夜の温室は、ひっそりと静まり返っていた。
ガラス張りの壁面には淡い月光が差し込み、複雑に組み合わされた鉄骨の影を地面へ落としている。
昼間は色鮮やかな植物たちも、今は暗闇の中で静かに葉を垂らし、時折吹き抜ける夜風に小さく揺れていた。
その温室の前で、二人の少女が向かい合っていた。
イチゴとゼロツー。
互いの距離は、ほんの数歩。
しかし、二人の間には、それ以上に大きな隔たりが存在していた。
イチゴは真剣な眼差しでゼロツーを見つめていた。
対するゼロツーは、どこか退屈そうに顔を背け、爪先で地面を軽く突いている。
まるで、目の前にいるイチゴのことなど、最初から意識していないかのようだった。
その態度に、イチゴは唇を引き結ぶ。
胸の奥では、焦りと不安が渦巻いていた。
けれど、ここで感情的になってはいけない。
自分は第13部隊のリーダーなのだから。
そう言い聞かせ、ゆっくりと口を開いた。
「……26部隊のことについては何も言わない。その代わり、次の作戦では独断専行はしないで。リーダーであるアタシの指示に従ってほしいの」
できるだけ冷静に。
責めるのではなく、協力を求めるように。
イチゴなりに考えた言葉だった。
第26部隊との過去について、今ここで問い詰めるつもりはない。
ただ、次の戦闘では仲間たちと連携してほしい。
それだけだった。
しかし、ゼロツーは小さく肩をすくめた。
「また僕に指示するの? 君って、本当にエラそー」
呆れたような声。
その言葉に、イチゴの眉が微かに動いた。
ゼロツーはそれ以上話すつもりもないらしく、何事もなかったかのように歩き出した。
「待って! 話はまだ終わってない──!」
イチゴは咄嗟に手を伸ばした。
指先がゼロツーの手首に触れ、そのまま強く掴む。
行かせてはいけない。
まだ、肝心なことを伝えていない。
そう思った次の瞬間だった。
「っ!」
身体が、前方へ大きく引っ張られた。
ゼロツーが一歩踏み出しただけだった。
それだけで、イチゴは抵抗する間もなく体勢を崩し、つんのめるように足を踏み出してしまった。
予想外の力に、心臓が跳ねる。
ゼロツーはようやく足を止め、不機嫌そうに振り返った。
「……何?」
冷たい視線が突き刺さる。
イチゴは俯いた。
掴んだ手首を離せないまま、言葉を探す。
本当は、もっと冷静に話すつもりだった。
部隊のリーダーとして、作戦のことだけを伝えるつもりだった。
けれど、胸の奥に押し込めていた不安が、どうしても消えてくれない。
ブリーフィングで聞いた、090の叫び。
ゼロツーの冷酷な言葉。
そして、三度目の搭乗へ向かおうとしているヒロ。
その姿が、頭から離れなかった。
「……ヒロに、無理させないで……」
ようやく絞り出した声は、ひどく弱々しかった。
その瞬間、ゼロツーの腕が強く引かれる。
イチゴの指が振りほどかれ、手の中からぬくもりが消えた。
「僕と乗りたいって言ったのは、ダーリンの方だよ」
ゼロツーは淡々と告げた。
それは、否定できない事実だった。
ヒロ自身が、ストレリチアに乗ることを望んでいる。
誰かに命令されたわけではない。
彼自身が選んだことなのだ。
だからこそ、イチゴは苦しかった。
「なら……ヒロの負担になるようなことはさせないで」
必死に訴える。
しかし、ゼロツーはその言葉を聞くと、どこか面白がるように目を細めた。
「……譲ってほしいの?」
「え……?」
イチゴは思わず顔を上げた。
ゼロツーの唇が、微かに歪む。
「でも前に試してダメだったじゃん」
胸の奥を、鋭いものが貫いた。
かつて、ヒロとフランクスに乗ろうとした時のこと。
どれだけ願っても、どれだけ努力しても、あの時の自分には何もできなかった。
それなのに、ゼロツーは違った。
ヒロとともにストレリチアへ乗り込み、あの白い機体を動かしてみせた。
自分にはできなかったことを、彼女は当たり前のように成し遂げてしまった。
その事実が、今もイチゴの心に刺さっている。
「アタシのことはいいでしょ……!」
声が震えた。
ゼロツーは、そんなイチゴを冷ややかに見つめる。
「だったら、そっちもボクに口出さないで」
