ラケットの縁に当たり、真横へ飛んだ。白い球が壁へ当たり、床を跳ね、廊下の隅へ転がっていく。
「いまのは練習です」
「そういうことにしましょう」
二球目はネットへ当たった。
三球目で、ようやくセラの側へ入る。
セラは軽く打ち返した。リゼは慌ててラケットを振り、空を切る。
「一点です」
「まだ返し方を教わっていません」
セラは白い球を掌へ載せた。
「ここまでは練習にします。リゼ。次から数えましょう」
「……では、次は当てます」
四球目から、リゼの目が変わった。
球を追い、台へ落ちる位置を待ち、ラケットの中央へ当てる。返球は高い。けれど一度続けば、次は少し低くなる。
五往復。
六往復。
セラが右へ打つと、リゼも右へ動く。左へ送れば、卓の端まで腕を伸ばす。
「覚えるのが早いですね」
「――悪魔ですのでっ」
「悪魔は卓球が得意なのですか――せい!」
「いま、得意になりました!」
リゼが強く打った。
球は台の角へ落ち、予想より高く跳ねる。セラのラケットを越し、背後へ飛んだ。
「一点です」
リゼは胸を張った。
「練習は終わっていたので、今から一対零ですね」
「……ずるいですよ」
「変えたのはセラです」
「練習だと異議を出したのはリゼです」
セラの唇の端が上がる。
試合はそのまま続いた。
リゼは球を返せるようになるほど、台へ近づいていった。短い球を拾おうと前へ出て、次の高い球へ顔を上げる。
こつん。
球が、右の角へ当たった。
人間には見えない黒曜石の角で方向を変え、ネットを越してセラの台へ落ちる。
セラは呆然と見送った。
リゼも、自分の角を押さえる。
「……一点でしょうか」
「違います」
「向こうへ入りました」
「ラケットで打っていません」
「頭を使いました」
「言葉の意味が違います」
セラは言い切ったあと、顔を背けた。肩が小さく震えている。
リゼの手は角に残ったままだった。
「笑っていますか」
「笑っていません」
「こちらを見て言ってください」
「少し待ってください」
セラは球を拾いに行った。戻ってきても、まだ口元を手で隠している。
角へ残ったリゼの手を見て、セラの笑いが遅れて引いた。
「すみません、リゼ。ふふ。角を笑ったのではありませんよ」
「……では、何を?」
「頭を使った、という言い方を」
リゼは角から手を下ろした。
「だって。言葉通りです」
「ええ。ですから、そこがおかしくって、つい」
セラは次の球を差し出した。リゼは受け取り、角へ上がりかけた左手をラケットの柄へ戻す。
三十分後、卓球台の予約札を返しに来た二人は、空いた次の欄を見た。
リゼは鉛筆へ手を伸ばさず、セラを見る。
セラが先に鉛筆を取った。
もう三十分、という言葉は、言わずとも伝わり合っていた。
◇
部屋へ戻る頃には、二人とも身体が熱くなっていた。
セラが窓を開ける。潮風が畳の上を通り、卓球で熱くなった頬を冷ました。白い波が岩へ砕け、海は着いた時より暗い青へ変わっている。
「先に温泉へ入りましょう」
リゼは着替えの籠を持ち上げた。
「その前に身体を洗います。髪は湯船へつけないでください。タオルも――」
「温泉にも、説明は十までありますか」
「あります」
「三までは聞きます」
「……最初から諦めないでください」
硝子戸の向こうでは、湯気が海風にほどけていた。人目のない部屋なので、リゼは角を気にせず髪を上げられる。
セラは背中へ手を回しかけ、そこで止めた。
「翼を出してもよいですか」
リゼは硝子戸までの幅を測るように、狭い洗い場を見た。
「こちら側へ来なければ」
「壁の方へ畳みます」
白い翼が開き、約束した側へ高く畳まれた。羽先が夕方の光を受け、風に細かく揺れる。リゼは湯へ足先を入れた。
