寄宿舎の玄関をくぐり、ラウンジへ続く階段を上っていく三人の足取りは、普段よりも幾分か重かった。
階段の途中で、ゴローはふと足を緩めた。
脳裏に蘇ったのは、二人が立ち去る際の光景だった。
『じゃあ僕たちは一旦、都市へ降りるよ♪すぐここへ来ちゃったからね、ナナとハチにあいさつしないと』
あの時のアルファは、まるで友人の家を訪ねてきたかのように気軽な口調でそう告げていた。
だが、本当にそれだけだったのだろうか。
わざわざAPE直属の親衛部隊が、この寄宿舎まで足を運んだ理由。
ゼロツーの危険性を告げることが目的だったのか。
それとも、他に何かあるのか。
考えても答えは出なかった。
「ナインアルファ...あいつ結局何しに来たんだろうな」
ゴローの疑問に前を歩いていたイチゴが立ち止まる。
「...わかんない......」
短い返事だった。
いつもなら、何らかの見解を示そうとするイチゴも、今回ばかりは判断できずにいた。
アルファの態度は気に入らない。
それでも、彼が語った過去の搭乗記録が事実だったとしたら。
ヒロはすでに二度もゼロツーと乗っている。
その事実が、何度も思考を遮った。
「生命を吸い取る呪い......本当なのかな......」
背後から聞こえたナオミの声は、普段の彼女からは想像できないほど頼りなかった。
両腕で自分の身体を抱くようにして、ナオミは階段の途中に立っていた。
指先が、制服の袖を強く握り込んでいる。
ヒロの身体に異変が起きているのではないか。
そんな疑念は、アルファと出会う以前から抱いていた。
あの少年の言葉によって、漠然とした心配が恐ろしい可能性へと変わってしまった。
イチゴは振り返り、ナオミの顔を見ると彼女自身も不安を抱えているはずなのに、自然と背筋が伸びた。
「私たちをからかっただけだよ。それに、いくらなんでも呪いなんてバカげてる」
言葉をはっきりと区切り、イチゴはそう断言した。
呪いなどという曖昧なものを信じる理由はない。
何より、アルファの話をそのまま受け入れてしまえば、ヒロとゼロツーを引き離すべきだという結論に行き着いてしまう。
だが、それが本当に正しいことなのか。
イチゴ自身にも、まだ分からなかった。
「そう...だよね」
ナオミは自分に言い聞かせるように頷いた。
ゴローは、そんな二人の様子を黙って見ていた。
心から納得しているわけではない。
それでも、今はそう考えるしかなかった。
─────
翌日。
第13都市と第26都市のキッシング開始を記念し、両都市合同の友好セレモニーが執り行われた。
式典会場には、普段の戦闘準備とはまるで異なる華やかな光景が広がっていた。
磨き上げられた床の中央を、鮮やかな赤いカーペットが一直線に伸びている。
その上には、第13部隊と第26部隊のコドモたちが整列していた。
左右には、両都市の旗を掲げたオトナたちが規則正しく並んでいた。
頭上から降り注ぐ照明が、旗の装飾や式典用の制服を鮮明に照らし出す。
これほど多くのオトナを間近で目にする機会は、コドモたちにとって滅多にないことだった。
まして、自分たちのために式典が催されるなど、ほとんど経験がない。
ゾロメは落ち着きなく周囲を見回し、フトシは緊張した面持ちで背筋を伸ばしていた。
ツグミも、隣のクロと小声で何かを話しながら、目の前の光景に見入っている。
やがて会場に荘厳な音楽が流れ、壇上へ一人のオトナが進み出た。
第26都市の市長だった。
彼は両部隊を見渡すと、力強く声を張り上げた。
「諸君!!おぞましい叫竜たちは我々のマグマ燃料を狙い!大挙して襲ってくるであろう!!この両都市の運命は、パラサイト諸君にかかっている!!君たちは強い!!必ずや勝利をもたらしてくれると信じている!!!」
拡声された演説が、会場の隅々まで届く。
その言葉を受けたゾロメは、思わず胸を張った。
オトナから直接、強いと認められた。
しかも、両都市の運命を託されている。
それは彼にとって、何より誇らしいことだった。
フトシも嬉しそうに頷いている。
クロは興奮を抑えきれない様子で、壇上の市長を見上げていた。
続いて、第13都市の市長が演壇へ立つ。
彼はしばし会場を見渡し、先ほどの演説に応えるように両手を広げた。
「そして!! 勝利の栄光を掴み取ったその暁には、一人の欠けもなく、我が都市へ、諸君らの帰るべきこの家へと無事に帰還してほしい!!! 私は、我々は、諸君らの健闘と誇り高き凱旋を、心から祈っている!!!」
その声には、先ほどとは異なる温かみがあった。
勝利すること。
そして、全員が無事に帰ってくること。
帰るべき場所があるのだと、オトナが自分たちに語りかけている。
ヒロはその言葉を噛みしめるように聞いていた。
