夜の帳が、プランテーションの周囲をすっかり包み込んでいた。
昼間は荒涼とした大地がどこまでも広がっていた場所も、今は深い闇の中に沈んでいる。
しかし、その一角だけは違っていた。
幾台もの巨大な投光器が夜の荒野へ強烈な白い光を投げかけていた。
交差する光の柱が地面を照らし、砂埃の舞う空気を白く染めている。
そこに、四つの巨大な影が浮かび上がっていた。
デルフィニウムとアルジェンティア。
グラジオラスとアイリス。
二機のフランクスと、二機のフランドール。
それぞれが一定の距離を保ちながら、向かい合っていた。
即席で設けられた模擬戦場には普段の訓練とは明らかに異なる緊張感が漂っている。
地上の観戦エリアには、ナナとハチをはじめ、13部隊の仲間たちが集まっていた。
誰もが巨大な機体を見上げている。
模擬戦。
そう聞けば、訓練の延長に過ぎないようにも思える。
しかし、今回の結果には、二人のコドモの未来が懸かっていた。
一人は、コード016──ヒロ。
一人は、コード960──クロ。
それぞれが、自分の居場所を掴むために、これから試されようとしていた。
ゴローはデルフィニウムを見つめていた。
あの中にはヒロとイチゴがいる。
イチゴはヒロのために自分からパートナーを申し出た。
その覚悟を、ゴローは知っている。
だからこそ二人にはうまくいってほしかった。
一方、ナオミの視線はグラジオラスへ向けられていた。
今日はきちんとした準備を整えているとはいえ、心配が消えたわけではない。
けれど、クロは笑っていた。
模擬戦が始まることを楽しみにしているようにさえ見えた。
その時だった。
デルフィニウムのメインモニターに、通信画面が割り込んだ。
映し出されたのは、ゾロメの顔だった。
「やい、泣き虫野郎! これで白黒つけてやっからなあ!!」
勢いのある声が、コックピットに響く。
ゾロメは、いかにも待ちきれないといった表情をしていた。
昼間の中庭での出来事。
ツグミに言われた言葉。
ヒロが自分よりも先にフランクスへ乗ったという事実。
そのすべてが、彼の負けず嫌いな心に火をつけていた。
今日こそ自分の方が優秀なのだと証明してやる。
そんな思いが画面越しにも伝わってくる。
すると、今度はミクが通信へ割り込んできた。
「そのパートナーじゃあ、成績優秀なリーダーさんに私、勝っちゃうかもよ?」
挑発するような笑みだった。
その言葉にイチゴは落ち着いた声で返した。
「どうぞ勝手に。これは勝ち負けじゃないから」
イチゴの声には揺るぎない決意があった。
これはただの勝負ではない。
ゾロメとミクに勝つことが目的ではない。
(そう……勝ち負けじゃない。ヒロがフランクスに乗れるってことを、アタシが証明するんだ……!)
イチゴはゆっくりと息を吸った。
胸の奥には緊張があった。
けれど、それ以上に強い願いがあった。
ヒロにもう一度フランクスへ乗ってほしい。
あの時失いかけた自信を取り戻してほしい。
そして、自分にもヒロの力になれるのだと証明したかった。
地上ではフトシが二機を見上げながら苦笑していた。
「ミクもやる気満々だな」
その少し後ろ。
ゼロツーが退屈そうにも見える姿勢で立っていた。
両手を頭の後ろで組み、口には棒付き飴を咥えている。
その目線は投光器の光に照らされたデルフィニウムへ向けられていた。
彼女は飴を舐めながら、興味深そうにその姿を眺めていた。
◇
デルフィニウムのコックピット。
正面のモニターには向かい合うアルジェンティアの姿が映し出されていた。
あの機体とこれから模擬戦を行う。
そう考えると、自然と体に力が入った。
イチゴはそんなヒロの様子に気づいていた。
「ヒロは繋がることだけ意識して。あとはアタシがなんとかするから」
その声は、優しかった。
同時に力強さもあった。
ヒロはイチゴへ視線を向ける。
「……わかった」
短く答える。
そして、ゆっくりと呼吸を整えた。
吸って、吐いて。
もう一度、深く息を吸う。
操縦桿を握る手の力を、少しだけ緩める。
イチゴもまた、目を閉じた。
自分がヒロを支える。
今はそのことだけを考えよう。
そう心に決めた。
◇
一方、グラジオラスのコックピット。
「……ふぅぅ……」
クロが大きく息を吐いていた。
