こより監督とホロメンたちの栄冠ナイン 2022年、ホロライブ高校始動 作:きのこ大三元
第1話 博衣こより監督、就任
1989年、愛知県。
ホロライブ高校。
2022年の配信画面の向こうで始まったのは、令和の高校野球ではなかった。どこか懐かしい空気をまとった、平成の始まりの高校野球だった。
画面の中の時計は、春の甲子園から、さらに三十三年前へ巻き戻る。まだ古い校舎。少し低いフェンス。白線が引かれたばかりのグラウンド。校門脇の桜は満開を少し過ぎ、風が吹くたびに花びらを散らしている。
画面の中で、春が始まっていた。
コメント欄も、まだ穏やかだった。
はじまった!
1989年だ
愛知県ホロライブ高校
ここから伝説が始まるのか
こよ監督きちゃあああ
その春、ひとりの女性がホロライブ高校の校門の前に立っていた。
博衣こより。
帽子を深く被り、ロングコートを羽織り、片手には書類の束。帽子の端からは、隠しきれなかったコヨーテ耳が少しだけ出ている。本人はきっと隠しているつもりなのだろうが、画面越しにはかなり目立っていた。
それでも、彼女の目は前を向いていた。
緊張していないはずがない。初めての学校。初めての野球部。初めての監督。けれど、その足は校門の前で止まらなかった。
『いざゆかん! ホロライブ高校、全国制覇を目指します!』
名門にするぞ
まずは弱小からだ
全国制覇!?
夢はでっかく
こよならやれる
まだ、誰も知らない。
この学校が、どんな夏を迎えるのか。この野球部が、どんなチームになっていくのか。この監督が、何度叫び、何度泣き、何度選手を信じることになるのか。
ただ、この時のホロライブ高校は、まだ何者でもなかった。
強豪でもない。名門でもない。甲子園常連校でもない。
ただの、これから始まる野球部だった。
校長室は、思っていたよりも静かだった。
壁には校訓らしき額が飾られ、窓際には観葉植物が置かれている。重すぎるわけではないが、どこか背筋が伸びる空気があった。
こより監督は、書類を抱えたまま椅子に腰かける。その向かいに座っていたのは、ホロライブ高校の校長だった。
「博衣こより監督、お疲れ様です」
谷郷校長は、穏やかな声でそう言った。
柔らかい口調だった。ただし、そこに軽さはない。学校を預かる者として、目の前の新任監督をまっすぐ見ている。
「本日から、ホロライブ高校野球部の監督をお願いすることになります。博衣こより監督、どうぞよろしくお願いします」
「は、はい! こちらこそ、よろしくお願いします!」
こより監督は勢いよく頭を下げた。勢いがよすぎて、抱えていた書類が少し揺れる。
画面の向こうで、コメント欄がすぐ反応した。
かわいい
緊張してる
監督初日だ
書類落としそう
YAGOO校長!?
谷郷校長は、そんな様子にも穏やかな笑みを崩さなかった。
「ホロライブ高校には、以前から野球部があります。選手たちも、決して悪くありません。粒揃いの子たちもいます」
「おお……!」
こより監督の目が少しだけ輝く。
けれど、続く言葉で空気は引き締まった。
「ただ、まだ強豪とは呼べません」
「……はい」
「これまでは、教師が他の業務と兼任する形で指導していました。ですが、野球部を本格的に育てていくためには、専門の監督が必要だと判断しました」
こより監督は、黙って話を聞いている。配信の声も、少しだけ真面目になっていた。
『なるほど……つまり、こよが呼ばれたということですね』
呼ばれた名将
専門の監督きた
責任重大
弱小校を育てるやつだ
栄冠ナインだこれ
谷郷校長は、机の上に置かれた野球部の資料へ目を落とした。
「目標は、まず県大会で結果を残すことです。そして、いつかは甲子園へ。簡単な道ではありませんが、みなさんの力を信じています」
そこで、校長は顔を上げた。
「こより監督」
「はい」
「どうか、野球部をよろしくお願いします」
その言葉は、派手ではなかった。
叫びでも、煽りでも、劇的な宣言でもない。けれど、ここから始まる物語には、十分すぎる言葉だった。
こより監督は、一度だけ深く息を吸う。そして、しっかりと頷いた。
「はい。ホロライブ高校野球部、必ず強くしてみせます!」
コメント欄が少しだけ早くなる。
言った!
