あれから夜が明け、13都市に新しい朝が訪れた。
柔らかな朝光が差し込むフランドールチームの女子部屋では、まだ一台のベッドから小さく規則正しい寝息が聞こえていた。
「……クロ。起きて、クロ」
イクノがベッドの傍らに立ち、布団にくるまって丸くなっているクロの肩を、一定のトーンでぐいぐいと揺する。しかし、クロは「うう……あと5分……」とモゴモゴ呟くだけで、毛布をさらに頭まで被り直そうとした。
「もう5分は3回目よ。いい加減に起きて」
呆れたようにため息をつきながら、イクノはさらに強めに肩をゆすり続ける。
その様子を、少し離れた鏡の前で見守っていたのはナオミだった。ナオミはすでにベッドから出ており、フランドールチームの制服へと袖を通し、着替えている最中だった。
「ふあぁ……ん……」
イクノの粘り強いノックに根負けしたのか、クロはようやく毛布から顔を出した。寝癖で髪を少し跳ねさせ、眠たそうに細めた目を何度もこすりながら、のそりと上半身を起こす。
その様子を見て、上着のボタンを留め終えたナオミが、振り返って声をかけた。
「ふふ、やっと起きた?」
「あ……ナオミ……イクノ、おはよう……」
まだ半分夢の中にいるような、ぼんやりした声で挨拶を返すクロ。しかし、寝ぼけて頭が回っていないはずなのに、クロの視線は自然とナオミの顔へと向かった。そして、思い出したように、少し心配そうな、けれどどこまでも純粋な瞳でナオミを見つめる。
「……ナオミ。昨日の夜、ちゃんと……ぐっすり、寝れた?」
自分が寝ぼけていることすら忘れて、真っ先に自分の体調を気遣ってくれた相方の言葉。
ナオミは一瞬、驚いたように瞬きをした。前夜、ヒロのことで、そしてナインアルファの残した不穏な噂のことで、心が完全にすり潰されそうになっていた自分。けれど、隣で頭を預けてくれたクロの温もりが、確かにナオミの張り詰めていた何かを優しく解きほぐしてくれていた。
ナオミの唇から、ふっと自然な、昨日までの強がりではない本物の微笑みがこぼれ落ちる。
「うん。……クロのおかげで、すっごくよく寝れたよ。ありがと」
「へへ、そっか。よかったぁ……」
ナオミの穏やかな表情を見て安心したのか、クロは嬉しそうにふにゃりと顔を綻ばせる。二人の間に流れる、言葉にしなくても伝わる特別な空気。
そんな二人の様子を扉の前から静かに見つめていたイクノは、それ以上はからかうことも、邪魔をすることもしなかった。ただ、いつも通りの淡々とした声で、部屋の自動扉へと歩きながら告げる。
「ナオミがいるなら安心ね……クロ、早く着替えて。そろそろ朝食の時間だよ。遅れるとゾロメたちが騒ぐから、私は先に行ってるわね」
そう言い残して、イクノは静かに部屋を出ていった。
「あ、待ってよ!すぐ着替えるからー!」
クロは慌ててベッドから飛び出し、制服へと手を伸ばす。
窓から差し込む朝の光の中で、少女たちの新しい、そして決定的な一日が静かに始まろうとしていた。
─────
朝食を終えてから数時間が経過し、両プランテーションの結合(キッシング)がいよいよ本格化する中、第13部隊とフランドールチーム、整理された第26都市のパラサイトたちは一同にブリーフィングルームへと集められていた。
室内の明るさが一段と落され、中央の大型ホログラムディスプレイが青白い光を放つ。その前に立つハチが、淡々と冷徹な声で現状を告げた。
「──現在、キッシングの反応に引き寄せられた叫竜の群れが、こちらに向かって急速に接近している。距離、およそ600メートル」
ハチが端末を操作すると、画面に無数の青い光点が映し出された。
「数は……およそ200から250。今後も数は増え続けると予想される」
その圧倒的な光点の数とハチの不穏な予測に、第26部隊のリーダーである090が、険しい表情のまま小さく呟いた。
「……今回は多いな」
数々の修羅場をくぐり抜けてきた彼にそう言わしめるほどの異例の事態。
「に、200……!? なんて数だ……!」
ツグミがその圧倒的な数字に目を見開き、驚きと戦慄を隠せない様子で声を漏らす。隣にいたクロも、思わずごくりと息を呑んだ。しかし、ハチは彼女たちの動揺を気にする風もなく、作戦の本題へと進めた。