フランクスに乗れなくなった頃、自分はもう誰からも必要とされていないのではないかと思っていた。
けれど、今は違う。
自分にはストレリチアがある。
ゼロツーと一緒に、仲間たちの力になれる。
その思いが、彼の表情を明るくしていた。
一方、すぐ近くに整列している第26部隊のコドモたちは、ほとんど表情を変えていなかった。
背筋を伸ばし、前方を見据えたまま、静かに演説を聞いている。
幾度もの実戦を経験してきた彼らにとって、こうした式典も任務の一部なのだろうか。
少なくとも、第13部隊のように興奮を表に出す者はいなかった。
その違いに、ツグミは少し驚いた様子だった。
クロも隣の部隊へ目を向けたが、すぐに壇上へ注意を戻した。
オトナから期待され、必要とされる。
それだけで、これからの戦いに向けて勇気が湧いてくるようだった。
だが、13部隊の列には、その高揚から取り残された二人がいた。
イチゴとナオミだった。
二人とも姿勢を崩すことなく立っていたが、市長の言葉に心から喜ぶことはできなかった。
一人の欠けもなく帰還する。
その願いは、二人も同じだった。
だからこそ、アルファが語った話を思い出さずにはいられない。
次にヒロがゼロツーと乗った時。
もし、本当に命を落とすことになったら。
イチゴは無意識に指を握り締めていた。
ナオミもまた、整列するヒロの方を見たい衝動を堪えていた。
今、彼はどんな顔で演説を聞いているのだろう。
不安など感じていないのだろうか。
それとも、何かを隠しているのだろうか。
答えのない問いが、頭から離れない。
少し離れた位置にいたゴローは、二人の様子に気づいていた。
周囲が華やいでいるからこそ、彼女たちの沈んだ様子が目についた。
ゴローもまた、昨夜の会話を忘れてはいなかった。
それでも今は仲間たちと同じように前を向こうとしていた。
盛大な拍手が会場に広がる。
オトナたちの祝福を受けながら、第13部隊のコドモたちは、間もなく訪れる戦いへ思いを馳せていた。
◇
セレモニーの翌朝。
ミストルティンのラウンジには、早い時間から賑やかな話し声が溢れていた。
大きな窓から差し込む朝の光が、ソファやテーブルを明るく照らしている。
まだ朝食前だというのに、コドモたちは昨日の式典の話で盛り上がっていた。
「昨日のセレモニーすごかったな〜!私興奮してしばらく寝付けなかったもの!」
ココロがいつになく弾んだ声で話す。
普段は穏やかで控えめな彼女がこれほど興奮しているのは珍しく、隣にいたミクも楽しそうに頷いた。
「向こうの部隊のリーダーの人、いい人そうだったよね〜」
第26部隊のリーダー。
整然とした隊列の先頭に立っていた彼の姿は、ミクの記憶にも残っていた。
ココロが、何気ない調子で尋ねる。
「ミクはああいう人と乗ってみたい?」
「うちの男子に比べればマシよ」
ミクは即答した。
その遠慮のない物言いに、ココロは困ったように笑う。
ミクはさらに隣へ顔を向けた。
「そう思わない?」
話を振られたイクノは、腕を組んだまま窓の方を見ていた。
「別に、興味ないから」
そっけない返答だった。
ミクはつまらなさそうに口を尖らせる。
ココロは、そんな二人を見比べながら小さく笑った。
その時、ソファの反対側から威勢のいい声が飛んできた。
「オトナに期待されると気持ちが高ぶるよな〜!」
ゾロメだった。
背もたれに深く身体を預け、両腕を頭の後ろで組んでいる。
昨日の式典を思い返しているのか、その顔は満足げだった。
「うん!俺たち、必要とされてるんだ!」
フトシも嬉しそうに同意する。
その言葉が気に入ったのか、ゾロメは勢いよく立ち上がった。
片手を高く掲げ、わざとらしく咳払いをする。
「諸君!君たちは強い!必ずや勝利をもたらしてくれると信じている!」
昨日の第26都市市長の演説を真似たのだ。
声の張り方だけでなく、妙に大げさな身振りまで再現している。
フトシが吹き出し、ココロも口元を押さえて笑った。
ツグミは腹を抱え、ゴローも思わず笑みをこぼす。
気を良くしたゾロメは、今度は両腕を組んで胸を張った。
「そして勝利をもたらすのは、この俺様だッ!!」
その宣言に、ラウンジが一層賑やかになる。
ツグミはゾロメを指さし、笑いすぎて言葉にならない様子だった。
ヒロも仲間たちのやり取りを楽しそうに眺めていた。
以前なら、こうした輪の中にいても、どこか自分だけが取り残されているように感じたかもしれない。
けれど今は自然に笑うことができる。
その変化は本人にとっても嬉しいものだった。
イチゴも笑っていた。
ナオミもゾロメの大げさな仕草に口元を緩めている。
ただ、二人の意識は時折ヒロへ向かっていた。
何事もなかったかのように笑う彼を見ていると、アルファの言葉が脳裏をよぎる。
