デビル・イン・ザ・フランドール   作:かるご

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言えない言葉

雨上がりの森に、朝の光が差し込み始めていた。

夜通し降り続いていた雨は、いつの間にか止んでいる。

濡れた木々の葉には無数の雫が残り、時折、枝先から滑り落ちた水滴が地面へ小さな音を立てて落ちていた。

空にはまだ薄い雲が広がっていたが、その隙間から覗く朝陽が、森の奥へ淡い光を届けている。

そんな静かな朝の森。

大きな樹木の根元に、三人の少女が身を寄せ合って眠っていた。

昨夜、突然降り始めた雨を避けるために駆け込んだ木陰。

そのまま雨が止むのを待っているうちに、三人とも眠ってしまったのだった。

イチゴは膝を抱えた姿勢のまま、ナオミの肩へ頭を預けている。

ナオミも幹に背中を預け、静かな寝息を立てていた。

そしてクロは、そんなナオミの膝の上で、相変わらず気持ちよさそうに眠っている。

昨夜、ゼロツーと激しく言い争っていた姿からは想像もつかないほど、穏やかな寝顔だった。

その時だった。

遠くから、湿った地面を踏みしめる足音が近づいてきた。

 

 

「……あ、あそこだ! イチゴ! ナオミ!」

 

 

静寂を破ったのは、ツグミの声だった。

木々の間から姿を現した彼は、三人を見つけた瞬間、ほっとしたように表情を緩めた。

その後ろから、イクノも駆け寄ってくる。

二人とも、少し息が上がっていた。

朝になっても戻ってこない三人を、ずっと探していたのだ。

 

 

「……どこに行ってたのよ。みんな心配して探したのよ」

 

 

イクノは呆れたように言った。

しかし、その声には明らかな安堵が滲んでいる。

特に彼女の視線は、ナオミの膝で眠っているクロへと向けられていた。

昨夜、部屋に戻ってみれば、クロとナオミの姿がなかった。

最初は少し外へ出ているだけだと思った。

けれど、時間が経っても戻ってこない。

何かあったのではないか。

そんな考えが頭をよぎり、イクノは落ち着かずにそわそわしていた。

だからこそ、こうして三人の無事な姿を確認できたことに安堵していた。

 

 

「……ツグミ……? イクノ……?」

 

 

呼びかけに反応したイチゴが、ゆっくりと瞼を開いた。

まだ眠気が残っているのか、ぼんやりとした表情で二人を見上げる。

昨夜泣いたせいだろう。

目元には、微かに赤みが残っていた。

ツグミはその様子に気づいたが、何も言わずに屈み込んだ。

 

 

「大丈夫か? イクノが部屋にナオミとクロがいないって聞かされて、びっくりしたんだぞ」

 

 

その声に、ナオミも目を覚ました。

何度か瞬きをしてから、目の前にいる二人を見て、申し訳なさそうに眉を下げる。

 

 

「ごめん、二人とも……夜中に雨が降ってきちゃって、寄宿舎に戻れなくなっちゃって……」

 

「そう。なら仕方ないけど……ところで、クロは?」

 

 

イクノの視線が、再びクロへ向けられた。

当の本人は、周囲の会話などまるで聞こえていない様子で眠り続けている。

ナオミが少し身体を動かしても、起きる気配はない。

 

 

「クロは朝が苦手で、なかなか起きれないの……」

 

 

ナオミが苦笑する。

イクノは小さく息を吐いた。

普段からクロが朝に弱いことは知っている。

それでも、これだけ騒がしくしているのに目を覚まさないのだから、ある意味では感心してしまう。

 

 

「まったく……ほら、そろそろ朝食の時間だから寄宿舎に戻るわよ。ヒロとゼロツーはもう戻ってるみたいだし」

 

 

その名前を聞いた瞬間、イチゴの表情がほんの少しだけ曇った。

ヒロとゼロツー。

昨夜、温室の前で交わされた会話が頭をよぎる。

ゼロツーの冷たい言葉。

クロの怒り。

そして、ヒロへの想いを抑えきれず、ナオミの前で泣いてしまったこと。

胸の奥が、微かに痛んだ。

けれど、イチゴは何も言わなかった。

 

 

「わかった……ナオミ、クロのこと、任せていい?」

 

「いいよ。私がおんぶしてく」

 

 

