デビル・イン・ザ・フランドール   作:かるご

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目覚めのあとの、冷たい雨

暗いブリーフィングルームには、息苦しいほどの静寂が漂っていた。

室内の照明は必要最低限に落とされ、正面の巨大なモニターだけが青白い光を放っている。その光に照らし出されるのは、第13部隊と第26部隊のコドモたちの顔だった。

誰もが前方へ視線を向け、これから告げられる作戦内容を待っている。

モニターには、二つのプランテーションを中心とした周辺地形が映し出されていた。無数の青い反応が、画面の一角に密集している。

その異様な光景を背に、ハチが口を開いた。

 

 

「1時間前、距離およそ3000の所に叫竜の反応を確認した。数はおよそ、200から250」

 

「に、250...!?」

 

 

フトシの声が裏返った。

無理もない、初戦闘で苦戦をしたのに、今回はあまりにも規模が違う。画面上に表示された青い点の一つ一つが、自分たちの命を脅かす叫竜なのだ。

隣に座るツグミも、思わず身を乗り出していた。

 

 

「なんつー数だよ...」

 

 

普段なら多少のことでは動じない彼の表情にも、明らかな緊張が浮かんでいる。

一方、第26部隊のパラサイトたちは比較的落ち着いていた。驚きがないわけではない。ただ、実戦を重ねてきた彼らには、状況を受け止めるだけの経験があった。

それでも、リーダーの090は眉間に皺を寄せていた。

 

 

「今回は多いな」

 

 

その低い呟きが、事態の深刻さを物語っていた。

 

 

「今後も更に増え続けると思われる。会敵予想時刻は、およそ33時間後。どれだけ急いでも叫竜の到達前にキッシングを終わらせることは不可能」

 

 

ハチの説明に合わせ、モニター上の表示が切り替わる。

二つのプランテーションを結ぶ巨大な構造物。その周囲に、防衛線を示す光の帯が浮かび上がった。

 

 

「そこで防衛ラインを大型から100メートル離れた位置に設け、26部隊は前衛として展開し13部隊はバックアップとして後方に控えてもらう」

 

「ぅえ?バックアップ?」

 

 

ゾロメが不満そうに声を上げた。

自分たちも前線で戦うつもりでいたのだろう。予想外の配置に、露骨に顔をしかめている。

その反応に、090は静かに答えた。

 

 

「かなりの乱戦になるだろうからね、連携の取りやすい仲間だけでやりたいんだ」

 

「んなっ!」

 

「つまりミクたち足手まといってこと?」

 

 

ミクもまた、不機嫌そうに腕を組む。

090の言葉は合理的だった。だが、それを素直に受け入れられるほど、13部隊のコドモたちは割り切れていない。

ハチが短く咳払いをする。

 

 

「最優先事項は両プランテーションを繋ぐメインパイプの防衛である。そこでこの場所には、単機でも戦えるフランクスを配置することにした」

 

「そんなフランクスがいるんですか?」

 

 

090が問いかける。

ハチは彼の方へ向き直り、迷いなく告げた。

 

 

「ここにはストレリチアを置く」

 

 

その瞬間、室内の空気が変わった。

イチゴとナオミの肩が小さく震える。

ゴローは思わず顔をしかめ、ミツルもまた、険しい表情でモニターから目を逸らした。

ストレリチア。

その名前が持つ意味を、彼らは知っている。

特にゴローの脳裏には、前日に見た光景が鮮明に蘇っていた。

床に倒れ、胸を押さえて苦しむヒロ。

制服の下に広がっていた、不気味な青い腫れ。

そして、誰にも言わないでほしいと懇願した親友の顔。

胸の奥が、冷たく締めつけられる。

すると、第26部隊の側からざわめきが起こっていた。

中でも090の反応は明らかだった。

それまで冷静だった彼の表情が強張り、瞳に激しい動揺が走る。

まるで、決して思い出したくなかった何かを、突然目の前へ突きつけられたかのように。

その時だった。

自動扉が、静かな駆動音とともに開いた。

 

 

「ごめなさい、遅れたわ」

 

 

ナナを先頭に、ヒロとゼロツーが入室してくる。

三人へ視線が集まった。

そして、ゼロツーの姿を認めた瞬間、090の顔色が変わった。

 

 

「コード002......!」

 

 

掠れた声には、驚愕だけではない感情が滲んでいた。

ナナはその反応に気づきながらも、ハチの前へ進む。

 