あの話を聞いた後では、以前とまったく同じ気持ちで接することは難しかった。
ゴローも、そのことを理解していた。
だが、今この場で不安を口にすれば、せっかくの明るい雰囲気を壊してしまう。
彼は何も言わず、仲間たちと一緒に笑っていた。
やがて、制服のポケットから短い電子音が鳴った。
ゴローが端末を取り出す。
画面に表示された連絡を確認すると、彼は姿勢を正した。
「みんな、ちょっといいか?」
ゾロメが演説の真似をやめ、周囲の会話も次第に収まる。
「ナナからの連絡で、ブリーフィングが始まるまでに26部隊のパラサイトと交流できるそうだ。誰か来る人はいるか?」
「マジで!?行く行く!!」
ゾロメが真っ先に手を挙げた。
「私も行きたーい!」
クロも負けじと腕を伸ばす。
第26部隊のコドモたちとは昨日の式典で顔を合わせたばかりだった。
彼らがどんな戦い方をするのか。
普段はどんな生活を送っているのか。
クロには聞いてみたいことがあった。
続いてフトシが手を挙げ、ツグミも参加を表明する。
イクノも控えめに手を上げた。
他に希望者がいないことを確かめ、ゴローは端末を操作した。
「もういないか?じゃあ、16時に駐機ドッグで集合だ」
ちょうどその時、エントランスホールに置かれた古い柱時計が時を告げた。
重厚な鐘の音が七つ、館内へ響き渡る。
午前七時。
それを聞いたフトシが、弾かれたように顔を上げた。
「ごはんだ!」
誰よりも早く立ち上がり、食堂へ向かって歩き出す。
鼻歌交じりの足取りは、実に軽やかだった。
ゾロメがその後を追い、ココロやミクたちも席を立つ。
ラウンジに残っていたコドモたちは、次々と階段へ向かっていった。
ヒロもその流れに加わろうとした。
だが、背後から声がかかる。
「ヒロ、ちょっと待って」
「......ん?」
振り返ったヒロの返事は、どこか上の空だった。
イチゴは彼の前に立つと、制服の襟元へ手を伸ばした。
片側だけ折れ曲がっていた襟を直そうとしたのだ。
それは、昔から何度もしてきた何気ない仕草だった。
しかし。
イチゴの指が首元へ近づいた途端、ヒロの身体が跳ねた。
反射的に一歩後ずさり、首を庇うように手を当てる。
その動きはあまりにも唐突だった。
イチゴは伸ばしかけた手を止める。
ヒロ自身も、自分が何をしたのか理解できていないようだった。
二人の間に、気まずい間が生まれた。
「...襟、折れてたから...」
イチゴは、行き場を失った手をゆっくり下ろした。
「......あ...」
ヒロが自分の襟に触れる。
確かに、片側が折れていた。
それに気づいた彼は、申し訳なさそうにイチゴを見た。
イチゴはそれ以上問い詰めなかった。
代わりに、いつものように呆れた口調を作る。
「全く、相変わらずだらしないんだから」
そう言って階段へ向き直る。
けれど、数段下りたところで足が止まった。
先ほどのヒロの反応が、どうしても気になった。
ほんの少し触れようとしただけなのに。
あんなふうに怯える必要が、どこにあったのだろう。
イチゴは手すりを握る。
あの事を聞かなければならない。
そう思った。
「ヒロ...アタシ聞いたんだ、ゼロツーの『パートナー殺し』の噂......それがもし本当だったら...次あのコと乗ったら死ぬかもしれないんだよ」
言葉にした瞬間、胸が苦しくなった。
次に乗れば、死ぬかもしれない。
自分の口からその可能性を告げることが、こんなにも恐ろしいとは思わなかった。
ヒロは、しばらく答えることができなかった。
イチゴの言葉を受け止めるように静かに立っている。
その沈黙の間に、昨夜の苦痛が思い起こされた。
胸の奥を焼かれるような痛み。
呼吸さえままならなかった時間。
あれが何を意味しているのか、ヒロにも分からない。
けれど、一つだけ確かなことがあった。
ゼロツーとなら、ストレリチアに乗れる。
もう一度、仲間と肩を並べて戦える。
ヒロはイチゴを見据えた。
「......それでも、ゼロツーとなら...まだ可能性が残されているなら、俺は乗るよ......」
迷いのない返答だった。
だからこそ、イチゴは苦しくなった。
彼の言葉を否定したい。
そんな危険なことはやめてほしい。
けれど、ヒロがどれほどフランクスに乗りたがっていたかを、自分は知っている。
彼からその希望を奪うことが、果たして正しいのだろうか。
イチゴは握り締めた拳に力を込めた。
「...覚悟、できてるんだ......」
自分の声が、思った以上に小さく聞こえた。
ヒロは何も言わない。
イチゴは、短く息を吸った。
「わかった、だったらもう止めない」
「イチゴ......?」
驚いたヒロの声が聞こえる。
しかし、イチゴは振り返らなかった。
今、彼の顔を見れば、決意が揺らいでしまいそうだった。
