寄宿舎では、朝食を終えたコドモたちがそれぞれ思い思いの時間を過ごしていた。
談話室で談笑する者もいれば、自室でくつろぐ者もいる。特に予定のない休日ということもあり、建物の中にはいつもよりのんびりとした空気が流れていた。
そんな中、イクノはふと書庫へと足を向けた。
何か特別な目的があったわけではない。ただ、部屋にいてもすることがなく、気まぐれに本でも読もうと思ったのだ。
書庫の扉を開けると、静かな室内に窓から柔らかな光が差し込んでいた。
その光景の中で、イクノの目に留まったものがある。
机の上に何冊かの図鑑が重ねられていた。そして、その前に座っている人物が一人。
ナオミだった。
彼女は図鑑を開き、ページの隅々まで目を通している。普段の落ち着いた様子とはまた違う、どこか真剣な表情だった。
何をしているのだろう。
少し気になったイクノは、静かに近づいて声をかけた。
「ナオミ」
呼びかけに気づいたナオミは、ゆっくりと顔を上げる。
「イクノ」
名前を呼び返す声には、わずかな驚きが混じっていた。
イクノはナオミの前に広げられた図鑑へと視線を落とす。見慣れないページを眺めていると、その傍らに小さな玉が置かれていることに気づいた。
窓から差し込む光を受け、その玉は淡く輝いていた。
「珍しいね、何か調べてるの?」
イクノが尋ねると、ナオミは机の上に置かれた小さな玉へ目を向けた。
「昨日、海でクロが見つけたこれが何なのか気になってね」
そう答えると、ナオミは再び図鑑へと視線を戻した。
イクノも、もう一度その玉を眺める。
表面は滑らかで、光の当たり方によって微妙に色合いを変えている。小さいながらも不思議な存在感があり、思わず目を留めてしまうような美しさだった。
確かに何なのか気になるのも無理はない。
「...私も手伝う」
イクノがそう申し出ると、ナオミは少し意外そうに顔を上げた。
「いいの?」
「どうせこの後暇だし」
そう言いながら、イクノはナオミの隣に腰を下ろす。目の前に置かれた図鑑を手元に引き寄せ、ページを開いた。
ナオミはそんなイクノを見て、柔らかな笑みを浮かべる。
「ありがとう」
それ以上は言わず、彼女もまた図鑑へと目を戻した。
二人は並んで机に向かい、それぞれ図鑑のページをめくり始める。
紙をめくる小さな音だけが、静かな書庫に響いていた。
載っているのは、海に生息する生き物や、海底で見つかる様々なものについての情報。二人は机の上の玉と見比べながら、似た形や特徴を持つものがないか探していく。
しばらくの間、二人は黙々と調べ続けた。
やがて、ナオミの手が一つのページで止まる。
「......これかな」
小さく呟いたナオミは、机の上に置いてあった玉を手に取った。
図鑑に載っている写真と、手の中の玉を交互に見比べる。形も、表面の光沢も、よく似ている。
その様子に気づいたイクノが、隣から身を寄せた。
「なんて書いてるの?」
ナオミはページに目を落とし、説明文を読み上げる。
「[『真珠』貝の体内で生成する宝石の一種である。]だって」
真珠。
その言葉を口にしたナオミは、手の中の玉へと視線を戻した。
それは昨日、クロが海の中で見つけたものだった。何気なく拾われた小さな玉が、実は宝石の一種だったというのは、少し意外な発見だった。
ナオミは真珠を光にかざすように持ち上げる。
窓から差し込む光が、その表面を滑るように反射した。
「宝石ね...実際に見たこと無いけど、これくらい綺麗なのかな」
その呟きには、純粋な興味が感じられた。
イクノは少し考えるように視線を動かしてから、静かに口を開く。
「......どうだろう、ヒロに聞いたらわかるんじゃない?」
ヒロなら、何か知っているかもしれない。少なくとも、自分たちよりは多くの知識を持っている。
