後悔は雪のように降り積もるけれど   作:○△□☆

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プロローグ
#1


 後悔は波のように押し寄せる。

 

 あのとき、なぜできなかったのか。こうすれば良かったのか。

 可能性という幾重にも広がる枝葉の中で、視野狭窄に陥りながら、これだと思って選び取った一枝を突き進む。

 やり直すことは不可能。

 

 これが人生。

 

 そうして、堆積した時間という重石は、仮にそれを壊して時間を遡る手段を持っていたとして、あらゆる人にとっての重石も同時に壊すことになる。

 

 ああ、それはなんという凌辱か。

 人の営み。その輝き。足掻きもがき苦しみ、その果てに掴み取った輝きの、存在したという痕跡さえ消し去って、実績も過程も消し去って、それを知覚することさえできないものへと貶める、その無慈悲さよ。

 

 幸いにして、既に堆積した人の理を空白で埋め直すことは叶わない。

 

 時は世紀末。科学の時代。

 人類による集合知は既に極点を超えている。

 

 かつて魔法と呼ばれてきた領域のおおよそを魔術へと貶めながら、神秘とともに世界の片隅に押しやりながら、人々は普遍的な知としての科学を手に入れた。

 

第一魔法、第二魔法、第三魔法、第四魔法、第五魔法。

 

 それらを魔法足らしめているものとは、科学という普遍知が際限なく突き詰められて行ったその先においても辿り着けないであろう、根源と密接に結び付いた概念の奔出であるから。

 

 

 西暦33年。主はエルサレム、ゴルゴダの丘にて根源へと還り、その際に盃に人類の抱えし罪を贖うべく、自らの血を注いだ。それが聖杯。

 そして世紀末。地は日本。

 いま、まさに第二の聖杯戦争が幕を開けようとしている。イエスの聖杯を模りし、大願成就を目的とした聖なる器が、根源へと至るための儀式へと転用されようとしている。

 

 その際に触れられる莫大な魔力は、副産物として、聖杯戦争を勝ち抜きし者に大願の成就を可能にするだろう。

 

 根源へ至るため。

 自らの威を示すため。

 そして、後悔をまさしくやり直すため。

 

 魔術師たちは、家の名を賭け、宿願の成就を求めて、聖杯に手を伸ばす。

 この世紀末に至るまで名を燦然と轟かせし七騎の英霊たちもまた、己の覇を争い、大願を聖杯に賭け、月夜に刃を輝かせ疾駆する。

 

 召喚されし英霊の数、現在5騎。

 聖杯戦争開始まで残り2日。

 

 英霊たちは、静かに待ち続けていた。

 その夜が訪れることを。

 生前の悲劇を、血をもって贖うために。

 

ーーーーーーーー

 

 生体の血や悲鳴、痛み。それらを対価に魔術を発動するのが黒魔術。

 我が家・沙条家は根源へ至る手段の方向性として、それを受け継いできた。

 

「大体、根源ってなんなんだって話……」

 

 誰も根源を見たことがない。

 どんな形をしているのかも、そもそも形があるのかもわからない。

 

「何でもできるように力ってことなのかな」

 

 根源へ至った者は姿を消すのだという。何でもできるはずなのに、どうして?

 

 パラパラとページを次々に飛ばす勢いで魔術書を繰りつつ、大体何が書いてあるのか意味もわからない。それを教えてくれたはずの人も、既に亡くなってしまった。

 魔術師として、それなりの歴史がある沙条の家の生き残り。それが、わたし。

 

「そもそも、むかし教えられたことの一つもできないんじゃ、話にならないよね」

 

 ガーデンの作業机にうつ伏せて、誰に対してというでもなく不貞腐れる。

 

 『鳩を屠殺する』という犠牲を以て魔術を発動する。

 これが小学生の時分。まだお父さんもお姉ちゃんも生きていた頃。お父さんから、言い含められた黒魔術の宿題だった。

 

 父はその言葉をわたしに残して、姉と共に、激動の聖杯戦争の中に散っていった。

 

「宿題をできない子っていうのは、先生からひどく怒られ、指導されるものだけど、その点わたしには魔術の先生がいなくなってしまって、怒られることも、教えてくれることもない。わたしは、いったい、何のためにこんなことを」

 

『出来損ない。お前が消えるべきだった。この凡人めこの凡人め』

 

