朝の柔らかな光が、無機質で白い医務室の床に細長い四角形を描いていた。
かすかな機械の駆動音だけが響く静寂の中、ベッドの上でクロがパチッと目を覚ます。
「んー……よく寝たぁ。あ、お腹すいたな」
昨日行った強行直結による過負荷──鼻血を出し、脳を焼き切るような激痛に襲われたのが嘘のように、すっかり体調は戻っていた。のんきに上体を起こし、ベッドから脚を開こうとしたその時。
「失礼します……」という静かな声と共に、医務室のドアが開いた。
入ってきたのは、温かいスープが乗ったトレイを持つツグミと、その後ろに続くナオミだった。ツグミはいつものように落ち着いた、どこかグループの雰囲気を気にするような真面目な面持ちでベッドの傍らに歩み寄る。
「……おはよう、クロ。一晩中、バイタルが安定しなくてみんなで心配したんだぞ。まずはこれを飲んで、体を温めてくれ」
「ありがと、ツグミ」
クロがスープを受け取ろうと手を伸ばすと、その横からナオミが一歩前に踏み出し、少しジト目でクロに詰め寄った。
「ちょっと、クロ……! 急に起きようとしないの。昨日あんな無茶苦茶なことして体調が優れてないでしょ? もう少しは自分の身体を心配しなさいよ……」
「あはは、ごめんねナオミ。でももう、ほら! 全然元気だよ!」
クロはベッドの上で両腕を大きく、ダイナミックに左右に広げてみせた。「異常なし!」と言わんばかりのその無邪気なポーズに、ナオミは毒気を抜かれたように肩の力を落とす。
ツグミは少し呆れたように、しかし確かな安堵をにじませて小さく息を吐いた。
「元気なのは何よりだけど、筋肉や体力だけの問題じゃないんだ。僕たちのグループの連携や、これからの戦いにも関わることだし……次はもう少し慎重に動いてくれよ」
「うん、わかった。みんなに心配かけないように気をつけるね」
スープの白い湯気の向こうで、クロははにかむように笑う。ナオミの実直な小言と、ツグミの静かな気遣い。3人だけの、心地よい温かさがある朝だった。
─────
宿舎『ミストルティン』の食堂。コドモたちが一堂に会して朝食を摂るその空間は、いつもとは違うピリついた空気感に支配されていた。
1話で圧倒的な力を見せつけ、叫竜を屠った謎の少女――『ゼロツー』がこの宿舎に滞在しているという事実が、彼らの心に重くのしかかっている。
「パートナー殺しのエリート、か……」
ゴローが腕を組み、険しい表情でスープを見つめる。その隣で、イチゴはヒロの様子を窺うように、そわそわと視線を泳がせていた。当のヒロは、自分の手のひらを見つめたまま上の空だ。
そんな重苦しい沈黙を破るように、クロがのんきにパンを頬張りながら呟いた。
「ゼロツーっていうんだ、ピンクの髪でかっこよかったなぁ。ツノもイチゴ味のキャンディみたいで美味しそうだったし」
「あんたねぇ……何考えてるのよ」
ナオミの即座のツッコミに、張り詰めていたコドモたちの間から思わずクスリと笑いが漏れる。クロの天然な言葉が、一瞬だけ食堂の緊張感を和らげた。
しかし、その直後、食堂の入り口にあのピンクの髪の少女が姿を現した。
ゼロツーは迷うことなくヒロの席へと近づくと、ふわりと身を屈めて彼を覗き込む。
「ねえ、僕のダーリンにならない?」
その強烈な言葉に、食堂の空気が凍りつく。
「だーりん……?」と女子たちがその聞き馴染みのない言葉が一体何なのかとひそひそと話し始める中、イクノだけは別の部分を鋭く見つめていた。
「叫竜の血を引く少女……」
イクノは眼鏡の奥の瞳を細め、ゼロツーが持つ異質な違いに強い興味を示していた。
そこへ、明るく自己紹介をしながら、案内人のナナが食堂に入ってきた。
イチゴはすかさず席を立つと、ナナに向かって問いかける。
「ナナ姉、彼女は……ゼロツーは、ここに残るんですか?」
「それはまだ決まっていないわ。ゼロツーについては本部の指示待ちなの。でもあなた達とは基本、別行動よ」
ナナがそう答えると、つまらなそうにそっぽを向くゼロツーを促して、どこかへ連れて行こうと歩みを進めた。
その背中に向かって、それまで沈黙していたヒロが悲痛な声をあげる。
「ゼロツー!! 俺ともう一度、君のフランクスに乗せてくれ!確かめたいんだ!」
必死にすがるようなヒロの言葉。しかし、ナナは振り返りもせず、事務的で冷たい声を返した。
「残念だけど、それはAPE本部が決めることよ。あなたの独断でどうにかできる問題じゃないわ」
突き放されたヒロは言葉を失い、拳を強く握りしめる。だが、連れて行かれる側のゼロツーは、特に悲しむ風でもなかった。むしろ面白がるようにヒロを振り返ると、からかうような笑みを浮かべる。
「心配ないよ。もう決めてるから、ダーリンは僕のもの....ってね」