両手を操縦桿に添えたまま、ゆっくりと肩の力を抜く。
(……緊張するなぁ)
いつものように気楽に考えようとしても、胸の奥は少し落ち着かなかった。
目の前にはアイリスがいる。
ツグミの乗るフランドール。
かつては一緒にフランクスへ乗ろうとした相手が、今は模擬戦の相手として向かい合っている。
そのことが、何だか不思議だった。
もちろん負けるつもりはない。
ツグミだってきっと同じだろう。
クロはもう一度深く息を吸った。
その時、通信が開いた。
モニターに映し出されたのは、ツグミだった。
『おいクロ! 模擬戦だからって手は抜かねえぞ!』
「こっちだって! 全力で行くよ!」
クロは負けじと声を張った。
その返事を聞き、ツグミは楽しそうに笑った。
クロも自然と笑みを浮かべる。
さっきまで感じていた緊張が少しだけ軽くなった気がした。
対するアイリスもすでに準備を整えていた。
重厚な装甲に包まれた機体が、姿勢を低くしている。
グラジオラスはそれよりも細身で軽快な輪郭を持っていた。
二機の特徴はまるで正反対だった。
重量と火力を備えたアイリス。
機動力を武器とするグラジオラス。
今夜の模擬戦ではそのどちらが相手を上回るのか。
クロは正面のモニターを見据えた。
◇
地上では、ハチが端末に表示された各機の状態を確認していた。
四機とも模擬戦の準備は整っている。
接続状態。
機体の稼働状況。
訓練用装備の確認。
必要な項目に目を通すと、ハチは通信を開いた。
「……それでは、模擬戦開始」
その言葉が夜の戦場へ響き渡った。
─────
アルジェンティアの頭部が淡く輝いた。
機体フェイスにミクの表情が投影される。
すでに接続を完了していたアルジェンティアは軽やかに一歩を踏み出した。
そして、まるで相手を挑発するかのようにその場で小さく跳躍する。
着地と同時に、手にした訓練用スティックを構えた。
『こっちはいつでも行けるぜ!』
ゾロメの声が響く。
イチゴは相手の動きに気を取られまいと意識を集中させた。
「ヒロ、集中して」
「……ああ」
ヒロは操縦桿を握り直した。
そして、ゆっくりと目を閉じた。
二人の意識が、機体を通じて重なり始める。
(大丈夫……アタシだって、ヒロの力を引き出せる……!)
イチゴは自分へ言い聞かせる。
大丈夫。
自分はこれまでの訓練で高い数値を出してきた。
だから、ヒロともきっと──
(この感覚……イチゴの意識の中に入っていく……!)
ヒロの意識が深く沈み込んでいく。
目に見えるものでも、手で触れられるものでもない。
けれど、確かに何かがつながっていた。
他人の存在が自分の内側へゆっくりと入り込んでくる。
それは今まで感じたことのない不思議な感覚だった。
イチゴもまた、ヒロの存在を感じ取っていた。
(大丈夫、このまま……!)
焦らない。
無理に引っ張らない。
ただ、相手の存在を受け入れる。
そのことだけに集中する。
やがて意識の深いところで、確かな手応えがあった。
(捕まえた……!)
その瞬間。
ポジティブパルスとネガティブパルスが同調し、モニターに表示された数値が跳ね上がる。
ホログラムのツノが浮かび上がり、機体の顔にイチゴの表情が投影される。
起動には成功した。
しかし。
ほんの一瞬だけ。
デルフィニウムの瞳をノイズが走った。
だが、それはすぐに消えた。
正面で構えていたアルジェンティアはその異変に気づかなかった。
「おいおい……マジかよ……!?」
ゾロメは思わず目を見開いた。
本当にヒロとイチゴが接続できてしまった。
その事実が信じられなかった。
「やった……!!」
一方、ヒロは歓喜の声を上げた。
胸の奥から熱いものが込み上げてくる。
乗れた。
本当に乗れた。
ゼロツーだけではない。
イチゴとも、フランクスを動かすことができた。
その喜びが全身を駆け巡った。
地上でも驚きの声が上がっていた。
「すげえ!」
「本当に動いた……!」
仲間たちが、次々と顔を見合わせる。
中でもゴローは嬉しそうに拳を握った。
「やったな、ヒロ……!」
自然と笑みがこぼれる。
幼い頃から一緒に過ごしてきた親友。
そんなヒロともう一度フランクスへ乗ることができた。
そのことが心から嬉しかった。
「でも……問題はこれからよ」
ナナが、静かに呟いた。
その表情にはまだ安堵の色がなかった。
