花屋の軒下には目を引く鮮やかな花々。
おやっと目を奪われ、傘を少し上に上げたとき、路上の水たまりにわずかながら陽光の輝きが跳ね返っているのを見て、雨は止んだのかと、何人かの行き交う人々が傘を閉じた。
花屋の裏側の駐車場はせいぜい4台置けるくらいのスペースしかなかった。幸いにも1台の車もなかった。
先生のカローラがすーっとその真ん中に止まった。
「わたしは車の中で待ってるから、沙条さん買いにいっちゃいなさい」
「先生も来ないですか?」
「花はいいのだけど、買いたくなっちゃったら困るじゃない?……いつまでお世話できるのかもわからないから」
「?わかりました。じゃあ買ってきますね。すぐ戻ってきます」
「ゆっくり悩んでいいのよ」
冬ということもあって、観葉植物たちは店内でぬくぬくしていた。
色とりどりの花々が店先でわたしを出迎え、先生はああ言ってくれたけど待たせていることだし、墓花として置かれているものを2束選んだ。
白ユリの無垢で透き通るような佇まいとそれを周囲から彩るカーネーション。
それから、それから。
「ヘリオトロープ?」
花言葉が書いてある。
「永遠の愛」
先生に相応しい言葉だと思ってじっと眺めていると、横から店員さんがぬっと現れた。
「奇跡です」
「へ?」
「普通ヘリオトロープって冬は咲かないんですよ。今年って暖冬だったでしょう?それもラニーニャ現象の年に暖冬なんていう奇跡!」
どうしよう。すごい喋りかけてくる。
「そして暖冬とはいえ、こんな季節でもまだ咲き誇るヘリオトロープ!花言葉の永遠の愛に相応しいとは思いませんか?」
「それはその、すごいですね」
「こういう花を一つでも飾っておくとお店としても一種のステータスといいますか」
「お値段おいくらなんですか?」
「非売品です。まぁ、でも売るなら1000円くらいかなあ」
「この大きさでですか?!」
「そう。この大きさで。結構レアだから堪能していってね」
「へえ」
相当すごいらしい。
先生も読んできた方がいいんじゃないかな。
「このお花を2束お願いします。お金はこちらで。ちょっと車で待ってもらってる人がいるので、いいですか?呼びにいってきて」
チラっとヘリオトロープの方に顔を向けると、ニンマリとお花屋さんは笑って、頷いた。
車の中には、外を眺める先生の姿があった。とてもしっかりしている印象のある先生だったけど、こうしてみるとどこか儚げで今にも消えてしまいそうな風情を感じた。
「先生」
「どうしたの」
「珍しいお花があるらしくて、見ていきませんか?非売品らしいんですけど、冬に咲いてるのを見ることができるのはなかなかないらしいんです」
「へえ。興味深いわね」
先生もどれどれとお花を見ると、息を飲むようにじいっと花を見つめていた。
「すごい」
「お姉さん。おわかりかい?」
「ええ。ヘリオトロープがこんな時期に見られるだなんて」
「ボクはね。報われない恋なんてないんだって、声を大にして言いたい」
「そうね。そうよね。……ふふ。今日はここに来られてよかったかも」
「そう言ってもらえると嬉しいね。そんなことを言ってる間に、花の準備もできちゃった。はい、これ。お二人さん、今日はお墓参りかな?」
「はい」
「こんな雨の日に、えらいね。姉妹かな?」
「姉妹じゃないですよ。学校の先生です」
さすがに見た目が違いすぎるとは思うけれど、姉妹といわれるのは悪い気がしない。
先生の表情を隠れ見ようとすると、先生もそれは同じようで、目が合ってしまう。
お互いに少し恥ずかしそうな表情を向け合った後、はにかむような笑顔を先生は浮かべた。
「学校の先生?いやはやなんとも。お若そうなのにご立派ですなあ」
「見た目ほど若くはないのですけどね。……話を戻しますけれど、こんな雨の日にえらいというのは、同感です。死とむきあうというのはなかなかツラいことですので」
「そうさ。故人と向き合うことって簡単なようで、精神的に負担なことだろう?」
「願掛けみたいなものです。忘れてしまったことが随分多くて、その代わりにあの場所で手を合わせるんです」
