デビル・イン・ザ・フランドール   作:かるご

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捨てられた世界の片隅で

一方、静まり返った都市内では、ハチとナナが緩やかに上昇するエスカレーターに揺られながら移動していた。

静寂が支配する空間の中、ナナがポツリと疑問を口にする。

 

 

「『特別監視都市』……ゼロツーが正式に第13プランテーションの管轄になったからなのかしら」

 

「APE直属の親衛隊が、一プランテーションの正式なパラサイトになったのだ」

 

 

ハチは前を見据えたまま、淡々と事実を言葉にする。

 

 

「前例はないが、妥当な決断だろう」

 

 

ナナは言葉を返さず、隣に立つハチの横顔をじっと見やった。その脳裏には、昨日駐機ドックで目にした光景が静かに蘇っていた。

 

 

◇

 

 

休暇の一日目、朝食を終えた第13部隊の中からヒロ、ゼロツー、そしてクロの三人が駐機ドックへと呼び出されていた。

駐機ドックで三人が待機していると、奥の影から足音とともに、ノイズが混じったような男性の声が響いた。

 

 

「おー、ゼロツー。無事だったな」

 

 

声のした方へ三人が一斉に視線を向ける。ゼロツーは腰に手を当てながら、くすりと笑みを浮かべた。

 

 

「ダーリンが頑張ってくれたからね。わざわざ来なくても大丈夫だったのに」

 

 

ゼロツーが問いかけた先にいたのは、長い白衣を羽織り、杖をついた老人のような人物だった。その傍らには、ハチやナナ、ナインズのアルファとラムダが控えている。ゼロツーと親しげに言葉を交わすその老人の正体が分からず、ヒロとクロは不思議そうにその姿を見つめていた。

すると、老人の隣に立っていたナナが静かに手を差し伸べ、二人へ向けて紹介した。

 

 

「二人とも、こちらはフランクス博士。フランクスとフランドールの生みの親よ」

 

「...生みの親......」

 

 

ヒロが呆然とその言葉を反芻する横で、クロはピンと来ていない様子で「へえ〜」と声を漏らした。

 

 

「そしてこの子が──」

 

 

ナナが続けて次の人物を紹介しようとした瞬間、金髪の少年──アルファが制するように言葉を挟んだ。

 

 

「紹介はいいよ、016とは一回会ってるからね」

 

 

アルファは軽やかな足取りでヒロへ近付くと、その顔を覗き込むようにまじまじと見つめた。

 

 

「潰されずに生き残った子は初めてだ……ふ〜ん、僕君たちに興味あるな♪」

 

 

ニヤリと眩しい笑顔を向けるアルファ。すると、その背後から低い声が落ちてきた。

 

 

「アルファ、悪戯はその辺りにしておけ」

 

 

振り返ると、そこには威圧感を放つ大柄な男──ラムダが静かに佇んでいた。ラムダの冷ややかな視線を受けたアルファは、肩をすくめながら引き下がる。

 

 

「......わかったよ。ラムダは相変わらず堅物だね」

 

「『真面目である』と捉えておこう」

 

 

ラムダが淡々と返すと、ゼロツーが退屈そうに口を挟んだ。

 

 

「すぐ帰るんじゃなかったの?」

 

「これが終わったら戻るよ」

 

 

アルファは両手をひらひらと振って軽く受け流す。

その間、フランクス博士の隣に控えていたハチが、博士へ向けて報告を口にした。

 

 

「博士、本日を持ってストレリチア及びコード002は、この第13部隊の管轄対象へとシフトします」

 

「とっくにジジイどもから聞いとるわい」

 

 

博士は面倒くさそうに手を振って吐き捨てた。ハチは頷くと、今度はヒロの方へ向き直る。

 

 

「...只今を持ってコード016を、正式にコード002のパートナーとして任命する」

 

「……!」

 

 

一瞬、息を呑んで固まったヒロだったが、すぐに表情を引き締めて返事をした。

 

 

「……あ、はい!」

 

「ダーリン!嬉しい!!」

 

 