 

「パパからの許可は?」

 

「ええ、でたわ。ゼロツーのパートナーとしてヒロにはストレリチアに乗ってもらいます」

 

 

その言葉に、イチゴは思わずヒロを見つめた。

ヒロはまっすぐ前を向いている。

そこには、迷いを振り払おうとする強い意志があった。

だが、ゴローには分かっていた。

あの制服の下で、今もヒロの身体に異変が起きているかもしれないことを。

 

 

「今はこれが最善だ、できるな」

 

「はい!」

 

 

ヒロは力強く頷いた。

その返答に、ためらいはなかった。

一方、隣に立つゼロツーは、まるで自分には関係のない話でも聞いているかのように、退屈そうに爪を眺めていた。

 

 

「待ってください!」

 

 

090は椅子から立ち上がり、ハチへと詰め寄る。

 

 

「我々は、ストレリチアとは一緒に戦えません...!」

 

「作戦の変更はできない」

 

 

ハチの返答は冷静だった。

しかし、090は引き下がらなかった。

 

 

「しかし!そこにいる女は、味方のことを顧みない!そんな奴に背中を預けられません!」

 

 

090は勢いよく振り向き、ゼロツーを指さした。

 

 

「コード002...お前には心当たりがあるはずだ......!」

 

「...何のこと?」

 

 

ゼロツーは小さく首を傾げた。

その態度が、090の感情をさらに逆撫でした。

 

 

「2年前の共同戦線だッ!!」

 

 

怒号が室内に響き渡る。

090の呼吸は荒くなっていた。

その瞳には、今も消えることのない痛みが宿っている。

 

 

「あの時...お前のあまりに無茶な戦い方のせいで、僕らは戦場で孤立し...僕は...パートナーを失ったんだぞッ!!!」

 

 

最後の言葉は、ほとんど悲鳴だった。

室内が静まり返る。

誰も、すぐには言葉を発することができなかった。

パートナーを失った。

その事実が持つ重みを、パラサイトである彼らは理解している。

イチゴは膝の上でスカートを強く握りしめた。

もし、自分がゴローを失ったら。

もし、ヒロが帰ってこなかったら。

考えたくもない想像が胸の奥を冷たく撫でていく。

隣のナオミも顔から血の気を失っていた。

 

 

「え......?」

 

 

小さな声が漏れる。

彼女の視線は、090からゼロツーへ、そしてヒロへと移っていった。

以前から聞いていた噂。

ゼロツーと三回以上搭乗できたパートナーはいないという話。

それだけでも恐ろしかった。

しかし、今目の前にいる090は、実際にゼロツーとの共同戦線で大切な人を失っている。

その現実が、ナオミの心に重くのしかかった。

ナナもまた、悲しげな眼差しで090を見守っていた。

だが、ゼロツーだけは違った。

 

 

「......ふ〜ん、覚えてないなあ」

 

 

興味のない話を聞き流すような声だった。

そして、彼女は何でもないことのように言い放つ。

 

 

「弱いやつは死ぬ、それだけでしょ」

 

 

空気が凍りついた。

090の表情から、一瞬、あらゆる感情が消えた。

次いで、その顔が怒りに歪む。

第26部隊のパラサイトたちも、言葉を失っていた。

第13部隊も同様だった。

命を落とした仲間について語られた直後に、そんな言葉が出てくるとは思わなかったのだ。

イクノは唇を噛んだ。

弱ければ死ぬ。

戦場では、確かにそういう現実もあるのかもしれない。

しかし、だからといって、失われた命をそんな一言で片づけていいはずがない。

胸の奥に、静かな怒りが灯る。

その時、イクノは隣に座るクロの様子に気づいた。

そして、息を呑んだ。

クロはゼロツーを見つめていた。

ただ、じっと。

怒鳴るわけでも、怯えるわけでもない。

普段なら、どんな時でも柔らかな表情を浮かべている彼女の顔から、感情が消えていた。

黒い瞳はまるで光を失った硝子玉のようだった。

イクノの背筋に冷たいものが走る。

こんなクロを見たことがない。

 

 

「クロ、どうしたの?」

 

 

そっと肩に触れる。

 

 

「......あ...」

 

 