突き放すような一言だった。
イチゴは息を呑んだ。
どうして。
どうして、この子には伝わらないのだろう。
自分が何を心配しているのか。
ヒロがどれほど大切な存在なのか。
その命が失われるかもしれないことが、どれほど恐ろしいのか。
「……あなた、最初からヒロを利用するつもりなの……?」
気づけば、そんな言葉が零れていた。
ゼロツーは答えなかった。
ただ、視線を逸らす。
そして、誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。
「ダーリンはボクのもの……」
その言葉に、イチゴの胸が締めつけられた。
まるで、ヒロという存在を自分だけのものとして囲い込もうとしているかのような響き。
そこに、ヒロ自身の命への心配はあるのだろうか。
「死んじゃうかもしれないんだよ!?」
叫び声が、夜の温室に響いた。
抑えていた感情が、とうとう溢れ出した。
ヒロが死ぬかもしれない。
もう二度と、あの笑顔を見られなくなるかもしれない。
それなのに。
ゼロツーは、少しも表情を変えなかった。
「そうだよ。死んだらそれまでさ」
静かな声だった。
あまりにも、静かだった。
「な……っ!」
イチゴは言葉を失った。
目の前が熱くなる。
怒りなのか、悲しみなのか、自分でも分からない。
ただ、どうしても許せなかった。
ヒロの命を、そんなふうに扱うことだけは。
イチゴが一歩踏み出そうとした、その時だった。
「なにそれ」
低い声が、夜の静寂を切り裂いた。
─────
ガサリ、と。
温室の脇に広がる茂みが、大きく揺れた。
月明かりの届かない木々の間から、一人の少女が姿を現す。
長い黒髪。
夜の闇を映したような黒い瞳。
クロだった。
その少し後ろから、息を切らしたナオミが駆け寄ってくる。
「クロ……? ナオミまで……どうしてここに……」
イチゴは目を見開いた。
二人がこんな時間に外へ出ているとは思わなかった。
クロが、まっすぐに歩いてくる。
その様子を見た瞬間、イチゴは違和感を覚えた。
いつものクロではない。
普段の彼女なら、どこか眠たげで、穏やかな表情を浮かべている。
時には突拍子もないことを言い出し、周囲を驚かせることもある。
けれど、今は違った。
その顔に笑みがなかった。
ゼロツーだけを見据え、一歩、また一歩と距離を詰めていく。
ナオミも、その異変に気づいていた。
つい先ほどまで、自分を優しく抱きしめてくれていたクロ。
あの温かな笑顔を向けてくれた少女と、同じ人物だとは思えなかった。
(クロが……こんなに……?)
ナオミは思わず息を呑んだ。
クロから伝わってくる気配が、あまりにも鋭かった。
怒り。
それは確かに、怒りだった。
しかし、その奥には、別の何かが混ざっているようにも感じられた。
クロ自身にも説明できない、暗く重たい感情。
ブリーフィングルームでゼロツーの言葉を聞いた時から、ずっと胸の奥で渦巻いていたもの。
それが今、抑えきれないほど強くなっていた。
「……ヒロのこと、なんだと思ってるの?」
クロが口を開いた。
静かな声だった。
けれど、その響きには、普段の柔らかさがなかった。
ゼロツーは面倒くさそうに目を細める。
「パートナーは替えがきく道具じゃない」
「ボクとダーリンの問題だよ」
即座に返ってきた言葉。
しかし、クロは引かなかった。
「ううん、違う。ヒロは私たちの大切な仲間。あなたのために失うほど軽い命じゃない」
その言葉に、イチゴの胸が震えた。
大切な仲間。
ヒロは、ゼロツーだけのものではない。
自分たちにとっても、かけがえのない存在なのだ。
イチゴが言いたくても、うまく伝えられなかったこと。
それをクロは、まっすぐに口にしていた。
ゼロツーは小さく鼻を鳴らす。
「あっそ……じゃあ君は、ダーリンの何なの?」
挑発するような問いかけだった。
だが、クロは一瞬たりとも迷わなかった。
「大切な友達」
短い言葉。
それだけで十分だった。
クロにとって、ヒロは大切な友達だ。
一緒に笑い、食事をし、同じ場所で暮らす仲間。
だから、失いたくない。
それ以上の理由など必要なかった。
ゼロツーはつまらなさそうに息を吐いた。