「そうか。……今日は雨でさっさと店を閉めちゃおうかなって思ってたんだけど、君たちに出会えていい日だったよ。また何か機会があればご贔屓に」
店を出る。
まだまだ4時半。
車に乗り込むと、先生がふうっと大きく息を吐いた。
「さっきの花はね、それなりに思い入れがあるのよね」
「ヘリオトロープ、ですか」
「そう。冬にはふつう咲かないって言ってたでしょう?神話では太陽に手を伸ばしたのに届かなかった女が姿を変えたって言われてるの。悲恋の象徴みたいな花よ」
「ギリシア神話ですか?」
「そうよ。よくわかったわね」
「よく神様の勝手な都合とかで姿を変えさせられてるじゃないですか」
「言わんとすることはわかるけどね。身も蓋もない。……それにしても理不尽な世界よね、神話って」
車内は静かだった。
行きとは違って少し重々しかった。
何か話題をと思って、神話について深ぼることにした。
「ヘリオトロープの神話ってそういうお話なんですか?」
「そうねね。太陽神ヘリオスに恋したクリュティエーっていう水精がね、嫉妬に狂ってヘリオスのお気に入りの女を死に追いやっちゃうんだけど」
「お、重たいですね」
「そうね。結局そんなことをしても思い通りにならず、ヘリオスは自分を見てくれはしない。それでも彼女はヘリオスのことをずっと想い続けて、やがてはヘリオトロープという花に姿を変えたっていうお話よ。ヘリオトロープっていうのは太陽を向くっていう意味ね。……どう、陳腐なお話でしょう?」
確かによくありがちなストーリーだと思った。けれどお花屋さんでの会話からすると、先生は冬に咲いていてうれしかったのだということだった。
「もう太陽のあまり出ない冬という季節でも、クリュティエーは手を伸ばし続けたってことですか」
「国語の授業があったら100点満点ね。……さっきはね自分でも驚いたの。あんなもの見て感極まるだなんて想像もしてなかったから」
「わたしは、陳腐だなんて思いません。ありがちなストーリーだとは思いますけど」
「んー。報われない恋のために心擦り減らして嫉妬に駆られて。バカだなあって。ずーっと。小さい頃から思ってたことだったのにね。結局自分もね。……それで、捨てきれないものを抱えて咲き続けてる姿を見ると、苦しくなっちゃうのね」
「先生も、人生経験豊富な大人って感じですね」
「まあ、色々と。ね。沙条さんも、身を焦がすような恋はしちゃダメよ?」
「でも今、先生は」
「そう、恋してるの。愛してるって大きな声で叫び出したいくらいよ。きっとバカなのね、わたし」
晴々とした表情で先生はハンドルを握る。
「先生のこと、応援してます。ほんとですよ」
「ありがとね。……沙条さんは悩みとかないの?なんでも聞いちゃうわよ。わたしも、ちょっとしゃべりすぎちゃったから元を取らないとね」
「え、と。悩みはないですよ」
「誰にも言わないわよ。結構溜め込むタイプでしょ?昨日見てて思ったの。昨日の体調不良はストレスが原因ね」
「はあ」
「ささ。どうぞどうぞ」
明日死ぬかも、なんて言えるはずもなく。
ただ、誰かにこの気持ちを打ち明けたかった。だから、カバーストーリーというほど偽りではなく、全てを詳らかにするわけではない本音を。
「父と姉の命日が今日で。……それで、思うんです。いつまでここにいるんだろうって」
「……。昨日は思い詰めすぎちゃってたってこと?」
「死ぬってなんなんだろうって。誰かの不在、というか空席を常に感じ続けてると、わたしもいつか席を立たなきゃいけないっていう気がしてくるんです」
「沙条さんがどこか厭世的なムードを纏ってるのも、親族を亡くしてることに端を発しているのかもしれないわね」
「そう、なんですかね。元々性格は変わらないような気がしますよ」
「ただその分だけね、一緒にしゃべってくれるとき楽しそうにしてくれると、とってもうれしくなるのよね。大勢に見せたら、みんながみんな沙条さんかわいいなあってなっちゃうわね。魔性よ、魔性。わたしだけに見せてくれてる、わたしだけが良さをわかってるみたいな、危ない優越感を抱いちゃうのね」
「え、なんですかそれ」
「さーて。どうかしらねー」