歓喜の声を上げたゼロツーが、弾けるような笑顔でヒロの首元へ抱きついた。

 

 

「苦しいよゼロツー...」

 

 

苦しそうに呟くヒロの言葉も耳に入らない様子で、ゼロツーは心底嬉しそうに笑っている。そのままヒロの腕をキュッと掴むと、博士の方へ向き直って声を張り上げた。

 

 

「ねえ博士!ボク、ダーリンと二人でやっていくよ!」

 

 

その幸福に満ちた光景を傍らで見つめていたクロは、ふと首を傾げ、博士たちへ向けて素朴な疑問を投げかけた。

 

 

「あの、私はなんで呼ばれたんですか?」

 

「君なら──」

 

 

アルファが言いかけ、目線でラムダを示す。ラムダが一歩前へ踏み出すと、重厚な声で告げた。

 

 

「俺が呼んだ」

 

「...あなたが?」

 

 

首を傾げるクロに対し、ラムダは「ああ」と短く肯定した。

ラムダの脳裏には、あの戦闘で起きた一瞬が鮮明に焼き付いていた。一度は沈黙したグラジオラスが再起動し、巨大な叫竜へ向かって突進していったあの瞬間──機体のツインアイから迸った、一筋の稲妻状の残光。

目の前で無邪気に首を傾げているコード960を見つめながら、ラムダは静かに問いかけた。

 

 

「一つ聞きたい。君がフランドールで大型叫竜へ立ち向かったあの時、何か違和感を感じたか?」

 

「え?」

 

 

不意を突かれ、クロは腕を組んで「う〜ん...」と唸りながら記憶を辿り始める。しばらくして腕を解くと、どこか自信なさげにラムダを見つめ返した。

 

 

「その時はよく覚えて無くて......多分...ただ暴れてた気がするような、しないような...」

 

 

曖昧な答えを聞いたラムダは、短く「そうか」と呟いた。

 

 

「覚えてないなら、それで良いんだ」

 

「……?」

 

 

意図が読めず、頭の上に疑問符を浮かべるクロ。だがラムダの表情は固いまま、重い警告を口にした。

 

 

「だが一つ警告しておく。力を欲するあまり、その力に飲まれるな」

 

「は....はい...?」

 

「他のパイロットにもそう伝えてくれ」

 

 

唐突な助言に困惑するクロを置き去りにし、アルファがラムダへ声をかけた。

 

 

「ラムダ、そろそろ行こうか」

 

「ああ」

 

 

二人はそれだけ残すと、背を向けて奥へ歩み去っていった。

一方、ヒロとゼロツーも会話を終えたらしく、先にゼロツーが上機嫌にスキップをしながら通路の先へ消えていく。ヒロもその後に続こうと足を踏み出した瞬間──

 

 

「コード016」

 

 

背後から低く呼び止められ、ヒロはハッとして振り返った。フランクス博士が、鋭い眼光でヒロを見つめている。

 

 

「お前に忠告しておく」

 

「はっはい!」

 

 

気圧されたヒロは慌てて背筋を伸ばした。博士はヒロの瞳をじっと見つめ、静かに、だが重く言い渡す。

 

 

「己の感情までは食われるな」

 

「……?」

 

 

意図を図りかね、一瞬呆然とするヒロ。博士はその反応を気にする様子もなく、背を向けながらぽつりと呟いた。

 

 

「今後もずっと、パートナーを続けていきたいのならな」

 

 

その言葉を残し、フランクス博士たちもまた、暗い通路の奥へと消えていった。

 

 

◇

 

 

ハチは無機質な声音でぽつりと呟いた。

 

 

「環境に適応させるには異分子が必要...それが今回の特例か」

 

 

機械音を立てていたエスカレーターが終点に達し、ハチが足を踏み出す。ナナもその後に続いて降り立った。

静寂の広がる無機質な廊下を並んで歩きながら、ハチが問いかける。

 

 

「休暇4日目に行う勲章授与式の準備はどうなっている」

 

「順調よ。予定通りに行えるよう、今は調整をしている所」

 