起動できたことと、安定して操縦できることは違う。
本当に確かめなければならないのは、ここからだった。
◇
同じ頃。
グラジオラスとアイリスも、すでに接続を完了していた。
「…………」
クロは、目の前のアイリスを見つめていた。
操縦桿を握る手に自然と力が入る。
ツグミもまた、グラジオラスから視線を逸らさなかった。
二機の手にはそれぞれ訓練用のスティックが握られている。
普段使用する武装ではない。
しかし、巨大な機体が振るえば、それだけで十分な威力を持つ。
二機は構えた。
投光器の光が装甲の表面に反射する。
風が吹き抜ける。
その中で、互いに相手の出方を窺っていた。
それはまるで、嵐の前の静けさだった。
◇
デルフィニウムのコックピットでは、ヒロがゆっくりと目を見開いていた。
操縦桿を通じて独特の脈動が伝わってくる。
「……!!」
その感覚に、思わず息を呑んだ。
覚えがあった。
あの時。
ストレリチアへ乗った時と同じ感覚。
「覚えている……この感覚だ……!」
思わず声が漏れた。
モニターに、イチゴの顔が映し出される。
彼女は、自信に満ちた笑顔を浮かべていた。
「行くよ、ヒロ!」
「ああ!」
ヒロは力強く頷いた。
デルフィニウムがゆっくりと動き始める。
巨大な足が地面を踏みしめた。
訓練用スティックを構えながら、アルジェンティアへと歩み寄っていく。
ゾロメはその姿を睨みつけた。
ヒロが動かしている。
自分が認めたくなかったことが、目の前で起きている。
「上等だこらァ!!」
叫び声とともにアルジェンティアが踏み込んだ。
巨大なスティックが横一文字に振り抜かれた。
風を切る音が響く。
その一撃はデルフィニウムの胴体を捉えるはずだった。
「なにっ!?」
手応えがない。
ゾロメは目を見開いた。
避けられたのか。
そう思いすぐに正面を見る。
そこで、奇妙な光景が目に入った。
デルフィニウムが崩れ落ちかけていた。
手にしていたスティックを地面へ突き立て、どうにか倒れるのを防いでいた。
関節が重苦しい音を立てる。
まるで、機体の中から力が抜けてしまったかのようだった。
地上で見上げていたゼロツーはその姿を見つめ、口元に小さな笑みを浮かべた。
どこか、予想していたことが起きたとでも言うような表情だった。
「なんだ?」
ゾロメが呟く。
「止まった?」
ミクも不思議そうに顔をしかめた。
デルフィニウムは動かない。
いや、動けないのだ。
「そんな……なんで……ッ!?」
イチゴは必死に体を動かそうとしていた。
しかし、機体が応えない。
先ほどまで軽く感じられたデルフィニウムの体が急に重くなっていた。
まるで、全身が鉛に変わってしまったかのようだった。
イチゴはさらに力を込めが、何も変わらない。
(……嘘……)
それどころか、ヒロの存在が遠ざかっていく。
先ほどまで確かに感じられた意識。
重なり合っていたはずの感覚。
それらが少しずつ薄れていた。
まるで、つないでいた手が指先から解けていくように。
(……待って……!)
イチゴは必死に意識を集中させた。
離さない。
もう一度、コネクトし直さなければ。
そう思えば思うほど、焦りが大きくなる。
「こんなのって……ッ!」
このままでは完全にコネクトが切れてしまう。
一度、落ち着かなければ。
そう考えたイチゴは通信を開いた。
「ちょっとタイム! 3分待って!」
「「はあ!?」」
ゾロメとミクの声が見事に重なった。
「ちょ、何勝手に──」
ミクが文句を言いかけたが、時すでに遅い。
デルフィニウムのフェイスにノイズが走る。
ふっ、と光が消え機体が完全に沈黙した。
◇
もう一つの模擬戦場では、激しい衝突音が響き渡っていた。
グラジオラスとアイリス。
二機のフランドールが正面から激突していた。
「うおぉぉぉおおッ!!」
ツグミの咆哮が通信を通じて響く。
アイリスが地面を強く蹴った。
重量級の機体とは思えない勢いで間合いを詰める。
狙いはグラジオラスの胴体。
強烈な一撃が横薙ぎに振るわれた。
しかしクロは、瞬時に反応した。
グラジオラスの上体がわずかに後方へ逸れる。
ほんの少し。
必要最小限の動きだった。
巨大なスティックが機体の正面を通り過ぎる。
風圧が装甲の表面を撫でていった。
(……今!)