熱い。
一度引き、もう一度入れる。今度は膝まで沈み、石の縁を両手でつかんだまま、時間をかけて肩まで入った。長い息が、湯気の中へ抜ける。
「この温泉は塩分を含んでいて、湯上がりも身体が冷えにくいそうです」
セラは壁に掛けられた説明札を読んでいた。
「疲労にもよいと書いてあります。それから――」
「卓球にも効きますか」
「筋肉の疲労には」
「では、もう一度できますね」
「くふ。回復した分をすぐ卓球へ戻すんですか」
セラも湯へ入る。
翼が狭い風呂の半分を占めた。羽先が湯面へ触れそうになるたび、背中へ寄せる。リゼは邪魔にならないよう反対側へ詰めた。
「翼は、重くないのですか」
「普段は気になりませんが、こういう場所では、とても気になりますね」
「畳めないのですか?」
「……これ以上は無理です」
セラは自分の翼を見た。
「リゼの角は、場所を取りませんね」
「立派になれば、もっと取ります」
「それは、おめでとうございます?」
「ありがとうございます」
リゼは誇らしげに顎を上げた。後頭部が石の縁へ当たり、かこんと間抜けた音がする。
セラは笑いを噛み殺しかけた。
「……いまの音は、聞かなかったことにします」
「……お願いします」
湯気の向こうで、セラが笑った。
リゼは角へ手を上げず、石へぶつけた後頭部を押さえて笑い返した。
波の音は途切れない。
温泉の効能について、セラはもう説明していなかった。
◇
湯上がりには、二人とも旅館の浴衣へ着替えた。リゼの帯は、胸のすぐ下まで上がっていた。自分では左右も揃い、よく締まっているつもりだった。
セラが帯とリゼの顔を交互に見る。
何も言われないので、リゼも見返した。
「少し、直しても?」
リゼは返事の代わりに両腕を上げた。
帯が正しい位置まで下ろされる。背中へ回った布が締まり、結び目が整えられていくあいだ、リゼは窓硝子に映るセラの手を見ていた。
駅では、その手に剣がないことを確かめた。いまも硝子越しに動きを追っている。ただ、指が帯を離れないあいだ、旅行鞄へ手は伸びなかった。
結び目がどの形になるのか気になって、一度だけ首を動かす。
「動くと曲がります」
リゼは正面へ戻った。
結び終わると、窓硝子へ自分を映す。右と左を確かめ、顎を上げかけたところで、後頭部の痛みを思い出して止めた。
「凛々しいでしょうか」
「温泉旅館で、そこまで凛々しさを求めなくてもよいと思います」
「では、温泉らしいですか?」
「まあ、その方が近いですね」
リゼは帯の左右をもう一度確かめ、両腕を下ろした。
低い卓の端には、受付でセラが借りてきた小さな箱が置かれている。卓球の予約札を返した時、貸出品の一覧からリゼが見つけたものだった。
箱を開く。
中には、色鮮やかな札が重ねられていた。
「花札です」
セラは札を卓へ並べた。
「一年を十二の月に分けて、それぞれの月を四枚の絵で表します。二人で遊ぶなら、手札を八枚ずつ。場にも八枚――」
「絵で戦うのですか?」
「いえ、戦うというより、同じ月の札を合わせて取ります。集めた札で役を作り、点を――」
「やってみたいです」
セラの指は、山札の一番上をつまんだまま動かなかった。
「説明がまだ途中です」
「八枚ずつ。同じ月を取る。役を作る」
「三つしか聞いていませんよ」
「三つで始められます」
「……否定しきれないところが、悔しいです」
セラは口を開きかけ、札へ目を落とした。山札の角を、親指が一度撫でる。
「では、始めながら続けます」
◇
最初の勝負は、説明の続きから始まった。
絵だけを見ても、どれとどれが同じ月なのかリゼには分からない。セラは札を取るたびに月と名前を教え、違いを説明した。