 

ナナは胸を張り、自信に満ちた笑みを浮かべてそう答えた。

 

 

 

─────

 

 

 

自然に侵食された古い石の階段を、ヒロたちは一段ずつ登っていた。周囲には深い木々が生い茂り、影を落として太陽の光を遮っている。薄暗く心地よい空気の中、ゴローがふと素朴な疑問を呟いた。

 

 

「パートナー以上の何かってあるのかな」

 

「え?」

 

 

足音にかき消され、よく聞き取れなかったヒロが聞き返す。ゴローは前を見据えたまま、思考を巡らせるように言葉を重ねた。

 

 

「いや、お前たち見てると不思議なんだよ。『キス』...とか、人に対して『好き』だと言ったり...それってどういう事なんだろうな」

 

 

その問いに、ヒロは視線を落とし、小さく首を横に振る。

 

 

「...俺にもよく分からないんだ」

 

 

ゴローはヒロから目を離して前方へ視線を戻すと、どこかわびしげな笑みを漏らした。

 

 

「ドキドキか......俺はさ、イチゴと居て楽しいけど、時折辛くもあるな......俺はヒロたちとは違うのかもな」

 

 

投げかけられた言葉に、ヒロは再び俯いた。ゼロツーが口にする「キス」や「好き」という言葉の本当の意味──その重みを、胸の奥で静かに反芻していた。

一方、その前を歩くイチゴは、どこかぼーっとしながら階段を登っていた。すると、隣を歩いていたイクノがそっと手を伸ばし、彼女の頬を撫でる。

 

 

「......イチゴ?」

 

「ぅえ!?」

 

 

不意を突かれたイチゴは驚いて変な声を上げ、慌ててイクノの方を振り向いた。イクノは眉を少し下げ、心配そうに彼女の顔を覗き込む。

 

 

「どうしたの?顔が赤い」

 

「そ...そう?」

 

 

動揺を隠すように、イチゴは自分の頬に触れて誤魔化すように呟いた。

その後ろでは、ナオミがクロから貰った白い玉を取り出し、愛おしそうに眺めていた。だが、後ろから響くツグミの声に気づき、ラッシュパーカーのポケットへとしまい込む。

 

 

「お、何だそれ?」

 

 

声が聞こえたツグミの方へ視線を向けると、ナオミの目に飛び込んできたのは、クロが頭上に掲げて嬉しそうに眺めている「何か」だった。

それはナオミがもらった玉と同じくらいの大きさで、遠目からでもはっきりと分かる鮮やかなピンク色をしていた。だが、その側面は欠けており、あちこちに傷跡が残っている。けれどクロはそんな欠損など一切気にしていない──というより、そもそも気づいてすらいない様子で、笑みを浮かべてそれを愛でていた。

 

 

「これ?さっき泳いでたら見つけたんだ♪」

 

 

上機嫌に語るクロに、ツグミが羨ましそうに息を吐く。

 

 

「へえ〜、いいなあ。俺もなんか見つけたかったな〜」

 

 

そのやり取りを微笑ましく眺めていたナオミだったが、ふと昨日の朝、クロが呼び出されていたことを思い出した。

 

 

「ねえクロ、昨日ナナから呼び出されてたけど何だったの?」

 

「え?......ああ!あれね」

 

 

クロはぽんと手を打つと、記憶を辿るように言葉を紡ぐ。

 

 

「えっとね、ラムダって人が私に用事があって──」

 

「ラムダ!?」

 

 

思わず大きな声を上げて割り込んでしまったナオミに、ツグミが不思議そうに尋ねる。

 

 

「...ナオミはラムダのこと知ってるのか?」

 

「あ、うん。知ってるも何も、キッシング前に私たちの寄宿舎に直接来てたし」

 

「そうなのか!?」

 

 

予想外の事実にツグミは目を丸くし、「...なんだか、俺の知らない所で何か起きてるなぁ」と呆れたようにボヤいた。

クロは話を本筋へと戻すように言葉を続ける。

 

 