ナオミは頷くと、眠るクロの身体をゆっくりと起こした。

腕を肩に回し、背中へ担ぎ上げる。

クロは一瞬だけ小さく身じろぎしたものの、すぐにまた穏やかな寝息を立て始めた。

その様子に、ナオミは思わず微笑む。

イクノも、クロが落ちないように背中を支えるナオミの手元を見つめていた。

 

 

「……気をつけてね、ナオミ」

 

「うん。ありがとう、イクノ」

 

 

四人は、朝靄の残る森を歩き始めた。

湿った土を踏みしめながら、寄宿舎へ向かっていく。

ナオミの背中では、クロが相変わらず気持ちよさそうに眠っていた。

その寝息だけが、穏やかな朝の空気に小さく響いていた。

 

 

◇

 

 

同時刻。

第13プランテーションの司令室には、緊迫した空気が漂っていた。

薄暗い室内には無数のモニターが並び、各種観測データが絶え間なく更新されている。

その中でも、ひときわ大きなメインモニターには、プランテーションへ向かって進行する叫竜の群れが映し出されていた。

当初の予測を上回る数。

そして、通常とは異なる行動。

ハチは腕を組み、画面を鋭く見つめていた。

 

 

「……通常個体とは、あきらかに形状が異なるな」

 

 

モニターには複数の叫竜が一定の間隔を保ちながら移動する様子が映っている。

その動きは、これまで観測されてきた群れとは明らかに違っていた。

ただ本能のままに突き進んでいるようには見えない。

まるで何かの意志によって統率されているかのようだった。

そして、その中心。

巨大な影が、ゆっくりと移動していた。

真四角に近い、異様な巨躯。

まるで巨大な建築物が、そのまま動いているかのような姿だった。

頂部には、二対の角が突き出している。

周囲の叫竜と比較しても、その大きさは桁違いだった。

ハチは画面に表示された解析情報を確認する。

しかし、既存のデータベースには該当する個体が見当たらない。

 

 

「……こんな個体は見たことがない」

 

 

低い呟きが司令室に響いた。

隣に立つナナも表情を険しくする。

今回の作戦は、第26部隊を前衛、第13部隊を後衛とする共同防衛作戦。

しかし、敵の数が増加し、さらに未知の大型個体まで確認されたとなれば、当初の想定どおりに進む保証はない。

ナナは無意識に指先を握りしめた。

モニターの向こうでは叫竜の大群が着実に距離を縮めている。

それは、まるで巨大な嵐が近づいてくるようだった。

 

 

 

─────

 

 

 

作戦開始まで、残り一時間。

女子更衣室で出撃を控えた少女たちがパラサイトスーツへの着替えを進めていた。

普段なら、何気ない会話や笑い声が響く場所。

しかし、今夜はどこか空気が重かった。

ロッカーの開閉音。

衣服の擦れる音。

スーツの留め具を固定する小さな金属音。

そんな音だけが、室内に響いている。

ココロは着替えの手を止め、深く息を吐いた。

 

 

「……叫竜の数、予想よりも増えているみたい。私たち……無事に帰ってこられるのかな……」

 

 

その声には不安が滲んでいた。

今回は初陣とは規模が違う。

第26部隊との共同作戦とはいえ、相手は二百体を超える大群だ。

しかも、その数はさらに増加しているという。

 

 

「少なくとも、簡単にはいかないね」

 

 

イクノが静かに答えた。

髪を整えながら、鏡越しにココロへ視線を向ける。

その表情は冷静だったが、決して楽観しているわけではない。

むしろ、状況が厳しいからこそ、現実から目を逸らすべきではないと考えていた。

すると、ミクが不満そうに口を尖らせた。

 

 

「ふん、26部隊の人たちに全部任せちゃえばいいのよ。どうせあたしたちなんて、足手まといなんだから!」

 

「ずいぶん弱気じゃない」

 

 

イクノの指摘にミクはぷいと顔を背けた。

本当は、足手まといだと思われることが悔しかった。

第26部隊のパラサイトたちは、自分たちよりもずっと多くの実戦経験を積んでいる。

そのことは分かっている。

けれど、だからといって何もできないまま終わりたくはなかった。

そんな複雑な感情が強気な言葉の裏側に隠れていた。

その一方で。

イチゴは着替えを終えたまま動かずにいた。

唇へ、そっと指先を触れさせている。

視線はどこか遠くを見つめていた。

昨夜のことが頭から離れない。

何よりもヒロのことが心配だった。

三度目の搭乗。

それが何を意味するのか、考えたくもなかった。

けれど、考えずにはいられない。

もし、ヒロが戻ってこなかったら。

そんな想像が頭をよぎるたびに胸の奥が締めつけられた。

 

