あくまでリーゼはへこたれない。   作:ゆめみる夢見

6 / 6
第6話 悪魔は灯台へまだ着かない

 

 朝の食堂には、昨日までなかった空席がひとつできていた。

 

 生徒がいなくなったわけではない。椅子が一脚、壊れただけだ。

 

 背もたれを失った椅子は、四本の脚を上にして壁際へ退けられている。欠けた器は配膳口の奥で重ねられ、職員が黒い接着剤を縁へ塗っていた。床に残った傷だけは直しようがなく、長卓の下から白い筋が何本も覗いている。

 

 議事堂から届いた濃い精気は、一日でなくなっていた。

 

 今朝の器には、いつもの薄いスープが入っている。匙を沈めると、黒い水面の下から底の紋様が透けた。歓声も怒鳴り声もない。匙が器へ触れる音と、壁際で椅子を直す金槌の音だけが、広くなった空席のまわりへ落ちていた。

 

 リゼは同じところを三度かき混ぜた。

 

「……リゼ。寝てないの?」

 

 向かいの生徒に訊かれ、顔を上げる。

 

「横にはなりました」

 

「目は閉じた?」

 

「本を持っていましたので、閉じると読めません」

 

「……それは寝てないんだよ」

 

 リゼは匙を止めた。昨夜の姿勢を最初から思い返し、わずかに顎を引く。

 

「……そうかもしれません」

 

 向かいの生徒は何か言いかけたが、追及する代わりに自分の器へ匙を戻した。底に残った黒い筋を集める手つきは、昨日までと変わらない。

 

 リゼが夜更けまで開いていたのは、図書館から借りた本の一冊だった。

 

 手で似せる絵とは異なり、対象へ当たって戻った光を受け止める記録がある。写真、と本には書かれていた。本の横に観光パンフレットを並べたとき、青い海も、白い灯台も、その方法で紙の中へ移されたものだと分かった。

 

 読めない字はなかった。ただ、読めることと分かることのあいだには、頁を五ページほど戻らなければならない距離があった。リゼはその距離を夜中に何度も往復した。

 

 食堂の隅では、魔界ラジオが議事堂の発表を読み上げている。応急配給は一定の成果を上げた。軽微な混乱はあった。次回の供給については慎重に検討する。

 

 やがて話題は、プリングルス二世がタケノコ軍へ筒を横流しした疑いへ移った。キノコ軍を推す生徒が鼻で笑い、タケノコ軍の生徒が証拠を要求する。昨日とは違う言い争いが食堂を満たすなか、薄いスープの湯気だけが器の上で静かに揺れていた。

 

 リゼは器を空にした。腹にはほとんど残らなかったが、底まで確かめ、匙を揃える。

 

 向かいの生徒が、壁際の椅子へ目をやった。

 

「昨日のあれ、飲まなくてよかったね」

 

「一口は飲みました」

 

「……じゃあ、その変な返事は前からか」

 

「…………変ではありません」

 

 リゼは背筋を正した。

 

 相手の顔の下半分が、匙を持たない方の手に隠れた。笑われたらしい。そのまま、相手は続けて何か言いかけ、やめた。代わりに口元を手で隠す。

 

 あまりに楽しそうな姿で。悪意は感じなかったので、リゼは許すことにした。

 

 

 ゼルマ教授の部屋には、不在の札が掛かっていた。

 

 呼び鈴の横にある黒い箱へ、丸められた報告書が何枚も押し込まれている。蓋の隙間から議事堂の封蝋が見えた。教授は昨日から、学校と議事堂を往復しているらしい。サリルも朝早くに校外へ呼び出されたと、食堂の職員から聞いていた。

 

 リゼは教授室の前にある記入台へ向かった。

 

 台の上には、黒い許可札が一枚置かれている。表にはリゼの名前。裏にはゼルマの字で、〈行き先、宿泊場所、帰還予定を記録すること〉とだけ記されていた。昨夜、写真調査の申請を箱へ入れておいた。その返事だった。

 

 許可札を胸元へ収め、鞄から薄い封筒を取り出す。

 

 表には、〈人間界で遭遇した天使について〉と書いてある。

 

 白い翼。白銀色の剣。堕天使と誤認されたこと。制圧を中止されたあとも、観測すると告げられたこと。書き上げてから、渡すまでに何日かかかったのかは記録していない。

 

「ご報告が遅くなりました」

 

 不在の扉へ告げ、封筒を黒い箱へ入れた。

 

 続けて、渡航記録の用紙を取る。

 

 名前には、リゼ。

 

 行き先には、人間界、犬吠埼灯台。

 

 目的には、写真および現地の観察。

 

 帰還予定には、明日の夕刻。

 

 最後に、宿泊場所という欄があった。

 

 ペン先は、紙へ触れないまま宿泊欄の上に残った。

 

 観光パンフレットを開き、灯台の周囲を確かめた。海沿いには広場があり、道を挟んだ先には建物が並んでいる。雨が降った時に身を寄せられそうな木陰も、紙の上では二つ見つかった。

 

 リゼは欄へ、〈犬吠埼灯台付近〉と書いた。

 

 用紙を畳んで黒い箱へ入れる。ほかの報告書に当たり、紙が奥へ落ちる音がした。

 

「一泊してまいります」

 

 返事のない扉へ一礼し、旅行鞄を持ち直す。

 

 財布。記録帳。パンフレット。昨夜読み終えた本。着替えは一組。野外で眠るための厚い布も、きちんと丸めて詰めてある。

 

 準備に抜かりはない。

 

 少なくとも、リゼの鞄はそう主張していた。

 

 

 旧門廟の前には、今日も悪魔たちがいた。

 

 柱の根元へ座り込んだ者。壁に背を預け、呼吸のたびに肩を上下させる者。リゼの旅行鞄へ視線を向ける者もいる。

 

 何を持ち帰るのか。

 

 次はいつ食べられるのか。

 

 声にならない問いが、通路の両側から寄せられていた。

 

 リゼは歩幅を変えなかった。黒曜石の角がよく見えるよう顔を上げ、胸元の許可札を確かめてから、骨の取っ手へ手を置く。昨夜ほとんど眠っていないことも、鞄の中身が人間界の食糧ではないことも、ここでは見せない。

 

 期待の星は、出発する時にふらついてはならない。

 

 扉の奥で、鍵が鳴る。

 

 かちり。

 

 リゼの前へ、怖くない暗さが開いた。

 

「行ってまいります」

 

 誰に向けたとも決めずに告げ、扉をくぐった。

 

 

 人間界の駅では、朝の人波が薄くなり始めている頃合いだ。

 

 改札の上に、大きな路線図が掲げられている。色の違う線が何本も交わり、離れ、駅の名前を連れて遠くへ伸びていた。

 

 リゼは柱の前に立ち、パンフレットと路線図を見比べる。

 

 最初の列車は二十分後。そこから東へ向かい、もう一度乗り換えて銚子駅。銚子駅からは別の鉄道へ移り、犬吠駅で降りる。

 

 往復の運賃は足りている。帰りの分は、財布の内側にある小さな仕切りへ分けた。途中で何かを買っても、そこへは手をつけない。

 

 パンフレットの路線図へ指を置いた時、すぐ後ろから声がした。

 

「犬吠埼まで行くのですか」

 

 リゼは半歩離れて振り返った。片手が角へ上がりかけ、途中で旅行鞄の持ち手へ戻る。

 

 そこに立っていたのは、セラだった。

 

 白鷺のように折り畳まれた真っ白な翼が、ふわりと揺れた。

 

 人間の少女と変わらない服を着ている。淡い色の上着に、膝下まである濃紺のスカート。向かってきた人間が、ぶつからないよう二人を避けた。誰の目にもセラの翼はなく、リゼの角もない。

 

「……セラ」

 

 セラの視線が、持ち上がりかけた手へ落ちた。近づきかけていた足を止め、通行人ひとり分の距離を残す。

 

「今日は、制圧をしにきたのではありませんよ」

 

 リゼは両手を見た。

 

「剣も、持っていませんか?」

 

「手に持っていなければ安全、というわけでもありませんが」

 

 旅行鞄の持ち手が、リゼの指の中で細く潰れた。

 

 セラは言い終えてから、自分の言葉を確かめるように口を閉じた。

 

「……失礼しました。いまのは、安心していただくところでしたね」

 

「…………」

 

 駅の放送が、二人のあいだを通り過ぎる。間もなく到着する列車と、黄色い線の内側へ下がるよう告げていた。

 

 セラはもう一歩を詰めず、路線図へ顔を向けた。

 