リゼは最初の二巡、教えられた通りに札を出した。
三巡目、セラの目が桜に幕の札へ二度戻った。
リゼはそれを先に取る。
「……いま、わたしの目を見ていましたね」
「札も見ています」
「どちらを多く?」
「セラが困る方です」
悪事として答えたリゼは、桜の札を自分の側へ寄せた。
セラは山札から一枚引く。欲しい月ではなかったらしく、場へ置く音が強かった。
その音を聞いて、リゼは記録帳を引き寄せる。
「写真も、このように取り合うものへ入れたらどうでしょうか」
「研究の話へ戻るのですね」
「写真は見てもらえます。でも、見たあとに置かれてしまいます。この札は、セラが欲しがりました」
「役に必要だったからです」
「必要なら、何度も見ます」
リゼは、先ほど撮った写真のある通信機へ目を向けた。
「角の写真を、トランプへ貼ります」
セラは札を出しかけた手を止める。
「……同じ数字は四枚あります。一枚の写真を四分割するんですか?」
「じゃあ、同じ悪魔を、四方向から撮ります」
「正面、横、後ろ。それで三枚です」
「もう一枚は、凛々しい角度です」
セラは卓上の通信機へ目をやり、手札で口元を隠した。
「そこだけ、撮り直しが必要ですね」
リゼはしばらくセラを見た。角へ上がりかけた手は、途中で札へ下りた。
勝負は続いた。
セラが猪の札を取る。リゼの視線が、その札を追った。
「欲しかったのですか」
「鹿と蝶を持っていますので」
「集めると?」
「猪鹿蝶という役になります」
「では、その三匹は何度も名前を呼ばれるのですね」
「遊ぶ人なら、覚えるでしょう」
リゼは記録帳へ、〈名前を呼ぶ〉と書いた。
書いているあいだに、セラは役を完成させた。
「猪鹿蝶です。こいこい」
「え……既に勝っているのに、続けるのですか?」
「リスクはありますが、さらに役を増やせます。失敗すれば、リゼが勝つ可能性もありますよ」
リゼは札の向こうから、セラの顔を見た。
「くく……危険な遊びですね」
「……そういう時だけ、悪魔らしい顔になりますね」
◇
「そういえば、魔界にも、札の遊びがありますね」
「おお、どのようなものなんですか?」
「議事堂おじさん決闘札、という遊びです」
セラの手は、取ろうとしていた札の手前に残った。
「……すみません、もう一度、お願いします」
「議事堂おじさん決闘札遊び」
「聞き間違いではなかったのですね」
リゼは札を重ねながら説明した。
「歴代議員の肖像が札になっています。予算案を通したり、委員会で追及したり、相手の不祥事を公開したりします」
「子供向けですか?」
「初級攻略本は、図書館の低い棚にあります」
「答えになっていないような……」
「写真を議事堂おじさんの上へ貼れば、すぐに使えます」
「歴代議員の顔を隠してよいのですか?」
「古い悪魔なので、たぶん気づきません」
「そういう問題ではありません」
勝負の終わりには、札を取る音より相談の声の方が多くなった。
写真をトランプへ貼る。チェスの駒へ巻く。議事堂おじさんの顔へ重ねる。花札の絵の中央へ小さな写真を貼り、隠れた花を周囲へ描き直す。
どの案も、写真を見せるところから始まり、遊び道具の方を作り直すところへ着いた。
「それなら、新しい札を作った方が早くありませんか」
セラが言った。
リゼは写真を貼る場所のない松の札を見た。
「……一理あります」
けれど、何を描くかは決まらない。写真を貼らない、という結論にもならなかった。
卓の上には札と記録帳が広がっている。〈写真〉から引かれた線は、頁の端で行き場を失っていた。
夕食までは、まだ一時間半ほどある。
「もう一度、温泉へ入りませんか」
リゼが言った。