そう考えての言葉だった。
しかし、ナオミはすぐには答えず、手の中の真珠を眺め続けていた。
「そうかもね...でもこういうのって、自分で見つけたほうが楽しいからさ」
そう言って、ナオミは小さく微笑む。
誰かに答えを教えてもらうのではなく、自分たちで調べて、見つけて、知っていく。
その過程も含めて楽しみたいのだろう。
イクノはそんなナオミの横顔を眺めた。
穏やかな表情。真珠を見つめる眼差しには、いつもの彼女とは少し違う、年相応の好奇心が浮かんでいる。
やがてイクノも、ナオミの手の中にある真珠へと視線を移した。
二人の間には、再び静かな時間が流れ始めていた。
◇
朝食を終えた後、ヒロは寄宿舎の中を歩いていた。
ただ気ままに散歩しているわけではない。
廊下の壁や天井、部屋の配置に至るまで、周囲の内装を注意深く眺めながら歩いていた。
その理由は、朝食の席で耳にした話にあった。
向かい側に座っていたゾロメとフトシが、昨日訪れた廃墟について話していたのだ。二人の話によれば、廃墟の中に寄宿舎とよく似た建物があったらしい。
その話を聞いてから、ヒロの頭の中にはいくつもの疑問が浮かんでいた。
なぜ、あんな場所に建物があったのだろう。
人類にとって脅威である叫竜が外の世界に存在していたにもかかわらず、かつての人々はあの場所で生活していたのか。
そもそも、なぜ人類は生活の場を地上からプランテーションへと移したのだろう。
考えれば考えるほど、新たな疑問が生まれてくる。
今まで当たり前だと思っていたことも、改めて考えてみれば分からないことばかりだった。
ヒロは廊下を進みながら、壁や窓の造りを眺める。
昨日見つけた廃墟の建物と、今自分がいる寄宿舎。
似ているのは外観だけなのか。それとも、もっと深いところに何か共通点があるのか。
答えは出ない。
軽く息をついたヒロは、いったん考えるのをやめるように視線を上げた。
──少し休憩しよう。
そう思い、廊下を抜けて中庭へと向かった。
中庭に出ると、寄宿舎の壁に背を預ける。目の前には、広々とした森が広がっていた。
木々の葉が風に揺れ、枝の隙間から差し込む光が地面に淡い模様を落としている。
ヒロは特に何をするでもなく、その景色をぼんやりと眺めていた。
考え事を続けていた頭を、少しだけ休ませる。
そんな静かな時間に横から声がかかった。
「よう」
聞き覚えのある声に、ヒロはふと顔を向ける。
そこには、こちらへ歩いてくるゴローの姿があった。
「ゴローか、どうしてここに?」
ヒロが尋ねると、ゴローは軽く手を上げながら答える。
「ちょうどここに歩いてくのが見えてさ」
そう言って、ゴローはヒロの隣までやってくると、同じように壁へと寄りかかった。
しばらく二人で森を眺めていたが、やがてゴローが口を開く。
「何か考えてるのか?」
「え?」
思いがけない問いかけに、ヒロは小さく声を漏らした。
どうして分かったのだろう。
自分では普段と変わらないつもりだった。少なくとも、何かを考え込んでいることが分かるほど顔に出ているとは思っていなかった。
そんなヒロの反応を見て、ゴローは少し笑う。
「あんな真剣な顔見るの、久しぶりだからさ」
ヒロはゴローから視線を外した。
(そんなに顔に出てたかな)
自分は少し気恥ずかしそうに目を伏せる。
そのとき、ふと隣のゴローの視線に気づいた。
ゴローはこちらを眺めていた。
「....なんだよ」
ヒロが尋ねると、ゴローは再び森の方へと顔を向けた。
「いや.....お前がそうやって何か考えるの、昔のヒロみたいだと思ってな」
「昔の、俺?」
「ああ、見たこと聞いたことに疑問を持ってさ。ガーデンにあった本は全部読み尽くして、色々なことに詳しくて......それでも『まだ足りない』って眼をしてるんだ。俺たち他のコドモとは明らかに違う、特別なヤツだと思ってたよ」