「ふーん、友達ね……弱いやつの言うことは、よくわからないな」
再び、あの言葉。
弱い。
その一言が、クロの胸の奥を強く刺激した。
心臓のあたりが、嫌な熱を帯びる。
どうして、そんなふうに言えるのだろう。
どうして、誰かの命を簡単に切り捨てられるのだろう。
そして、どうして自分は、こんなにも胸が苦しくなるのだろう。
分からない。
けれど、目の前の少女の言葉を、そのまま受け入れることだけはできなかった。
「あなたは違うの?」
「……」
ゼロツーの表情が変わった。
「……どういうこと?」
低い声。
先ほどまでの退屈そうな態度が、少しずつ消えていく。
クロはその変化に怯むことなく、静かに続けた。
「私はステイメンに負担を押し付けて、やっと戦えるあなたを──『強い』とは思えない」
その瞬間だった。
ゼロツーの空気が、一変した。
瞳が鋭く細められる。
唇から笑みが消え、全身から剥き出しの敵意が滲み出した。
「へえ、じゃあさ……ボクの強さを知らないなら、今ここで試してみる?」
一歩。
ゼロツーが距離を詰めた。
その動きに、イチゴとナオミの身体が強張る。
危険だ。
直感的に、そう感じた。
ゼロツーの身体能力は、普通のコドモたちとは明らかに違う。
先ほど、イチゴが手首を掴んだ時も、彼女はほとんど力を入れずに振りほどいてみせた。
もし本気で手を出されたら。
そう考えた瞬間、背筋が冷たくなる。
「クロ……!」
イチゴが声を出しかける。
しかし、クロは動かなかった。
ゼロツーが目の前に迫っても、黒い瞳は揺れない。
恐怖がないわけではなかった。
ただ、今はそれ以上に、胸の奥で渦巻く感情が強かった。
「あなたの強さは知ってるよ……でも、パートナーを消耗品のように扱いながら戦うなんて、人のやることじゃない」
その言葉を聞いた瞬間。
ゼロツーの表情が凍りついた。
「......人...?ヒトだって......?」
先ほどまでの怒りとは、何かが違った。
ゼロツーの瞳が、クロを鋭く射抜く。
「じゃあさ......聞くけど、君たちの言うヒトって、何さ......?」
その声には、怒りだけでは説明できない響きがあった。
イチゴは思わず息を止める。
ナオミも、二人の顔を交互に見つめた。
ヒト。
ゼロツーがその言葉を口にした時、まるで何か大切なものを傷つけられたかのように見えた。
しかし、クロはその理由を知らない。
ゼロツーが何を考えているのかも、分からない。
ただ、自分が大切だと思うことだけは、はっきりしていた。
「大切な人を護ること」
迷いのない返答だった。
ゼロツーが目を見開く。
「は?なにそれ」
理解できない。
そんな表情だった。
クロは何も言い返さなかった。
ただ、まっすぐにゼロツーを見つめ続けている。
ゼロツーはしばらく黙っていた。
やがて、大きく息を吐く。
「......もういい...」
それだけを言い残し、踵を返した。
長い髪が夜風に揺れる。
ゼロツーは一度も振り返ることなく、暗い森の奥へ歩いていった。
イチゴもナオミも、何も言えなかった。
ただ、その背中が闇に溶けていくのを見つめていた。
─────
ゼロツーの足音が、完全に聞こえなくなった。
温室の周囲に、再び静寂が戻る。
クロはその場に立ち尽くしていた。
黒い瞳は、ゼロツーが消えた森の奥を見つめたままだった。
胸の奥にあった熱が、少しずつ引いていく。
代わりに、ひどい疲労感が身体を包み込んだ。
眠い。
突然、そんな感覚が押し寄せてきた。
張りつめていたものが途切れたことで、身体が一気に重くなった。
視界がぼやける。
足元が、ふわりと揺れた。
「クロ……!」
「クロ!」
イチゴとナオミが同時に駆け出した。
クロの身体が傾く。
倒れる寸前、ナオミが両腕を伸ばし、その身体を受け止めた。
「クロ!? 大丈夫……」
必死に顔を覗き込む。
イチゴも慌てて隣に膝をついた。
しかし、二人はすぐに異変に気づいた。
「……スゥ、スゥ……」
規則正しい寝息。
クロは眠っていた。
あれほど張りつめた空気の中でゼロツーと向き合っていた少女が、今はナオミの腕の中で穏やかな寝顔を浮かべている。
