デビル・イン・ザ・フランドール   作:かるご

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蜘蛛の巣の蝶

約束の時刻である十六時ちょうど。

第13部隊のフランクスが格納されている駐機ドックに、ゴローたちの姿があった。

入り口付近で、ゴローたちはちょうど同じタイミングでやって来た第26部隊のパラサイトたちと顔を合わせた。

互いに軽く挨拶を交わし、自然と二つの集団が合流する。

第26部隊の面々は、昨日のセレモニーで見かけた時と変わらず、どこか落ち着いた雰囲気をまとっていた。

それに対して、ゾロメやフトシ、クロたちは、他部隊のパラサイトと直接話せる機会が珍しいこともあってか、興味津々に眺めていた。

ツグミもまた、時折クロと顔を見合わせながら、見慣れない機体や設備について小声で言葉を交わしている。

しばらく雑談を交えながら通路を進んでいると、第26部隊のパラサイトの一人が、ふと足を緩めた。

彼の関心を引いたのは、格納庫に並んでいる第13部隊のフランクスだった。

それぞれ異なる装甲の形状。

機体ごとに違う輪郭を描く頭部や四肢。

各機の特性に合わせて用意された武装。

それらを順番に見比べると純粋な疑問を口にした。

 

 

「君たちのフランクスはどれも形がバラバラなんだね」

 

 

突然の指摘に、ゴローは一瞬きょとんとした。

 

 

「どういうことでしょう?」

 

 

それは、後ろから歩いていたイクノにとっても意外な質問だったらしい。

彼女は格納された機体を見上げる。

 

 

「それが普通だと思ってたんですけど」

 

 

第13部隊の彼らにとって、フランクスとは一機一機が異なる姿をしているものだった。

自分たちの機体が特別なのだと、改めて考えたことなどほとんどない。

そんな二人の反応を受け、第26部隊のリーダーであるコード090が口を開いた。

 

 

「まさか、うちはボディも武器もほぼ同じだよ。チームで戦うなら、その方がやりやすいから」

 

 

穏やかな口調ではあったが、その説明には確かな合理性があった。

同じ規格の機体で部隊を編成すれば、機動力や武装の特性を把握しやすくなる。互いの動きを予測し、隊列を維持しながら戦ううえでも都合がいい。

実戦経験を積んできた第26部隊にとって、それはごく自然な考え方なのだろう。

 

 

「へえ〜」

 

 

フトシが感心したように声を漏らす。

その隣では、ゾロメが自分たちの機体を改めて眺め、何やら考え込んでいた。

クロも興味深そうに頷いている。

第13部隊のフランクスは、それぞれの個性がそのまま形になったかのように姿が違う。

だが、それが他部隊から見れば奇妙に映るのだと知り、ゴローは少しばかり新鮮な気持ちになった。

そんな彼らの反応を見ながら、090は話題を変えた。

 

 

「君たちは最近できたチームだと聞いているが、キッシングは今回が初めてかい?」

 

「ええ」

 

 

ゴローが頷く。

第13部隊が結成されてから、まだそれほど長い時間は経っていない。

実戦を経験してきたとはいえ、他のプランテーションと協力して大規模な作戦に臨むのは、今回が初めてだった。

090はそれを聞くと、親しみのある笑顔を浮かべた。

 

 

「そうか、経験は僕たちの方が積んでいる。何か分からないことがあったら聞いてくれ」

 

 

その言葉には、先輩部隊としての自信と、共に戦う仲間への気遣いが感じられた。

ゴローも自然と表情を和らげる。

経験豊富な部隊と交流できるのは、これからの戦闘を考えるうえでもありがたいことだった。

しかし、090が足を止めて彼らに向き直った、まさにその瞬間。

 

 

「はいっ!はいはいはいはい、質問っ!!」

 

 

待ってましたと言わんばかりの勢いで、ゾロメが腕を突き上げた。

ゴローは苦笑し、フトシは呆れたように肩をすくめた。

当のゾロメはそんな周囲の反応など気にも留めず、ずいっと090の前へ進み出る。

その瞳は期待に満ちていた。

 

 

「あの、そっちの部隊でオトナになれたコドモっているんですか?」

 

「......オトナになれた...」

 

 

090はその言葉をゆっくりと繰り返した。

彼は顎に手を添え、少し考えるように視線を落とした。

ゾロメは返答を待ちながら、落ち着かない様子で身体を前後に揺らしている。

彼にとって、オトナになることは単なる将来の目標ではない。

いつか自分もあの人たちと同じ場所に立ち、認められたい。

そんな憧れが、幼い頃から彼の中には確かに存在していた。

やがて、090は静かに首を横へ振った。

 

 