「それでね、ラムダって人が......なんか...警告を言ってたんだよ」

 

「警告?」

 

「何だそりゃ?」

 

 

ナオミとツグミが疑問に思う中、クロは少し首を捻りながら思い出したフレーズを口にした。

 

 

「確か...『力を欲するあまり、その力に飲まれるな』...って言ってた気がする」

 

「......よくわかんねえけど、気をつけるか」

 

 

腕を組んで呟くツグミに対し、クロは無邪気に首を傾げてみせる。

 

 

「ナオミとツグミにも言ってねって言ってたけど、何なんだろうね」

 

 

ナオミは黙って思案し、視線を落とした。

 

 

(力を欲するあまり、その力に飲まれるな......?どういうこと?それもなんでクロに?タイミング的にキッシングが終わった後だから、あのパイプを守ってる間に何かあったの?)

 

 

頭の中で渦巻く疑問、思考の沼に沈みかけていたその時──先頭を登っていたミツルの声が静寂を破った。

 

 

「見えてきました」

 

 

全員が一斉に視線を前方へと向ける。

苔むした石段を登りきったその先に広がっていたのは、深い緑に飲み込まれ、静まり返った廃墟の街並みだった。

 

 

「なに、ここ......?」

 

 

見たこともない建物群を前に、ミクが絶句したように呟いた。

 

 

◇

 

 

折れ曲がった鉄筋に蔦が固く巻きつき、崩壊したコンクリートの破片が散乱する街並み。至る所が植物に飲み込まれ、静まり返ったその場所には、気が遠くなるほどの長い年月が流れた痕跡が刻まれていた。

一行は散開し、探索を開始した。ヒロとゴロー、クロとナオミがそれぞれ二人組で奥へと向かい、残されたミツル達はある程度まとまった状態で周囲を見て回る。

風化の進む街を眺めていたイクノが、ふと小さく息を漏らした。

 

 

「何だか小さな都市みたいね」

 

「都市ぃ!?これが!?オトナが住んでるあの都市とはぜんぜん違うじゃん!」

 

 

ゾロメがすっ頓狂な声を上げる。

 

 

「誰か人が住んでいたりするのかな」

 

 

ココロが胸の前で手を組み、不安を滲ませて呟くと、ミツルが静かに首を振った。

 

 

「どうでしょうね。プランテーション以外に、人が暮らしてるなんて聞いたことが無いですけど」

 

 

そんなやり取りをよそに、周囲を見回していたゾロメの視線が一つの建物に留まった。一部が鬱蒼とした植物に覆われ、外壁はボロボロに風化しているが、その屋根の形状は──自分たちが日々を過ごしている寄宿舎のそれに不気味なほど酷似していた。

吸い寄せられるように、ゾロメとフトシはその建物の中へと足を踏み入れる。

 

 

「おーい!誰かいますかー?」

 

 

ゾロメが大声で呼びかけてみるものの、返ってくる音はない。むなしく響いた声は、静寂の中へと消えていくだけだった。

ちらりと上の階を見上げたゾロメは、つまらなさそうに肩を落とし、入口へ戻りながら呟いた。

 

 

「なんか、期待してたのと違うな」

 

「あんたは一体何を期待してたのよ」

 

 

呆れたように眉を寄せるミクに対し、ゾロメは両手を大げさに広げて主張する。

 

 

「だあってさあ!俺たちが暮らしてる寄宿舎と変わり映えしないじゃん!」

 

 

その言葉に、イクノが静かに奥へと歩み寄った。放置された椅子の肘掛けに軽く指先を滑らせ、人差し指に付着した厚い埃をじっと見つめる。

 

 

「...確かに。まるでこれをモデルに、私たちの環境が作られてるみたい」

 

「なんのために?」

 

 

ミクが首を傾げると、イクノは視線を落としたまま呟いた。

 

 

「......さあ...」

 

 

一瞬の沈黙が流れた室内で、ふと周囲を見渡したフトシが首を傾げた。

 

 

「...あれ、ココロちゃんは?」

 

 