「アタシもリーダーとして、覚悟決めなきゃ」
それだけ告げて、階段を下り始める。
ヒロはしばらくその場に立っていたが、やがて彼女の後を追った。
二人の間には、もう会話がなかった。
ただ、先ほど交わした言葉だけが、互いの中に残っていた。
食堂へ入ると、その静けさを吹き飛ばすような声が響いた。
「あ!ダーリン、おはよう!」
ゼロツーだった。
ヒロの姿を見るなり、嬉しそうに駆け寄ってくる。
「あ、おはよう」
ヒロが返事をすると、ゼロツーは満足そうに笑った。
そして、彼の手を取る。
「こっち!」
迷うことなく、男子たちの席へ引っ張っていく。
イチゴは、その様子を入口から見ていた。
ほんの少し前まで、ヒロは死ぬかもしれないと告げられていた。
それなのに、ゼロツーの前ではいつものように笑っている。
その変化をどう受け止めればいいのか分からなかった。
「うああああ!?なんで女子がこっち来んだよ!」
ゾロメの悲鳴が食堂に響く。
ゼロツーはまったく気にせず、ヒロの隣に腰を下ろした。
そこはいつもフトシが座っている場所だった。
「そこ俺の席だし...」
フトシが困ったように訴える。
「そうだよ、あっちいけよ!」
ゾロメも抗議するが、ゼロツーはどこ吹く風だった。
その様子を見ていたイチゴが声を上げる。
「静かに!」
騒いでいた男子たちが、ぴたりと口を閉じた。
イチゴは食堂全体を見渡す。
「早く席について、お祈りの時間よ」
「ええ...でも、俺の席...」
フトシは未練がましく自分の席を見つめていた。
そんな彼にココロが声をかける。
「じゃあフトシくん、こっちに来る?」
空いている隣の椅子をそっと示した。
フトシの顔が一瞬で明るくなる。
思いがけない誘いに、返事をするより先に身体が動きかけていた。
一方、その光景を見ていたゾロメは何とも言えない顔になった。
ミクは呆れたように二人を眺め、イクノは少し居心地が悪そうに視線を逸らす。
ナオミは突然の席替えに戸惑い、クロはフトシの反応を面白そうに見守っていた。
やがて全員が席に着く。
食堂には、祈りの時間を告げる静けさが訪れた。
コドモたちは手を組み、目を伏せる。
ただ一人、ゼロツーを除いて。
彼女はテーブルの上に置かれた蜂蜜の容器を手に取り、惜しげもなく皿に乗っている料理に注ぎ始めた。
黄金色の液体が表面を覆い、皿の縁へと流れ落ちていく。
その隣で、ヒロは何とも言えない表情を浮かべていた。
「パパの喉が乾くことがないように。パパの心に未来永劫の平穏が訪れますように」
イチゴの朗誦が終わる。
「いただきます」
コドモたちが声を揃えた。
「いただきます」
食器の触れ合う音が、あちこちで鳴り始める。
すると、ゼロツーが蜂蜜まみれのパンを持ち上げた。
「はい、ダーリン。あーん」
「う、うん」
ヒロは少し躊躇った後、差し出されたパンに口を近づけた。
噛み締めると、濃厚な甘さが一気に広がる。
ゼロツーは彼の反応を待ちきれない様子だった。
「どう?」
「...うん、おいしいよ」
「ボクの分、全部食べていいよ」
嬉しそうに笑うゼロツー。
ヒロも照れくさそうに微笑んだ。
その様子を、ゴローは黙って眺めていた。
二人の距離の近さには、未だに驚かされる。
隣のツグミがそんなゴローに顔を寄せた。
「どうしたゴロー、同じことされたいのか?」
「いや、遠慮しとくよ」
ゴローは苦笑し、手元の食器へ視線を戻した。
しかし、ゾロメは違った。
フォークに刺したウィンナーを口へ運びながら、羨ましそうに二人を見ている。
「いいな〜、俺もああいうのやられてぇな〜」
「パートナーに頼んでみたらどうだ?」
ゴローが何気なく提案した。
「え〜?それならココロちゃんみたいなかわいい子が──」
そこまで言いかけた時だった。
彼の視界に、信じられない光景が飛び込んできた。
ココロがパンを手に持ち、隣のフトシへ差し出していたのだ。
しかも、先ほどのゼロツーとまったく同じように。
フトシは幸せそうに口を開けそのパンを頬張っている。
「ああああああ!!」
ゾロメの絶叫が食堂中に響き渡った。
何事かと、周囲のコドモたちが振り返る。
ココロが楽しそうに笑う。
「まねっこ!」
フトシは得意満面の笑みを浮かべ、ゾロメへピースサインを向ける。
その仕草がゾロメの悔しさをさらに煽った。
しかし、彼にとって本当の危機は別の方向から迫っていた。
「なーによ、すぐに影響されちゃって...!」
ミクだった。
彼女はゾロメの顔を覗き込むように身を乗り出している。
笑ってはいる。
だが、目が笑っていない。
「ヒィ......ッ!」
ゾロメは背もたれに身体を押しつけ、情けない声を漏らした。
ゴローは呆れながらも、思わず笑ってしまった。
いつも通りの騒がしい朝食。