クロが小さく瞬きをした。

夢から覚めたように視線を動かし、イクノの顔を見つめる。

それから、ゆっくりと胸元へ手を当てた。

おかしい。

胸の奥が、ひどく気持ち悪い。

何かが渦巻いている。

熱いようで、冷たい。

苦しいようで、何かを吐き出したいようでもある。

ゼロツーの言葉を聞いた瞬間、心の奥底から湧き上がってきた感情。

けれど、クロにはそれが何なのか分からなかった。

これまで、こんな気持ちになったことがなかったからだ。

心配そうに見つめてくるイクノに、クロは小さく笑みを作った。

 

 

「......ううん、大丈夫だよ」

 

 

だが、その笑顔にはいつもの明るさがなかった。

イクノはそれ以上問いかけられず、そっと手を離した。

一方、090は怒りを抑えきれず、一歩踏み出していた。

今にもゼロツーへ掴みかかりそうな勢いだった。

その前へ、ヒロが素早く割って入る。

 

 

「ゼロツーのことは、俺がコントロールします。ストレリチアのステイメンは、俺ですから!」

 

 

090の視線がヒロへ向けられる。

ヒロは逸らさなかった。

その瞳には、確かな決意が宿っていた。

090はしばらく彼を睨みつけていた。

やがて、強く歯を食いしばる。

 

 

「....なら、気をつけろ。その女の戦い方は普通じゃない、しっかり抑えてくれ」

 

「...わかっています」

 

 

短い返答だった。

だが、ヒロの声は揺らがなかった。

ゴローは、その横顔を見つめていた。

胸の奥が痛む。

ヒロが何を考えているのか、分かってしまう。

だからこそ、苦しかった。

 

 

「......作戦開始までに、各自休息を取り万全の状態で望めるように。ブリーフィングを終了する」

 

 

ハチの声とともに、モニターが暗転する。

室内の照明が戻った。

しかし、誰一人として晴れやかな顔をしていなかった。

明るくなった部屋の中には、先ほどよりも深い影が落ちているようだった。

 

 

 

─────

 

 

 

ブリーフィングを終えた第13部隊のコドモたちは、寄宿舎へ向かって歩いていた。

 

 

「なんだよ!俺達のこと足手まといにしやがって!」

 

 

ゾロメが頭の後ろで手を組み、不満を爆発させる。

 

 

「事実でしょう?僕たちはまだ未熟」

 

 

ミツルが冷ややかに返した。

 

 

「でも流石にカチンと来るよね」

 

 

イクノも眉をひそめる。

第26部隊の判断が合理的であることは分かっている。

それでも、仲間と一緒に戦ってきた自分たちを頼りない存在として扱われれば、悔しくもなる。

その時だった。

最後尾を歩いていたゴローが、ふと足を止めた。

 

 

「......俺は、向こうの意見に賛成だ」

 

 

全員の視線が集まる。

ゴローは俯き気味に、静かに言葉を続けた。

 

 

「ストレリチアは、次の作戦に出さないほうが──」

 

「俺はやるよ!」

 

 

ヒロの声が、その言葉を遮った。

ゴローが顔を上げる。

ヒロは仲間たちを見渡し、力強く言った。

 

 

「俺たちの力を見せてやろうよ!みんなだって、言われたまんまじゃ悔しいだろ?」

 

「お、おう......そうだぜゴロー!弱気になってんじゃねえよ!」

 

 

ゾロメが勢いよく頷く。

しかし、ゴローは笑えなかった。

弱気になっているわけではない。

ヒロが再び仲間と戦いたいと思っていることも、痛いほど理解している。

けれど、あの胸の腫れを見てしまった。

あの苦しそうな姿を、忘れることなどできない。

ゴローはゆっくりとイチゴへ視線を向けた。

 

 

「......イチゴはどう思う?」

 

 

イチゴは俯いていた。

しばらく沈黙した後、ようやく顔を上げる。

 

 

「......ストレリチアは必要だよ...」

 

 

その声は小さかった。

決して、何の迷いもない答えではない。

イチゴだって、ヒロを危険な目に遭わせたくない。

それでも、迫り来る叫竜の大群を前に、ストレリチアの力が必要であることは理解していた。

ゴローは唇を引き結ぶ。

ヒロと目が合った。

その眼差しは、昨日と変わらなかった。

もう逃げない。

そう誓った親友の目だった。

その少し後ろでは、ゼロツーが興味なさそうに立っている。

ゴローは何も言えなくなった。

一方、ナオミはずっと俯いていた。

周囲の会話が、遠くから聞こえてくるようだった。

頭の中では、090の言葉が繰り返されている。

パートナーを失った。

その言葉が、何度も胸を締めつけた。

 