ゴローの言葉を聞きながら、ヒロは彼の横顔を見つめていた。
自分の知らない、自分の話。
いや、知らないわけではない。幼い頃の自分については、断片的ながら覚えている。
それでも、他人の口から語られると、どこか不思議な感覚があった。
ゴローは少しだけ言葉を切り、昔を懐かしむように目を細めた。
「でも、いつの間にかお前は俯いてばかりでさ。正直、あの頃感じた凄みみたいなのは薄くなったと思ってた。まあ、フランクスに乗れるかどうかでくすぶってたし、仕方ないけどな」
ヒロはゴローの横顔を見つめた後、ゆっくりと視線を落とした。
そういえば、なぜだろう。
胸の腫れがおさまってからというもの、頭の中が妙にすっきりしている。
まるで、何年もの間ずっと立ち込めていた霧が、一気に晴れていったかのようだった。
以前は何かを考えようとしても、どこかで思考が止まってしまうような感覚があった。知りたいと思う気持ちがあっても、それを追いかけるだけの力が湧いてこなかった。
けれど今は違う。
幼い頃、自分を突き動かしていたあの気持ちが、再び胸の奥から湧き上がってきているような気がした。
もっと知りたい。
もっと考えたい。
目の前にあるものの、その先を知りたい。
そんな気持ちを確かめるように、ヒロはこれまで耳にしてきた言葉を頭の中で並べていく。
オトナ、コドモ、叫竜、フランクス、フランドール、マグマ燃料、七賢人。
そして、森にいる虫や鳥たち。
どれも自分の知っている世界を形作るものだ。けれど、その一つ一つについて、本当に理解していると言えるのだろうか。
知らないことはまだまだある。
それに──。
ふと、ヒロの思考に別の記憶が浮かびかけた。
昔、見た気がするあの子。
誰だったのか。
どこで会ったのか。
思い出そうとした、その瞬間。
──チクリ
頭の奥に、小さな針を刺されたような痛みが走った。
「っ......」
ヒロは反射的に額を押さえる。
その仕草に気づいたゴローが、すぐに顔を向けた。
「どうかしたか?」
心配そうな声だった。
ヒロは額に手を当てたまま、少しだけ間を置く。
そして、ゴローに余計な心配をかけないように、小さく笑みを浮かべた。
「...なんでもないよ」
そう答えると、ヒロはゆっくりと手を下ろした。
表面上は、いつもと変わらない様子を装っていた。
しかし、胸の内には先ほどの痛みとは別の、言葉にしづらい感覚が残っていた。
頭の中が晴れたと思っていた。
確かに、以前よりも多くのことを考えられるようになった。知りたいという気持ちも戻ってきた。
それなのに、まだ何かがある。
自分の中に、深い霧のように立ち込めた何かが。
その向こうに何があるのか、今のヒロにはまだ見えない。
まるで、そこへ踏み込むことを拒むように、見えない何かが道を塞いでいるようだった。
◇
昼食を終えたコドモたちは、食堂を出ると玄関ホールへと集まっていた。
午後の柔らかな光が窓から差し込み、広々としたホールを明るく照らしている。食事を終えたばかりの彼らは、それぞれ思い思いに会話を交わしながら、残りの時間をどう過ごそうかと考えていた。
「さて、次は何する?」
誰かがそう口にすると、周囲からもいくつか声が上がる。
「森に行くのもいいんじゃない?」
「えー、また森かよ」
「じゃあ、中庭でボール遊びとかする?」
そんな他愛のないやり取りが続いていた、そのときだった。
玄関の扉が開き、ナナがホールへと入ってきた。
彼女は室内にいるコドモたちを見渡す。ちょうど全員がこの場に集まっていたことに気づくと、少しばかり表情を和らげて声をかけた。
「丁度みんないるわね。話があるの、良い話よ」
その言葉に、コドモたちの視線が一斉にナナへと集まった。
何の話だろうか。