「犬吠埼灯台へ?」

 

「……写真に写っている場所を、自分で見るためです。明日の夕刻までに戻ります」

 

「……計画を訊いても構いませんか?」

 

 命令の形ではなかった。

 

 リゼはしばらくセラの手を見てから、記録帳を開いた。

 

 列車の時刻。乗り換える駅。片道の運賃。犬吠駅から灯台までの道。帰りに列車を一本逃した場合の次の時刻も書き込んである。

 

 セラは上から順に目を通した。

 

「……本だけで、ここまで調べたのですね」

 

「駅でも調べました」

 

「そうですか」

 

 費用の欄へ来ると、セラの指が数字のない一行を押さえた。

 

「宿泊費がありません」

 

「必要ありません」

 

 リゼは鞄から出た布の端を示した。

 

「野宿しますので」

 

 発車を知らせる音が、遠くのホームで鳴った。

 

 セラは記録帳から顔を上げない。返事がないので、リゼは補足した。

 

「厚い布です」

 

「……布の厚さを考えていたのではありません」

 

 ようやく顔を上げたセラは、角ではなく、リゼの人間に見えている部分を順に見た。肩。腕。旅行鞄を持つ手。

 

「人間には、あなたも少女に見えます。海辺で一人、眠らせてよい相手には見えません」

 

「でも、角は見えません」

 

「角以外は、よく見えているんです」

 

 リゼは自分の袖と靴を見た。先ほどから通行人は、進路が塞がらないよう道を選んで歩いている。

 

「……では、人の少ない場所を探します」

 

「問題を人目から隠す方へ進めないでください」

 

 セラの声が強くなった。リゼの肩が上がる。

 

 セラは唇を引き結び、記録帳を返した。声も、それ以上は強くならなかった。

 

「宿を探します。今日でも受け入れてくれるところなら、まだあるはずです」

 

「……宿泊費が増えます」

 

「野宿よりは増えますね」

 

「厚い布なら無料です」

 

「比べる相手を変えてください……」

 

 セラの返事は、それまでより速かった。

 

 リゼはセラの視線を追った。その先にあるのは角ではなく、鞄から出た布だった。持ち手へ食い込んでいた指が、一本ずつ戻る。

 

「それから」

 

 セラは言葉を区切り、先ほどより声を落とした。

 

「同行しても構いませんか。観測を続けるためでもありますが、人間界の移動や宿のことなら、わたしの方が役に立てます」

 

 リゼはすぐには答えなかった。

 

「剣も抜きません」

 

「……まだ、少し怖いです」

 

 セラの唇が動き、何も言わずに閉じた。否定も、安全だという説明も来なかった。

 

 リゼは記録帳を鞄へ戻した。

 

「でも、野宿をしてはいけないことは分かりました」

 

「そこだけで決めたように聞こえます」

 

「……ほかにも、ちょっとは考えています」

 

 リゼは口を閉じ、ホームへ続く階段を見た。

 

「セラ。同行してください」

 

 セラは一度だけ目を瞬いた。

 

 それから小さな通信機を取り出し、画面を開く。何軒かを見比べ、海沿いにある小さな旅館へ電話をかけた。

 

 今夜、二人。夕食つき。人目を気にせず使える風呂のある部屋。

 

 最後の条件を聞いて、リゼは自分の角へ触れた。セラの背中にも、今は見えないものがある。

 

 電話を終えたセラへ、金額を訊ねる。

 

「今回は、わたしが費用を出します」

 

「……なぜですか?」

 

 セラは通信機の縁を親指でなぞった。

 

「同行を決めたのはわたしです。それに、以前の件もあります」

 

 以前。

 

 白銀色の刃が足元へ落ちた日を指す言葉は、それきり続かなかった。

 

「……あとで半分お返しします」

 

「……受け取りません」

 

「では、何か別の形で」

 

「……分かりました。ただ、いま決めなくて結構ですよ。まずは列車に乗りましょう」

 

 発車案内の時刻が変わる。

 

 セラはリゼの正面を通ってから、階段の方へ身体を向けた。

 

 リゼも歩き出す。二人のあいだには、人一人分ほどの距離が残っていた。

 

 

 最初の列車では、二人とも扉の近くに立っていた。

 

 座席は半分ほど空いている。セラは一度そちらへ目を向けたが、リゼが旅行鞄を両手で抱えたまま動かなかったので、何も言わずに隣へ立った。

 

 扉が閉まり、町が後ろへ滑り始める。

 

 高い建物の隙間へ低い家が増え、線路沿いの壁が途切れると、遠くまで平たい土地が見えた。渡航扉の一歩先から、人間界は物の多い場所だった。けれど窓硝子の外へ押し込められると、それらは触れられない速さで並び替わっていく。

 

「次の駅で、向かいのホームへ移ります」

 

 セラはパンフレットの路線図を開いた。

 

「乗り換え時間は七分。階段は進行方向の後ろ側です。いまのうちに後ろ寄りの車両へ移っておくと――」

 

「あの畑は、何を育てているのでしょうか」

 

 リゼが指した先に、低い葉が幾列も並んでいた。

 

 セラは路線図から畑へ視線を移す。

 

「……おそらくキャベツです」

 

「丸くありません」

 

「まだ育っている途中です。キャベツは最初から丸い状態ではないんです」

 

「では、どの時点で丸くなるのですか?」

 

 質問を受けたセラは、路線図を畳んだ。知っていることを途中で切らないための姿勢に見えた。

 

「外側の葉が広がったあと、内側の葉が重なって――」

 

 列車が高架へ上がり、その向こうに幅の広い川が現れた。

 

「セラ。川です」

 

「……いまはキャベツの説明をしていました」

 

「聞いています。葉が重なるそうです」

 

「まだ、途中です」

 

「ですが、川はもう通り過ぎます」

 

 リゼは窓へ顔を向けたまま答えた。

 

 陽を砕いた水面が、橋脚のあいだで何度も切れる。川岸の草が流れ、遠くの白い建物が一瞬だけ硝子へ重なった。いま見なければ、同じ形では二度と戻らないものだった。

 

 セラの口が開き、閉じる。

 

「……分かりました。川を見てください」

 

 拗ねたように聞こえたので、リゼは振り返った。

 

「あとで続きをお願いします」

 

「覚えていたら」

 

「セラが、ですか」

 

「……はぁ。……そうですね」

 

 列車は川を渡り終えた。

 

 リゼはもう一度キャベツ畑を探したが、窓の外には住宅が戻っている。セラは畳んだ路線図を開き直したものの、キャベツの続きまでは戻さなかった。

 

 次の駅では、言われた通り、進行方向の後ろ側に階段があった。二人は七分のうち三分を残して向かいのホームへ着く。

 

 リゼは記録帳へ、〈階段は後ろ〉と書き足した。

 

「そこは覚えているのですね」

 

「帰りにも必要です」

 

 リゼは書きかけた〈キャベツ〉の最初の一画へ、ペンで書き足そうとした。

 

「…………帰りにもありますか?」

 

「……畑は逃げませんが、育ってしまって、丸くなっているかもしれませんね」

 

 答えになっているような、いないような説明だった。

 

 次の列車では、セラが先に窓側へ腰を下ろした。リゼは立ったまま、空いている隣とセラを見比べる。

 

 セラは通路側へ身を寄せ、座席の奥を空けた。促す言葉はなかった。

 

 リゼは旅行鞄を膝へ載せ、その場所へ座った。二人の袖は触れず、人一人分あった距離だけが、隣り合う座席に収まる幅へと変わっていた。

 

 町並みが途切れる時間は長くなった。田畑の向こうで送電塔が並び、低い雲の下へ細い線を渡している。車輪の音は短く繰り返され、昨夜閉じなかったまぶたの裏へ、同じ間隔で届いた。

 

 セラは犬吠埼について話し始めた。

 

 関東の東端に近い岬であること。沖を流れる海流。漁港。醤油造り。白い灯台は煉瓦で造られ、長いあいだ海を照らしていること。

 

 最初の三つまで、リゼは質問をしながら聞いていた。

 

 四つ目の途中で、返事がなくなる。

 

「それから、灯台に使われているレンズは――」

 

 セラが隣を見る。

 

 リゼの頭は、列車の揺れに合わせてゆっくり傾いていた。窓へ近づき、離れ、もう一度近づく。

 

 こつん。

 

 角ではなく、額が窓へ当たった。

 

「ふあ、……起きています」

 

「窓に頭をぶつけていましたよ」

 

「……景色を近くで見ていました」

 

「目を閉じて?」

 