 いつの記憶なのか定かではない。ただそんな言葉がわたしにかけられたという記憶がこびりついて離れない。

 お父さんが、わたしの才能のなさを見限ったんだ言葉なんだと思う。

 

「わたしは。わたし、だって」

 

 俯けた顔。目だけ横に流せば、いくつかの鳩たちは鳥籠の中でざわめいている。

 

 『鳩を屠殺する』

 それがわたしの、沙条の魔術師として階段を上がるためのイニシエーション。

 

 ざわめく鳩たちの姿には、ひどく生命の揺らめきを感じさせられる。その鳩たちが無惨にナタで首斬られて、断面から血を噴き出す光景を思い描く。

 堪らず吐きそうになる。

 

 なんとか胃から込み上げそうになるものを抑え込む。身体の端から、背筋までの、まさに全身から血の気が失せるような冷たい感覚から元に戻ってこれるまで、努めて深呼吸を繰り返した。

 

 いま、自分は据わった目をしていると思う。

 

「でも、やらなきゃ」

 

 決意して鳥籠に手を伸ばして、1羽の鳩を手に取る。鳩は掴まれた途端に暴れ回って、わたしの手のひらには血の通った生き物の感覚が直接的に伝わってくる。

 もう片方の手には冷たくひんやりとしたナタの柄を掴む。

 

 わたしは作業台の上の板に、白い鳩を押し付けて、右手を振り上げる。

 鳥籠の鳩たちがわたしを貫くように視線を向けている気がした。冷や汗が背筋を伝った。

 だから、思考を意識的に放棄して、勢いのまま、振り下ろす。

 既に腕からは感覚が失われていた。

 右手に衝撃が伝わったとき、目を薄くしてちらっと作業台の様子を確認すると、ナタは鳩とは別の、作業台に乗せた板の端の方に突き刺さっていた。

 

「また、できなかった……」

 

 『この凡人め』という言葉が頭の中をリフレインする。情けなくて、視界が歪む。

 鳩はいつしか立ち上がって、不思議そうにわたしを見つめていた。

 

 くるっぽー。

 気の抜けるような鳩たちの鳴き声が、作業台から、鳥籠の中から一斉に響き渡った。朝の陽光が曇り空からようやく抜け出して、ガーデンで果たされる直前だった罪を暴く。

 鼻がツンとして、顔中が熱くなって、わたしは耐え切れず、作業台の前から立ち去った。

 

 

 

 

 

「…じょ…ん。さ…さ。さじょ…ん。………沙条さん!」

「あ、は、はい!」

「ぼうっとしてたでしょう。もう授業中なんですからね。ちゃんとしなさい」

「え。あ、はい。すみません」

 

 気がつけば教室。時計は9:34を指している。

 記憶が抜け落ちていた。

 ガーデンを逃げ出した記憶は、曖昧だけどある。けれど学校に辿り着くまでの間がすっぽり抜けていた。

 

 8年前から時折あったのだ。

 ショックなことがあると、少しの間記憶が抜けていること。

 魔術的な作用かと勘繰ったこともあったが、解離性健忘という一般的な症状だと結論づけた。

 

 お父さんもお姉ちゃんも亡くなり、魔術世界への伝手を全て失ったわたしとしては、魔術的な症状・つまりは呪いに対する治療師のような存在を頼ることはできなくなっていた。

 

 色々と調べるうちに、脳の病気とでもいうか、ショックなことがあると心を守ろうとして一時的に記憶を思い出せないようにロックをかけてしまうことが起こり得ることがわかった。

 

 その手の治療は精神科にかかるのが一般的ということだった。

 少し前に精神科の虐待問題などがテレビのワイドショーで盛んに取り上げられたということもあって、病院に通うことも怖くて、放置している。

 

 日常生活に支障はない。

 時折こうして怒られることがある、というだけだ。

 

[うっわー。また、沙条さん怒られてる]

[何あれ。不思議ちゃんっていうのかな]

[あれで頭が良くて、愛想も良ければ良いのに、陰気な感じだものね]

 

 隠してるつもりか、いっそ聞かれても良いくらいで話しているのか。

 悪口、丸聞こえだって……。

 くすくすと笑い声が聞こえる。嘲りの要素の色濃い笑いだった。

 

「というか、沙条さん。顔色悪い?体調悪いなら保健室行ってなさい」

「すみません。少し、保健室に行ってきます」

「担任の早川先生にはわたしから言っておくから」

「ありがとうございます」

「無理して学校来るくらいだったら、欠席したっていいのよ」

「はい。ありがとうございます」

 