クロはすぐに反撃へ移った。
「たああッ!!」
グラジオラスの腕が鋭く振り抜かれる。
しかし、ツグミも黙ってはいなかった。
アイリスがスティックを立てて受け止める。
二本の巨大な棒が激しくぶつかり合った。
火花が散る。
金属同士が擦れ合う音が響いた。
「おらああああ!!」
ツグミが力を込める。
アイリスの腕がじりじりと前へ押し出される。
重量級ならではの強靭な力。
クロはその圧力に思わず目を見開いた。
「わあああああ!?」
グラジオラスが大きく弾き返された。
機体が地面を滑るように後退する。
クロは慌てて体勢を立て直そうとする。
しかし、ツグミはその隙を見逃さなかった。
「くらえッ!!」
アイリスがさらに踏み込む。
スティックを連続して振り抜いた。
重い攻撃が次々とグラジオラスへ迫る。
「こんの〜!」
クロは歯を食いしばった。
グラジオラスの体をひねる。
右へ、左へ。
そして後方へ。
巨大なスティックが、紙一重で装甲のそばを通り過ぎる。
一撃でもまともに受ければ体勢を崩される。
そんな緊張感が全身を駆け巡った。
けれど、不思議と怖くはなかった。
相手の動きが見える。
どこから攻撃が来るのか、何となくわかる。
そして、グラジオラスが自分の意思に応えてくれる。
(……いける!)
クロは最後の一撃を避けた瞬間に機体を反転させた。
ツグミの視界から、一瞬だけグラジオラスの姿が外れる。
「なッ……!?」
その隙を逃さずグラジオラスのスティックがアイリスの頭部を捉えた。
「ぐッ……うう……!」
コックピットへ鈍い衝撃が伝わる。
ツグミは思わず顔をしかめた。
しかし、すぐに目を開く。
「ッ!」
正面を見据える。
そこには、すでに距離を取ったグラジオラスがいた。
軽やかなバックステップ。
そして、再び構え直した姿勢。
クロはこちらの動きを窺っていた。
ツグミは小さく笑う。
「やるな……!」
クロも負けじと笑う。
「そっちもね……!」
その声には楽しさが滲んでいた。
互いに手を抜いていない。
本気でぶつかり合っている。
それが何よりも嬉しかった。
◇
薄暗くなったデルフィニウムのコックピット。
「なんで急に……!? 動け、動けッ!!」
ヒロは必死に操縦桿を動かしていた。
しかし、何の反応もない。
先ほどまで感じられた脈動が、消えてしまっていた。
「くそッ……こんなはず……! あの時は、動かせたのに……ッ!」
ヒロは歯を食いしばった。
動かせたはずなのに。
確かにあの時はストレリチアを動かした。
さっきもデルフィニウムを起動できた。
それなのに。
どうして今は動かないのか。
ヒロにはわからなかった。
一方、イチゴも荒い呼吸を繰り返していた。
接続が切れたことで、体から力が抜けている。
それでも、彼女は何とか姿勢を整え、ヒロへ振り向く。
「……どうしたの?」
「わからない……急に……!」
ヒロは焦りを隠せなかった。
イチゴはその表情を見つめ、小さく問いかける。
「……私のせい?」
その声はかすかに震えていた。
自分がうまくつながれなかったのだろうか。
自分ではヒロの力を引き出せないのだろうか。
そんな不安が胸の奥で膨らんでいた。
ヒロはすぐに答えられなかった。
「違う……と思う……」
弱々しい返事だった。
イチゴは唇を結ぶ。
そしてもう一度尋ねた。
「……アイツと乗った時と、何が違ったの?」
ゼロツーと乗った時。
あの時と今。
何が違うのか。
それがわかれば、もう一度動かせるかもしれない。
「それも、分からない……! 覚えてないんだ……ッ!」
しかしヒロは苦しそうに答えた。
焦りばかりが募っていく。
せっかくのチャンスなのに。
このままではまた失敗してしまう。
イチゴはそんなヒロを見つめた。
そして、静かに声をかける。
「落ち着いて。ゆっくり……何か思い出すかもしれない」
「……」
ヒロは、あの時を思い出す。
ゼロツーと、ストレリチアへ乗った時のこと。
叫竜がいた。
自分は何もできなかった。
ゼロツーは怪我をしていた。
それでも笑っていた。
赤いツノ、長いピンク色の髪、血に濡れた姿、自分の手首を掴んだあの手、コックピットへ引き込まれた時の感覚、近づいてきた顔。
そして、唇に触れた──
「……キス……」
ヒロが小さく呟いた。
「?」
イチゴが眉をひそめる。
「……キス、かもしれない」
「……きす? なにそれ」
イチゴは疑問を口にした。
聞き慣れない言葉だった。
ヒロもその意味を詳しく知っていたわけではない。
ただ、あの時ゼロツーがしたことを、思い出したのだ。
「口と、口をくっつけたんだ。そしたら眼の前が光って、それで……」
「…………」