彼らにとって何より馴染み深い時間だった。
ふと、ゴローはイチゴの方を見た。
彼女は周囲の騒ぎに加わることなく、静かに食事を進めていた。
ナイフで切り分けた料理を口へ運び、コップに入ったココアを見つめる。
何かを考えているのは明らかだった。
そのすぐ近くでは、ゼロツーが再びパンを差し出している。
「もっかい、あ〜ん♪」
楽しげな声がイチゴの耳にも届いた。
彼女は顔を上げなかった。
ただ、コップを握る指にほんの少し力が加わった。
一方、別の席では、クロが目を輝かせていた。
ゼロツーとヒロ、ココロとフトシ。
二組のやり取りを見ているうちに、自分も試してみたくなったらしい。
クロは隣のナオミへ身体を向けた。
手には自分の皿から取ったパンが握られている。
「...なに?」
突然顔を覗き込まれ、ナオミは不思議そうに尋ねた。
クロは満面の笑みを浮かべた。
「まねっこのまねっこ!あ〜ん!」
次の瞬間、パンがナオミの口元へ差し出される。
いや、差し出すというより、勢いよく迫ってきた。
「ま、待って!食べるから...!」
ナオミは慌ててクロの手を押さえた。
あと少し遅ければ、パンを顔に押しつけられていたかもしれない。
クロは悪びれた様子もなく、期待に満ちた目でナオミを見つめている。
その無邪気さに、ナオミは抵抗する気を失った。
姿勢を整え、差し出されたパンを一口かじる。
「どう?」
クロが身を乗り出す。
ナオミは口元を手で覆い、食べ物を飲み込んでから答えた。
「う、うん...!美味しいよ」
「やった♪」
クロは自分が褒められたかのように喜んだ。
ナオミはそんな彼女を見て、思わず笑みをこぼす。
まったく、この子は。
そう思いながらも、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
クロの明るさには相手の緊張をほどいてしまうようなところがある。
昨夜から抱えていたヒロへの不安も、その一瞬だけは意識の外へ追いやられていた。
しかし。
その光景を、別の感情で見つめている少女がいた。
イクノだった。
クロの反対側に座っていた彼女は、最初は二人のやり取りを気に留めていなかった。
少なくともそうするつもりだった。
食事を続けながら、何でもないこととして聞き流そうとした。
けれど、クロがナオミへパンを差し出した瞬間。
自分でも理解できない感覚が、胸の内側を掠めた。
不快感、苛立ち。
それとも、もっと別の何かなのか。
うまく言葉にできなかった。
クロは誰に対しても気さくに接する。
ナオミがクロにとって大切な仲間であることも、理解している。
だから、何もおかしなことはないはずだった。
それなのに。
楽しそうに笑うクロと、困りながらもその好意を受け入れるナオミ
その二人を見ていると、胸の内側に小さな棘が刺さったような気がした。
イクノは無意識にナオミを見ていた。
自分がどんな顔をしているのかも、気づかないまま。
「どうしたの、イクノ?」
突然、クロの声がした。
イクノの肩が僅かに跳ねる。
いつの間にかクロがこちらを見ていた。
「ッ!......なんでも...ないわ」
慌てて目を伏せる。
食器を持ち直し、何事もなかったかのように食事を再開した。
クロは首を傾げる。
何か気になることでもあったのだろうか。
しかし、イクノがそれ以上話そうとしなかったため、深く追及することはなかった。
すぐに自分の皿へ向き直り、残っていた料理を食べ始める。
イクノはその様子を横目で確認した。
どうしてあんな気持ちになったのだろう。
ナオミは何も悪くない、クロだっていつも通りだった。
それは分かっている。
分かっているのに先ほどの光景が頭から離れなかった。
イクノはフォークを握り直した。
食堂では、ゾロメとミクの言い争いがまだ続いている。
仲間たちの笑い声が響く中、彼女だけが、自分の中に生まれた感情の正体を探していた。
─────
朝食を終えると、コドモたちはそれぞれ自由な時間を過ごし始めた。
ラウンジで談笑する者。
中庭へ遊びに出る者。
書庫で本を読む者。
寄宿舎には、いつもの穏やかな時間が戻っていた。
そんな中、ヒロはゼロツーに頼まれ、館内を案内していた。
彼女がこれからここで暮らすことになった以上、生活の決まりを教えておく必要がある。
もっとも、ゼロツーがどこまで真面目に聞いているのかは分からなかった。
「ここではね、朝起きる時間も風呂に入る時間も夜寝る時間も決まってる。その日着る服も食事も、全部用意してくれてるんだ」
「ふ〜ん」
ゼロツーは、気のない返事をした。
その目は廊下の装飾や窓の外の景色へと忙しなく移っている。
ヒロは苦笑しながら歩き続けた。
やがて、二人は大きな窓の前で立ち止まった。