「......いや、僕の部隊でオトナになれたコドモはいないよ」

 

「え?...あ、噂とかでも聞いたことは?」

 

 

諦めきれず、ゾロメは食い下がる。

直接知っている者がいなくても、どこかで聞いた話くらいはあるかもしれない。

そんなわずかな期待が、その声には残っていた。

だが、090は申し訳なさそうに眉を下げた。

 

 

「すまない」

 

 

短い返答だった。

それだけで、ゾロメが求めていた答えは得られないのだと分かった。

 

 

「んだよぉ...」

 

 

勢いよく上げていた腕が、力なく下がる。

期待が大きかった分だけ、落胆も隠しきれないらしい。

そんなゾロメを横目に、フトシが口を開いた。

 

 

「ゾロメってそここだわってるよね」

 

「フトシみたいに単純じゃねえよ」

 

 

そのやり取りを見て、クロがくすくすと笑った。

ツグミも肩を揺らしている。

いつもと変わらない第13部隊の光景。

しかし、その輪から少しだけ意識を離した090は、静かにドックの奥を見つめていた。

そこでは、数人の整備士たちがフランクスの脚部を囲み、装甲の状態を確認していた。

一人が端末に表示された数値を読み上げ、別の者が工具を手に機体へと近づく。

高所の足場では、別の整備士が安全帯を装着し、巨大な装甲板の固定具を点検している。

誰もが自分の仕事に集中していた。

その姿を見つめる090の表情には、先ほどとは違う静けさが宿っていた。

 

 

「......だが、オトナか...いつかなってみたいな......」

 

 

それは誰かに聞かせるための言葉というより、胸の内から自然とこぼれ落ちた願いのようだった。

今は前線で戦う自分たちも、いつかあの人たちのようになれるのだろうか。

戦場とは違う場所で、誰かを支える側になれるのだろうか。

その答えを、090自身もまだ知らない。

しばらくして、彼は再びゴローたちに顔を向けた。

 

 

「他に聞きたいことは?」

 

 

今度は、クロがおずおずと片手を挙げた。

ゾロメのように勢いよく飛び出すのではなく、相手の様子をうかがいながら、控えめに一歩前へ進む。

 

 

「あのぉ、そっちの部隊にはパイロットっていますか?」

 

「パイロット...?」

 

 

090が不思議そうに首を傾げた。

一瞬、何を尋ねられたのか分からなかったらしい。

だが、すぐにクロの言うパイロットが何を指しているのか思い至ったようで、小さく頷いた。

 

 

「ああ、あれか......うちの部隊にはパイロットはいないよ、全員パラサイトだ」

 

「あ、そうなんだぁ......ちょっと残念」

 

 

クロの肩が、見るからにしゅんと落ちた。

同じフランドールに乗るパイロットがいれば、どんな機体に乗っているのか、どんな訓練をしているのか、色々と話を聞いてみたかったのだ。

自分たち以外のパイロットが、どんなふうに戦っているのかも気になっていた。

そんなクロの様子を見て、隣にいたツグミが軽く肩を叩く。

 

 

「まあ、そんな気にすんなよ。落第判定を受けたコドモがパイロットに選ばれるのは珍しいって聞いたことがある。今回はたまたまいなかっただけで、どっかのプランテーションにはいるだろ」

 

 

その口調は、いつもの気楽なものだった。

けれど、同じ道を歩んできたツグミだからこそ、クロが何を期待していたのかも分かっていた。

かつて二人はフランクスに乗る力を失った。

それでも、フランドールという機体に出会い、再び戦うことができるようになった。

だからこそ、自分たちと似た境遇にいる誰かの存在が気になるのかもしれない。

 

 

「あ、そっか......そうだよね、いつか他のパイロットに会えるといいな〜」

 

 

クロはすぐに顔を上げ、いつもの柔らかな笑顔を取り戻した。

その切り替えの早さにツグミも安心したように笑う。

二人のやり取りを見守っていたゴローは、ふと090がこちらをじっと見つめていることに気づいた。

彼は何かを考え込むように、わずかに目を細めていた。

 

 

「......不思議だね」

 

「え?」

 

 

ゴローが聞き返す。

090はゆっくりと言葉を続けた。

 

 

「あだ名のことさ。たしか、コード016だろ?それを初めたのは」

 

「ヒロのこと、知ってるんですか?」

 

 

ゴローは少し驚いた。

ヒロが昔からコードではなく名前で仲間を呼んでいたことは知っている。

けれど、その話が他の部隊にまで伝わっているとは思っていなかった。

 

 

「ああ、コドモ達の間では有名だからね」

 

 