 

「ナオミ」

 

 

不意に声をかけられ、顔を上げる。

隣にはツグミがいた。

 

 

「...なに?」

 

「その...大丈夫か?顔色悪いぞ」

 

 

心配そうに覗き込まれ、ナオミは慌てて表情を整えた。

 

 

「......そう、かな?ブリーフィングで疲れちゃったかな...」

 

「なら、今日は早く寝なきゃな!」

 

 

ツグミは明るく笑った。

その何気ない優しさが、今は少しだけ苦しかった。

本当のことを話せば、きっと彼も心配する。

けれど、今のナオミには、自分の気持ちをうまく説明できなかった。

 

 

「......うん...そうだね」

 

 

小さく頷き、再び視線を落とす。

その少し後ろでは、クロが胸元に手を当てて歩いていた。

眉を下げ、何か難しい問題でも考えているような顔をしている。

イクノは何度も横目で様子を窺っていた。

 

 

「クロ……大丈夫?」

 

 

声をかけると、クロは困ったように笑った。

 

 

「うーん……なんかね、ここがずっとモヤモヤするの。こういう時、どうしたらいいか分かんなくて」

 

 

胸元を指さす。

イクノは返答に迷った。

クロが何を感じているのか、正確には分からない。

ただ、ゼロツーの言葉を聞いてから様子がおかしいことだけは確かだった。

何か気の利いたことを言ってあげたい。

けれど、適切な言葉が見つからない。

沈黙が続いた。

 

 

「う〜ん.......あ、そうだ」

 

 

突然、クロが顔を上げる。

 

 

「どうしたの?」

 

「イクノと一緒に寝れば治るかも!」

 

「な......何言ってるの?そんなことしても、何も変わらないでしょ」

 

 

イクノの頬が一瞬で熱くなった。

思わず声が大きくなりそうになり、慌てて抑える。

クロはそんな反応を不思議がることもなく、肩を落とした。

 

 

「まあそうだよね〜」

 

 

あまりにも呑気な返答だった。

イクノは呆れたように息を吐く。

けれど、胸の奥では別の感情が静かに膨らんでいた。

一緒に寝る。

クロはきっと、深い意味など考えていない。

それが分かっているからこそ、余計に困ってしまう。

 

 

「ヘンなこと言わないでよ...」

 

 

小さく呟き、顔を背ける。

クロには、赤くなった頬を見られたくなかった。

胸の高鳴りも。

その言葉を聞いた瞬間、ほんの少し嬉しいと思ってしまったことも。

全部、知られたくなかった。

 

 

◇

 

 

夜。

寄宿舎には、静けさが戻っていた。

夕食を終え、入浴を済ませたコドモたちは、それぞれの部屋で休んでいる。

やがて消灯を知らせるチャイムが鳴り、室内の明かりが落ちた。

窓の外では、厚い雲がゆっくりと夜空を流れている。

クロはベッドの中で、何度目か分からない寝返りを打った。

眠れない。

目を閉じても、眠気が訪れない。

普段なら布団に入ってしばらくすれば、何も考えずに眠れてしまう。

それなのに、今夜は違った。

胸の奥に嫌な感覚が残っている。

ゼロツーの声が、何度も頭の中で響いた。

──弱いやつは死ぬ。

どうして、自分はこんなに嫌な気持ちになるのだろう。

考えても答えは出なかった。

クロは小さく息を吐き、天井を見つめる。

喉が渇いた。

水でも飲めば、少しは落ち着くかもしれない。

そう考え、身体を起こしかけた時だった。

視界の端で、何かが動いた。

下段のベッドから、ナオミが静かに起き上がっている。

彼女は物音を立てないよう慎重に足を下ろし、扉へ向かっていた。

クロは不思議に思い、小さく声をかけた。

 

 

「ナオミ?」

 

「……ッ」

 

 

ナオミの肩が跳ねた。

驚いたように振り向き、暗闇の中にクロの姿を見つける。

 

 

「ごめんね、起こしちゃって」

 

 

申し訳なさそうに笑う。

その時、雲の切れ間から月明かりが差し込んだ。

青白い光がナオミの顔を照らす。

クロは目を瞬かせた。

ナオミの目元が赤い。

頬にも、涙の跡のようなものが残っていた。

 