眼下には森が広がっており、ヒロにとっては見慣れた風景だった。
「この森全て、俺達パラサイトとパイロットの数値を調整するために作られてるんだって」
ゼロツーは、森ではなく、その上を覆う天井へ目を向けた。
鳥籠のように世界を閉ざす、巨大な構造物。
「空に蓋がしてあるのも?」
「......多分」
ヒロは少し考えてから答えた。
正確な理由を知っているわけではない。
自分たちがここで暮らすことになった時には、すでにこの環境が用意されていた。
疑問に思うことは、少しあるが。
「でも、屋根はあるけど雨は降るよ」
「あめ?」
ゼロツーが聞き返した。
初めて耳にするものの名前を確かめるような声だった。
ヒロは少し驚いた。
「うん、屋根から水が降ってくるんだ」
「なにそれ見たい!やってみて!」
ゼロツーはぱっと顔を輝かせ、ヒロへ詰め寄った。
その勢いにヒロは思わず後ずさる。
「ぇえっ?俺はできないよ、タイミングはパパ達が決めるんだ」
「やだ、今見たい、やってよ」
ゼロツーは子供のようにねだり、ヒロは困ってしまう。
雨を降らせることなど自分にできるはずがない。
けれど、目の前で期待に満ちた顔をしているゼロツーを見ていると、ただ無理だと言うのも申し訳なく感じられた。
しばらくして、ゼロツーはようやく諦めたらしい。
つまらなさそうに唇を尖らせ、再び窓の外へ目を向けた。
ヒロも隣に並ぶ。
森の木々が風に揺れる。
いつか、雨の降る日に案内してやれたら。
そんなことを何となく考えた。
その後、二人は男子棟へ向かった。
廊下を進み、ヒロたちの部屋へ入る。
ゼロツーは初めて見る部屋の中を、興味深そうに見回していた。
ヒロは、以前から少し気になっていたことを尋ねた。
「ところでさ、なんで急にここを案内してほしいって言い出したの?」
すると、ゼロツーは靴を脱ぎ手に持ち、ためらいもなくベッドへ飛び乗る。
柔らかな寝具が沈み、彼女の身体が軽く弾んだ。
「ん?なんでって...ボクもここに住むからさ、教えてもらおうと思ったんだ!」
答えながら、ゼロツーは楽しそうに跳ね続ける。
ヒロは呆気に取られた。
確かにここで暮らすのなら案内は必要だ。
しかし、男子棟の寝室まで見て回る必要があったのだろうか。
そう考えているところへ、扉が開いた。
戻ってきたのはゴローだった。
彼は部屋へ足を踏み入れた途端、動きを止めた。
自分たちの寝室。
そのベッドの上で、ゼロツーが楽しそうに跳ねている。
あまりにも予想外の光景だった。
さらに、廊下から騒ぎを聞きつけたゾロメが顔を覗かせた。
「な、なんで女子がここにいんだよ!男子棟に入ってくんなよ!」
「ご、ごめん!すぐ出てくからさ!」
ヒロは慌てて謝った。
ゼロツーの手を取り、ベッドから下ろそうとする。
「ゼロツー、行こ...!」
「え〜」
ゼロツーは不満そうだった。
せっかく面白い場所を見つけたのに、とでも言いたげな顔をしている。
しかし、ヒロは構わず彼女を連れ出した。
二人は手をつないだまま廊下の向こうへ走っていく。
「なんだよ、手なんか繋いじゃってさ」
ゾロメが去っていく二人の背中に向かってぼやく。
ゴローは返事をしなかった。
廊下の先へ消えていくヒロの姿をじっと見ていた。
あんなふうに笑うヒロを見るのは久しぶりだった。
それが嬉しい反面、どうしても不安が消えない。
ゴローは、ゆっくりと部屋の中へ目を戻した。
◇
時間が経ち、中庭の一角ではゴローとイチゴが壁際に立って話をしていた。
寄宿舎の外壁は日陰になっている部分だけ少し冷たかった。
二人の前には手入れの行き届いた庭が広がっており、遠くから遊んでいるコドモたちの声が聞こえてきた。
ゴローはしばらく庭を眺めていたが、やがてイチゴへ顔を向けた。
「どう思う、今日のヒロ?」
イチゴはすぐには答えなず、少し考えてから口を開く。
「...そうね、あんなに笑ってるヒロを見るのは久しぶり」
「ああ...でもさ、もし無理に明るく振る舞ってるだけだったら」
ゴローは言葉を濁した。
ヒロの笑顔が本物であってほしい。
それは彼の偽らざる願いだった。
しかし、以前からヒロは自分の苦しみを他人へ打ち明けるのが得意ではなかった。
何かを抱えていても平気だと言ってしまう。
だからこそ、今の明るさをそのまま信じていいのか迷っていた。
「本人がそう言ってるの?」
イチゴの問いにゴローは首を振った。
「いや、素直に話す性格じゃないだろ、アイツ」
ゴローはイチゴへ向き直った。
彼女なら、ヒロの本心を聞き出せるかもしれない。
そう考えていた。
「なあ、お前からも──」
しかし、その言葉は最後まで続かなかった。
「ゴロー、ヒロの心配もいいけどアタシたちのことを、まずはちゃんと考えなきゃ」
イチゴの声は静かだった。
