夜は、静かに更けていった。
あれほど賑やかだった浜辺も、今ではすっかり静まり返っている。
先ほどまで仲間たちを囲んでいた焚き火は、燃え盛っていた頃の勢いを失い、赤く燻る薪が時折小さな音を立てるばかりだった。
昼間、あれほど眩しく輝いていた海も、今は深い藍色の闇に包まれている。
ただ、寄せては返す波だけが、変わらない穏やかな音を奏でていた。
13部隊のコドモたちは、支給された寝具に身を包み、それぞれ眠りについていた。
昼間は初めて見る海に興奮し、砂浜を駆け回り、夜には焚き火を囲んで食事を楽しんだ。
普段のプランテーションでは経験できないことばかりの一日だった。
その疲れもあってか、寝具のあちこちからは静かな寝息が聞こえてくる。
しかし、その中で一人だけ、なかなか眠りにつけない少女がいた。
イチゴだった。
「…………」
薄手の寝具に横たわりながら、イチゴはぼんやりと夜空を見つめていた。
目を閉じてみても、なぜか眠気が訪れない。
体は疲れているはずなのに、頭の中では今日あった出来事が次々と浮かんでくる。
初めて見た海。
みんなで過ごした時間。
そして、焚き火を囲んでいた時のヒロの笑顔。
(……ヒロ)
イチゴはそっと目を伏せた。
ヒロとゼロツーが正式に13部隊の仲間になったこと。
それは、リーダーとしても、幼い頃からヒロを知る一人の少女としても、嬉しい出来事だった。
けれど、その喜びとは別に、胸の奥にはうまく言葉にできない気持ちが残っていた。
そんな時だった。
──ガサガサ。
不意に、近くで布の擦れる音がした。
「……?」
イチゴはゆっくりと目を開ける。
音のした方へ顔を向けると、少し離れた場所で誰かが身を起こしていた。
ヒロだった。
彼は周囲で眠る仲間たちを起こさないよう、できるだけ物音を立てずに寝具を整えている。
どうやら、どこかへ行こうとしているらしい。
イチゴは思わず上半身を起こした。
その気配に気づいたのか、ヒロがこちらを振り向く。
二人の視線が、静かな夜の中で重なった。
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
ヒロは少し申し訳なさそうに声を潜めた。
イチゴは小さく首を横に振る。
「アタシも...眠れなかったから...」
「...そうか」
ヒロは納得したように頷いた。
それきり、二人の間に短い沈黙が訪れる。
遠くから聞こえてくる波の音が、やけにはっきりと耳に届いた。
イチゴは一瞬、視線を落とした。
(……今なら)
みんなは眠っている。
ヒロも、まだ起きている。
こんな機会は、そう何度もあるわけではない。
胸の奥で、何かが小さく背中を押した。
イチゴはそっと顔を上げる。
「......ヒロ」
「ん?」
ヒロがこちらを向いた。
その視線を受けた途端、イチゴの胸がどきりと跳ねる。
彼女は少しだけ頬を赤らめながら、ためらいがちに言葉を続けた。
「少し...2人で...」
最後まで言い切ることができず、イチゴは口をつぐんだ。
それでも、ヒロには彼女の言いたいことが伝わったらしい。
二人は眠っている仲間たちを起こさないよう、静かにその場を離れていった。
─────
夜の砂浜には、穏やかな潮風が吹いていた。
昼間の熱気が嘘のように、空気はひんやりとしている。
波打ち際では、白い波が静かに押し寄せ、砂の上に薄い水の膜を残しては引いていく。
そのすぐ近くを、ヒロとイチゴは並んで歩いていた。
柔らかな砂を踏むたびに、足元から小さな音がする。
しばらくの間、二人は言葉を交わさなかった。
けれど、その沈黙は決して居心地の悪いものではなかった。
「なんだか、眠れなくて」
先に口を開いたのはイチゴだった。
夜の海へ視線を向けたまま、少し照れくさそうに言う。
「俺も、寝たら勿体ない気がしちゃってさ」
ヒロはそう答え、穏やかに笑った。
今日という一日は、それほどまでに特別だった。
初めて見る景色。
初めて触れるもの。
そして、仲間たちと過ごした時間。
目を閉じてしまえば、何もかもが終わってしまうような気さえする。
「......だね」
イチゴも小さく微笑んだ。
ヒロはそのまま、少しだけ前を歩き始める。
砂浜には、彼の足跡が一つ、また一つと残されていった。
イチゴはふと、その足跡に目を向ける。
そして、ほんの少し歩幅を変えた。
ヒロが残した足跡の上に、自分の足をそっと重ねる。
一歩。
また一歩。
まるで、彼が歩いてきた道をなぞるように。
砂に残された足跡は、イチゴの小さな足によって少しだけ形を変えていく。
ヒロは、そのことに気づいていない。
イチゴは何も言わず、ただ静かに彼の後を歩いていた。
やがて、二人がしばらく歩いた頃。
ふと、イチゴが顔を上げた。
「……!」
その視界いっぱいに広がっていたのは、無数の星々だった。