 教室の後方の扉から廊下に出る直前、

 

「いいなーうらやまし」

 

 小言が聞こえた。

 

 廊下はざわめきの抑えられた世界だった。扉、壁越しに授業の声が漏れ出しているけれど、一般的な高校生たちからは隔てられた空間に自分は存在しているのだと、思った。

 廊下の窓から外を見遣ると、学校の近所の住まうご老人だろうか。ゆっくりと足を進めて、目的地を目指していた。

 

 視界がぐにゃりとした。何かが自分には中途半端な気がした。そしてわたしはそれに甘んじている。

 ふらふらと廊下を歩いた。

 

 保健室は1階の昇降口の隣のあたりに位置していた。

 引き戸を開けると、青色の髪をした白衣を纏った女性が、目をぱちくりとさせ、それから安心させるような笑顔を向けながら、オフィス式の無骨なスツールから立ち上がり、戸に立ち尽くすわたしの手を取った。

 

「今日はどうしたの?……あら、随分と体調が悪そうね。ちょっと良いかしら?」

 

 そう言って手のひらをわたしのおでこに当てた。

 

「ああ、もう。高熱じゃないの。どうして学校に来ちゃったの?ほら、ベッドで寝ちゃいなさい」

 

 子どもの頃みたいに手を引かれて、白いベッドに座らせられた。

 

「はい、体温計」

「あ、はい」

 

 体温計を測っていると、養護教諭の先生は、壁にかけられたクリップホルダーを持ってきて、ベッドの側までスツールを転がしてきて腰を掛けた。

 

「えーっと。ごめんね。名前は?」

「沙条です」

「沙条……?」

「沙条、綾香です」

 

 質問を繰り返しながら、クリップホルダーの用紙に情報を書き込んでいく。

 

「クラスはどこだったかしら」

「2年のC組です」

「うんうん」

 

 そのときちょうど体温の測定が終わった。何も言わずに手をこちらに向ける先生に、体温計を渡した。

 

「わっ。38.7度。まだまだ寒いし、気をつけないとダメよ〜?今日はもう早く帰って、あったかくして寝るのよ?」

「はい」

「早退……でいいんだけど。少し、ここで寝ていく?」

「いいですか?」

「ええ。ここだとわたしもいて休みにくいなら帰ってもいいし、何なら少し外に出ててもいいのよ」

「そこまではしていただかなくて大丈夫です。それじゃあ少し、休ませてもらいますね」

「ええ。何かあれば声をかけてね」

 

 先生はゆっくりとレールで音を立てないように、ベッドを囲うカーテンを閉め切った。

 保健室のベッドは固くて、ある程度休めたら出て行こうと思ったのだけど、不思議なことにぐっすりと休めて、起きたときには頭がすっきりとしていた。

 

 長く寝ていたような気がした。カーテンに覆われていて、今の時間は読めないけれど、既に午後は回っている気がした。

 上体だけ起こした。衣擦れの音が僅かに立った。

 

「もう起きたの?」

 

 気づかうような静かな声だった。

 

「はい。ぐっすりです」

「そう。ふふ、よかった」

「最近は家でもあまり眠れなかったので、本当に久しぶりに眠れました」

 

 カーテンが開いた。

 どこか満足気な表情の先生だった。

 

「実は、これ!お香を焚いてみたの。保健室ってベッドが固いじゃない?リラックスできないわよねってことでちょっと焚いてみたのだけど、効果があったみたいね」

「へー」

 

 お香、かあ。

 魔術的な触媒にも使われる一方で、陶酔感を容易に得られるという点から非魔術師にとっても身近なもの代表例だ。

 

「はい、これ」

 

 体温計を再度手渡される。今度はもう36.8度だった。

 

「よく眠れたおかげですね」

 

 ふふ、と笑う。すると、おや、とわたしの顔を先生が覗き込んでくる。

 

「沙条さん、目が悪いの?」

「はい」

「日常生活に支障をきたすくらい?無くても歩ける?」

「支障を来たすほどでは。ものが曖昧に見えるってくらいです」

「ちょっと外してみて?」

「え、なんでですか?」

「お願い!タダでお香を焚いてあげたんだから」

「タダって、それは」

 

 ツッコミどころの多いことだが、それくらいならいいかとメガネを外して見せる。

 

「はい、これで満足ですか。先生」

「わぁお」

 

 そういうと先生は色々な角度からわたしを観察した。

 