イチゴは、数秒ほど固まった。
口と口をくっつけた。
その言葉を、頭の中で繰り返す。
「……なにそれ。あの状況で、そんなことしてたんだ」
イチゴの声が低くなった。
その目には、明らかな怒りが浮かんでいた。
ヒロは慌てて首を振る。
「俺がしたんじゃない! 乗り込んだ途端、向こうからいきなり……!」
しかし、イチゴはそっぽを向いてしまう。
ヒロは困ったように口を開く。
「俺にはそれが何か分からなかったけど……ゼロツーは『特別なことだ』って言ってたんだ」
その言葉にイチゴは完全に黙り込み、さらに深く顔を背けた。
「…………」
コックピットに深い沈黙が落ちる。
ヒロはどうすればいいのかわからなかった。
自分はただ思い出したことを話しただけだった。
それなのに、イチゴを怒らせてしまったらしい。
しかし、なぜ怒っているのかは、よくわからなかった。
「……はぁ」
小さなため息が聞こえた。
イチゴがゆっくりと立ち上がり、ヒロの正面へ移動した。
「……わかった。するよ」
「え……?」
ヒロは驚いたように顔を上げ、呆気に取られた。
何を言われたのか、一瞬理解できなかった。
イチゴは視線を少し彷徨わせる。
その頬には、わずかに赤みが差している。
それでも、決意を固めたように口を開いた。
「……恥ずかしいから、目は閉じてて」
「ちょ、ちょっと待って……!」
ヒロが慌てて声を上げる。
しかし、イチゴは引かなかった。
「しなきゃ動かないんでしょ。……そのためだったら、これくらい、大したことないよ」
その声には強い意志があった、だがその肩はかすかに震えていた。
イチゴはゆっくりと顔を近づける。
ヒロの顔が、すぐ目の前にあった。
こんな距離で見つめ合ったことなどほとんどない。
心臓が激しく鳴っている。
(……!)
思わず顔を離しかける。
けれど、ここで逃げるわけにはいかなかった。
ヒロのため。
フランクスを動かすため。
そう自分へ言い聞かせる。
「イチゴ、お前……震えて……」
ヒロが心配そうに口を開いた。
「黙って」
イチゴは短く言った。
手を伸ばし、ヒロの目を覆った。
ヒロの視界が暗くなる。
次の瞬間。
二人の唇が、静かに触れ合った。
◇
地上ではアルジェンティアが動かないデルフィニウムを見下ろしていた。
「ねえ、そろそろ三分経ったんじゃない?」
ミクが不満そうに口を開く。
待ち始めてから、もう十分な時間が経っていた。
ゾロメも苛立ちを隠せなかった。
「だよなあ、これ以上待つ義理もねえ」
そう言って操縦桿を握り直す。
アルジェンティアがゆっくりと歩き始めた。
一歩ずつ、デルフィニウムへ近づいていく。
「悪いけど……やらせてもらうぜ」
視線の先には、動かないデルフィニウムがいた。
◇
一方、その隣では激しい金属音が夜の荒野へ響き渡った。
グラジオラスとアイリス。
二機のフランドールが再び激しく衝突していた。
すでに何度目かもわからない鍔迫り合い。
互いの装甲には細かな傷が刻まれている。
スティックの表面にも衝突の跡がいくつも残っていた。
「……はぁ……ッ!」
クロは荒い息を吐いた。
舐めていた訳では無いが、思っていた以上にツグミは強かった。
アイリスの一撃は重い。
まともに受ければグラジオラスの体勢が簡単に崩されてしまう。
けれど、こちらには機動力がある。
相手の攻撃を避け、隙を突く。
その繰り返しだった。
一方、ツグミも息を荒げていた。
「……くッ……!」
グラジオラスの動きは速い。
しかも、クロは機体を動かすことにほとんど迷いがなかった。
まるで、自分の体を動かしているかのように、自然な動きで攻撃を避けてくる。
(……やっぱ、すげえな……)
ツグミは思わず笑いそうになった。
かつて同じフランクスへ乗ろうとした相手。
そのクロが、今は別の機体で自分と戦っている。
しかも、これほどまでに強い。
嬉しさと悔しさが胸の中で入り混じっていた。
しかし、勝負はまだ終わっていない。
(これで……決めるッ!)
ツグミは操縦桿を強く握った。
アイリスがぐっと腰を落とす。
そして、力任せにスティックを押し込もうとした瞬間。
グラジオラスの背部ブースターが激しく噴射した。
「ッ!」
ツグミはすぐに反応した。
先ほども、ブースターを使った急激な動きで体勢を崩された。
同じ手は二度も受けない。
アイリスのスラスターが点火する。
二機の推力が真正面からぶつかり合い、互いを押し返そうとする。
「このッ!」
クロは歯を食いしばった。
グラジオラスの出力が上がる。
アイリスも負けじと踏ん張る。
しかし、少しずつ押し込まれているのはアイリスだった。
(このままじゃまずいな...!)