「先ほど入りましたよ」
「料金は増えません」
「そういう基準で入るものでは……」
セラは窓の向こうに立つ湯気を見た。札へ戻り、もう一度湯気を見る。
「……入りましょうか」
リゼは記録帳を閉じた。
◇
二度目の温泉では、セラも壁の説明札を見なかった。
翼を畳んで湯へ入り、石の縁へ背を預ける。リゼも反対側で肩まで沈んだ。夕方の光は薄くなり、海の色が青から灰色へ変わり始めている。
白い翼は壁側へ畳まれていた。羽先がリゼへ触れないだけの幅を残し、湯気がその上を行き来している。
「写真は、見せるだけでは足りませんね」
セラが湯面を見ながら言った。
「遊んでもらいます」
「遊ぶなら、欲しい札と、要らない札ができます」
「取られたくない札も」
そこで言葉が切れた。
湯へ落ちた雫が、二人のあいだに輪を作る。広がった輪は羽先へ当たり、形を崩して消えた。
リゼは湯の中で指を開いた。掌へ水が入り、閉じると隙間から逃げていく。
「温泉は、どうして身体が軽くなるのでしょうか」
セラは考え、壁の札を見ないまま答えた。
「温熱で血流がよくなることや、浮力で関節や筋肉へかかる負担が減ることが――」
「セラ」
「何でしょう」
「わたしには、血がありません」
説明は、血流という言葉の先へ進まなかった。
セラは湯の中のリゼを見る。続きを探しかけた唇が、そこで閉じた。
「……そうでした」
「でも、身体は軽くなっています」
「では、別の理由です。精気でできた身体に温泉がどう作用するのかは、わたしにも分かりません」
「温泉は、悪魔にも効きます」
「効いたという感想だけ、先に出ましたね」
「気持ちがよいので」
セラは反論せず、肩をもう少し湯へ沈めた。白い翼の付け根から力が抜け、羽先が水面へ近づく。
「翼も浮きますか」
「少しは」
「広げれば、もっと軽くなります」
「風呂が全部、羽になります」
「見てみたいです」
「駄目です」
白い翼が背へ寄った。
リゼは湯面へ目を落とし、先ほどまで水を掬っていた指を閉じた。
セラは自分の翼を見た。一拍遅れて、羽を畳んだままの姿勢を直す。
「……全部は無理です。こちら側だけなら」
片方の翼が、湯の上でゆっくり開いた。
白い羽の隙間へ湯気が溜まり、海の灰色が細く切り分けられる。リゼは近くに来た一枚へ指を伸ばしかけ、触れる前に止めた。
「触れますか」
セラが訊いた。
リゼは羽とセラを見比べる。
指先が白い羽へ触れた。一本の中心には細い硬さがあり、その両側は水気を含んでも柔らかかった。リゼは一度撫でる。
セラも翼を畳み直す。羽先がリゼの肩近くで湯を揺らした。
「…………前のことを、もう一度謝ってもよいですか」
リゼの指が、湯の中でまっすぐに揃った。
「もう、謝っていただきました」
「……あの時は、怖がらせたことを謝りました。でも、あなたを観測対象としてしか見ていなかったことは、まだ謝っていません」
白い刃が落ちた時の風は、温泉の熱と一緒には消えなかった。
足元で裂けた影。両手で庇った角。次の一撃がどこへ来るのか分からなかった時間。
「怖かったです」
セラは答えなかった。
「とても」
白い翼が、湯の上で小さく畳まれる。返事の代わりに、セラの両手が膝の上で重なった。
リゼは角へ触れた。湯で温まった指と、硬い角が触れる。
「でも、卓球をしている時は忘れていました」
セラが顔を上げる。
「忘れさせるために、旅行へ来たのではありません」
「分かっています。あとで思い出しました」
「思い出したのですか」
「角に球が当たった時に、少し」
セラは目を伏せた。膝の上で重ねていた指が、一本だけ内側へ曲がる。
「……あの時は、本当にごめんなさい」