これは名将
頼むぞ監督
甲子園いこう
ホロライブ高校、始動
この時点では、まだ全国制覇など遠すぎる夢だった。強豪どころか、県大会を勝ち抜ける保証もない。
けれど、夢を口にするところからしか、物語は始まらない。
校長室を出ると、廊下にはひとりの女性が待っていた。
「博衣監督ですね。初めまして。校内の案内を担当します、Aちゃんです」
「Aちゃんさん! よろしくお願いします!」
「はい、よろしくお願いします」
Aちゃんさんは、明るく丁寧に微笑んだ。
校長室の少し硬い空気とは違う。学校の廊下に近い、現場の空気をまとっている人だった。こより監督が少しほっとしたように見えたのは、画面越しでも分かった。
Aちゃんさんだ
安心感ある
現場担当だ
助かる
「これから、職員室、部室、グラウンド、それから野球部で使う施設を案内しますね」
「お願いします!」
廊下を歩きながら、Aちゃんさんは手元の資料をめくる。
「野球部の正式な指導開始は、4月10日からになります。それまでに、選手名簿や練習環境、必要書類を確認していただく形ですね」
「4月10日……分かりました!」
「部活動の予定表や、練習申請の書類もこちらでまとめています。分からないことがあれば、遠慮なく聞いてください」
「はい! こよ、頑張って覚えます!」
こより監督は、受け取った書類をぎゅっと抱えた。
職員室。部室。グラウンド脇の倉庫。用具置き場。野球部の掲示板。ひとつひとつ案内されるたびに、画面の中の学校が、少しずつただの背景ではなくなっていく。
ここが拠点か
部室あるのいいな
グラウンド広い
ここから育てるのか
ホロライブ高校感出てきた
最後に、Aちゃんさんは一枚の名簿をこより監督へ渡した。
「こちらが、現在の野球部員の名簿です」
「名簿……」
こより監督は、紙に並んだ名前を見る。
まだ、顔は分からない。声も分からない。どんな打ち方をするのか、どんな投げ方をするのか、どんな性格なのかも分からない。
ただ、名前だけが並んでいる。
それでも、その紙の重みは軽くなかった。
この名前たちが、これから自分の選手になる。この名前たちと、夏を迎える。この名前たちを、勝たせるために考える。
『うわあ……始まるんだね、これ』
こより監督の声に、少しだけ実感が混じった。コメント欄も、それを感じ取っていた。
名簿きた
ここからだ
まだ知らない名前たち
でも選手なんだよな
始まる感じすごい
紙の上の名前は、まだ物語ではない。
けれど、物語はいつだって、最初は名前から始まる。
窓の外では、春の風が吹いていた。グラウンドの方から、かすかに金属音が聞こえる。誰かがバットを振っている。誰かがボールを投げている。誰かが声を出している。
まだ、その誰かの名前を、こより監督は知らない。
エースになる選手も。
打線を支える選手も。
夏のピンチでマウンドに立つ選手も。
最後の一打を放つ選手も。
この名簿の中にいるのかもしれない。あるいは、これから入ってくる新入生の中にいるのかもしれない。
画面の向こうでは、コメント欄がまだ笑っていた。
初めての監督。初めての学校。初めての名簿。全国制覇という夢は、あまりにも遠い。県大会の初戦突破でさえ、まだ確かなものではない。
それでも、胸の奥に小さな火が灯る。
ホロライブ高校野球部。
まだ何者でもないチーム。まだ弱くて、まだ知られていなくて、まだ始まったばかりのチーム。
けれど、ここから始まる。
『ホロライブ高校、ここから強くしていきます!』
こより監督が言う。
その声には、まだ少し緊張が残っていた。でも、校門の前に立っていた時よりも、ほんの少しだけ前を向いていた。
コメント欄が流れる。
いけえええ
ホロライブ高校、始動
まずは初戦突破
こよ監督がんばれ
甲子園行こう
ここから伝説
博衣こより監督の、最初の一日が動き出した。