 

「……緊張してる? イチゴ」

 

 

不意に声をかけられ、イチゴは肩を揺らした。

振り向くと、着替えを終えたナオミが立っていた。

 

 

「え……あ、うん……少しね」

 

 

慌てて指を離す。

そんなイチゴを見て、ナオミは優しく微笑んだ。

昨夜、雨宿りをしていた時のことを思い出す。

泣きながらヒロの名前を呼んでいたイチゴ。

その姿を、ナオミは忘れることができなかった。

今もきっと、同じ不安を抱えているのだろう。

ナオミは少しだけ声を落とした。

 

 

「大丈夫だよ……ヒロなら大丈夫。あのストレリチアに2回も乗れたんだもの。3回目だって、絶対に乗りこなしてみせるよ」

 

 

その言葉にはナオミ自身の願いも込められていた。

本当は、彼女だって怖かった。

ヒロが無事に帰ってくる保証など、どこにもない。

それでも、信じたかった。

ヒロならきっと乗り越えられる。

そう信じなければ、自分まで不安に押し潰されてしまいそうだった。

イチゴはナオミを見つめた。

その笑顔に胸の奥が少しだけ温かくなる。

 

 

「……うん。ナオミ、ありがとう」

 

 

小さく微笑み返す。

不安が消えたわけではない。

けれど、一人ではない。

そのことが、今のイチゴにとって何よりも心強かった。

 

 

◇

 

 

男子更衣室から続く廊下では、一足先に着替えを終えた少年たちが歩いていた。

全員、すでにパラサイトスーツへ身を包んでいる。

足音が、静かな廊下に響く。

 

 

「……敵の戦力差を考えれば、とても楽観視はできませんね」

 

 

ミツルが冷静に呟いた。

敵の数は増加している。

しかも、未知の大型個体まで確認されているという。

いくら第26部隊が前衛を務めるとはいえ、自分たちが戦闘に巻き込まれない保証はない。

しかし、そんなミツルの言葉を聞いて、ゾロメが勢いよく胸を張った。

 

 

「おいおい、ビビってんじゃねえぞ! こっちにはこのオレ様がいるんだからよ!」

 

「ゾロメはともかくとして……」

 

「んだと!? 」

 

 

即座に食ってかかるゾロメ。

ミツルは呆れたように目を細めた。

そのやり取りを見て、フトシが苦笑する。

 

 

「今回はストレリチアだって出撃するしね」

 

「ふん! とにかく26部隊には絶対負けねえからな!」

 

「張り合う相手が違いますよ……」

 

 

ミツルがため息をつく。

けれど、ゾロメの威勢のよさに、張りつめていた空気が少しだけ和らいだ。

普段と変わらないやり取り。

それが今は不思議と心強かった。

やがて、前方の扉が開いた。

着替えを終えた少女たちが、廊下へ出てくる。

互いに声をかけ合いながら、一行は格納庫へ向かって歩き始めた。

しかし、その場に残った者が二人いた。

イチゴとゴローだった。

ゴローは、まだ更衣室から出てこないヒロのことを気にかけていた。

そして隣に立つイチゴへ視線を向ける。

 

 

「……イチゴ」

 

 

静かな呼びかけ。

イチゴが顔を上げる。

ゴローは、ちょうど更衣室から出てきたヒロの姿を確認した。

 

 

「話しておいた方がいいんじゃないか?」

 

「……」

 

 

イチゴは答えられなかった。

だが、言いたいことはたくさんある。

ヒロを止めたい。

危険な目に遭ってほしくない。

そして、もう一つ。

ずっと胸の奥にしまい込んできた想い。

けれど、それを今、口にしていいのだろうか。

迷っているイチゴの背中を、ゴローがそっと押した。

優しく、しかし確かな力で。

イチゴは思わず振り返る。

ゴローはすでに歩き出していた。

振り向くことなく、片手を軽く上げる。

その背中を見つめながら、イチゴは胸が締めつけられるのを感じた。

ゴローはいつもそうだ。

自分が困っている時、何も言わずに支えてくれる。

今もまた、背中を押してくれた。

イチゴは小さく息を吸い込む。

そして、ヒロへ向き直った。

 

 

「……どうしたの? イチゴ」

 

 

近づいてきたヒロが、不思議そうに首を傾げる。

イチゴは慌てて表情を整えた。

 

 

「今日の作戦、深夜からでしょ? 仮眠は取れた?途中で眠くなっちゃうかもだし」

 

 