 リゼは窓硝子に残った、自分の額の跡を見た。

 

「……少し、休んでいたかもしれません」

 

「銚子へ着くまで、まだ時間があります。眠った方がよいでしょう」

 

「観察が……」

 

「海が見えたら起こしますよ」

 

 リゼは窓の外を見た。家と畑のほかに、まだ青いものはない。

 

「見落としませんか?」

 

「まあ、善処します」

 

「必ず、ではないのですね」

 

「列車の反対側へ現れたら、わたしにも見えませんから」

 

 リゼは窓を見たまま、しばらく返事をしなかった。

 

「では、見える範囲でお願いします」

 

 そう言って目を閉じる。

 

 ほどなく、頭がまた窓へ傾いた。セラはリゼの膝からずり落ちかけたパンフレットを拾い、二つ折りにして窓と頭のあいだへ差し込んだ。

 

 今度の音は、紙が小さく擦れただけだった。

 

 

「リゼ。乗り換えです」

 

 呼ばれて目を開けると、列車は銚子駅へ入るところだった。頭部を受け止めていたパンフレットの枕が、膝の上へ落ちる。

 

「海は……」

 

「わたしに見える側には、まだ」

 

 セラはホームの反対側まで見渡した。リゼはパンフレットを膝へ戻した。

 

 長い列車を離れ、二人は小さな鉄道へ乗り換える。改札の向こうには短い車両が停まり、窓の下には見慣れない広告がいくつも並んでいる。

 

「ここからは銚子電鉄です。銚子駅と外川駅を結ぶ短い路線で、犬吠駅は終点のひとつ手前。途中には――」

 

「ぬれ煎餅、と書いてあります」

 

 売店の札には、照りのある煎餅の絵が描かれていた。

 

「銚子電鉄の名物です。醤油だれへ浸した、柔らかい煎餅です」

 

「濡れせんべいということは、濡らしてしまったのですか」

 

「……失敗作ではありませんよ?」

 

「乾かさないのですか?」

 

「乾かしません。それが完成です」

 

「…………魔界の議員のような言い訳に聞こえてしまいます」

 

 リゼは棚に並ぶ袋をしばらく見つめた。

 

「人間は、ときどき完成の位置が難しいですね」

 

「……きっと、魔界に言われたくはないと思いますよ」

 

 リゼは一度瞬きをし、唇の端をわずかに上げた。セラは受け取った切符を、すぐには鞄へしまわなかった。

 

 銚子電鉄の車両は、走り始めるとよく揺れた。

 

 民家の近くを抜け、小さな踏切をいくつも越える。線路と家の庭が近く、干された洗濯物や植木鉢が窓の外を流れていく。大きな列車では遠くにあった生活が、ここでは一軒ずつ線路へ顔を向けていた。

 

 駅に停まるたび、扉が開く。

 

 乗る人より降りる人が多くなり、車内へ潮の匂いが混じり始めた。

 

 セラが窓の向こうへ身を寄せた。

 

「海が近いのかもしれません」

 

 リゼは目を凝らす。建物と建物のあいだに青い色が現れ、ほんの数秒で隠れた。次の隙間からは、白い波が見えた。

 

「海です」

 

 今度はリゼが言った。

 

 セラは胸の前で小さく息を吐いた。

 

 リゼは鼻先へ手を当てる。

 

「塩の匂いがします」

 

「海が近いですから」

 

「パンフレットには、匂いがありませんでした」

 

 膝の上の紙では、青い海も白い灯台も、朝から同じ色をしている。列車が揺れても、潮の匂いは紙の中へ入っていかない。

 

「写真には、匂いまでは写りません」

 

「……では、来なければ分からないことですね」

 

 セラは同意する代わりに、窓の隙間へまた海が現れるのを待った。

 

 リゼはパンフレットを閉じかけ、灯台の写真が見えるところで止める。

 

「写真を調べて、何をしようとしているのですか?」

 

 セラの問いは、先ほどまでの地理の説明より遅かった。

 

「悪魔の写真を見た人の気持ちを、精気にしようかと。そうやって悪魔へ届けられないか、考えていました」

 

「悪魔を、写真に?」

 

「でも、困ったことに、たぶん人間には角が見えません」

 

「……普通に撮れば、人間に見える部分だけが残りますね」

 

 セラは窓に映ったリゼの頭と、実際の角を見比べた。

 

「写真は、人が見た形を記憶するものではありません。対象へ当たり、戻ってきた光を受け取って絵にするんです」

 

「…………そのはずです。でも、光も角を通り抜けてしまいます」

 

「……普通の光なら」

 

 セラの説明が一度止まった。窓に映る、角のないリゼへ視線を置き、通信機の発光部を指でなぞる。

 

「フラッシュの光へ、精気と同じ性質を持つ薄い膜を重ねます。普通の光が角を通り抜けても、その膜なら触れられるかもしれません」

 

「もしかして、角が光るのですか」

 

「撮影の一瞬だけ。角に当たった光が、来た方へ戻れば、すぐそばのレンズへ入ります」

 

 リゼは自分の角へ触れた。黒曜石のような艶は、窓に映るリゼの頭から抜け落ちている。

 

「精気を取られませんか?」

 

「リゼの精気は取りません。消耗するのは、光へ膜を重ねる側の力です。わたしなら、霊力を、発光する一瞬だけ精気に似た形へ整えます」

 

「……安全ですか?」

 

「人の感情から生まれたものではないので、魔核の糧にはなりませんし、吸収もされないでしょう。角へ触れるための真似にすぎません」

 

 リゼは角を撫でていた指を下ろした。膝の記録帳は、まだ白い頁を開いている。

 

「触れた光は、カメラに戻りますか?」

 

「そこまでは分かりません。輪郭に沿って戻るか、散ってしまうか。試してみなければ」

 

「分からないのですね」

 

「まだ、仮説です」

 

 セラの指は、通信機の発光部で止まった。

 

「旅館へ着いたら、試しませんか」

 

「そうですね。……人目のない場所で、強さを抑えて。一度だけなら」

 

 リゼは記録帳へ、〈光に精気をまとわせる〉と書いた。隣へ、迷ってから〈角は光を返すかもしれない〉と続ける。

 

「精気ではなく、似せた霊力です」

 

 セラの指した箇所へ、リゼは小さく〈ではない〉と書き足した。

 

「写真を媒介に精気を生み出し、それを悪魔に食べてもらうのですよね」

 

「そうです。好きだとか、きれいだとか。そういう気持ちも、少しなら食べられたことがあります」

 

「……そう、ですか」

 

「…………皆のお腹を満たすには、全然足りません」

 

 列車が曲がり、窓の中で海が傾いた。

 

 セラの指は、膝の上の地図で犬吠駅の手前を覆っていた。

 

「それでリゼは、繰り返し見てもらえそうな写真を、調べているのですね」

 

「……一度見た写真を、もう一度見てもらえるかは分かりません」

 

「……今日、灯台を見て。どうして行きたいと思ったのかを調べている?」

 

 リゼはパンフレットを開き直した。

 

「それもあります」

 

 灯台の白い壁を、指の腹でなぞる。

 

「あとは、行ってみたかったのです」

 

「ふふ。研究だけではなかったのですね」

 

「はい。旅行ですので」

 

 今度は、窓の中の海を二人で見た。

 

 

 犬吠駅の外へ出た途端、海からの風が二人の髪と外套を持ち上げた。

 

 駅舎の向こうに空が広い。海そのものは建物に隠れているが、潮の匂いと、遠くで崩れる波の音が届いていた。

 

 セラは観光案内所でもらった地図を開く。

 

「まず宿へ荷物を預けましょう。そこから海沿いを歩いて、時間があれば――」

 

 リゼが歩き出さない。

 

 駅前の道から、細い路地が分かれていた。その奥に、古い赤い暖簾が下がっている。店の看板は日に焼け、最初の一文字がほとんど読めない。磨り硝子の引き戸にも油の跡が残っていた。

 

 見るからに古い、小さなラーメン屋だった。

 

 そこから、醤油と脂の匂いが流れている。

 

 リゼの顔は暖簾へ向いたままだった。

 

「……リゼ。宿は、反対側ですよ」

 

「分かっています」

 

「足は分かっていないようですが……」

 

 リゼは自分の靴を見た。確かに、爪先は暖簾へ向いている。

 

「調査の途中で空腹になると、判断を誤るかもしれません」

 

「朝食は、魔界で食べてきたのでは?」

 

「薄かったので、お腹の中にはもういません」

 

「……そう」

 

 観光案内の地図には、その店の名前はない。海鮮料理の店なら、駅の反対側にいくつも印がついていた。

 