正面からの押し合い。
このまま続ければ、機体の出力差で押し負ける。
ならば──
(別の手だ!)
ツグミは瞬時に判断した。
「だらあッ!!」
アイリスがスティックを押し込む動きを止めた。
左腕を振り抜き、鉄拳がグラジオラスの頭部へ叩き込まれた。
「うわあッ!?」
クロは予想外の衝撃に悲鳴を上げた。
コックピットが激しく揺れる。
モニターの映像が、一瞬だけぶれた。
体勢が崩れる。
その隙をツグミは逃さなかった。
アイリスがスティックを大きく振り上げ、渾身の力で振り下ろした。
「まだまだあ!!」
しかし、クロは諦めなかった。
グラジオラスの腕を伸ばし、振り下ろされるアイリスの右腕を掴み取った。
「なにッ!?」
ツグミが驚愕の声を上げた。
止められた。
あの体勢から反応してきたのだ。
しかし、クロの反撃はそれだけではなかった。
グラジオラスが、残る手でスティックを突き出す。
「くッ!」
ツグミもすぐに反応した。
アイリスの左手を伸ばし、そのスティックを掴み取る。
二機の動きが止まった。
互いの腕を掴み合う。
超至近距離。
どちらも簡単には動けない。
(あっぶねえ……)
ツグミは心の中で息を吐いた。
あと少し反応が遅れていたら、まともに一撃を受けていた。
しかし、その安堵が命取りとなった。
次の瞬間、アイリスの胴体へ強烈な衝撃が走った。
「がは…!?」
グラジオラスの膝が、真正面から突き立てられていた。
「ぐう......ッ!」
ツグミの体が大きく揺れる。
機体の重心が崩れた。
掴んでいた腕から力が抜ける。
その瞬間を、クロは見逃さなかった。
「うおりゃあああああ!!!」
グラジオラスがスティックを下方から振り上げた。
鈍く、重い衝撃音。
訓練用スティックがアイリスの顎部を捉えた。
アイリスの頭部が、大きく跳ね上がる。
巨体が仰け反り、背中から地面へ倒れ込んだ。
激しい土煙が舞い上がる。
「……はぁ……ッ、はぁ……ッ!」
クロは荒い息を繰り返す。
グラジオラスはスティックを構えたまま静かに立っている。
だが、倒れたアイリスが動く気配はなかった。
『293、模擬戦を続行するか?』
ハチの声が通信を通して響いた。
アイリスのコックピット。
ツグミは、暗い夜空が映ったモニターを見つめていた。
「はあ......はあ......」
肩で息をする。
全身に疲労が残っていた。
けれど、その表情は不思議と晴れやかだった。
全力で戦った。
手を抜いたつもりはない。
それでも、クロには届かなかった。
悔しかった。
けれど──
(……ほんっと、すげえよ)
ツグミは小さく笑い、静かに答えた。
「……いや、いい。降参する。俺の負けだ」
『293の降伏を確認。960の模擬戦を終了する』
その宣言が、夜の戦場へ響き渡った。
クロはしばらく呆然としていた。
「……!」
ぱっと表情を輝かせた。
勝った。
ツグミに勝つことができた。
クロは額に浮かんだ汗を拭った。
胸の奥から、嬉しさが込み上げてくる。
「……やった……!!」
すぐに周囲へ視線を向けた。
まだ、もう一つの模擬戦が続いている。
デルフィニウムとアルジェンティア。
その決着はまだついていなかった。
「あとは……向こうだけ……!」
クロはその方向へ視線を向けた。
そこには片膝をついて動かないデルフィニウム。
そして、その機体へ近づいていくアルジェンティアの姿が映っていた。
「……あれ?」
クロは首を傾げた。
何かがおかしい。
デルフィニウムが動いていない。
─────
デルフィニウムのコックピット。
静かな沈黙の中で、二人の唇が離れた。
イチゴは、少しだけ顔を伏せていた。
頬が熱い。
心臓が激しく鳴っている。
自分でも、どうしてこんなに緊張しているのかわからなかった。
けれど、今はそれどころではない。
イチゴはゆっくりと顔を上げた。
「……どう……?」
その声はわずかに震えていた。
ヒロは目を開けた。
「…………」
しかし、ヒロは力なく首を横に振った。
「何も……感じない。……だめ、みたいだ」
「……っ!」
イチゴの表情が凍りついた。
ダメ。
その言葉が、胸の奥へ重く落ちた。
(……どうして……)
やれることはやった。
ヒロが思い出したことを試した。
自分なりに頑張った。
恥ずかしさも、怖さも、全部押し殺した。