できるだけ、いつもどおりに。

何気ない会話をするように。

 

 

「いや……なんか目が冴えちゃってさ」

 

 

ヒロは小さく笑った。

 

 

「そっか……実はアタシもあんまり寝られなくて。でも、お風呂に入ったらスッキリしたよ」

 

「うん……」

 

 

会話が途切れた。

廊下に静寂が広がる。

イチゴは横目でヒロを見た。

彼はいつもと変わらない表情をしていた。

けれど、その胸の内に何を抱えているのか、イチゴには分からなかった。

三度目の搭乗が怖くないはずはない。

それなのに、ヒロは自分の不安を口にしない。

まるで、何も問題などないかのように振る舞っている。

イチゴは唇を噛んだ。

今、言わなければ。

もしかしたら、もう二度と言えなくなるかもしれない。

 

 

「あのね、ヒロ、アタシ──」

 

「──イチゴ」

 

 

ヒロが足を止めた。

まっすぐな眼差しがイチゴへ向けられる。

思わず、心臓が跳ねた。

 

 

「この作戦、絶対成功させような」

 

「あ……うん。そう、だね……」

 

 

ヒロは静かに微笑んだ。

 

 

「リーダーの役割、すごく大変だと思う。でもイチゴなら絶対にやり遂げられるって信じてる……頼りにしてるよ」

 

 

その言葉に、イチゴの胸が熱くなった。

嬉しかった。

ヒロが自分を信じてくれている。

リーダーとして認めてくれている。

なのに。

どうして、こんなに苦しいのだろう。

ヒロの言葉はまるで自分を置いて遠くへ行ってしまう人の言葉のように聞こえた。

イチゴは必死に声を振り絞った。

 

 

「アタシだって……アタシだってヒロのこと、頼りにしてる! だって、アタシ……アタシはさ、昔からヒロのこと──」

 

 

胸の奥にしまっていた想いが、今にも溢れ出しそうになる。

しかし。

 

 

「やあ。仲が良くて結構だね」

 

 

場違いなほど軽やかな声が、廊下に響いた。

二人が振り返る。

そこには、赤いパラサイトスーツに身を包んだ二人の少年が立っていた。

ナインアルファとナインラムダだった。

 

 

「ナインズ……!? なんでここに……」

 

 

イチゴの表情が強張る。

アルファは、そんな彼女の反応を楽しむように微笑んだ。

 

 

「ちょうどよかった。3人に言っておきたいことがあってね」

 

 

三人。

その言葉に、ヒロとイチゴは一瞬顔を見合わせた。

ここにいるのは、自分たち二人だけのはずだった。

しかし、アルファは二人の背後へ視線を向ける。

ちょうど更衣室から出てきて、そのまま通り過ぎようとしていたゼロツーに。

アルファはその姿を見つけると、指先を向けた。

 

 

「……君の今後についてだよ、イオタ」

 

 

ゼロツーの足が止まった。

ゆっくりと顔を向ける。

その青緑色の瞳には、明らかな不快感が浮かんでいた。

アルファは肩をすくめる。

 

 

「本来ならね、今日の共同作戦に合わせて君はナインズに戻る手はずだったんだ……でも、偶然燃料交換キッシングと重なってね。パパたちからの指令が少し変更された」

 

「ナインズに戻る……?」

 

 

ヒロが息を呑んだ。

イチゴも驚きを隠せなかった。

ゼロツーが、第13部隊を離れる。

そんな話は、初めて聞いた。

アルファは二人の反応を気にする様子もなく、言葉を続ける。

 

 

「僕たちは、この作戦で君を見極める。そこのステイメンが、3回目の搭乗で生き残るか……あるいは、噂通り死に絶えるか」

 

 

廊下の空気が一気に冷え込んだ。

ヒロの表情が強張る。

イチゴは思わず拳を握りしめた。

まるで、ヒロの命を試験の結果のように扱う言葉だった。

しかし、アルファの隣に立つラムダは、さらに冷徹な声で告げた。

 

 

「もし016の生命が絶えそうになり、君が暴走する兆候を見せたら……我々が即座に割って入る。たとえ作戦行動中でもだ……死んだステイメンを振り回すほど、君は飢えていないだろう?」

 

 

その声には、冗談めいた響きはなかった。

ラムダはただ事実と命令を告げていた。

作戦中であろうと必要と判断すれば介入する。

その意思は揺るぎないものだった。

しかし、最後の言葉だけは、ゼロツーの神経を鋭く逆撫でした。

 