 セラは時計を見てから、地図を見た。暖簾を見る。もう一度、地図へ戻る。

 

「銚子まで来て、最初にラーメンですか」

 

「よい匂いがします」

 

「……旅行の予定には入っていませんよ?」

 

「セラ。予定にないところへ入るのも、旅行なのでしょうか」

 

 セラの親指が、地図にある海鮮料理の印を隠した。

 

 暖簾が風に持ち上がり、醤油の匂いがセラにも届いた。

 

「……旅行です」

 

「では、行きましょう」

 

 リゼは凛々しく暖簾をくぐった。

 

 セラは地図の折り目を一つ間違え、開き直してから、そのあとに続いた。

 

 

 店の中には、カウンターが六席と、小さな卓がひとつあった。

 

 客はいない。奥で鍋を見ていた店主らしき老婆が顔を上げ、短く「いらっしゃい」と言った。二人であることを指で示すと、カウンターの端へ水が二つ置かれる。

 

 壁の品書きは多くなかった。

 

 醤油ラーメン。塩ラーメン。大盛り。チャーシュー追加。

 

 リゼは一番上を指した。

 

「こちらを、二つお願いします」

 

 店主は頷き、鍋へ向かった。

 

「……わたしも同じものなのですか」

 

 隣から聞こえた声に、リゼの指が品書きから浮いた。

 

「違うものがよかったですか?」

 

「先に訊かれると思っていました」

 

 リゼは品書きへ指を戻し、醤油と塩の文字のあいだを一度往復した。

 

「塩も、あります」

 

「……ちょうど醤油が食べたかったので、大丈夫です」

 

 湯の沸く音が、会話の続きを引き取った。

 

 店主は冷蔵庫から透明な袋を出し、中の麺を鍋へ入れた。別の容器から濃い液体を丼へ注ぎ、湯で伸ばしている。

 

 セラの眉がわずかに動いた。

 

「どうしました」

 

「麺は、市販の生麺ですね」

 

 リゼは湯の中でほどける麺を想像した。

 

「スープも、既製のものを使っているように見えます」

 

「同じ味になりますか?」

 

「……大きくは外れにくいでしょうけど」

 

 テーブルに置かれた水差しが、結露を辿って板面を濡らす。

 表面張力でぷくりと膨らんだ水を、指で引き延ばす。遊んでいるうちに、引き延ばした先にあったパンフレットに気づき、濡れる前に引き上げて膝の上へ置いた。

 

 その間も、セラの話は続いていた。

 

「――なのですが、せっかく観光地まで来たのですから、その土地でなければ食べられないものを選ぶ方が――」

 

 丼が二つ、カウンターへ置かれた。

 

 醤油の黒いスープに、細い麺。海苔。ねぎ。ゆで卵が半分。そして、表面を炙った厚いチャーシューが二枚載っている。

 

「お待ちよ」

 

 店主はそれだけ言い、奥へ戻った。

 

 リゼは、本で読んだ人間界の作法にならい、両手を合わせた。

 

「いただきます」

 

 まずスープを飲む。

 

 醤油が濃く、脂が舌へ残った。魔界の精気とは違う重さがあり、温度と塩気が喉を通っていく。

 

「おいしいです」

 

「……まあ、悪くはありません」

 

 セラも慎重にスープを飲んだ。

 

「ただ、やはり味に意外なところがありません。麺も普通で――」

 

 次に、チャーシューを一口かじる。

 

 続くはずだった批評が消えた。

 

 箸で断面を見て、もう一口食べる。立ち上がりかけた膝がカウンターの下へ当たり、鈍い音を立てた。

 

「――え、なにこれ。おいし……」

 

 奥にいた店主が振り返る。

 

 セラは口元を手で隠していた。目だけが大きく開いている。脂は柔らかいのに肉の形が残り、外側の焦げた醤油が、噛むたびに香った。甘さは強くなく、スープへ沈めても味がぼやけない。

 

「これだけ、別の店の料理みたいです……」

 

「セラが、とても褒めています」

 

「聞こえてるよ」

 

 店主は無愛想な顔のまま答えた。

 

「チャーシューだけは、うちで朝から煮てる」

 

「麺とスープは?」

 

「リゼ」

 

 セラが止めた。

 

 店主は答えず、鍋へ向き直る。肩だけが一度揺れたので、怒ってはいないようだった。

 

 リゼもチャーシューを食べた。

 

 目が丸くなる。飲み込んでから品書きを見上げ、財布の中の小さな仕切りを指で確かめた。

 

「追加するべきでは?」

 

「帰りの運賃は分けてあるのですよね」

 

「そこへは触れません」

 

「夕飯もありますから、一皿だけなら」

 

 追加したチャーシューを、二人で分けた。

 

 セラは麺とスープへ小さな批評を続けたが、チャーシューを食べる時だけ黙った。そのたび、さっきまでの言葉がきれいに途切れる。店主は奥を向いたまま、何も聞いていない顔をしていた。

 

 丼が半分ほど空いたところで、セラがリゼの箸を見る。

 

「悪魔も、人間の料理を食べるのですね」

 

「食べられます」

 

「魔界の食事とは違うのでしょう?」

 

「味は、分かります。一時的には満腹にも感じます。でも、身体を保つ精気にはなりません」

 

「では、命を養う食事にはならない」

 

 リゼは首を縦に振った。

 

 セラは追加皿に残った最後の一枚を見た。

 

「それでも食べるのですか」

 

「おいしいので」

 

 短い答えのあと、鍋の湯が店の奥で鳴った。

 

 セラはチャーシューを半分に分け、大きい方をリゼの皿へ置いた。

 

 リゼは二つの大きさを見比べた。言葉をつむごうと唇が開きかけ、先に大きい方を食べる。

 

 人間の料理は魔核を支えないが、チャーシューの時だけ箸は止まらない。リゼは譲られた一切れを噛み終えるまで、記録帳へ手を伸ばさなかった。

 

 

 店を出ると、潮の匂いが戻ってきた。

 

 セラは地図を開き直し、折り目を正しく合わせる。

 

「今度こそ、宿へ向かいます」

 

「先ほどのチャーシューは、どのように作るのでしょうか」

 

 セラは路地の真ん中で足を揃えた。

 

「たしか、豚肉の部位ごとに違います。表面を焼いてから、醤油、酒、砂糖、香味野菜などを合わせた煮汁で――」

 

「セラ。あそこに魚がいます」

 

「……まだ作り始めてもいません」

 

 道の脇に、小さな池があった。

 

 石の縁に囲まれ、水面には午後の空が映っている。赤や白の鯉が何匹も泳ぎ、人影が近づくと一斉に寄ってきた。

 

 リゼは池の前へしゃがんだ。

 

 一匹の赤い鯉へ指を向ける。鯉は水面近くまで上がり、口を丸く開けた。

 

 指を右へ動かすと、鯉も右へ曲がる。

 

 左へ動かす。

 

 今度は白い鯉がついてきた。

 

「別の子になりました」

 

「鯉は人が来ると、餌をもらえると思って集まることがあります。赤い個体は、おそらく緋鯉ですね」

 

「この子は、金色です」

 

 白い鯉の後ろから、別の鯉が水面へ上がっていた。

 

 セラは説明していた個体を見失い、金色の背を目で追う。

 

「……今度は金色ですね」

 

「こちらを見ています」

 

「餌を待っているのでしょう」

 

 リゼは指を水面の上で止めた。

 

 鯉たちは、何も落ちてこないと分かるまで口を開けていた。やがて一匹ずつ向きを変え、池の奥へ戻っていく。最後まで残った金色の鯉も、尾を一度揺らして離れた。

 

「行ってしまいました」

 

「餌を持っていませんから」

 

「期待させてしまったでしょうか」

 

「指を動かしただけです。そこまで責任を負わなくても――」

 

 リゼは池の脇にある小さな札を見つけた。〈魚の健康管理のため、餌を与えないでください〉と書かれている。

 

「与えてはいけません」

 

「ふふ。わたしの説明より先に、答えがありましたね」

 

 セラは言いかけた言葉を引き取り、地図の裏へ目印をつけた。

 

 リゼも記録帳を開く。〈鯉の餌は与えない〉と書き、その下へ〈チャーシューは煮汁で〉まで記した。

 

 続きの空白を残して帳面を閉じる。

 

 池から宿までの道では、二人とも何度か足を止めた。

 

 海が道の切れ目から見えるたび、リゼはパンフレットと見比べた。白い欄干へ薄く残る塩。土産物店の軒下で回る小さな風車。郵便受けの上に寝そべる猫。どれも観光案内の写真にはなく、記録帳へ入れるほどの発見でもなかった。

