激しい雨だった。
富士の裾野、静岡県駿東郡小山町。
夜の帳が降りた一角で、トタン屋根を叩く激しい雨音が、世界を白く塗り潰している。
工具の冷たい金属音が反響する「一ノ瀬オートサービス」のピットの奥。
19歳の一ノ瀬美織は、おとなしく、言葉少なに佇んでいた。
彼女の視線の先には、キャリアカーから降ろされたばかりの1台の車がある。
新型の、スバル・BRZ。
その塗装(サファイアブルー・パール)を見た瞬間、美織の胸の奥が小さく跳ねた。
3年前、41歳の若さで不慮の事故により急逝した父・寛太が、かつてMFGの黎明期に共に戦っていたZC6型と、全く同じ色の深みを持っていたからだ。
「300馬力以下――それが今年から新設される、フレッシュマンシリーズの絶対ルールだ」
頑固一徹な祖父であり、この工場の社長である69歳の郷太が、ハイライトの煙を吐き出しながら告げる。
「お前がカートで培った腕を本物の公道で試したいってなら、この車をくれてやる。ただし、タダじゃねえ。勝ち上がった賞金で、車両代も、これから俺が仕込むパーツ代も、全額耳を揃えて一ノ瀬オートサービスに支払いな。それが条件だ」
身長152センチ。あまりにも小柄なその少女は、ヘルメットを小脇に抱え、瞳の奥に静かな炎を灯して短く答えた。
「……わかった。これで、父さんのところまで行く」
郷太による、19歳の美織のためだけの狂気的な「調律」が始まった。
パワーを競う必要はない。300馬力の天井があるならば、やるべきことは一つ。
郷太は黙々とトランスミッションを引き抜き、駆動の逃げを1ミリも許さない本格的なレーシングツインクラッチを仕込み、左右のタイヤが冷徹に路面を掴む機械式のデフを組み上げていく。
さらに郷太は、美織の華奢な体を運転席に滑り込ませ、ミリ単位で位置を測った。
「足が届かねえ、手が遠い、そんな言い訳は峠じゃ通用しねえんだよ」
お尻の座面を底上げし、クラッチペダルの無駄な奥の空振りをストッパーで詰め、遠くなった特別なステアリングを40ミリ手前に引き出す。
数週間後。
曖昧な「遊び」を100%排除され、まるで巨大なレーシングカートへと変貌したBRZのドアに、郷太の手によって「F24」の白いゼッケンが貼り付けられた。2400ccの自然吸気のまま、ハダカの235馬力で真っ向勝負する、美織の決意の数字だ。
美織が、ウルトラスエードの黒いバケットシートに深く腰掛け、プッシュスタートを押す。
――ドオッ!!
ピット内に、等長のエキマニが奏でる、乾いた、甲高い、どこまでも透き通ったNAのレーシングサウンドが炸裂した。
美織が左足で、純正の2倍重いクラッチペダルを鋭く踏み込む。
車内に「シャラン…」と冷たい金属の擦れる音が響く。それが、彼女が本気でギヤを叩き込む合図だった。
1速へとシフトを吸い込ませ、クラッチをミートした瞬間。
サファイアブルーのBRZは、激しい雨の小山町から、乙女峠の深い闇の向こう――佐藤昴や工藤彗星の待つ、箱根・芦ノ湖GTの戦場へと矢のように飛び出していった。
とりあえず主人公設定置いておきます。
一ノ瀬美織(いちのせ みおり)
搭乗車種:SUBARU・BRZ R(ZD8型)
MFGゼッケンナンバー:F24
車体色:サファイアブルー・パール
年齢:19歳(1話時点)
実家・拠点:静岡県駿東郡小山町「一ノ瀬オートサービス」
本作の主人公。19歳の女性ドライバー。
普段は言葉数が少なくおとなしい寡黙な少女だが、ヘルメットを被りコックピットに収まると、その瞳には父譲りの熱い走りの炎が灯る。本人曰く身長152cm、体重は非常に小柄。
元プロレーサーでMFGパイロットでもあった亡き父・寛太の英才教育により、幼少期からレーシングカートを叩き込まれて育った。そのため、シートやペダルを介してマシンの挙動や路面の摩擦係数(μ)を正確にセンサーのように感知する、「本物の荷重移動」の天才的なセンスを持つ。
3年前に不慮の事故で父親を亡くし、一度は失意の底に沈むが、父の遺志とモータースポーツへの想いを受け継ぐことを決意。18歳で免許を取得後、祖父・郷太の経営する小山町の「一ノ瀬オートサービス」に入荷したサファイアブルーのBRZ(ZD8)に、かつて父が駆っていた先代BRZ(ZC6)の面影と強い運命を感じ、自身の無二の相棒とする。祖父とは「レースで勝ち上がった賞金で、車両代とすべてのカスタムパーツ代を全額支払う」という冷徹な約束を交わし、19歳にしてMFGフレッシュマンシリーズに身を投じる。