互いに顔を見合わせながらも、彼らは自然とナナを囲むように集まっていく。先ほどまでの雑談はいつの間にか止み、ホールには彼女の言葉を待つ静けさが広がった。
ナナは全員が自分の方を向いていることを確認すると、小さく咳払いをし、改めて告げる。
「明日は全員正装の上、10時に宿舎前に集合すること。いいわね?」
突然の指示に、コドモたちは不思議そうな顔をした。
「正装?」
フトシが首を傾げる。
普段の生活ではあまり聞かない言葉だった。明日、何か特別な予定でもあるのだろうか。
イチゴも困惑したような表情を見せ、ナナに尋ねる。
「何があるんですか?」
そんな彼女たちの反応を見て、ナナは少しだけもったいぶるように間を置いた。
「防衛戦の成功を受けて、あなた達に勲章が授与されることになったわ」
「え!?」
ミクが目を見開く。
「くっ勲章!?」
フトシも思わず声を上げた。まさか自分たちが勲章をもらえるとは思っていなかったのだろう。驚きと興奮が入り混じった表情で、ナナを見つめている。
一方、ゾロメはというと、まだ話の意味を十分に理解できていないようだった。
「...何だそれ」
ぽつりと呟くゾロメをよそに、ナナは続けて説明する。
「授与式は明日、第1庁舎で行われます」
その言葉を聞いた瞬間、イチゴの表情が大きく変わった。
「ナナ姉、本当!?」
思わず身を乗り出すようにして尋ねるイチゴ。その隣では、ゴローも驚いた様子で声を上げた。
「おい、それって...!」
二人の反応から、勲章を授与されることが何を意味するのか、ようやく周囲にも伝わり始めていた。
「や、やったぞゾロメ!」
フトシは興奮を抑えきれない様子で、隣にいるゾロメへと声をかける。
しかし、当の本人はまだ状況を飲み込めていないらしい。
「え、どういうこと?」
きょとんとした顔で尋ねるゾロメに、ミクは呆れたように声を張り上げた。
「バカね!だから、私たちが都市の中へ入れてもらえるってことでしょ!!」
その説明を聞いて、ようやくゾロメの表情に理解の色が浮かぶ。
勲章を授与されるということ。それはつまり、これまで立ち入ることのできなかった都市の中へ、自分たちも入ることができるということだった。
「えっ、ええ!?」
ゾロメは驚きの声を上げると、すぐさまナナの方へと顔を向けた。
ナナはそんな彼の反応を見て、穏やかな笑みを浮かべる。
その笑顔が、彼の理解を肯定する何よりの答えだった。
「うおおおおおおお!!!」
次の瞬間、ゾロメは歓喜の叫びを上げた。
拳を握りしめた腕を勢いよく振り上げ、全身で喜びを表現する。その顔には、先ほどまでの戸惑いなど微塵も残っていなかった。
念願だった都市の中へ入れる。
その事実が、彼にとってどれほど嬉しいことなのか。大きな声と、弾けるような笑顔を見れば十分に伝わってくる。
隣にいたミクは、突然の大声に思わず両手で耳を塞いだ。少し困ったように苦笑いを浮かべながら、勢いよく喜ぶゾロメへと視線を向ける。
「よっぽど嬉しいんだな、あいつ」
そんな二人の様子を少し離れたところから眺めていたツグミは、小さく笑みを浮かべ、どこか微笑ましそうな声音で呟いた。
─────
翌朝。
男子棟の一室では、ゾロメが鏡の前に立ち、身だしなみを整えていた。
正装に身を包み、襟元を直しては鏡を覗き込む。次に袖口を確認し、少しでも乱れがあれば指先で丁寧に整える。髪型も何度か確かめ、最後には少し離れた位置から全身を眺めた。
「……よし」
納得したように頷く。
すでに同室のミツルとフトシは玄関ホールへ向かっており、あとはゾロメが来るのを待っている。だが、本人はそんなことなど気にも留めず、鏡の前で最後の確認を続けていた。
一方、玄関ホールでは、集まったコドモたちがそれぞれ談笑していた。