 

 パンフレットの地図なら、池から宿までは指一本でなぞれた。

 

 紙では隣り合っていた駅と海と宿のあいだに、坂と風と、立ち止まる理由がいくつも挟まっていた。

 

 

 海沿いの旅館は、駅前の建物より古く見えた。

 

 玄関の木は潮風で色が薄くなり、軒下の金属には白い跡が浮いている。けれど引き戸の硝子は磨かれ、石畳には打ち水がしてあった。建物の向こうから、波の音が絶えず聞こえている。

 

 セラが受付を済ませるあいだ、リゼは玄関の内側で待った。

 

 靴を脱ぐ場所。荷物を預ける場所。館内で履くもの。夕食の時間。朝食の時間。風呂の扱い。

 

 仲居が一つずつ説明し、セラが必要なところで問い返す。リゼも隣にいたが、四つ目からは海の音を聞いていた。

 

「リゼ」

 

 呼ばれてセラと仲居の方へ顔を戻す。

 

「リゼ。夕食は何時でしたか?」

 

「……夜です」

 

「聞いていませんでしたね」

 

「セラが聞いていましたので」

 

 仲居の頬に、堪えた笑いの跡が浮かんだ。

 

 セラはすぐに説明を繰り返さず、館内案内の紙に書かれている夕食の時刻を丸で囲んだ。それをリゼのパンフレットへ挟む。

 

「この印より前に、部屋へ戻ってください」

 

 リゼは丸と時計を見比べた。

 

「分かりました」

 

 部屋は二階の端にある。

 

 襖を開けると、畳の匂いがした。低い卓と座椅子。床の間には花が一輪だけ生けられ、窓の向こうには海が広がっている。白い波が岩へ当たるたび、硝子は音のない震えを返した。

 

 さらに奥の戸を開けると、小さな露天風呂がついていた。湯気の向こうにも、同じ海がある。

 

 リゼは部屋と風呂を見比べた。

 

「これは、高い部屋では?」

 

「金額は教えませんよ」

 

「やはり、高いのですね」

 

「人目を気にせず休める場所が必要でしたから」

 

 セラは背中へ片手を回した。見えない翼の根元に触れる仕草だった。

 

 リゼも角へ触れる。

 

「人間には見えません」

 

「見えないことと、気にせず休めることは別です」

 

 荷物を置き、低い卓へパンフレットを広げる。青い海。白い灯台。坂道。夕暮れの温泉街。窓の外には同じ海がある。けれど写真より音が大きく、同じ青のままでは一度も止まらない。

 

 セラは灯台の説明欄を指でなぞった。

 

「灯台の参観は、もう終わっています」

 

「……では、入れないのですね」

 

「今日は無理です。明日の朝なら登れます」

 

 リゼはパンフレットの白い塔を見た。

 

「灯台は、閉まると止まってしまうのでしょうか」

 

「いいえ」

 

 セラの指が、塔の上にある小さな光へ移る。

 

「むしろ夜の方が、きちんと働いています」

 

 紙の中の灯台には昼の光が当たり、灯火は白い点にしか見えない。

 

「では、夜に行きましょう」

 

「……中には入れませんよ?」

 

「灯台へ入るために来たのではありません。写真の場所へ来たかったのです」

 

 セラはパンフレットからリゼへ目を移した。リゼの指は、白い塔の写真に残っている。

 

「夕食のあとがよいです。暗くなってから、働いている灯台を見ます」

 

「灯台は、ここから歩ける距離です。夜道ですから、行くときは地図はこちらで持ちます」

 

 リゼは記録帳へ、〈夕食後、灯台〉と書いた。

 

 文字の横へ丸をつけ、先ほど挟まれた館内案内の丸と見比べる。さらに、帰る時刻を書き込む余白を作った。

 

「戻る時刻は、わたしが見ます」

 

 セラは地図から顔を上げた。

 

「夕食の時刻は、聞いていなかったのでは?」

 

「丸は見ました」

 

 リゼが示した紙には、仲居のつけた丸が残っている。

 

「遅れた時は、旅館へ連絡もします。ご飯のあとに行って、見たら戻りましょう」

 

「では、時刻はお願いします。道はこちらで」

 

 地図と記録帳が、卓の左右へ分かれた。

 

 紙の上で、夕食と灯台が初めて同じ一日の中へ収まった。

 

 

 灯台の時刻を決めると、リゼは記録帳の前の頁を開いた。

 

〈光へ、精気に似せた霊力の膜〉

 

〈角は光を返すかもしれない〉

 

 セラは通信機を取り出した。窓の厚いカーテンを閉め、襖の白い面を背景に選ぶ。戻る光が、ほかの色と混ざらないようにするためだった。

 

 発光部へ人差し指を添える。指先からほどけた白い霊力が、硝子の内側へ薄く広がった。発光する一瞬だけ、精気と似た性質を持たせる。

 

「最初は、できるだけ弱くします。痛みや違和感があれば、すぐに言ってください」

 

 リゼは襖の前へ立った。

 

 通信機を向けられると、背筋が自然に伸びた。顎も上がる。

 

「撮ってもよいですか?」

 

 問いが部屋へ置かれたまま、セラの指は動かない。

 

 リゼは角へ触れてから、手を身体の横へ戻した。

 

「はい。撮ってください」

 

 白い光が、部屋を一度だけ平らにした。

 

 襖。畳。浴衣の入った籠。リゼの輪郭。そのすべてが影を失い、次の瞬間には元の色へ戻る。

 

 リゼは角の根元を確かめた。硬さも重さも、先ほどまでと変わらない。

 

 セラは通信機の画面へ顔を寄せた。

 

「一本です」

 

「一本?」

 

 画面では、右の角だけが白い縁を残していた。左側には輪郭の代わりに、襖へ溶けた光の斑がある。

 

「反射の向きを読み違えました。左の光が、レンズから外れています」

 

 リゼは顔を右へ向けた。

 

「こうでしょうか」

 

「それでは、左の角がもっと遠ざかります」

 

 リゼは正面へ戻った。セラも通信機の位置を下げ、発光部を覆う霊力をほどいた。

 

「セラ。もう一度――」

 

「いいえ。念のため、時間をおいて。害がなかったかだけは確認しなければなりません」

 

 セラの指が発光部から離れた。

 

「そうでした。今日は、ここまでにします」

 

 リゼは一本だけ角のある写真と、通信機の向こうにいるセラを見た。

 

「もう一度は、危険ですか」

 

「同じ強さなら、先ほど以上の反応は起こらないと思います。ですが、念のためです」

 

 リゼは右の角だけが写った画面を、もう一度確かめた。

 

「では、普通に一枚。お願いします」

 

 画面の中に、人間界の服を着たリゼがいる。人間に見える顔。その頭上にあるはずの角は、レンズ越しでは写らない。

 

 リゼは画面へ顔を近づけた。

 

「……リゼ。なぜ二枚とも、撮る瞬間に顎を上げるのですか」

 

「凛々しく写ろうとしました」

 

「……まあ、確かにきれいに撮られたい気持ちは分かります」

 

「セラには、どう見えますか?」

 

 訊かれたセラは、写真と本人を二度見比べた。

 

「……力が入っています」

 

「凛々しくは?」

 

「そこまでは、まだ」

 

 リゼは記録帳の〈かもしれない〉を消さず、その下へ〈二度目、霊力なし〉と書き足した。

 

 リゼのペンは、〈凛々しい〉と書く場所を見つけられずに頁の端へ退いた。

 

「……続きは、夜の灯台で撮りましょう」

 

 セラは通信機を伏せて卓へ置いた。画面には、凛々しくなりきれていない少女の写真が残っていた。

 

 

 温泉へ入る前に、リゼは一階の廊下で卓球台を見つけた。

 

 緑色の台の中央に網が張られ、壁の籠には白い球と木のラケットが入っている。横の札には、三十分ごとの予約制と書かれていた。

 

 リゼの手が予約表の鉛筆へ伸びる。

 

 鉛筆へ届く前に手を引き、後ろにいるセラへ顔を向けた。

 

「これは、何をする台ですか」

 

「卓球です。小さな球をラケットで打ち、中央のネットを越して相手側へ入れます」

 

 説明はそこで終わらず、得点とサービスの話へ続きかけた。

 

「セラも、なさいますか」

 

 セラは予約表と、鉛筆を持たずに待つリゼを見た。返事までに一拍あった。

 

「一度だけなら」

 

