夜の温室。月光が落とすガラスの影の中で、イチゴは眼前立つ少女へとまっすぐに視線を向けていた。
対するゼロツーは、退屈そうにそっぽを向き、爪先で床を小さく突いている。イチゴの存在すら意識から外しているかのようなその態度に、イチゴは込み上げる焦燥感を押し殺しながら言葉を紡いだ。
「……第26部隊のことについては何も言わない。その代わり、次の作戦では独断専行はしないで。リーダーであるアタシの指示に従ってほしいの」
歩み寄りのための言葉。けれど、ゼロツーは溜息混じりに小さく肩をすくめると、冷めた目をイチゴへ向けた。
「また僕に指示するの? 君って、本当に偉そう」
取り付く島もなく、ゼロツーはそのまま背を向けて足早に立ち去ろうとする。
「待って! 話はまだ終わってない──!」
立ち去ろうとする背中に向かって、イチゴは慌てて手を伸ばした。ゼロツーの手首あたりを強く掴み、引き止めようとする。
──だが、次の瞬間。
「あ……っ!」
ゼロツーは何の躊躇もなく前へ一歩を踏み出した。手首を掴んでいたイチゴの身体は、抗う間もなく強烈な力で前方へとガクンと一歩引っ張られてしまう。
ゼロツーは足を止め、掴まれた手首はそのままで不機嫌そうに向き直った。
「……何?」
「……っ」
イチゴは掴んだ手に力を込めたまま、深く俯いた。喉の奥から絞り出す声は、微かに震えて弱々しく響く。
「……ヒロに、無理させないで……」
その言葉を聞いた瞬間、ゼロツーは強引に腕を引いてイチゴの手を振り払った。手首からぬくもりが消え、イチゴの空切る手が虚しく空中に残る。
「僕と乗りたいって言ったのは、ダーリンの方だよ」
淡々と、けれど決定的な事実として告げるゼロツー。イチゴは乱れた息を整えながら、必死に言葉を返した。
「なら……ヒロの負担になるようなことはさせないで」
「……譲ってほしいの?」
「え……?」
思いがけない言葉に、イチゴはハッと顔を上げた。ゼロツーは容赦なく突き立てる。
「でも前に試してダメだったじゃん」
かつてヒロとフランクスに乗り、何もできなかった過去。心の一番柔らかい場所を容赦なく抉られ、イチゴの顔が苦痛に歪む。
「アタシのことはいいでしょ……!」
「だったら、そっちも僕に口出さないで」
ピシャリと言い捨てるゼロツーの瞳には、イチゴに対する一切の関心も情も存在しなかった。ただひたすらに冷たく、異質な気配だけが漂っている。
「……あなた、最初からヒロを利用するつもりなの……?」
イチゴの問いかけに、ゼロツーは視線を外すと、自分自身に言い聞かせるようにぽつりと呟いた。
「ダーリンは僕のもの……」
「死んじゃうかもしれないんだよ!?」
その執着に満ちた呟きを聞き捨てることができず、イチゴの叫びが夜の温室にこだました。ヒロの命が削られているという恐怖と焦燥。けれど、ゼロツーの表情には微かな波紋すら広がらない。
「そうだよ。死んだらそれまでさ」
あまりにも淡々と、人の命を泥のように扱う一言。
「な……っ!」
あまりの冷酷さに言葉を失い、怒りと衝撃でイチゴがゼロツーへ一歩踏み出そうとした、その時──
「……なに、それ」
温室のすぐ脇、暗い森の茂みの中から、聞き覚えのある声が震えながら漏れ聞こえた。
─────
夜の温室の静寂を切り裂くように、ガサリと音を立てて暗い森の茂みが揺れた。
そこから姿を現したのは──クロだった。
そしてその少し後方、わざわざ森を大きく遠回りするようにしてイチゴの側へと駆け寄ってきたのは、ナオミだった。
「クロ……? ナオミまで……どうしてここに……」
予期せぬ二人の登場に、イチゴは息を飲んで目を見開いた。驚きと同時に、部屋を出る直前の光景が頭をよぎる。あの時、薄暗い部屋の中でぽっかりと空いていたふたつのベッド。夜中に姿を消していたのは、他ならぬこの二人だったのだと、イチゴは今さらながら思い至った。
けれど、二人を問い詰める余裕など、今のイチゴにはなかった。
クロはイチゴの視線には気づきもせず。まっすぐに前へと歩みを進め、ゼロツーと正面から対面した。
瞬間、両者の間に目に見えるほどのピリピリとした緊張感が奔り抜ける。
ゼロツーが不機嫌さを隠そうともしていないのは、ナオミにも嫌というほど察しがついた。だが、それ以上にその場の空気を重く支配していたのは──クロから放たれる気配だった。
いつも静かで、感情を乱すことのめったにないクロ。その彼女の奥底から伝わってくる、見たこともないほどの激しい怒り。
(クロが……こんなに……?)