「これ着るの入隊式以来だな」
自分の服装を見下ろしながら、ゴローが懐かしそうに言う。
その言葉に、クロは自分の正装を見回しながら、どこか感心したように声を上げた。
「私はこれ初めて着たよ。正装ってこういう感じなんだね〜」
普段とは違う服装に、少しばかり新鮮さを感じているようだった。
「そういえば、クロは入隊式にいなかったな」
ツグミが思い出したように言う。
クロは小さく頷き、改めて自分の服装に目を向けた。
そんな会話が交わされていたところへ、男子棟の方から足音が聞こえてきた。
姿を現したのは、ゾロメだった。
彼は玄関ホールへと続く階段を下りてくると、途中で手すりに腕を置き、片足に重心を乗せてポーズを決めた。
いつもよりも整った服装に、普段の落ち着きのなさが少しだけ隠れている。本人としては、かなり格好よく決まったつもりなのだろう。
それを見たイチゴが、素直に感心したように声をかける。
「ゾロメ、今日はなんか決まってるね。オトナっぽく見えるよ」
その言葉に、ゾロメは目を閉じたまま、いかにも得意げな顔を浮かべた。
「ふん、でしょ」
満足そうに呟く。
すると、すぐそばにいたフトシがゾロメを指さしながら口を開いた。
「こいつ朝からずっと鏡見てチェックしてたんだぜ」
「よく飽きずに見てられますね」
ミツルも呆れたように続ける。
「なにおー!!?」
せっかく気分よく決めていたところに水を差され、ゾロメはすぐさま二人へと食ってかかった。
そんなやり取りを見ていたココロが微笑みながら口を挟む。
「でも、確かにいつもよりカッコイイよ」
「でしょでしょ〜♪」
ゾロメは腰に手を当て、胸を張った。
「ココロ、おだてちゃ駄目よ。こいつすぐ本気にしちゃうんだから」
ミクが呆れたように言う。
「うるせえ!」
ゾロメはすぐに言い返した。
いつもと変わらない賑やかなやり取り。けれど、今日は誰もが普段とは違う正装に身を包んでいるせいか、どこか浮き足立った空気が漂っていた。
ヒロはそんな仲間たちの様子を、少し離れたところから眺めていた。
楽しそうに言い合うゾロメたち。その様子を見ていると、自然と穏やかな気持ちになる。
しかし、ふと視線を横へ向けたとき、ヒロは少し気になる姿を見つけた。
書庫へと続く扉。その脇に寄りかかるようにして、ゼロツーが立っていた。
彼女は少し俯き、いつものようにどこか気怠げな様子を見せている。身に着けているのも、周囲の皆とは違い、普段から着ている赤い制服のままだった。
──どうしたのだろう。
そう思い、ヒロが彼女へ声をかけようとした、そのときだった。
「おはよう、みんな揃ってる?」
玄関の扉の向こうから、ナナの声が響いた。
その場にいた全員が一斉にそちらを振り向く。
扉の先にはナナが立っていた。その隣にはハチの姿もある。二人とも帽子を被っており、いつもとは少し違った雰囲気をまとっていた。
コドモたちが集まったことを確認すると、ナナは満足そうに頷いた。
こうして、彼らの初めての都市訪問が始まった。
寄宿舎を出た一行は、ナナとハチに連れられてプランテーション内の通路を進んでいく。
無機質な壁に囲まれた廊下。天井から均等に照明が照らし、どこまでも続いているように見えるその通路は、普段彼らが生活している場所と何ら変わりない。
しかし、しばらく進んだところで、コドモたちの足が自然と止まった。
その先にあったのは、大きなゲートだった。
専用のIDを持つ者でなければ通過できない、明確な境界線がそこには存在していた。
ナナとハチは慣れた様子で認証を済ませ、何事もなかったかのようにゲートの向こう側へと進んでいく。
二人が通り抜けたあと、コドモたちはその場に立ち尽くしていた。
目の前にあるのは、これまで自分たちが通ることのできなかった場所への入り口。