 リゼは予約台帳の空いている項へ、二人分の印をつけた。

 

 最初の一球は、ラケットの縁に当たり、真横へ飛んだ。白い球が壁へ当たり、床を跳ね、廊下の隅へ転がっていく。

 

「いまのは練習です」

 

「そういうことにしましょう」

 

 二球目はネットへ当たった。

 

 三球目で、ようやくセラの側へ入る。

 

 セラは軽く打ち返した。リゼは慌ててラケットを振り、空を切る。

 

「一点です」

 

「まだ返し方を教わっていません」

 

 セラは白い球を掌へ載せた。

 

「ここまでは練習にします。リゼ。次から数えましょう」

 

「……では、次は当てます」

 

 四球目から、リゼの目が変わった。

 

 球を追い、台へ落ちる位置を待ち、ラケットの中央へ当てる。返球は高い。けれど一度続けば、次は少し低くなる。

 

 五往復。

 

 六往復。

 

 セラが右へ打つと、リゼも右へ動く。左へ送れば、卓の端まで腕を伸ばす。

 

「覚えるのが早いですね」

 

「――悪魔ですのでっ」

 

「悪魔は卓球が得意なのですか――せい!」

 

「いま、得意になりました!」

 

 リゼが強く打った。

 

 球は台の角へ落ち、予想より高く跳ねる。セラのラケットを越し、背後へ飛んだ。

 

「一点です」

 

 リゼは胸を張った。

 

「練習は終わっていたので、今から一対零ですね」

 

「……ずるいですよ」

 

「変えたのはセラです」

 

「練習だと異議を出したのはリゼです」

 

 セラの唇の端が上がる。

 

 試合はそのまま続いた。

 

 リゼは球を返せるようになるほど、台へ近づいていった。短い球を拾おうと前へ出て、次の高い球へ顔を上げる。

 

 こつん。

 

 球が、右の角へ当たった。

 

 人間には見えない黒曜石の角で方向を変え、ネットを越してセラの台へ落ちる。

 

 セラは呆然と見送った。

 

 リゼも、自分の角を押さえる。

 

「……一点でしょうか」

 

「違います」

 

「向こうへ入りました」

 

「ラケットで打っていません」

 

「頭を使いました」

 

「言葉の意味が違います」

 

 セラは言い切ったあと、顔を背けた。肩が小さく震えている。

 

 リゼの手は角に残ったままだった。

 

「笑っていますか」

 

「笑っていません」

 

「こちらを見て言ってください」

 

「少し待ってください」

 

 セラは球を拾いに行った。戻ってきても、まだ口元を手で隠している。

 

 角へ残ったリゼの手を見て、セラの笑いが遅れて引いた。

 

「すみません、リゼ。ふふ。角を笑ったのではありませんよ」

 

「……では、何を?」

 

「頭を使った、という言い方を」

 

 リゼは角から手を下ろした。

 

「だって。言葉通りです」

 

「ええ。ですから、そこがおかしくって、つい」

 

 セラは次の球を差し出した。リゼは受け取り、角へ上がりかけた左手をラケットの柄へ戻す。

 

 三十分後、卓球台の予約札を返しに来た二人は、空いた次の欄を見た。

 

 リゼは鉛筆へ手を伸ばさず、セラを見る。

 

 セラが先に鉛筆を取った。

 

 もう三十分、という言葉は、言わずとも伝わり合っていた。

 

 

 部屋へ戻る頃には、二人とも身体が熱くなっていた。

 

 セラが窓を開ける。潮風が畳の上を通り、卓球で熱くなった頬を冷ました。白い波が岩へ砕け、海は着いた時より暗い青へ変わっている。

 

「先に温泉へ入りましょう」

 

 リゼは着替えの籠を持ち上げた。

 

「その前に身体を洗います。髪は湯船へつけないでください。タオルも――」

 

「温泉にも、説明は十までありますか」

 

「あります」

 

「三までは聞きます」

 

「……最初から諦めないでください」

 

 硝子戸の向こうでは、湯気が海風にほどけていた。人目のない部屋なので、リゼは角を気にせず髪を上げられる。

 

 セラは背中へ手を回しかけ、そこで止めた。

 

「翼を出してもよいですか」

 

 リゼは硝子戸までの幅を測るように、狭い洗い場を見た。

 

「こちら側へ来なければ」

 

「壁の方へ畳みます」

 

 白い翼が開き、約束した側へ高く畳まれた。羽先が夕方の光を受け、風に細かく揺れる。リゼは湯へ足先を入れた。

 

 熱い。

 

 一度引き、もう一度入れる。今度は膝まで沈み、石の縁を両手でつかんだまま、時間をかけて肩まで入った。長い息が、湯気の中へ抜ける。

 

「この温泉は塩分を含んでいて、湯上がりも身体が冷えにくいそうです」

 

 セラは壁に掛けられた説明札を読んでいた。

 

「疲労にもよいと書いてあります。それから――」

 

「卓球にも効きますか」

 

「筋肉の疲労には」

 

「では、もう一度できますね」

 

「くふ。回復した分をすぐ卓球へ戻すんですか」

 

 セラも湯へ入る。

 

 翼が狭い風呂の半分を占めた。羽先が湯面へ触れそうになるたび、背中へ寄せる。リゼは邪魔にならないよう反対側へ詰めた。

 

「翼は、重くないのですか」

 

「普段は気になりませんが、こういう場所では、とても気になりますね」

 

「畳めないのですか?」

 

「……これ以上は無理です」

 

 セラは自分の翼を見た。

 

「リゼの角は、場所を取りませんね」

 

「立派になれば、もっと取ります」

 

「それは、おめでとうございます?」

 

「ありがとうございます」

 

 リゼは誇らしげに顎を上げた。後頭部が石の縁へ当たり、かこんと間抜けた音がする。

 

 セラは笑いを噛み殺しかけた。

 

「……いまの音は、聞かなかったことにします」

 

「……お願いします」

 

 湯気の向こうで、セラが笑った。

 

 リゼは角へ手を上げず、石へぶつけた後頭部を押さえて笑い返した。

 

 波の音は途切れない。

 

 温泉の効能について、セラはもう説明していなかった。

 

 

 湯上がりには、二人とも旅館の浴衣へ着替えた。リゼの帯は、胸のすぐ下まで上がっていた。自分では左右も揃い、よく締まっているつもりだった。

 

 セラが帯とリゼの顔を交互に見る。

 

 何も言われないので、リゼも見返した。

 

「少し、直しても?」

 

 リゼは返事の代わりに両腕を上げた。

 

 帯が正しい位置まで下ろされる。背中へ回った布が締まり、結び目が整えられていくあいだ、リゼは窓硝子に映るセラの手を見ていた。

 

 駅では、その手に剣がないことを確かめた。いまも硝子越しに動きを追っている。ただ、指が帯を離れないあいだ、旅行鞄へ手は伸びなかった。

 

 結び目がどの形になるのか気になって、一度だけ首を動かす。

 

「動くと曲がります」

 

 リゼは正面へ戻った。

 

 結び終わると、窓硝子へ自分を映す。右と左を確かめ、顎を上げかけたところで、後頭部の痛みを思い出して止めた。

 

「凛々しいでしょうか」

 

「温泉旅館で、そこまで凛々しさを求めなくてもよいと思います」

 

「では、温泉らしいですか?」

 

「まあ、その方が近いですね」

 

 リゼは帯の左右をもう一度確かめ、両腕を下ろした。

 

 低い卓の端には、受付でセラが借りてきた小さな箱が置かれている。卓球の予約札を返した時、貸出品の一覧からリゼが見つけたものだった。

 

 箱を開く。

 

 中には、色鮮やかな札が重ねられていた。

 

「花札です」

 

 セラは札を卓へ並べた。

 

「一年を十二の月に分けて、それぞれの月を四枚の絵で表します。二人で遊ぶなら、手札を八枚ずつ。場にも八枚――」

 

「絵で戦うのですか?」

 

「いえ、戦うというより、同じ月の札を合わせて取ります。集めた札で役を作り、点を――」

 

「やってみたいです」

 

 セラの指は、山札の一番上をつまんだまま動かなかった。

 

「説明がまだ途中です」

 

「八枚ずつ。同じ月を取る。役を作る」

 

「三つしか聞いていませんよ」

 

「三つで始められます」

 

「……否定しきれないところが、悔しいです」

 

 セラは口を開きかけ、札へ目を落とした。山札の角を、親指が一度撫でる。

 

「では、始めながら続けます」

 

 

 最初の勝負は、説明の続きから始まった。

 