イチゴは呆然と瞬きをした。
ナオミも、しばらく言葉を失っていた。
やがて、二人は顔を見合わせる。
「もう……ビックリさせないでよ……」
イチゴが深く息を吐いた。
ナオミも、ようやく肩の力を抜く。
本当に倒れたのかと思った。
何か身体に異変が起きたのかと、心臓が止まりそうになった。
それなのに、当の本人は気持ちよさそうに眠っている。
ナオミは思わず苦笑した。
クロらしいと言えば、あまりにもクロらしい。
しかし、先ほど見せた表情だけは、どうしても頭から離れなかった。
あんなに怒っているクロを初めて見た。
何が彼女をそこまで追い詰めたのだろう。
ナオミは眠るクロの顔を見つめる。
今は、いつもの穏やかな寝顔だった。
そっと抱え直し、立ち上がろうとした時だった。
ぽつり。
冷たいものが、イチゴの頬に触れた。
「……ん?」
見上げると、空には厚い雲が広がっていた。
次の瞬間。
ざああああっ、と激しい雨が降り始めた。
「きゃっ……! 急に」
イチゴが思わず身をすくめる。
薄手の寝間着が、みるみるうちに濡れていく。
ナオミも慌てて周囲を見渡した。
「このまま戻ったらビショビショになっちゃう。イチゴ、あっちの木陰に入ろう」
イチゴは頷いた。
二人は眠るクロを抱えながら、近くの大きな木へと駆け込む。
広く張り出した枝と密集した葉が、雨粒をいくらか遮ってくれた。
完全に濡れずに済むわけではない。
それでも、激しい雨を直接浴びるよりはずっとましだった。
三人は太い幹に背を預け、身を寄せ合うように座り込んだ。
外では雨が降り続いている。
地面を叩く雨音。
葉を揺らす水滴。
遠くで響く、低い風の音。
夜の世界が、雨の音に包み込まれていった。
イチゴは膝を抱え、ぼんやりと雨を眺めていた。
先ほどのゼロツーとのやり取りが、何度も頭の中を巡る。
ヒロを大切にしてほしい。
ただ、それだけを言いたかったのに。
結局、最後まで自分の言葉では届かなかった。
イチゴは小さく息を吐く。
そして、隣に座るナオミへ視線を向けた。
「……来てくれてありがとう、ナオミ」
「え……?」
突然の言葉に、ナオミは目を瞬かせた。
イチゴは寂しそうに微笑む。
ナオミは腕の中で眠るクロの髪を、そっと撫でた。
「ううん。部屋に戻る途中、たまたま温室の方に歩いてくイチゴを見かけたの。そしたら……クロが真っ先に走っていっちゃって。慌てて追いかけてきたの」
「そっか……クロらしいね」
イチゴは小さく笑った。
考えるより先に行動する。
仲間のこととなれば、なおさらだ。
イチゴは再び膝を抱え、顔を伏せる。
ナオミは何も言わなかった。
今のイチゴが、何かを抱え込んでいることは分かっていた。
けれど、無理に聞き出そうとは思わなかった。
少し前まで、自分も同じように苦しんでいたからだ。
あの時、クロは何も急かさず、ただ隣にいてくれた。
だから、今度は自分がそうしよう。
ナオミは静かに雨を見つめた。
時間だけが、ゆっくりと流れていく。
やがて。
「……もう、どうしたらいいか分からないんだ……」
イチゴが、ぽつりと呟いた。
「イチゴ……?」
ナオミが顔を向ける。
イチゴは俯いたままだった。
「リーダーなのに……幼馴染なのに……アタシじゃ、ヒロを乗せてあげることすらできなかったし……ヒロを止めることも、できなかった……」
声が震えていた。
ナオミは息を呑む。
イチゴの指が、膝を強く握りしめている。
「でも……ヒロの側には、アイツがいて……ヒロだってそれを......……なのに……アタシ、あたし……なんか変だ……あたし……っ」
言葉が続かない。
胸の奥に、いくつもの感情が絡み合っていた。
ヒロを守りたい。
ヒロに生きていてほしい。
もう一度、昔のように笑ってほしい。
けれど、ヒロが求めているのはゼロツーだった。
自分にはできなかったことをゼロツーはできる。
ヒロが失いかけていた居場所を、彼女は取り戻してみせた。
そのことが嬉しくないわけではない。
ヒロが再び笑えるようになったことは、本当に嬉しかった。
それなのに。
どうして、こんなに苦しいのだろう。
どうして、ゼロツーがヒロの隣にいると胸が締めつけられるのだろう。