プランテーションの中では、これほど鮮明な星空を見たことがない。
暗い夜空には、小さな光が数え切れないほど散りばめられている。
「見て、ヒロ!星がこんなに見えるよ!」
イチゴは思わず声を弾ませた。
その声に、ヒロも足を止めて空を見上げる。
「...ほんとだ」
感嘆の声が、自然と口からこぼれた。
頭上には、どこまでも続く星の海が広がっていた。
大きく輝く星もあれば、目を凝らさなければ見えないほど小さな星もある。
それらが静かに瞬きながら、夜空を埋め尽くしていた。
イチゴはしばらく夢中で星を眺めていたが、やがて何かに気づいたように目を輝かせた。
「あ、オリオン座!」
そう言って、夜空の一角を指さす。
ヒロも彼女の指先を追い、星々の並びを探した。
そして、特徴的な形を見つけると、小さく頷く。
「......昔、『オリオン座は冬の星座代表』って言われてたらしいよ」
「へえ〜」
イチゴは感心したように声を漏らした。
そして、隣に立つヒロの顔を見る。
昔から、ヒロは色々なことを知っていた。
他のコドモたちが気にも留めないようなことを調べたり、覚えたりしては、自分たちに教えてくれた。
そんな彼の姿が、ふと懐かしく思い出される。
イチゴは再び夜空を見上げた。
「小さい頃も、星の話をしてくれたよね」
懐かしさを含んだ、柔らかな声だった。
しかし──
「...そうだっけ?」
返ってきたのは、少し意外な言葉だった。
イチゴは思わずヒロへ顔を向ける。
「そうだよ!アタシ、バカだけどさ、ヒロが教えてくれたこと全部覚えてるよ!」
むきになったように言い返す。
そのまま、ぷいっと顔を背けてしまった。
ヒロは少し驚いたように瞬きをする。
けれど、イチゴが怒ったのは、単に昔の話を忘れられていたからだけではなかった。
自分にとって大切な思い出が、ヒロにとっては何でもないことだったのかもしれない。
そう思うと、胸の奥が少しだけ寂しくなったのだ。
イチゴは唇を小さく結ぶ。
そして、夜空へ視線を戻した。
「...じゃあ、あの星のことも」
ぽつりと呟く。
その声は、先ほどまでとは違って、どこか心細げだった。
ヒロはすぐには答えなかった。
ただ、静かにオリオン座を見上げている。
星々の並びを目で追いながら、何かを思い出そうとしているようだった。
しばらくして──
「......いちごの星?」
「え...!?」
イチゴは思わず振り向いた。
その目が、大きく見開かれる。
ヒロはまだ夜空を見つめていた。
「オリオン座の15番星『いちごの星』暗くて肉眼で見ることは難しいって本に書いてあったけど、本当に見えないもんだな。いつか施設を出たら、一緒に見ようって約束してたのにな」
懐かしそうに、ヒロは言った。
「…………!」
イチゴの胸が、大きく跳ねた。
覚えていた。
ヒロは、ちゃんと覚えていてくれた。
小さい頃に交わした、あの約束を。
自分にとって、ずっと大切だった思い出を。
胸の奥から、温かなものが一気に込み上げてくる。
さっきまで感じていた寂しさが、嘘のように消えていった。
イチゴは目を輝かせながら、ヒロの横顔を見つめた。
(……覚えてて、くれたんだ)
嬉しかった。
本当に、嬉しかった。
けれど、その気持ちを素直に口にするのは、何だか照れくさい。
イチゴは慌てて表情を取り繕うと、ヒロへ近づいた。
「な...なんだ、覚えてんじゃん」
そう言いながら、照れ隠しのようにヒロの背中をぱんっと叩く。
「いって」
ヒロは思わず声を漏らし、イチゴの方を向いた。
しかし、彼女はすでにくるりと背を向け、再び歩き始めていた。
ヒロは少し不思議そうに首を傾げる。
それでも、すぐに彼女の後を追って歩き出した。
二人の足音が、静かな砂浜に重なっていく。
「...星はまた、探せるよね。これからもアタシたち、一緒に戦っていくんだもん」
イチゴは前を向いたまま、穏やかに言った。
今すぐに見つけられなくてもいい。
今日見えなかったのなら、また別の日に探せばいい。
これからも一緒にいられるのなら、その機会はきっと訪れる。
イチゴは、そう信じたかった。
「ああ」
ヒロは迷うことなく頷いた。
その返事に、イチゴの口元が小さく緩む。
しかし、彼女はすぐに表情を引き締めた。
胸の奥には、まだ伝えたいことが残っていた。
「さっきはヒロに『覚悟して』なんて偉そうなこと言ったけど、頑張らなきゃいけないのはアタシたちも一緒で......アタシさ...リーダーとして頑張るから。だから、ゼロツーだけじゃなくて、アタシのことも見ててほしい」
言い終える頃には、声が少しだけ小さくなっていた。
リーダーとして、もっとしっかりしなければならない。
仲間たちを守れるように、強くならなければならない。
それは、イチゴの偽りのない決意だった。