 

「ナオミ......泣いてるの?」

 

「え......?」

 

 

ナオミは慌てて袖口で目元を拭った。

 

 

「ううん、なんでも無いの.........喉乾いちゃって、水飲んでくるだけだから...」

 

 

無理に笑ってみせる。

けれど、その声は微かに掠れていた。

ナオミは逃げるように扉へ向かう。

その背中を見た瞬間、クロは考えるより先に動いていた。

ベッドから降り、ナオミの手首をそっと掴む。

 

 

「......待って」

 

 

ナオミが振り向く。

クロは、その瞳をまっすぐに見つめた。

 

 

「辛いことあったら、私に話していいよ?」

 

「...クロ......」

 

 

ナオミの唇が震えた。

何かを言おうとして、言葉が出てこない。

クロは無理に答えを求めなかった。

ただ、繋いだ手を優しく引く。

 

 

「行こう、ここじゃみんな起きちゃう」

 

 

ナオミは少し迷った後、小さく頷いた。

二人はイクノを起こさないよう、静かに部屋を出る。

扉が閉まる音が、夜の廊下に小さく響いた。

それから三十分ほどが過ぎた頃。

別の女子部屋でも、一人の少女が眠れずにいた。

イチゴだった。

ベッドに横たわってはいるものの、目は冴えたままだった。

090の怒号。

ゼロツーの冷たい言葉。

そして、迷いなくストレリチアに乗ると答えたヒロの姿。

そのすべてが、頭から離れない。

ヒロは本当に大丈夫なのだろうか。

ゼロツーと三回目の搭乗をしても、無事に帰ってこられるのだろうか。

不安が次々と浮かび、胸を締めつける。

イチゴはゆっくりと身体を起こした。

ミクとココロは、静かな寝息を立てている。

二人を起こさないよう、そっとベッドから抜け出した。

そして、部屋を出る。

向かう先は決まっていた。

ゼロツーの部屋。

確かめなければならないことがあった。

 

 

◇

 

 

夜の廊下を歩いていたクロとナオミは、しばらくして足を止めた。

 

 

「クロ、ここでいいよ......」

 

 

ナオミが小さく告げる。

クロは頷き、繋いでいた手を離した。

二人は窓際の壁に背を預け、並んで腰を下ろす。

床はひんやりと冷たかった。

窓の向こうには、雲に隠れかけた月が浮かんでいる。

しばらく、どちらも何も言わなかった。

 

 

「わざわざ...こんなことしなくても...」

 

 

ナオミがぽつりと呟く。

 

 

「全然いいよ」

 

 

クロはあっけらかんと答えた。

そして、ナオミの顔を覗き込む。

 

 

「ナオミが不安そうな顔してるの......あんまり見なくて、気になったから」

 

 

ナオミは目を伏せた。

そんなに顔に出ていただろうか。

普段は、できるだけ周囲に心配をかけないようにしているつもりだった。

 

 

「......そっか...ありがと......」

 

 

小さく礼を言う。

クロは何も急かさなかった。

ただ隣に座り、ナオミが話し始めるのを待っている。

やがて、月が厚い雲の向こうへ隠れた。

廊下が暗くなる。

その暗がりの中で、ナオミはゆっくりと口を開いた。

 

 

「......私さ...向こうの人が言ったこと聞いた時、頭が真っ白になったの......それで...どうしたら良いか、わからなくて。ヒロを止めようとも思ったけど...もう止めることも出来ないし、ヒロは自分から乗ろうとしてるし.......それを見たらね......もう、気づいた時には、遅かったんだって、思っちゃって......」

 

 

言葉が途切れる。

ナオミは膝の上で、両手を強く握りしめた。

ヒロのことを、ずっと心配していた。

彼がゼロツーと初めて乗った時から。

二度目の搭乗を終えた時も。

顔色が悪くなり、呼吸が浅くなっているように見えた時も。

何かがおかしいと、そう感じていた。

けれど、確かなことは分からなかった。

そして今日、090の話を聞いた。

ゼロツーの戦い方によって、実際にパートナーを失った者がいる。

その事実がナオミの中にあった不安を一気に膨らませた。

 

 

「.......ヒロはあの子と乗るの、次で3回目だから.......もし、もし...ヒロが...次で、死んじゃったら.......私.......わたし.......」

 

 