「……角を笑ったのではないと、聞きました」
「…………それよりも、前のことです」
リゼはしばらく考えた。
セラは急かさない。翼の先から落ちた湯が、二度、湯面に輪を作った。
「三ぐらいなら」
「三?」
「いまは、三ぐらい許しました。残りは、これから考えます」
セラの眉が上がる。
セラの手は、膝の上から伸びてこなかった。
「分かりました。残りは待ちます」
「忘れることもあります」
リゼは湯の中で指を数えかけ、三本目でやめて笑った。
セラも一拍遅れて笑う。
湯気の中で声が重なったのは一度だけだった。すぐに波音へほどけ、窓の外へ出ていく。
しばらくして、リゼが海からセラへ顔を戻した。
「ところで、キャベツは、いつ丸くなるのですか」
セラの笑いが、途中で息へ戻った。
「……覚えていたのですか」
「葉が重なるところまで」
川はとうに通り過ぎ、昼に見た畑も遠い。けれど、記録帳の〈キャベツ〉は最初の一画だけで残っていた。
セラは石の縁へ座り直した。
「内側の葉が立ち上がり、互いに重なりながら中心を包みます。葉の数が増え、外へ広がるより内側へ巻く力が――」
リゼは聞きながら、海へ目を向けた。
水平線の色が一段暗くなり、遠くで船の灯りが一つ点いた。
「セラ。船です」
説明が、また途中で切れた。
セラは海を見ず、説明していたところへ指を一本立てた。
「あと二つだけ話せば、キャベツは丸くなります」
リゼは海とセラを見比べた。
「船は、まだ見えますか」
「しばらくは」
「では、キャベツを先にお願いします」
セラは説明へ戻った。
船はそのあいだにも少しずつ遠ざかった。話を聞き終えた時には、灯りだけが海の上に残っていた。
それからしばらく、二人は湯へ身を預けていた。船の灯りはさらに遠ざかり、言葉の代わりに波音が戻ってくる。
「…………リゼ」
「……なんですか、セラ」
「……わたしにも、あなたの手伝いをさせてもらえませんか」
「藪から棒ですね。もう十分に手伝ってもらっていますよ」
「……そうではなくて。今日だけの話ではありません」
セラは膝の上で両手を組み直した。旅行のあいだ、柔らかくほどけはじめていた表情に、駅で再会した時の硬さが少しだけ戻っていた。けれど、その目はリゼから何度も逸れた。
「悪魔と手を組む堕天使は、魔界へ悪意の精気を持ち込むことで、飢えた悪魔を武力として抱え込んでいます。それが、天界が堕天使を討ちきれない理由の一つです」
組まれた指に、少しだけ力が加わった。
「あなたの方法が形になれば、悪魔は堕天使だけに頼らず、別のところから精気を得られるようになります。頼る理由が減れば、堕天使の側につく悪魔も減る。……わたしがあなたに手を貸せば、その時を早められます」
「……天界が、戦いやすくなるのですね」
「そうです」
そこまでは、セラの言葉に迷いがなかった。
「少なくとも、天使としてのわたしが魔界を救おうとするのは、魔界のためではありません。天界を救うためで…………」
白い翼の端から雫が落ちた。湯面へ生まれた輪が、二人のあいだでほどけていく。
セラはそこで口を閉じた。
「……天界の事情だけなら、セラは、説明を途中で止めないと思います」
セラの目が、湯気の向こうからリゼへ戻った。
「今日、あなたと一緒にいたことまで、任務だったわけではありません。これからも……仲良くしたいと思っています」
セラの視線が、一度だけ湯へ落ちた。
「それでも、あなたと親しくなることは、天界の利益にもなります。それを分かっていて、わたしはこれからもあなたのそばにいようとしている。……結果として、わたしはあなたを利用することになります」
リゼはすぐには答えなかった。