けれど、はっきりとした意思が込められていた。
「...どういう意味だ?」
ゴローは戸惑った。
イチゴは壁から背を離し、彼の正面に立った。
「次の戦いはこれまで以上に厳しくなる。パートナーのゴローがそんなにフワフワしてたんじゃ、アタシも全力出せないよ」
ゴローは言葉を失った。
確かに、次の戦いはこれまで以上に危険なものになるだろう。
大量の叫竜が押し寄せる可能性もある。
デルフィニウムに乗る自分たちが集中を欠くわけにはいかない。
それは理解できる。
しかし、イチゴがヒロのことを心配していないはずもなかった。
むしろ、誰よりも気にかけている。
だからこそ、ゴローには彼女の言葉が少し意外だった。
イチゴは、そんな彼の反応を受け止めながらも、目を逸らさなかった。
ヒロの覚悟を聞いた。
もう止めないと、自分で決めた。
ならば、次は自分がやるべきことを果たさなければならない。
13部隊のリーダーとして。
ゴローのパートナーとして。
イチゴはそう自分に言い聞かせていた。
ゴローは彼女を見つめたまま、何も言えなかった。
二人の間を風が通り抜けていった。
◇
寄宿舎から少し離れた場所に、一棟の温室があった。
ガラス張りの屋根を通して、柔らかな光が室内へ降り注いでいる。
丁寧に手入れされた花々。
湿り気を帯びた土の匂いが、静かな空間に漂っていた。
その一角に、ミツルが一人で座っていた。
椅子へ深く腰掛け、両手を組んでいる。
目の前には色とりどりの花が咲いていたが、彼はそれを見ていなかった。
思い浮かぶのはヒロの姿ばかりだった。
今朝のラウンジ。
仲間たちに囲まれ、自然に笑っていたヒロ。
そして、先日の戦闘ではストレリチアを駆り、圧倒的な力で叫竜を打ち倒した姿。
あの時、自分は何をしていたのだろう。
ヒロが戦場を駆け抜けるのを、ただ見ていることしかできなかった。
かつて神童と呼ばれた少年。
フランクスに乗れなくなり、皆から置いていかれたはずのヒロ。
それなのに今は、自分よりも遥かに強大な力を手にしている。
ミツルは奥歯を噛み締めた。
(何故僕だけ...ヒロとボクは、何が違うんだ......ッ!)
認めたくなかった。
ヒロが再びフランクスに乗れるようになったことも。
その力が自分たちを救ったことも。
何より、自分が彼に嫉妬しているという事実を。
胸の内側で行き場のない苛立ちが膨らんでいく。
その時、温室の扉が開いた。
蝶番が小さく軋む。
ミツルが顔を上げると、入口にココロが立っていた。
手には水の入ったジョウロを持っている。
どうやら、植物の世話をしに来たらしい。
しかし、彼女はミツルの姿を見つけると、足を止めた。
いつもより険しい顔。
誰とも話したくなさそうな様子。
ココロは少し迷ってから、彼へ近づいた。
ミツルは立ち上がった。
「なんですか?」
その声には、相手を寄せつけまいとする硬さがあった。
ココロはジョウロを持ち直す。
「...ここに入ってくのが見えて...大丈夫?」
「別に平気ですよ」
ミツルは即答した。
しかし、ココロにはそうは見えなかった。
何かを考え込んでいたことは遠目にも分かった。
それでも、無理に聞き出すべきではないのかもしれない。
彼女は一瞬迷ったが、やはり放っておけなかった。
「もしかして何か悩んでる...かな?私で良かったら相談に──」
「放っておいてください」
鋭い声が言葉を断ち切った。
ココロは驚き、口を閉じる。
ミツルは彼女を見ようともしなかった。
「あなたに相談することなどありませんから」
突き放すように告げると、彼はココロの横を通り過ぎた。
足早に出口へ向かう。
扉が開き、閉まる。
温室に静けさが戻った。
ココロは、しばらくその場から動けなかった。
何か悪いことを言ってしまったのだろうか。
ただ、心配だっただけなのに。
そう思っても、ミツルを責める気にはなれなかった。
彼が何かに苦しんでいることだけは、伝わってきたからだ。
ココロはジョウロを持ち直した。
視線の先には、まだ水を与えていない花が並んでいる。
彼女はそっと歩き出したが、心の片隅には、ミツルの険しい横顔が残っていた。
◇
寄宿舎の書庫には、紙をめくる音だけが響いていた。
壁一面に並ぶ本棚。
古い装丁の書物や、植物、動物、歴史に関する図鑑。
窓から差し込む昼の光が机の上に淡い影を落としている。
そこには、三人の少女がいた。
イクノ、ナオミ、クロ。
イクノはいつものように小説を読んでいた。
ナオミは植物図鑑を広げ、ページに掲載された花の写真や解説に目を通している。
一方、クロは本棚の前を行ったり来たりしていた。
背表紙を眺め、気になった本を少し引き出しては戻す。
なかなか一冊に決められないらしい。
そんな中、ナオミが顔を上げずに声をかけた。
