こより監督とホロメンたちの栄冠ナイン 2022年、ホロライブ高校始動 作:きのこ大三元
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5月3日、水曜日。
夜空メルは、自分があまり目立つ選手ではないことを、なんとなく分かっていた。
野球部に入って、まだ一か月も経っていない。
高校野球の練習にも、ホロライブ高校のグラウンドにも、先輩たちの声にも、ようやく少し慣れてきたくらいだ。
それでも、分かることはある。
こよローは、すごい。
同じ1年生。
同じ外野手。
同じグラウンドに立っている選手。
けれど、最初の一歩が違う。
打球が上がった瞬間、こよローはもう動いている。ボールを追う速さが違う。遠投の時の送球も、低くて、速くて、まっすぐだった。
バットを振っても目を引く。
走っても目を引く。
守っても目を引く。
しかも、いつも楽しそうだった。
メルは、そんなこよローを見て、素直にすごいと思った。
同じチームにいてくれることが心強いとも思った。
でも、同じ外野手だからこそ、少しだけ胸の奥がきゅっとなることもあった。
自分は、あんなふうには動けない。
打球への一歩目も遅れる。
返球も安定しない。
フライを捕る時も、まだ少し怖い。
バットを振れば、当たる時もある。
けれど、強い打球になることは多くない。
こより監督は、メルに捕球を重点的に練習するように言ってくれた。
外野手として、まずは確実に捕る。
普通のフライを落とさない。
ゴロを後ろに逸らさない。
そこから信頼は生まれる。
その言葉は嬉しかった。
自分にやるべきことがある。
ちゃんと見てくれている。
そう思えたからだ。
それでも、スカウトがグラウンドに来た時、メルはどこかで思ってしまった。
あの人が見ているのは、きっと自分ではない。
スカウトの視線は、こよローへ向いていた。
それは当然だと思った。
メル自身も、こよローの送球を見れば目を奪われる。低く伸びる白球が、相手の胸元へ吸い込まれていく。外野手として、あんな球を投げられたらどれだけ楽しいだろうと思う。
こより監督がスカウトに推薦したのも、こよローだった。
それを聞いた時、メルは悔しいとは思わなかった。
むしろ、納得した。
こよローなら、きっとそうだ。
そう思った。
ただ、ほんの少しだけ、自分のグラブを握る手に力が入った。
その日のメンタルトレーニングで、メルに与えられた課題は、失敗した後にどう切り替えるかだった。
フライを落としたら。
ゴロを後ろに逸らしたら。
三振したら。
チャンスで打てなかったら。
次のプレーへ、どう向かうのか。
言葉にするだけなら、簡単だった。
「次、ちゃんと捕る」
「次の打席で振る」
「落ち込んでも、声は出す」
そう言えばいい。
けれど、実際に失敗した時、本当にそうできるかは分からない。
メルはまだ、自分に自信がなかった。
こよローみたいに目立てない。
ぼたんみたいに落ち着いていられない。
はあちゃまみたいに大きな声でみんなを引っ張ることも、ミオみたいにまっすぐ努力を前に出すことも、おかゆみたいに自分の感覚を信じることも、まだうまくできない。
だから、メルは何度も小さく頷いた。
「失敗しても、次」
声に出して、自分に言い聞かせる。
「次、ちゃんとやる」
それが今の自分にできる、一番小さな強さだと思った。
練習後。
こより監督と杉谷が、何かを話していた。
メルは少し離れたところで、バットを片付けようとしていた。
今日はもう終わり。
そう思っていた。
けれど、こより監督の声が聞こえた。
「メルメル、やってみましょう」
最初、自分のことだと分からなかった。
メルメル。
そう呼ばれて、ようやく顔を上げる。
「えっ、私ですか?」
思わず、そう聞き返していた。
こより監督は、まっすぐこちらを見ていた。
「うん。メルメルには、まだ伸びる余地があると思うんです」
その言葉が、すぐには胸に入ってこなかった。
伸びる余地。
自分に。
こよローではなく。
ぼたんでもなく。
他の誰かでもなく。
自分が、選ばれた。
メルは、バットを握る手に力を込める。
嬉しい。
でも、怖い。
期待されるのは嬉しい。
けれど、期待に応えられなかったらどうしようとも思う。
特訓で挑むことになったのは、広角打法だった。
左右どちらにも強い打球を飛ばす技術。
引っ張るだけではなく、逆方向にも力のある打球を打つ。
杉谷は、難しいかもしれないと言った。
メルにも、それは分かった。
自分は、まだ普通に打つことだって安定していない。
捕球だって練習中だ。
それなのに、広角打法。
難しそうで、遠くて、自分にはまだ早いように思えた。
でも、こより監督は言った。