イチゴも、側に寄ってきたナオミも、息を殺したまま動くことができなかった。普段の穏やかなクロからは想像もつかない強烈な圧力を前に、二人は言葉を失い、ほんの少しだけ身体をすくめて怯えていた。
「……ヒロのこと、なんだと思ってるの?」
沈黙を破ったのは、クロの低く静かな声だった。ゼロツーの瞳を逃げることなく見据え、刃のような言葉を投げかける。
「パートナーは替えがきく道具じゃない」
「ボクとダーリンの問題だよ」
ゼロツーは冷めきった眼差しで、突っぱねるように言い放つ。だが、クロは一歩も引かなかった。
「……ううん、違う。ヒロは私たち13部隊の大切な仲間。あなたのために失うほど軽い命じゃない」
「あっそ……じゃあ君は、ダーリンの何なの?」
ゼロツーの唇が、嘲るように微かに歪む。冷酷な煽りを含んだその問いかけに対し、クロは逡巡する素振りすら見せなかった。
「大切な友達」
迷いのない一言が、夜の空気に凛と響く。
ゼロツーはつまらなさそうに息を吐き出すと、蔑むような視線をクロへ向けた。
「ふーん、友達ね……弱いやつの言うことは、よくわからないな」
「……あなたは違うの?」
「……」
静かな問い返しに、ゼロツーの表情が凍りついた。目を細め、声のトーンを数段落として聞き返す。
「……どういうこと?」
「私はステイメンに負担を押し付けて、やっと戦えるあなたを──『強い』とは思えない」
その言葉が、ゼロツーの逆鱗に触れた。
気迫が一気に跳ね上がり、ゼロツーは怒りを剥き出しにしながら、クロの目の前へと接近する。
「へえ、じゃあさ……ボクの強さを知らないなら、今ここで試してみる?」
距離が潰れ、ゼロツーの手が上がろうとした。パラサイトとしての格の違い、むき出しの暴力を振るおうとする凶暴な気配──イチゴとナオミは「止めなきゃ」と叫びそうになりながらも、二人の間に流れる異質な圧に足がすくみ、自らその輪の中へ踏み込んでいく勇気が持てなかった。
だが、死線に晒されたクロの瞳だけは、恐れに揺れることがなく、冷静に言葉を重ねる。
「あなたの強さは、知ってるよ。……でも、パートナーを消耗品のように扱いながら戦うなんて、人のやることじゃないよ」
「──ッ」
ゼロツーの動きが、ピタリと止まった。
『人のやることじゃない』
まさにクロの手が届こうとしていたその瞬間、脳裏に突刺さった言葉。
振り上げようとした手が硬直する。
ゼロツーの薄緑色の瞳に、一瞬だけ隠しきれない強い動揺と、戸惑いの色が揺らめいた。
「……あっそ」
冷めた一言だけを捨て置く。
ゼロツーはそのままクロに背を向けると、誰の顔も見ることなく、闇の中へと消えていくように足早に立ち去っていった。
取り残された3人には、ただ青白い月光と、静まり返った緊張の余韻だけが残されていた。
─────
ゼロツーの足音が夜の闇へと消えていき、完全な静寂が戻った。
クロはその背中が完全に視界から消え去るまで、じっとその方向を見つめ続けていた。やがて張り詰めていた気配がふっと解けると、クロの身体がゆらりと小さく揺れる。
「クロ……っ!」
「クロ!」
見ていたイチゴとナオミが弾かれたように駆け寄った。倒れる寸前だったクロの身体を、ナオミが慌てて両腕でしっかりと受け止める。
「クロ!? 大丈夫……」
心配そうに覗き込んだナオミとイチゴだったが、ナオミの腕の中でクロが微かに「……スゥ、スゥ……」と規則正しい寝息を立てていることに気づき、二人は顔を見合わせた。