それなのに、何も変わらなかった。
イチゴは、膝の上で拳を握りしめた。
指先が震えている。
悔しかった。
ただ、悔しかった。
ヒロの力になりたい。
その思いだけは、誰にも負けないつもりだった。
けれど、思いだけではどうにもならない。
そんな現実を突きつけられた気がした。
その時だった。
突然、激しい衝撃がコックピットを襲った。
「!?」
アルジェンティアが、デルフィニウムへ足蹴りを叩き込んだのだ。
無抵抗の機体は簡単に体勢を崩した。
巨大な体が地面へ倒れ込む。
「おいおい、呆気ねえなあ〜ッ!」
ゾロメの声が通信を通じて響く。
勝ち誇った笑い声。
アルジェンティアが倒れたデルフィニウムへ近づいてくる。
そして、スティックを逆手に持ち替えた。
「やっぱりこの俺様が最強ってことだな! なんなら、そのデルフィニウムにも俺様が乗ってやってもいいんだぜぇ!?」
『はあ!? ここに来てまたナンパぁ!? あんたねぇ、いい加減にィ……!』
ミクの怒声が響く。
しかし、ゾロメはまるで聞いていなかった。
スティックを両手で高く振り上げる。
「喰らいやが──」
振り下ろそうとした、その瞬間。
──ガコンッ!!
「ッ!?」
アルジェンティアの腕が突然止まった。
まるで、何かに引っかかったかのようだった。
ゾロメは目を丸くした。
操縦桿を動かす。
しかし、機体がうまく反応しない。
「ん……?」
地上で見ていたフトシが首を傾げた。
隣では、ココロが両手で顔を覆っていた。
倒れたデルフィニウムへスティックが振り下ろされるのを見るのが、怖かったのだ。
しかし、いつまで経っても衝撃音が聞こえない。
「あれ?」
ココロはそっと手を離した。
そこには、奇妙な姿勢で固まったアルジェンティアがいた。
ハチはその様子を冷静に見つめていた。
そして、淡々と口を開く。
「フランクスの操縦において、パートナーとの信頼関係は直接操作感度に影響する。このバランスが破綻すれば──」
「ど、どうしたんだ急に……!?」
ゾロメの焦った声が響いた。
操縦桿を何度も動かすが、アルジェンティアは思うように動かない。
それどころか、機体のバランスが大きく崩れ始めた。
巨大な体が前方へ傾く。
アルジェンティアは倒れていたデルフィニウムの上へ重なるように倒れ込んだ。
ミクとゾロメの言い争いが、通信を通じて響いていた。
一方、デルフィニウムからは何の反応もなかった。
ナナはすぐに通信を開いた。
「イチゴ、状況を報告して」
しかし、返事はない。
「……イチゴ?」
ナナの表情がわずかに険しくなる。
その少し後ろでは、ゼロツーが大きな欠伸をしていた。
まるで、退屈な劇を眺めているかのようだった。
『さっさと起き上がりなさいよ!』
『うっせえ! やってるっつーの!』
アルジェンティアのコックピットではミクとゾロメの言い争いが続いていた。
その時だった。
重苦しい関節音が、夜の戦場へ響いた。
アルジェンティアの下で、デルフィニウムが動き始めていた。
ゆっくりと、ぎこちなく。
まるで、何かに抗うように。
巨大な腕が地面を押す。
機体が無理やり体を起こそうとしていた。
ナナの顔色が変わった。
「だめよイチゴ! あなたが一人で動かすのは危険だわ!」
その声は普段の穏やかなものとは違っていた。
強い焦りが含まれていた。
デルフィニウムのコックピットでは、すでにイチゴが前傾姿勢をとっていた。
けたたましい警報音が鳴り響く。
モニターに警告表示が次々と現れていた。
接続状態は正常ではない。
機体の負荷も上昇している。
このまま動かそうとすれば危険なことは明らかだった。
涙が頬を伝う。
悔しかった。
ヒロをもう一度フランクスへ乗せてあげたかった。
彼の力を証明したかった。
自分ならできると。
そう信じていた。
しかし、何もできなかった。
動けなくなった機体の中で、失敗を突きつけられただけだった。
イチゴの唇が震える。
ヒロのため。
そう思っていた。
けれど、本当は自分もヒロと一緒に飛びたかった。
自分にも、彼を支えられるのだと信じたかった。
そのすべてが、今、崩れ落ちようとしていた。
イチゴは涙を流したまま顔を上げた。
「ちくしょおおおおおおお!!!」
絶叫がコックピットに響き渡った。
デルフィニウムのスラスターが激しく噴射した。