090は当然のことのように答えた。

コード016。

かつて特別な才能を持つコドモとして知られていた、その存在。

ゴローにとっては幼い頃からの親友であるヒロも、他部隊のパラサイトたちにとっては、噂で耳にするほどの人物だったのだ。

090は再び、格納庫に並ぶ第13部隊の機体へと目を向けた。

 

 

「変わってるね君たちは。機体はバラバラ、コードネームではなくあだ名で呼び合う。それには一体何の意味があるんだい?」

 

 

その問いに、ゴローはすぐには答えられなかった。

何の意味があるのか。

そう尋ねられると、改めて考えたことがなかった。

ヒロがつけてくれた名前。

いつの間にか当たり前になっていた呼び方。

自分たちがそれぞれ違う機体に乗っていることも、個性の異なる仲間たちが集まっていることも、ゴローにとっては日常の一部だった。

だが、090にとっては違う。

仲間を呼ぶ時にはコードを使い、部隊全体が一つの戦力として機能することを重視している。

それは決して間違った考え方ではない。

むしろ戦場においては理にかなっている。

では、自分たちはどうなのだろう。

名前で呼び合うこと。

それらに、何か特別な意味があるのだろうか。

ゴローは周囲を見渡した。

ゾロメはまだ何か言いたげに口を尖らせ、フトシはそんな彼を宥めている。

クロはツグミと並んで機体を眺め、イクノは静かにこちらの会話を聞いていた。

性格も、考え方も、得意なことも違う。

それでも、彼らは同じ第13部隊の仲間だった。

その事実だけは、疑いようがない。

けれど、それを090にどう説明すればいいのか。

ゴローは答えを探すように口を開きかけ、結局、何も言えずに閉じた。

 

 

◇

 

 

同じ頃。

ミストルティンでは、寄宿舎に残ったコドモたちが、それぞれ思い思いの時間を過ごしていた。

イチゴやミツルたちが各々の場所で過ごすなか、ヒロは一人、自主訓練を終えて寄宿舎へと戻ってきていた。

人気の少ない廊下に、彼の足音が響く。

肩に掛けたタオルは汗を吸って重くなり、額からはまだ細かな汗が流れ落ちていた。

普段なら、訓練を終えた後には心地よい疲労感が残る。

身体を動かした充実感と、少しずつ感覚を取り戻していく喜び。

だが、今のヒロが感じているものは、それとは明らかに違っていた。

胸が重い。

息を吸い込むたびに、心臓のあたりが鈍く疼く。

少し早足になっただけで呼吸が乱れ、喉の奥に熱がこみ上げてくる。

それでもヒロは、足を止めなかった。

次の作戦が近づいている。

もう一度、ゼロツーとストレリチアに乗る。

今度こそ、みんなと一緒に戦う。

そのためには、少しでも身体を動かしておきたかった。

洗面所に辿り着くと、ヒロは蛇口を捻った。

勢いよく流れ出した冷たい水が、静かな室内に音を響かせる。

両手で水をすくい、顔に浴びせる。

熱を持った頬を冷やすように、何度も繰り返した。

水滴が顎先から落ち、洗面台の白い陶器に小さな音を立てる。

やがて蛇口を閉めると、ヒロは両手を縁につき、俯いたまま息を整えようとした。

 

 

「……はぁ……」

 

 