「はっきり言うとね」

「は、はい?」

「予想以上、よ!」

「ええっと、どういう意味ですか」

「かわいいってことよ!あーもうわたしのものにしちゃいたい……。ってそんな犯罪者に向けるような目を向けないで。冗談よ、冗談。……わたしにパートナーがいなかったら本気だったかもしれないってだけよ」

「なんですか最後の。怖いですよ」

 

 メガネを付け直す。

 

「あー。残念。もうつけちゃうなんて。でも、その感じならもう大丈夫そうね」

「はい」

「今日は早く寝ること!」

「はい」

「それから、悩み事があったらすぐに誰かに相談すること。お父さんとかお母さんとかね」

「……。はい」

「あれ、まずいこと言っちゃったかしら」

「いえ、なんでもないです」

「うん、まーでも。反抗期とかあるものね。大丈夫。わたしだって相談に乗れるのよ」

「いつでも、来ていいんですか?」

「いつでも……か。うーん。いまね、色々と手続き中で、今から一ヶ月くらいかかるんだけど、それが無事に終われば、ずっとここにいられるから。そしたら沙条さんがもし保健室の住人になっても、ここで全科目勉強見てあげるからね」

 

 まあ確かに髪の毛も青いし、国際色豊かな結婚をするのかもしれない。手続きで何か失敗したりしたら正式に就職できないとか、何かあるのかもしれない。

 

「国際結婚、ですか?」

「へ?」

「え。先生、その外国の方ですよね」

「……。」

「え、髪の毛も青いですし、顔立ちも異国情緒ある感じですし」

「……。」

「え、あの先生」

 

 しばらく先生は俯いていた。

 次に顔を上げたときは元通りの笑顔だった。

 

「そうなのよね。国際結婚って大変なのよ。あ、密入国じゃないからね!申請とかちょっと複雑なのよ。仮採用みたいな感じでここに置いてもらってるから、もし申請に時間がかかっちゃったら、追い出されるかもしれないの。それじゃ、沙条さん。またね」

「はい、今日はありがとうございました」

「あ、沙条さん。ちょっと待って」

 

 保健室を出ようとするわたしの肩を優しくトントンと叩いた先生は、

 

「これでよし」

 

 と呟くと、

 

「それじゃあ今度こそ、さようならね」

「はい、先生」

 

 わたしは保健室を後にした。

 夕暮れ。すでに下校時間を回っているようだった。

 暖色の日差しが廊下を彩っていた。

 

「お、沙条さん」

 

 と声をかけてくる男の人の声。誰ぞ彼というだけあって、声の主が誰なのか判別がつかない。

 

「はい。えーっと」

「伊勢三だよ。転校生の」

「あ、伊勢三くんか。どうしたの」

「朝、保健室に行ってたでしょ?もう平気?心配したよー」

「あ、うん。もう熱も下がったみたい。心配してくれて、ありがとうね」

「うんうん。元気そうです何よりだよ!朝来たときから顔色悪そうだったから気になってたんだよね」

「え、そうだったの。……実は朝からあんまり記憶がなくて」

「へー。もう意識もなく、習慣みたいに学校まで来ちゃったのかな」

「そうかも」

「体調には気をつけてね。……それにしても、朝の。酷かったよね」

「酷かったって?」

「結構陰口叩かれてなかった?」

「……そう、ね」

「ああいうのって良くないと思うんだよね」

「うん」

「沙条さんもさ。もっと言い返さないと。今回のって意味じゃないよ。この前だって、日直押し付けられてたじゃない。誰かの楽のために、誰かが割りを食うなんて、おかしいと思うんだよね。じゃあね、沙条さん。また明日」

「また、明日」

 

 足早に伊勢三くんは昇降口の方へと去って行った。言いたいことだけ捲し立てて去って行った。

 

「何よ、好き勝手言って」

 

 けれど、正論だと思った。

 

 2階のC組の部屋から、取り残してきた学生鞄を手にとった。まだ、学生鞄にイタズラをされるというような扱われ方はしていないみたいだった。無くなったものもなさそうだ。

 

「被害妄想っていうのかな。こういうのも……」

 

 学校を出た。

 夕暮れはいよいよ血のように赤くて、何かを暗示しているようだった。

 

「もう、明日なんだ」

 

 お父さんとお姉ちゃんの命日。

 そして、明日の深夜には、わたしの……。

 

 

 『聖杯戦争』が始まる。

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