「ねえ、イクノ」
「なに?」
イクノは読書を続けながら答えた。
「今日のヒロ、少し変じゃなかった?」
ページをめくろうとしていたイクノの指が止まる。
彼女は少し考えた。
「そうかしら...でも、あんな元気なヒロは久しぶりに見た気がするわ」
「そう、だけど......私には無理してるように見えて、気の所為だといいんだけど......」
ナオミは図鑑へ目を落とした。
目の前には、美しい花の写真が載っている。
しかし、解説の文章がまったく頭に入ってこない。
イクノは本から目を離さずに答えた。
「気になるなら本人に聞けばいいじゃない」
「.......でも、ヒロが素直に話すとは思えないわ......」
ナオミは困ったように息を吐いた。
それができるのならとっくに聞いている。
しかし、ヒロは自分のことになると、妙に頑固なところがある。
苦しくても平気だと言い張る。
周囲に心配をかけまいとして、かえって無理をする。
昔からそういう少年だった。
ナオミはふと顔を上げた。
本棚の前では、クロがまだ次に読む本を探している。
「ねえ、クロは──」
そこまで言いかけて、ナオミは口を閉じた。
クロにヒロの様子を尋ねたところで、何か分かるだろうか。
彼女は普段、暇さえあればミストルティンの森を歩き回っている。
木陰で昼寝をしていることも珍しくない。
ヒロと長く話している姿は、ほとんど見たことがなかった。
そんなクロに、ヒロの変化について意見を求めても困らせるだけかもしれない。
「ん、なに?」
名前を呼ばれたクロが、振り返った。
ナオミは慌てて首を振る。
「いや...なんでも無いよ」
クロは不思議そうに瞬きをした。
しかし、すぐに別のものへ興味を移した。
ナオミが開いている図鑑だった。
彼女は隣の椅子を引き、ちょこんと腰を下ろした。
「ねえねえ、それってどんな本?」
「これは植物の図鑑。ミストルティンに自生してる植物や過去に存在した花とかが載っているの」
「へえ〜」
クロは身を寄せ、ページを覗き込んだ。
そこには色鮮やかな花々の写真が並んでいた。
ミストルティンの森で見かける植物もあれば、今では見ることのできない種類もある。
クロは興味深そうに一つひとつ眺めていた。
ナオミも、そんな彼女の様子に少し気持ちが和らぐ。
その時だった。
短い電子音が、ほぼ同時に二つ鳴った。
クロとイクノの通信端末だった。
クロはすぐにポケットから端末を取り出す。
「ゴローからの連絡だ!」
画面には、集合時間を知らせるメッセージが表示されていた。
イクノも時刻を確認する。
「ちょうど15分前ね、行くよクロ」
「うん!」
クロは椅子から立ち上がった。
イクノは読みかけの本に栞を挟み、静かに閉じる。
二人はそれぞれ本を片づけ、書庫の出口へ向かった。
「いってらっしゃい」
ナオミが声をかける。
「行ってきまーす!」
クロが振り返り、大きく手を振った。
イクノも短く挨拶を返し、二人は廊下へ出ていった。
扉が閉まる。
書庫にはナオミ一人が残された。
先ほどまで三人で使っていた机が、急に広く感じられる。
ナオミは図鑑へ目を戻した。
ページには、かつて地上に咲いていたという花の説明が記されている。
しかし、何度文字を追っても内容が頭に残らない。
気づけば、またヒロのことを考えていた。
(もしあの子の噂が本当だったら......今日のヒロは明るかったけど、もしヒロが何かを隠すためにあんな元気な振る舞いをしていたら......)
そこまで考えたところで、ナオミは顔を上げる。
考えすぎだ。
そう思いたかった。
ヒロは自分の意思でゼロツーと乗ることを選んだ。
そして、今は以前よりもずっと楽しそうにしている。
それを疑うようなことはしたくない。
けれど。
もし、あの笑顔の裏に何かが隠されているのだとしたら。
もし、彼が誰にも言えない苦しみを抱えているのだとしたら。
ナオミは図鑑の端をそっと押さえた。
幼い頃から知っている仲間。
かつて、共にフランクスへ乗ろうとした相手。
そして、今も大切に思っている少年。
ヒロがようやく取り戻した希望を奪いたくはない。
しかし、それ以上に。
彼が傷つくところを、もう見たくなかった。
ナオミは目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
書庫の外ではコドモたちの足音が聞こえてくる。
やがて彼女はもう一度図鑑を開いた。
色とりどりの花がページいっぱいに広がっている。
それでも、心は晴れなかった。
窓から差し込む光が少しずつ傾いていく中、ナオミは一人、答えの出ない不安を抱え続けていた。
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