その問いにハッとしたミクたちも慌てて視線を巡らせる。だが、つい先ほどまで一緒にいたはずのココロの姿は、どこにも見当たらなくなっていた。

 

 

◇

 

 

ココロはフトシたちとは離れ、別の建物の中へと入っていた。薄暗い入口にぽつりと佇んでいたが、意を決して足を踏み出す。

ふと左に視線を向けると、窓の向こうの部屋には古びた瓶や本が置かれており、その周囲の床には足の踏み場もないほど様々な本や紙切れが散らばっていた。

ココロが再び前へ歩を進めようとしたその瞬間、足元に埋もれていた埃まみれの一冊の本が目に留まる。

吸い寄せられるようにかがみ込み、それをそっと手に取った。手で表面の分厚い埃を静かに払う。

表紙に刻まれていたのは──『初めての出産 生まれてくる赤ちゃんのために』という見慣れないタイトルだった。その下には、柔らかい微笑みを浮かべた女性のような人物が、小さなコドモを大切そうに抱きしめている絵が描かれている。

それを見つめ、ココロは思わず声を漏らした。

 

 

「......あかちゃん...?」

 

 

そのとき──

 

 

「ココロさん!」

 

 

背後からミツルの切迫した声が響いた。ハッとした瞬間、羽織っていたラッシュパーカーの生地を強く引かれ、体が後ろへと弾かれる。

直後、ココロが先ほどまで立っていた場所へ、朽ちた巨大な本棚が凄まじい音を立てて倒れ落ちてきた。

九死に一生を得たココロは、無意識のうちにミツルの側へ体を寄せ、あまりの混乱に思考が追いつかず呆然と立ち尽くす。

ミツルは自身のラッシュパーカーのポケットに両手を突っ込んだまま、呆れたように息を吐いた。

 

 

「一人で行動しないでくださいよ」

 

 

そのままわずかに眉をひそめ、冷ややかな視線を向ける。

 

 

「言ったじゃないですか、安全の保証は出来ないって」

 

「ご、ごめんなさい……」

 

 

ココロは申し訳なさそうに視線を泳がせ、深く俯いた。

その胸元には、先ほど拾い上げた一冊の本が、強く握りしめられていた。

 

 

◇

 

 

日が沈みかけ、世界が琥珀色の夕暮れに染まり始めていた。

クロとナオミは廃墟の街並みを歩いていた。ナオミは頭の片隅で(ここは何のための場所だったんだろう)と漠然と思いを巡らせながら探索を続けていたが、ふと隣を歩くクロの姿に目を留め、胸の中にささやかな違和感を覚えた。

 

 

(……クロって、こんなに静かだっけ?)

 

 

ナオミの記憶にあるクロは、確かに一人でいる時間も長かったが、誰かが近くにいる時は無邪気に話しかけてくるイメージが強かった。しかし、今のクロはどうだろう。口を固く閉ざし、まるでかつて過ごした場所を懐かしむかのようにただ静かに歩を進めている。

声をかけようかとも思ったナオミだったが、珍しく何か考えているのかもしれないと思い直し、あえて静寂を破らずにその横顔を見守るにとどめた。

重く穏やかな時間が流れる中、ふと二人の前に圧倒的な存在感を放つ巨大な構造物が現れた。通り全体をすっぽりとドーム状の天井で覆ったアーケードの遺構──先は短いが、大半の屋根が剥げ落ち、骨組みが赤茶けて錆びついていた。

 

 

「すごい……」

 

 

遺構が見せる独特の迫力に、ナオミは思わず感嘆の息を漏らした。

すると隣に立っていたクロが、見上げるような視線のまま、ぽつりと呟いた。

 

 

「……いいなあ、ここ……」

 

 

導かれるように、そのままふらりとドームの中へ歩み出していくクロ。

 

 

「え?」

 

 

意図を図りかねてナオミが声を漏らす。

 

 

「クロ、何か言ったの?」

 

 

問いかけようとしたその時、通りの奥から一人の影──イクノが静かに歩いてくるのが二人の視界に入った。ナオミが「イクノ!」と呼びかけようとした、まさにその一瞬だった。