 絵だけを見ても、どれとどれが同じ月なのかリゼには分からない。セラは札を取るたびに月と名前を教え、違いを説明した。

 

 リゼは最初の二巡、教えられた通りに札を出した。

 

 三巡目、セラの目が桜に幕の札へ二度戻った。

 

 リゼはそれを先に取る。

 

「……いま、わたしの目を見ていましたね」

 

「札も見ています」

 

「どちらを多く?」

 

「セラが困る方です」

 

 悪事として答えたリゼは、桜の札を自分の側へ寄せた。

 

 セラは山札から一枚引く。欲しい月ではなかったらしく、場へ置く音が強かった。

 

 その音を聞いて、リゼは記録帳を引き寄せる。

 

「写真も、このように取り合うものへ入れたらどうでしょうか」

 

「研究の話へ戻るのですね」

 

「写真は見てもらえます。でも、見たあとに置かれてしまいます。この札は、セラが欲しがりました」

 

「役に必要だったからです」

 

「必要なら、何度も見ます」

 

 リゼは、先ほど撮った写真のある通信機へ目を向けた。

 

「角の写真を、トランプへ貼ります」

 

 セラは札を出しかけた手を止める。

 

「……同じ数字は四枚あります。一枚の写真を四分割するんですか?」

 

「じゃあ、同じ悪魔を、四方向から撮ります」

 

「正面、横、後ろ。それで三枚です」

 

「もう一枚は、凛々しい角度です」

 

 セラは卓上の通信機へ目をやり、手札で口元を隠した。

 

「そこだけ、撮り直しが必要ですね」

 

 リゼはしばらくセラを見た。角へ上がりかけた手は、途中で札へ下りた。

 

 勝負は続いた。

 

 セラが猪の札を取る。リゼの視線が、その札を追った。

 

「欲しかったのですか」

 

「鹿と蝶を持っていますので」

 

「集めると?」

 

「猪鹿蝶という役になります」

 

「では、その三匹は何度も名前を呼ばれるのですね」

 

「遊ぶ人なら、覚えるでしょう」

 

 リゼは記録帳へ、〈名前を呼ぶ〉と書いた。

 

 書いているあいだに、セラは役を完成させた。

 

「猪鹿蝶です。こいこい」

 

「え……既に勝っているのに、続けるのですか?」

 

「リスクはありますが、さらに役を増やせます。失敗すれば、リゼが勝つ可能性もありますよ」

 

 リゼは札の向こうから、セラの顔を見た。

 

「くく……危険な遊びですね」

 

「……そういう時だけ、悪魔らしい顔になりますね」

 

 

「そういえば、魔界にも、札の遊びがありますね」

 

「おお、どのようなものなんですか?」

 

「議事堂おじさん決闘札、という遊びです」

 

 セラの手は、取ろうとしていた札の手前に残った。

 

「……すみません、もう一度、お願いします」

 

「議事堂おじさん決闘札遊び」

 

「聞き間違いではなかったのですね」

 

 リゼは札を重ねながら説明した。

 

「歴代議員の肖像が札になっています。予算案を通したり、委員会で追及したり、相手の不祥事を公開したりします」

 

「子供向けですか?」

 

「初級攻略本は、図書館の低い棚にあります」

 

「答えになっていないような……」

 

「写真を議事堂おじさんの上へ貼れば、すぐに使えます」

 

「歴代議員の顔を隠してよいのですか?」

 

「古い悪魔なので、たぶん気づきません」

 

「そういう問題ではありません」

 

 勝負の終わりには、札を取る音より相談の声の方が多くなった。

 

 写真をトランプへ貼る。チェスの駒へ巻く。議事堂おじさんの顔へ重ねる。花札の絵の中央へ小さな写真を貼り、隠れた花を周囲へ描き直す。

 

 どの案も、写真を見せるところから始まり、遊び道具の方を作り直すところへ着いた。

 

「それなら、新しい札を作った方が早くありませんか」

 

 セラが言った。

 

 リゼは写真を貼る場所のない松の札を見た。

 

「……一理あります」

 

 けれど、何を描くかは決まらない。写真を貼らない、という結論にもならなかった。

 

 卓の上には札と記録帳が広がっている。〈写真〉から引かれた線は、頁の端で行き場を失っていた。

 

 夕食までは、まだ一時間半ほどある。

 

「もう一度、温泉へ入りませんか」

 

 リゼが言った。

 

「先ほど入りましたよ」

 

「料金は増えません」

 

「そういう基準で入るものでは……」

 

 セラは窓の向こうに立つ湯気を見た。札へ戻り、もう一度湯気を見る。

 

「……入りましょうか」

 

 リゼは記録帳を閉じた。

 

 

 二度目の温泉では、セラも壁の説明札を見なかった。

 

 翼を畳んで湯へ入り、石の縁へ背を預ける。リゼも反対側で肩まで沈んだ。夕方の光は薄くなり、海の色が青から灰色へ変わり始めている。

 

 白い翼は壁側へ畳まれていた。羽先がリゼへ触れないだけの幅を残し、湯気がその上を行き来している。

 

「写真は、見せるだけでは足りませんね」

 

 セラが湯面を見ながら言った。

 

「遊んでもらいます」

 

「遊ぶなら、欲しい札と、要らない札ができます」

 

「取られたくない札も」

 

 そこで言葉が切れた。

 

 湯へ落ちた雫が、二人のあいだに輪を作る。広がった輪は羽先へ当たり、形を崩して消えた。

 

 リゼは湯の中で指を開いた。掌へ水が入り、閉じると隙間から逃げていく。

 

「温泉は、どうして身体が軽くなるのでしょうか」

 

 セラは考え、壁の札を見ないまま答えた。

 

「温熱で血流がよくなることや、浮力で関節や筋肉へかかる負担が減ることが――」

 

「セラ」

 

「何でしょう」

 

「わたしには、血がありません」

 

 説明は、血流という言葉の先へ進まなかった。

 

 セラは湯の中のリゼを見る。続きを探しかけた唇が、そこで閉じた。

 

「……そうでした」

 

「でも、身体は軽くなっています」

 

「では、別の理由です。精気でできた身体に温泉がどう作用するのかは、わたしにも分かりません」

 

「温泉は、悪魔にも効きます」

 

「効いたという感想だけ、先に出ましたね」

 

「気持ちがよいので」

 

 セラは反論せず、肩をもう少し湯へ沈めた。白い翼の付け根から力が抜け、羽先が水面へ近づく。

 

「翼も浮きますか」

 

「少しは」

 

「広げれば、もっと軽くなります」

 

「風呂が全部、羽になります」

 

「見てみたいです」

 

「駄目です」

 

 白い翼が背へ寄った。

 

 リゼは湯面へ目を落とし、先ほどまで水を掬っていた指を閉じた。

 

 セラは自分の翼を見た。一拍遅れて、羽を畳んだままの姿勢を直す。

 

「……全部は無理です。こちら側だけなら」

 

 片方の翼が、湯の上でゆっくり開いた。

 

 白い羽の隙間へ湯気が溜まり、海の灰色が細く切り分けられる。リゼは近くに来た一枚へ指を伸ばしかけ、触れる前に止めた。

 

「触れますか」

 

 セラが訊いた。

 

 リゼは羽とセラを見比べる。

 

 指先が白い羽へ触れた。一本の中心には細い硬さがあり、その両側は水気を含んでも柔らかかった。リゼは一度撫でる。

 

 セラも翼を畳み直す。羽先がリゼの肩近くで湯を揺らした。

 

「…………前のことを、もう一度謝ってもよいですか」

 

 リゼの指が、湯の中でまっすぐに揃った。

 

「もう、謝っていただきました」

 

「……あの時は、怖がらせたことを謝りました。でも、あなたを観測対象としてしか見ていなかったことは、まだ謝っていません」

 

 白い刃が落ちた時の風は、温泉の熱と一緒には消えなかった。

 

 足元で裂けた影。両手で庇った角。次の一撃がどこへ来るのか分からなかった時間。

 

「怖かったです」

 

 セラは答えなかった。

 

「とても」

 

 白い翼が、湯の上で小さく畳まれる。返事の代わりに、セラの両手が膝の上で重なった。

 

 リゼは角へ触れた。湯で温まった指と、硬い角が触れる。

 

「でも、卓球をしている時は忘れていました」

 

 セラが顔を上げる。

 

「忘れさせるために、旅行へ来たのではありません」

 

「分かっています。あとで思い出しました」

 

「思い出したのですか」

 

「角に球が当たった時に、少し」

 