その向こう側に何があるのか、彼らはまだ知らない。
ナナとハチは少し先で足を止め、振り返った。
そして、戸惑うように立ち止まっているコドモたちへ、ナナが優しい声色で促す。
「ほら、早く」
その言葉に、先頭に立っていたゾロメが反応した。
一度ゲートを見つめ、それからナナたちの方へと視線を向ける。
ほんのわずかな躊躇。
次の瞬間には意を決したように身をかがめ、ゲートへ向かって大きく跳躍した。
「うおりゃあああああ!!」
勢いよく宙を舞ったゾロメの身体は、ゲートのレーザーを越えて向こう側へと通り抜ける。
そして、少し先の床へと着地した。
「「「「お〜!」」」」
その光景を見たコドモたちから、感嘆の声が上がる。
自分たちも通れるのだ。
それを確かめるように、次々とコドモたちがゲートを越えていく。全員が無事に向こう側へ渡り終えると、彼らは再びナナとハチの後を追った。
やがて一行はゴンドラへと乗り込む。
扉が閉まり、静かに動き出したゴンドラの中では、自然と会話が弾んでいた。
これからどんな場所へ行くのか。都市には何があるのか。自分たちの知らない世界が、この先に広がっている。
期待を隠しきれない様子で、コドモたちはそれぞれに言葉を交わしていた。
そして、数分が経った頃。
ゴンドラがトンネルを抜けた。
その瞬間、彼らの目の前に広がった光景は、これまで見慣れてきたものとはまるで違っていた。
高くそびえる建物の数々。
整然と並ぶ建築物と、広がる都市の景色。視界に入るものすべてが、ミストルティンやプランテーションの中とは異なる雰囲気をまとっていた。
コドモたちは思わず窓の外へと視線を向ける。
初めて見る都市の姿。
自分たちが暮らしてきた場所の外側に、こんな世界が広がっていたのだ。
その驚きは、すぐさま歓声となってゴンドラの中に広がった。
彼らの目は、見慣れない景色を追うように輝いている。
やがてゴンドラが目的地へ到着すると、一行は再びハチとナナに連れられ、都市の中を進んでいった。
しばらく歩いた先に現れたのは、第1庁舎だった。
大きく立派な建物を前に、コドモたちは思わず足を緩める。
ナナが建物を見上げ、彼らへと声をかけた。
「ここよ」
その一言を合図にするように、コドモたちの表情が引き締まった。
これから自分たちに勲章が授与される。
そう思うと、先ほどまでの高揚感とはまた違う緊張が胸の内に広がっていく。
案内されるまま建物の中へ入り、やがて大会議室へと通された。
広々とした室内。正面には市長が立っており、コドモたちはその前に横一列に並ぶよう指示された。
全員が所定の位置につくと、室内は静けさに包まれた。
市長は列に並ぶ彼らをゆっくりと見渡し、穏やかな声で語り始める。
「パラサイト、そしてパイロットの皆様。本日はここまでお越しいただき、ありがとうございます。皆様がこの都市を訪れることは、大変名誉なことです。今日という日を誇りに思い、その名誉にふさわしい活躍を続け、この都市と人類のさらなる貢献をしてくださることを願っています」
丁寧な言葉に、コドモたちは静かに耳を傾けていた。
自分たちがこうして都市に招かれ、市長から直接言葉をかけられている。
それだけでも、普段の生活では決して経験することのない出来事だった。
市長はゆっくりと立ち上がると、列の前を歩き始めた。
そして、最初にイチゴの前で足を止める。
イチゴは背筋を伸ばし、緊張した面持ちで市長を見つめていた。胸の内には興奮と緊張が入り混じっている。だが、今はそれを気にする余裕さえない。
市長は彼女の顔を見て、柔らかく尋ねる。
「君がチームリーダーかな」
「はいっ!コード015ですっ!」
イチゴは弾かれたように返事をした。
その声は少しばかり上ずっていたが、本人はそれどころではない。