どうやら限界を迎えてそのまま熟睡してしまったらしい。
穏やかな寝顔に、イチゴもナオミも緊張の糸を緩め、安堵の吐息を漏らした。
「もう……ビックリさせないでよ……」
胸を撫で下ろし、クロを抱え直して寄宿舎へ戻ろうとした──まさにその時だった。
ぽつり、と額に冷たいものが落ちてきたかと思うと、一瞬のうちに夜空からザーッと強い雨が降り出してきた。薄手で心許ない寝間着を着た二人の肌を、容赦なく雨粒が濡らしていく。
「きゃっ……! 急に」
「このまま戻ったらビショビショになっちゃう。イチゴ、あっちの木陰に入ろう」
ナオミの言葉に頷き、二人は眠るクロを抱えながら、すぐ近くにある木陰へと駆け込んだ。密集した葉が雨粒を遮り、かろうじて雨を凌ぐことができる場所。
外では激しい雨が降り注ぎ、雨音が夜の世界を覆い尽くしていく。
大きな幹に背をもたれさせ、雨のカーテンをぼんやりと見つめていたイチゴが、ふとナオミへと視線を向けた。
「……来てくれてありがとう。ナオミ」
「え……?」
不意の感謝にナオミが驚くと、イチゴはどこか寂しげに微笑んだ。ナオミはクロの頭を優しく撫でながら、静かに語りかける。
「ううん。部屋に戻る途中、たまたま温室の方へ向かうイチゴを見かけたの。そしたら……クロが真っ先に走っていっちゃって。慌てて追いかけてきたんだよ」
「そっか……クロらしいな」
イチゴは呟くと、自身の膝をきゅっと抱え込み、小さく体育座りをした。
ナオミはそんなイチゴの横顔を気にかけるように見つめたが、無理に理由を問い詰めることはせず、ただ二人で静かに雨の音に耳を傾けていた。ざあざあと響く雨音が、二人の間の空間を優しく埋めていく。
どれくらいの時間が経っただろうか。
膝に顔を埋めかけていたイチゴの口から、ぽつり、ぽつりと言葉が零れ落ち始めた。
「……もう、どうしたらいいか分からないんだ……」
「イチゴ……?」
「リーダーなのに……ヒロの幼馴染なのに……アタシじゃ、ヒロを乗せてあげることすらできなかったし……ヒロを止められなかった……」
絞り出す声が、次第に途切れ途切れになっていく。
「でも……ヒロの側には、アイツがいて……ヒロだってそれを......……なのに……あたし、あたし……なんか変だ……あたし……っ」
溢れ出す感情に耐えかねたように、イチゴの声が大きく震え、瞳から大粒の涙がぼろぼろと溢れ出した。胸の奥で渦巻く、名前のつけられない黒く熱い感情。自分でもコントロールのつかない衝動に、イチゴは溢れる涙を拭おうともせず、声を張り上げた。
「あたし嫌……ッ!!いや ……あたまがぐちゃぐちゃになる…… 何なのこれ……ヒロ……ヒロ……」
ぐしゃぐしゃに泣きじゃくるイチゴ。
その痛切な叫びを受け止めていたナオミは、ついさっき、不安だった自分にクロがしてくれたぬくもりを思い出していた。
ナオミはそっと身を寄せると、泣きじゃくるイチゴの身体を、優しく抱きしめるように寄り添わせた。
「……イチゴ……」
言葉はいらなかった。ただ、側にいる。一人じゃないと伝えるように、ナオミはイチゴの肩に温もりを分け与える。
その時、ナオミの膝の上にいたクロが、すやすやと眠ったまま「ん……」と小さく声を漏らし、ナオミの体へと身を預けるようにぽてんと体重をかけてきた。
冷たい雨の音が響く木陰の中。