吐き出した息は、自分でも驚くほど荒かった。

胸の奥で脈打つ痛みが、呼吸のたびにじわじわと広がっていく。

まるで心臓を内側から強く握り締められているようだった。

しばらくして、ヒロはゆっくりと顔を上げた。

目の前の鏡に自分の姿が映る。

その瞬間、思わず息を止めた。

目元には疲労の色が濃く滲み、肌の血色も以前より悪くなっていた。

つい先日まで、あれほど胸を躍らせていたはずなのに。

ストレリチアに乗れた。

もう一度、空を飛ぶような感覚を味わえた。

失いかけていた自分の居場所を取り戻せた気がした。

それなのに、鏡の中の自分は、日に日に弱っているように見える。

ヒロは唇を引き結んだ。

認めたくなかった。

身体に起きている異変を。

そして、その異変が何を意味しているのかを。

ふと、鏡の上部に設置された小さな照明へと目が向いた。

その陰に、細い糸のようなものが見えた。

蜘蛛の巣だった。

普段なら気にも留めないような、ほんの小さな巣。

その中心から少し外れた場所に、一匹の蝶が捕らわれていた。

薄い翅がかすかに震えている。

逃れようとしているのだろう。

けれど、もがけばもがくほど、細い糸が身体に絡みついていく。

巣の端から、一匹の蜘蛛がゆっくりと近づいていた。

急ぐ様子はない。

獲物が逃げられないことを、初めから知っているかのように。

蝶は再び翅を動かした。

一度、大きく。

それから、もう一度。

その動きは次第に弱くなっていった。

蜘蛛との距離が少しずつ縮まっていく。

ヒロはその光景から目を離せなかった。

目の前で起きていることが、ひどく恐ろしく感じられた。

逃げようとしても、逃げられない。

抗おうとしても、身体が思うように動かない。

自分の意志とは関係なく、何かが少しずつ終わりへ向かっていく。

その蝶の姿が、今の自分と重なって見えた。

ヒロは無意識に胸元へ手を伸ばした。

制服の上から、心臓のあたりにそっと触れる。

指先に伝わる鼓動。

確かに動いている。

今も、自分は生きている。

けれど、その鼓動の奥には、消えることのない痛みがあった。

ストレリチアに乗った後から続いている、あの痛み。

何もしていなくても疼き、時折、息が止まりそうなほど強くなる。

それが何なのか、ヒロには分からない。

ただ一つ分かっているのは、ゼロツーと乗った後から身体がおかしくなっているということだった。

鏡の中で、ヒロの表情が歪んだ。

怖くないわけではない。

死ぬかもしれない。

そんな考えが、頭をよぎらなかったわけでもない。

けれど。

──それでも、俺は。

ヒロは胸元を押さえたまま、ゆっくりと目を閉じた。

機体と一つになり、戦場を駆け抜けた時の感覚。

あの瞬間、自分は確かに生きていた。

誰かに必要とされていると感じられた。

もう二度と戻れないと思っていた場所に、手が届いた。

だから。

──手放したくない。

たとえ、その先に何が待っていたとしても。

ヒロはゆっくりと手を下ろした。

鏡の上では、蜘蛛がついに蝶のすぐそばまで辿り着いていた。

彼はそれ以上、見ていられなかった。

 

 

 

─────

 

 

 

夕刻。

ドックでの交流を終えたゴローたちは、ミストルティンの寄宿舎へと帰ってきた。

外では人工の空が柔らかな橙色に染まり始め、建物の窓から差し込む光が廊下の床を淡く照らしていた。

今日の交流会は、思っていた以上に収穫があった。

第26部隊の戦い方。

機体の違い。

そして、彼らが第13部隊をどのように見ているのか。

ゴローにとっては、色々と考えさせられる時間でもあった。

しかし、そんな彼の隣で、クロはいつもと変わらず元気いっぱいだった。

 

 

「ただいまー!!」

 

 

寄宿舎の扉を開けるなり、明るい声がエントランスホールいっぱいに響き渡る。

その声に反応したのは、ちょうど階段を上がろうとしていたココロだった。

 

 

「あ、おかえりなさい」とでも言いたげに足を止め、柔らかな笑顔で振り返る。

 

「おかえり、クロちゃん」

 

「ねえココロ、ナオミがどこにいるかわかる?」

 

 

クロは挨拶もそこそこに尋ねた。

その瞳は、今にも話したいことが溢れ出しそうなほど輝いている。

第26部隊との交流で聞いたことを、早くナオミにも教えたかったのだ。

ココロは少し考えてから、廊下の先を指さした。

 

 

「ナオミちゃんなら中庭に歩いていくのを見たわ」

 

「ありがとう!」

 

 

返事を聞くやいなや、クロは軽やかに駆け出した。

 

 

「あっ、クロちゃん、廊下は……」

 

 

ココロが声を掛けようとした時には、すでにその背中は角の向こうへ消えかけていた。

彼女は困ったように笑い、残されたゴローたちに目を向ける。

ツグミは慣れた様子で肩をすくめた。

クロが何かに夢中になると、こうなるのは珍しいことではない。

そのままココロと軽く言葉を交わし、彼らもそれぞれの部屋へと向かっていった。

一方、クロは中庭へと続く扉を開けていた。

外へ出ると、夕方の少し冷たい空気が頬を撫でた。

寄宿舎の壁には淡い夕日が差し込み、植え込みの葉が長い影を落としている。

その一角に、ナオミの姿があった。

壁に背を預け、両腕を身体の前で緩く組んでいる。

視線は遠くの空へ向けられていた。

その向こうに何があるのか、ここからは見えない。

ナオミは、ただ静かにそこを見つめていた。

 

 

「ナオミ!」

 

「ッ!?」

 

 

突然響いた声にナオミの肩がびくりと跳ねた。

反射的に振り返ると、こちらへ駆け寄ってくるクロの姿が見えた。

長い黒髪を揺らしながら、満面の笑顔で手を振っている。

その姿を認めた途端、ナオミの身体から余計な力が抜けた。

 

 

「......そんな大きな声出さなくても、私はここにいるよ。それで、どうだった?」

 