「先の戦い、よく成し遂げてくれたね。優秀なリーダーだ」
「ありがとうございますっ!しかし、わたしの力ではありませんっ!全員の力ですっ!」
イチゴは緊張したまま、それでもはっきりと答えた。
市長はその言葉を聞くと感心したように数回頷く。
その様子を横から見ていたゴローは、普段とは違うイチゴの姿を面白く思ったのか、彼女に聞こえないように小さく笑った。
イチゴはそれに気づくことなく、まっすぐ前を見つめ続けている。
市長はその後も、一人ひとりの前で足を止め、彼らの働きを労う言葉をかけていった。
そして、ゼロツーの前で立ち止まる。
「元ナインズの君が、我が十三都市に所属してくれたこと。光栄に思っています」
ゼロツーは特に表情を変えることなく、市長の言葉を受け止めていた。
市長は続けて、その隣に立つヒロへと視線を移す。
「君も、危険な機体によく乗ってくれた。どうか体には気をつけなさい」
「あ、ありがとうございます」
ヒロは少し俯きながら返事をした。
市長の言葉に、どこか気恥ずかしさを覚えたのかもしれない。自分が成し遂げたことを、こうして改めて評価されるのは、まだ慣れないことだった。
市長は小さく頷くと、その隣へと歩みを進め、別のコドモたちにも声をかけていく。
やがて、市長はゾロメの前で足を止めた。
ゾロメは顔を少し赤くしながら、市長を見上げている。
先ほどまでの威勢のよさはどこへやら、目の前に立つ相手を前にして、緊張が隠しきれない様子だった。
「君の働きも素晴らしかった。これからも頑張ってくれ」
「はっはいっ!ありがとうございます!!」
勢いよく返事をしたゾロメは、次の瞬間、右手を差し出した。
その行動に、市長は一瞬だけ驚いたように固まる。
しかし、すぐに穏やかな笑みを浮かべると、差し出された手を握り返した。
二人の手が重なる。
握手だった。
ゾロメは市長と手を握ったまま、どこか信じられないものを見るような顔をしていた。
やがて市長が手を離し、再び列の中央へと移動していく。
その間も、ゾロメは自分の右手を見つめていた。
市長と握手した手。
その感触が、まだ残っているような気がする。
胸の奥から、何かが一気に込み上げてくる。
叫びたい。今すぐにでも大声を上げて、この嬉しさを誰かに伝えたい。
けれど、ここは式典の場だ。
ゾロメは必死にその衝動を抑え込んでいた。
そんな彼の様子を、隣に並ぶミクがちらりと横目で見る。
呆れたような表情を浮かべながらも、その口元にはほんの少しだけ笑みがあった。
市長は再びコドモたちの列の中央へと戻ると、並んでいる彼らを見渡した。
「君達は、都市がどういう場所なのか、まだ何も知らない」
そう告げてから、少しだけ表情を緩める。
その言葉にコドモたちは思わず互いの顔を見合わせた。
ゼロツーだけはこの都市のことを知っている。
それ以外の彼らにとっては、先ほどゴンドラから見た景色さえ、初めて目にするものばかりだった。
市長はそんな彼らの反応を見て、少し笑う。
「せっかくここまで来たんだ。一部だけだが、案内しよう」
その言葉に、ツグミが思わず声を漏らした。
「マジで!?」
隣ではゾロメが目を見開き、思わず一歩前へ踏み出す。
「ほっ本当ですか!?」
二人の反応に、市長は穏やかな笑みを浮かべた。
「ええ。まだ時間はたくさんあります。ゆっくり見ていきましょう」
「おおっ!」
「やった!」
コドモたちの間から、歓声が上がった。
先ほどまでの緊張はどこへやら、彼らの顔には再び期待と喜びが戻っている。
初めて訪れた都市。
そこで何を見ることができるのか。どんなものが待っているのか。
まだ知らないことばかりの世界へ、彼らの胸は大きく膨らんでいた。
列の端に立っていたナナは、そんなコドモたちの様子を見つめながら、穏やかな笑みを浮かべていた。