湯の中で開いていた指を、一つずつ閉じる。
旧門廟を出た朝、眠気を隠し、角がよく見えるように顔を上げた。期待の星は、出発する時にふらついてはならなかった。皆のために人間界へ来た。それでも、パンフレットの白い灯台を指でなぞったのは、リゼ自身だった。
「わたしも、皆のために来ました」
セラが顔を上げる。
「でも、灯台は、わたしが見たかったのです」
列車の中で交わした言葉を、今度はリゼが返した。
「セラは言いました。研究だけではなかったのですね、と」
「……言いました」
「どちらも、本当です」
リゼは、湯気の向こうにあるセラの顔を見た。
「セラも、天界のためにわたしを手伝う。でも、天界のためだけに、わたしと旅行をしていたわけではない。……違いますか」
「……違いません。今日が楽しかったという気持ちは、わたし自身のものです」
「でしたら、平気です」
「……利用されることも、ですか」
「利用されても、平気です。……ただ、今のように、先に教えてください」
セラの組んでいた指が、ゆっくりとほどけた。
「……約束します」
「わたしも、魔界のために、セラに手伝ってもらいます」
湯気の向こうで、セラの眉間に残っていた線が消えた。
「ありがとう、リゼ……」
◇
部屋へ戻ると、卓の上の花札はそのままだった。
記録帳には、写真から伸びた矢印が何本も残っている。
セラは浴衣の袖をまくり、札を集めて切った。リゼは向かいへ座り、湯上がりの髪を乾いた布で押さえている。
「リゼ。夕食まで、もう一戦しませんか」
「……一戦だけですか?」
「ご飯がくるまでです」
セラは時計を卓の端へ置いた。
八枚ずつ手札を配る。
場へ八枚。
山札を中央へ置く。
リゼは梅の札を出す。
セラが場の札と合わせて取る。
セラは萩を出した。
リゼが猪の札を取る。
「取り返しました」
「先ほどの猪と同じ札ですよ」
「ですから、取り返しました」
セラは何か言おうとして、やめた。
勝負は静かに進んだ。
セラが桜に幕の札を取った。
先ほどリゼが取った札だった。
「……その札、また欲しかったのですか」
「役に使えますから」
「先ほどの勝負でも?」
「先ほども、欲しかったです」
「次の勝負でも、欲しいですか」
「役を作るなら――」
セラの声が止まった。札を持った指も、そのまま動かない。
リゼは自分の手札へ目を落とした。先ほど取り返した猪が、こちらを向いている。記録帳の端が持ち上がり、〈名前を呼ぶ〉の文字が覗いた。その文字から、猪の札へ視線を戻す。
二人とも動かなかった。
窓の外で波が崩れた。引いていく音が長く続き、次の波が来る。
「……セラ」
「……」
「写真を、貼らない方がよいのでは?」
セラは桜に幕の札を見た。
「……花札の絵、そのものを」
「悪魔にします」
「取るたびに、名前を呼ぶ」
「欲しがります」
「相手に取られれば、悔しい」
「次の勝負でも、また欲しくなります」
リゼは月の札を見た。
「写真より、何度も」
「見ます」
また、二人とも黙った。
「悪魔を題材にした、札遊び……」
セラが桜の札を表へ返す。リゼは月の札から、その絵へ視線を移した。
「……あ」
リゼが声を漏らした。
「あ」
セラも言った。
二人は同時に顔を上げる。
記録帳の〈写真〉から伸び、頁の端で行き場を失っていた線が、花札の上で先へ続いた。札に描かれた悪魔なら、一度見られて終わらない。勝負のたびに名を呼ばれ、欲しがられ、取られ、取り返される。そのたびに生まれる感情を、同じ悪魔へ何度でも精気として届けられるかもしれない。
「ああ!」
二人の声が強く重なった。
その時、部屋の戸が控えめに叩かれて、仲居が襖を開ける。
「お食事をお持ちしました」