「どれだけ急いでも、叫竜が到着するまでにキッシングを終わらせることは不可能だ。よって、防衛ラインを設けて敵を足止めする。26部隊を前衛として展開。13部隊はバックアップとして後方に控えてもらう」
「え、バックアップ……!?」
ハチの冷徹な宣告に、真っ先にショックを受けたのはゾロメだった。せっかくの合同任務で、自分たちが主役ではなく後ろに控えさせられるという事実に、不満げに顔を歪める。
すかさず、090が規律正しい、けれどどこか13部隊を見下すような冷たい声で補足した。
「かなりの乱戦になるだろうからね。連携の取りやすい仲間だけで確実に前線を維持したいんだ」
悪気があるわけではない。ただ効率と確実性を求めた結果の言葉だったが、ゾロメとミクは納得がいかないようだ。
「それって、私たちは足手まといってこと!?」
ミクが声を上げるが、すかさずハチが小さく咳払いをして、場の空気を強引に作戦の進行へと戻した。
「……話を続ける。今回の防衛作戦における最優先事項は、両プランテーションを繋ぐメインパイプの防衛である。ここを破壊されればキッシングは失敗し、両都市のエネルギーラインに甚大な被害が出る。──そこで、単機でも戦えるフランクスを配置することにした」
そのハチの説明に、090が怪訝そうに眉をひそめて尋ねた。
「単機でこの数を...?そんなフランクスがいるのですか?」
「ここには──ストレリチアを置く」
ハチが淡々とその機体名を口にした瞬間。
最前列にいたイチゴとナオミの顔が、一瞬にして険しくしかめられた。ヒロの身体の異常を確信し、あの機体に乗ることの危険性を誰よりも恐れている二人にとって、それは最悪の決定だった。
ストレリチアの名前が出た瞬間、それまで静かだった第26都市のパラサイトたちが一斉にざわめき立ち、部屋の空気が恐怖で凍りついた。リーダーの090にいたっては、目を見開き、額に冷や汗を浮かべてひどく激しく動揺していた。
「ストレリチアが……? なんで、ここに……」
その動揺の渦中、ブリーフィングルームの自動扉が静かに開き、ナナが二人の人物を連れて入室してきた。
ヒロ、あるいは──ゼロツーだった。
090の視線が、赤い角を持つ少女へと釘付けになる。彼の脳裏に、かつての凄惨な戦場と、彼女のパートナーとなったパラサイトたちの無残な末路がフラッシュバックしていた。090の唇が、ガタガタと震えを帯びる。
「コード002……!」
恐怖と憎悪が混じった090の呟きが、薄暗い部屋に小さく響く。
ハチは部屋に入ってきたナナに向き直ると、周囲のざわめきを無視して確認をとった。
「パパから許可は降りたか」
「ええ。ゼロツーのパートナーとして、ヒロにはストレリチアに乗ってもらいます」
ナナの明確な言葉が、イチゴとナオミの胸をナイフのように突き刺す。やはり、ヒロはあの少女と共に、また命を削る戦いへ向かってしまうのだと。
ハチは真っ直ぐにヒロを見つめ、言い含めるように告げた。
「今はこれが最善の策だ。頼むぞ」
向けられたハチの言葉に、ヒロは一歩前に出ると、自分の内に渦巻く不安をすべて押し殺すように、グッと拳を握りしめた。その表情は、自身の運命を受け入れるかのように、深く、強く引き締まっていた。
「……はい」
ヒロの短い、けれど決意に満ちた返事が、薄暗いブリーフィングルームに重く響き渡るのだった。
だが、その重苦しい静寂を破るように、割り込む激しい足音が響いた。
「すいません! 我々は、ストレリチアとは一緒に戦えません!」
一歩前に躍り出たのは、第26部隊のリーダー、090だった。その拳は固く握りしめられ、ハチを見つめる瞳には、明確な拒絶の光が灯っている。
しかし、ハチは表情一つ変えず、感情を排した声で淡々と突き放した。
「……作戦の変更はできない」
「しかし!」
090はなおも食い下がり、今度は周囲の大人たちへ助けを求めるように声を震わせた。
「そこにいる女は、味方のことを顧みない! あんな、戦場のすべてを破壊し尽くすような奴に、私たちの背中を預けることなど不可能です!」
吐き捨てるように叫ぶと、090は鋭い視線をゼロツーへと向けた。
「コード002……お前には、心当たりがあるはずだ!」
部屋中の視線がゼロツーへと集まる。だが、当の本人は爪先をトントンと床に打ち付け、視線すら合わせようとしない。それどころか、心底つまらなそうにしている。