「先生?」
「あ、ほら霊園駐車場の入り口よ」
こんな雨の日でも、故人を悼みにやってくる人が絶えることはないようで、駐車場のうちの3割程度が既に埋まっていた。
2つ空いて隣には、和やかに談笑しつつ車に乗り込む、お年を召した女性と、40ほどの男性。
わたしがシートベルトを外して、車外に出る頃には、2隣の車は駐車場を去っていっていた。
「……というかここでもお花売ってるのね」
「そうなんです。けど、ここのお店の人、威圧的でちょっと怖いんですよね」
「ま、あっちで良い出会いもできたものね」
「駅から1人で来るには厳しい店ですけど、遠回りしてもあそこならいいかもしれません」
霊園は、今まさに雨が降り止んだところ。
冬の雨はさめざめと物悲しさを世界にもたらすけれど、すでに東方の端より夜の暗闇が滲み出し、わずか星の輝きが混じっていた。
「それじゃ、お墓参り行ってらっしゃい。わたしはそこらへんを散歩してるから。どれくらいかな。うーん。1時間くらいしたら集合でいい?」
「1時間もなくていいですよ。30分もあれば長いくらいです。もう直に、暗くなりますし」
「それもそうね。早く帰らないと。わたしも、またせていることだし。10分くらいしたらわたしも車に戻ってるわね」
石畳は湿っていて、その面の凹面湾曲を埋め合わせるかのごとく、1ミリにも満たない水たまりを形成していた。
墓地を化粧する砂利のいくつかが石畳まで転がっている。和型のお墓の上背はピンと張っていてどこか凛々しさがある。
だから和型と洋型のお墓の乱立する墓地を歩いていると、和型はいいなと思う。
石畳の上を慎重に歩いていると、しばらくしてようやく目的のお墓に着いた。
花を添えると、うす淡い色彩の花を選んだとはいえ彩られ、途端に優雅さを帯び始めるのだから不思議なものだった。
手を合わせて、目を瞑る。
このお墓に、お父さんとお姉ちゃんはいない。ただの目印に過ぎない。祈りの指向性を形づくるだけの紛い物。
それはまさに、聖杯戦争という儀式のむごさを如実に表しているとも言える。
「遺体も残らなかった」というその事実。
墓の前に立って慄然として、深呼吸を繰り返す。
雨上がりの空は清浄さの中にいっそグロテスクなまでの生々しさを秘めて、肺は空気を取り込む。空気は血液に溶け出してやがて全身を巡るだろう。
そのとき、身体中を満たすものが恐怖だけでないことに気づく。
その感情の正体をわたしはまだ知らないけれど。
深呼吸の周期に混じって、右の方から足音が聞こえる。
石畳を革靴の靴底が鳴らすカツカツという軽快な音。時折混じる、砂利を躙る音。
先生だろうか。一瞬考えたけれど、先生は固そうな靴は履いていなかった。
加えて、歩幅は大きそうな歩き方だった。先生は長いスカートを履いていて、そんなに歩幅が大きくないはずだから。
目線を向けるのも憚れる。が、薄めにチラリと目を右に向ければ、漆黒の神父服を纏った、背丈の長い男だろうか。ケバケバしいまでに赤い花束を携えて。
外国人の男だった。
薄目であるのに、目が合ったような気がした。目が合った瞬間に、にこりと笑ったような気がした。薄ら寒いものが背筋を伝った。
「あの人、只者じゃない」
勘に過ぎないものだった。
爬虫類じみた特徴的な顔の造形に短い銀髪。
無関係の人であってくれという期待を、目をギュッと瞑って、手をしっかりと合わせて祈った。
祈りに効果はなかったようで、背後に男は立った。
「サジョウさん、ですね」
びくりと体が震えた。
「誰ですか」
「ワタシは大したものではありません。サンクレイド・ファーン。教会から派遣された此度の聖杯戦争の監督役デス」
「そんな方が、どんな用ですか?わたしには何の関係もないのに」
「……フフ。サジョウさん。おもしろいことを言いマスね」
「おもしろい?わたしにはなにも面白くないです」
「いいえ、おもしろいデスよ。おそらくはこの聖杯戦争に参加する者のスベテ、今のサジョウさんの言葉を聞いたら大笑いシマス。ワタシも、今の言葉には驚いてしまいました」
振り向くのが怖かった。