最後まで言えなかった。

大粒の涙が、頬を伝った。

一度溢れ出した涙は、止まらなかった。

声を抑えようとしても、喉の奥から嗚咽が漏れる。

ナオミは顔を伏せ、肩を震わせた。

怖かった。

ヒロが死んでしまうかもしれない。

その可能性が、どうしようもなく怖かった。

ガーデンで一緒に過ごした日々。

イチゴやゴローと笑い合っていた時間。

そして、かつてヒロのパートナーとしてフランクスに乗ろうとした自分。

いくつもの記憶が、胸の奥で重なっていく。

もう一度、みんなで笑いたかった。

ヒロにも、笑っていてほしかった。

ただ、それだけだった。

クロは黙ってナオミを見つめていた。

何を言えばいいのか、すぐには分からなかった。

けれど、目の前で泣いているナオミを、このまま一人にしたくなかった。

クロはそっと腕を伸ばす。

そして、ナオミの身体を優しく抱き寄せた。

 

 

「......クロ......?」

 

 

驚いた声が漏れる。

クロはそのまま、ナオミの背中へ手を回した。

 

 

「...泣いてもいいよ.....怖かったね」

 

 

その言葉を聞いた瞬間だった。

ナオミの中で、必死に張りつめていた何かが切れた。

 

 

「……っ、うぅ……」

 

 

堪えようとしていた嗚咽が、止まらなくなる。

ナオミはクロの服を強く掴み、その胸元へ顔を埋めた。

泣いてはいけないと思っていた。

自分がしっかりしなければと思っていた。

けれど、もう限界だった。

クロは何も言わず、背中を撫で続けた。

小さく震える身体をそっと抱きしめる。

どれほど時間が経ったのだろう。

やがて、クロが静かに口を開いた。

 

 

「大丈夫、ヒロは死なないよ...」

 

 

確かな根拠があるわけではなかった。

クロ自身にも、未来のことなど分からない。

それでも、そう信じたかった。

ナオミが大切に思っているヒロに、死んでほしくなかった。

そして何より、今こうして泣いているナオミに、少しでも安心してほしかった。

ナオミはその言葉を聞き、さらに強くクロへしがみついた。

今、一番聞きたかった言葉だった。

──大丈夫。

──ヒロは死なない。

たったそれだけの言葉が、暗闇の中で差し伸べられた手のように感じられた。

しばらくして、ナオミの嗚咽が少しずつ収まっていった。

呼吸が落ち着き、震えていた肩も静かになる。

ナオミはゆっくりと身体を離した。

目元は赤く、頬には涙の跡が残っている。

少し恥ずかしそうに視線を逸らした。

 

 

「....ごめん、こんなことに付き合ってくれて...」

 

「大丈夫だよ!」

 

 

クロはいつもの笑顔で答えた。

その屈託のなさに、ナオミも思わず笑ってしまう。

まだ不安が消えたわけではない。

ヒロのことを考えれば、胸は苦しくなる。

けれど、さっきまでのように、一人で抱え込まなくてもいいのだと思えた。

二人はゆっくりと立ち上がった。

そろそろ部屋へ戻ろう。

そう思った時だった。

窓の外に、人影が見えた。

月明かりに照らされた中庭。

そこを、二人の少女が歩いている。

一人はイチゴ。

もう一人は、ゼロツーだった。

イチゴがゼロツーの手を引くようにして、温室の方へ向かっている。

ナオミは思わず足を止めた。

こんな時間に、二人でどこへ行くのだろう。

それも、あのブリーフィングの後で。

胸の奥に、不穏な予感が広がっていく。

 

 

「イチゴ......?それにあの子.........どこに連れてくの....?」

 

 

クロも窓辺へ近づいた。

二人の背中を見つめる。

その瞬間、胸の奥に残っていた嫌な感覚が、再び強く疼いた。

ゼロツーの姿を見た途端、あの言葉が蘇った。

クロは胸元をぎゅっと握りしめた。

まだ、この感情の正体は分からない。

けれど、今はじっとしていられなかった。

 

 

「.......私、ちょっと行んでくる」

 

 

そう言い残すと、クロは駆け出した。

 

 

「クロ……!?」

 

 

ナオミが慌てて声を上げる。

しかし、クロは振り返らなかった。

静まり返った廊下に、足音が響いていく。

ナオミも急いで後を追った。

窓の外では、再び月が雲に隠れようとしていた。

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