 

「……黙れよ」

 

 

低く、鋭い声。

ゼロツーの瞳が細められる。

一瞬、空気が張りつめた。

だが、アルファは気にも留めず、楽しげに笑った。

 

 

「フランクスに乗って死ぬか、生き延びて証明するか……見させてもらうよ、016」

 

 

それだけを言い残し、アルファは踵を返した。

ラムダも無言でその後に続く。

赤いスーツの二人が、廊下の奥へ消えていく。

ヒロは、拳を固く握りしめていた。

三度目の搭乗。

生き残れるかどうか。

それが、ゼロツーの今後を左右する。

自分が失敗すれば、彼女は第13部隊から離れてしまうかもしれない。

そんな考えが、胸の奥に重くのしかかった。

ゼロツーはナインズの背中を一瞥すると何も言わずに歩き始めた。

格納庫へ向かうその背中。

ヒロはしばらく動けなかった。

そして、小さく呟く。

 

 

「……証明して見せてやる」

 

 

自分に言い聞かせるような声だった。

 

 

「 何か言った、ヒロ?」

 

 

イチゴが顔を向ける。

ヒロははっとして、首を振った。

 

 

「ううん、何でもない……それでさっきの話、俺のこと、何て?」

 

「あ……」

 

 

イチゴは言葉を失った。

さっきまで、何を言おうとしていたのだろう。

いや、分かっている。

ずっと言えなかったこと。

今なら、言えるかもしれないと思ったこと。

けれど、ヒロの顔を見ると、どうしても言葉が出てこなかった。

彼はこれから命を懸けた戦いへ向かう。

そんな時に、自分の気持ちを伝えていいのだろうか。

困らせてしまうのではないか。

余計な負担をかけてしまうのではないか。

そして何より。

もし、同じ気持ちではなかったら。

その答えを聞くのが、怖かった。

イチゴは無理に笑顔を作った。

 

 

「……アタシはさ、ヒロのこと……兄弟みたいに思ってるからさ」

 

 

言ってしまった。

本当に伝えたかった言葉とは、違うことを。

ヒロは安心したように微笑んだ。

 

 

「うん、オレもそう思ってるよ……きっとゴローも、ナオミもそうだと思う」

 

 

その言葉に、イチゴの胸が小さく痛んだ。

分かっていた。

ヒロにとって、自分は大切な仲間なのだ。

幼い頃から一緒に過ごしてきた、家族のような存在。

それは決して軽い関係ではない。

とても大切なものなのだ。

けれど。

自分が望んでいたのはそれだけではなかった。

 

 

「イチゴ。リーダー、よろしくな」

 

 

ヒロがイチゴの肩へ手を置いた。

その手の温もりが、スーツ越しに伝わる。

イチゴは小さく頷いた。

ヒロは手を離し、先を歩くゼロツーを追いかけるように走り出す。

そして、振り返らないまま片手を上げた。

 

 

「ゴローと仲良く!」

 

「……」

 

 

イチゴはその背中を見つめ続けた。

遠ざかっていく足音。

小さくなっていく後ろ姿。

胸の奥に言葉にならない感情が広がる。

本当は違うことを言いたかった。

けれど、その言葉は喉の奥で止まったままだった。

やがてヒロの姿が見えなくなる。

イチゴは、ゆっくりと目を伏せた。

 

 

◇

 

 

格納庫。

巨大なフランクスたちが、整備用の設備に囲まれながら静かに出撃の時を待っていた。

機体の周囲では、整備スタッフが最終確認を進めている。

金属音。

機械の駆動音。

通信機から響く確認の声。

それらが入り混じり、格納庫全体に独特の緊張感を生み出していた。

デルフィニウムのコックピット。

イチゴはシートへ乗り込み、出撃準備を進めていた。

その後方にはすでに搭乗していたゴローがいる。

彼は腕を組み、しばらく黙っていた。

やがて、静かに口を開く。

 

 

「……どうだった?」

 

 

イチゴは、すぐには答えなかった。

視線を前へ向けたまま、小さく息を吸う。

 

 

「……ゴローによろしく、って」

 

「……あいつ」

 

 

ゴローは低く呟いた。

あまりにもヒロらしい言葉だった。

自分のことよりも仲間のことを気にかける。

誰かが不安を抱えていれば、安心させようとする。

たとえ、自分自身がどれほど危険な状態にあっても。

ゴローの脳裏にあの時の光景が蘇る。

ヒロの胸元。

青く膨れ上がった異様な腫れ。

苦しそうに息をする親友の姿。

あの状態で、もう一度ストレリチアに乗ろうとしている。

無茶だ。

そんなことは誰よりも分かっている。

けれど、ヒロは止まらない。

自分の居場所を取り戻すために、命を懸けようとしている。

ゴローは唇を引き結んだ。

イチゴが、静かに言葉を続ける。

 

