こより監督とホロメンたちの栄冠ナイン 2022年、ホロライブ高校始動 作:きのこ大三元
こよロー。
最初にそう呼ばれた時、博衣こよりは、少しだけ目を瞬かせた。
こよロー。強そうで、速そうで、なんとなく外野を走り回っていそうな名前。それでいて、少しだけくすぐったい。口の中で転がしてみると、思っていたより悪くなかった。
自分の名前は、博衣こより。
けれど今日から、この野球部にはもうひとりの博衣こよりがいる。あちらは監督で、こちらは選手。同じ名前を持つ、まったく別の博衣こより。
それだけなら、きっとややこしいだけだった。監督が呼ばれたのか、選手が呼ばれたのか、どちらが返事をすればいいのか。初日から混乱する未来が、こよりにも少しだけ見えた。
けれど、こより監督は笑って言った。
選手のこよりちゃんは、こよローで。
その瞬間、ただ同じ名前だったものが、少しだけ特別なものに変わった気がした。
「こよロー……」
もう一度、声に出してみる。
悪くない。むしろ、かなりいい。
こよりは体育館の隅で、自分の名札を見下ろした。そこにはまだ普通に「博衣こより」と書かれている。けれど頭の中では、その横にもうひとつの名前が並んでいた。
博衣こより。
こよロー。
ホロライブ高校野球部、1年生外野手。
そう思っただけで、胸の奥が少し弾んだ。
新しい学校。新しいチーム。新しい監督。そして、新しい呼び名。今日、自分はこのチームの一員になったのだと、ようやく実感できた気がした。
「こよローちゃん」
隣から声がした。
振り向くと、同じ1年生の夜空メルが、少し照れたように笑っていた。
「もう、そう呼んでもいい?」
「もちろん!」
こよりはすぐに頷いた。
「こよロー、強そうでいいでしょ?」
「うん。なんか、すごく走りそう」
「走るよ! 外野だし!」
「打つのも?」
「打つ!」
「守るのも?」
「もちろん守る!」
勢いよく答えると、メルはぱちぱちと瞬きをした。少し驚いた顔をして、それから明るく笑う。
「すごい。全部なんだ」
「うん。全部できるようになりたい」
それは、こよりにとって当たり前の答えだった。
打ちたい。走りたい。守りたい。バットを振れば、できるだけ遠くへ飛ばしたい。塁に出たら、次の塁を狙いたい。外野に打球が飛んだら、誰よりも早く追いつきたい。
野球の中にある全部が、こよりには面白く見えていた。ひとつだけでいいとは思えない。打つだけでは足りない。走るだけでも足りない。守るだけでも足りない。
全部できた方が、きっと勝てる。
全部できた方が、きっと楽しい。
「メルメルも、一緒に外野やろうね!」
「う、うん! 私、まだ全然だけど……」
「じゃあ、一緒に上手くなればいいよ!」
こよりがそう言うと、メルは少しだけ目を丸くした。
「一緒に?」
「うん。一人で外野守るわけじゃないし。メルメルもいて、先輩たちもいて、みんなで守るんでしょ?」
言ってから、こよりは少しだけ考えた。
まだ、先輩たちの名前も全員は覚えきれていない。グラウンドの使い方も、部室の場所も、道具の片付け方も、これから覚えることばかりだ。
それでも、ひとつだけ分かる。
野球は、一人でやるものではない。
どれだけ走れても、どれだけ打てても、どれだけ守れても、ひとりでは試合に勝てない。なら、きっと大事なのは、こよローだけが強くなることではない。
みんなで強くなることだ。
「……こよローちゃんって、前向きだね」
メルがぽつりと言った。
「そうかな?」
「うん。なんか、見てると私も頑張れそう」
「ほんと?」
「ほんと」
その言葉は、こよりの胸にすとんと落ちた。
誰かにそう言ってもらえるのは、少し不思議だった。自分はただ、やりたいことを言っただけだ。走りたい。打ちたい。守りたい。勝ちたい。それだけなのに、誰かが頑張れそうだと言ってくれる。
それは、思っていたよりずっと嬉しかった。
「じゃあ、こよロー、もっと頑張る!」