どうして、自分ではないのだろう。
そんなことを考えてしまう自分が嫌だった。
「あたし嫌……ッ!!いや ……あたまがぐちゃぐちゃになる…… 何なのこれ……ヒロ……ヒロ……」
とうとう、涙が溢れ出した。
一度零れ始めると、もう止められなかった。
イチゴは膝を抱えたまま、声を上げて泣いた。
リーダーなのに。
みんなをまとめなければいけないのに。
そんな思いさえ、今は涙に押し流されていく。
ナオミは、その姿を見つめていた。
胸が痛かった。
イチゴがどれほどヒロを大切に思っているのか、ナオミは知っている。
ガーデンで過ごしていた頃から、ずっと一緒だった。
ヒロが落ち込めば、イチゴは心配していた。
ヒロが笑えば、イチゴも嬉しそうに笑っていた。
そんな二人を、ナオミは何度も見てきた。
だからこそ、今のイチゴがどれほど苦しんでいるのか、少しだけ分かる気がした。
そして、ナオミは思い出す。
つい先ほど、自分も泣いていたことを。
ヒロが死んでしまうかもしれない。
その恐怖に耐えきれず、クロの前で涙を流した。
あの時、クロは優しく抱きしめてくれた。
泣いてもいいと、言ってくれた。
ナオミはゆっくりと身体を寄せる。
そして、イチゴの肩をそっと抱いた。
「……イチゴ……」
それ以上、何も言わなかった。
今のイチゴに、正しい答えを教えることなどできない。
自分だって、ヒロのことを考えれば不安になる。
それでも、一人ではないと伝えることはできる。
ナオミはイチゴの肩を優しく抱き寄せた。
イチゴは抵抗しなかった。
ただ、ナオミの肩へ顔を寄せ、声を震わせながら泣き続けた。
雨音が、二人の周囲を包み込んでいる。
その時だった。
「ん……」
ナオミの膝の上で、クロが小さく身じろぎした。
眠ったまま、身体をもぞもぞと動かす。
そして、安心できる場所を探すように、ナオミの身体へぽてんと寄りかかった。
ナオミは一瞬驚いた後、思わず微笑んだ。
クロは何も知らず、穏やかな寝息を立てている。
その寝顔を見ていると、不思議と胸が温かくなった。
ナオミは片腕でイチゴを抱き、もう片方の手でクロを支える。
イチゴも、涙に濡れた顔を少しだけ上げた。
眠るクロを見つめる。
つい先ほどまで、ゼロツーと真正面からぶつかっていた少女。
あれほど強い怒りを見せていたのに、今は何もなかったかのように眠っている。
イチゴの唇に、ほんの小さな笑みが浮かんだ。
そして、再びナオミへ身体を寄せた。
冷たい雨が降り続く夜。
大きな木の下で、三人の少女は身を寄せ合っていた。
一人は、大切な幼馴染への想いに苦しみながら。
一人は、仲間を失う恐怖を抱えながら。
そしてもう一人は、まだ自分でも理解できない感情を胸に眠りながら。
雨は、いつまでも静かに降り続いていた。
─────
夜が明けようとしていた。
激しく降り続いていた雨は、いつの間にか止んでいた。
空は薄く白み始め、木々の葉には無数の水滴が残っている。
時折、枝先から落ちる雫が地面を叩き、小さな音を立てていた。
ミストルティンの奥。
静かな湖の周囲には、青白い霧が立ち込めていた。
水面は鏡のように穏やかで、朝の光を淡く映している。
かつて、ヒロとゼロツーが初めて出会った場所。
その湖畔に、一人の少女が立っていた。
ゼロツーだった。
濡れた草を踏みしめながら、静かな湖を眺めている。
長い髪が、湿った朝風に揺れていた。
やがて、背後から足音が聞こえてきた。
ゼロツーは振り向かなかった。
それでも、誰が来たのか分かっていた。
「雨って……いい匂いがするね」
静かな声だった。
ゼロツーは深く息を吸い込む。
雨上がりの森には、濡れた土と草木の匂いが満ちていた。
「また、降らせてよ」
その言葉の後、少しだけ間が空く。
ゼロツーは小さく首を傾げた。
「……あ、そっか。君じゃ無理だった」
どこか自嘲するような響きだった。
プランテーションの天候さえ管理するパパたち。
その力を、ヒロは持っていない。
ヒロは何も言わなかった。
ただ静かに歩み寄り、ゼロツーの隣に立つ。
二人の視線の先には、霧に包まれた湖が広がっていた。