クロが弾かれたように地面を蹴り、イクノに向かって一直線に駆け出した。

 

 

「クロ、どうし──」

 

 

あまりの勢いに困惑したイクノが制止の声をかけようとした瞬間、クロの全体重が容赦なく胸元へと叩きつけられた。

 

 

「ぐっ……!?」

 

 

強い衝撃とともに、イクノの視界が跳ね上がる。クロを抱え込んだ形のまま真後ろへと吹き飛ばされたイクノは、固い地面を何メートルも滑り、入り口付近で止まった。

直後──

 

 

ドォォォンッ!!!!

 

イクノが先ほど立っていた通路の頭上から、凄まじい破砕音が響き渡り、大量の粉塵と土煙が舞い散った。

大地を強烈に揺らした地響きと衝撃波。間一髪で崩落を免れたのだと、背中に伝わる震えでイクノは痛烈に直感する。

舞い上がる土煙が少しずつ引いていく中、重なるように倒れていたクロが顔を上げた。心配そうにイクノの顔を覗き込んでくる。

 

 

「大丈夫、イクノ?」

 

「え……ええ……」

 

 

何が起きたのか理解が追いつかず、呆然と答えるイクノ。クロはパッと明るい笑みを咲かせた。

 

 

「良かった!」

 

「クロ!!?大丈夫!!?」

 

 

崩れ落ちた瓦礫の向こう側から、悲鳴に近いナオミの叫び声が響き渡った。

 

 

「大丈夫だよー!!」

 

 

クロが喉を割らんばかりの声で返すと、必死に瓦礫の横を通って駆けつけてきたナオミが、その姿を捉えるや否や飛びついて抱きしめた。

 

 

「クロッ!!……大丈夫!?怪我はない!?」

 

「大丈夫!」

 

 

胸を張って無邪気に答えるクロの姿に、ナオミは崩れ落ちるように深いため息を漏らした。

 

 

「……よかった……」

 

 

安堵から胸を撫で下ろすナオミの手を取り、クロは軽やかに立ち上がった。そして呆然と地面に座り込んだままのイクノへ向き直る。

 

 

「イクノ、立てる?」

 

 

クロは近寄ると、ひょいと優しく手を差し伸べた。

イクノはハッと正気に戻ると、「あ……うん……」と小さく頷き、差し出されたその小さな手をしっかりと握り返して立ち上がった。

その直後、轟音を聞きつけた仲間たちが右手の路地から次々と駆け込んできた。

 

 

「どうしたの!?」

 

 

先頭を走るイチゴの切迫した声。続いてヒロとゴローも飛び込んでくる。

 

 

「大丈夫か!?」

 

「何があった!」

 

 

瓦礫と粉塵が舞う崩落現場の側で、息を呑む全員の視線が三人に集まっていた。

 

 

◇

 

 

時間を少し遡り──イチゴは路地裏のような通路を一人歩いていた。

古びた建物の内装を外からぼんやりと眺めながら足を進めていると、ふと壁に貼られた一枚の褪せた張り紙に目を奪われる。そこには『キスの鼓動』という文字が刻まれていた。

 

 

「キス......口と口......」

 

 

イチゴはぽつりと呟き、あの日──模擬戦の機内でヒロと交わしたキスを静かに思い返す。無意識のうちに、そっと自らの唇に指先を触れさせていた。

 

 

「ボク、ダーリンとしたことあるよ」

 

 

耳元で背後から囁くような声が響き、イチゴは跳ね上がるように振り向いた。そこには、いつの間にかゼロツーが立ち、試すような瞳でこちらを見下ろしていた。

 

 

「...ゼロツー」

 

 

イチゴは身を硬くし、どこかバツの悪さを隠せないまま気まずそうに目を逸らした。

 

 

「しっ……したことあるって、何を...」

 

「キス」

 

 

あまりにもあっけらかんと返され、イチゴは思わずゼロツーの顔を見る。ゼロツーは「ふふ〜ん♪」と鼻歌を交え、勝ち誇ったような笑みを浮かべて見せた。

 