「ふふ、そこに繋がるんだ」
「だって、頑張った方がいいでしょ?」
「うん。いいと思う」
体育館の外から、春の風が入ってきた。入学式の空気が、少しずつ部活動の空気へ変わっていく。
同じ1年生たちの声がする。
大神ミオは、杉谷マネージャーから投手練習の場所を聞いていた。猫又おかゆは、練習着の袖を軽く引っ張りながら、どこか眠そうに周りを見ている。赤井はあとは、さっそく大きな声で挨拶の練習をしていた。獅白ぼたんは、落ち着いた様子で三塁側のグラウンドを眺めている。
みんな、違う。
声も、立ち方も、目線も、野球との向き合い方も。
けれど、同じ1年生だった。
今日から、同じチームだった。
こよりは、少しだけこより監督の方を見る。
監督は、杉谷と予定表を見ながら、何かを真剣に考えていた。まだ、監督も慣れていないのだと思う。さっきの顔合わせでも、同じ名前だと分かった瞬間、ほんの少し固まっていた。
けれど、その後すぐに笑ってくれた。
こよローという呼び名をくれた。
それが、こよりには嬉しかった。
同じ名前で困らせてしまったかもしれない。紛らわしいと思われるかもしれない。けれど、監督はそれを面白がるように、新しい名前へ変えてくれた。
なら、自分はその名前で頑張ればいい。
こより監督に呼ばれた時、ちゃんと胸を張れる選手になればいい。
こよロー、と呼ばれた時。
外野へ走っていける選手に。
打席へ向かえる選手に。
チームのために、次の塁を狙える選手に。
そうなればいい。
「こよローさん」
今度は、杉谷の声だった。
「はい!」
こよりは思わず大きな声で返事をした。杉谷が少し驚いて、それから笑う。
「いい返事ですね」
「ありがとうございます!」
「このあと、グラウンドで最初の練習方針を決めます。準備しておいてください」
「はい!」
グラウンド。
その言葉を聞いただけで、胸の奥が少し熱くなる。
外に出れば、土がある。白線がある。外野がある。空が広い。
外野から見る空が、こよりは好きだった。内野よりも少し遠くて、打席よりも少し静かで、けれど試合の流れを全部見渡せる場所。打球が上がった瞬間、誰よりも早く動かなければならない場所。
追いつけるかどうか、ほんの一歩で決まる場所。
こよりは、その一歩が好きだった。間に合うかもしれない。届くかもしれない。刺せるかもしれない。そう思って走る瞬間が好きだった。
バットを握るのも好きだ。
打席に立つ前の、胸が少し高くなる感じ。ボールが来るまでの短い時間。振り抜いた後、打球の行方を追う瞬間。
うまくいかないこともある。空振りすることもある。打ち損じることもある。けれど、それでもまた打ちたいと思う。もっと上手くなりたいと思う。
だから、こよりは野球が好きだった。
「こよローちゃん、行こ」
メルが声をかける。
「うん!」
こよりは頷いて、練習用の帽子を被り直した。
まだ、新しい帽子は少し硬い。練習着も、スパイクも、まだ完全には馴染んでいない。けれど、それでいい。今日から馴染ませていけばいい。
一歩ずつ。
走って。
振って。
守って。
何度も土を踏んで、何度もバットを振って、何度も外野を駆ければいい。
体育館を出る直前、こよりはもう一度だけ振り返った。そこには、こより監督がいた。
同じ名前の監督。けれど、今はもう混乱しない。
監督は、こより監督。
自分は、こよロー。
ホロライブ高校野球部の、1年生外野手。
「こよロー、頑張ります」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。
その名前は、さっきより少しだけ自分のものになっていた。
外では、春のグラウンドが待っている。
まだ、何も成し遂げていない。まだ、何も証明していない。
けれど、こよりは知っている。
物語は、いつだって最初の一歩から始まる。
そして自分は、その一歩を早く踏み出したくて仕方がなかった。