 

「ゴロー。この作戦……ストレリチアは、できるだけ温存させるから」

 

 

その声には、確かな決意が込められていた。

ヒロを戦わせない。

少なくとも、できる限り危険から遠ざける。

今は26部隊がいる。

13部隊の仲間たちもいる。

そして今回は、フランドールの三機も出撃する。

全員で力を合わせれば、ストレリチアに頼らずに戦い抜けるかもしれない。

イチゴはそう信じたかった。

ゴローは彼女の横顔を見つめる。

不安が消えたわけではないだろう。

それでも、リーダーとして戦う覚悟を決めたのだ。

 

 

「……わかった」

 

 

短い返事。

しかし、その言葉には、イチゴと同じ決意が込められていた。

ゴローもまた、ヒロを守りたかった。

たとえ本人に嫌がられたとしても。

たとえ、ヒロの望む戦い方とは違っていたとしても。

親友を死なせるわけにはいかなかった。

二人はそれ以上何も言わなかった。

ただ、互いの意思を確かめるように、静かに前を見つめていた。

 

 

◇

 

 

同じ頃。

フランドールの格納エリアでも、出撃準備が進められていた。

それぞれの機体が、整備用の固定装置に支えられながら待機している。

機体各部の状態を示す数値が、コックピット内のモニターへ次々と表示されていた。

パイロットスーツ背面の端子は、すでに機体側の接続装置と連結されている。

頭部の装備を通じた感覚系統の確認も完了していた。

残るのは、出撃命令を待つことだけだった。

アイリスのコックピット。

ツグミはシートに深く腰を下ろし、大きく息を吐いた。

普段なら、こんな時でも軽口を叩いているところだ。

しかし、今回は違った。

敵の数が多すぎる。

しかも、未知の大型個体までいる。

ツグミは通信回線を開いた。

 

 

「立ち位置に着いたら、後は作戦通り……なあ、ナオミは緊張してないのか?」

 

 

通信越しに、ナオミの姿が映し出される。

ダリアのコックピット。

彼女は落ち着いた表情で前を見つめていた。

 

 

「緊張してるよ。でも……今は、眼の前のことに集中してる」

 

 

柔らかな声だった。

ナオミ自身も、不安を感じていないわけではない。

ヒロのこと。

仲間たちのこと。

そして、これから始まる大規模な戦闘のこと。

考え始めれば、心配なことはいくらでもあった。

けれど、今は戦う時だ。

自分たちの役割を果たさなければならない。

ダリアのパイロットとして。

ナオミは静かに息を整えた。

その時だった。

別の通信画面が点灯する。

グラジオラスのコックピット。

そこには、目を閉じていたクロの姿が映し出されていた。

出撃直前だというのに、つい先ほどまで静かに目を閉じていたらしい。

ツグミは一瞬、呆れたように笑いかけた。

しかし、クロがゆっくりと瞳を開いた瞬間、その表情が変わった。

黒い瞳が、まっすぐに前を見据える。

そこにはいつもの穏やかさがあった。

昨夜、ゼロツーと対峙した時のような、鋭い怒りはない。

けれど、その奥には揺るぎない意志が宿っていた。

クロは、通信画面の向こうにいる二人へ微笑みかけた。

 

 

「……生きて帰ろう、みんなで!」

 

 

短い言葉だった。

しかし、その声は不思議なほど力強かった。

ツグミは目を見開き、ナオミもクロを見つめた。

誰も欠けてほしくない。

大切な仲間たち全員で、もう一度ミストルティンへ帰りたい。

その願いは、昨夜ゼロツーへ向けて告げた言葉とも、確かにつながっていた。

大切な人を護ること。

クロにとって、それは決して難しい理屈ではなかった。

ただ、目の前にいる仲間たちを失いたくない。

それだけだった。

 

 

「……ああ!!」

 

 

ツグミが力強く頷いた。

いつもの明るい笑顔が戻る。

 

 

「うん。絶対に、みんなで帰ろう」

 

 

ナオミも微笑んだ。

三人の視線が、通信画面越しに重なる。

彼らの願いは同じ。

誰一人、欠けることなく。

必ず、帰ってくること。

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