 

少しだけ呆れたような口調。

けれど、その声には親しみが滲んでいた。

 

 

「聞いて聞いて!」

 

 

クロは待ちきれないといった様子で、ナオミの前に立った。

そして、今日の交流会であったことを次々と話し始めた。

第26部隊のフランクスは、どれも似たような形をしていたこと。

武器までほとんど同じだと聞いて驚いたこと。

ゾロメがオトナになったコドモについて質問していたこと。

自分たち以外のパイロットがいないか尋ねてみたこと。

それから、ヒロがつけたあだ名の話になったこと。

クロは話すたびに手を動かし、時には大きく腕を広げ、時には思い出し笑いをしながら言葉を続けた。

その様子を見ていると、実際にその場にいなくても、どれほど楽しい時間を過ごしてきたのかが伝わってくる。

ナオミは相槌を打ちながら、静かに耳を傾けた。

クロは昔からこういうところがある。

自分が面白いと思ったことや嬉しかったことを、まるで宝物を見せるように誰かへ伝えようとする。

そして、その話を聞いている相手まで、いつの間にか楽しい気持ちにさせてしまう。

ナオミはそんなクロの姿を見ながら、少しずつ表情を和らげていった。

やがて一通り話し終えたところで、クロはふと思い出したように首を傾げた。

 

 

「そういえば、ナオミは今日何してたの?」

 

 

ナオミは少し考え、今日の出来事を簡単に説明した。

書庫で植物の図鑑を読んでいたこと。

その後、気分転換に外の空気を吸いたくなって、中庭へ来たこと。

それだけを聞けば、特に変わった一日ではない。

クロも最初は、いつものように頷いていた。

だが、ふとその動きが止まった。

ナオミの顔をじっと見つめる。

いつもと同じ声、いつもと同じ落ち着いた話し方。

けれど、何となく違う。

ナオミの目元にはどこか疲れたような色があった。

笑っていても、その奥に何かが引っかかっているように見える。

クロは少しだけ身を屈め、ナオミの顔を覗き込んだ。

その距離の近さに、ナオミが不思議そうに瞬きをする。

 

 

「どうしたの?」

 

「ねえナオミ、疲れてる?」

 

「ッ……」

 

 

思いがけない質問だった。

ナオミは一瞬、言葉に詰まった。

自分では、いつも通りに振る舞っているつもりだった。

ヒロのことを考えていたのも、ほんの少し前までのことだ。

それなのに、クロには何かが伝わってしまったらしい。

ナオミは小さく息を吸い、慌てて表情を整えた。

 

 

「図鑑読むのにちょっと疲れちゃって、そのせいかな」

 

 

できるだけ自然な声で答える。

嘘をつきたいわけではなかった。

ただ、今ここでヒロのことを話しても、クロを余計に心配させてしまうかもしれない。

それに、自分自身、何をどう説明すればいいのか分からなかった。

クロはしばらくナオミを見つめていたが、やがて納得したように頷いた。

 

 

「ふ〜ん......たしかに、あれ難しいことしか書いてなかったからね」

 

 

書庫で見かけた図鑑を思い出したのだろう。

小さな文字がびっしりと並び、見慣れない植物の名前や難しい説明が続いていた。

クロにとっては、眺めているだけでも眠くなりそうな本だった。

それを長い時間読んでいたのなら、疲れてしまうのも仕方がない。

そう考えたらしい。

そして、何か良いことを思いついたように顔を輝かせた。

 

 

「疲れたなら、今日はご飯食べて、お風呂入って、ぐっすり寝よう!」

 

 

あまりにも単純で、まっすぐな提案だった。

ナオミは一瞬きょとんとした。

それから、思わず笑みをこぼした。

難しいことを考えていた自分が、少しだけおかしくなったのかもしれない。

食事をして、身体を温めて、ゆっくり眠る。

そんな当たり前のことを、クロは本当に大切なことのように言う。

そして、不思議とその言葉には、聞いている相手を安心させる力があった。

ナオミは目元を緩め、穏やかに頷いた。

その時。

二人のポケットから、ほとんど同時に電子音が鳴った。

 

 

「あれ?」

 

 

クロが端末を取り出す。

ナオミも自分の端末を確認した。

画面に表示されていたのは、次の作戦に向けたブリーフィングの日時を知らせる通知だった。

それを見た瞬間、ナオミの表情がわずかに引き締まる。

作戦が近づいている。

ヒロも、ゼロツーと共に出撃することになるのだろう。

そう考えると、胸の中に再び不安が広がりかけた。

けれど、隣ではクロが端末を覗き込みながら、いつも通りの様子で頷いている。

ナオミはその横顔を見て、静かに息を吐いた。

今は、考えても答えが出ない。

だからこそ、できることをしておこう。

 