 セラは目を伏せた。膝の上で重ねていた指が、一本だけ内側へ曲がる。

 

「……あの時は、本当にごめんなさい」

 

「……角を笑ったのではないと、聞きました」

 

「…………それよりも、前のことです」

 

 リゼはしばらく考えた。

 

 セラは急かさない。翼の先から落ちた湯が、二度、湯面に輪を作った。

 

「三ぐらいなら」

 

「三?」

 

「いまは、三ぐらい許しました。残りは、これから考えます」

 

 セラの眉が上がる。

 

 セラの手は、膝の上から伸びてこなかった。

 

「分かりました。残りは待ちます」

 

「忘れることもあります」

 

 リゼは湯の中で指を数えかけ、三本目でやめて笑った。

 

 セラも一拍遅れて笑う。

 

 湯気の中で声が重なったのは一度だけだった。すぐに波音へほどけ、窓の外へ出ていく。

 

 しばらくして、リゼが海からセラへ顔を戻した。

 

「ところで、キャベツは、いつ丸くなるのですか」

 

 セラの笑いが、途中で息へ戻った。

 

「……覚えていたのですか」

 

「葉が重なるところまで」

 

 川はとうに通り過ぎ、昼に見た畑も遠い。けれど、記録帳の〈キャベツ〉は最初の一画だけで残っていた。

 

 セラは石の縁へ座り直した。

 

「内側の葉が立ち上がり、互いに重なりながら中心を包みます。葉の数が増え、外へ広がるより内側へ巻く力が――」

 

 リゼは聞きながら、海へ目を向けた。

 

 水平線の色が一段暗くなり、遠くで船の灯りが一つ点いた。

 

「セラ。船です」

 

 説明が、また途中で切れた。

 

 セラは海を見ず、説明していたところへ指を一本立てた。

 

「あと二つだけ話せば、キャベツは丸くなります」

 

 リゼは海とセラを見比べた。

 

「船は、まだ見えますか」

 

「しばらくは」

 

「では、キャベツを先にお願いします」

 

 セラは説明へ戻った。

 

 船はそのあいだにも少しずつ遠ざかった。話を聞き終えた時には、灯りだけが海の上に残っていた。

 

 それからしばらく、二人は湯へ身を預けていた。船の灯りはさらに遠ざかり、言葉の代わりに波音が戻ってくる。

 

「…………リゼ」

 

「……なんですか、セラ」

 

「……わたしにも、あなたの手伝いをさせてもらえませんか」

 

「藪から棒ですね。もう十分に手伝ってもらっていますよ」

 

「……そうではなくて。今日だけの話ではありません」

 

 セラは膝の上で両手を組み直した。旅行のあいだ、柔らかくほどけはじめていた表情に、駅で再会した時の硬さが少しだけ戻っていた。けれど、その目はリゼから何度も逸れた。

 

「悪魔と手を組む堕天使は、魔界へ悪意の精気を持ち込むことで、飢えた悪魔を武力として抱え込んでいます。それが、天界が堕天使を討ちきれない理由の一つです」

 

 組まれた指に、少しだけ力が加わった。

 

「あなたの方法が形になれば、悪魔は堕天使だけに頼らず、別のところから精気を得られるようになります。頼る理由が減れば、堕天使の側につく悪魔も減る。……わたしがあなたに手を貸せば、その時を早められます」

 

「……天界が、戦いやすくなるのですね」

 

「そうです」

 

 そこまでは、セラの言葉に迷いがなかった。

 

「少なくとも、天使としてのわたしが魔界を救おうとするのは、魔界のためではありません。天界を救うためで…………」

 

 白い翼の端から雫が落ちた。湯面へ生まれた輪が、二人のあいだでほどけていく。

 

 セラはそこで口を閉じた。

 

「……天界の事情だけなら、セラは、説明を途中で止めないと思います」

 

 セラの目が、湯気の向こうからリゼへ戻った。

 

「今日、あなたと一緒にいたことまで、任務だったわけではありません。これからも……仲良くしたいと思っています」

 

 セラの視線が、一度だけ湯へ落ちた。

 

「それでも、あなたと親しくなることは、天界の利益にもなります。それを分かっていて、わたしはこれからもあなたのそばにいようとしている。……結果として、わたしはあなたを利用することになります」

 

 リゼはすぐには答えなかった。

 

 湯の中で開いていた指を、一つずつ閉じる。

 

 旧門廟を出た朝、眠気を隠し、角がよく見えるように顔を上げた。期待の星は、出発する時にふらついてはならなかった。皆のために人間界へ来た。それでも、パンフレットの白い灯台を指でなぞったのは、リゼ自身だった。

 

「わたしも、皆のために来ました」

 

 セラが顔を上げる。

 

「でも、灯台は、わたしが見たかったのです」

 

 列車の中で交わした言葉を、今度はリゼが返した。

 

「セラは言いました。研究だけではなかったのですね、と」

 

「……言いました」

 

「どちらも、本当です」

 

 リゼは、湯気の向こうにあるセラの顔を見た。

 

「セラも、天界のためにわたしを手伝う。でも、天界のためだけに、わたしと旅行をしていたわけではない。……違いますか」

 

「……違いません。今日が楽しかったという気持ちは、わたし自身のものです」

 

「でしたら、平気です」

 

「……利用されることも、ですか」

 

「利用されても、平気です。……ただ、今のように、先に教えてください」

 

 セラの組んでいた指が、ゆっくりとほどけた。

 

「……約束します」

 

「わたしも、魔界のために、セラに手伝ってもらいます」

 

 湯気の向こうで、セラの眉間に残っていた線が消えた。

 

「ありがとう、リゼ……」

 

 

 部屋へ戻ると、卓の上の花札はそのままだった。

 

 記録帳には、写真から伸びた矢印が何本も残っている。

 

 セラは浴衣の袖をまくり、札を集めて切った。リゼは向かいへ座り、湯上がりの髪を乾いた布で押さえている。

 

「リゼ。夕食まで、もう一戦しませんか」

 

「……一戦だけですか?」

 

「ご飯がくるまでです」

 

 セラは時計を卓の端へ置いた。

 

 八枚ずつ手札を配る。

 

 場へ八枚。

 

 山札を中央へ置く。

 

 リゼは梅の札を出す。

 

 セラが場の札と合わせて取る。

 

 セラは萩を出した。

 

 リゼが猪の札を取る。

 

「取り返しました」

 

「先ほどの猪と同じ札ですよ」

 

「ですから、取り返しました」

 

 セラは何か言おうとして、やめた。

 

 勝負は静かに進んだ。

 

 セラが桜に幕の札を取った。

 

 先ほどリゼが取った札だった。

 

「……その札、また欲しかったのですか」

 

「役に使えますから」

 

「先ほどの勝負でも?」

 

「先ほども、欲しかったです」

 

「次の勝負でも、欲しいですか」

 

「役を作るなら――」

 

 セラの声が止まった。札を持った指も、そのまま動かない。

 

 リゼは自分の手札へ目を落とした。先ほど取り返した猪が、こちらを向いている。記録帳の端が持ち上がり、〈名前を呼ぶ〉の文字が覗いた。その文字から、猪の札へ視線を戻す。

 

 二人とも動かなかった。

 

 窓の外で波が崩れた。引いていく音が長く続き、次の波が来る。

 

「……セラ」

 

「……」

 

「写真を、貼らない方がよいのでは?」

 

 セラは桜に幕の札を見た。

 

「……花札の絵、そのものを」

 

「悪魔にします」

 

「取るたびに、名前を呼ぶ」

 

「欲しがります」

 

「相手に取られれば、悔しい」

 

「次の勝負でも、また欲しくなります」

 

 リゼは月の札を見た。

 

「写真より、何度も」

 

「見ます」

 

 また、二人とも黙った。

 

「悪魔を題材にした、札遊び……」

 

 セラが桜の札を表へ返す。リゼは月の札から、その絵へ視線を移した。

 

「……あ」

 

 リゼが声を漏らした。

 

「あ」

 

 セラも言った。

 

 二人は同時に顔を上げる。

 

 記録帳の〈写真〉から伸び、頁の端で行き場を失っていた線が、花札の上で先へ続いた。札に描かれた悪魔なら、一度見られて終わらない。勝負のたびに名を呼ばれ、欲しがられ、取られ、取り返される。そのたびに生まれる感情を、同じ悪魔へ何度でも精気として届けられるかもしれない。

 

「ああ!」

 

 二人の声が強く重なった。

 

 その時、部屋の戸が控えめに叩かれて、仲居が襖を開ける。

 

「お食事をお持ちしました」

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。