けれど、その言葉の奥には、もう一つの気持ちが隠れていた。
ゼロツーだけではなく、自分のことも見ていてほしい。
ただのリーダーとしてではなく。
幼い頃から、ずっとヒロのそばにいた自分のことを。
ヒロは、そんなイチゴへ穏やかな笑みを向けた。
「…………」
その笑顔を見た瞬間、イチゴの胸がきゅっと締めつけられる。
(……今、言わなきゃ)
イチゴは足を止めた。
ヒロも、少し遅れて立ち止まる。
夜風が二人の間を通り抜け、イチゴの青い髪をさらりと揺らした。
彼女は胸の奥に込み上げてくる緊張を押し込めるように、そっと息を吸った。
「アタシ...模擬戦でのヒロとのことは、特別だって思ってる...!」
声が、わずかに震えた。
あの模擬戦での出来事。
ヒロと交わしたキス。
あの時の感触も、胸の高鳴りも、イチゴは忘れていなかった。
自分にとって、あれは決して何でもない出来事ではなかった。
ずっと心に残っている、大切な記憶だった。
どくん。
心臓が、大きく脈打つ。
どくん、どくん。
鼓動が次第に速くなっていく。
(……落ち着いて……)
イチゴは無意識のうちに、羽織っているラッシュパーカーの裾をぎゅっと握りしめた。
指先に、少しだけ力がこもる。
ただ、自分の気持ちを伝えるだけ。
それだけのことなのに、どうしてこんなにも緊張するのだろう。
叫竜を前にした時とは、まったく違う。
怖いわけではない。
けれど、胸が苦しくて、うまく息ができない。
ヒロは、そんな彼女を静かに見つめていた。
イチゴは意を決するように、顔を上げる。
そして──
「だから、アタシは、ずっとヒロと一緒に──」
その時だった。
「見てイチゴ!流れ星だ!」
「……え?」
突然、ヒロが夜空を指さした。
その声には、隠しきれない驚きと興奮が混じっていた。
イチゴは一瞬、呆然とヒロの顔を見つめる。
しかし、彼が指さす先へ視線を向けた瞬間──
「……!」
息を呑んだ。
夜空に、一筋の光が走った。
そして、もう一筋。
さらに、その後を追うように、いくつもの光が次々と流れていく。
それは、無数の流れ星だった。
暗い夜空を、輝く光の線が横切っていく。
星々の間を縫うように、次から次へと流れ落ちる光。
まるで、空そのものが静かに降り注いでいるかのようだった。
「…………」
ヒロは、言葉を失っていた。
イチゴもまた、目を大きく見開いたまま夜空を見つめている。
こんな光景は、今まで一度も見たことがなかった。
プランテーションの中では決して見ることのできない、幻想的な星の雨。
夜の海にも、その光がかすかに映り込んでいた。
二人の頭上を、流星が幾筋も駆け抜けていく。
ヒロは夢中になって、その光景を見つめていた。
「流れ星に願い事をすると、叶うんだって。イチゴは何をお願いする?」
そう言うヒロの横顔をイチゴは見る。
しかし
「…………」
イチゴは、すぐには答えなかった。
ゆっくりとヒロの方を向く。
その表情には、先ほどまでの感動とは別の感情が浮かんでいた。
眉を少し寄せ、唇を小さく尖らせる。
(……もうっ……!)
せっかく。
せっかく、勇気を出して言おうとしたのに。
あと少しだったのに。
よりにもよって、こんな大切なところで流れ星を見つけてしまうなんて。
イチゴは胸の奥に溜まった気持ちを持て余しながら、小さく呟いた。
「......さっき言おうとしたよ」
「え?」
ヒロが不思議そうに振り向いた。
その顔には、彼女の言葉の意味がわからないという表情が浮かんでいる。
そんなヒロを見て、イチゴは一瞬だけ目を細めた。
そして──
ふっと笑った。
さっきまで胸を締めつけていた緊張が、少しだけほどけていく。
本当に、鈍感なんだから。
でも。
そんなところも、昔から変わらない。
イチゴはくるりと身を翻した。
そして、振り向きざまに満面の笑みを浮かべる。
「ヒロのバーカ!」
「えっ、何だよそれ!」
ヒロが思わず声を上げる。
けれど、イチゴはもう走り出していた。
柔らかな砂を蹴り、波打ち際に沿って駆けていく。
夜風が頬を撫で、青い髪を後ろへ流していった。
ヒロも慌ててその後を追いかける。
二人の足音が、静かな砂浜に響いた。
イチゴは振り返らない。
ただ、楽しそうに笑いながら走り続ける。
胸の奥には、まだ伝えられなかった想いが残っていた。
けれど、不思議と悲しくはなかった。
ヒロは、あの約束を覚えていてくれた。
そして、これからも一緒に戦っていくと言ってくれた。
だから、今はそれだけでもいい。
いつか。
いつかきっと、この気持ちを伝えられる日が来る。
そんな小さな希望を胸に、イチゴは夜の浜辺を駆けていった。
その後ろを、ヒロが追いかけていく。
二人の笑い声が、穏やかな波音に混じって響いた。
そして、遥か頭上では──
無数の流れ星が、今も静かに夜空を横切っていた。