 

「......クロの言う通りね。ブリーフィングもあるしね」

 

「そうだね!」

 

 

クロは元気よく頷いた。

二人は並んで歩き始める。

中庭を吹き抜ける風は少し冷たくなっていたが、寄宿舎の窓からは暖かな光が漏れていた。

クロは歩きながらも、交流会で思い出したことがあるたびにナオミへ話しかける。

ナオミはその声に耳を傾けながら、時折小さく笑った。

胸の中の不安が消えたわけではない。

それでも、ほんの少しだけ、気持ちが軽くなったような気がした。

やがて二人の姿は、寄宿舎の扉の向こうへと消えていった。

 

 

 

─────

 

 

 

ゴローは一人、自室へと続く廊下を歩いていた。

夕方の寄宿舎は、昼間に比べるとずいぶん静かだった。

遠くから誰かの話し声が聞こえるものの、廊下を行き交う者は少ない。

ゴローは歩きながら、今日の交流会を思い返していた。

第26部隊のフランクスは、ほとんど同じ形をしている。

それに対して、自分たちの機体はそれぞれ違う。

そして、090が最後に投げかけてきた問い。

名前で呼び合うことに、何の意味があるのか。

あの時、うまく答えられなかった。

けれど、意味がないとは思わない。

ヒロが自分たちにつけてくれた名前。

それは、単なる呼び方以上の何かだったように思う。

少なくとも、ゴローにとってはそうだった。

──ヒロ。

心の中で親友の名前を呼ぶ。

最近のヒロは、以前よりずっと生き生きとしている。

それ自体は嬉しいことだった。

フランクスに乗れなくなり、あれほど苦しんでいた親友が、ようやく笑えるようになったのだから。

けれど、時折見せる妙な疲れ方が気になっていた。

イチゴも、何かを心配しているようだった。

ゼロツーにまつわる噂。

パートナー殺し。

その言葉が、ふと頭をよぎる。

ゴローは軽く首を振った。

噂だけで誰かを判断するのは良くない。

そう思っている。

それでも、胸のどこかに引っかかるものがあった。

やがて自室の前に辿り着く。

いつものように扉へ手を伸ばし、何気なく開いた。

その瞬間。

ゴローの思考が止まった。

床に、人が倒れていた。

見慣れた制服。

見慣れた髪。

そして、苦しそうに身体を丸めた、その姿。

最初は何が起きているのか理解できなかった。

だが、次の瞬間には、ゴローの身体が動いていた。

 

 

「おいヒロ!どうしたんだ!!」

 

 

慌てて駆け寄り、床に膝をつく。

ヒロは片手で胸を押さえ、もう片方の手を床についていた。

肩が激しく上下している。

息を吸おうとするたびに、喉の奥から苦しげな音が漏れた。

顔色はひどく悪い。

額には冷や汗が浮かび、唇からは血の気が失われていた。

ゴローはすぐにヒロの肩へ腕を回し、身体を支え起こした。

触れた背中が、汗で湿っている。

 

 

「ヒロ!おい、しっかりしろ!」

 

 

呼びかけながら、どうにか座らせる。

ヒロは苦しげに息を吐き、薄く目を開けた。

目の前にゴローがいることを認識すると、ほんのわずかに表情が揺れた。

 

 

「...なんでも...ない......」

 

 

その声は、あまりにも弱々しかった。

普段のヒロからは想像もできないほど、掠れていた。

 

 

「なんでも無いわけあるかよ!」

 

 

思わず声が荒くなる。

怒鳴りたかったわけではない。

ただ、目の前の光景が信じられなかった。

こんな状態で、何でもないはずがない。

 

 

「怪我でもしているのか......!」

 

 

ゴローはヒロの身体を支えながら、胸元へ手を伸ばした。

制服のチャックを一気に引き下げる。

ヒロがわずかに身じろぎしたが、構っていられなかった。

そして。

露わになった胸元を見た瞬間、ゴローは凍りついた。

 

 

「」

 

 

言葉が出なかった。

ヒロの心臓のあたり。

そこには、異様な青い腫れが広がっていた。

肌の内側から浮き上がるような、不気味な色。

周囲の皮膚とは明らかに異なるその部分は、ただの打撲や擦り傷などでは説明できないものだった。

ゴローは息を呑んだ。

目を逸らしたくなる。

けれど、逸らすことができなかった。

ヒロは片手を床につき、どうにか身体を支えていた。

ゴローと目を合わせようとはしない。

その態度が、かえって恐ろしかった。

まるで、こうなることを最初から知っていたかのように。

ゴローは震えそうになる声を、必死に押さえ込んだ。

 