 

「君たちにはまだ早いっか♪」

 

 

あからさまな挑発に、イチゴの眉がむっと吊り上がる。胸の奧で生じた焦りとプライドから、視線を泳がせながら無理に強がってみせた。

 

 

「あ、あたしだって...したことあるし」

 

「へえ〜、誰と?」

 

 

ゼロツーはイチゴの背後にある古びたシャッターに片手を突き、距離を詰めて覗き込んでくる。

 

 

「キスってね、特別な人とするものなの。その人は君にとって特別な人なの?」

 

「そっ……それは......」

 

 

芯を突くような問いに、イチゴは不安げに表情を歪め、言葉を詰まらせた。

その時──

 

 

「イチゴ〜?」

 

 

遠くから、自分を探すゴローの声が響いた。二人が視線を向けると、路地の先からヒロとゴローが歩いてくるのが見えた。イチゴを見つけたゴローが、安堵したように笑みを浮かべて手を振る。

イチゴもハッとして手を振り返そうとした──まさにその瞬間だった。

 

 

ドォォォンッ!!!!

 

地響きとともに、街の一角から凄まじい崩落音が轟いた。

 

 

「っ!?」

 

 

イチゴたちは焦りに突き動かされるように、音が響いた方向へと全力で駆け出した。

現場へと飛び込むと、建物の入口辺りでクロ、イクノ、ナオミの三人が佇んでいた。

 

 

「どうしたの!?」

 

 

イチゴが叫びながら真っ先に駆け寄る。遅れて走ってきたヒロとゴローも続いた。

 

 

「大丈夫か!?」

 

「何があったんだ!?」

 

 

事の顛末を語るナオミの説明を真剣な面持ちで聞いていたイチゴは、絶句したように呟いた。

 

 

「そんなことがあったの...」

 

 

ふと通りへ視線を向けると、そこには大量の鉄筋とコンクリートがなぎ倒され、通路を埋め尽くしている崩落跡があった。

もしクロの咄嗟の判断がなければ、イクノはその下敷きになっていた──イチゴはその恐ろしい光景を目にして、そこで何が起きたのかを悟り、ヒロとゴローも遅れて事の重大さに気づく。

 

 

「三人とも……無事で本当によかった……」

 

 

三人は心底胸を撫で下ろし、全員が無傷であったことに安堵の息を漏らすのだった。

 

 

◇

 

 

ヒロたちがゾロメたちに案内されて辿り着いたのは、沈みゆく夕日が水平線を真っ赤に染め上げる、見晴らしの良い崖の上だった。

視界いっぱいに広がる壮大な夕景に、ヒロの表情がパッと明るくなる。その隣で、クロとナオミもまた、どこか晴れやかな瞳でその光景を見つめていた。

 

 

「はあ〜、もうミク疲れちゃった〜!」

 

 

ミクがその場にペタリと座り込み、盛大なため息をついた。

 

 

「結構歩いたよね」

 

 

隣で屈み込んだココロが、軽く息を整えながら苦笑いを浮かべると、ミクは「ぜったい明日筋肉痛〜」と恨めしそうに呟く。

ゾロメは背後に広がる廃虚群を眺めながら呟いた。

 

 

「結局、ここって何だったんだ?」

 

「少なくとも、誰かが生活してたのは間違いないよ」

 

 

ナオミの言葉を受け、ゴローが思案顔で顎に手を当てる。

 

 

「じゃあ、過去に誰かが暮らしてたってことか?」

 

 

ヒロがその会話に黙って耳を傾けていると、一人離れて海を見つめていたゼロツーが、静かに口を開いた。

 

 

「捨てたんだよ」

 

 

ぽつりと落とされたその一言に、全員の視線が一斉にゼロツーへと集まった。

 

 

「かつてニンゲンが地上で生活し、そして捨てた......世界中にいっぱいあるよ、こんな所」

 

 

ゼロツーは夕日を眺めたまま、感情の読めない声で言葉を重ねた。

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