その言葉に、イチゴがたまらず二人の間に割って入った。
「ヒロは誰のものでもないわ!」
強い拒絶を示すイチゴを、ゼロツーは猫のような目でじっと見つめ、さらに挑発するように言葉を重ねる。
「ふーん……。じゃあ、君はヒロの何なの?」
「それは……っ」
核心を突かれ、言葉に詰まるイチゴ。食堂に張り詰める、一触即発の緊迫した空気。
誰もが息を呑んで動けない中、もぐもぐと食べ物を頬張っているクロが、実直に、そして純粋な疑問のままに声を上げた。
「イチゴはヒロたちのリーダーだよ?」
(……多分そういうことじゃない気がする)
隣でナオミが頭を抱え、心の中で激しく突っ込みを入れたが、口には出さなかった。
だが、そのあまりにまっすぐでピントの外れたクロの返答に、ゼロツーは毒気を抜かれたように一瞬だけ目を丸くした。
「……ふーん」
ゼロツーは小さくそう呟くと、つまらなそうに口を尖らせて、黙ってナナの後を追って食堂を後にした。残されたコドモたちは、嵐が去ったような静けさの中、ただその背中を見送るしかなかった。
─────
場面は変わり、プランテーション13の深部。
そこは、コドモたちが暮らす緑豊かなミストルティンとは完全に隔絶された世界だった。
幾重にも重なる巨大で無機質な鋼鉄の隔壁。天井を這う巨大なエネルギーチューブが、まるで怪物の血管のように鈍く脈動している。
原作の静けさとは異なり、そこは絶え間ない金属音と、マグマ燃料の精錬による熱気に包まれた、生きた軍事工場──最先端の研究都市であった。
灰色の服を着たオトナたちは、感情を失った機械などではない。現代を戦うコドモたちを死なせないため、その英知と技術のすべてを注ぎ込み、武器の生産やフランクスのアップデートに尽力する『元パラサイト』の生存者たち。彼らの静かな執念が、この工場施設のような街並みを絶え間なく動かしていた。
ナナの対角線の壁に寄り添いながら、ゼロツーは退屈そうに外を眺めていた。ナナはゼロツーを見据えたまま、真剣な声音で少女に釘を刺した。
「ゼロツー、これ以上このプランテーションで勝手な行動は控えて。あなたには、パパたちからの大事な指令があるはずでしょう。それを忘れたわけではないわね」
「わかってるよ。パパたちの言うことは絶対、でしょ?」
ゼロツーはつまらなそうに髪を弄りながら、眼下に広がる、オトナたちが血の滲むような努力を続ける巨大な施設を一瞥した。だが、その瞳には何の感慨も、興味も宿っていない。コドモたちのために用意されたどれほど高度なバックアップシステムも、彼女にとっては退屈な人間の営みに過ぎなかった。
フッと不敵な笑みを浮かべ、ゼロツーの脳裏に浮かぶのは、先ほど食堂で見つめ合ったコドモたちの顔だ。
「そんなことよりさ、ここのコドモたち、なんか面白いんだよね。……特に、昨日一人でロボットを動かしたあの子とかさ。あんな無茶苦茶な乗り方をして、一体どんな味なのかな」
─────
その日の午後、第13部隊のコドモたちはブリーフィングルームに召集された。
薄暗い部屋の正面、大きなモニターの前に、いつも通り冷徹で隙のない佇まいのハチが立っている。張り詰めた空気感が、部屋の隅々にまで満ちていた。
ハチは全員を等しく見渡すと、感情の起伏を一切排した声で、淡々と告げた。
「これより、コード016(ヒロ)の適合再試験、ならびにコード015(イチゴ)の適性審査を行う。――および、本試験は、コード960(クロ)によるグラジオラスとの正式接続試験を兼ねるものとする。両機による、模擬戦を執り行う」
「クロと……模擬戦!?」
ツグミが驚きに目を見開き、隣のゴローと顔を見合わせる。昨日、脳への過負荷でふらふらだったクロを、早くも実戦テストに投入するというオトナたちの非情な判断。ナオミもまた、拳を握りしめながら複雑な表情を浮かべていた。
しかし、当のクロはといえば、「え、イチゴとヒロと戦うの? なんか緊張する」と、不安をあらわにしていた。
周囲に動揺と困惑が広がる中、イチゴだけは、自らの胸の内に灯った激しい炎に身を焦がしていた。
───もう一度、ヒロとフランクスに乗れる。適合を証明して、あの子をここに引き留められる。
溢れ出しそうな喜びの裏で、イチゴの視線は隣に立つクロへと向けられる。昨日、たった一人で叫竜を叩き潰した異形の単機兵器と、そのパイロット。さらに、あの謎の少女ゼロツーまでもが、ヒロを「僕のダーリン」と呼んで執着している。
(負けられない……。私は13部隊のリーダーで、何より、ヒロの隣に立つのは私でなきゃダメなの。あの子にも、絶対に……!)
ヒロの手をもう一度握りたいという切実な願い。
押し寄せる焦燥感を、イチゴはただ胸の中で強く、強く噛み締めながら、目前に迫る決戦の刻を睨みつけていた。