こより監督とホロメンたちの栄冠ナイン 2022年、ホロライブ高校始動 作:きのこ大三元
4月17日、月曜日。
練習後のグラウンドには、夕方の光が残っていた。
さっきまで白球が飛び交っていた外野には、もう人影が少ない。薄くなった白線。スパイクで荒れた土。片付けられていくボールかご。部室へ戻る1年生たちの声。
その中で、稲葉は外野の方を見ていた。
正確には、外野にいたひとりの新入生を見ていた。
博衣こより。
ただし、監督と同じ名前ではややこしいということで、チーム内では早くも別の呼び名が生まれていた。
こよロー。
本人はその呼び名を、ずいぶん気に入っているらしい。今日も練習中、誰かにそう呼ばれるたびに、ぱっと顔を上げていた。
無邪気だと思う。
明るいとも思う。
新入生らしいとも思う。
けれど、稲葉が見ていたのはそこではなかった。
打球への一歩目。
ボールを追う時の目線。
送球へ移るまでの早さ。
素振りの時、バットの先まで意識が通っているような軌道。
まだ高校野球に慣れていない部分はある。先輩との距離感も、練習の流れも、グラウンドの使い方も、どこか探っている。
それでも、動きに迷いが少なかった。
外野に飛んだ打球に、誰よりも早く反応する。
走り出す前から、落下点が見えているような足の運びをする。
バットを振れば、楽しそうなのに、音だけは鋭い。
ただの元気な1年生ではない。
監督と同じ名前で、少し目立っているだけの選手でもない。
「……すごい後輩が入ってきたな」
稲葉は、小さく息を吐いた。
頼もしい。
それは本当だった。
あれだけ動ける1年生が入ってきたのなら、チームは確実に強くなる。夏へ向けて、外野の層も厚くなる。勝つためには、いい選手が増えるに越したことはない。
けれど、頼もしいだけでは終わらない。
胸の奥が、少しだけざわついていた。
稲葉は、2年生だった。
このグラウンドを、こよローたちより1年長く知っている。
去年の夏の暑さも、冬の冷たい風も、雨上がりのぬかるんだ土も知っている。
負けた試合も知っている。練習しても上手くいかない日も知っている。誰も大きな声を出せず、グラウンドの空気が重くなる日も知っている。
ホロライブ高校は、強豪ではない。
名門でもない。
自分たちはまだ、何かを成し遂げたチームではない。
それでも、ここで練習してきた。
毎日、バットを振った。ボールを追った。走った。声を出した。
その時間がある。
新入生が入ってきたからといって、それまでの時間が消えるわけではない。
だが、勝負の世界は優しくない。
先輩だから試合に出られるわけではない。2年生だから守る場所が保証されるわけでもない。去年からいるからといって、今年の夏も同じ場所に立てるとは限らない。
監督は、勝つために選ぶ。
それはきっと、博衣こより監督がどれだけ優しい声で選手を励ましても変わらない。
勝つために、守れる選手を使う。
勝つために、打てる選手を使う。
勝つために、走れる選手を使う。
なら、自分も選ばれる選手でなければならない。
こよローが入ってきたことで、稲葉はそれを改めて突きつけられた気がした。
「稲葉」
後ろから声がした。
振り返ると、同じ上級生のひとりが、片付けの終わったボールかごを抱えて立っていた。
「今日、やけに気合い入ってたな」
「そうですか?」
「そうだよ。返球、いつもより低かったし。ノックも一歩早かった」
稲葉は、軽く肩をすくめた。
「新入生に、いいところ見せないといけないですから」
「はは、先輩の意地ってやつか」
「まあ、そんなところです」
冗談のように返した。
だが、半分は本音だった。
新入生にいいところを見せたい。
それもある。
けれど、それだけではない。
あの1年生たちは、ただ後ろについてくるだけの存在ではなかった。
ミオは、投手練習で一球ごとに前へ出ようとしていた。