地上で見守っていた全員が目を見開く。
機体が強引に起き上がる。
イチゴの執念だけで、巨大な機体が動いている。
デルフィニウムはアルジェンティアの巨体を掴み、猛烈な勢いで走り始めた。
スラスターの噴射音が夜空に轟く。
アルジェンティアは抵抗する間もなく引きずられていく。
そして、デルフィニウムが向かった先にはプランテーションの巨大な外壁があった。
次の瞬間、二機のフランクスが外壁へ激突した。
凄まじい轟音が、夜の大地を揺るがす。
「きゃああああああっ!!」
ミクの悲鳴が響いた。
金属が軋む音。
装甲がぶつかり合う音。
そして、地面を震わせる衝撃。
二機はそのまま地面へ転がり落ちた。
濃い土煙が周囲へ広がり二機の姿が見えなくなる。
やがてアルジェンティアのフェイスモニターから、光が消えた。
「ゴホッ、ゴホッ……!」
地上では、舞い上がった砂埃にイクノたちが咳き込んでいた。
ナオミも口元を押さえ、顔をしかめる。
フトシは手に持っていたパンへ視線を落とした。
そこには薄く埃が積もっていた。
慌てて表面を払い落とす。
そんなフトシの横で、ゴローは軽く咳き込んだ。
そして、土煙の向こうを見つめながら、小さく肩をすくめた。
ナナも深いため息を吐いた。
「ほんと、無茶するわね……」
その表情には、安堵と呆れが入り混じっていた。
ハチはしばらく端末を確認していた。
そして、咳払いをする。
「……両者操縦不能により、016の模擬戦を終了する」
その声が、夜の戦場へ響き渡った。
模擬戦は終わった。
しかし、そこに勝利を喜ぶ声はなかった。
─────
倒れたデルフィニウムの内部。
そのコックピットには、重い沈黙が流れていた。
「……はぁ……はぁ……」
イチゴは荒い呼吸を繰り返していた。
ほとんど力が残っていない。
先ほどまでの激しい感情が、少しずつ遠ざかっていく。
しかし、胸の奥に残った悔しさだけは消えなかった。
ヒロも呆然と座っていた。
結局、動かせなかった。
最初は確かにつながった。
あの感覚も蘇った。
それなのに途中で、すべてが途切れてしまった。
ヒロは唇を結び、ゆっくりとイチゴへ顔を向ける。
彼女は俯いていた。
肩が小さく震えている。
ヒロは言葉を探した。
けれど、何を言えばいいのかわからなかった。
自分のせいで、イチゴに無茶をさせてしまった。
その思いが胸の奥を重くした。
「……ごめん……」
小さく、謝った。
その声はかすれていた。
イチゴはしばらく答えなかった。
俯いたまま、拳を握りしめている。
「……謝んな……」
そして震える声で呟いた。
ヒロは何も言えなかった。
イチゴは頬を伝う涙を拭おうとした。
けれど、その手は途中で止まった。
イチゴは唇を噛んだ。
ヒロを責めたいわけではない。
彼が悪いわけではない。
むしろ、謝ってほしくなどなかった。
ただ、自分が悔しかった。
あれほど強く願ったのに。
あれほど必死だったのに。
ヒロの力を引き出すことができなかった。
自分にはできると信じていた。
けれど、できなかった。
その事実が、何よりも苦しかった。
イチゴは顔を伏せ、ヒロには届かないほど小さな声で呟く。
「……ヘタクソ……!」
その言葉は、ヒロへ向けられたものではなかった。
自分自身への悔しさだった。
もっと、うまくできたはずなのに。
もっと、何か方法があったはずなのに。
もっと、ヒロの力になれたはずなのに。
そんな思いが、胸の奥で渦巻いていた。
イチゴの頬をもう一筋の涙が伝った。
ヒロは、その姿を見つめていた。
何も言えなかった。
何もできなかった。
ただ、静かに俯くことしかできなかった。
コックピットの外では、投光器がまだ夜の荒野を照らしていた。
遠くには、模擬戦を終えたグラジオラスとアイリスの姿がある。
一方は、互いの全力をぶつけ合い、勝敗を受け入れていた。
もう一方は、つながりかけた心が途切れ、その苦しさを抱えていた。
同じ夜、同じ場所。
そこに残された感情は、あまりにも違っていた。
勝利の喜び。
敗北の悔しさ。
そして、どうしても届かなかった想い。
四機が静まり返る中、夜の風だけが、荒野を吹き抜けていった。
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