「君と初めて出会ったの、ここだった」
「ああ……」
ヒロは頷いた。
あの日のことを、今でも覚えている。
一人で森を歩いていた時。
湖のほとりで出会った不思議な少女。
あの出会いが自分の運命を大きく変えた。
フランクスに乗れなくなり、存在価値を失いかけていた自分。
そんな自分に、もう一度戦う機会を与えてくれた少女。
ヒロは静かに口を開いた。
「あの時、君と出会えたから……俺は今ここにいる。君と出会えたから、フランクスに乗ることができたんだ」
言葉に嘘はなかった。
ゼロツーと出会わなければ、自分はどうなっていただろう。
あのまま、何もできずに終わっていたかもしれない。
仲間たちと一緒に戦うこともできず、自分の居場所を見つけられなかったかもしれない。
だから、感謝していた。
彼女と出会えたことを。
再びフランクスに乗れるようになったことを。
そして、もう一度、自分の足で前へ進もうと思えたことを。
ゼロツーは、そんなヒロを見つめていた。
やがて、ゆっくりと身体を向き直る。
「そう、ボクだけが……ダーリンのパートナー」
その声には、確かな執着が滲んでいた。
ゼロツーの手が、ヒロの胸元へ伸びる。
細い指先が制服のジッパーに触れ、ゆっくりと下ろしていく。
冷たい朝の空気が、露わになった肌に触れた。
そこには、異様なものが広がっていた。
心臓のあたり。
皮膚の下から浮き上がるように、青い腫れが大きく膨らんでいる。
まるで、生き物のように脈打っていた。
黄血球の異常な集積。
それは、ヒロの身体が限界へ近づいていることを示す、恐ろしい兆候だった。
ゼロツーは、その腫れを見つめた。
指先を伸ばし、愛おしそうに触れる。
ヒロの身体が微かに強張った。
胸の奥に、鈍い痛みが走る。
しかし、彼は何も言わなかった。
「ダーリンはもう知ってるんだよね?」
ゼロツーの声が、朝霧の中に響く。
「ボクと3回以上乗れたパートナーは一人もいないって」
ヒロは、静かにゼロツーを見つめていた。
知っている。
その噂は、何度も耳にしてきた。
ゼロツーのパートナーになった者は、三度目の搭乗を越えられない。
そして今、自分の身体にも異変が起きている。
胸の腫れは、以前よりも大きくなっていた。
時折、息をすることさえ苦しくなる。
このままストレリチアに乗れば、どうなるのか。
考えたくないわけではなかった。
怖くないわけでもなかった。
死ぬかもしれない。
その可能性は、ヒロ自身が誰よりも理解していた。
「どうする? ……降りるなら、今のうちだよ?」
ゼロツーが問いかける。
その瞳は、ヒロをじっと見つめていた。
試すような、あるいは最後の選択を委ねるような。
そんな眼差しだった。
ヒロは答えなかった。
ほんの一瞬、目を伏せる。
脳裏に、仲間たちの顔が浮かんだ。
イチゴ。
ゴロー。
ナオミ。
ゾロメやミク。
フトシ、ココロ、ミツル、イクノ。
そして、クロとツグミ。
自分を受け入れてくれた仲間たち。
もう一度、一緒に戦いたいと思えた人たち。
ゴローの言葉も思い出す。
自分を心配してくれた親友。
何も言わずに見守ってくれた仲間たち。
彼らの気持ちを、知らないわけではない。
それでも。
ここで逃げたくなかった。
ようやく掴みかけたものを、自分から手放したくなかった。
ヒロはゆっくりと顔を上げた。
ゼロツーの瞳を、まっすぐに見つめ返す。
「オレは……乗るよ」
静かな声だった。
けれど、その言葉には揺るぎない決意が込められていた。
ゼロツーは、しばらくヒロを見つめていた。
やがて、その唇が小さく弧を描く。
「……そっか」
柔らかな声。
「嬉しい」
ゼロツーはゆっくりと身体を寄せた。
ヒロの胸元に頬を近づけ、その背中へ腕を回す。
ヒロもまた、彼女を抱きしめた。
朝霧の中。
二人の姿が、淡い光に包まれる。
その穏やかな光景とは裏腹に、ヒロの胸の奥では、青い腫れが脈打ち続けている。
それでも、二人は離れなかった。
互いのぬくもりを確かめるように、静かに抱きしめ合う。
やがて昇り始めた朝日が、霧の向こうから二人を照らし出した。
オリジナル設定の説明欲しいですか?
-
いる
-
いらない