おかゆは、静かに自分の感覚を探っていた。
はあとは、捕手として大きな声を出していた。
ぼたんは、三塁で強い打球を待っていた。
メルは、まだぎこちなくても食らいついていた。
そして、こよローは。
放っておけば、きっと目立つ。
試合に出れば、もっと目立つ。
そんな予感があった。
「1年、なかなか面白そうだよな」
上級生が言う。
「はい」
「特に、あの外野の子」
名前を出されなくても分かった。
「こよロー、ですか」
「そうそう。監督と同じ名前の子。あれ、かなり動けるだろ」
「動けますね」
稲葉は、短く答えた。
認めない理由はなかった。あの動きを見て、何も感じない方が嘘になる。
「稲葉もうかうかしてられないな」
からかうような声だった。
稲葉は少しだけ笑った。
「そうですね」
その返事は、自分でも思ったより素直だった。
うかうかしていられない。
本当に、その通りだった。
片付けが進む中、稲葉はバットを手に取った。
もう全体練習は終わっている。監督から追加練習を指示されたわけでもない。杉谷の練習メモにも、今から素振りをしろとは書かれていない。
ただ、もう少し振っておきたかった。
グラウンドの端で構える。
一本。
バットが空を切る。
もう一本。
振り終わった後、足元の土が少しだけ削れる。
外野手として、守れるだけでは足りない。
打てなければ、試合には出られない。走れるだけでも足りない。肩が強いだけでも足りない。
チームが弱いうちは、誰かひとつの力だけに頼ることはできない。
打って、走って、守る。
それをどれだけ高いところで揃えられるか。
稲葉には、自分なりの自信があった。
少なくとも、外野の動きでは簡単に後輩へ負けるつもりはない。
だが、今日見たこよローの動きは、その自信を少し揺らした。
あの1年生は、楽しそうに練習していた。
何度バットを振っても、どこか前のめりだった。うまくいけばすぐ笑う。次の一本をすぐ求める。走れば、もっと先の塁を見ているような顔をする。
才能がある。
その言葉で片付けるのは簡単だった。
だが、才能のある選手ほど厄介だ。
才能があって、なお楽しそうに練習する選手は、もっと厄介だ。
「……面白い後輩が入ってきたな」
昼間と同じ言葉が、もう一度口からこぼれた。
今度は、少しだけ笑っていた。
「稲葉先輩?」
背後から声がした。
振り返ると、こよローが立っていた。
手には、練習用の手袋を持っている。忘れ物でも取りに戻ってきたのだろう。
「まだ練習してるんですか?」
「少しだけな」
「すごいです。全体練習、さっき終わったのに」
「それを言うなら、お前も戻ってきてるだろ」
「あ、こよは忘れ物です」
こよローは、持っていた手袋を見せるように軽く上げた。
「初日から忘れ物か」
「初日じゃないです! もう一週間くらい経ってます!」
「まだ一週間だろ」
「あ、そっか」
こよローは、少しだけ照れたように笑った。
その反応に、稲葉は少し調子を狂わされた。
練習中の動きは、ずいぶん鋭い。外野に立てば、ただの新入生とは思えない。
けれど、こうして話せば、やはり入ったばかりの1年生だった。
「先輩のスイング、すごく綺麗です」
こよローが、唐突に言った。
「……俺の?」
「はい。振った後、体が全然ぶれてなかったです。こよも、ああいうふうに振れるようになりたいです」
まっすぐな声だった。
お世辞ではない。
先輩だから気を遣った、という感じでもない。
本当にそう思ったから言った。
そういう言い方だった。
稲葉は、一瞬だけ言葉に詰まった。
自分は、少しだけこの後輩を意識していた。
同じ外野手として。
強い新入生として。
自分の場所を脅かすかもしれない存在として。
けれど、当の本人は、そんなことを考えていないような顔でこちらを見ている。
まっすぐに。
眩しいくらいに。
「……お前も、なかなかだよ」
稲葉は、ようやくそう返した。