 

「...いつからだ...ゼロツーと、乗ってからか......?」

 

 

ヒロは答えなかった。

ただ、唇を固く結んでいる。

否定もしない。

ゴローを見ようともしない。

それだけで、十分だった。

──やっぱり。

胸の奥が冷たくなる。

何かがおかしいとは思っていた。

けれど、ここまでひどい状態だなんて。

どうして気づけなかった。

どうして、もっと早く確かめなかった。

自分は、ヒロの一番近くにいたはずなのに。

ゴローは奥歯を噛み締めた。

今は考えている場合ではない。

すぐに誰かを呼ばなければ。

ゴローはポケットから通信端末を取り出した。

画面を操作しようと、指を伸ばす。

その時だった。

 

 

「やめろ……ッ!」

 

 

ヒロが突然、腕を伸ばした。

端末を持つゴローの手首を、必死に掴む。

その動きはあまりにも無理があった。

身体を支えていた腕が離れたことで、ヒロの上体が大きく傾く。

 

 

「おい...!!」

 

 

ゴローは慌てて身体を支え直した。

ヒロの呼吸が、さらに乱れる。

それでも、彼は手を離そうとしなかった。

 

 

「やめてくれ...ゴロー......!」

 

 

苦痛に歪んだ顔。

それでも、ゴローを見つめる瞳だけは必死だった。

ゴローは言葉を失った。

なぜ止める。

なぜ、助けを呼ばせてくれない。

こんな状態で、一体何を考えている。

ヒロは荒い息を繰り返しながら、途切れ途切れに言葉を紡いだ。

 

 

「俺......今すごく生きがいを感じているんだ...次の作戦、ちゃんとやり遂げたい...今度はみんなと、一緒に戦いた

いんだよ...!」

 

 

ゴローの胸が、強く締めつけられた。

それは、ずっと聞きたかった言葉だった。

ヒロが再び前を向いてくれること。

自分たちと一緒に戦いたいと思ってくれること。

フランクスに乗れなくなってから、どこか遠くへ行ってしまったように感じていた親友が、もう一度、仲間たちのもとへ戻ってきてくれること。

それを、ゴローは心から願っていた。

だからこそ。

今のヒロの言葉が、あまりにも残酷だった。

生きがいを感じている。

そう言いながら、ヒロは目の前で苦しんでいる。

仲間と戦いたい。

そう願うほどに、自分の身体を追い詰めている。

ようやく見つけた居場所を守るために、命を危険に晒そうとしている。

ゴローはゆっくりとヒロの手を外した。

そして、少しだけ後ろへ下がり、頭を抱えるように片手を額へ当てる。

どうすればいい。

ハチかナナを呼ぶべきだ。

そんなことは分かっている。

けれど、ヒロはそれを望んでいない。

報告すれば、次の作戦から外されるかもしれない。

ゼロツーとの搭乗を止められるかもしれない。

そうなれば、ヒロはまた自分の居場所を失ってしまうのだろうか。

しかし。

だからといって、黙って見過ごせるのか。

ゴローは苦しげに顔を歪めた。

 

 

「......だから、俺に見逃せって...?」

 

「...ああ」

 

 

即答だった。

ヒロは、迷わなかった。

その返事が、ゴローの心をさらに追い詰める。

 

 

「誰にも言わないつもりか...?」

 

「...ああ」

 

「......イチゴにもか?」

 

「......ああ」

 

 

最後の返答を聞いた瞬間、ゴローは思わず目を閉じた。

イチゴにも。

あれほどヒロのことを心配しているイチゴにも、何も話さないつもりなのか。

もし彼女が、この胸の異変を見たら。

どれほど驚くだろう。

どれほど心配するだろう。

そして、もし。

このままヒロが次の作戦へ出撃して、帰ってこなかったら。

その時、自分は何と言えばいい。

知っていたのに。

ヒロの身体がおかしいと知っていたのに、黙っていた。

そんな事実を、イチゴにどう伝えればいい。

いや、イチゴだけではない。

第13部隊の仲間たち全員に。

そして何より、自分自身に。

ゴローは拳を握り締めた。

ヒロは、そんな親友の苦悩を知ってか知らずか、静かに言葉を続けた。

 

 

「...俺、決めたんだ...もう...逃げない。パートナーからも......自分からも...」

 

 