泣きじゃくるイチゴと、それを優しく包み込むナオミ、そして二人に身を委ねて眠るクロ。
三人は互いの温もりに身を寄せ合いながら、雨が止むのをじっと待ち続けた。
─────
激しかった雨が止み、夜が静かに明けていく。
薄っすらと白み始めた空の下、ヒロとゼロツーがかつて初めて出会ったあの湖の周囲には、青白い濃霧が立ち込めていた。水面は鏡のように静まり返り、樹々からは雨粒が落ちる音だけがかすかに響いている。
湖畔の途切れかけた木々に囲まれた場所に、ゼロツーが一人、ぽつりと立っていた。
湿んだ葉を踏みしめる足音が近づいてくる。
ゼロツーは振り向くことなく、その気配だけでやってきた人物が誰であるかを感じ取り、ゆっくりと口を開いた。
「雨って……いい匂いがする」
深く息を吸い込み、どこか遠くを見るような目で呟く。
「また、降らせてよ」
言った直後、ゼロツーはふっと小さく首を傾げ、自嘲気味に呟きを重ねた。
「……あ、そっか。君じゃ無理だった」
プランテーションの天候をも自在に操るパパたち。ヒロには、雨を降らせることなどできはしない。そんな当然の事実に思い至ったように、ゼロツーは短く息を吐いた。
ヒロは咎める風もなく、静かに歩みを進めると、ゼロツーの隣へと並んだ。
立ち込める霧の向こうに広がる水面を見つめながら、ゼロツーが懐かしむように言葉を落とす。
「君と初めて出会ったのは、ここだった」
「ああ……」
ヒロは静かに頷き、自身の胸の奥にある感情を確かめるように言葉を紡いだ。
「あの時、君と出会えたから……オレは今ここにいる。君と出会えたから、フランクスに乗ることができたんだ」
出会い、拒絶され、それでも掴み取った居場所。
ゼロツーとの出会いは、ヒロにとって救いそのものだった。
ふと、ゼロツーが体ごとヒロへと向き直った。
「そう、ボクだけが……ダーリンのパートナー」
呟くと同時に、ゼロツーの手がヒロの胸元へと伸ばされた。
指先が制服のジッパーを捉え、滑らかに下ろされていく。
肌寒い朝の空気に晒されたヒロの胸元。
その心臓のあたりには──皮膚を押し破らんばかりに青く脈打つ黄血球の塊が、気味の悪い腫瘍のように大きく広がっていた。
ヒロの命を内側から食い破ろうとする、死の刻印。
ゼロツーはそれを見つめたまま、指先で愛おしそうに触れた。
「ダーリンはもう知ってるんだよね?」
囁くような声が、夜明けの霧に溶けていく。
「ボクと3回以上乗れたパートナーは一人もいないって」
ヒロの胸に走る激痛、体に忍び寄る死の影。
ゼロツーはヒロの瞳をじっと覗き込み最後の選択を突きつけた。
「どうする? ……降りるなら、今のうちだよ?」
試すような、あるいは突き放すような問いかけ。
乗れば死ぬかもしれない。いや、確実に命を奪われる。
──だが。
ヒロの瞳に、ほんのわずかな揺らぎすら浮かぶことはなかった。
死の恐怖も、胸の激痛も、すべてを受け入れたかのように。ヒロは一切表情を変えることなく、まっすぐにゼロツーを見つめ返し、ただ一言、言い放った。
「オレは……乗るよ」
迷いのない、氷のように研ぎ澄まされたその言葉。
「……そっか」
ゼロツーの唇が、小さく弧を描いた。
「嬉しい」
一言呟くと、ゼロツーはヒロの胸にゆっくりと体を寄せ、背中へとそっと手を回した。
強く、離さないように抱きしめ合うふたりのシルエット。
静かに立ち込める朝霧と光の中で、ふたりの選択が重なり合っていた──