「……何のこと?」
「お前……っ!」
その全く響かない態度に、090はついに声を荒らげた。
「二年前の共同戦線だ!あの時、 お前が無茶な行動をし、戦場をかき回したせいで、俺たち第26部隊は完全に孤立した……! 俺は……俺はあの戦いで、パートナーを失ったんだぞ!!」
激情に任せて叫んだ090は、激しい怒りと当時の悲しみが押し寄せたのか、大きく肩を上下させて荒い息を繰り返した。その場を支配する圧倒的な怨嗟の声。
それを聞いたイチゴは、自分のことのように胸を抉られ、スカートの裾を破れんばかりの力でギュッと握りしめた。やはり、ゼロツーの隣にいることは死を意味するのだと。そして、ナオミもまた、顔を真っ青にしながら「え……?」と、小さな戦慄の声を漏らした。ヒロがそんな恐レスな存在と共に戦おうとしている現実に、目眩を覚えるほどの恐怖を感じていた。
しかし──
そんな周囲の悲痛な空気を、赤い角の少女は一瞬で踏みにじった。
ゼロツーは退屈そうにふーんと鼻を鳴らすと、冷ややかな、どこまでも無関心な瞳で090を見据えた。
「ふーん。覚えてないな……弱いやつは死ぬ。それだけでしょ」
あっさりと、まるで明日の天気でも語るかのように言い放たれた言葉。
その瞬間、ブリーフィングルームは文字通り、絶句と驚愕によって凍りついた。ここにいるパラサイトたちは皆、あまりの冷酷さに誰一人として声を出すことができない。
イクノも同様だった。思わず息を呑み、拳を握りしめる。それは恐怖というよりも、ゼロツーのその人の命を虫のように扱う傲慢な発言に対する、憤りだった。
ふと、イクノは隣にいるクロが気になり、ちらりと視線を横に向けた。
驚き、怯え、あるいは自分と同じように怒っているだろう。そう思って見たクロの横顔に、イクノは微かな違和感を覚えた。
クロは──驚くでも、恐怖するでも、怒るでもなかった。
ただ、感情の抜け落ちたような、完全な無表情でゼロツーの姿をじっと見つめていたのだ。
そのどこか異様な様子に胸騒ぎを覚えたイクノは、クロの肩にそっと手を触れ、声をかけた。
「……クロ? どうしたの?」
「あ……」
イクノの体温に触れ、クロはハッと我に返ったように瞬きをした。 tender そして、自分の胸のあたりをそっと押さえる。
ゼロツーの言葉を聞いた瞬間、クロの心に広がったのは、今まで感じたことのないような、言葉にできないモヤモヤとした奇妙な感情だった。それが怒りなのか、悲しみなのか、それとも別の何かなのか、今のクロには全く分からなかった。
「……ううん、大丈夫だよ」
とっさに作った笑顔で返すクロだったが、その瞳の奥には、晴れない霧のような戸惑いが残っていた。
その間にも、ブリーフィングルームの緊張は破裂寸前まで膨れ上がっていた。
ゼロツーの侮辱的な言葉に、090が怒りのままに彼女へ向かって一歩を踏み出し、掴みかかろうとしたその時──
「──待ってください」
二人の間に、ヒロが滑り込むようにして立ちはだかった。
ヒロはゼロツーを背中に隠すように両手を軽く広げ、090の行く手を遮る。その表情には、ゼロツーを守るという強い意志と、同時に090の痛みを理解し、それを正面から受け止めようとする、痛々しいほどの誠実さが宿っていた。
「……ヒロ……!」
イチゴが悲痛な声をあげるが、ヒロは090の怒気に満ちた視線を真っ直ぐに見つめ返し、静かに、けれど毅然とした態度でその場を抑え込んだ。歴戦のパラサイトである090も、その少年が見せる尋常ならざる覚悟の眼差しに、一瞬だけ気圧されたように足を止める。
「ゼロツーは俺が制御します。ストレリチアのステイメンは、俺ですから」
「......そうか。だが気をつけろよ、その女は普通じゃない」
「...わかっています」
ヒロの覚悟を感じ、これ以上の問答は無意味だと悟ったのか、090は苦渋に満ちた表情で顔を背け席へ戻っていった。
その様子を見届けたハチが、ピシャリと告げる。
「──作戦開始まで32時間後。各自、休息を取り万全の状態で望めるように。ブリーフィングを終了する」
ハチの冷徹な号令と共にホログラムが消え、部屋に元の明かりが戻る。
しかし、コドモたちの胸に刻まれた決定的な亀裂と不穏な余韻は、消えることなく、これから始まる凄惨な戦場へと引き継がれていくのだった。