その声は弱々しかった。

けれど、言葉の一つ一つには、確かな意志が込められていた。

フランクスに乗れなくなった自分から目を逸らし、何もできないまま日々を過ごしていた頃とは違う。

今の彼には、進みたい道がある。

一緒に戦いたい相手がいる。

そして、その道を自分の意志で選ぼうとしている。

ゴローには、それが分かってしまった。

幼い頃から、ずっと一緒にいた。

ヒロがどんな時に笑うのか。

何かを決意した時、どんな顔をするのか。

本当に譲れないものを見つけた時、どれほど頑固になるのか。

嫌というほど知っている。

だからこそ、今のヒロが簡単には考えを変えないことも分かった。

それが、どうしようもなく悔しかった。

 

 

「お前──!」

 

 

ついに、感情が堪えきれなくなった。

怒鳴りつけたかった。

ふざけるな、と。

そんな身体で何を言っているんだ、と。

お前が死んだら、残された俺たちはどうすればいいんだ、と。

言いたいことは山ほどあった。

けれど、そのすべてが言葉になるより早く、ヒロが動いた。

床に手をつき、ゆっくりと立ち上がる。

足元がふらついた。

一瞬、また倒れるのではないかと思い、ゴローは反射的に手を伸ばしかける。

だが、ヒロは壁に手を添え、どうにか身体を支えた。

乱れた呼吸を整えようとしながら、少しずつ姿勢を正していく。

そして、ゴローを見た。

その顔にかすかな笑みが浮かんでいた。

無理をしているのは一目で分かった。

それでも、ヒロは笑っていた。

まるで、ゴローを安心させようとするかのように。

 

 

「......ごめん...ゴロー......」

 

 

その一言に、ゴローは何も返せなかった。

謝るくらいなら、やめてくれ。

そんな笑い方をするくらいなら、助けを求めてくれ。

俺たちを頼ってくれ。

心の中では、何度もそう叫んでいた。

けれど、声にならなかった。

ヒロはゆっくりと制服を整えた。

乱れたチャックを引き上げ、胸を隠す。

青い腫れが布の下へ消えていく。

それだけで、まるで何もなかったかのように見えてしまう。

けれど、ゴローは知ってしまった。

その下に、何があるのかを。

ヒロは扉へ向かって歩き始めた。

ゴローはその背中を見つめていた。

呼び止めることはできたはず。

だが、身体が動かなかった。

今のヒロを止めれば、何か大切なものまで奪ってしまうのではないか。

そんな考えが、頭から離れなかった。

そして、その考えを抱いてしまった自分自身が、たまらなく嫌だった。

扉が開き、廊下の光が細く室内へ差し込む。

ヒロの姿がその向こうへ消えていく。

やがて。

静かに、扉が閉まった。

カチリ。

小さな音だった。

けれど、ゴローにはそれが、ひどく遠くから聞こえたように感じられた。

部屋に静寂が戻る。

彼はしばらく、その場に立ち尽くしていた。

手の中にはまだ通信端末が握られている。

画面には途中まで開いた連絡先の一覧が表示されていた。

ほんの少し指を動かせば、誰かに知らせることができる。

ヒロの異変を。

あの胸の腫れを。

今にも倒れそうだった親友の姿を。

ゴローは画面を見つめた。

だが、指は動かなかった。

ヒロの言葉が、耳から離れない。

──今すごく生きがいを感じている。

──みんなと一緒に戦いたい。

──もう逃げない。

その願いが、どれほど切実なものなのか。

ゴローは知っている。

知っているからこそ、苦しかった。

ゴローは俯いた。

昔から、ヒロはそうだった。

誰かのために何かをしようとして、自分のことを後回しにする。

一度決めたことには、どこまでも真っ直ぐに進もうとする。

けれど今は。

その強さが。

その頑固さが、何よりも恐ろしかった。

ゴローの手が震えた。

端末を握る指に、力がこもる。

怒りなのか、悲しみなのか。

それとも、何もできなかった自分への悔しさなのか。

もう分からなかった。

ただ、胸の中にあるものを、どこかへ吐き出さずにはいられなかった。

 

 

「......お前は...お前は...!大馬鹿野郎だ......!」

 

 

絞り出した声が、誰もいない部屋に響く。

返事はない。

いつもなら、困ったように笑いながら何かを言い返してくるはずの親友は、もうここにはいなかった。

ゴローは唇を噛み締めた。

目の奥が熱くなる。

けれど、泣くことすらできなかった。

怒りたい。

止めたい。

助けたい。

そして、何より。

──死んでほしくない。

その願いだけが、胸の中ではっきりと形を持っていた。

ゴローはゆっくりと顔を上げ、閉ざされた扉を見つめた。

ヒロが去っていった、その扉を。

自分は、どうすればいいのだろう。

親友の決意を尊重することと、親友の命を守ること。

その二つが、どうして同じ道の上にないのだろう。

答えは出なかった。

ゴローは長い時間、そこに立ち尽くしていた。

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