今まさに、聖杯戦争という事件そのものの象徴が背後に立ち塞がっていて、目をあわせてしまえば、逃げられることはない気がしたからだ。
「監督役として、皆サンの状況はある程度は認識していマス。ああ、サジョウさん。あなたはなぜ前日にもなって」
肩に触れるものがあった。
大きな手の感触がわたしの肩を包み込んだ。
「サーヴァントを召喚していないのデショウ」
耳元で囁くように小さく呟かれたその声は、蛇のようにトグロを巻いて、耳に強く残った。
「聖杯戦争?そんなもの、わたしには関係がない。わたしはそんな狂った儀式、関わり合いたくない。わたしは、だって、あんなことできるわけがない!わたしには才能なんてないのに、サーヴァントだって召喚していないのに、どうして!」
肩を掴む手を振り払うように体を捻る。
振り返る。背後に立つ男と目が合った。
「アァ。ようやくこちらを向いてくれマシタね」
「え、あ……」
「落ち着いてくだサイ。ワタシは教会の人間。戦争の監督役デス。それはつまり、誰に対しても公平デアルというコト。モチロン、今のアナタが言う、戦争への参加を拒否、もしくは降りるということを考えるマスターの保護も含みマス」
まるで謳うように語る男だと思った。
目の奥には狂信的な光が灯っていて、目を合わせるには恐怖を抱かずにはいられない。
それも敬虔なる教会の手の者であるが故と思うならば、いっそ信じるに値するとも言える。
「サーヴァントを誤って召喚してしまったなら、ご一報くだサイ。マスター権のアカシたる令呪。ソレを除去するコトも、ワタシには取るに足らナイことデス」
わたしは落ち着きを取り戻し始めていた。
「前回の戦争は教会の非公認で行われた儀式デシタ。此度の戦争は前回の惨事の反省から、教会が儀式の進行を管理しマス」
「そうだったんですね。……ごめんなさい。本当に戦争について聞かされていないんです。何しろ、幼い頃に父も姉も亡くしてしまいましたから」
「……ほう」
神父は何か、深く考えているようだった。
しばらくすると、神父は元通りの柔和な笑顔を取り戻して。わかりました、と、何に対してかわからない了承の意を口にした。
「さて、サジョウさん」
「はい」
「もう一度言いマスが、アナタは危うい立場ダ。前回の実質的な勝者であるアナタのお家が、ナゼ儀式を勝ち残り、根源を目の前にして亡くなってしまったノカ。それを知らないコトには、勝者にナッタとて、魔術師としての本懐を遂げられナイ。アナタへの害意はなくトモ、アナタと接触を試みる魔術師タチは多いデショウ」
「でも、教会が保護してくれるんですよね?」
「ええ、保護しマスよ。サーヴァントを喚んだマスターが降りた場合のみ、デスが」
「え。それってどういう」
「魔術師なのに鈍いお嬢サンだ。一般人を手当たり次第保護していたらキリがないデショウ?たまたま巻き込まれただけの一般人はマスターの手によって処分してもらう。これが教会とマスターの間の暗黙の了解的に定められたルール」
「どうして。儀式とは関係ないのに、どうしても一般人の犠牲を推奨するような」
「推奨はしてイマセン。聖杯戦争の一端を覗いてしまった人には、神秘の秘匿という観点から消えていただくというのが、我々の世界の常識デスよネ?もしアナタが一般人の立場を取り続けたいのであれば……」
大仰な素ぶりで、神父はおどけたように首を振る。
「そんな」
「デスので、まずはサジョウさん。アナタは、サーヴァントを召喚して、それからワタシのところに来てくだサイ」
神父は、ワタシ横並びになってから、その赤い花。赤いバラを、そっと屈んで墓前に備えると、
「またお会いしまショウ。お待ちしてマスよ。戦争の期間はコチラの教会に駐在しマスので」
そういって、紙をわたしのブレザーの胸ポケットにすっと差し込むと、やはり軽やかな足取りで、墓前を去っていった。
わたしは立ち尽くしたままで動けなかった。
頭の片側がジンジンと痛くて、耳鳴りが貫くように高く鳴った。
体がふらついて、頭が真っ白になった。
この感じには覚えがあった。
ああ、また、これだ。
わたしは、いつものように意識をなくしたようだった。