「本当ですか?」
「ああ。外野の一歩目、速い。打球への入り方も悪くない。バットも振れてる」
「やった!」
こよローは、ぱっと笑った。
あまりにも素直に喜ぶので、稲葉は少しだけ苦笑する。
「でも、まだ高校の練習には慣れてないだろ」
「はい。正直、覚えることがいっぱいです」
「なら、焦るな。最初から全部やろうとすると、どこかで崩れる」
「はい!」
「それと、外野は足が速いだけじゃだめだ。打球判断、返球、カバー。全部いる」
「はい! 覚えます!」
返事が早い。
その分、ちゃんと聞いているのか少し怪しい。
けれど、目は真剣だった。
「稲葉先輩」
「なんだ?」
「また、外野のこと教えてください」
稲葉は、少しだけ目を細めた。
自分の場所を脅かすかもしれない後輩。
同じ外野手。
監督と同じ名前の、少し特別な1年生。
その後輩が、何のためらいもなく教えてほしいと言っている。
敵ではない。
けれど、ただの後輩でもない。
競う相手で、同じチームの仲間。
そういう存在なのだと、稲葉は思った。
「いいよ」
短く答える。
こよローの顔が、また明るくなった。
「ありがとうございます!」
「その代わり、簡単に追いつけると思うなよ」
「はい!」
即答だった。
稲葉は思わず笑った。
「そこは、はいって言うところなのか」
「こよ、追いつけるように頑張ります!」
「……そうか」
真っ直ぐすぎる返事だった。
調子が狂う。
けれど、悪い気はしなかった。
こよローが部室へ戻っていった後、稲葉はもう一度外野を見た。
夕方の光は、さらに低くなっている。外野の芝の色が、少しだけ濃く見えた。
まだ、何も決まっていない。
夏のレギュラーも。
打順も。
誰が外野に立つのかも。
誰がベンチで声を出すことになるのかも。
監督だって、まだチームを知り始めたばかりだ。杉谷も内匠も、これから忙しくなる。1年生たちも、まだ高校野球の入り口に立ったばかり。
それでも、稲葉にはひとつ分かったことがあった。
あの1年生は、きっと強くなる。
放っておいても伸びる。
練習を楽しめる。
人の言葉をまっすぐ受け取れる。
自分より上手いものを見た時に、素直に吸収しようとする。
そういう選手は、強くなる。
なら、自分も負けていられない。
嫉妬ではない。
腹立たしさでもない。
少しだけ悔しくて、少しだけ嬉しい。
後輩がすごい。
それはチームにとっていいことだ。
けれど、だからといって自分が下がる理由にはならない。
このグラウンドで1年長く練習してきた。外野から見てきた景色がある。負けた試合を知っている。足りなかったものを知っている。
その時間を、簡単に薄めるつもりはなかった。
稲葉は、最後にもう一本だけバットを振った。
さっきより少しだけ、音がよかった。
振り終わった後、手の中に残る感覚を確かめる。
悪くない。
少なくとも、今日の最後の一本としては悪くない。
バットを肩に担ぎ、片付けへ向かう。
グラウンドの向こうでは、部室の灯りがつき始めていた。1年生たちの声が、まだ少し聞こえる。
こよローという新しい才能が入ってきた。
ミオやおかゆたちも、これから伸びていくだろう。はあと、ぼたん、メルも、それぞれ違う形でチームを変えていくはずだ。
1年生たちは、きっとこのチームを変える。
だが、ホロライブ高校は1年生だけのチームではない。
去年からここで練習してきた選手たちがいる。
負けた悔しさを知っている先輩たちがいる。
まだ終わっていない上級生たちがいる。
稲葉は、外野を見た。
まだ誰の場所でもない。
けれど、自分が守ってきた場所でもある。
この場所は、まだ渡さない。
でも、隣に並ぶなら悪くない。
そう思えた。
春のグラウンドに、静かな競争が生まれた。
それは、誰かを蹴落とすためのものではない。
互いに前へ進むためのものだ。
ホロライブ高校の外野は、少しだけ熱を帯び始めていた。