「でも、メルメルならできるかもしれません」
できるかもしれない。
その言葉だけで、メルは逃げられなくなった。
逃げたくないと思った。
「はい……!」
バットを握り直す。
まだ、自信はない。
でも、選んでもらえたことは本当だった。
特訓は、すぐにうまくいかなかった。
右へ打つ。
左へ打つ。
センターへ返す。
逆方向へ強い打球を飛ばす。
頭では分かっているつもりでも、体はうまく動かなかった。
ボールを待ちすぎて、振り遅れる。
逆方向を意識しすぎて、体が開く。
当てようとすると、打球が弱くなる。
強く打とうとすると、空振りする。
カン、と軽い音がして、ボールが力なく転がった。
「ご、ごめんなさい!」
謝る必要はないと分かっているのに、声が出てしまう。
こより監督は、すぐに首を振った。
「大丈夫! もう一回いこう!」
もう一回。
メルは頷いた。
「もう一回、お願いします!」
何度も振る。
何度も失敗する。
バットを握る手が少し痛くなる。
腕が重くなる。
肩で息をする。
それでも、途中でやめたいとは思わなかった。
こより監督が見ている。
杉谷が見ている。
チームのみんなも見ている。
それは恥ずかしくて、怖い。
でも、それ以上に、嬉しかった。
自分が失敗しても、誰も笑わなかった。
こよローは、両手をぎゅっと握って応援してくれていた。
はあちゃまは、大きな声で励ましてくれた。
ミオは真剣な顔で見ていた。
おかゆは静かに頷いてくれた。
ぼたんは、落ち着いた声で「焦らなくていいですよ」と言ってくれた。
自分は、ひとりで失敗しているわけではない。
そのことに気づくと、少しだけ怖さが薄くなった。
「メルメル、逆方向を意識しすぎて体が開いてるかも!」
「はい!」
「ボールを最後まで見て!」
「はい!」
「焦らなくていい。ちゃんと振れてるよ!」
「……はい!」
返事をするたびに、胸の奥の震えが少しずつ別のものに変わっていく。
怖い。
でも、打ちたい。
期待に応えたい。
自分にもできると、思ってみたい。
次の球が来た。
メルは、引っ張りにいかなかった。
いつもより、ほんの少しだけ待つ。
ボールを見る。
体を残す。
バットを出す。
カン、と音がした。
それは、さっきまでの軽い音とは違っていた。
手の中に、しっかりとした感触が残る。
打球は、逆方向へ伸びていった。
流しただけの弱い打球ではない。
ちゃんと、力が乗っていた。
外野の芝に、白球が落ちる。
メルは、しばらく動けなかった。
今のは。
今の打球は。
「監督……今の、かなり良かったです!」
杉谷の声が聞こえた。
こより監督が、大きく頷いている。
「できました! メルメル、今のすごく良かったです!」
「できた……?」
自分の声が、少し遅れて出た。
できた。
本当に。
今の打球を、自分が打った。
夜空メルは、広角打法を覚えた。
そう言われても、すぐには実感が湧かなかった。
でも、手の中にはまだ、あの感触が残っている。
逆方向へ伸びた打球の景色が、目の奥に残っている。
胸の奥が、じんわり熱くなった。
「私……打てたんですね」
「打てました!」
こより監督の声が、まっすぐ返ってくる。
メルは、バットを握ったまま笑った。
うまく笑えていたかは分からない。
でも、嬉しかった。
とても、嬉しかった。
夕方のグラウンドで、メルはもう一度バットを構えた。
特訓は終わった。
広角打法も、掴めたと言われた。
けれど、それで急に強い選手になったわけではない。
こよローみたいに走れるようになったわけでもない。
ぼたんみたいに落ち着いて打席へ立てるようになったわけでもない。
明日になれば、また失敗するかもしれない。
フライを落とすかもしれない。
打てないかもしれない。
それでも。
今日、自分は一度だけ、できた。
こより監督が選んでくれた。
みんなが見てくれた。
失敗しても、もう一回と言ってくれた。
その先で、一本だけ。
自分の打球が、逆方向へ伸びた。
「メルメル」
こより監督が声をかける。
「はい!」
「今日の一本、忘れないでください」
メルは、バットを胸の前でぎゅっと抱えた。
「……はい!」
忘れない。
きっと、忘れない。
自分にも、できることがあるかもしれない。
まだ、それを大きな声で言う自信はない。
でも、心の中でなら、少しだけ思えた。
夜空メルは、まだ知らない。
この一本が、いつかどこかで、誰かに思い出されるかもしれないことを。
夏の打席で。
大事な場面で。
ベンチから名前を呼ばれる瞬間に。
今日の感触が、自分を支えてくれるかもしれないことを。
まだ知らない。
けれど、今はそれでよかった。
メルは、夕暮れのグラウンドで、もう一度だけ素振りをした。
風を切る音が、ほんの少しだけ、昨日より強く聞こえた。